はてなキーワード: 合格発表とは
私は高校中退のあと大検を取って、二浪してたまたま受かった文教大学に入りました。
【高校受験】
ADHDの症状のためかなんなのか自宅ではまるで勉強ができず、三年間で家でやったのは県立高校の過去問だけ。
ただ知能テスト?の結果は学年で一番とかだったので授業態度や提出物等はボロボロなものの、なんとか偏差値60ぐらいの県立高校に入学。
最近親に「勉強のやり方がわからなかった」という話をしたら、どうも話が噛み合わないのでよくよく聞いてみると塾とかで丁寧に指導してもらえばもっとできたのではと思っていたらしく、「いやいや毎日コツコツ机に向かって勉強するっていうのができなかったんだよ」と言ったら少し驚いていた。
そんなんで入った高校に適応できるはずもなく1年で中退。大検も予備校には通うもまたもや家では過去問だけをやってなんとか合格。
【大学受験】
しかし大学はそう甘くはなかった。現役の年齢では手も足もでず、一浪するも全滅。親からの圧力とかの恐怖心もあって予備校に通う電車の中で「試験にでる英単語」だけはやり、例によって赤本アタック。
正直もう体力も精神力も限界に近かったが、5校受けた中で「こりゃダメだな」と思った文教大学の情報学部になぜか受かっていた。合格発表も見に行けず家でゴロゴロしていたのだが、親が「大学から何か来てるわよ」というので見てみたら、入学の書類だった。
【最後に】
運かなぁ。
https://anond.hatelabo.jp/20190102174908
自分のことを思い出した。
もう20年前の話。
親の仕事の都合で引っ越しの多い幼少時代だった。そのせいか内向的で、休み時間には教室に置いてある児童文庫の学習漫画をよくよんでいた。地球が太陽の周りを回っていると書いてあったから、影が1日の間で移動する理由をテストで問われて「地球が太陽の周りを回っているから」と書いたら、正解は「太陽が動いているから」だと言われた。テストでは僕の答えも丸になっていたが、動いているのは地球の方で太陽は動かないはずだと僕はずっと首をかしげ続けていたと、母親は保護者面談で先生から言われたそうだ。なぜか母親にとってそれは自慢話のネタらしい。
中学受験に向けて猛勉強する同年代の子どもたちの映像をテレビで見たことをよく覚えている。そのときは僕は「ずるい」と感じていた。みんなが学校で同じように平等に勉強の機会を得るべきで、塾で勉強するのは抜け駆けをするずるだと感じたのだ。そのせいか僕は塾に行くことなく大学受験まで過ごすことになる。
親は放任主義というかのんびりしているというか、子どものすきにさせるというスタンスで一貫していた。ファミコンをどんだけやっても怒られないし、勉強しろと言われたことは一度もなかった。そのせいか、どの高校や大学を受けるかにあたって僕が出した唯一の基準は「自由なところ」だった。
高校は県内でも自由で名高い公立を選んだ。私立優位な地域だったので、東大京大に受かるのは3年に1人くらいの高校だった。そんな高校で僕はずっと学年で「2番」の成績をとり続ける。どんなに頑張ろうと常に2番。1番の子は一体どんなやつなんだろうと思わないでもなかったが、実は顔も知らない。1学年10クラスもあって、どのクラスにいるのかを探すのも大変だったのだ。
高3に模試を受けてみると、京大の合格圏に入らないでもないくらいだった。調べてみると京大は、自由そのものの校風ではないか。それなら受けるしかない。塾には行ってなかったが、通信教育は受けていた。コースを京大向けに変更して、家で課題を解き続ける日々。子どもの頃に中学受験をずるいと感じたくせに、大学受験ではそのど真ん中に身を投じているのだから勝手なもんだ。つまりは自分が認識すらできない時点で人生に差をつけられてしまうようで、抵抗を感じていたのだ。
受験の当日、母親がホテルについてきた。「私は観光してくるから、あんたは受験頑張りね」と。どこに観光してきたかは知らないが、そのときの写真やお土産はひとつもなかった。どこにいたんだろね。
試験はよく集中できた。何問解けたのかはよく覚えてない。目の前にある京大らしい問題に、自分の知識と知恵で格闘した。いつも通りの自分でいられた気がする。
自分の番号を見つけた瞬間の感想は、あーそっかあという安堵のようなものだった。ここに受かるということは、親元を離れて暮らすということだ。その新しさへの不安と期待が少しずつだった。
噂によると、学年でずっと1番だった彼も京大に受かったらしい。が、いまだに会ったことも話したこともない。全く自由というか無頓着なのだろう、2人とも。
僕も親のように、人生の岐路になりうる場に子どもを平常心で立たせてあげることができるだろうか。まあきっとできるだろうと、ポケモンをやり続ける子どもを見ながら思うのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20190102063518
読んだらわたしも書きたくなったので書く。もう10年以上前の話ではある。
元増田と違い中学受験や私立とは無縁で、片田舎の公立中学、公立高校を卒業して京大に入学した。
勉強なんてほとんどしてなかったけど、テストでは常に学年トップで完全にお山の大将だった。
一方で家庭環境的にいろいろあった時期でもあり、また自分自身もいろいろ拗らしてた時期でもあったので、私立組やいわゆる英才教育を受けている人たちへの異常なコンプレックスがあった。塾なんかに頼るやつは元々馬鹿、私立高に通って高いお金出さないと勉強できないやつに勉強する意味はない、などと誰彼構わず吹聴していた。今思っても最悪の性格だった。
