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はてなキーワード: 反抗期とは

2016-12-25

自分の娘にコンドームを付けない男とは別れろと教えられるのか

娘まだ一歳だけどさ、彼氏ができるような年頃になったら、コンドームを付けないような男とは絶対に別れるようにと教えたいけどさ、思春期反抗期に親にそんなこと言われて素直に従うのだろうか。むしろ反発して絶対に別れない!とかなりそう。

娘に自衛のためコンドーム待たせた方がいいのかもしれないけどさ、コンドームもってる女子高生なんてやる気満々みたいで嫌でしょ。彼氏にこれ使って、なんて言えるか?

なんで持ってるの?ときかれて、親がくれた、とかドン引きだよね。それで学校で広められたらお終いな気がする。

でもコンドーム付けないようなクルクルパーとは絶対に別れた方がいいじゃん。でも10代の恋愛なんて娘の方がクルクルパーになってる可能性大だし、ほんと大丈夫なんだろうか。

自分は親から性教育的なこと一切されてないけど、よそのご家庭はどんなもんなんでしょ。

2016-12-24

教育現場新卒殺したいなら担任しろ

教員免許国家資格なのは子供を預かり教育することがどれだけ重要なのかというのことを表している。

それなのに国や各自治体は何食わぬ顔で教育現場経験新卒担任にする。

昨日まで学生だった22、3歳の彼らは突然30数人の子供を預かることになる。思春期反抗期に入った子供は実の親ですら分からなくなる時がある。それなのに国はそんな子供達をまだ何も知らない若者に放り投げる。若者若者なりに考えてやるものの、ベテランと同じ仕事をできるわけがない。普通会社ならここで「すぐにベテランみたいになれるわけがないんだから失敗しながら頑張れ」と自分を慰めることができるかもしれない。しか教育現場ではそうはいかない。学校というのは子供にとって大きな影響を与える場所である大人になっても学校での良い経験、嫌な経験を覚えているように感受性が豊かな子供の頃は、学校ひいては教員存在は大きいのだ。つまり大人にとってはただの失敗でも子供にとっては数十年経っても忘れないトラウマになることだってありえるのだ。

そんな大事仕事する新卒のために、多くの自治体では事前研修などをしない。

4月1日になると現場に放り出され、6月7月になってからやっとクラス経営指導方法といった研修が行われる。おせーよ。

周りの教員も忙しい年度始めにきた新人など相手にしている暇がない。嫌がらせではなくそこまで心の余裕が持てない。孤立する新人思春期の子供、忙しさで苛立つ同僚、おなざりになるプライベート。そりゃ死ぬわ。

国や地方自治体の人が見てるならどうか分かってほしい。研修は事前にやらなければ意味がないということ。土日の部活をすると週7勤務になること。新卒副担任から始めるように義務づけること。

そうしないと真面目でストレスを抱え込むタイプ教員死ぬぞ。

2016-12-14

家族団らん!?

家族団らんって何?

一緒に食べていても、子どもは私の子供なのに継父に懐いて私には目も合わせず、話も継父にばかり

私が話に入ろうとしても、明らかに邪魔って感じで見るし話聞かないし、何なの?

あんまり腹が立ったから、目の前のPCヘッドフォンつけて、耳にあてて音楽聞きながらご飯食べたわ

そしたら、旦那が喋ってきて。。聞こえてないっちゅーの!てか、見たらわかるのに、喋りかけてその後に

「喋ってたの聞こえてなかったの?」って、すっっんごいアホな質問してくるの、はぁ???

わざと、そうしてたって、わかってるハズなのに、なんなの???

私の存在ってなんなの???バカみたいアホみたい

贅沢な悩みなんかもしれないけど、最近はそんな事ばっかりで、頭にきてたからさ・・・・・

話の内容もそりゃあー、継父の方が色々知ってて子どもはたのしいんでしょーよ。でも、私も知ってる話題でも

話に入ろうとしても、何で嫌がる???一体何が悪いの?

やっと、反抗期も落ち着いてきて少しはイイ感じになったかと思ったら、こんな仕打ち???

もう嫌だ!!!!!

旦那は気をつかってるけど、基本私の事とか放置プレイだしね

意味があるらしいけど、ほっておかれた方はもうーーー発狂しそう!!!

