はてなキーワード: 浪人とは
多少のフェイクありでここに吐き出す。
そのサイトでは、利用者が内定を取った際には内定者インタビューを行い「内定者の声」としてエントリを出していた。
内定が取れた当時は勿論嬉しく、インタビューに応じた記憶がある。
ただ、就職後も担当者から「就職サイト利用者(就職支援スクールも兼ねているサイトだったので、スクール生向けだったのだと思う)の同窓会への招待」と言った連絡が届く事があり、「何で関わった事もない他の就活者と同窓会をしないとならないのか」と感じた私は連絡を無視する事にした。
暫くはそこで斡旋された企業で勤めていたのだが、最終的には転職した。
ある日、ネットサーフィンをしているとその会社のブログが引っかかった。
「そういえば内定者へのインタビューを掲載していたよな」「あれから疎遠になったけど、当時の自分のインタビュー記事はあったりするのだろうか」と調べていると自分の事かと思われる記事が見つかった。
何故「思われる」なのかと言うと、
・投稿(初稿)の日時が内定が決まってから2,3ヶ月経ったもの
と、類似点がそれなりにあったのだが
・経歴が一部違う
・記事が今年になって更新されたと思われる(更新日付の記載がある)
と言った相違点があった。
本人特定を避ける為のフェイクは必要だと思う。だが引っかかったのは「経歴が一部違う」のところだ。
本来の私の経歴・当時インタビューで話した内容は「大学に入学し4年で卒業、特にやりたいものも見つからないまま大学院に進学した」なのに、その記事では「浪人してから大学に進学、特にやりたいものも見つからないまま大学院に進学した」と言ったような記載になっていた。
フェイクを挟む必要はあると思うが、マイナスに脚色されているのは流石に悔しい。
記事を取り下げるよう連絡したいが、フェイクが多々入っている為「あなたの事でない」と言われたらそれまでである。
記事を更新した記録はあるが、日付しか分からない上に内容の更新まであったかは証明できそうになかった。(SEO対策で日付だけ更新したと言われればそれまで。Webアーカイブを探して見たが記録はなかった)
「気にしすぎ」「自意識過剰」と言われればそれまで程度の共通点しかない為、自分がただ一人このデジタルタトゥーで嫌な思いをし続けるしかなくなってしまった。
悔しいのでここに吐き出す。魚拓の大切さを身をもって学んだのだと思う事にする。
8歳ごろに昭和が終わる
小学生時代は、土曜は半日授業。今の若者には個性がないと言われ続けて育つ
親も週休1日で休日はほぼ遊んでくれることはなかった
忘れ物をすると教師に殴られるし廊下に立たされる毎日だったがそれが普通だと思ってた
教師の生徒へのセクハラも日常茶飯事だが問題になることはほぼなかった
大学受験失敗→浪人→ようやく大学入学するも、就職氷河期でなかなか就職が難しい
もちろんバブルの恩恵は一切ないが、恩恵を受けてきた世代の自慢話を聞かされる
転職を繰り返すことになった
中小企業に入るも、景気も悪く上の世代が詰まっているので出世できないことを目の当たりにする
それでも働き方改革もないし、会社の景気も悪いし20代はなんとか徹夜しながら精神論で乗り切る
つき合う子は、少し上の世代に奢られ慣れているし
専業主婦願望を唱えられても実現させてあげることは不可能だった
ようやく結婚できたのが35歳
マイホームを買うのはもう諦めた
それでも、就職氷河期世代は頑張りが足りない世代みたいに社会に扱われる
何の恩恵も受けていないし、生き残るために必死だっただけなのに
今の新卒世代には、精神論で生きてきたおじさん世代として扱われる
若い世代を定時で帰すようにするために中間管理職として残業を受け入れるため仕事は楽にならない
精神論世代の人が残業していても、昔からそうでしょとあまり罪悪感は持たれない
それでも39歳で早くも、古くて、邪魔な世代として扱われ始めている
僕らが社会人になった時に40歳くらいの人たちを見て感じたあの感情は
そんな8歳の頃から今まで変わっていないことがある
B’z’がずっと変わらずに売れていること
愛の情動が肥大し、同一化を強いる時、その欲望は一時的に鎮静する。
拡張を禁じられたそれは行き場を無くす。ただし、その状況においてのみ、幻想と共に永遠を享受できるのかもしれない。
あるいは、僕はもはや幻想と共に生きるしかないのかもしれない。
真夜中の中でも特に25時は、ひどく孤独にさせる魔力を帯びていると思う。そんな時、僕はiPhoneを手にとって、LINEの友達リストを繰り返し眺めるのだけど、目的もなく連絡を取ることが苦手な僕は、ただ彼らのアイコン画像から今の状態を推察して、理解に努めようとすることしかできなかった。