将来の展望なんてこれっぽっちも見えてなかった。大卒の大人は周りに全然いなかったし、もちろん官僚なんて言葉も知らない。そんな中、ある日法事だかお盆だか正月だかで叔父に当たる人と久しぶりに会った。聞くと某地方総合大学の工学部を卒業し、自動車系メーカで開発をしているとのこと。元々機械は好きだったので、その仕事をすごくかっこいいと思った。そしてそれ以上に、その人の身なりや車(といっても今で言うアルファードみたいな上位国産車)、余裕、羽振りの良さなど、あらゆるところに今まで自分の周りになかった、ハイクラスな何かを感じ、衝撃を受けた。今思えば(叔父には悪いが)お金持ちのモデルとしてはずいぶん控えめではあるが、それでもこの衝撃は大きかった。自分の目の前に一つの道が示されたような気がした。
そんな自分に両親はとても優しかった。自分の選択や意見をいつも全力で肯定し続けてくれた。今思えば自分の可能性を広げるための最大限の配慮をしてくれていたのだろう。
結局地元で2番目ぐらいの公立高校に行った。理由はいろいろあるが、自転車で通えるというのは大きかった。自宅からの公共交通機関のアクセスが最悪だったからである。
この高校は一応進学校とは銘打っているものの、毎年東大はゼロ、京大が1人いるかいないか、旧帝大に数人、といった感じだった。相変わらず高校でもお山の大将だったが、高校は全国模試があるので自動的に全国の高校生と比較される。片田舎の小さな小さなサル山で大将を気取っていた少年はここで初めて現実を知る。
1年生の夏、家族で京都に旅行に行った。古い街並みと近代的な景観が融合するこの街を、わたしはすぐに好きになった。さらに、この旅行の行程には京都大学観光が組み込まれていた。今思えば、両親がわたしのやる気を引き出すために連れて行ってくれたのかもしれない。ともあれ、権威のシンボルである時計台、自由を象徴する立て看板、鴨川と百万遍の街並み、どれもが自分の心を強く打った。
本気でそう思った。
そこから勉強を始めた。あんなに嫌いだった塾にも結局行った。恥を忍んで塾に行きたいと親に言ったときも、やはり親は快諾してくれた。塾は大手予備校講師のOBが地方でやっている個人塾だった。英語と数学を教えてもらっていたが、ここの先生方には現在に至るまでお世話になっている。勉強だけでなく、自分の見識を大いに広めてくれた恩人であり、今でも頭が上がらない。
高2の終わりぐらいまでは漫然と過ごした。学校の授業は地方国立やMARCH、関関同立といったところをターゲットにした内容であり、物足りなく思うことは頻繁にあった。しかし学校の授業でつまずいているようでは京大もクソもない、という信条があったため、まずは学校の授業で習った部分は確実に押さえることを一番に考えた。
高3になると全国模試のランキングに浪人生が入るので、順位や判定が一気に下がって焦った。先生方は「最初は下がるけと徐々に追いついてくる」と言っていたが、秋になっても成績は伸びずにただただ焦った。自分の立てたスケジュール通りにまったく勉強が進捗していないこともあり、更に焦った。焦りすぎてメンタルが不安定になり、何度も勉強中に発狂した。振り回したシャーペンは何本も折れた。親には意味不明な理由で八つ当たりを繰り返した。親はすべて受け止めてくれた。
高3の大晦日の夜、いつもどおり家の机で勉強していたのだが、うっかりそのまま寝てしまい、気づいたら新年を迎えていた。あまりの不甲斐なさに一人で泣いたのをよく覚えている。
受験勉強はチーム戦、という言葉がある。上でも書いたとおり、自分のいた高校は難関校の受験生が少ない。しかし逆にその分、似たような境遇の我々には妙に強い結束感があった。別に机を並べて一緒に勉強したりするわけではないが、模試の結果や参考書の話、志望校の話などをとりとめもなく話せる人が周りにいるというのはとても心強かった。模試の判定を見て落ち込んでいるときや不安でやる気を失いかけているときに鼓舞してくれたのは彼らであった。結果は人それぞれだったが、今でも年に一度は集まる良き友人たちだ。
【試験】
京大工学部はセンター試験の点数配分が恐ろしく低いので、気軽に受けた。特に数学は足切りラインを除くと全く評価されないのでろくに対策もせず、1A2Bともに85点程度だった。ただ周りの友人が満点を連発していたので妙な焦りだけが生まれた。
私立は早稲田と慶応を受けた。どちらも全く行きたいと思っていなかったが、練習だと思って受けた。初めての一人東京だったので異常に浮かれた。慶応の試験前日、下見ついでに少し街を散策したが、これがよくなかった。壮大に風邪を引いた。熱で全く頭が回らず、とうとう英語の試験の途中で医務室に運ばれた。医務室でひたすら泣いた。
京大2次試験の当日、出発前にわたしは親を呼び、これまで支えてくれたことへの感謝を伝えた。いろんな人に支えられてここまで来た。特に親の気苦労とサポートは計り知れない。そのことをどうしても当日伝えたかった。わたしも親も泣いてわけがわからんことになった。
当日は自分でも驚くほど冷静に試験に取り組めた。数学の試験は試験官に手紙を書いているような気持ちで答案を作成した。結果的に完答できた問題はなかったのだけれども。
ところで、新年を迎えたころから自分の中のルールとして「前期試験不合格を連想させるようなことは一切口に出さないし、心にも思わない」というものを設定した。「浪人したら…」「後期試験の対策は…」といったことを考えることも禁止した。発言の自由はおろか思想の自由まで侵害するという、今思えばドン引きするルールだ。バックアップを想定することは合理的であるが、その発想自体が心を弱くする、という根性論だった。今の自分は根性論が大嫌いだけど、ともかくその時はそれが最善だと思っていた。自分なりに必死だったんだろう。
合格発表の掲示開始時間には10分ほど遅れて到着した。すでに合否の熱狂から一段落しているところで到着した形だった。手足が震えていた。すがるような気持ちで掲示板を見た。番号があったので、また泣いてしまった。声を上げて泣いた。今までずっと無理をしてきて、辛かったんだということをその時理解した。その様子を見たアメフト部の人たちに囲まれて、胴上げされた。
【その後】
入ってから色々あったがここでは割愛する。卒業してからは某メーカで開発職をやっている。結局件の叔父と同じような道を選んだことになる。しんどいこともたくさんあるが、機械が好きなのでなんだかんだ向いていると思っている。