で、一家団欒の時にその態度ってどうなの?って素で聞いてくる旦那。。。もう、わけわからん

普段からPCゲームとか一緒にやってて私の入る所がない。。。。

困った時だけ、言ってくる。。。

全て放棄したいけど、出来ない所が辛い親心・・・

知らない土地・知り合いもいない、どこにも行くところがないのに、家にまで居場所がなくなったら、どうすりゃいいのさ

毎日地獄・・・

2016-11-25

美人に産まれたかった

母は美人である

歳を重ねたけれど、ぱっちりとした二重にすべすべの白い肌。

昔の写真を見たが、まるで女優みたいに綺麗だった。

父は不細工の部類に入ると思う。

色黒で、顔が大きく、目は細い。

これがそっくりそのまま私に遺伝した。

せめて肌くらいは母似の色白になりたかった。

娘は父親に似る、というけれどこれはあまりにも辛いことである

母似に産まれていたら、きっともっと楽しい人生だっただろうにと思ってしまう。

でも遺伝なので仕方ないことである

顔は不細工だけれど、何不自由なく育ててもらった。

まれている部類に入ると思う。

「〇〇はあんまりパパに似なくてよかったね〜」

と直接母に言われたとき、私は苦笑いしかできなかった。

だってどう見ても、私は父親なのだから

父は性格がよい。

穏やかだし、煙草も吸わない、ギャンブルもしない。

理想的父親だと思うし、反抗期というものもあまりなかった。

母はしたたかだと思う。

すごく外面はいいけれど、父の愚痴をよく言う。

今の時代だったら、父と結婚しなかっただろうと話す。

母なりに事情があるのだろう、私には計り知れない何かが。

私は我儘だと思う。

幸せな家庭以上のことを望んでいる。

美人に産まれたかった、とやっぱり思ってしまう。

エラも頬骨もはっている顔を綺麗さっぱり取り去りたいと考えている。

整形してる人って今どれくらいいるんだろう。

沢山チェーン店があるということはそれだけ需要があるんだろうな。

と思ってちょっと恐くなった。

2016-11-15

じーちゃんが死んだ

大好きなじーちゃんが死んだ。

息を引き取ったのは先週だったけど、葬儀場の予約が取れなくて、結局今週末まで自宅で安置する事になってる。

ばーちゃんが認知症ってこともあって、同居してるおじさんもずっと見てられないってことで、孫の俺が泊まり込みで世話してる。

認知症っていっても、徘徊するとかそういうレベルではなく、数分前、数時間前、数日前の記憶が全くなくなる程度のものだけど、

一般的に言う老人の"ボケ"よりは、相当深刻な状況。

葬儀に使う写真やら、毎日来る親戚への対応やら、戒名やら、墓地やら、事務的な準備でおじさんのサポートをしている。

私の母はもともとヒステリー持ち?というかADHDぎみの所があり、ここ数年は伯父と認知症祖母と3人で揉めていた。

冷静に話しをまとめられるのは私だけだということで、毎回仲裁役というか、方針決定や意思決定をしているのだけれども、

今回もその仲裁役として、孫である私が毎日世話することとなっている。

父親は長くから海外勤務で別居状態10年以上続いているため、サポートは期待できない。

母が葬式の準備や認知症祖母対処で、伯父、祖母で怒鳴りあいになるたび、仲裁してたのだが、今日、遂に私が切れてしまった。

これまでの母親への不満が限界を超えてしまった。

20代後半にもなって、泣きながら、取り乱してしまった。

もちろん母親ヒステリー拍車をかける結果になり、いい歳して母親に頭をグーパンで殴られてしまった。

伯父の仲裁もあり、落ち着いて皆で話し合ったが、相変わらずばーちゃんは意味のわからないことを言っているし、

母親は、私は何も悪くない。私は何もできない人間なのに家族であるお前が優しくしてくれないのは酷い という主張。

まぁこれは、生まれからずーっと言われてたことなんだけど。

落ち着いたあと、思ってること話せって言われたから、

母がヒステリー起こすと、私が幼い頃母が包丁を持ち出した事が思い出されて、辛いと伝えた。そしたら、

だって受験期のお前に殴られた事あるから、それでチャラにしろと言い返された。

うーん、反抗期の子供の態度と、小学校低学年生に包丁持ち出すのって、イーブンなのかなーとか思ったけど、言い返せなかった。

明日も来るのかと聞かれ、

じーちゃんの為だけにも、俺は投げ出さな

と呟いたら、

私の為ではないの?と泣く始末。

もう理解不能

仕事も行けず、俺もストレスがたまってきてしまっていて、なんか書き出さないと落ち着けいから書いてみた。

読み返してみたけど、結局は、大変だったんだねって言って欲しいかまってちゃん丸出しだし、自分クソだなってなってる。

母親母親で辛いはずなのに、それをカバーしてあげなきゃいけないんだろうなーとか思ったりするけど、

なかなか、難しい。

野菜運動瞑想解決するかな。

今日は一旦帰宅することになったけど、明日もばーちゃんの面倒で揉めるだろうし、事務仕事残ってるし、

母親に、逃げ出したと言われるのが嫌だしなー

2016-11-12

http://anond.hatelabo.jp/20161112185046

お父さん大好きな女

反抗期を逃した

すっかりおじいちゃんになった今となってはケンカもできない

2016-11-07

http://anond.hatelabo.jp/20161107130534

父が死んで後悔するパターンかと思ったら違った

反抗期といっしょで、嫌悪するようになる場合とそうでない場合があるんだから、どっちが正常とかいうのはないんだよな

父を気持ち悪いと思った過去

先日話題になっていた増田

「娘が気持ち悪い」http://anond.hatelabo.jp/20161102211759

を読んで、昔の自分を見ているようでとても懐かしい気持ちになった。ちなみに私は娘さんの立場です。


私の父は私にとても愛情深く接してくれました。小学校の時、クラスメイト男の子ケンカをしてケガをした時、家に帰って来て母親から話を聞くなり、「うぉぉおお!!俺の娘に、何てことしてくれるんだぁぁああ!!」と突如絶叫して家を飛び出し、暫くして「相手の子の家に怒鳴り込もうと思ったけど、よく考えたら家の場所を知らない」としょぼくれて帰って来るような、私のこととなると見境のなくなってしまう、ちょっとお馬鹿な人でした。私はそんな父が大好きでした。


小学校中学校くらいはそんな父ととても仲良くしていたのですが、私が高校に上がったころ、ある時を境に何故だか父に対し、「気持ち悪い」という感情を抱くようになりました。父は同世代男性比較すると、適度にオシャレにも気を使うし、ハゲでもないし、デブでもないし、清潔感のある男性だったのですが、何故だか父親匂いが嫌だ、と感じるようになりました。次いで休日ちょっと伸びる無精髭が気持ち悪い、洗面所に置いてある髭剃り、歯ブラシ気持ち悪いと次々に父の所有物、如いては父自体嫌悪感を感じるようになりました。


ある日、部活が終わって家に帰ると父が先に帰宅していて、玄関に靴が置いてありました。私は瞬時に「あぁ、この靴と私の靴を近くに置きたくない」と感じ、父の靴を玄関の外に出しました。何の気もなしに、パパッとやってしまったんです。翌朝、父が出勤する際、「あれ?靴がないよ」と言い、母を呼びました。「ないよー?なんで?なんで?」と靴を探す父と母を、私は見て見ぬフリをし、リビングテレビを見ながら朝食を食べていました。暫くして、父を見送った母が戻ってきて、「あなた、お父さんの靴外に出した?」と私に聞きました。私は「臭かったから。外に出しておいた方がいいと思って。忘れてた」と答えました。母は「そうだったの」と、答えただけでしたが、母はあの時点で私の変化に気が付いていたのだと思います


その数日後、私は母に「洗濯するときは父の物と分けて欲しい」とお願いしました。母は私に、前述の増田についたブコメのようなことを一つ一つ教えてくれました。人間動物であり、父に嫌悪感を感じることは正常な働きであること、自分も昔同じ経験をしたから、私の気持ちも十分にわかるということ。最後に「でもお父さんはあなたが大好きだから。それを言うと絶対に傷つくから。なにかこうしたい、ということがあれば、母さんに言ってね」と言ってくれました。その後少しすると父専用の洗濯籠が登場しました。私と母の服はほぼ毎日、もしくは二日に一回洗濯機を回してましたが、父は洗濯籠に1週間分の洗濯物を溜め、週末に自分で洗って干していました。父は特に私に何も言わず淡々としていました。その時の私はそれを見て(いや、実際臭いし、気持ち悪いし、当然でしょ)という思いしかなかったのですが、その後、父の思いを、辛さを痛感させられることになります


ある夜、父がシュークリームを買ってきました。私の大好物です。「よかったら食べて」と言いながら、シュークリーム冷蔵庫に入れる父を私は無視しました。シュークリームは何日も冷蔵庫に入っていました。賞味期限がどんどん近づきますが、私は父の買ったものが食べたくないので放置していました。ある日の夜、キッチン飲み物を取りに行くと、父がリビングシュークリームを食べてました。チラッと一瞥をした私に、「ゴメン。賞味期限切れたから」と父は言いました。私は少し胸が痛くなりました。けれど、そこでも父を無視してしまいました。


父はどちらかと言うとインドア派で、休日は家で読書をしたり、レザークラフトをちょこちょこ作ったりする人でした。けれど私は父と同じ空間にいたくなくて、休日に父が家にいれば私は外出、父がいなければ私が家にいる、というような状態になりました。しかしあるタイミングから休日に父が家にいることがなくなりました。


そんな生活が続き、高校3年に上がる頃、父が事故に巻き込まれました。

土曜日のお昼に家の近くの交差点で、わき見運転をした車に突っ込まれ、頭を打って病院に運ばれました。家に電話が来て、母と大慌てで病院に向かいました。父はICUで呼吸器を付けて寝ていました。お医者さんが頭を強く打っていて、危険状態であり、意識が戻っても障害が残るかもと言いました。号泣する母を見て、私は「こんなドラマみたいな展開が自分家族に起こるなんて」と急な展開に放心しながらも、どうして父にあんなに冷たく当たってしまったんだろう」と激しい後悔に見舞われました。父は何とか一命をとりとめ、搬送から三日後に意識を取り戻しました。けれど障害として、右手の親指から人差し指にかけて痺れが残ってしまいました。一方でこの程度の障害で済んで本当に良かったと、車がガードレールにぶつかってから父に突っ込んだため威力が落ちていたが、場合によっては即死でしたとお医者さんが後から教えてくれました。