それではいけないと思って、ほんの少し勇気を絞り、旧友をご飯に誘った。一緒に地元で浪人をしていた同級生は、4月から福岡に転勤になったから、LINEでのやり取りだけだったけれど。
彼は今クレーンを売る会社で営業をやっている。向いていない仕事も数年もすれば、彼の人格に少なくない影響を与えているようで、当時からは想像もつかない調子で言った。
「本当に連絡をくれて嬉しいよ。いきなり電話をかけてごめんね。でも本当に嬉しかったんだ。リュウも元気にしてるのか?仕事は順調か?きっとお前は今も活躍に活躍を重ねていて、回りに感謝されて仕方ないんだろうな。お前は昔から、誰よりも頑張ってたもんな。」
意外な反応だった。僕はきっと妬ましく思われているのだろうと思っていたけど、そうは思っていない人もいたのだ。彼は僕の孤独がただの思い込みだったと教えてくれた。
今の僕は周りに感謝されるというよりも、文字通りお荷物のような存在だと思うけれど、彼が力強く伝えてくれた「嬉しい」という言葉は僕を前に進めてくれた。残すのはきっと、あと一人。
「本当にごめんね。今仕事の方が炎上していて、ずっと会議だったの。トイレに行かせてくださいって言って、ようやく連絡できる状態だったから、待ち合わせのギリギリの時間にかけることになっちゃったけど・・」
2年ぶりだった。彼女が待ち合わせに遅れると言ったので、僕は新宿の紀伊国屋で小説を買って、それから近くのスタバでアイスコーヒーを買って時間を潰していた。
「実はこの本、ずっと読みたかったんだけど、なかなか読む時間が作れなくて。ちょうどよかったよ。冒頭からすごい面白いんだ」
「誰の本?」
「村上龍だよ。五分後の世界っていうんだ。パラレルワールドの日本の話。」
「そう言ってくれてよかった」
「予約してたお店、さっきキャンセルしちゃったんだけど、行ってみようか。」
そう言って僕は氷が溶けきった残りのアイスコーヒーを流して、不燃物ボックスに捨てた。
予約をキャンセルしてしまったワインのお店は新宿3丁目にあった。幸い、予約をしていなくても入れるくらい穴場だったから、僕はホッとした。
「今職場は新宿からは近いんだよね?仕事はどんなことしてるの?」僕は聞いた。
「営業だよ。営業って言っても、クライアントにヒアリングに言った内容を社内各所で調整するだけだけど。これできる人いませんか〜?って。そのアサインで今難航しててね。」
「かけまくりだよ!もうはわはわしてる笑 まあ、だいぶ慣れてきたけどね」
「私は仕事楽しいとかそういうの、全くわからないからね、早く帰りたいよ笑」
仕事に楽しさを見出そうとすることはもしかしたら部分的な偏りで起きていることなんだろうなと僕は思った。
24時を回った。大学時代の話から、社会人になってからの話、趣味の話や最近聴く音楽の話、好きな小説の話。そういう話をひとしきりしていたと思う。
彼女は僕が誕生日プレゼントに買った香水を、毎晩寝る前に部屋に振りまくようになって、そこから香水が好きになったと言っていた。
「この前ドライブに行った時に、こんなことがあってね」
「あいちゃんはもう少したわいもない話とかできないの?笑」
「全く、手応えを感じたくなるとダメだね。議論始めちゃうから笑。そういえば俺たちってドライブしたことあったっけ?」
「あ、そうかあの時か。あの時は楽しかったな。なんの目的も決めなかったけど」
「そうだね」
「・・・他にもさ、実は特に印象に残ってて、こびりついて離れないことがいくつかあってさ。」
「どんな?」
「うん、誕生日か何かを祝ってくれた時、俺なんでか覚えてないんだけど、怒って帰るって言い出しちゃってね。会計して、改札でお別れする時に、今日はあいちゃんと一緒に居たかったって言われて」
「・・そんなこと言ったね」
「うん」
「他にもね、ゴムが破けて一緒に朝一で病院行ったじゃん。あの後ガストでさ。今でも鮮明に覚えてるよ。俺はメロンソーダを飲んでた。もうあいちゃんとはエッチしないって。どうして?って言ったら、だって、責任取れないでしょう?って。なんであの時、何も言わなかったんだろうって。」
「うん。じゃあ、ずっと居てくれない?」
「いいよ。とりあえず、飲もう!」
「ええ、まだ飲むの?笑」
「そうだよ?グラスワイン、オススメってついてるやつ、下まで全部飲むの!」
「ええ、もう結構、無理なんだけど笑」
僕はきっと、あの時の後悔をずっと引きずって生きてきた。大学2年生の冬だったと思う。
なぜずっと会えずにいたか、そしてなぜ今会いたいと思ったのか。
その答えは、いまだ僕にもまだわかっていない。
その日の会計は2万円を超えた。最高新記録だった。
