はてなキーワード: 電線とは
乳酸菌を取る輩は嫌いなので、白物家電を見る目つきはまこと女体へのそれであり、
白日の下に晒されたおれのプライバシーは、しかし、かつて夢見た発熱とマラリアの
延長線上であることに気づかされた。
発掘は悪であり、正義とは只管に傾けられた情熱でしかない。人は狂った果実を食べることで、
ようやく動物から2層のフィルタを通じた、一時の牙を得られるのだ。
「ははぁ、シャンソン歌手だな?」というせりふには2重の意味がある。
2つはきっと、直行する砂塵で、バンドエイドではとても止められる代物ではない。
畢竟、喪失した青春はめくるめく雨粒の合間を縫って帰るしかないのだ、
ところが、繰り返された日々の間に間に、それは成長と肥大を繰り返しては
アンチ・ミステリを嘲笑する大痣から鏡越しに監視される条件を持っている。
左の喧騒は、創造の域を出ない右脳から直結するし、左脳にいたる3つのバイパスは、
そのいずれもが生まれてまもなく、破壊される。
なぜか。反逆だからだ。分別の無い、獣だからだ。風を読むのはたやすいが、
それを応用するのは人間の仕業だ。技術は無い。技術とは業だからだ。
さて、業とは何か、恋に怯える皮膜が電線を伝ってコンセントからにじみ出る様を、
人は業と呼んだ。昔の話だ。
今は違う。天球が恋だ。恋そのものだ。だから自転するし、軸もある。
人に軸は無いから、根源にもいたれない。想像することで補完する世界もあるが、
気狂いの激しい21世紀ではそれもまた、難しい部類に入る。
弱みを見せてはいけない。「普通」が一番変拍子をないがしろにするからだ。
沸点はあるか?興味を持ってもいけない。表層が煮えていても、その実、芯は
構造を何ひとつ見せていないではないか。心をあけっぴろにすればするほど、
それは堅牢さを保ち続ける。
リアルにもネットにも吐き出す場所がなく、いい加減気がおかしくなりそうだったので、チラシの裏代わりにさせてほしい。
たぶんADHDも併発している。
人の顔や名前が覚えられない(すぐ忘れる)ってのは学生の頃から気づいてはいたんだけれど、
この度、4度目の転職先で、そういった能力の欠如っぷりから職を失って、
ものの見事に高い数値が出たらしい。
診断を受けたいと主治医に頼んだときは、障害と認められたら少しは楽になれるだろうかという気持ちがあった。
でも今は、ただただ不安で、死にたくて仕方ない。
いや、死にたいというのは正確じゃない。
「なんで自分なんか生まれたのか」とこの世の全てを呪っている、と言った方が正しいか。
死ぬという行動は、今の自分には要するエネルギーが大きすぎる。
そんな元気は、ない。
主治医から「就職もできているのだから障害ではなく"傾向"だろう」と言われたのも精神的に参っている理由のひとつだろう。
コネで入った最初の会社からはじまり、転職する先々で三ヶ月もすれば必ず抑うつ状態になって、薬飲まないと会社に行けなくなるのを、果たして「就職ができた」と言っていいんだろうか。
少し判断に困る。
でも、これまでの転職先はみんな自分にあっていると思って選んだ仕事だった。
そして結局は(最後の職場を除き)仕事に関係ない部分でつまづいて退職してる。
たぶんこれからも、状況はそう変わらないだろう。
就職活動中に抑うつになって帰ってきてから、ずっとここで生活している。
中小企業だったら使ってるAdobeソフトが全部違法コピーなんてもザラだ。
そういう会社内の人間関係というのは、推して知るべしというか。
まあ、案の定自分は脱落者となった。
それですっかり一般企業が恐くなってしまって、つい最近までは大学で非常勤の実験助手をしていた。
金を儲けることは悪ではないけれど、やっぱり金に頓着しない組織というのは窮屈でなくて居心地がよかった。
売上成績は上がっているのに、個人的嫌悪感から「おまえの評価を下げて正社員じゃなくしてやる」と三ヶ月ごとに脅される心配もないし。
ただ、そこで判明したのが、自分がどうもアスペルガー症候群でADHDらしいという事だった。
これまではデスクワークばかりで、自分の障害がそこまでダイレクトに不都合を起こしたことがなかった。
だから、電話の言葉が聞き取れない(声でなく言葉が入ってこない)だとか、パソコンに向き合っていると呼び鈴の音に気づけないとか、特に理由がないのに朝礼というだけで気持ちが悪くなるとか…それまでの職場でもあったけれど、そこまで深刻に考えてなかった。
それが、実験助手という仕事についてからは、惨憺たるものだった。
忘れたということ自体を忘れてしまっている。
