はてなキーワード: 帰属意識とは
オタクって知らんうちになってるものだから、全く意識してないけど、最近はオタクであることに変な誇りや帰属意識を持ってる人がいるからねえ
正直なところ、そういう人とは話が合わん
人間は社会的な生き物ですが、多くの人は拒絶される心配があるため、見知らぬ人との社会的な交流を恐れています。Journal of Experimental Social Psychology誌に掲載された研究では、見知らぬ人と話すことをより快適にする可能性のある介入方法を探っています。
社会的相互作用は非常に重要であり、幸福感の増大、健康増進、帰属意識の強化など、多くの効果が実証されている。にもかかわらず、多くの人が初対面の人と付き合うことに不安を感じています。これは、悲観主義と拒絶されることへの恐怖によるところが大きい。
多くの人がこのような恐怖を抱いていますが、研究により、ほとんどの見知らぬ人は話しかけられることに完全に満足しており、この一般的な恐怖は杞憂に終わることが分かっています。この新しい研究は、人々がより快適に感じ、より自信を持って見知らぬ人に話しかけるための介入方法を探ろうとしたものである。
「人は、見知らぬ人と話すことに対し、驚くほど悲観的です。私たちの新しい『知らない人に話しかける』介入は、5日間にわたって知らない人と繰り返し会話をするよう促すことで、知らない人に話しかけることに対する人々の恐怖心を軽減することを目的としています」と、Gillian M. Sandstrom氏とその同僚たちは書いています。
研究者らは、米国と英国の2つの大学から募集した286名の参加者を利用した。参加者は、授業の単位を受け取るか、報酬を受け取って参加した。研究者たちは、モバイルアプリを使用して、参加者が完了できるように借り物競争ゲームを作成しました。29のタスクはそれぞれ、コーヒーを飲んでいる、面白い靴を履いているなど、記載されている説明に当てはまるプレイヤーを探すよう参加者に指示しました。
各タスクを完了するごとに、参加者はポイントを獲得し、賞品が当たる抽選に参加することができた。実験条件では、参加者は見知らぬ人に話しかけるように指示され、対照条件では、見知らぬ人をただ観察するように指示された。参加者は、実験期間中の5日間、タスクの前後で一般的なアンケートと毎日のアンケートに回答した。
その結果、この介入によって参加者の視点が変化することが示されました。見知らぬ人に話しかけるように指示された参加者は、研究の最終日までに、気まずさがなくなり、自信がつき、拒絶されることを予期しなくなった。この結果は、研究終了後少なくとも1週間は継続し、治療条件では見知らぬ人との会話が増えたと報告されました。
人々の信念は研究期間中ゆっくりと変化し、繰り返し触れることがこの介入を効果的にする重要な要因であることが示された。さらに、対照条件では、同じ次元でいくらかの改善が見られ、交流がなくても、見知らぬ人を観察することは、何らかの社会的利益をもたらす可能性があることが示された。
「科学者や公衆衛生当局の多くが、孤独感の増大とその健康への深刻な影響に警鐘を鳴らしている今、我々の介入は特別な意味を持つかもしれません」と、研究者は述べています。
この研究は、社会的に大きな利益をもたらす可能性のある介入を概念化する上で重要かつ興味深いステップを踏み出しました。にもかかわらず、注意すべきいくつかの限界がある。そのひとつは、研究者が参加者に、実験後の1週間に見知らぬ人と会話した回数を記憶するよう求めたことであるが、指示が明確ではなかったので、その結果は信頼できないかもしれない。
また、本研究の参加者は大学生であり、多くの人がある程度見知らぬ人と接することを余儀なくされているグループである。今後の研究では、地域社会のサンプルを利用することも考えられます。
最終的に、私たちの新しい「知らない人に話しかける」介入は成功し、知らない人に話しかける経験を繰り返すことで、知らない人に話しかけることに対する人々の恐怖心を軽減し、将来の会話についての予測をより正確にすることができるという証拠を提供しました」とSandstrom氏とその同僚は結論付けています。
「私たちの介入は、見知らぬ人に何度も近づき、話しかけるというシンプルなものです。そのため、この介入は多くの人が自分で行うことができるものである。このような交流を避けようとする本能は、著者らも共有していると告白しているが、読者もぜひ試してみてほしい。我々の研究が示すように、こうした会話は練習すれば本当に簡単になるし、その経験はあなたが期待する以上にポジティブなものになるだろう」。