父が入院している最中、私は母に「お父さんはどうして事故に巻き込まれたの?」と聞きました。母は「自分で聞きなさい」と、それしか言ってくれませんでした。ある日、私だけで父を見舞いに行ったとき、父に前述のことを聞きました。父は「俺が家にいるとお前が休日家で休めないだろう。だから、外でブラブラしてたんだ」と言い、「俺インドア派だから外での過ごし方がイマイチからなくて、でも最近は水切りにハマってさ、昔よくやったんだけど、河原でこう…石を探すんだよ。できるだけ平べったいヤツを。それをな…」と説明しながら動かす右手が痙攣していて、それを見た私は堰を切ったように号泣してしまいました。相変わらず馬鹿な父にではなく、自分事故の原因だったと知って、それでも私を責めない父に申し訳がなさ過ぎて、私は子供のように、過呼吸寸前になりながら病室で泣きました。「ごめんなさい!ごめんなさい!」と繰り返す私に、父は「母さんから全部聞いていた。暖かく見守ってやってくれと言われた。父さんはお前が大好きだから、お前が頑張ってるなら、父さんも我慢しようと思って」と言いました。その瞬間、私は今まで何を父にしてきたんだろう、父がどんな思いで過ごしていたんだろうと自分が恥ずかしく、情けなくなりました。これが、私の父に対する嫌悪感の終わりです。


あれから10年程経ち、今では周りが不思議がる程、父親とは仲が良いです。父は私に「お前が責任を感じることは一切ない、むしろ不安にしてしまって申し訳なかった」と言っていますが、やはり当時のことには負い目を感じています。「娘が気持ち悪い」の増田さんも、別エントリで娘さんの行動に理解を示すことができた、と発言されていました。世の全ての娘が父親に対し、嫌悪感を抱くとは限りませんが、ブコメにもあった通り、やはり動物である限りは本能の上でしょうがないことだと思います。一方で、やはり人生の先輩である両親が、こういったことに理解を示し、適切な対応を行うことで乗り越えることができる、しかも乗り越えることで更に親子の愛情が深まる大切な時期(イベント)だとも思います。当該エントリを読んで、自身過去を思い出し、勝手に書いてみた次第です。自身過去正当化するつもりは更々ないですし、我が家対応が正しいかったともいえないですが、これが少しでも世のお父さん、娘さんのご参考になればと思います

追記(11/8)

一晩明けてみたら、とても多くのブコメが付いていて、初めてのことに驚いています。厳しいご意見ありがとうございます


私が父にしたことを本能から(議論はあるようですが)と正当化するような書き方をしてしまい、反省しています。私が父にしたことは最低なことで、それはゆるぎない事実です。私が書きたかったのは、そんな馬鹿娘を両親が両親なりにサポートしてくれた、そのことへの感謝でした。今こうして上のようなエントリを書けるのは、両親が「あの時はね」と私に話してくれたおかげでもあります


冗長になってしまうかと思い割愛したのですが、例えば父が自分洗濯をしたことに関しては、両親の話合いの結果だったと聞きました。母は洗濯物を分けるのなら、私の分だけを分けて、自分洗濯をさせると発言したそうですが、父が「自分理不尽発言のせいで、父親自分洗濯を行う姿を見て、何か感じてくれれば」と諭し、結果的にそうなったようです。


私自身、あんなに好きだった父を、何をされた訳でもないのに嫌悪感を抱くようになった時は戸惑いだらけでした。母は父を大好きでしたので、母に影響を受けた訳ではないですし、周囲の友人の中でも、父親と仲の良い子はたくさんいました。けれど、何故か父を気持ち悪いと感じてしまった。ちょうどあの頃「異性」というもの意識し始めて、一番身近にいた異性が父親で、どう接してよいかからなくなっていたのかも知れません。今となって後付けで理由を付けることはいくらでもできますが。


父は「親の立場を利用して、なりふり構わず娘にいう事を聞かす真似はしたくない。一つ一つ自分で気が付いてくれれば良いと思った」と母に言っていたそうです。私はこんなにも勝手なことをしていたのに、両親が一生懸命に考えて私を導いてくれた、そのことに感謝してもしきれません。


「父が事故に遭わなければ最後まで気が付かなかったのでは?」というご意見も尤もです。両親は「いや、いずれは気が付いてくれてたよ。少しづつ変わってたよ」と言っていましたが、我が家のケースは結果論しかありません。


今私は結婚して、男の子が一人います。夫にこの話をしたとき、「もしかたらこの子もすごい反抗期を迎えるかも知れないけれど、一緒に考えて解決していこう」と言ってくれています。こんな風に思え、考えられるのも両親の教えがあったからだと心から思います


意見いただきっぱなしなのも悪いなと思い、少しだけ追記させていただきました。たくさんのご意見ありがとうございました。

2016-10-27

この季節になると思い出すこと

小学生の時、親が離婚して片親になった

祖父も早くに離婚してて一人暮らしだったけど、なんか病気したらしくて病院に行くのも大変だってので母親と一緒に住んで在宅介護してた

元々常日頃から怒声罵声に杖や拳が飛び交う感じで、母と祖父の親子仲はあまりよくなかったのかもしれないけれど、

ある日の夕食中、いつも通りやたらと横柄な祖父にブチキレた母親が、奇声を発しながらコンクリの土間に皿を叩きつけて割りまくり始め、

ジジイは怒鳴るし、オカンも叫ぶし、皿は飛び交うし、何かでどこかを切ったのか血は噴き出すしっていう状況になってしまった

アホらしいし投げられてたのが自分の茶碗ってわけでもないから直接関係ないと思って、引き続き「サンマ美味しいな♪」って食べてたら、途中からなぜか俺が二人がかりで怒られ始めた

すごい剣幕で両サイドから怒鳴られながらも頑張ってサンマを食べ続けていたのに、遂にサンマを取り上げられて、あえなくサンマフライハイ

正直あまり細かくは覚えてないけど、おそらく「オレ サンマ クウ ……オイシイ!」ぐらいしかその時考えられなくなってたっぽい俺は、

土間に落ちたサンマをジッと見て「まだいける」って言って床に座ってまた食べ始めたらしい

後はもう殴られても転がされてもドつかれても何言われてもサンマのところに戻って絶対サンマ食うボーイと化して、

最後には意地でもやめさせようとして引き剥がそうとする母親祖父に向かって「いいかポン酢よこせや!!」と大声でキレて、

土間のサンマをおいしく完食してごちそうさまと言って部屋に帰っていったらしい

祖父が死んだあと、それが初めての反抗期だったとかしみじみ言われて、今もよくその話をされるけど、

聞けば聞くほど、いやそれ絶対俺どっかぶっ壊れてんじゃねーか笑い話にするなよって思う

正直、この話の登場人物は全員どこかおかしい気がする

でも、あの時の地べたサンマが猛烈に美味しかったことだけはなぜか鮮明に覚えていて、結局あのサンマを超えるサンマにまだ出会えていない

書いてて思ったけど、単に口の中が切れて血合がよりブラッディでジューシィになってただけかもしれない可能性に今気付いた

今夜試してみよう

死ななくてよかったなーって話

吐き出したいだけなんで文章破綻してるしわかりづらいよ

物心いたこから高校卒業するまで生活保護受けて生きてた

たぶん小学生1年生の頃からすでにナマポだったか

父子家庭父親無職だったか

母とは私が3歳の頃離婚したらしい。

理由は母と父でそれぞれ言い分が違ってて、母は「脅されたから」とか、父は「あいつが男作ってた」とか。まあどっちも濁してたし本当の理由わからん。今さら知ろうとも思わない

んで父に引き取られてナマポで生きた。子供がいると受給やすいのかな?

