はてなキーワード: おざなりとは
心が満たされない時は、美容院。
大事に扱ってもらえる感覚が私にはすごく大事。シャンプーもカットももちろん接客も良くて、服や持ち物にお金かけないけど、髪の毛もこだわりないけどわざわざ格安ではない美容院に行くのはその1時間のため。
普通に暮らしてて頭洗ってもらったりマッサージしてもらったり話し聞いてくれて髪もいい感じにさっぱりしてくれるなんてないよ。
同じ価格帯がそれ以上でも美容院にはたくさんあるけど、男性にしてもらうのは、女性の美容室のおしゃべりがうるさいから。聞き役に回るか黙ってカットして欲しいです。
いろんなとこ通ったけどだんだんおざなりになるところがほとんど。私みたいにこだわりがない人間だとカットのやりがいもないんだろうけど料金はずっと一緒だからねえ。
毎回カウンセリングちゃんとしてくれて、丁寧に最後まで仕上げてくれて心地よい接客してくれる
私にとっては高級ホテルに泊まった時の接客もよかったけど、滞在中ずっと良い接客をしてくれる美容院の方がコスパがいい。
たった4000円そこらでこのサービス。
ゲーム実況をしているVtuber親子の話。特異だなあと思うのは、本作の焦点って「ゲーム実況」や「Vtuber」ではないってところなんだよね。どちらかというと、そういった真新しい若者向けの文化を介して描かれる親子の物語。だから作中でメインに描かれているのは現実の父親と娘の対話で、Vtuberだとかゲーム実況という要素はあくまで物語上のフレーバーといった感じ。
本作で描かれているのはVtuverでの姿よりも、中の人たちの素顔が多い。すごく本質的だなとは思う。「中に人がいる」という当然過ぎるが故に、おざなりになる認識。一般社会で生活している“人”がいる。界隈では“魂”って呼ばれているんだっけ。特に生配信をしているVtuberは、その傾向が強いよね。
けれども、そういうタイプのVtuberたちの言動は、ただ人間がアバターを通じて喋っているだけなことも多いよね。現実の人間が日常でやっているペルソナ的な言動の延長線上。中には、そんな薄皮一枚の建前すら取り払ってしまう人もいる。
そうすることで親しみやすさを覚える反面、求められる是非や評価は一般社会に基づいたものになりやすい。“実在性”っていうのかな。Vtuber界隈で荒れた話を聞くときって、大体それが原因だよね。全然バーチャル感のない炎上。
本作はそういう中の人たちのキャラクター性や関係性を魅力的に描くという点で、ある意味Vtuber界隈の本質を捉えていると思う。私の場合、「一般社会で上手くやれる人間じゃないと、Vtuber界隈でも上手くやれない」……なんて穿った見方もしてしまうけれども。
完全な持論だけれども、意義あるスピンオフが何かといわれれば、それは「作品の可能性を押し広げること」だと思う。だからスピンオフとしての意義がない作品を私は評価に値しない(否定はしないけれども肯定もしない)と思っている。ファンに向けたものであっても、いやだからこそ惰性で作られた物語を独立させて作る意義が薄い。
本作についてはどうかというと、これが中々に評価の困る。『闇金ウシジマくん』を読んでいる人が期待しているような作風じゃないと感じるんだよね。でも個人的には新たな価値を提供しているとは思っていて。個人的には嫌いじゃない。
本作はウシジマくんのときにあったような、人間の業や醜さみたいなものはナリを潜めている。その代わりに、ぶっ飛んだキャラクターたちが破天荒な行為をしまくることで成り立っている感じ。悪が悪によって、理不尽が理不尽によって、暴力が暴力によって解決されるのって頭良くはないけれども分かりやすいよね。
まあ主役の肉蝮自体が破天荒の極みみたいなキャラだから、それに合わせて舞台配置をするのは英断なんじゃないかな。毎回バリエーション豊かに戦ってくれるのは絵的には飽きにくくて良いと思う。原作とは路線が違っていても、攻めた内容であることは確かで、その点でスピンオフとしての意義はあると思う。
三木なずな原作の漫画。三木なずなを知らない人に簡単に説明すると、「なろう系作品の良いところと悪いところ大体やってる作家」って感じ。まあ、界隈でわざわざこの作家の名を挙げて作品を評価するときというのは、大抵は悪い意味だったりする。
ただ業界で重宝されている存在なのは確かだと思う。コンビニ弁当に似ている感じ。声を大にして美味いっていうのは憚られるし、お得でもないけれども、とりあえず食べられるって感じ。その功績が三木なずな一人にどの程度あるのかっていうと疑問は残るけれども。数ある三木なずな原作の漫画を見る限りは、とりあえず食べられる程度の出来になってるのは漫画家や編集サイドの頑張りだとは思う。
今回とりあげたのは「なろう系マンガを読んでいくなら三木なずなの名前を覚えて帰ってください」って感じで紹介したので、本作に対して特に感想はないです。私が以前に書いたなろう系マンガに関する愚痴で大方レビューできる程度の内容なので。
強いて言うなら、余計なところで“出来る奴ムーブ”や人格者ぶって評価されるって展開が鼻につくかな。あと設定とか世界観を作家自身すら持て余しているのは明らかな失敗だと思う(ダメなろう系あるあるだけれども)。