耳から入った言葉を短時間でも頭にとどめておくのが難しいから、メモを取りながら説明を受けても、必ずいくつか忘れてしまう。
そして、無事に覚えられたとしても、研究室という場所は物の位置が頻繁に変わる。
試薬を持ってきてと言われる度に、「あの試薬はちゃんと前と同じ位置にあるだろうか」と緊張感で冷や汗が出そうだった。
実験動物のケージなんて、ヘタをすれば日替わりで動くので、もう動物舎に入る事自体が恐くて嫌で仕方なかった。
そして、状況判断ができない。
これは指摘されるまで全く自覚がなかったので、多分いまも意識することさえ出来ていないと思う。
危ない行動を危ない事として意識できないらしい。
実験室にこんな人間がいると思ったらゾッとしない。他人事として考えればすごくわかる。
くわえて優先順位をつけるということが出来ないから、目に付いた作業から片付けようとしてしまう。
これも言われれば分かるのだけど、詳しく説明されないと「優先順位」というのがどの程度優先すべきものなのか具体的に理解できてないからなんだろう。
ここまでを読んで、文字だけでもイライラしてくると思うけれど、極めつけがまだある。
そして視界に入っているはずのもの、耳に入っているはずの音が全く認識できない。
流しの排水管が水漏れを起こしたことがあったが、自分は流し台の中にしまわれていた実験器具が濡れないように避難させるのに必死で、その間に別の人が洗い物を始めてしまっている事に全然気がつけなかった。
あとで「なんで先に言ってくれないのか」と責められても、何を責められているのか本気でわからなくて(そのあと詳しくどういう状況だったのかを説明してもらうまで)理不尽に叱責されたと苛立つばかりだった。
これは、あとから説明されたから「自分が見えていなかったのだ」と理解できた希少な例で、たぶん、本当はもっといっぱいこういう事があったんだろう。
アスペルガーのお約束として、雑談が苦手なのも人間関係を冷え込ませるのに実に効果的だ。
他人と共感が本当にできない。
びっくりするくらい出来ない。
だから言わないでいい事を言う。
…と、ここまでは何となく自覚があるので、社会人二年目あたりからは極力しゃべらない事で他人から不快がられないようにしようと出来る限りの努力はしていた。
大して面識のないの相手には天気の話でもしておけば、それなりに定型発達っぽく会話が成り立つし。
子供のころに「人の鼻の頭を見て喋ればいいんだ」と教えられたおかげで、目線が合わせられなくてキョドるなんていう典型的アスペみたいな動きもしない。
おかげで初対面の人間相手だと、実にまともな人間らしく振る舞える。
でも、これが逆によくない。
同類がいたらアドバイスするが、付き合いが長くなるであろう相手に対して、マニュアル通りのまともっぽい振りをするのは絶対にやめた方がいい。
三ヶ月もすると、逆に不自然さが際立って薄気味悪がられ、自然と会話が無くなっていく。
実例が言うんだから間違いない。
何より苦痛なのは、直接話をされていない職場内の人間の冠婚葬祭の話題を、周りの空気から読み取らないとならない場面に数回でくわしたことだ。
健常な人は周りが話してる雑談からそんな情報まで正確に聞き取れるものなのか?ほんとうか?だましてないか?
…まあ、そんなこんなで、好意というか敬意さえ抱いてるような相手にまで嫌われる。
仲良くしたいからと何かするたび、嫌な顔をされた。
けれど、いまだに何故いやがられたのかが理解できてないので、多分これからも好きな相手には嫌われ続けるんだろう。
アスペルガー症候群は鈍感で空気が読めないから、お気楽だろうと思ってる人もいるかもしれない。
でも実際のところ、物凄く気を遣う。
前の晩から「どうやったら喜んでもらえるのか、どうやったら役に立てるのか」を考えて、朝おきてはそれを復唱して、それで現場では何一つうまくいかない。出来の悪いコントみたいだ。
気を使っても使っても、全然気が利かない。
気を遣うのと気が利くのは別の意味なんだって、大人になって身をもって理解した。
気が利かない人間なんて、そりゃ嫌われるよな。書き出して振り返ってみれば、すごく当たり前のことだった。
耳から入った情報が覚えられなくて、状況判断が下手で、危険察知もできない人間が、まともに実験なんてできるわけもなく。
精度はボロボロ。
それでまあ、今回は人間関係とはかかわりない理由で退職することになった。
昔から「おまえは規格外だ」「なんで普通にできないのか」と何度も何度も怒られてきた事の延長線みたいな感じ。
実験助手の仕事をしていて、自分がアスペルガー症候群でADHDだろうというのは確信に近かったから、障害の話も説明したかったけど