父はなんというか欲望に忠実なやつで、金が振り込まれると大抵ゲームを予約したりネットゲーム課金したりした。

子供にせがまれれば物を買ってやってたしケチなわけではない?でも子ども手当存在子供に隠して新しいパソコンを買ったりしてた。

あとネトゲでできた彼女に会いに子供置いて九州行ったりとかもあったな。その時従姉妹の家に預けられて性に目覚めたような気がする。

父との外出の思い出、映画館まで行って実写デビルマン見て(私は寝てたけど)ゲーセン寄って帰った。そんだけ。

あとちょっとDV気質だったのかな?姉がネトゲいじってプレイヤーキャラ殺しただけでぶちギレて壁に穴開けてた(私と姉はすみっこで震えてた)

父に「無職の癖に」って姉が言ったときフライパンで殴られかけてた。直接やられたことはないけど。

私自身の話も書こうと思ったんだけど全然書けないわ。しょうがないので思い付くことだけ書く。

父のことはそんなに嫌いじゃなくて反抗期も無かったんだけど、なぜか高校2年生あたりから急に父のことを死ねばいいと思うほど嫌いになった。

卒業式にも来てほしくなかったくらいだった。放課後スクールバスを待つ時間姉と悪口大会いたこともあった。

そんなこんなで今年高校卒業して、母の助けも借りながら就職して家から離れた。

当然生活も変わった

手取り12万をひとりじめ!!初めて多額のお金自分のためだけに使った。もちろん携帯料金とか生活費あるけど、余裕のあるときは好きなことに好きなだけつぎ込めた。

ゲーム買って、ぬいぐるみ買って、雑貨品買って、本買って、お菓子買って、姉にお土産送って……と、子供の頃からずっっと欲しかった・憧れてたことをみんなやれた。

実は小さい頃からアイボンで目を洗うのに憧れてた。それもできた。

服とかアクセサリーとかは全然興味無かった。

それに社員住まいで食費がかから家賃格安ときた。仕事でも上司はみんないい人だし最高だった。

まー結局言いたいのは、死のうと思ったとき死ななくてよかったなーってこと。

文章じゃ伝わらないだろうけど色々辛かった。働くのが怖い、人が怖いと思って死のうと思ったことが何度もあった。

実際働いてみたらそんな思いも薄まった。

こんなことな高校生ときバイトしてお金貯めればよかったな~

仲良い姉とは離ればなれになったけど、こっちに休みがあれば押しかけてる。この間くそたかい肉を土産に遊びに行ってカラオケで歌いまくった。あと母と久々にあったとき名字変わってた。びっくりした

ちなみに父は甘ったれ理由バイトやめてまたナマポ受給した。お前援助できん?って手紙役所から届いた。野垂れ死ね

10/28追記

思った以上にコメントもらえて嬉しい反面驚いてる

父のことはスラスラ書けたんだけど、自分の思ったこととかまったく書けなかったから、微妙に辛い過去持ったやつがお金ゲットしてはっちゃけてるバカな話だなって読み返して思ってたんで。

なんか自分のこと書こうとしても途中で消しちゃうんだよね。精神的な邪魔があるのかな?心理学的な?

まあ家庭環境のおかげで自分人生の大半がめちゃくちゃになったのは間違いないね

コメントについて書きます

まず優しいコメントありがとう

父はかなりゲーム好きで美少女の出るゲーム特に好きらしかった。基本パソコンの前に張りついてたよ。

辛いことは順調に忘れてってると思う。子供の頃のこととか、高校なんて半年前に卒業したばっかなのに担任名前すら覚えてないわ。

父ははてなとか知らないんじゃないかな。はちまとか俺的ゲーム速報とかはよく見てたっぽい。

家族はお互いに助け合わなければならない」役所から書類にも似たようなこと書いてあったわ。知るかボケ

文章中だと子供は私と姉しか出てないけど兄もいるよ。私が中学上がる前に職就いて県外行った。LINE絵文字ごてごてのメッセージたまに送ってくる。なんでクソ父が親権取れたんだろうね。母が手放したんじゃないかと思ってるけどあんまり興味ない。

父は無駄ものを買わずに娯楽につぎこみたがる感じだったかアイボン買ってもらえなかったんだよね。アイボンだけじゃなくてメガネとか色々なもの買ってもらえなかった(生活保護で代金おりるの知らなかった)おかげで高校卒業するまで0.06の視力で過ごしたよ。ずっと目細めてたせいで卒業アルバムみんなゴリラみたいな顔になっとる。即ゴミ箱行きだったけどな。

あとはサイゼリヤにさえ行けば子供の頃の憧れは完全制覇なんだけど近くにないの残念。

鎮座ドープネス??似た歌詞があるのかな

最後自分の思ったことマジで書こうと思ったけど無理だったわ。

ほんとうにみんなありがとう

2016-10-17

冷蔵庫の中に期間限定栄養ドリンクを見つけた。

ここ最近暗い顔をしていた私のために、おそらく母が買ってきたのだろう。

普段から優しく、しっかり者のする心遣いはその意図とは裏腹に私の心を揺らした。

心配されることへの苛立ち、期待される恐怖として湧き上がる感情に私は冷蔵庫のドアを強く閉めた。

暗闇に浮かぶ心を覗くと、負の感情を繰り出した自己への嫌悪がうずまいている。

反抗期が遅れてきたか、と自嘲してみてもそれは消えず、嫌いな自分さらに増えるばかりだ。

そうして安易自己嫌悪螺旋を昇ったみても、何にもならないことはもう知っている。

けれどそこから飛び降りたとして、甘いりんごジュースの海に着水できるの?

そんなことばかりを思いながら、明日になるまで夜を過ごした。

2016-09-30

自死遺族宇多田ヒカルの新アルバムを聴いて思ったこと

18歳の夏、父が自殺した。

部活合宿中のことだった。

反抗期真っ盛り、いつも夜遅くに帰って来て母と口論してばかりの父と話すことなんてないと思ってた。

から最期に交わした言葉は覚えてない。

仕事トラブルから人知れずうつを背負い込み首を吊った彼は、棺の中で首元まですっぽり隠し、薄化粧の下でちょっと気弱そうな、いつもの父だった。

その顔を見た瞬間、思った。

「父を殺したのはわたしだ。」

もっと父の変化に気づいていれば、父を止められたかもしれない。

もっと父と話をしていれば、父は死のうなんて思わなかったかもしれない。

もっと父に笑顔を見せていれば、父はギリギリで思いとどまったかもしれない。

夜明けごろ、家族をかなぐり捨てても彼岸へ逃げたかった父は、どんな気持ちだったのだろう。

家族自殺者がいると知られたら、どんな目でみられるんだろう。結婚就活はどうなるんだろう。

自死遺族自殺する可能性は、通常の3〜5倍らしい。私もいつか父と同じ死に方をするのではないか

あの時から10年近くが経つが、後悔と自責不安は消えない。時間が経ち、考える頻度は減っても、その重みは変わらない。

父と死別していることは周りに言えても、その死因は恋人にも友達にも話せない。

このように自死遺族にとって、死者の話はタブーだ。その人を懐かしんで語ることは、見殺しにした自分には許されない。家族を助けられなかった罰として、あけない喪に服し続け、自分を守るために自死遺族であることを隠して生きている人が多い。