嫌いなものへの呪詛ばかり書いていても不健康な感じがするから、好きなもののことも書こう
愛してはいないなあ そもそも愛ってなんだ?みたいな話は置いておくとしても、どんな定義だろうと愛してるってほどではない気がする
でも嫌いでもねえんだな むしろ好きではある
何が好きか
やっぱ桜島が好きだな
あれ、多分もうちょい近くに住んでたら灰に悩まされてかなり嫌になってた気がするんだけど、俺のいたところではちょうどいい青春のフレーバーくらいに収まってくれていた
風向き次第でときどき灰が降って、髪がゴワゴワするとか机がザラザラすると言って笑う 掃除の時間に集めたゴミが灰まみれでびっくりする そのくらいだった
野球部がいいとこまでいって鴨池の球場まで全校応援に行ったとき、ちょうどメチャクチャ噴火してたんだよな
砂嵐が来てるときの中東の街ってこんな感じなのかなってくらい町中が黄土色に染まっていて、視界もそこそこ悪かった あれは興奮したなあ
応援中も灰は降り続けるもんだから、家に帰ってシャンプーをしたらもうまったく泡が立たない これが桜島の洗礼か、と思ったっけ
やっぱぼんやり好きな程度だから、ビミョーな話しか出てこない 鹿児島に対する強い情動がない
いっそ好きなTwitterの人の話とかしようかな いいのか?それ 別に罵るわけじゃねえからいいか
でも俺だったら増田で自分のアカウントが誉められてたらすげー気持ち悪いしくたばれと思うな やめておこう
弁慶外伝はSFCのソフトで、Wiiのバーチャルコンソールを通じて小学生〜中学生のころに遊んだ
和風ドラクエ みたいな感じのゲーム性で、日本全国に一応行けるのが印象的だったな
なかでも好きだったのが鳥取のエピソード トトリっていうすげー適当な名前の村があって、拡がり続ける砂漠に呑まれそうになってるのを助けるって話だった
鳥取に一切興味ない人が適当に砂丘のイメージで作った雑なエピソードって感じがバリバリ出ててメチャクチャ良かったんだよな
鹿児島なんかたしか火山っぽいのがおざなりに置かれてて、人間は一人もいなかったな
なかなかひでーゲームだったけど、なんか好きだった
なんなんだこれは 俺は好きなものについて語りえないことがわかってきた
経済回しつつ感染対策しっかりやってなんとか凌ごうというやつで、これはまあ解る。
でも、どうやら出来てない。感染者が大幅に増加した。
寒くなってきたことも要因だとは思うけど、
夏以降、GoToとか始まったし、外食してもいい感じだし、今まで感染しなかったし、意外と大丈夫なんじゃない?
的な空気が流れ始めて、三密回避とかおざなりになってきた人たちが増えたように思える。
自分の身の回りの様子だと、飲食店を経営する側も、客側も警戒感が緩んできたと思う。
他国のように「罰金」とか「罰則」とか強制力のあるあれこれの導入は容易に出来ない。導入しようとするとまた時間かかるだろうし。
「経済回しつつ感染対策を徹底する」を実現する為には一人一人の意識改革が必要で
リスクは0にはならないけど感染対策で減らせる、俗に言う「正しく恐れる」というやつ
若いからしょうがないっていう点も多々あるな。考え事方が自己中心的過ぎるという自覚がない。だがそれを二十歳そこそこの若者に求めるのは酷だよなぁ。
まずは挨拶から意識改革した方が良さそうだし、そこから直すのが手っ取り早い。
自分の気分が最優先で挨拶するから、気分が上がらない時とナメてかかってる相手の場合はおざなりになって、調子のいい時と自分を可愛がってくれる相手に対する場合は元気よくなる。
そういう触れ幅があるので、周囲の人は困惑するし、こいつ面倒くさいなとか、お調子者とか狡猾とか、嫌な印象を持たれてしまう。
挨拶は自分の為じゃなくて、相手の気持ちを悪い意味で揺らさないためにするのだと思ってするといい。
あと、元増田はわざわざ接客業ばかり渡り歩いているけど、きっと人間関係が下手だというのがコンプレックスだからだろう。仕事で自分の苦手を克服しようとしているだろう?だがそれはダメだ。それは例えるなら「身長を伸ばすためにバスケをする」ようなものでよくない。そうじゃなくて、「バスケは背が高い方が有利」なのだ。
標題に入る前に、自転車の歩道での無法が酷い、Uberではない。
自転車は原則左側通行であるが、その意識を持っている人は半分以下というか皆無だと思う。もう無茶苦茶である。
そもそも自転車が歩道を走ることが許されるのは徒歩の人を優先する事だと理解しているのだが、現状は全く実現していない。
色々と理由がある。
1)歩道で歩行者は右側通行で、自転車は左側通行である、という原則が行き渡っていない。
2)自転車が歩行者を避ける、そのためには徐行が必要である、ということも行き渡っていない。
その上で法の上での問題点もある。左側通行と右側通行が混在すれば、事故が起きる確率は跳ね上がるため、自転車は歩道上では徐行(すぐに止まれる速度で運行の上、徒歩者優先)という事実が完全に反故にされている。
原則として、自転車が歩行者最優先という原則が広く行き渡っていないことに強く憤りを感じるが、道交法の不備(歩行者は右側通行、自転車は左側通行)が存在するのに、自転車への抑制が伝わっていない。なんで小学校中学校で教えないのであろう?