25時を過ぎた新宿は、僕たちを阻むように雨を降らしている。
彼女が行こうと言って立ち上がった。傘を持っていなかった僕は、彼女の小さな折りたたみ傘に入れてもらいながら、近くのコンビニでビニール傘を買うと、彼女の折りたたみ傘を畳み、それをバッグにしまった。そうして左手で彼女の左肩を寄せて、互いに小さくなりながら歩き出した。
新宿通りの3丁目の交差点を渡る途中、僕は込み上げてきた何かをぶちまけるように、ごめんねと言った。
「あの時、好きって言えなくてごめん。」
「好きだよ」
「どうしてそういうことを言うの?どうして・・・」
「どうしても、言いたかったんだ。」
「どうして今になって言うの?」
「どうしても、今伝えたかったんだ。」
「私どうしたらいいの」
「どうもしなくていい。ただわかってくれていさえすればいい」
「ねぇ、チューして。」
僕は傘を放り投げると彼女の頬を両手でそっと包み込んで、顔をほんの少し上向きにした。僕は少しだけ前かがみになって、少しだけ顔を右に傾けて、優しく目を閉じた。
25時を過ぎた新宿の雨は、僕らを包みこむように汚していった。
金曜日。外はもう白んでいる。
彼女の首筋から指をつたっていると、胸元に消えかかった痣を見つけた。
僕はクスっと笑って、その痣をふわりと撫でると、彼女が言った。
その鋭い一言は全てを見透かしているように感じられた。僕はおもわず閉口してしまった。
「う〜ん。複雑な気持ちがするね」
「なにそれ笑。複雑な気持ちかあ」
「うん。複雑な気持ち」
僕はその跡を見て見ぬフリをすることもできた。でも、その時に僕が彼女に発見したことを示唆したことは、確かに不可解な行動に映ったと思う。
「さっき俺は複雑な気持ちがするって答えたじゃない?その時のことを思い返していたんだけど」
「うん」
「今までは、自分のことを無条件で受け入れてくれる存在を必要とした。その時は、相手の意思に関係なく、自分が受け入れてもらえていると感じられさえすれば良いと思った。でもそうではなくて。自分が無条件で受け入れられる存在さえいれば良いんだって。思えた」
「なんだか急に哲学的だね」
「うん。だから、今のは忘れていいよ。」
でも僕があのとき伝えたかったのはそういうことじゃない。少なくとも僕が失礼な事をしたわけではないことだけでもわかってほしかったのだと思う。
僕がその時伝えたことは、僕がじっくりと時間をかけて大切にしなければならないことだと思った。
新宿の雨はすっかり止んでいた。歌舞伎町を抜けて東口に向かう道すがらは、以前よりも静寂だった。
信号が青になるのを待つ。僕の左手は彼女の右手を握り、寂しそうに爪を撫でている。綿よりも軽く、だらんとした右手をそれ以上強く引くことはしない。きっと、これからも。
改札を抜けた僕たちは「じゃあね」と言ってそれぞれのホームに向かおうとする。僕が中央線の方を向こうとするも、それができなくてほんの一瞬立ち往生したのを逃さなかった彼女は、まるで子供をあやすような表情で、手を振ってきた。
「そういうところだよ」と思った。相変わらず、君は僕のことを知っている。
僕は仕方なく手を挙げて、力なく振り返した。彼女がホームに向かうのを確認してから、背中を向けて、ゆっくりと歩き出した。
特に何も用事ないし、いい天気だったから選挙行ってきた。特に候補者に知り合いも居ないし期待もしてないのでテキトーに。
行ってみたけど本当に親世代以上しかいなくて草。周りでも選挙の話を全く聞かない。下宿してるけど、住民票移してないから投票できないわーぐらいしか見てない。
ちなみに両親は妹の用事うんたらで外出してて、投票しないつもり。名前書かれた券も置いていっている。期日前投票ももちろんしてない。
期日前投票なんてするわけないわな。何でわざわざ市役所まで行かんと出来ないのか。自転車で片道30分以上掛けて行くのダルいし、車や交通機関で行くと金かかるし。近くの小学校やスーパーで出来たらいいのに。隣市はやってるのに。
そんな会話を昔から親としてたから、わざわざ期日前投票に行くのは物好きぐらいしか居ないのでは?という偏見がある。
増税、誰に入れてもどうせするんだろうし、いろいろ公約上げてたけどどうせほとんど成されないままだろうし。年金、自分の頃に失くなるなら払いたくないけどどうせ払わされるんだろうし。他に何か問題あったっけ?ほとんど自分に影響しそうなの増税と年金しか思い付かないや。
若者の選挙率が低いから、煽るなり大切さ呼び掛けるなりしてるけど、そういうことではないと思う。ぶっちゃけ投票に行ったのは気まぐれ。投票に行くのが面倒な割には得られるものが自己満足しかない。何かもらえる店?北陸にそんなもんないので。