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022103122000750
私は「知人」という、家族や恋人、仲の良い友人(片手ぐらいしかいない)ではなく他人でもない、そういうなんともいえない間柄の人間が心底苦手だ。初対面の、今後会う予定のなさそうな他人はわりと得意。
故に私は、初対面の他人には愛想良く優しい人間に見られるだろうし、困っている他人が目に入ると必要そうであれば声かけなどもする。
しかし、職場などでは困っている人(お客様は除く)を見ても、普段からわりと話しやすい人以外は見ぬふりをしてしまう。
あと、学生時代から集団への帰属意識というものがまったくないため、仲の良い一部の人以外の同じ集団に属する人間と、赤の他人は私にとって重要度が大差ない存在であり、知人であるという緊張感がないだけ他人の方がマシまである。
こんな性格なので、友達といってもそこそこの距離感の子しかおらず、彼氏ができてはじめて家族以外の親密な存在を得た。
この彼氏が、別にまったくマイルドヤンキーでもなく、どうみてもかなりまともな人間であるのに、身内(知人)に優しく、赤の他人には冷たい態度をとる(別に店員さんに横柄とか、そういう問題行動があるわけではないが、なんというか私から見ると、身内にあれだけ優しいのに他人にはそっけないんだなという相対的なそっけなさ)のがすごく驚いた。
でも、彼のほうがよっぽど社会性もありまともに生きている人間なので、世の中のスタンダードはそっちなんだろうなあと興味深く彼を観察している。
日本代表チームには帰属意識を持てる一方で、国内のチームには帰属意識を持てないからだ。
他人の競技する姿そのものがW杯の人気の理由であるなら、W杯とそれ以外の同一競技の人気は似て然るべきである。実際にそうなっていないのは、他人の競技する姿そのものを求めているのではなく、それ以外の、自分の何かをW杯の中に見出しているからだろう。国内リーグのファンではないがW杯のファンという人は、他人の競技する姿というよりも、自分を見出せるものあるいは自分と同一視できるものの勝敗に興味を持っている。
例えば縄張り争いの最中の原始人が、自分の付き従うところのムラ一番の力持ちを応援する気持ちに、前述の興味は由来しているのかもしれない。競技に勝ちたいのなら保育園児のチームとか弱いチームと戦えば良いのだし、よりハイレベルの競技を見たいのであればわざわざ日本のサッカーをみる必要がない。勝っても負けてもどちらでもただ素晴らしい健闘が残るのみである競技スポーツを観戦しながら、自分の帰属意識を持てるチームの勝利を願うのは自虐趣味の極みであって、到底理屈で説明できないし自閉症傾向のある人には全く理解不能である。
量産型で二番煎じの人生に甘んじ、付き従う奴隷マインドを見事内面化させた代表チームファンにとって、国内リーグというのは誰が自分のムラの力自慢なのかがわかりにくい。丁度ぼくが小学生のころにJリーグがはじまったが、どのチームを応援すればいいのか分からなかった。23区にはサッカーチームは無いらしく、一番近そうなのは猛禽類のキャラクターのベルディー川崎だった。やだ川崎とか怖い。ちなみに今は川崎はサメのキャラクターのフロンターレで、ベルディーは東京らしい。その本社は川崎の生田にあるそうだ。
付き従う性質のものたちに、自らチームを選べというのか。それは無理だ。彼らは自分の人生すら選べない。一貫性をもって判断したことなどない。これまでもこれからも周りのひとをキョロキョロみて同じように、変じゃないように作動する装置だ。彼らに応援すべきムラ一番の力持ちを明示しないのは国内リーグの怠慢でしかない。
関係ないかもしれないが、ぼくの私立小の同級生たちは誰もサッカーを見ない。サッカーに限らずスポーツを見ない。日本代表選手ならいる。でも他人の試合は見ない。親も経営者が多く、本人達も自分のビジネスをつくって大きく伸ばしたりぼちぼちだったりする。少なくとも球蹴りおじさんたちに自分を見出すような人間はいない。
スポーツ観戦とは、原始人に先祖返りしてムラ一番の力持ちに付き従う趣味である。彼らをわかりやすくレペゼンできないから国内リーグには人気がない。
それを与える役目を負っているのは"親"だから
子に安全地帯を与えられない人は本来は親になっちゃいけないんだよなぁ
けど、もう既に生まれちゃったものは仕方がない。親チェンジして生まれ直す事できないしな
出来るだけリアルでは人に優しくする以外に具体に出来ることはないんじゃないか?