さらにややこしくしているのが、多くの商業施設では歩行者にも「左側通行」を要求していることだ。
ここが面倒で制度設計が破たんしている、個人的には「人は右」を廃止して欲しい。
閑話休題。現状では歩道で、右側通行志向、左側通行志向の人が混在している(多くの駅では左側通行を推奨しているが、右を突き進む老人も少なくない。)。そんな状況で自転車が歩道を走れば、細心の注意が必要だが、講習はおざなりだ。事故の際には裁判で揉めるであろう。「人は右」のせいで
もう「基本左側通行」で統一して欲しい、そしてできれば自転車(軽車両)の歩道通行は、原則押し歩くにして欲しい。
強く望む。
英語だと「Hobby」と「Life style」でちょっと違う感じで、「Hobby」はいくらのめり込んでてもちょっとダサいイメージ、「Life style」はカジュアルでもカッコいいイメージがある。
例:サーフィンが趣味とする。たとえ丘サーファーでもサーフィンがある海やファッションの雰囲気を自分の生活に取り入れているような感じだとLife style、ボードと波の話ばっかりしていたらHobbyって感じ。
例2:サバゲが趣味とする。ミリタリールックやいかつい感じを適度に生活に入れていればライフスタイル、ガチで銃とゲームの話ばっかりだとホビー。
まず生活があって、好きなものを生活にいれていく感じなのがライフスタイル、好きなものが優先で生活がおざなりだとホビー。
大半の人はライフスタイル志向だし、チャラくてもニワカでもライフスタイルになれないとそのジャンルは一般化できない、という認識がアチラにはある。
医者数年目のペーペーが医療に関して偉そうに語るのは、医師の大多数の先輩方からしたら生意気以外のなんでもないと思う。が、いくつか病院を移動して研修する中で思うところがあったのでここで吐かせてくれ。
一般的に医学部5,6年生になると、初期研修2年間を過ごす病院を自分で探して見学、面談をするようになっている。今は市中病院志向が強く、大学病院はあまり人気がない印象。どちらも一長一短があるので、自分が求める研修のできるほうを選べばいいと思う。
まずは、医学生がよく気にするが、ぶっちゃけどこでもそんな変わらんっていうポイントを書いていく。
よく聞くのは、ハイパー・ハイポという評価軸。忙しいか暇かという意味だ。先生によっては、医師人生で最初の2年間での経験は大きいため忙しい病院で多く経験を積むべき、と言う人もいれば、自分で勉強できる時間を取れる研修が良い、という人もいる。これも当人が医師としてどういう研修が良いか、というところによるので、一概には言いにくい。実際働いてみないとどちらが向いているのかわからないし。
あと、給料がいくらもらえるか。これもその人の価値観で選べば良い。給料の高い低いと研修病院としてのレベルの高い低いには、そこまで関係がない気がする。
他には手技ができるかどうか。ここも医学生としては結構大きなポイントとして思う人が多い。が、研修医ができる手技なんて内科医・外科医になったらいつだってやる機会がある。CV、Aライン、ルンバール、マルク、挿管。パッと思いつくのでそんなところだろうか。むしろ思うのは、手技ができることを売りにしている研修病院に、その指導体制も整っているかは全く別問題という点である。まともな先生ほど、侵襲的な手技は必ず監視する。その時怖い指導をする医師もいるだろうが、指導があるだけ本当にありがたいと最近思っている。
で、結局なにが言いたいかって言うと、働くスタッフの意識が高いか低いか、レベルが高いか低いかで選んだほうがいいよ、という話。
意識が高いというのは、知識でマウントを取るとか、やった手技の数や経験の早さで競い合うということではない。患者に対して前向きかどうか、だ。特に、コメディカルの人々が、だ。
高齢者が入院した際、DNARを取得することはよくあることだ。だが、DNARは急変して亡くなった時の免罪符ではない。治療がそれなりに奏功していたのに突然呼吸状態が悪化して亡くなることは確かにある。だが、それを高齢だからという理由だけで片付けられてしまっては、治療方針を日々検討して最善を尽くしてきた身として正直やるせない。DNARはあくまでも、終末期に際して人間としての尊厳を尊重するために、胸骨圧迫や気管挿管をしないというだけに過ぎない。必要な治療を放棄したりおざなりなケアをしたりするために取得するものではない。