もし雨が降ったり用事があったらきっと行かない。
期日前でも当日でもスマホから選挙出来たらいいのにね。そしたらパパっと票投げれるし。
恥ずかしながら現在浪人の身なので、他県の大学に行くことになったら住民票そのままにしておくだろうし、これがたぶん自分にとって最後の選挙になるんだろうな。
ちゃっかり人気エントリーに混じっててビックリ。こんなに反応来るとは思ってなかった。ありがとう。
以下、反応読んで軽く返信
当日の投票所は最寄りの小学校であり出身校。自転車あればすぐに着く。でも雨のなか行きたくはないなあ。期日前投票は書いた通り市役所。スーパーなら近くにあるのに。
結局、父は投票に行ったが母は投票に行かなかったっぽい。帰ってくるの遅かったしね。
地方自治の選挙の件、前にそれの投票しに行ったが、「ha〜?公約、議会録の扱いしか書いてねーじゃねーか〜どーでもエエわそんなもん〜」という感想。(どっかにいろいろ書いてあったのかもしれないが。)ちなみにそれは母も投票した。暇だったので。
妹の行事のほうは、勉強したかったからで浪人で爪弾きにされているわけではない(と信じたい…)
増税反対だったからそういう所に入れたけど結局自民党の圧勝みたいね。増税されるかなあ…
住民票放置が違法の件はマジで知らなかった。同級生住民票移してないのそれなりにいるっぽいし、両親から「住民票は就職まで残しておけ、手続き非常に面倒臭いから」と言われていたから下宿中は実家に残しておくものだと思ってた。住民票移送って親の協力なくても自力で出来るものだっけ?罰金云々話してもたぶん両親は就職まで住民票ノータッチ貫くだろうなあ。
不在者投票もあるみたいだけど、発送料とかで金掛かるみたいね。たぶんしないと思う。
ちなみに筆者は「事件事故災害のニュースは興味津々、政治、経済関係はほぼスルー」人間です。政治の話を身近でしてもろくなことがない。政治に興味ある同年代どれだけいるのだろうか。政治の話するのオウムの尊氏マーチとか早稲田生でもないのに早稲田大の校歌を大声で歌う奴とかヤバイのしか思い当たらない…
最後の選挙とは言ったけど就職したらするかもしれないね。都会に住めるか、更にクソ田舎に吹っ飛ばされるか解らんけど、さらに面倒なら最後の選挙になるでしょう。
普通に読めば
もうこちらには分かっている。
父が部屋に鍵をかけているときはたいてい自慰をしていると思ってよい。
私が昼間に大学から帰ってきて、父の部屋の近くを通ると、慌てたようにガチャっと鍵がかかる音が聞こえる。
父は私が何時に帰ってくるのか知らない。
これが現在の話。元増田は大学生で、父は定年退職してから10年近く経っている。
ここで「定年してまだ間もないころ」に話が飛ぶ。つまり「10年近く前」で、元増田の年齢は小学生か
(「10年近く」を8年くらいと取り、浪人してるとかで現在の年齢を高めに見積もっても)精々中学生。
こうとしか取れんぞ。
「悪いことをしたらヘッドスピン二千回」と親に命令されてた女の子のニュースを見て、自分が子どものころと少し似てるなぁと思ったので書き出してみる。
私→現在30代前半。ひとりっこ。
親→現在60代前半。私が小学生のときに離婚。父はお金にだらしない最低の人でした。私のことは可愛がってくれていたけど、母とはよく喧嘩していて母はその度に暴力を受けていました。離婚してからは母と二人暮し。
下に書いていることは全て母にされたことです。
・宿題をしているときは横でべったり監視される。解くのに時間がかかると「なんで分からないんだ」と言われる。間違えていると叩かれる。
・説教中は口答えは一切できない。悪いことをしたとして、どうしてそんな事をしたのかも聞かれない。言い訳もできない。
説教→リリース→呼び出され説教→リリース→呼ばれる、の繰り返し。機嫌が直るまでひたすら泣いて耐える。
・激高すると物が飛んでくる。
野菜やらコップやら文房具やらが体スレスレのところにどんどんぶん投げられてくる。
雑巾かタオルだかを投げつけられて水浸しになった床を「綺麗にしろ」と言われたときはさすがに引いたなぁ。
・いきなりエビ反り(うつ伏せの状態から頭頂部と足先をくっつける)のポーズをやれと言われる。
体が硬くて出来ないでいると「なんでできないんだ」と責められる。「これは虐待じゃない。できて当たり前のこと」とも言われた。いやいや虐待だろ、と心の中でツッコんだ。
・高校受験に失敗したとき「塾にも通わせたのに。この金食い虫が」と言われる。
浪人しろと言われる。滑り止めで受けた高校に行きたければ土下座しろと言われる。
「勉強を一生懸命頑張ります。資格をたくさん取ります。」と誓約書を書かされる。