【さいごに】
一番お世話になった参考書の一つにチャート式があるが、この巻頭に記載されている「汗をかけ」という文章がわたしは世界で一番好きだ。短い詩なのでぜひ全文読んでほしい。
http://www.chart.co.jp/corp/00epitome/01what/asewokake/asewokake.html
「確実な道」を行く者は、「近道」を行く者よりも、汗をかかなくてはならないだろう。だが、その汗は、絶対に無駄にはらなない。君が、将来“かっこいい大人”“素敵な大人”になれるかどうか――それは、10代の時どれだけ「汗」をかいたかで決まるから。
恋でもいい。グラウンドの上でもいい。
そして、エンピツを握ってでもいい。
フィールドは何であれ、思い切り「汗」をかく人であってほしい。
元増田にもあったが、受験はその構造上どうしても他者との競争の構図ができがちだ。しかし自分自身の弱いところや意地悪なところや卑怯なところと徹底的に見つめ合い、自分の力で一歩一歩進むことに最大の意義がある。
すべての人に受験勉強というプロセスが必要とは思わない。ただ、受験勉強を通して得られるものは決して少なくなく、ただの公式・知識暗記ゲームにとどまらない、自分にとって大切なことを教わる大変よい機会だった。大学ではすっかり落ちこぼれ学生だったが、多種多様の人たちに出会い、自分の見識を常に広げ続けさせてくれた京都大学には本当に感謝している。
中学受験シーズンが近づいてきた。今年子供が受けた経験から、反省も込めて今の時期の心の持ちようや準備できること等について書いておく。
中受でよく聞く「男の子は直前まで伸びる」っての、正直半信半疑で受け止めていたけど我が家については実際この通りだった。息子の学力は秋(11月頃)までサピックス偏差値で言うと50に行くかどうかという感じで、一方の第一志望校の偏差値は60で10くらい開きがあった。それが12月に入ってからようやく息子のエンジンがかかり、そこから目に見えて勉強の質と量が上がっていきそれと共に理解と知識が深まっていくのを感じた。この時期はもう模試は全て受け終わっていたので数字で示すのは難しいが、ざっくりした感覚で偏差値5くらいは上げたのではないかと思う。受験生全員がそうだと言うつもりはないが、子供目線、特に男の子の場合、入試本番が現実的な射程に入ってくるのは残り2ヶ月を切ったあたりからの気がするので、特にまだ100%本気で勉強に取り組んでいないなと感じるお子さんの場合は12月からでも十分学力が伸びる余地はあるので諦めないで欲しい。
更に言うと、我が家のような家庭は結構多いのではないかと思われ、したがって入試本番での受験生の学力は、それまでの模試等に表れるよりもずっとボーダーにぎゅっと集まっているのだと思う。だから(後述のとおり)入試本番である当日の、メンタルを含むコンディションが合否を左右する。
どの受験でも言えることだけど、どれだけたくさん模試を受けて試験慣れしているつもりでも、入試本番はやっぱり模試とは全くの別物だというのを子供の受験を通じて改めて痛感した。しかもそれに挑むのはまだ精神的にも発達途上の12歳の子供である事を考えると、本命校の受験に先だって「お試し」校を受けておくかどうかで経験値に大きな差がつく。
この点、実際に行くかどうか分からない学校を受験することの是非は色々言われているし、我が家も基本的に「行くつもりのない学校は受けない」という方針で臨んだけれど、それでも悩んだ末に2月の本命校の前にいわゆる1月校と呼ばれる学校の1つ(都内の中受界隈では有名な埼玉の某校)を受験することにした。気合いの入った受験生とその保護者達が放つ張り詰めた緊張感、そして激励に来ている多数の塾関係者から溢れる熱気、そこに有名校ともなればマスコミの取材も集まってきて、入試当日の現場は模試では体験したことのない異様な空気に包まれる。自分の子供は肝が据わっていると思っていても、大人ですら平常心でいられない独特の雰囲気に本命校の受験で初めて接して呑まれてしまい,実力を全く発揮できない可能性は大いにある。そうしたリスクを避ける意味でも本命校の前に1校は受験しておくとだいぶ違う。また,上記1.と関係するが、12月からの直前期の勉強で子供の学力は更に上がってくるので、どの程度仕上がってきているかを確認する上でも1月校の入試は有益だ。(2月の受験本番までまだ2週間あるので、最後の弱点補強や振り返りができる。繰り返しになるが子供の学力は本当に最後の最後まで伸びる。)
自分自身も中学受験経験者だが、今の中学受験が当時と大きく違うのは、①ネットによって前日まで出願が可能となり、合格発表までの期間も短くなっている(翌日又は当日の発表が多い)、②複数回受験が可能な学校が増えている、という点。これによって、入試本番に突入してからも受験結果に応じて柔軟に併願を再考・組み直すことができるというメリットが生じる一方で、受験生のメンタルには大きな影響を与える事態となっている。
知らぬが仏という言葉があるように、昔は初日に受けた学校の合否結果が出ないまま2日目校、3日目校と受験するのが常だったので、最初に受けた学校の合否を知るよしもなく(=心乱されることなく)、それなりに心の張りを維持して試験を受け続けることができた。今はそうはいかない。初日に受けた学校の合否が早ければその日の夜にはネットで分かる。仮にそこで不合格となっていた場合、子供は落ちたショックを引きずって翌日以降の試験を受ける羽目になる。中学受験は同じ面子で試験を受け直したら合格者の半分は入れ替わる言われるくらい拮抗した競争であり(前述のとおり、直前の追い込みで受験生の多くがボーダーに集中しているとすれば自然なことだ)、そこで合否を分ける一番の要素は子供のメンタルコンディションとなる。その意味で、2月1日からの受験の結果が不合格となった場合、子供達は最悪の精神状態で試験を受けることを強いられるのである。そうして2日目、3日目と不合格とメンタルが落ち込んでいく負のスパイラルに嵌まり込んでしまい、結果全落ちするケースも珍しくない。実際我が家は2月2日の押さえ校(当日夜に合格発表)でまさかの不合格をくらってしまい、翌3日に向けて子供のメンタルを立て直すのに非常に苦労した。こうした事態を防ぐ観点から、たとえ現時点では受けるつもりがなくても、子供の持ち偏差値から10~15くらい下で前日まで出願が可能な超安全校を2月の受験候補校として押さえておくべきだったなと反省している。