そんな中、宇多田ヒカルの8年ぶりの新アルバム「fantôme」の「花束を君に」を聞いた。

朝ドラ主題歌で耳では知っおり、柔らかな曲調とドラマの内容からほのぼのした歌と思い込んでいたが、改めて歌詞を見て、涙が止まらなかった。久しぶりにしゃくりあげて泣いた。

「今は伝わらなくても

真実には変わりないさ

抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に」

それは、母を亡くした一人の自死遺族が、前を向く為に書いた言葉だった。

そして、わたし10年間、どんなに探しても見つからなかった、自分を許してあげるための言葉だった。

なにより、歌詞内の「ありがとう」という言葉

いままで父を思い出すとき、「ごめんなさい」という気持ちばかりで「ありがとう」って思ったこと、なかった。

ありがとうって言ってもいいんだって背中を押された気がした。

宇多田ヒカルさん。

ずっと、欲しくて欲しくて、でも自分では与えちゃいけないと思ってガマンしてた救いをあなたはくれました。

自死遺族団体寄付をしたとかしてないとか一部報道がありますが、正直どっちでもいいんです。

あなたがまた歌をうたいはじめてくれただけで、ここで一人の自死遺族がやっと死じゃなくて生のほうを多く考えて生きていけるようになりました。

ほんとうにありがとう

【追記】

いままでのいろんな感情が溢れすぎて、肝心の曲名で誤字をしていました…。

修正してあります

いろいろな反響をいただけ、とても嬉しいです。

2016-09-22

わりと幸せだが会社では不幸だと言っている

聞き分けの良い娘2人、優しい嫁

そんなに金が有るわけでも無いが毎日幸せ

しか会社でそんなことを言うとバッシングに遭うので娘は反抗期、嫁は怠け者と言っている

そろそろ日本他人幸せ嫉妬しない文化になって欲しい

2016-09-18

子供の行動は、ほぼ確実に誰かの影響を受けてのもの

パパが次女(2才)におやつシュークリームをねだったときのこと

http://www.ringobiyori.com/entry/2016/09/15/183000

個人的なことだが私は両親と良い関係が築けていない

振り返ると色々思い出すが、特に母の言動には良い思い出がない

母は「父は頭が悪い」「父方の実家気持ち悪い」これを普段の何気ない会話の中で、穏当にまたは直接的な表現で、または態度の中に示してきた

それらの会話は、父がいない時と場所で行われ、私は父に対する敬意をまったく欠いた状態思春期になった

しろ父はあまり家にいることが無かったので、父との会話は殆んど無く、インプットは殆んど母からしかなかったのだ

そして反抗期になった私は父に対して少し過激な態度で接し始めた

母は動揺したのだろう、父がいる時は父の味方に付いた

そして父がいない時は私に理解を示した

私は徐々に母にも疑問を持つようになり、親子関係は屈折したものとなった

 

行為責任個人に帰すものだと基本的に思うが、しか子供は別だろう

子供は親を映す鏡のようなものだと思う

子供の行動は、ほぼ確実に誰かの影響を受けてのもの

もちろん実際は仲が良いからこそ「ふざけている」のだし、当事者も「いじめられている」「いじめている」とあまり思っていない場合もあるだろう

だとしたら外野があれこれ言うのは、「アイヌ殺せ」の「はてこ」みたいなものかもしれない

家庭問題はとくに密室性が高く、余計なお世話になりやす

 

しかし「パパへのイジワル」を子供楽しい話題で済ませた時、学校でのイジメを「イジリ」として見過ごしたりするような嫌な気分にもなる

テレビ高木ブーナイナイ岡村がどう扱われても、ただの演出と済ませてしまうのも迷うもの

果たして、それは娯楽なのか? これは楽しい話題なのか? 

の子はどんな家庭で育っているのだろうかと、私はふと悩んだりする

重ねて言うが、子供の行動は、ほぼ確実に誰かの影響を受けてのものから

2016-08-23

オタクの一生

誕生何でも新鮮で面白く感じるボーナスタイム。この頃に最もハマった作品を生涯崇めることになる。
成長期次第に手を広げ、さまざまな作品を見るようになる。作品を体系的に把握し、自分の好みを確認していく。
反抗期より過激ものを求め、嗜好が先鋭化しはじめる。マイナー作品を持ち上げ、メジャーを叩くようになる。
成熟多様な視点を身に付け、たいていの作品の良いところを見つけられる。感覚よりも理性で面白さを味わう。
爛熟期感性が鈍くなり、新しい作品を古い枠に嵌めるような理解をしがちになる。思い出話が多くなる。
老害もはや感性が摩滅し、知識偏見へと変わる。時代の変化についていけず、「昔は良かった」「今はダメだ」を繰り返す。

2016-08-18

俺の妹世界一かわいい

長期の休みは、いつも実家帰省する。実家には二歳下の妹がいる。この妹に再会するたびに、ひょっとして俺の妹世界一かわいいんじゃなかろうかと思う。今回も思った。なので、多分、俺の妹世界一かわいい

よく「リアル妹はかわいくない」的なリアル兄たちの声をネットで見る。そんなことはない。少なくとも、俺は妹がかわいい。かわいくてかわいくて仕方ない。むしろ二次元妹を見て「たしかかわいいが、うちの妹の方がかわいい」まである

このかわいい理屈ではない。家族バイアスがかかっているので、妹の容姿客観的にどうなのかは正直わからないけれど、多分良い方だと思う。かわいいというよりは、美人である。一時期あだ名FFルールーだった。そういう美人である。もうぼちぼち三十路を迎える歳だが、いまだに学生の頃とほとんど見た目が変わらない。単純に化粧がうまいという説もある。でも、仮に妹の体重+100されていようが、世間から見て見目良かろうが悪かろうが、多分妹をかわいく思う気持ちは揺るがない気がする。あれが好きとか、ここが好きとか、何か理由のあるかわいいではない。ただただ、妹がかわいい

最初からこうではなかった。小さい頃は喧嘩ばかりしていた。ほぼ毎日喧嘩していた気がする。喧嘩しなかった日は、母がカレンダーに花丸をつけて褒めてくれたくらいだった。もっと歳が離れていれば割り切れて仲良くできたかもしれないが、二歳差だと、こんなものだと思う。

妹がかわいいなと思うようになったのは、妹が中学にあがって反抗期を迎えた頃だと思う。家の中で、喧嘩の対戦カード母親vs妹にシフトした。俺は、家に居場所のない妹が、見ていて不憫だった。なので、妹にやさしくした。それまでの兄妹関係がさんざんだったので、最初はすげなくされたが、ずっとやさしくし続けていたら、だんだん妹もデレてきた。その頃には、すっかり妹がかわいくなっていた。シスコンお兄ちゃんの出来上がりである

(ちなみに、今は反抗期もすっかりおさまり、妹と母親関係は良好である)