・体調を悪くしても病院に連れて行ってもらえない。基本自然治癒。仕事を休んで看病などしてもらったことがない。
水虫を移されたときはハイター入りの水に足を浸けろと言われ、学校の貧血検査で治療が必要な状態と診断されたときは鉄サビを飲まされていた。もちろんどちらも治りませんでした。
・ゴミ箱の中を漁られる①
まだ使えると判断された物は勝手に出される。捨てたはずの、当時付き合ってた彼氏とのプリクラや写真がいつの間にか壁に飾られていたときは心臓飛び出るかと思ったなぁ。
・ゴミ箱を漁られる②
レシートで何を買っているかチェックされる。高い物を買っていると怒られる。
高校生のとき、お年玉でナイキのスニーカー(入った靴屋で一番安かった6000円くらいのやつ)を買ったら「こんな調子に乗ったものを買うな」とマジで捨てられそうになった。
・言うことを聞かないと「学費を払っているのは誰だ」「嫌なら出ていけ」「お父さんのところに行けばいい」とお決まりのセリフを吐かれる。
・反抗して自分の意見を主張すると「私はあなたよりもあなたの事を分かっている。私はそこらへんのちゃらんぽらんな母親とは違う。あなたの事をちゃんと考えて言っている。」と受け入れてもらえない。
・給与明細を知らない間にチェックされる。
精神科に通っているのを隠していたが、カバンの中身を見られて薬が見つかってしまい、没収される。
「あなたは鬱になるような子じゃない」と言われる。
説得してやっと精神科の先生との三者面談が実現。先生が母の過干渉を指摘する。わたし泣きながら訴える。
母「わたしは誰よりもこの子の事を分かっています。口出しされる筋合いはありません。この子が泣いているのはとても優しい子だからなんです」と斜め上の回答。
この辺から、もう割り切って母のスネをとことんかじってやろうと決意する。
摂食障害を抱えながらなんとか大学入学、留学、県外への就職を果たす。
母は地元に戻ってほしいようで、地元の求人情報を延々メールしてくる。
「グローバルな子になってほしい」が口癖だったのに、結局自分の手元に置いておきたいんだなと悟った。
なんかこうやって書き出してみるとギャグみたいだな。
でもやられた本人は結構きついんですよ。
そしてわたし、昨年仕事がうまくいかず体調を崩し、現在は給付金をもらいながらニートをしている。(実家には戻ってない。死んでも戻らない)
実家にいた頃の記憶は今でも鮮明で、体調優れないときはフラッシュバックで涙が出てくる。
「死んだら終わりだけど、でも生きながらえたとしてもトラウマと愛情の飢えに一生苦しむんだけどねぇ」と複雑な気持ちになる。
ちなみに昔大喧嘩したとき、昔こんなひどいことをされたと訴えたら「覚えてないし、そんなことするはずがない。あなたの記憶違い」とあっけなく跳ね返されたなぁ。
医師いわく私は発達障害なので、母もその類なんじゃないかなと勝手に思っている。ちなみに母にとって発達障害は「なんにでも病名を付けたがる医者が騒いでるだけ」の病気らしいので、自分がその診断を受けたことは絶対言わない。言ってもまた否定されるだろうし。
まぁ何が言いたいかというと、
家庭というのは外からは何が起こっているか全然分からないということ、
そして第三者の目には正しい知識と適切で迅速な対応力を持っていてほしいこと、
親子ともに、精神疾患なり障害なりが見受けられるか判断できる人がいること、時代遅れの価値観にとらわれてほしくないこと、正しく対処しないと当人の人格や健康に影響が出ること、
かしら。
実際自分も自称「偏差値60の進学校」の出身なのだが、あやしいなあと思っている。
というものまずどこが出している偏差値か...でだいぶ変わる。
開き、ありすぎ。
みたいに見えるものの、実際には複数の学科に合格者がかぶっていて数字を稼いでいるものと思われる。
自分の実感としては
・マーチ:30%
・日東駒専:35%
・浪人:5%
ぐらいのイメージ。
浪人した人も、結局なし崩し的にフリーター→デキ婚が多いイメージだなあ。
そんなわけで、
自称偏差値60だと、成績上位者と下位にめちゃくちゃひらきがあるなあと思う。
(まあどこの学校もそうなのかもしれないけど)
知人で某県のベスト3高?みたいなところの出身者がいるけど、はっきりいって中2レベルの英語もできないのでびびる。
地方は学校が少ない分、自称偏差値65でも実際は55〜70ぐらいまでの人がいるんじゃないかなと思った。
あとこんな大人になってまで自分でわざわざ「進学校でした」って言ってくる人はだいたい「自称」とみていい。
そもそも優秀な人は大学名そんなに出してこないし(別に実績があるから...
あ、なんか悲しくなってきた。おわり。
どうすればいい?