これから親御さんにとってはお子さんの受験準備に向けて精神的なプレッシャーが高まる日々かと思うけど、結果がどうあれ中学受験を親子で乗り切った経験は決して無駄にはならないので頑張って欲しい。
AOや推薦入試にも飛び火しているようですが、中学入試も実はだいぶヤバいですよね。
純粋な学力勝負ではなく、家庭環境や居住地域なども見られているんじゃないの、というお話です。
https://kyushu-chugaku-juken.com/393.html
制服がダサい割にはコアなファン(?)の多いあそこです。不審者が出没したという話も聞きますね。かわいそう。
結論からいえば不合格だったわけですが、10年以上経った今もいまだに納得できません。
・試験自体の出来は、合格ラインを軽く超えていると思われる(算数はほぼ満点、国語も記述問題の大意はそこそこ合ってる、理社も悪くない)
・模試の成績も常に合格圏内、それどころか上位合格のレベルだった
まあ主観的な感触でしかないし、試験の出来が実はクッッッソ悪かったとか、もしくは1教科名前を書き忘れてたとかはあるかも。
受験生何人かでのグループ面接と、1対1の保護者面接があります。
グループ面接では当たり障りのない質問が出て、まあ意思疎通に困難がないかといったところを見ているのでしょう。
コミュ障ではないのでここで落とされたということはないと思います。
願書と一緒に提出だったか当日持参だったかは失念しましたが、家庭環境の調査書みたいなやつを提出させられます。
いや子どもの入試なのに親の職業訊いてどうするんだよ。お受験じゃあるまいし。
反社の人を除くためかな?
ということで、のちに母から聞いたことですが、保護者面接でどういうやりとりがあったか。
面接官「住所が〇〇とのことですが、合格したらお引越しされてくるんですか?」(実家の住所は都内に通学できるような場所ではない)
面接官「うちではお子さんの教育上、お父様も一緒に親子揃ってというのが方針なのですが…」(母子・父子家庭は論外ってことか?)
曖昧に誤魔化して面接を終えたそうですが、入試も合格発表も終わったずっと後にこの話を聞かされて「ごめんね。」と言われたときは胸が痛みました。
入試で問われるのは本人の実力だけではないのだ、と子どもながらにやるせない気持ちになったのを覚えています。
まあもう10年前の話だしどうでもいいんですけどね!
その時に味わった悔しさをバネに田舎の底辺校から東大に進学して、今はoinの人たちとも仲良くやっているので、恨みは晴らせたかなって感じです。
お金がない。
どのくらいないかというと、扶養ギリギリまで稼いでいるのに貯金はゼロで、全財産が2080円と1000ウォンなくらいない。これはマジです。ちなみになぜウォンがあるのかというと、以前韓国に旅行した際なんとなく取っておきたくなり使い切らず持って帰ってきたからです。深い意味はないし、両替しても100円とかなので放置している。
毎月20日が給料日で、先月も滞りなく支払われたのにこのザマである。さすがにヤバい。わたしは比較的常にお金ないけど、今人生で一番貧乏だと思う。
なんでこんなにお金がないのか。原因は三つある、と思う。
まず一つ目は、大学の入学一時金?的なアレを自分の貯金から支払ったことだ。
こんなわたしでも、ずっと昔からこんなにだらしなかったわけじゃない。小さい頃からこつこつ貯めていたお年玉は、高校3年2月時点で20万円は下らなかったはずである。だがそのお金は大学に入学する権利を買うのに使ってしまった。
ご存知の方も多いと思うが、大学の入試には様々な方式があり、それぞれ日程はバラバラだ。わたしが受験生だった当時はなぜか偏差値の高い私大ほど入試や合格発表が遅かった記憶がある。そして、大学に晴れて合格すると、まだその大学に入学することを決めていなくても、その権利を保持するためにまあまあな額のお金を大学に納める必要がある。わたしの場合だと、受けた全ての大学の合格発表(2月末くらいだったと記憶している)の前に、滑り止めとしてセンター試験のみを利用して合格したあるN大学の一時金納入日があった。
さあここからが問題である。N大学の一時金納入日直前、わたしは他の大学に合格している自信が全くなかった。そして浪人する気も全くなかった。だから今の時点で合格しているN大学の入学権利はなんとしてでも保持しておく必要がある。
が、我が家は決して裕福ではない。ありがたいことに食べるものに苦労するほどではなかったが、4歳のときから母子家庭という由緒正しい貧乏である。先ほど浪人する気はなかった、と言ったが、これは「浪人できる金などなかった」の間違いであるのでお詫びして訂正いたします。大学に全落ちしたらキャバ嬢か自衛隊だな!とよく言われていたが、これが冗談ではなく大真面目な話なのである。余談だが、高校受験の時は高校落ちたら舞妓になるしか道はないと言われていました。
なので、高3の9月から通っていた塾(4月の時点ではそんな金はないから自力でどうにかしてくれと言われていたが、夏が終わってさすがに無理だと察したので超頭下げて無理して入れて貰った)の費用や大学の受験料(これすら払えないので受ける大学を減らしてくれ、と懇願された。4校しか受ける予定なかったのに)などで財産を殆ど使ってしまった我が家には、入学するかもわからない大学に払う、言ってしまえばドブに捨てることになるかもしれないお金なんて全く残っていなかった。だがそれを払わないと折角受かった大学の入学権をみすみす捨ててしまうことになるのである。