帰属意識の持てるコミュニティとか考えたし、昔、マイノリティ向けのSNSを運営してたこともあるけど秒で投げたよ
結局、人間は生きづらさで繋がっちゃロクな事にならないんだ
繋がるなら会社の人にも見せても大丈夫な『公的なぼく・わたし』でないとダメ
ただ、人に見せてもいい部分ってどんなポンコツでも必ず持っているハズなのに、
https://suki-kira.com/people/result/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E5%A4%A7%E4%BB%8B/2#toc
5535.匿名@好き派 10-07 17:43 [通報] [非表示] [返信]
5531
5537.匿名@好き派 10-07 20:33 [通報] [非表示] [返信]
5536
腐女子はなおしようがないもんで🤩
5538.匿名@嫌い派 10-07 21:59 [通報] [非表示] [返信]
5537
5541.匿名@好き派 10-08 18:56 [通報] [非表示] [返信]
5538
誰も語ってねぇわWW
ただなおしようがないっていっただけだしWW
5543.匿名@嫌い派 10-08 19:40 [通報] [非表示] [返信]
5541
腐女子って全く関係ないところで堂々と宣言されるのも気分のいいものでは無いからそれも含めて指摘してるのでは?腐女子は恥じるべきものとまでは言わないけど、自慢になるようなステータスじゃないから。
腐女子は自分達と同質の帰属意識を持つことを他人に強要する、いわばヤクザ
なお一連のやり取りはどう見ても「腐女子は直しようがない」と言ってるだけのもので、流れ上自然な発言に過ぎず、ことさら腐女子を宣言するためのものでも自慢するためのものでもない
そういう一般名詞的でジャンル名としても成立するものを登録商標にして独占すると
たとえジャンルとして確立してもそのジャンルの中には一社の商品しかないことになるんだよな
それってジャンルの広がりが貧しくなるというか、裾野の広い山ほど高いみたいにいうように、結局ジャンルが成長しなくなると思うんだよな
そもそも一社しかない状態でジャンルとしてわざわざ棚用意してくれる小売もないんじゃなかろうか。まずそれがジャンルであるという認識も起こってこないかもしれない。
そこは誰もが帰属意識を持っていい一般名詞のままとしていろんな会社に参画させたほうが結局今登録商標してる会社も含めた多数の利になると思うんだよなあ
自分は説教と思わなかった文章を説教だと受け取った人を見かけて、なぜ違いが生まれるのかに興味がわいた
説教の辞書的な意味は「上の立場の人が目下の人向けに教え導くこと」
その一方で説教臭いの辞書的意味は……Web辞書に説教臭いの見出し語がなかったので正確なところがわからないが
接尾語で「くさい」がつくと「いかにもそのように感じられる」くらいの意味が付与されるので
これって「受け手が説教と感じる」ことを「説教臭い」と呼んでいることが分かっただけだ、なぜそう感じるかこそに興味があるのに
説教の辞書的意味を換言すると「上から目線で教えを示す」くらいの意味になるはずで、この上から目線が鍵か
つまり何かの文章を説教と解釈する人は「上から目線」「偉そう」などのニュアンスを他の人より敏感に感じ取っているという仮説を思いついた
ただこの仮説は少し的を外している感もあるか
説教臭さを感じない人も「良い啓蒙じゃないか、"えらい"なあ」と偉さを感じているケースもあるだろう
このケースで説教臭さを感じる人は「説教臭いなあ、"えらそう"に」と思うだろうな
このえらいとえらそうの差は着目すべき点か?わからない、今はいったん保留しよう
説教臭いという場合にはそう感じた人は不快感を感じているはずで、その何故不快に思ったかというアプローチの方が筋がよいか?