お互い大人になった今はそこまででもないが、十代の頃は、妹の方も結構ブラコン入っていた気がする。妹のブラコン疑惑逸話としては、男に告白されると、まず俺に相談してくるという謎のフローがあった。俺が強制したわけではない。自分では判断がつかなくて、泣きながら話を持ってくるのだ。俺は話を聞いて、妹をなぐさめ、場合によって、妹のかわりに相手に会って、おことわりの返事を伝えたりしていた。告白したと思ったら、突然兄が出てくるわけだから相手の男は、さぞ面食らったことだろう。当時を振り返って、少し申し訳なく思ったりする。

(さすがに、最近はそんなこともなくなったので、今の妹には彼氏の一人くらいいるのかもしれない。それはそれで、とても良いと思う。幸せ恋愛をしてほしい)

近頃の俺らの距離感は、おそらく「多少スキンシップの多い仲のよい兄妹」くらいではないかと思う。機嫌がいいと、妹は俺の膝に乗ってくる。最近出てきた俺の腹をぺしぺし叩きながら、謎の鼻歌を歌ったりする。俺も俺で、疲れている時は、妹の膝に頭を乗っけて昼寝したりする。あるいは、妹の髪を梳きながら、頭皮にきびがないか探したりする。背中合わせに座って、お互いにずっと違う漫画を読んだりする。好きな動画を互いに見せ合って、布教しあったりする。

時々、妹が結婚相手を家に連れてくる未来想像する。多分、俺は有給を取って、実家に駆けつけると思う。そして、重々しくもさりげなく、「幸せにな」くらい言ってやりたい。なかなかかっこよい兄っぷりではないか。親が反対するなら、また妹に味方してやってもいい。俺は妹に幸せになってもらいたい。

ただ、いざその時を迎えたら、どんな気持ちがするだろうと考えると、少し切ない。俺にとっての妹は、かわいいだけでなく、俺の半身みたいなところがある。俺が生まれから妹が生まれくるまでの二年間を除けば、今までずっと互いに兄妹をやってきた。結婚してからもその事実は変わらないだろうが、俺はなんだか自分の体が半分になったような喪失感を覚えてしまうんじゃないだろうか。そうしたら、俺は半分に減った体で、この先どう生きていけばいいんだろう。

震災が起こった時も、似たようなことを考えた。一時期家族と連絡がつかず、生死が不明だった。父が、母が、妹がもしも死んでいたら、俺はこれからどう生きていけばいいんだろう。電気のつかない部屋で一人そんなことをぐるぐる考えていた。俺一人生き続けたところで、何の意味があるんだろうか。周囲と連結されない人生孤独だ。

から、生きていてくれるだけで、元気でいてくれるだけで、本当は充分だ。それだけで兄ちゃんはうれしいんだよ。うれしいはずなんだけれど、いざおまえが結婚する時のことを考えると、兄ちゃん、今からこんなに不安になってしまうから人間というのは欲張りなものだね。

そういうわけで、俺の妹世界一かわいいという話でした。

2016-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20160812142905

多分ガキの頃思ってたバカ大人大人になってから思うバカ大人って違うんだよね。

ガキの頃に何がバカだと思ってたかすら今では思い出せないし。

なんだろね、普通に効率だけ考えて、こう動かないって頭おかしいんじゃね?って思ったこととかもあったけど今となっては効率だけで世の中回ってるだけじゃないことも分かってるし。

思い返してみればみるほど子供だった自分がいてビビる

単純に反抗期だったのかな。周りの大人だけでなく下手すると全ての大人に対して漠然としたバカ感を持ってたのかも。

大人を試すような発言してみたりもしたけど、今考えるとその時の大人対応のほうが大人だなっつか常識だろうと思うし。

親の言うことはあらかた間違ってなかったなって素直に思い出し始めた頃がそれの終わりだったのかなと思う。

なんかカウンセリングみたいねこれ。

2016-07-29

怒っている人を見ると萎縮してしま

今日銀行に行った時のこと。

窓口でこれとこれを支払いたいんです…と話をしていたら、作業着姿のおじさんが肩で風を切りながら隣の窓口に来て、通帳か何かをバサッと放り投げるように窓口に出して何か言ってる。

何と言ったかはよく聞き取れなかったけど、何か短い単語。短い単語だけど、なんかぶっきらぼうというかイラツイてるような感じだけははっきり分かった。

その窓口にいた銀行員のおばさまが「xxxですか?」(ここでも単語がよく聞き取れなかった…)とそのおじさんに確認のためだろうか聞き返すと、「あ”ぁ!?」と何故か喧嘩腰。入ってきて10秒経ってないのに何故かブチ切れモード

その後、そのおじさんがして欲しいのであろう処理内容について幾つか問答をして一旦はおばさまとおじさんの問答は何事も無く終わった。

私も払込用紙とお金を渡して一旦待合用の椅子にかけていたら、そのおじさんは店内をウロウロしつつ、「こんなにお客いるのにエアコン全然効いてねえじゃねえかよ!!」と誰にたいしてでもなく怒声をあげる。

待合用の椅子がたしかにほぼ全て埋まっていたのでお客はそこそこいるように思える。ただ、コンビニのような往来の激しい場所でもないので、普通オフィスならこれくらいのものだろうと思えるくらいの温度。

で、ぶつくさ何かを言いながら椅子にかけて、しばし待つ。窓口にいた行員さんたちはみんな私の払い込みとか他のお客さんたちの処理のために、窓口の後ろのほうへ行ってしまった。

処理をしているであろう人たちの事務作業音だけが聞こえる時間が1,2分。

ぼーっと待っていると、さっきおじさんの応対をしていたおばさまが、何かしらの処理を終えたのだろう、窓口に戻ってきた。戻ってきておばさまが窓口の席についた瞬間に、同時にそのおじさんも席を立って窓口に早足で向かう。おばさまが「xxx様~」と苗字を呼ぶ。その呼んだ苗字とおじさんの苗字は違っていたのだろう、別の人が腰を上げる。多分おじさんは自分が真っ先に呼ばれると予想していたのであろうが、その予想が外れたんだろう。おじさんは窓口を向きながら思いっきり店内に響き渡る大きな舌打ちをして、どこかへ行った。

聞き返しただけでもブチ切れる。ちょっと暑いとブチ切れる。『こんなにお客いるのに』と言っていた辺りから私たちのことは置物ではなく他の客として認識していたようだ。自分より先に待っている人が多くいるのだから、それぞれの処理内容による差もあるだろうが、ある程度待たされることは想像に難くないものの、自分対応が一番じゃないとブチ切れる。なんてオッサンだよ…。第一次反抗期を引きずってこじらせて出来上がったような感じだ。

今にしてそう思いながらも、そのとき自分の心を占めていたのは、上記の「なんてオッサンだよ…」という呆れるような不快感が2割くらい。残りの8割くらいが恐怖心みたいなものだった。

別にこのおじさんが特別怖かったわけではない。だいたいいつも私はこうなのだ。誰かが怒気を放っているのを見る度にお腹の下のほうがキリキリ痛み、嫌な汗がじわっと出てくるような感じがする。今日のように自分が怒られているわけでもないのに、明らかに私とは別の人間に向かっているのを理解していても、ただそれらの光景を目にして怒りに満ちた大きな声を聞くだけでビクビクしてしまい、そのことで頭がいっぱいになって、自分の行動もほとんど停止してしまう。