困った。超困ったし、めちゃくちゃ悩んだ。母に言うと、当然お金がないので「他の大学も一つくらいは受かってるんじゃない?」と返ってきた。超他人事である。
「いや、全部落ちてたら行くとこなくなるんだけど」
「でも何を言われてもお金は出せないよ、人に頼む前に自分でどうにかしたら?」
・・・というわけである。かつて母に「大人になって、ブランドもののバッグとか、そういう本当に欲しいものができた時のために取っておきなさい」と言われ貯めておたお金は、こうして一瞬にして消えてなくなったのである。ていうか「本当に欲しいもの」の例がブランドもののバッグなのって社会的にどうなんだろう。確かに欲しいけど。
二つ目は、基本的にわたしに浪費癖があることである。いや、浪費だとは思ってない。服や、靴、アクセサリー、おいしいごはん、飲み会、好きなアイドルのCDやDVDやコンサート、旅行、カフェ巡りや映画鑑賞、他人にとっては「もったいない」かもしれないこれらは、わたしにとって必要最低限の出費なのである。
よく母には一番出費の多いアイドルという項目に対して「アイドル追いかけるのいい加減どうにかしろ」と言われるしわたし自身早くやめたいんだけど、みんなかっこいいしかわいいしライブは最高だしでやめられる気配は今のところ全くないので、最近は明日全員引退しろと毎日のように思っている。ちなみに今わたしが好きなアイドルグループのうち二つが○○周年でやたら金がかかり(アイドルのおたくじゃない人の為に説明すると、アイドルの○○周年というのは、やたらめったらライブをしたりグッズを出すためとにかく出費が嵩むのである)、別のグループの推しが12月で卒業してしまう(アイドルのおたくじゃない人の為に説明すると、アイドルが卒業するときはやたらめったらライブをしたりグッズを出すためとにかく出費が嵩むのである。これを卒業商法と言います。あとシンプルにこれまでは我慢できてたグッズや公演も「これが最後だから」と言って抑えが利かなくなってしまう)ので出費額は右肩上がりである。
あと一つ、これは非常に短期的な理由ですが、今月パソコンを買ってしまったからです。でもこれはしょうがない。誰に何と言われようとこれは必要経費である。なぜなら就活と卒論執筆控えどう考えてもパソコン必須な未来が見えているのに、我が家のパソコンは10年以上前に母の会社が使っていたがもう古くなったから捨てるというので貰ってきたデスクトップ型パソコン(WindowsXP)その一台のみなのである。
購入には一部祖母やその他の方から頂いた成人のお祝い、から成人式の撮影や着付けやクリーニング代を引いた額、も使ったが、全額自分負担である。今月の給料の半分近くが一気に出て行ったのだから、そりゃ金もなくなるわな、という話である。
今後の話をしよう。給料日まであと約2週間、2080円と1000ウォンだけではどう考えても生活できない。それに今月はコンサートの入金締切があり、ということは遠征のための飛行機もさっさと手配しなければならない。ていうか普通の大学生はなにも贅沢なことなんてしてなくても2080円じゃ日常生活に支障をきたすし、何かあった時のことが怖くて外出れません。ざっと計算すると、次の給料日までに、最低でもパソコンを買うために使った費用まるまるくらい必要なことがわかった。ので、どうにかしてお金を得なければならない。ていうかそもそも大きな買い物をしなくても給料全額使っちゃうってどうなんだろうな。
わたしは考えた。こういうときは誰かにお金を借りるのが一般的だろう。だが、額が大きすぎる。いくら貧乏と言ってもわたしよりは計画的にお金を使う母はいざというときのための貯金があるし(その、いざ、は、ブランドもののバッグを買うときであって、娘の生活費のためではないと思うが)、1万2万なら貸してくれるだろう。恥ずかしながらこれまでに何度かそのくらいの額なら借りたことがある。だが、借りたお金は当然返さなければならないし、それは次の給料日に、ということになるだろう。借りたものはなるべく早く返す。当然のことだ。
しかし、来月のわたしにお金があるだろうか?というと、答えはノーである。このままだと扶養の限度である103万を超えてしまいそうだったため(それだけ稼いでいて貯金がゼロという現実をわたしは重く受け止めなければならない)最近バイトを控えており、来月の給料は相当少ないと予想される。これで借金を返したりしたら更にお金がなくなりまた借金、という自転車操業が目に見えており、それはさすがに人間としてダメな気がするので避けたい。
なぜガールズバーなのか。まず、日払いであること。先程から言っているように、わたしはお金はないのに出費の予定はあるので今すぐお金を手に入れる必要がある。引っ越しの日雇いとかでも全然いいけど、あんまり体力に自信がないので。かと言って人に自慢できるような見てくれでもないので面接であっさり落ちるかもしれないけど。そしたら引っ越し屋にするしかない。
そしてこれが最大の理由だが、水商売は扶養とか関係なく働けそうだから、だ。なんとなくその辺ってお水の世界はグレーゾーンな気がする・・・少なくとも引っ越しバイトよりはガバガバな気がする・・・。もちろんそうじゃなかったら即ちそれは死を意味します。
水商売は下へ下へと流れて行くから水商売というらしい。DESIREの合いの手も言ってるように、落ちたらように怖いのである、水商売は。わたしネット掲示板って2ちゃんねる(あ、今は5ちゃんねるっていうんだっけ?どっちでもいいけど)と糧くらいしか見ないんだけど、ヘルスとか超怖そうだよね。
今回お金がないのは怖いって身をもって学んだから、今後はちゃんと貯金したいなあ。これ以上支出が減る見込みはないので収入を増やさないといけないんだけど、ガルバって親にばれずに続けられるものなんですかねえ・・・?うち、門限12時、許可制で終電がデッドラインとかいう超絶厳しい家なんですけど・・・?