それすら分かっていないコメディカルが中にいることがある。ただ急変時の仕事を減らすためや、患者家族との後々の衝突を避けるためだけに取得していると思い込んでいるやつがいる気がする。治療の見込みがあって進めているのに、はなから緩和みたいな対応されると腹が立つ。DNAR取得は急変したときに延命措置をしないで夕方の申し送りを時間通りに始めるためのものじゃないんだよ。定時に帰るよりことよりも目の前の患者に向き合うことを考えろ。
この意識の高い低いは、自ずとレベルの高い低いにつながってくる。いわゆる三次救急病院でER研修をした後に、二次救急病院で当直をすると、看護師のレベルに本当に差があることを強く感じる。もちろん人による、し、私が研修した病院がそうだっただけの可能性はある。だが、三次救急の病院で研修をすると、看護師の当たりは強めかもしれないが、助けてくれるという安心感が間違いなくある。患者を見てるし、必要な道具がすぐ出てくるし、無駄話しないし、助言をくれるし、看護師同士で勉強している。三次救急病院で研修医生活を送った人は、二次救急病院に行った時にそのレベルの高さを実感すると思う。これはICUなどの急性期病床もそう。
で、愚痴をいろいろと書いたが、医学生が研修病院を見るときにそのレベルの高さを見るのに何を見たらいいか。一つ思いつくのは、カルテを見せてもらえるなら、看護記録を見ることだ。対応した時刻と実際に記載された時刻のラグが少なくて、こまめに書かれているかどうか。
あとは、実際に病棟を回ってみて、スタッフが無駄話をしていないか。どこどこの職員がどうこうだとか、あの先生はどうこうだとか、そんなどうでもいいことをたらたら突っ立って喋っているやつがいるところはだらだらと仕事をしている。もちろん、雑談はコミュニケーションとして重要である。が、それが明らかに無駄になっているところは見ていたらなんとなくわかる。かもしれない。
あと、見学に行くとERを見ることが多いだろう。その時、来ている患者の症例を見ることに目が行きがちだが、そこで働くスタッフの機敏さを見たほうがいい。おそらく、基本的に三次救急が機能している病院のERは概してレベルが高い。二次病院はまちまちな印象。だが、特に、救急車が入ってきてスタッフがすぐ来るか、医師の指示にすぐ対応するか、バイタルはすぐ取るか、患者が見える範囲にいるか、そういうところを見たほうがいい。
忙しい病院は、walk in と救急車の患者対応が多すぎてスタッフの手が回らないことはある。それはどうしても仕方ない。だが、僕が驚いたのは、だらだらと雑談するスタッフのいるERもあるということ。それでもって一晩に大した数を見てない割に、ほら、うち忙しいでしょ、という顔をする病院は実際にある。それは患者対応で忙しいのではなく、スタッフの対応が遅いから仕事が溜まってるだけだ。
色んなことを考えるのが疲れた。
あーしたい。こーしたい。だの、あーしないといけないからこーしないといけない。だの、今の自分の行いは正しいのかそうでないのか。だの…
日々考えることが多い。
考えなければいい。考えすぎだ。もっと柔軟になれ。と誰もが口を揃えていう。
それが出来れば苦労しないんだな。これが。
何かしらをずっと考えてしまうのは癖だ。
例えば
よく聞く歌詞を見なくても歌えるような歌を歌うとする。そんな時も歌を歌いながら何かを考えることが出来る。
でも、どちらにも集中しているワケではないので、どちらもおざなりになり不完全燃焼だ。
食べてる時ぐらいが1番何も考えてない時であるがゆえに、考えることから解放されたくて無限に食事をしてしまう。
MCのぐだぐだをすっとばせば無料配信ライブとしては最高の部類。以下忍者に降りかけの他担が見た感想。
・総勢100人(出演者談)のJr.、大体がユニットだけど、バックに無所もいるし、忍者が22人でわさわさ動いてる図はオタクが大好きなやつ。
・ユニットの定番曲メドレー。始まった!って思うから好き。(たぶん)ハピグルとハイジェの英単語いっぱい入れた歌詞を聞いていると、ジャニーズだなあと思うしすごく楽しい。歌詞のジャニーズ感。