そう考えるのであれば「えらい」なら不愉快ではなく、「えらそう」なら不愉快か?
これもピントがずれている感が少しあるな……
一旦とりとめのない思考メモを書くのは中断してまた後で考えるか
続き
とりとめのない考えをするときは考えが発散しないように注意しなければいけないと自戒
と最初に書いているが、きっかけとなったその文章はこの思考メモ中には引用していないわけで
その文章を明示しないままにその文章固有の特徴をイメージしながら書いてしまうと的が外れるのも当然だ
全文引用失礼(増田は一定期間で投稿を消してしまう人がいるので後から自分が見返せるように)
上から目線を不快に感じるということは自分が下に見られるのが不快ということで
自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快なんじゃないだろうか
なるほど、納得感がある
的をかなり中心で射ているように見える
例外ケースが何点かある予感がある、それのフォローが出来ればよいが
考えてみるか
例えば駅構内の「痴漢は犯罪です」に説教臭さを感じる人を見たことがある
この場合どの相手を嫌いなのか、誰から見下されているのかというのがはっきりしていないかもしれない
他のケースでは小説で作中人物が政治思想を語りだしているのを見て説教臭さを感じるケースはどうか?
あえて言うなら作者に対する嫌悪感、「作者よお前は何様なんだ?」という感情か
なんでもかんでも説教に見えてしまう人はなんでもかんでも嫌いに感じているということになってしまう
見下されていると感じたから嫌いなのか
どちらが卵でどちらが鶏かはわからないし、おそらくどちらの場合もありそうな気もするが
レッテル貼りになりかねない、わかりやすい理解に流されてはいけない
もう少し考え続けよう
続きを考える時用のとっかかりメモ
・説教臭さの不快感の根源は「うっせえわ!」という感覚かもしれない
何故私は「うっせえわ!」と思わず別の人は「うっせえわ!」と思うケースがあるのか、それを考える
・また、「自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快」なので「つまり相手が嫌い」は論理の飛躍があるか?
大筋では近い位置に着地しそうではあるがそうでないケースもありそう、そこを考える
「同じ船に乗っている人のアドバイスは有用だが、違う船に乗った人の無責任なアドバイスは害悪」という思想に構造の類似性を感じる
・キーワード「唐突感」「他人からの行動の強制」「押しつけがましさ」「うんざり」
・以下4パターンについて考える
・説教臭いすなわち不快に感じると書いたが、これは自明ではないのでは?そのため上記4パターンがさらに分岐する
・不特定多数に発信されたものと名指しで発信されたものに違いはあるか?
・説教臭さを感じる条件に帰属意識は関係するか(アドバイス罪の「同じ船」に通じるものがあるか)
・一人の人間がある属性の不特定多数の人間に説教と解釈されうるものを発信したとき、そのある属性に属する私がその説教に同調し「そうだそうだ、もっと言ってやれ」と共感するケースがあるのではないか?
不快感という感情が湧きあがることで初めてこれは説教臭いと気付きやすくなる可能性は無いか?
・例えば日本人という属性に対して「日本人は〇〇したほうがよい」と言ったとき、既に〇〇している日本人がどう考えるかどうか
「良いこと言ってるね」と思った人はそもそも説教されているとは感じない、むしろ説教する側に自分を置いている可能性があるか?
「私は既に〇〇しているのにうるさいやつだな」と思った人は説教される側に自分を置いている可能性があるか?
仮説:
・その特定の属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合、不快感を感じない(パターン1)
・その特定の属性に属した人がAを実施していなかった場合、「うるさい」に類する不快感を感じる(パターン2)
・パターン1の場合、不快感を感じていないので説教臭いという感想が出てこない→説教だと思わない
・パターン2の場合、押しつけがましさを感じ説教臭いという感想が出てくる→説教だと思う
パターン1の反証、つまり「その特定の属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合に不快感を感じる」がありえるかどうか
特定の属性に属していない人でも押しつけがましさを感じることができるのでは?
「イタリア人はもっと紅茶を飲んだ方がいい」という文章は日本人の私が見ても押しつけがましく見える
この文章を押しつけがましく思わない人がいるとすれば「既に紅茶をたくさん飲む習慣があり意見に同調しているイタリア人」なのでは?