東大へようこそ。諸君は今年の4月から立派な東京大学の一員となる。
ちょうど私と入れ違いになるという事もあり、特別な感じがするのは気のせいであろうか。私は4年前、君たちと同じ体験をした。
おそらく今日は諸君にとって良い意味でも悪い意味でも一生忘れられない日になるはずだ。
合格者達よ 諸君はまだ悟っていないはずだ 合格までの勉強の道のりが全くの無駄である事を
合格者達よ 学長は偉そうに言うであろう 「合格がゴールではない」と
合格者達よ 決して考えてはいけない この調子でがんばろうとは
合格者達よ 東大に入るという事は これまでのすべてをリセットする事に等しい
合格者達よ 諸君の新しい学長は言うだろう 「東大は自由な大学です」と
合格者達よ これまでのことは 忘れなさい
合格者達よ 周りの人々は 何もしてくれない
合格者達よ 六年後に この合格発表を 思い出さないよう 全力を尽くせ
もともと、入学した大学には興味が無かった。研究室はもちろん、受けてみたい講義もほとんど無いことは受験する前から分かっていた。
その大学を選んだ理由は受験すれば確実に入れることだけだった。親からは浪人だけは絶対に禁止されていたので、受かる可能性は低い、本当に入りたかった大学にはチャレンジしようとは思わなかった。どう頑張っても、センター試験の結果が足を引っ張ってしまい、二次試験ではかなりの高得点を取る必要があった。そんな実力はその当時の自分には無かった。だから諦めた。
幸い、その大学には編入試験があり、大学生も受け入れてくれる心優しいところだった。高校生の自分はとりあえず別の大学に入学して編入試験で本命の大学に入学できるよう頑張ろうと考えた。
高専出身の人なら分かるだろうが、たいていの大学は三年次から編入することになる。これは編入する前に取得した単位は編入先の単位として認定されるからだ。もちろん、編入先でも開講している講義だけが認定される。一般教養や基礎科目なら十分単位認定されると考えていた。しかし、専門科目になるとそうは言ってられない。何しろ専門が違うのでせっかく取得した単位もほとんど認められない。つまり、編入しても入学した瞬間に留年が決まるということだ。
編入試験を受ける前提で今の大学に入学するという旨を両親に話すとあっさりとOKを貰った。もちろん、もし入学できても合計四年では卒業できないことは伝えている。その当時は、なぜ浪人はダメで編入は良いのか不思議だと思っていた。両親は予備校にカネを払うのが嫌だっただけなのかもしれない、というのが今の自分の仮説だ。理由は後で書く。
原因は分かっていた。アルバイトだ。
今の大学に合格した後、真っ先にアルバイトをした。編入試験や今の大学で使うのに必要なお金を稼ぐためが最初の目的だった。しかし、いざアルバイトをしてみると、高校生のときとは比べ物にならない大金が銀行口座に振り込まれていた。高校生のときに欲しかったものを買い、あっという間に減っていく預貯金。そのために働く。その負のサイクルの繰り返しだった。その間の編入試験の勉強はなおざりだった。結局、編入試験直前になってもアルバイトを辞めず(量は減らしたが)編入試験に臨むこととなった。少し言い訳をするなら、編入試験で出る範囲の半分は二年次の講義内容だったというぐらいか。もちろん、そんなことは入学するときに頭のなかでは分かっていたが。
どうしても、やりきれなく思い、両親に来年も挑戦させてくれと懇願した。両親はあっさりとOKを出した。もし合格しても、やっていることは一浪、一留と同じことだ。この辺から両親の予備校嫌いかもしれないという仮説を立てた。
他大学からの編入には六十単位程度取得する必要がある。そんなもの二年次の前期にはすでに取り終わっている。もう一つはその大学に二年以上在籍したという証明が編入試験を受ける条件だ。
今の大学には在籍しているだけで良い。それだけでもう一度編入試験を受けられる。そう思ってしまった途端、今の大学に対するモチベーションが無くなってしまった。少しは受講している内容に興味を向けようと思っていても全くできなくなってしまった。もともと興味も無い状態で入学したのだから当たり前なのかもしれない。きっと後期の単位のほとんどを落としているだろう。テストを受けているとき、頭の中ではこの解法を使えばいい、と分かっていてもどうしてだか自分のシャープペンシルは動かないのだ。それでも、最初の方は無理やり手を動かして答案を書いていたが、後半になるにつれて全く手が動かなくなってしまった。わかっているのに書けないという気持ちは初めてだった。そのままテスト終了時刻までフリーズしてしまう。専門科目をほとんど落とすことになるので、この大学でも留年は確定しそうだ。
在学証明書やその他諸々の書類が編入試験には必要なので、このまま三年次に上がることになる。
もし、また編入試験に不合格だったらと思うことがある。これ以上編入試験は受けられないだろうと思っている。そうなった時、はたして今の大学に行く意味があるのだろうか。
そわそわそわそわ全然落ち着かない。
それは本当によかった。
それが競争がハイレベルなラインできつくなるということなのか、出来る子にはできる問題であり、かつ本人に相性のいい問題であったのか。