・特に忍者、SPあたりの団体芸が良すぎる。アクロフラッグバレエ。それそれそれ〜!ってなる。たつるのバレエってオンリーワンでとても目立つね。
・スマホの画面で見る分には画質良し。TV(たしか40インチくらい)に映すとガッサガサだがまあ無料配信だしスマホで手軽に見ることを考えると、良し。忍者や無所をじっくり見たいがまあ仕方ない。
・カメラワークは普段の少年からカメラマンが走り回って撮ってる激寄りと、客席映す後ろからの撮影が無くなった感じ。十分。
・無所は若い子ばかりだったのでフレッシュ。自分の名前団扇持ってるやつあれ良いよ。名前わかりやすくて「あの可愛い子誰!?」ってならずに覚えられる。ありがとう。でも3秒は普通に踊る忍者無所が見たかったです!それは強く言いたい。
・リアデラ。CDCGとかきーぽんとかじゃなく総出のときの課題曲はこれからリアデラになるのかな。自担絡みでリアデラは思い入れある。大人数リアデラってやっぱいいよね。サビの『飛び込んでおいでよここへ』の振り全オタク好きだよ。
・とらの一部ソロでバック付きだった。Jr.がメインになるのも勿論歌って踊って楽しそうで良いが、センターの一人を輝かせるためにバックをまっとうするJr.は最高に美しい。とらもJr.だけど結構風格あった。選曲も個性出てる。
・何よりこのライブのタイトルにもなっているWYH!総勢100名のWYHは圧巻。全員があのわくわく手洗いソングを歌って踊ってにこにこしている。これだよこれがジャニーズだよ。やっぱりジャニーズ最高だよ!序盤ではいくつかのグループに別れて曲リピートして5回くらいやった?もう洗脳。大好き。最後に皆でWYHでは無所がガチで泡付けて手洗ってんの。すげえや。最近忘れてたけどちゃんとにぎにぎウォッシュやらなきゃな。おざなりにしてしまっている自分をJr.達が戒めてくれた。
ぐだったり、ん?というところが無いわけではない。クリエCまでしか高齢無所いないの残念だし。そして出演Jr.全体みーんなまるっと好き🥰とかでも無いのでぼけっと見たところもあるが、ジャニーズJr.というのはやはり最高集団なのだった。
Jr.を知らない人の入門としてまあまあ適している(個人的には少年が一番だと思うがBSがネックと感じる)ので、ネット環境がある人は是非
『緊急生配信!! Johnny's World Happy LIVE with YOU Jr.祭り ~Wash Your Hands~』
を見ると良い。配信は土曜までだ。
そうできるくらい、世の中に犯罪に対する処罰の公平さがある程度保たれてるならいいんだろうけどな。
世の中のある程度以上の常識と倫理観の中の位置付けとして基本的に殺人は悪いことで、殺人を犯したら世の中の人は殺人者を忌み、警察は力を入れて捜査して捕まえるよな。
ところが性犯罪は加害者の属性や被害者の属性で常識も倫理観でも良い悪いの線引きが動きまくる。警察の対応もあまりに触れ幅が大きすぎる。いまだ(立場の強い)男性の性欲に忖度しすぎて(その特権に焦がれすぎ否定しきれないで)いる。
例えば1980年代から90年代まではストレス解消に痴漢指南が雑誌で特集されるような世の中で、被害を訴える女性が疎まれ、被害を訴えたら加害者である男性が気の毒だから我慢しろと諭されたり、被害を訴えることで笑い者にされたりが珍しくなかった。一方では被害者の証言のみで証拠集めをろくにせずに裁判にしたりのおざなりな捜査があったり。
それは30年経った現在でも、地域や家庭によりまだ生き残っている感性で、警察の対応にも現れ被害者を未だに苦しめる原因のひとつであり続けている。
そういうグレー扱いされている犯罪を面白おかしく消費することを無邪気に肯定するには、まだ時代が早いのではないか?
いじめっ子がいじめをエンジョイして楽しく学校生活を送ったあと、社会人として自由闊達にパワサラして順調に出世し、折に触れいじめやパワハラした日々を楽しく回想したりしていじめやパワハラに対して加害者の立場から肯定的な扱いのエンタメ作品が続々出回ってるのを表現の自由で涼しい顔で見ていられるものか?
いじめほど裁かれない犯罪もないのは、よく知られていることだろう?
そういうエンタメが広く受け入れられることには反発する人はかなり多いのではないか?