全く聞いてもらえなかった。
すぐにでも仕事を見つけてこいと突っぱねられて、
でも自分がもうどうしようもなく仕事ができない事は理解してるから途方に暮れて、
それで逃げ込むように掛かり付けの精神科に行った。
母親は結局だれから間接的に私のことを説明されたのだろう。わからない。
ただ「障害年金がもらえるんなら良いじゃない」とだけ言われた。
診断結果がでるまでは、とても再就職する気になれなかったが、
自分の持ってる技能を活かせそうな会社の中途採用にも申し込んでみた。
たぶん、また「自分が見えてなかった」んだと思う。
急に殴られた。
殴りながら「おまえなんか、そのうち誰かに殺される」と言われた。
そんなの知ってる。わかってる。
きっとそのうち、一番好きだった人に殺されるんだろう。
「だったら、生まれたその日に殺せば良かったのに」
と、殴り返した。
本当に、なんで、自分なんかを生まれさせたのか。
目がついていても見えない、耳があっても聞こえない、口があっても喋れない。
こんな使えないものなら、はじめから持たずに生まれてきた方がどれだけ幸せだったか。
きっと自分は上から生皮をかぶってはいても、本当の姿は大昔の特撮ヒーローに出てきた、いびつで醜悪な機械人間みたいなものなんだろう。
片目だけギョロギョロとでかいレンズがついて、開閉することのないジャバラの口、耳の代わりに電線の出来損ないみたいなモンがくっついてる。
それに人間のどろどろとした黒い髪が生えてるんだ。
可愛げなんてない。ただただ気味が悪いだけの化物。
そんな化けもんでも、人の役に立てるもんなら立って見たいと、思ったのがそもそも間違いだったんだろう。
やっぱり、まともな会社は化物になんて興味を持たない。
違法コピーや密輸やパワハラで溢れかえったような会社しか、気味の悪いおばけを拾っちゃくれない。
きっと死んだら化物として墓も用意してはもらえないんだろうけど、それでも生きてるかぎりは人間たちのヒーローでいられる。
いい歳をしてみっともないんだけれど、今でも仮面ライダーになりたいと思っている。
虫なんて大嫌いなのにな。
きっと本当に変身できたら、自分の顔の気持ち悪さで死にたくなるだろう。
それでも、きっと、今の自分の顔を見るよりはずっとずっといい。
仮面ライダーのことを思いながら死んだら、生まれかわれないもんだろうか。
生まれ変われるならば仮面ライダーになりたい。
先週の1月17日、やはり自分の観測範囲にもいくつもの震災の感想みたいな投稿が流れてきて、色々と自分でも思うところがあったので書いてみようと思う。記憶違いもたくさんあるかもしれないが。
1995年当時、自分は神戸市長田区に住む18歳の学生だった。いつのまにか震災前と同じ時間が経っているということに今気づいた。
あの日、1月17日に提出しなければいけない課題があったので、朝3時くらいまでかかって課題を片づけようやく眠りに落ちたころに、まったく経験したことのないほどの揺れで目を覚ました。揺れで目を覚ましたというより、目を覚ますまでそれが揺れであるとは理解さえできていなかった。古く狭い家で所狭しと家具や家財が並べてあったので、自分の上にも多数の本が落ちてきた。本棚でなく本程度でよかったと、後から部屋を眺めて思った。とにかく、階下で寝る親が大丈夫なのかと傾いた階段を駆け下りた。造りの古い家なので隣家と土壁が共有されているはずなのに、割れた壁のところどころから外からの光が入ってきているようだということに階段を下りながら気づいた。隣家との間に隙間ができたのだろうかとぼんやりと思いながらも階下へと急いだ。部屋は恐ろしく家具が散乱しいくつもの食器が割れているものの、幸い親も兄弟もとくに怪我もなく無事だった。とにかく外に出ようと身近にあった上着を羽織り家族で家の外にでた。壁を共有するはずの隣家は、我が家と隙間があいたのではなく、完全に倒壊して路上で瓦礫の山と化していた。すぐ近くにも、1階が倒壊し瓦礫の上に乗る2階、のような家屋がいくつかあった。自分の家が半壊で済んだのは本当にたまたまだったんだと思う。普段、挨拶することもめったにない近所の人たちと会話を交わす。幸い崩れた隣家の人は無事だったようで、すでにどこかへ行ったとのこと。まだ外は薄暗く「今何時ですか?」と今思うと少し間抜けな質問をした覚えがある。まったく現実味がなかった。
母に促され近所に住む祖父母の様子を見に行く。祖父母の家は我が家以上に古い建物で密集して立っている。徒歩で15分ほどだが必死で走った。家はかなり崩れかけていたが、幸いにも倒壊せずに原型を保ち、二人とも怪我もないようだった。あとでもう一度来るから注意して暖かくして、と言い自分の家へと無事を伝えに戻った。今ほど携帯電話は普及していなかった。