傾向もかわり、多くの受験生が対策してたであろう問題が出なかったらしいし、でも普通の学校のテストのような基本的な問題が出たと当人は言ってるし。
この学校、倍率は高いし、小規模校だから情報も少なくて安心も懸念もできなく本当もどかしい。
あーー!!!もう早く楽になりたい!合格発表見にいくの想像しただけでゲロ吐きそう。
色々考えると怖くて仕方ないけど、私の人生ではなく、彼の人生だから、結局は見守るしかできない。
どういう結果であれ、それが当人の人生にとって良いものとなりますように。
結局はそこなんだと自分に言い聞かせる。
良かったこと
その他
自分の人生最大の挫折は間違いなくローに上がれなかったことなので、2年半かけてリベンジを果たせて良かった。
祖母が一年半ぐらい意識がないまま、とうとう亡くなったのですが、これで祖父母は全員亡くなってしまったので、次は両親の番だと思うと恐ろしくなった。帰れるときは帰ろうと思った。だから次の一年も札幌にいることにした。
ちょうど49日が合格発表の頃で、これは祖母の形見だと思う。いいおばあちゃんやろ。
内定をくれた事務所にしろ、友人たちにしろ、自分が好き勝手生きていても、自分を好いてくれる人たちがいてくれるので、そういう人たちを大切にしようと思います。
導入中に明治神宮でおみくじを引いたところ、広い心を持て、と書かれていたので、その点には気をつけつつ、楽しそうなことに首を突っ込み、自分の欲求に忠実に、愉快な一年を過ごそうと思います。
小学校6年生の時だろうか、私の左脇の下に小さなおできが出来た。
脇の下中央、目立ちやすいところに約3mmの丸い突起物、弾力があり引っ張るとすこし痛い、私の脇の下とごく薄い皮でつながるおできだった。中学校に上がる際、水泳のときなどに不便があるだろうとおできの治療(定期的に液体窒素をおできにかけ小さくしていく療法)をしに行ったが、液体窒素をかけるときのあまりの痛さと、定期的に通うという面倒臭さに負け、一回でやめてしまった。それから私は8年間、左脇の下のおできとともに成長し、生きた。大学受験の合格発表を母と見に行った日も、朝まで友人と将来を話した日も、初めて大好きな人に告白して振られた日も、私の左脇の下にはいつも約3mmほどの小さなおできがいた。
先日お風呂に入ってなんとなしに脇の下を触ったら、おできが石のように硬くなっているのがわかった。見ると、衣類の糸がおできに絡まって血が止まり、赤黒く硬化していた。
硬化したおできはまるで自分の体の一部ではないようだった、つねっても痛くなく、まるでふいに体にくっついてしまった小さなゴミのように、かろうじて私の脇の下にひっついるようだった。そんな風にコロコロと指でいじっていたら、ついにおできは私の脇の下からポロっと取れてしまった。取れたおできは黒かった。絶命の原因の白い糸が、おできと私をつないでいた薄い皮に巻き付いていた。その後もしばらく眺めていたが、うっかり手を滑らせておできを風呂場の床に落とし、失くしてしまった。奇しくも20歳の誕生日の2週間前のことであった。
8年間なんとなく嫌だったおできと別れ、これからは「左脇の下におできがない女」として生きていけることが嬉しい。これからはノースリーブを着ても躊躇なく両手を挙げられる。脱毛サロンに行っても恥ずかしくない。けれども、体を洗うとき、剃毛するとき、私はもういないあの時のおできのあたりを、つい触ってしまうのだ。
4歳上の兄が先日一級建築士の製図試験(2次試験)を受けてきた。まぁまぁの手応えだったようだ。
兄は中学生くらいの頃から建物を見たりデザインしたり、そういうのが好きで高校の進路選択も迷わず理系、建築系の大学を志望した。
ある意味、長年の夢の成否が、箱根駅伝で言えば、丁度、往路のゴールテープを切ろうとしているところなんだと思う。
兄は、頭が物凄く良かったわけではないが、クラスの人気者、運動神経もよく、部活も高3の夏引退まで続け、
その後猛勉強、中堅高校から現役でMARCHの建築学科に進学、まるで予備校のパンフレットに載ってそうなサクセスストーリーだった。
兄は、第一志望の国立大には残念ながら落ちてしまった。そこは物凄く悔しそうだったし、当時中学生の自分から見ても可哀想だなぁと思っていた。
兄は、大学で未経験ながらある体育会に入って、主将まで務めていた。理系で製図が大変そうなのに、寝る間を惜しんでバイトしたり、練習したり、辛そうだけど生き生きしていたとおもう。
もちろん、それの裏には血の滲むような努力をしていただろうことも十分わかる。
憧れの教授がいるとかなんだかの理由で英語ができないのに、授業が英語ばかりの研究室?院?に入学した。
学部時代の成績が優秀で、院の授業料は免除になっていた。お前、体育会の主将で、、何か才能を分けてくれよ。
それで、就職2年目、就職してから毎週末は建築士の勉強をした結果、今にも夢を叶えようとしている。
一方、弟である私は、兄よりは頭のいい高校に進学、そこそこの成績を保っていた。ただ、部活は途中で辞めてしまったし、クラスではどちらかというとインキャ軍団で少し輝いている程度だった。