で、あるのに性犯罪に対しては面白おかしく消費する「権利」を臆面もなく振りかざし過ぎではないのか。
どうだろう
3年ほど前にVTuberブームが起きてから今に至るまでに、声優ラジオをずっと聴いていないことに気づいた。かつては声優ラジオにハマっていたのに。
その頃はニコニコ動画のランキングにあがった声優まとめ動画から、声優のことを知ったりそのまま声優ラジオを聴いたりしたものだ(今では、声優に関する動画がランキングにあがることはほとんど無い)。上坂すみれがロリータ服でテルミンを演奏してロシア語をまくしたてる衝撃の初回放送を知ったのもまとめ動画だ。大橋彩香が『へごちん』と原稿を読み間違えて不本意ながらあだ名になってしまったことと、大橋彩香のモノマネをする『へごまね』が声優業界のブームになった一連の流れもニコニコ動画で楽しんだ。小林ゆうが赤いペンでイラストを書き阿鼻叫喚になる鉄板の展開も好きだし、金田朋子の金朋地獄もいい。
ハマった声優ラジオでタイトル名が思い出せるものだと『洲崎西』・『としたい』・『りえぷり』・『おざなり』・『本渡上陸作戦』・『ゆゆらじ』である。どの番組もパーソナリティーのキャラクター性が強くて、しゃべりが達者で面白かった。特に『ゆゆらじ』において、声優を2Dイラストで表現しアニメ風の演出で映像を付けたのは、今思うと現在のVTuber文化に通じるところもあって好きだった。
人が娯楽にかけられる可処分時間は基本的にそう変わらないものなので(昨今では、コロナ禍による自宅時間増加の影響もあるだろうが)、VTuber配信を視聴する人はかつてその時間で何か別の趣味を楽しんでいたはずだ。アニメやゲームだったり、YouTuber・ニコ生・ピアキャスの配信視聴だったり、はたまたキャバクラのように実在人物との交際だったりもあるかもしれない。私にとってそれは声優ラジオだった。
かつてハマった声優ラジオを聴かなくなったのは、VTuberブームにのめり込んで声優ラジオを聴く時間までVTuberに充ててしまったからだ。VTuber配信は声優ラジオより手っ取り早く面白いさを享受できるのがいい。実在の声優と違いキャラクター性がはっきりしていて外見の印象が強いので、短時間で魅力が理解できる。一方で、昨今の新人声優は入れ替わりが激しく、新人声優が主役デビューしても1年したら仕事が無くなっていたということも多い。アニメで目ぼしい新人声優を見つけて、番宣ラジオでその声優の人となりを覚えても無駄になってしまう。よって、ここ数年でデビューした声優はほとんど分からない。
バーチャルユーチューバーの呼称をまだキズナアイしか用いていなかった頃に動画を見たことがあるが、その時は魅力を感じなかったし将来性にも気づけなかった。『みならいディーバ』の仕組みを真似ているだけで特に面白くはないなと思っていた。ちなみに、『みならいディーバ』だけでなく、『gdgd妖精s』・『てさぐれ』などの声優ラジオの雰囲気を汲んだダテコーアニメも好きだ。声優ラジオ文化はダテコーアニメを通じて、キズナアイから派生した現在のVTuber文化へと昇華したのだろう。最近『すこだワ』を聴いて、声優ラジオの雰囲気を懐かしく思い出しながらそんなことを考えた。
せっかくだから好きなVTuberについても述べよう。ホロライブ所属の『赤井はあと』と『大神ミオ』だ。最近の『赤井はあと』はホロライブでもトップレベルの再生数を持つほどの人気があるので特に説明するまでもないが、ゲテモノ料理配信やMAD動画作成といった他のVTuberではまずやらないことをやるのがいい。『大神ミオ』は企画立案と司会進行能力に長けており、ホロライブメンバーを複数人集める企画では特にそれが顕著だ。中でも、『ホロライブ幼稚園』・『猫又おかゆ裁判』・『食レポ名人』・『擬音王決定戦』が好きだ。(今確認したら『ホロライブ幼稚園』のアーカイブは削除されていた。任天堂キャラの自作絵がまずかったのだろう)
VTuberの配信は、ゲームやカラオケの配信に絵がついてるだけだの、オチの無いおしゃべりで大量のスパチャを集めるバーチャルキャバクラだのと揶揄されることがある。そうした揶揄の対象になるようなエンタメ性の低い配信を望まないことも、『赤井はあと』や『大神ミオ』の企画力のある配信が好きな理由でもある。VTuberブーム時は、これまでにないエンタメが登場したことのワクワクに心躍るのが好きだったが、今でもその気持ちに変わりはない。
それだけに『大神ミオ』の著作権違反による対応として、配信休止となったことは残念でならない。しかし、『大神ミオ』の企画者や司会者としての立ち振る舞いを考えると、この対応は妥当であると言わざるを得ない。仮に著作権違反の責任をホロライブに押しつけることができたとしても、そんなことは『大神ミオ』のキャラクターに似つかわしくないからだ。配信活動を再開したら、また楽しい企画をやってくれることを切に願っている。
しょぼいと思われるかもしれないが、
自分の中で、新卒入社した会社を辞めずに三年続けるというのは、一つの大きな目標だった。
なぜなら、私はいつも、ある一つのことを続けていて、それが上手くいっていると急に台無しにしたてしまいたくなる癖がある。
中学生のとき、バスケ部に入っていた。毎日早朝と夕方からの練習に欠かさず参加していたし、チームメイトの輪を乱すこともしなかった。二年生になれば、ときどき試合に出してもらえるようになるかもしれない、という未来も見え始めていた。
私は一年生の最終学期、突然練習に行かなくなった。退部届を出したかどうかも覚えていないけれど、二年生からは全く部活に行かなかったことだけは確かだ。
単純に、どれだけ地道に頑張っても花形選手にはなれないと気づいていたから、努力するのが面倒になったのかもしれない。
ただ、そんなことは入ったばかりの頃にとっくに気づいていたはずなのに、なぜ一年続けた後で?という疑問は残る。
今でも古い付き合いの友達に「どうしてあんなことしたの?(とてもうまくいってるように見えたのに)」と言われてしまう出来事の一つで、一番古いものであるのは間違いない。
それ以前もちらほらと、小学校の読書クラブや、公民館の児童クラブ、友達に借りたゲームカセットで、似たようなことはあった気がするが、全て挙げていればキリがない。
二年生から受験のことは意識して勉強していたので、滑り止めの私立にはあっさりと合格して、本命の国公立大大学の前期試験に挑んだ。
父親はお前の好きにすればいいと言ってくれたけれど、母親は過保護なところがあったので、地元に残って実家から通って欲しいという願望(つまりは、第一志望には受からないで欲しい)が見え隠れしていた。
そんな母に実は気の引けるところがあって、あんなことをしたのだろうかと、ときどき振り返って考えることがある。
だけどそれはおかしい、と同時に思う。
結局私は後期試験で県外の第二志望の国公立大学に合格し、結局実家を離れることになったのだから。
前期試験のあの日、あの一瞬だけ、気持ちが揺らいだのだろうか?