遡ること十年前、浪人時代に予備校が夏休みに入るからと焼き肉食いにいったんよ
そこで浪人の苦労話に花を咲かせてたら、急に頼んでないコーラが運ばれてきた
どうやら隣にいた反社が帰りがてらに俺らの飲み物も頼んでくれたらしい
人を殺して得たかも知れない金で買ってもらったコーラは最高に美味かった
この事実
この事実こそ全て
けど、俺は痛くも痒くもない
お前らも痛くなかろう?
天下布武を唱え、腹心であった飯島摂津守及び家臣団五人衆、すなわち中居弾正、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵らの離反も、その強大な力により押し潰し、今や鳥を落とす勢いであった喜多川右府が、突如、京にて薨去されたとの噂が、日の本じゅうを駆け巡った。
ある者は流行病によるものと噂し、またある者は家臣による毒殺とも噂しあったが、果たしてその真相は、右府の生死も含めて杳として判らなかった。
マスメディアが十分に発達した現代とは違い、当時は、重大な事件は全て人々の口伝えに頼らざるをえない。戦国武将達は、不確かな状況の中で自らの去就を決めねばならず、その対応如何によって、ある家は栄え、ある家は滅びるといった悲喜劇が、絶えず繰り返されたのであった。
ところで、右府のもとには、二人の有力家臣がいた。木村内匠と滝沢左近である。
木村内匠については、飯島の乱において仲間の謀議を主君へ密告した功により取り立てられ、右府からの覚えもめでたく、非常に権勢を振るったことは、既に述べた。(https://anond.hatelabo.jp/20160119162624)
もう一人の重臣、滝沢左近は、元は一介の素浪人であったが、右府に仕官すると俄に頭角を現し、今や右府の最側近として大いに活躍していた。
さて、両者ともに、この悲報に接したのは、京から遠く離れた土地であった。
その時、木村内匠は、右府の命を受けて城攻めを行っていた。梅雨空の下、城の周囲に幾重にも堤を築き上げ、増水した川の水を中へ流し込む「水攻め」を行うこと約1ヶ月、もはや天守は湖の中の孤島と化していた。
「ってゆーかさぁ、もうそろそろ落ちるんじゃね?」
そんなある晩のこと、勝ち戦への楽観が広がりつつあった木村陣営に、突如、右府逝去の激震が走った。京からも離れていたため情報が錯綜し、いつしか町奉行である東山越前守により弑逆されたとの誤報にすり替わっていたのだった。
突然の悲報に接し、大声を上げて悲嘆する木村内匠に、その妻、静御前は冷徹な言葉を投げかけた。
「殿さま!今すぐ京へ引き返して、逆賊、越前守を討ち滅ぼし、御館様の無念を晴らすのです!」
「よく言うた。それでこそ我が妻よ!」
木村は電撃を受けたように飛び上がると、すぐさま敵方と講和を取りまとめ、全軍を京へ向けて引き返し始めた。
一方、滝沢左近は、遠く関東にてこの悲報に接した。ただし、右府の側近中の側近であったことが幸いし、在京の東山越前守から直接、正確な情報を書簡で受け取ることとなった。滝沢左近は、俄に活発化した敵勢と対峙しつつも、手堅く京へ軍勢を引き返した。
実際のところ、この時点では右府はまだ逝去してはいなかったが、今で言うところのクモ膜下出血により、ほぼ危篤状態であったらしいので、死へ向かいつつあったというのが真相であろう。だが、意識を失う直前、右府は「余の影武者を立てて、死を三年間、隠すように」との遺言を、側近の東山越前守へ伝えていたため、先のような虚実入り混じった噂話を生む結果となってしまったのだった。こうして、両者が接した情報の確度の違いが、やがて両家の命運を全く違うものにしてゆく。
まずは木村内匠であるが、弔い合戦のつもりで軍勢を摂津と山城の国境、山崎まで進めたところで、東山越前守の軍勢と対峙することとなった。
「やれ、賊軍ども、なにゆえ京へ攻め上った!御館様に楯突くものは、尽く成敗してくれる!」
木村内匠、答えて曰く、
「傍ら痛いわっ!お前こそ、御館様の亡き後、政を私しようとする賊軍であろう!」