別の人が怒られてるとか誰かが怒りを撒き散らしているのを見ただけでこうなるのだ。自分が怒られてる状況では全く頭が働かずに軽いパニックになってしまう。予めどういう言い訳を用意していようとも、どうみても相手の怒りが訳の分からいくら理不尽で取り合うのすら馬鹿馬鹿しいようなものでも、とにかく「怒り」を目にすると恐怖心に心を奪われてパニックになってしまう。それでパニックになった状態で応対してしまったがために更に訳わかんない状況になって何度追いつめられたことか。自分でもその打たれ弱さというか臆病さをどうにかしなきゃとは思うものの、どうすればパニックを抑えることが出来るのかわからない。

事が起こった後のことは今のところ対策がないので、とにかく何事も事を荒立てること無く終わらせようと勤めている。でもやっぱりそういう姿勢でいるといつも舐められたり足元を見られたりして泣きを見ることが多くなるし、気を張り続ける事が多くなるので非常に疲れる。もう嫌だ。もっとリラックスしながら生きたいのに。あん毎日生理かよっていうかもう閉経してるだろっていうようなヒステリックなお局にへーこらしたり、あんた男なのに生理かよってくらい神経質で沸点の低い取引先のおっさんにへーこらしたり、もう本当に嫌だ。彼らを怒らせないように神経を磨り減らしながら、彼らの欲求を最大限まで聞いてサービス残業しながら、彼らの応対に腐心しつづけるような生活はまっぴらだ。

何故こうなってしまうのか。自分意志とか意見とかがないから、まず第一に怒りを見ないような行動を無意識の内に選択しているのだろうか。いや、冷静なときにはそれなりに意志はあるし、彼らの馬鹿でアホでクソでどう考えたらそんな言葉が出てくるんだというような要求を(冷静であれば)突っぱねられるくらいの意見はある。が、言えない。どうやって彼らの要求を突っぱねるかという問答をシミュレーションを何度として行った上でも、いざその場になるとそれらの言葉を押し殺してしまう。やっぱり意思が弱いのか。自分意見も実は同じくらい馬鹿でアホでクソみたいな考えであるために持ち出せないだけなのか。

そもそも「怒り」を見ることで溢れてくる恐怖心の実体は何なんだろうか。何を恐れてパニックになるのだろうか。暴力を振るわれるかもしれないから?なくはないけど、流石にそれはあまり考えられない。暴力への恐怖でその気持を表すのはどうもしっくりこない。自分生活を脅かされるから?例えば彼らの要求を1度でも断れば社内や社会的立場を失ってクビになるのではと思っているのでは。でも、怪我の功名というか八方美人的な対応は他の人達にもしているので、1度何かやらかしても他の人達がある程度は助けてくれるだろう。いや、もしかして助けてくれるだろうなんてのは私の勝手希望的観測というか妄想に近いものであって、もしかたらみんなにも嫌われているのかもしれない。実際は助けてもらえず冷ややかな目で見られて終わるかもということを無意識的に感じているのだろうか。何にしても、普通は1度のミスで全て失うなんてことは無いだろう。それに自分無関係な怒りを目にして恐怖心を抱くことと、自分立場が脅かされるのは全く別だ。まさに今日銀行での出来事など、私の社内での立場に1ミリたりともかかわらないだろうし。やっぱりそうでもない。

何なんだろうか。何故こんなにも、誰かが怒っているところをみるとビクビクしてしまうのだろうか。何故こんなにもパニックになってしまうのだろうか。分からない。理由も分からないし、対策も分からない。もし同じような人がいたら、どう対処しているか教えてほしい。そんな気持ち全くわからないという人は、誰かが怒っている状況に出くわした時、どういう気持ちでいるのか参考にしたいので教えてほしい。

2016-07-23

息子が野球するのを止めさせたい

私の次男小学5年生なのですが、比較的体格が大きく(170cm以上)、体育では何でもこなスポーツ万能なタイプでして

足も速いらしく、100メートル?か何かを11秒で走るとか担任先生が言っていたのを聞きました。

私達夫婦別にスポーツマンでもないので、なんでこんな子が生まれたのかと笑い話にしてました。

先日、同じクラスの友だちに誘われたのか、近くにある少年野球団?(○○ボーイズかい名前)に遊びに行った感じで行ったらしいのです。

すると数日後にそこの監督さん(キモい)が突然家を訪ねてきて、結構熱量で、息子をチームに入れるようにと勧誘してくるのです。

「○○くん(息子)は絶対プロになれる」「100何キロ(忘れた)の速さで投げられるのは凄い」とか

なんかこの手の人間は、自分の喋りたいことだけを喋って、分かるような説明が全く無かったのがムカつきました。

あとタバコ臭い。息子がタバコを吸う人の近くにいるのも嫌なので、適当にあしらいながら返しました。

しかし、息子本人はプロになれるとかいウソ話を信じたらしく「野球やりたい」と言い出し始めてしまったのです。

私はそれは嫌だと伝えましたが、息子は反抗期とまでは行かないけど、最近私の言うことを聞いてくれないことがしょっちゅうあるので

多分まともに受けてくれないだろうし、むしろ頑固になってしまうのではないか心配なので、今のとこ態度を曖昧にしている感じです。

正直、私は野球が大嫌いです。

はてなの皆さんも私と同じ気持だと思いますが、「野球」というスポーツ独善的姿勢が、私は許せません。

例えば高校野球炎天下試合をするなんて考えられません。

健康を害するような行為強制するのは人権問題で訴えられてもおかしくないと思うのです。

そこで育ったプロ野球選手が続々と犯罪に手を染めていたのには、呆れてものがいえませんでした。

先日起きた、高校野球部員タバコで部室が火事になったというニュースが有りましたが

もし私の息子がそれに巻き込まれしまうと考えただけでゾッとします。

それも踏まえ、野球というものは改めてろくでもないものだと認識いたしました。

せめてスポーツやらせるなら、ロードサイクルをやらせたいです。(スタンドNG

2016-07-08

未来もっといろんな形の家族普通になっていると思っていた。

子供の頃、親は喧嘩が多くて子にしわ寄せがきていたので、早く離婚してほしいと思っていた。

お酒を飲んで喚く父、泣き叫ぶ母。祖母は我関せず。

でも経済的世間体的(田舎だったので特に)諸々あるのはわかっていたので、じっと黙って部屋に籠っていた。何を考えているかからないと母によく嘆かれていた。

反抗期一言で片づけられるのはつらい。

親が離婚していようが、別居していようが、親がいなくて共同生活していようが、子供が後ろめたさを抱えずに生きれる世の中になるといいな。していこう。

2016-06-22

私が今まで受けてきたものライト虐待だったのだろうか。

アラサー世代女性で、小さい頃から父親から叱られる=父親から叩かれたり、頬をつねられたり、つまりは痛い目にあうことがデフォルトだった、という方はどれくらいいるのだろう。

叱られるのにはきちんと理由があって、自分でも「ああ、これが悪くて叱られているのだな」と思えるのだけれど、とにかく痛いし怖い。そして「お前はこういうことして叩かれているのだ、わかるなバカ者!」というような言葉サービスで付いてくる。すぐに思い出せる幼少期の記憶だと、リビングに貼られた九九表の前に私が立ち、泣きながら8の段を言っていて、間違えるたびに大声で「違う!!!!」と怒鳴られ、叩かれる情景が浮かぶ。思い出していて気付いたけれど、昔の父親記憶で怒られたこと以外の記憶ほとんどない。お風呂冗談で突き落とされて泣いたことを急に思い出したけどそれは今回あまり関係ないのでこれ以上思い出すのはやめようと思う。