多分、自分と同じくらいの成績の、高3夏まで部活もやってて、クラスの人気者タイプが自分の入学した国立大に受かって、自分が落ちてしまうビジョンが死ぬほど怖かった。
その国立大で叶えたい夢とか進路とかそういうのはまったくなかった。
ただただ、その、落ちて負けたくない、周囲に後ろ指を刺される感じが嫌だというインセンティブで勉強していたと思う。
そもそも、文理選択のときすら、なんとなく〆切前日になって理系から文系にチェンジしたし、これが得意とか、あれが苦手とか、そういうものもなかった。
大学ではそこそこの体育会に入って引退し、まぁまぁの企業に内定を貰い、可もなく不可もなくな人生を歩むのだろうと最近何となく思う。きっと。
特に、親友らしい親友はこれまでできたこともないので、そのまま会社に入っても適当な立ち回りで、下の上くらいのポストについて、そのまま死ぬんだと思う。
全てが中途半端。
兄より勝っている所、それはペーパーテストの点数と学歴くらいだったが、社会に出ればそんなのはもうほぼほぼ関係ないだろう。
夢に向かってバイタリティあふれる人間と、夢のないただ漫然と生きている人間の差をいよいよ痛感させられる時が間もなく来るのだろう。
お菓子なんて興味もないし、そもそもそれほど好きでもないし、大学に進学するのが当たり前のそこそこの高校だったから、そんな選択肢はすぐ捨象してしまった。
小学生、中学生と振り返っても「将来の夢」というような作文が大嫌いで、書くことが最後まで思いつかなかった。
「俺はパイロットになりたいんだ」「私は犬が好きだからペットの関連のお仕事がいい」「水族館で働いてみたいなぁ」
なんでこんなことを周囲が平気で口に出すのかわからなかった。
夢を語るのが恥ずかしいと思っていた節もある。
夢なんて殆どのやつは叶わないんだろう、って冷めた目で見ていた節もある。
でも、22歳になって、夢があるってかっこよかったんだなって思う。というか、羨ましい。
夢のない小学生なんて、可愛くもないし、絶望している虚しい存在、俺が親なら心配するはず。
兄はいよいよ往路のゴールテープ目前。復路は建築士としての更なる飛躍の人生だろう。
公募推薦で大学に入った。都内の国公立大だ。夏休みのおわりに、受けようと決めた。予備校にもとくに行かず。家に金がないので、とりあえず受けて受かったら私大の受験料も浮くしいいなと思った。どうせ受からないだろうし、ということで担任と相談して、一般で受けようとしていたところの少し上を狙うことにした。結果、受かった。受かる気が0だったからネットでの合格発表の日にちも忘れて、見ていなかった。担任に受かってたよと言われた。そして合格通知が郵送されてきた。あれは驚いた。周りにバレると面倒だと思ったので、一般の人に混じって変わらず勉強していた。センターは、もと受けようとしていた大学はB判だった。今の大学はD判だったけど、向こうが勝手に選んできたのだと開き直って何の迷いもなく行った。二年目だけど今の所フル単。テストは正直余裕だった。嬉しい。推薦で入ったから不安だという人、大丈夫だ。英語と専門の基礎だけ勉強しておけば何の問題もない。
この前、受験のとき面接してくれた教授と二人で話した。私のことを覚えてくれていた。ロクに練習もしないで行ったので、口から出まかせを言っていたがバレていたみたいだ。面接は小論の内容の理解を見るのと、人格破綻者を落とすためにやってるから、内容はあまり関係ないのだと笑っていた。私の受け答えはそれでも覚えているような内容だったと。恥ずかしい。特殊な部活をしていたから「死にそうな目にあいましたが、おかげで命がかかった咄嗟の判断にも長けていると思います。今突然包丁を持った不審者がここに入ってきても、冷静な判断ができます」と真顔で言ったらしい(覚えていない)。勿論てきとうに言ったんだろうけど、それが特に先生のツボだったそうだ。推薦の面接なんて、案外こんなもんなのかもしれない。(この大学だけかもしれない)
推薦なんて正直まともな人間が入ってくる確率が少ないと思うので、大学側から考えたら今すぐやめた方がいい。こうやっててきとうな人間も入れてしまう。それでも大学側が続ける限り、それを享受するのだってアリだろう。大学での勉強はハイレベルな学校だけあってまぁ楽しいので私は感謝している。
推薦で入って今後が不安なやつ、付いていけないやつは、自分が悪いんじゃなくて自分なんかをとった大学が悪いんだと考えるといい。自分を責めると頭がおかしくなるから。バカキャラをやって、馬鹿にされながらも強請ってみんなに教えてもらえば、センターすらD判の私のようなやつでもフル単できるんだから。
みんな推薦を使おう。あんまり対策しなくても運が良ければ入れる。落ちて当然と思っておけば、メンタルもたぶんやられない。受けに行く二日ばかし無駄になるだけだ。きっと同じことをやるなら、少しでも上の大学の方がいい。気がする。私は実際、この大学に来られてよかった。本当に面白い教授がたくさんいる。
指定校は、周りにいなかったからよくわからん。AOはけっこう大変なのかも。公募推薦は学校にもよるけど倍率はそこまでじゃないし、高校でそこそこテスト勉強さえしてれば受験資格ゲット。