自信はあった。
試験範囲の勉強は計画通りきちんと終えていたし、模試でもA判定かB判定が安定して取れていた。
今でも思う、あの日、あんなことをしなければ、多分50%くらいの確率で、試験には受かっていた。
第一志望と、後期で入った第二志望の大学は、だらちも国公立大学だったけれど、知名度と規模の点で大きく違いがあった。
もし、合格して、入学していたら、大げさでなく人生が変わっていたかもしれない。
そうしたら、今日こんな風にズル休みしてこの文章を書いていることもなかったかもしれない。
しかし、私がその正門の内側に入ることはなかった。
受験生に向けて、いろいろなパンフレットや、サークルのチラシを配っている学生や大人たちが待ち構えている花道を、私は通らなかった。
大学の正門前、最後の横断歩道を渡る前で私は立ち尽くし、しばらくそこで考えた後、踵を返して駅に戻った。
駅のトイレでしばらく座ってぼんやりしている内に、試験の着席時間が過ぎていった。
それでも、トイレから出て走って会場に向かえば間に合ったと思うが、私はそうしなかった。
駅のコンビニで、実際遅刻して走って会場に向かう他の受験生を見守って、完全に試験の開始時刻に間に合わなくなった頃に、電車に乗って、ホテルまで引き返した。
県外の大学だったので、受験会場のホテルに前日から泊まり込むことにしたのだが、家族はついてきていなかった。
好きなアーティストのライブを見るために、一人で遠征することには慣れていたのもあって、親の同伴を断ったのだ。
少しだけ後悔している。
きっと母親とホテルに一緒に泊まっていた、会場まで見届けられていたら、流石にあんなことは出来なかっただろうから。
私はやってしまった。
ホテルの部屋に帰ってきてから事の重大性に気付いて慌てて、色々な言い訳を考えたが、学校に行くのをサボったわけではないので、試験会場に行かなかったことが、学校にも親にもバレることはなかった。
感想を聞かれたら、「あんまりできなかった。落ちたかも」とだけ繰り返した。
同じ高校で同じ学部を受けた子はいなかったので、試験内容について詳しく聞かれてバレることもなかった。
受験発表の日、ネットで番号がないのを先生と確認して、「ああ、落ちちゃったんだね」で終わりだった。
月日が経って、時効かなと思えるようになって、友達にこの話をしたことはあるが、半信半疑だった。
長い間志望校合格に向けてがんばっていたから、はっきりと不合格の通知を受け取るのが怖くて逃げたのかもしれない。
思い当たることがあるとすればあと一つだけ。
学生の頃、留学資金を貯めるために、半年休学して工場で働いていたことがある。
いわゆる交代制シフトで深夜も稼働している工場で、かなりキツかったが、無遅刻無欠席で頑張っていた。
短期で来る人は流れ者のようなだらしない人も多かったから、班長からも信頼されて、普通は社員しか触らない機械の整備もさせてもらったりしていた。
大学辞めてこのまま就職しないか、なんて誘われたりもしていた。
さらさらその気はなく、期間満了までしっかり働いて、爽やかに終われたら、と考えていた。
その最後の週だった。
作業中、絶対に押してはいけないと言われていたボタンがあった。
大型の機械には事故防止のための緊急停止ボタンがそこら中に設置されているのだが、中でも、本当に緊急のとき(例えば腕が切断されそうになった、とか)以外は絶対押すなと言われていた、装置全体の非常停止スイッチがあった。
他の停止ボタンと違って、プラスチックのカバーで覆われていて、簡単には押せないようになっている。
この手の緊急停止スイッチは、いわゆる強制シャットダウンをするので、再び機械を稼働させる前にメンテナンスが必要になり、その間はラインを停止させることになる。
一部だけが停止されるスイッチならば、20〜30分程度で復旧できるが、全体を止めてしまう非常停止スイッチを押してしまうと、一日作業が再開できないこともある。
そうすると、当然のことながら生産に遅延が発生して、多大な損害が生まれる。
これをして頭を抱えるのはお世話になった班長だ。
班長は私には親切にしてくれていたが、短気で気分屋なところがあって、前に契約社員が一部の動きを止める緊急停止スイッチを間違って押してしまったときは、手もつけられないくらい荒れていた。
上からのストレスが相当あるのだろう。パワハラ と取れるような発言も飛び出して、結局その契約社員は期間満了を待たず仕事を辞めた。
それより更に悪い、全体の非常停止ボタンなど、押していいはずがないのだ。
私はそれを班長のそばで、班長の話を聞いて、誰よりも理解していた。
そして、一部停止のボタンを押すこともなく、これまで真面目に勤務してきた。