私が叱られる原因の8割から9割は勉強のことだった。父親勉強至上主義で、「この世の中で勉強が1番楽しい」が信条だった。そしてそれを娘の私に身をもって体験させてくれた。お陰で私は幼少から東京に住み、一人っ子長女としてすくすく育ち、訳も分からないまま中学受験の為の塾に通い、やっとのことで第2志望の私立合格(補欠)、進学校を謳っている学校大学受験に向けてまた勉強、やっとのことで大学合格(滑り止め)した。

特に父親語学に厳しく、中学に進学してから私に徹底して英語を教え込んだ。

その頃は彼が単身赴任だったため、私としても気が楽だったが、中1最初英語の小テストが悪かった私に電話越しで大激怒。以来ほぼ週末ごとに帰ってきては何時間も何時間も私「と」勉強、私も夏休み連休の時には彼の元へ赴き、何もない暖かな田舎街でいつ飛んでくるか分からない鉄拳リモコンに怯えながら英語勉強をしていた。

叱られて叩かれるのが嫌なら自分勉強をして成績をあげれば何も言われないのでは、と思う方がたくさんいると思う。私もきっと昔はそう思っていた。自分なりに勉強したつもりで彼に備えていた。でも、私の一生懸命と彼の一生懸命が違えばまたそれで叱られることになるのだ。父親の彼が正しいと思う「ものさし」は鉄のように硬くて、私のような非力な子どもには曲げることができなかった。

そうなると、どうせ何やっても叱られるんだから何もしないでその場限りで痛い目にあってしのごう、という考えにシフトしていく。そうすると、どんどん「叱られている」という感覚が鈍くなっていく。「またいつものやつだから耐えよう」というある種のルーティンだった。反抗するなんて考えたことも無かった。それは「おとなしくしていればいつか終わるし、反抗なんかしたら絶対殺される」と思っていたからだ。寝ている間に殺されたらどうしようと眠れない夜を過ごした時もあった。反抗はしなかったけれど、殺られる前に殺ろう、とは思った。けれど、犯行がばれて自分人生を棒に振るのがもったいなくて実行はできなかった。母に迷惑もかかる。

そういえば母は私をこっそり助けてくれたけど叩かれている私をかばうことはしなかった。母も父親には逆らうことができなかったからだ。私も母が痛い思いをするのは嫌だったので何で助けてくれないんだろうという気持ちよりは母にとばっちりがいくことの方が心配だった。

いろいろ思い出しながら書いていたので長くなってしまったけれど、結局私はやっと終わると思っていた父親との勉強暴力コンビが終わらなかったことに耐えかねて(大学の授業には必修で語学がある為)、初めて反抗期を迎え、やる気を失い、いろいろあって今現在アラサーニートである

ここまで娘がおかしくなってしまったので(父親プランでは娘の私は大学を4年で卒業し、そこそこ名前の知られた企業就職して、今頃は結婚して子どもがいる予定だった為)最近では暴力を振るったことに対する謝罪も聞くことができるようになったが、あくまでも彼の暴力教育の一環、延長であり、虐待とは違う、という思いであるらしい。あと、教育以外のことにはほとんど口出ししてこなかったではないか、とも。確かに交友関係などには口出しされた覚えはないけれど、でもマンガ捨てろとか、スカートが短すぎるとか、化粧濃いとか髪の毛染めるなとか、言われてたぞ。勉強関係ないことをやりすぎとか、思い出してみると結構言われている。

周りに私のような体験をした人がいないので、とても気になって今回色々と書いてみた。こうやって育てられたけれどもきちんと優秀な成績を修めて大学卒業して就職して今幸せ、という人にはどうやって親を克服したのかぜひ教えて欲しい。

それから条件付きとは言え子どもに手を上げてしまうような教育をしている方は即刻やめてほしい。状況とか回数とかそういう問題ではないから。少なくとも私にはそうだった。頭を殴られた痛みはしばらく続くし、またそういうことをされると思うと萎縮してしまう。放たれた暴言はわんわんと脳みそに響きわたり、ふとした瞬間に思い出されて苦しい。多分教育効果もない。上にも書いたけれど、自分行為反省するきっかけにはならなくて、暴力暴言に耐える修行みたいになってくる。

あとお子さんが私のように大人になってから爆発すると、親子関係がとてもギスギスする。お互いの距離感が掴めなくなるからだ。距離は縮まることはほぼないと思う。

タイトルには、虐待だったのだろうか?というタイトルをつけたけれど、これが虐待だろうがそうでなかろうが、今となってはどうでもいい。痛みに耐えるだけの思春期はもう遥か昔のことになってしまって、取り戻せない。ただ自分が考えているより今までがしんどかったので今回文章にまとめてみた。お前よりもっとしんどくて苦しい人はいると言われたって私の辛さは私だけのものだと思っている。長くなってすみません

2016-06-15

http://anond.hatelabo.jp/20160615165448

何でそんなに中学生ナメてかかってんだ、14歳前後って言ったらそれなりの観察力つけてても全くおかしくない年齢だぞ。

厨二病だの反抗期だの以前に、反りの合わない大人とずっと一緒に行動させられたら誰でも苦痛だろ。

本当に反抗期なら空気も読まずに悪態つくだろ。

子供気遣い背伸びしか捉えられない人間の方が、よっぽど厨二病反抗期のままだね。言い換えれば一方的同族嫌悪ってやつだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20160615165448

無関心で嫌悪感いっぱいでいやいや対応されるより全然いいじゃねーか

中二病っつーか反抗期ならではの大人への反抗心みたいなもんも混じってるな

もう自分大人父親馬鹿にできると思ってるところ、連絡したら母親がどうなるかも想像出来てるからあえて自分はそれをしないんだって背伸びして自己解決したと思い込んでるところ、全部が幼いことに、ずっと時間がたってから気づくポアターン

2016-03-25

祖父母に

両親は共働きのため、私は幼少期を祖父母と長く過ごした。

春になれば山菜を採り

夏になれば蝉を追いかけ

秋になれば一面に咲く彼岸花を見て

冬になれば大きな雪だるまを作った。

祖父からは沢山のことを教わった。

友達よりも早く字が書けるようになったし、

ボタン付けも、犬のしつけも、

いろいろなことが1人でできるようになった。

アケビの実が驚くほど甘いことだって私は知っている。

祖父が末期のがんでこの世を去った時、私は小学校低学年。

病院に行けば病気は全部治るものだと思っていた。

お見舞いの時間は退屈で、暇だ暇だと言った。

そんな私を見て、

祖父がにこっと笑ったのを覚えている。

祖母間質性肺炎でこの世を去った時、私は中学生

学校人間関係で悩み、また反抗期の真っ最中だった。

「ご飯はいらない」と言って部屋に閉じこもる祖母

「ご飯食べないと、病気良くならないから!」

と語気を強めた。

あの時、お見舞いが暇だなんて言わなければ。

持って行った鶴がきちんと千羽だったなら。

祖母の大好きなイチジクを持って行っていれば。

もっと柔らかい言葉をかけられていれば。

貰ったあれほど大きな愛情

私は返すことができなかった。

それどころか。

祖父母に会いたい。

会ってありがとうと言えたらいいのに。

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