「何をたわけたことを!ここに、御館様はおわすぞっ!」
銅鑼の合図とともに東山軍が左右に割れると、その間から見覚えのある輿が進み出てきた。そう、それは右府の豪奢な輿であった。
「やばっ!御館様!」
突然の状況に、木村軍は戦わずして敗走を始めた。更に間が悪いことに、関東より引き上げてきた滝沢軍が退路を断つ形になり、木村軍は徹底的に殲滅されることとなった。
ちなみに、東山越前守の機転によって引き出された輿であったが、その中には、既に意識のない主人が乗っていようとは、木村内匠は知る由もなかった。
こして敗退した木村内匠は、ひとり戦場より落ち延びると、ある禅寺でひっそりと出家して生き延びたという。一時は、かつて裏切った自分の主君であり、既に出家して名を改めていた飯島摂津守の元に、弟子として身を寄せていた時期もあったようであり、何とも皮肉な人生である。
高知県の人口が70万人を切ったニュースで思い出した話がある。
超少子高齢化と人口減と都市地方間格差が進んだ結果、進学への情熱が薄れてきているという話。
そのためには私立進学校に行く。」というのがエリートのセオリーみたいなものだった。
だが今は、そんなセオリーが崩れている。
いや正確には「無理してまで良い大学に入らせようとは思わない」「そのために私立進学校に行く必要はない」
その前に、高知県の大学と高校(及び中高一貫校)の事情を説明しておく。
まずは高校。
土佐>=学芸>土佐塾(ここまで私立中高一貫)>追手前(県立)>その他県立高校とか明徳とか
であった。
それが今はどうだろう。
県立西高校と県立南高校が統合され、南西高校になるかと思いきや公立中高一貫の高知国際中学高校になった。
しかも母体の西高校の色もあり、英語教育に力を入れているスーパーなんとかハイスクールに指定されている。
昔ながらのThe私立進学校は、特色ある公立校に押されつつあるとみられる。
次に大学。
高知県にある4年制大学は国立大学法人高知大学と、高知県立大学、そして高知工科大学の3つしかない。
かつては高知医科大学があったが、高知大学と合併して高知大学医学部になっている。
更に機械や電気、情報といった工学系となると高知工科大学しかない。
受験難易度の点で見れば偏差値46程度の高知工科大学であればわざわざ難関私立進学校に入らなくても良い。
筆者は土佐高校の卒業だが、当時人気だった進学先のひとつは岡山大学であった。
同級生や年の近い先輩後輩の進学先ら帯広畜産大学から琉球大まであったし、海外留学していったのもいた。
ほぼ100%が進学志望なのは今も昔も変わらないと思うが、志望大学がバラエティに富んでいた。しかし今や地元志向が強すぎる。
もちろん地元高知大学の人気も高かったが、今はそれ以上に高知大学志望が増えているという。
「もうちょっと頑張れば、もっと良い大学に行けるのに」と先生が勧めても、
生徒や親が浪人を嫌がり、より確実性の高いところで落ち着こうとするのだ。
あるいは、「もうちょっと頑張れば」というなら理学部から医学部に進路変更する。
でも本当に医者になりたいのか?安定した職業を求めているのではないか?
言っておくが国立高知大学も高知工科大学も、決してチンケなFラン大学ではない。
だが、やれハーバードだMITだスタンフォードだ、東大だ京大だ、早慶だ阪大だ、
そして環境。圧倒的に人が少な過ぎて、異なる価値観に触れる機会が都会とは雲泥の差なのだ。
月とトイレの方のスッポン。多感な学生時代を、世田谷区人口にも満たない県人口の田舎で、刺激の少ない学生時代を送ることになる。
たとえば高知から東京の大学に進学するとなると、それだけで大変だ。
平均世帯収入の低い高知から、物価の高い東京で一人暮らしとなれば、不景気ないまおいそれと出せない。
筆者なんか6年も通ってしまったのだ、どれほど親に金を使わせたか。
余裕がないのだ。
一年浪人させて県外の良い大学にいくよりは、現役で高知大か工科大に行き、
県庁か市役所に勤めることこそが、堅実な将来であることに疑いはない。
でもそれで新しい時代が切り開けるか?
