自分は説教と思わなかった文章を説教だと受け取った人を見かけて、なぜ違いが生まれるのかに興味がわいた
説教の辞書的な意味は「上の立場の人が目下の人向けに教え導くこと」
その一方で説教臭いの辞書的意味は……Web辞書に説教臭いの見出し語がなかったので正確なところがわからないが
接尾語で「くさい」がつくと「いかにもそのように感じられる」くらいの意味が付与されるので
これって「受け手が説教と感じる」ことを「説教臭い」と呼んでいることが分かっただけだ、なぜそう感じるかこそに興味があるのに
説教の辞書的意味を換言すると「上から目線で教えを示す」くらいの意味になるはずで、この上から目線が鍵か
つまり何かの文章を説教と解釈する人は「上から目線」「偉そう」などのニュアンスを他の人より敏感に感じ取っているという仮説を思いついた
ただこの仮説は少し的を外している感もあるか
説教臭さを感じない人も「良い啓蒙じゃないか、"えらい"なあ」と偉さを感じているケースもあるだろう
このケースで説教臭さを感じる人は「説教臭いなあ、"えらそう"に」と思うだろうな
このえらいとえらそうの差は着目すべき点か?わからない、今はいったん保留しよう
説教臭いという場合にはそう感じた人は不快感を感じているはずで、その何故不快に思ったかというアプローチの方が筋がよいか?
そう考えるのであれば「えらい」なら不愉快ではなく、「えらそう」なら不愉快か?
これもピントがずれている感が少しあるな……
一旦とりとめのない思考メモを書くのは中断してまた後で考えるか
続き
とりとめのない考えをするときは考えが発散しないように注意しなければいけないと自戒
と最初に書いているが、きっかけとなったその文章はこの思考メモ中には引用していないわけで
その文章を明示しないままにその文章固有の特徴をイメージしながら書いてしまうと的が外れるのも当然だ
全文引用失礼(増田は一定期間で投稿を消してしまう人がいるので後から自分が見返せるように)
上から目線を不快に感じるということは自分が下に見られるのが不快ということで
自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快なんじゃないだろうか
なるほど、納得感がある
的をかなり中心で射ているように見える
例外ケースが何点かある予感がある、それのフォローが出来ればよいが
考えてみるか
例えば駅構内の「痴漢は犯罪です」に説教臭さを感じる人を見たことがある
この場合どの相手を嫌いなのか、誰から見下されているのかというのがはっきりしていないかもしれない
他のケースでは小説で作中人物が政治思想を語りだしているのを見て説教臭さを感じるケースはどうか?
あえて言うなら作者に対する嫌悪感、「作者よお前は何様なんだ?」という感情か
なんでもかんでも説教に見えてしまう人はなんでもかんでも嫌いに感じているということになってしまう
見下されていると感じたから嫌いなのか
どちらが卵でどちらが鶏かはわからないし、おそらくどちらの場合もありそうな気もするが
レッテル貼りになりかねない、わかりやすい理解に流されてはいけない
もう少し考え続けよう
続きを考える時用のとっかかりメモ
・説教臭さの不快感の根源は「うっせえわ!」という感覚かもしれない
何故私は「うっせえわ!」と思わず別の人は「うっせえわ!」と思うケースがあるのか、それを考える
・また、「自分と同等もしくは見下している相手に諭されるのが不快」なので「つまり相手が嫌い」は論理の飛躍があるか?
大筋では近い位置に着地しそうではあるがそうでないケースもありそう、そこを考える
「同じ船に乗っている人のアドバイスは有用だが、違う船に乗った人の無責任なアドバイスは害悪」という思想に構造の類似性を感じる
・キーワード「唐突感」「他人からの行動の強制」「押しつけがましさ」「うんざり」
・以下4パターンについて考える
・説教臭いすなわち不快に感じると書いたが、これは自明ではないのでは?そのため上記4パターンがさらに分岐する
・不特定多数に発信されたものと名指しで発信されたものに違いはあるか?
・説教臭さを感じる条件に帰属意識は関係するか(アドバイス罪の「同じ船」に通じるものがあるか)
・一人の人間がある属性の不特定多数の人間に説教と解釈されうるものを発信したとき、そのある属性に属する私がその説教に同調し「そうだそうだ、もっと言ってやれ」と共感するケースがあるのではないか?
不快感という感情が湧きあがることで初めてこれは説教臭いと気付きやすくなる可能性は無いか?
・例えば日本人という属性に対して「日本人は〇〇したほうがよい」と言ったとき、既に〇〇している日本人がどう考えるかどうか
「良いこと言ってるね」と思った人はそもそも説教されているとは感じない、むしろ説教する側に自分を置いている可能性があるか?
「私は既に〇〇しているのにうるさいやつだな」と思った人は説教される側に自分を置いている可能性があるか?
仮説:
・その特定の属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合、不快感を感じない(パターン1)
・その特定の属性に属した人がAを実施していなかった場合、「うるさい」に類する不快感を感じる(パターン2)
・パターン1の場合、不快感を感じていないので説教臭いという感想が出てこない→説教だと思わない
・パターン2の場合、押しつけがましさを感じ説教臭いという感想が出てくる→説教だと思う
パターン1の反証、つまり「その特定の属性に属した人が既にAを実施し満たしていた場合に不快感を感じる」がありえるかどうか
特定の属性に属していない人でも押しつけがましさを感じることができるのでは?
「イタリア人はもっと紅茶を飲んだ方がいい」という文章は日本人の私が見ても押しつけがましく見える
この文章を押しつけがましく思わない人がいるとすれば「既に紅茶をたくさん飲む習慣があり意見に同調しているイタリア人」なのでは?
好ましく思っている人が言った啓蒙は不快感を覚えないので説教という単語が連想されない可能性
長くなりすぎた
一度別で整理してまとめよう
上から目線を不快に感じるということは自分が下に見られるのが不快ということで 尊敬する相手から格下と扱われても納得する気がするから 自分と同等もしくは見下している相手に諭さ...