好ましく思っている人が言った啓蒙は不快感を覚えないので説教という単語が連想されない可能性
長くなりすぎた
一度別で整理してまとめよう
安倍晋三暗殺事件をきっかけに統一教会(世界平和統一家庭連合)に注目が集まっているが、保守系(反リベラル、反ポリコレ、反中韓)に分類できる文化人のなかで、はっきりと統一教会批判を行なっているのが旧2ちゃんねる(5ちゃんねる)関係者のひろゆきと山本一郎なのは興味深い
一説によれば、旧2ちゃんねるは一時期、統一教会に乗っ取られかけたという噂がある。この点を抜きにしても、基本的に1970年代生まれ以下の世代は、保守や愛国を唱えていても頭の中は近代合理主義者で、土着的・伝統的な家族観とか道徳観はちっとも好きではないのだ。
東浩紀(1971年生)は統一教会を「カルトかどうか判断できないだけ」と述べてひんしゅくを買った。ただ、これは統一教会の擁護というより、スターリニズムや連合赤軍のような原理主義的なドグマに陥ることを恐れるあまり、「二項対立に囚われないように判断保留する」というポストモダンの思考を原理主義的なドグマにしてしまった模様。
一方、三浦璃麗(1980年生)は、何やら統一教会と利害関係があるらしい。
https://twitter.com/333_hill/status/1300961546693083137?s=12
http://japanhascomet.cocolog-nifty.com/blog/2020/09/post-e4d640.html
東や三浦はさておいても、高度経済成長期以降に育ち、冷戦体制崩壊後に成人した団塊ジュニア以降の世代は、基本的に統一教会的なものが嫌いだろう。俺もな。
今では忘れ去られているが、2000~2006年ごろの2ちゃんねるでは、韓国、中国、民主党だけでなく、森喜朗に代表される体育会系、マッチョ価値観の自民党重鎮も不人気で、平然と皇室をコケにする書き込みだって多数あった。非合理的な宗教団体は嫌われ、前近代的な家制度の束縛とかブラック企業的な上下関係を肯定する主張は評判が悪かった。
かつて2ちゃんねるに大量にいたネトウヨことネット右翼は、なぜ韓国人や中国人を嫌悪したのか? 戦前戦中の日本に対する非難が自分個人への非難のように思えた点に加えて、韓国人や中国人の振る舞い(声が大きい、言動が粗暴、上下関係がきびしい等)に「前近代」の臭いを感じ取っていたからではないか。
ネットでは保守愛国を主張して戦前日本を賛美ながら、平然と「中国、韓国は儒教国家だからダメだ」と言う人間が少なくない。お笑い草である。戦前までの日本だって支配階級の基本思想は儒教だった。幕末に尊王攘夷運動が起きたのは江戸時代に朱子学が普及して、「幕府が天皇から権力を奪っているのは忠義に反する」という考え方が広まった結果だ。明治維新後も、明治天皇の教育係の元田永孚は西洋嫌いの儒学者で、名君の教科書として唐代の『貞観政要』を読ませたし、教育勅語は儒教的価値観の産物だ。
だが、どうやら団塊ジュニア世代以下のネトウヨの頭の中にある理想の日本は、最初から西洋的価値観の近代国家だったらしい。彼らには古代中世の日本の伝統的価値観を本気で学ぶ気などなく、和歌や能楽や歌舞伎や浄瑠璃より、漫画やアニメやゲームが好きなのが本音だろう。そういえば橋下徹も、平然と文楽の予算を削減しようとしてたな。