消耗しないように高知に残り、消化試合の人生は「負け」ではないが
超少子高齢化と取り返しのつかない人口減に対応するため、私立進学校も変革の時を迎えている。
ちなみに、土佐高校は昭和半ばからずっと1クラス50人×6クラスである。
どう考えても多すぎる。
学費を上げてでも人数を減らし、きめ細かい教育ができるようにすべきだ。
脱藩マインドが低い者は公立校に任せ、県外や海外へ送り込める少数精鋭の人材育成校に転換した方がいい。
冠する土佐藩の名に叶って欲しい。
社会人は38年間ある。
60歳までに2000万円貯めるには、1年で52.6万円(切り上げ53万とする)
住居は都内で考えよう。
もちろん、都内で家賃6万円だとワンルームマンションしか借りられない。
電気ガス水道は節約しまくれば3つ合せて月1万円平均で頑張れる。オール電化はガスの基本料金が浮くのでアリだが、プロパンガス物件は絶対選ぶな。
食費は3万円あれば一人なら充分だろう。
交通費は5000円で頑張れ。歩け。
生活すると必ず雑費が発生する。
その他日用品、これも3000円あればいい。
貯金額を含めると既に15万2千円になる。
だがこのお金では、病院に行けず、洋服を新調できず、スキルアップのための本や講座も受けられず、趣味もできない。パソコンや携帯も買い替えられない。引っ越しもできない。
では追加していこう。
付き合い費用。1万円
洋服代、月3000円
趣味 月1万円
計19万円。
およそ340万円必要だ。
なお数字上は余裕がありそうに見えるが、いざこれで暮らしてみると結構カツカツ。
やってみて感じたのは、
2000万円必要、そのためには最低でも手取り25万は欲しい。
給料が増えないと無理だけど、給料が増えた時はインフレした時で
>特定個人やOB子弟は兎も角、浪人だの女だのは「不正」でもなんでもないだろ。
その線引きなんだ、マイルール過ぎる
不正じゃないならなんでニュースになって批判が集まってるんだろうね
というか女を理由にするのは不正じゃないって考えがもう差別なんだけど、君の中ではそれが正当なんだね
君の中だけにあって、はてな匿名ダイアリーでだけで通用する話は正当じゃないよ
>過酷な科や夜勤や僻地医療を避ける医師は必要とされてないし、勤続年数に響く浪人も必要とされてないと言うだけのこと。
勤務問題は勤務問題として解決することであって受験をいじるのは付け焼き刃だよ
そもそもそれは押しつけられるというか希望していく場合もあると思うんだが、なぜ押しつけられたと被害者意識しかないのか
「医者になりたがらない女は医師という重い職業を男性に押しつけて男たたきをして楽をしている!」と思って納得しないだろう
「職業選択の機会を奪われて医師は女性だけが有利な職業で男性差別!」と思って納得しないだろう
君の不満は恐らく何をしても満たされずに永遠に続く
過酷な労働をどう制度改善や技術改善で克服するかを考えずに、女性差別でしか解決しようとしないのが問題なんだ
>それを「女性差別だ!」と取り上げて男叩きするのがおかしい。
特定個人やOB子弟は兎も角、浪人だの女だのは「不正」でもなんでもないだろ。
同世代の人数がものすごく多い。そのため、節目の受験期は、まさに受験戦争だった。
私は中学時代までは、特に勉強を頑張らなくても成績は優秀だった。(1学年250人くらいいて、いつもテスト順位は30位以内)
子供だったから、単純に偏差値が高い高校に行けば、よりよい高校生活が送れるかな、などというバカな発想で、
自分の当時の実力も考えて、その地区の公立高校の中では三番目くらいの進学校に進んだ。(当時の偏差値は64くらい)
当然といえば当然なんだけど、高校に進んだあとは、周囲の人たちは、皆自分と同じくらいか、それ以上に勉強ができる人ばかり。
もう勉強についていくだけで必死にならざるを得ず、まったく楽しい高校生活ではなかった。
それで、そんな地区の三番手くらいの進学校から、当時、どんな大学に進むのが多かったかと言うと、
日東駒専 (第一志望) → 現実は、大東亜帝国 というのがボリュームゾーンだった。
当時、1学年300人くらいだった。(現代では考えられない人数だと思う)
でも、比較的成績が良い上位150人の、大半の「第一志望」は、日東駒専だった。
その当時は、日東駒専もかなりの難関と考えられていた。
上位150人のうち、第一志望の日東駒専に現役で合格できたのは、50人くらいだった。
合格できなかった人たちは、滑り止めに行ったり、浪人したりした。
もしくは、経済的な理由から、大学に進むことをやめた人もかなり多かった。
むろん、ポジティブな理由で、大学以外の道に進む人も多かった。
地区の三番手くらいの進学校(偏差値60~65くらい)であっても、大学への進学率がせいぜい50%くらいだった。
なんでこのような状況だったかといえば、同世代がものすごく多かったため、熾烈な過当競争になったからだ。
ネットの学歴厨さんたちの書き込みを見ると、日東駒専は、ボーダーフリー(Fラン)よりちょっとだけ上レベルだそうだ。
かろうじて同じ人間として扱っても良いレベルが日東駒専くらいまでで、それより未満は、ゴミらしい。
私は、うえの文章からも察しられるかもしれないが、地区三番手の進学校では、まったくもって普通以下に甘んじた。
日東駒専でもあこがれだったが、そのあこがれには届かなかった人間だ。
だが、中学時代に、250人中30位以内の人間だった私でも、ゴミなのだ。
ざっくり言って、自分と同世代のうち、70%以上は、ゴミだということになる。
ゴミである私が、社会に放たれた当時は、就職氷河期に突入していた。
そんな中では、幸運にも、比較的よいところに就職できたほうだと思うが、
現実ベースで、社会人も10年以上になると、学歴なんてものには意味はなくなる。
圧倒的に職歴や、実績の方が、強い。
こんなことは、私と同世代くらいの人間からしたら、当たり前なんだけれど…。
でも、30代前半以下の人たちにとっては、学歴がすべてらしい。
…ということらしい。
そういうことを考えることもしないで、思考停止した人たちが、私のことをゴミと言っている。
以上、ゴミでした。