もうここまで来ればわかるだろうが、私は最後の週にそのボタンを押した。
プラスチックのカバーを外し、そのボタンを押すところを、誰にも見られないようにやったつもりだったが、他の作業員に見られていた。
班長は結局、(私がしどろもどろの言い訳をした後で)pわざとやったわけじゃないんだろうと許してくれたが、後でその目撃者に、何であんなことしたんだと尋ねられて、私は答えられなかった。
その日の作業ができなくなって、社員以外は帰されることになり、ロッカールームで着替えている時に、聞かれたのだが、当然答えることができず、無言を貫いた。
その内相手は苛立ち始め、覗き込むように私を見た。
私は残りの着替えもおざなりに、荷物を全て持ってロッカーを出た。
流石に外までは追いかけてこなかった。
そのまま逃げるように家に帰り、次の日から工場には行かなかった。
いわゆる「飛び」だった。
最低最悪なことをしてしまった。
それは、「私は本当はすごく悪い人間なのではないか」という不安だった。
理由もなくこんなことをしてしまうなんて、そんなことがあっていいはずがない。
ただの怠惰や、逃避癖を超えた、もっと悪い何かが私の中に根付いていて、一生そのせいで私は周囲に迷惑をかけ続けるのだと思った。
怖かった。
とにかく怖くて怖くて堪らなくて、就職活動中、たくさん適性検査という性格診断のようなものを受けさせられるものだから、この検査とやらで、私のその何か悪いものが見破られて、私はどこの企業にも就職することはできないのではないかと思うとさらに怖かった。
実際は、適性検査のタイミングで不合格となることはほとんどなく、まわりと比べて大した遅くもない時期に無事内定をもらえたのだが、そのときの自分にはそれが奇跡に思えた。
入社してからは嫌な上司に当たったり、苦労することも多かったが、今は待遇面で満足もしている。
こんな状況下でも収入は安定しているし、今の上司に感じている恩義も深い。
自分は何か物事がうまくいきかけると、自ら全て台無しにしてしまう癖がある。
きっとこの会社もせっかく入ったのにそんな理由で、最悪の辞め方をしてしまいそうで怖い。
何があっても、三年は絶対に続けよう。そう決めていた。
そして今年の四月で、見事それを達成した。
ああ治ったんだ、と私は思った。
私はもう、大丈夫なんだ。普通の人と同じように、最後まで頑張ることができる。人を裏切ったりもしない。逃げたりしない。もう大丈夫だ。
その自信が私を強くして、責任を持って仕事をできるようになってからは毎日が楽しかった。
今日も、連休前に済ませたい仕事がいくつかあって、それを終えれば長いお盆休みに入れたのだ。
それなのに、私はまたやってしまった。
朝はいつもより少し早く起きて、サボりがちな朝食も食べる時間があった。
会社に行く用意は前日からしてあって、あとは外に出るだけだった。
私は時間になっても、家の机に座ったままだった。
一人暮らしなので、誰かがそれを指摘することもない。
会社の始業時刻は朝9時だけれど、営業は直行直帰が多いのと、フレックスで事前の申請があれば11時までに行けばいいというルールもあるので、9時の段階ではまず誰からも連絡はなかった。
申請は出していないけど出し忘れたと言い訳すればいい。11時までに行こう、と私は思った。
11時を過ぎて、まずい、と思った。
遅刻するだとか、体調不良で休むだとか、連絡をするならこれが最後のチャンスだ。
それを嵌めて、今日もいつものように出社するつもりだったのだ。
ほんの数時間前までは。
私はじわじわと、これもまた「同じ」なのだと気づき始めていた。
怠惰なのか、逃避なのか、わからないが、自らうまくいっているものを台無しにしてしまう癖。
治っていなかったのだ。
三年が終わったので、気が緩んでいたのだ。
ああこの会社は本当に、私を雇ったのは間違いだった。
この病気は一生治らない。
発達障害だとか、そういう診断をしてくれるクリニックに行ったこともあるが、自分を責めすぎないでと言われて抑うつ剤を出されて終わりだった。
たとえ発達障害が原因だとしても、治療法はないのだから一生この自分の悪癖と付き合っていくしかないのだ。
ああ自分を責めるなと言われても、こんな風に周囲の人の信頼を裏切ることを繰り返してしまうのはやっぱり私が悪い人間である証明ではないか。
ああ怖い。
恐ろしい。
いっそ死にたい。
上司は午前中は外出の予定があったから、メールさえ家から送れば、すれ違いだと思われておしまいかもしれない。
明日からはお盆休みだから、休み明けに何食わぬ顔で出社すれば案外バレないものなのかもしれない。
しかし、私がまた「やってしまった」ということに変わりはない。
私が「そういう人間」だということに変わりはない。
私は
私は……