「保守・愛国を唱えながら近代合理主義で何が悪いの?」と言う人もいるだろう。世の中には、何も悪いことをしてない人間にも病や死や不幸が降りかかったり、不合理がいくらでもある。何でも理性で解決できると思い、現代人から見れば非合理な考え方に従っていた古代や中世の人間を愚かとしか見なさないのは、思い上がりだ。そうして過去の時代の人々という他者への想像力を持とうとせず、過去の世代が積み重ねてきた道徳観への敬意がなくなると、経済的な損得ばかりが最優先の価値観になる。「皇室の維持は国費の無駄だから天皇制反対」と言い出す者も出てくるかもしれない。
そうなれば、単に力(財力、権力、情報発信力)がある奴が勝ちだ。日本でもドナルド・トランプのような男が国家元首になるかもしれない、トランプならまだ人物的に面白味があるが、竹中平蔵やワタミが大統領になったら本当にイヤだぞ。
統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改名した。団体名に「家庭」とつくのがポイントだ。自民党による憲法改正案で、第24条に加筆された「家族は、互いに助け合わなければならない」という一文は、統一教会の主張と同じだといわれる。また、「こども庁」の名称が「こども家庭庁」となったのは統一教会の影響という説もある。
https://twitter.com/izumi_akashi/status/1548537253018103808
つまり、統一教会はとにかく家族の重視を唱える。彼らの教義は、俗流キリスト教と、家父長の権威や先祖供養を重んじる東アジア的な儒教道徳の混合物で、教祖の故・文鮮明をお父様、その妻の韓鶴子をお母様と呼ぶ。このような教団組織という大きな家族への絶対服従を唱える思想が、皮肉にも結果的に山上徹也個人の家庭を破壊した。
『週刊文春』7月21日号では、橘玲が「リベラル化した社会に敗れた男の”絶望”が暴発した」と題して、安倍晋三を暗殺した山上徹也のことを論じている。現代は家制度の束縛などが機能しなくなった「自由」な社会だが、それゆえに自力で自己実現できなかった孤立した人間が増えているといった内容で、その極端な暴発例に2008年の秋葉原通り魔事件や、2019年の京アニ放火事件を挙げている。指摘自体はおおむね間違ってないだろうが、なぜそのような世の中になったかの説明が抜けている。
リベラル思想以前に、社会構造の変化がある。そもそも、伝統的な家族観、家父長の権威とか、早く結婚して何人も子供を産むのが良いことだという考え方は、近代以前の農村社会が前提だ。農家は個人経営で、家父長のもとで妻子が一緒に農作業し、働き手として子供の数は多い方が都合よいから多産が奨励された。そして、農地という生産手段を継承するために血統の存続が重視され、先祖からの連続性が意識されていた。漁村も商家も同様に家族経営が基本で、船や商材を継承するため家制度が重視された。
ところが、産業革命期以降になると、農村の余剰人口は都市に流れて工場労働者となり、先祖代々の土地と家から離れて生きるようになる。労働者はみんな家庭外で雇用され、子供は家族から切り離され、父親も母親も子供も(昔は各国で児童労働が横行していた)ばらばらに働くようになり、自宅の窯でパンを焼いたり時間をかけて食事することもできなくなった(『世界の歴史 第25巻』(中央公論社)270p)
統一教会のような反共主義者は、「左翼リベラル思想が伝統的な家族観を破壊した」と主張するが、この解釈は因果関係が逆転している。共産主義は、工業が発達して伝統的な家庭を成立させる農村社会から切り離された都市労働者が世にあふれた結果から生まれた思想だ。マルクスより先に、経済的利益のために伝統的共同体を解体して蒸気機関と工場労働者を世に広めた資本家がいたのである。
逆に、農村社会に戻れば前近代的な家父長制は復活するだろう。だったら、商工業を全否定して国民を農村に強制移住させたポル・ポトのカンボジアこそが理想かよ?
先進国では工業化社会がさらに進むと、世の中は第三次産業中心になり、庶民はみんな勤め人の都市生活者となっていった。これは産業社会の要請によるものだ。以前も書いたが、(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20170522/p1)高度経済成長期に中卒や高卒で都市の工場や商店に就職していった女性は、左翼リベラル思想に影響されて社会進出し勤め人は世襲の家業ではないから、妻子が家に従属する必要はない。リベラル思想に関係なく、前近代的な家制度の束縛が弱くなるのも当然だ。生まれた時からこういう環境に慣れきって育った世代が、家父長の強い権威やきびしい上下関係を嫌うのは必然だろう。
こう書いている自分も、会社員の家の次男坊で、実家に従属する義理はないから上京以来ろくに親元に帰らない。長男の長男だった兄まで、ついに生活のためやむなく父の墓がある土地を離れてしまった。先祖代々の土地や家業を持ってるのではないのだから仕方ない。
統一教会のような保守派は、家族が大事だと主張するけれど、口先の精神論ばかりで上記のような社会構造の問題にまったく踏み込めていない。
困ったことに、農村社会や家制度のような伝統的な中間共同体が力を失うと、その代替物として、一足飛びなナショナリズムかカルト的団体に帰属意識を求める者が増える。
エマニュエル・トッドは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書)で、宗教的伝統が衰退すると代わりに排外的ナショナリズムが台頭すると述べていた。何でも、ドイツでは19世紀末から1930年代に昔ながらの教会を中心とした農村共同体が弱体化した代わりに反ユダヤ主義が台頭し、ナチス支持につながったという。
統一教会をめぐる報道で、山上徹也の母のように財産すべて差し出す信者の気持ちが理解できないという人は多い。しかしながら、外部から見ればいかに狂信的な団体でも、内部の信者には何らかの「魅力」がある。
先に述べたように、世の中にはいくらでも非合理的なことがある。それまで合理主義者だった人間が、病や死のような自分の力に直面していきなりオカルトや宗教に走った例は少なくない。帝国海軍の名参謀だった秋山真之や、アップルのスティーブ・ジョブスのような英才も、最期は近代医学に頼らず怪しげな方法に頼って病を治そうとして、かえって早死にした。こういう極端な思考に走らないためにも、世の中は理性で解決できないこともあると頭の片隅に置いて、非合理的なものへの免疫をつけておくこと必要だ。
そこまで追い詰められなくても、「大きなものにつながりたい願望」を抱く人間は多い。人には何かに帰属することによって得られる充実感というものがある。これは左派陣営の団体も同じだ。
こう書けば左翼リベラル派は激怒するだろうが、世の中には男尊女卑や家父長制に身をゆだねることに安心感を抱く者もいる(俺自身は嫌いだが)。いかに社会制度が近代化しても、誰もが自立した個人になれるわけではないのだ。
あの気持ち悪い集団結婚式にしても、なまじ自由恋愛の時代になると結局誰も選べずに結婚相手が決まらず、いっそ超越的な立場の第三者に一方的に決めてもらう方が安心、という人間も世の中には一定数いるのかもしれない。
これも以前に述べたが、カルト宗教などが行う洗脳とは、命令に従わせることではなく、被洗脳者が自発的に洗脳する側に忖度するように”誘導”することである(https://gaikichi.hatenablog.com/entry/20121101/p1)。
その手段として「場の空気」の力がものを言う。場の空気を使った洗脳はじつに簡単だ。こんな話がある、皆さんはカップ入りアイスクリームを食べるとき、どこから食べるだろうか? たいてい最初はカップの縁にスプーンを入れるだろう。あるとき数人の集団で、1人を除いた全員があらかじめ示し合わせて、みんなカップの真ん中にスプーンを入れて食べ、残った一人を「端っこから食べるなんてセコいなあ」と言ってからかった。仲間外れにされた1人は本気で、自分の方が異常で、アイスクリームは真ん中から食べるのが世間の常識だと錯覚したという。
これと同じように、閉鎖的な教団内では容易に「みんな多額の献金をしてるんだから、そうしない自分の方がおかしい」と思い込むように仕向けられる。宗教団体も、ネットワークビジネスも、会員制オンラインサロン商法も同じだ。
信者は教祖や教団幹部個人の命令に従っているというより、信者集団の「場の空気」によって献金しなければならない気になっている。周囲にいる人間が競い合って同じことをしているのに、自分だけそれをやらないと自分の方が変だと思い込んでしまうのだ。そりゃ「空気を読む」ことが至上の美徳という価値観で育った日本人なら従ってしまうだろう。
2022年現在の状況では、まだまだ自民党に対する統一教会の影響力は強そうだ。しかし、このまま上記に述べたような近代の社会構造が続くのであれば、20~50年ぐらいの長期スパンで見た場合、統一教会的なるもの――家父長制バンザイのカルト宗教は徐々に人気を失っていくだろうと考えられる。
実際、100~200年ぐらいの視野で見れば、左翼リベラル陣営はずっと勝利し続けている。世の中は、近代的な商工業が発達すればするほど、上下関係は緩くなり、男女は平等に近づき、セクハラやパワハラは嫌われ、体罰や理不尽な校則は廃止される方向に進んできた。
ただし、それは必ずしも自由平等人権といったリベラルイデオロギーの魅力による勝利ではない。単に文明の発展によって、人間が図々しくなっただけだ。
近代以前はあらゆる労働が筋力中心だったから、無条件に成人男性が一番偉くて、女子供は成人男性に従うものだった。しかし、そのような価値観は、スマホやコンビニやAIやドローンの普及と引き換えに後退しつつある。あるいは、汗臭い筋肉労働を人件費の安い海外にアウトソーシングしたり国内の視野から消し去っただけだ。外国人技能実習生の世界では、依然として日本人相手なら許されないパワハラが横行している。
いかに自由平等人権といったリベラルイデオロギーの字面が美しくても、思想だけで世の中は動かない。民主主義は古代ギリシャにもあったが、あらゆる労働が人力の時代だったから、ついぞ奴隷制は廃止されなかった。19世紀に入るとイギリスもアメリカも奴隷制を廃止したが、それはリベラルな人道主義者の主張より、奴隷を使うプランテーション農場と比較して工場経営のほうが儲かると判断されるようになった影響が大きい。
統一教会による霊感商法、巨額の献金要求は許しがたい犯罪行為で、自分もこういうカルト宗教は大嫌いだ。ただ、統一教会的なものを嫌悪する自分たちは、たまたま土着的な農村社会が崩壊して家制度の束縛が機能しなくなった時代に生まれ育ったから、統一教会的な家父長制価値観への Permalink | 記事への反応(1) | 23:06
本質を表しておらず、歴史上のとある議会の座席位置を参照する名称だ。コードレビューでこんな変数名でてきたとしたら修正されるだろ。
だって今、右翼が韓国発宗教が国家中枢に絡みついてるのを有耶無耶にしてて、左翼が激しく糾弾してんだぞ。意味わからんだろ。
ちょっと前まで右翼が「韓国とかありえん」って怒って、左翼が「韓国を差別するな」って怒ってなかったか?
やはり政治的なポジションってのは表で示されるべきだな。列名が「賛成、反対」で行に各政治的トピックが並んでるやつ。
それをもとにクラスタリングしたら右翼的な固まりだったりはあるんだろうけど。
ただ、クラスタリングする意味は薄いと思う。自分は右派だというアイデンティティや帰属意識を持ってしまうと、元々持ってた論理が破綻したり、意見の多様性が失われたりしそうだから良くないね。
結婚と同時に姓を変えると過去の名前との連続性が失われることで、手続き上も心情も大変なのは理解できる。
ただ、選択的夫婦別姓制度の推進派が「制度上、別姓の選択肢が増えるだけなので、現状維持で同姓にしたい人にとっては何も変わらない。反対する理由がない」というのはさすがに詭弁ではないのか。
現在の日本社会は結婚により夫と妻が同姓になり、かつ生まれてくる子供が同じ姓を持つことが結婚の一部としてビルトインされた前提で社会通念も制度も作られているわけで、それが選択制になったら当人以外にも影響が出るのは当然なのではないか。
(携帯電話番号が12ケタの人が出てきたら、11ケタの人には関係ないとは言えないだろう)
そもそも、現在推進しようとしている人たちの意識でさえ夫婦同姓が前提となっている。例えば、現行制度に対し「結婚によって愛着のあった苗字を変えなければならないのは悲しい」という女性の意見には一理あると思うけれど、
選択的別姓が可能となり、家族内の姓が統一されず子供が片親の苗字を引き継ぐのが当然となった時代には、苗字への帰属意識が薄れ苗字を変えたくないといった要望自体が風化している可能性はないか。
私は推進すること自体に反対しているのではなく、推進派が一般向けに流布する論理が安直に過ぎることに不満がある。
姓が同一家族を示す記号としての価値を失った場合に、実務的な面と観念的な面でどのような影響を社会全体に及ぼすのか、もう少し硬派な議論が聞きたいと思う。
こういうことを書くとまっとうな反論がもらえそうなので、少し期待している。