家に戻るころには空が白み始めていたが、すでにそのときにはあちこちに黒い煙が空高く登っていた。家にもどり再び家の前で近所の人たちと状況を交換しあっているときだったと思う、どこかから「裏で人が埋まっている」という声が聞こえた気がした。気がしたのではなく聞こえたはずだった。でも、自分にはまったく現実味がなくどうすればよいのかわからず動けなかった。このときの自分の行動、何もしなかったという行為を今でも激しく悔いている。
そこからしばらくはよく覚えていないが、午前中には祖父母も連れ、家族で近所の小学校へ避難しようということになったようだ。たまたまその小学校は何年か前に立て替えたばかりの新しい校舎で、大勢の人に安心感を与えていた。学校へ着いた時点ではまだ給水タンクに水が残っていたようで、とりあえず持っていた水筒に少しだけ水を入れた。すでに大勢の人がいたが、とりあえず手頃な教室へと入り、家族、祖父母あわせて6人で2畳ほどのスペースを拝借した。あとから知ったことだが、早い段階で小学校へと避難し、教室へ入れた人は恵まれていたようだ。午後には教室や体育館といった室内はすでに足の踏み場もないほどの混雑になり、大勢の人が階段や廊下で寒さに凍えることになった。
誰かがポツリとどうしたらいいのか誰か指示してよと言うのが聞こえた。まったくそのとおりだと思ったけれど、絶対にかなわないことだし、自分をしっかり持たなくてはと思った。
自宅も祖父母宅も、周りは火の海になっていて、家まで火が来るのは時間の問題だと思ったので、とにかく貴重品と身の回り品を避難先の小学校へと急いで持ち出した。途中、小中学校のころの同級生とすれ違う。お互いよかったと声をかけつつも精神的にも時間にも余裕がなくそのまま別れる。
いつの間にか夕方になっていたけれど、相変わらず現実味はわかなかった。いつのまにか、誰かからおにぎりを頂いていたので食べた。小学校の教室で2畳ほどのスペースで6人で寝る。隙間で横になるものの、興奮して眠れないので諦める。校舎の外ではすでに自然発生的にできあがった自警団のような人たちがたき火を囲んで輪になっていた。
翌日、翌々日と何をしていたのかあまり覚えていないが、とにかく顔を洗って歯を磨きたいと思ったことだけは覚えている。3日も経てばそんなことはどうでもよくなった。幸い、食事に関しては小学校へ十分な量の支援物資が届けられ、あまり困ることはなかった。毎日歩いていた街が完全に焦土になっていることに強いショックと悲しみを受けながら、なんとはなく道を歩いて過ごす。今でも火事のあとの匂いや解体現場の匂いがすると心が締め付けられる気がするのはこのときの記憶とつながっているからだろうと思う。
このころ、テレビの広告が公共広告機構のものではなく通常のCMに戻った。避難先の小学校の教室では常時テレビがつけられていたので、CMが切り替わったことに大勢の人が不快感をあらわにしていた。
5日目くらい経ったところで、母親の友人が家へと招いてくれた。最寄駅はすでに焼失していたので、20分ほどかけて隣の駅まで廃墟の街並みを歩く。電車に乗り3駅ほど移動すると、まったく地震なんてなかったかのように日常の街並みが広がっていた。母親の友人宅で風呂に入り、暖かい食事を頂く。普通の家庭というものをひさしぶりに思い出す。電車に乗って帰り、また30分廃墟を歩いて小学校へ帰る。滋賀の親戚が祖父母を預かるとのことで、祖父母を送り出す。
1週間を過ぎたころ、担任から来られる学生だけでも登校するようにとの連絡が入る。片道30分歩いて電車に乗り、久しぶりに学校へ。やはりここも地震なんてなかったかのような日常そのままが残っている。何人もの同級生と抱き合って無事を喜びあう。
電車に乗って数駅移動するだけでまったく地震の影響を受けていない街が広がり、みんないつも通りの生活をしているということに理不尽な怒りと焦りを感じる。
あちこち綻んだ家を親の友人の大工に応急処置してもらう。とにかく散乱した家具や食器を片づける。家の前で切れてぶらさがる電線を関西電力の作業員に直してもらう。そんなことをしながら2週間ほど経つ。ガス、水道はないので自衛隊の給水車へ毎日ポリタンクの水を入れてもらい、カセットコンロで最小限の湯を沸かす。不思議なもので、ポリタンクやカセットコンロがこのころには十分な数が普及していた。おそらく支援物資として大量に届けられたりしたんだろう。ありがたいことだと思った。
1か月ほどして小学校から自宅へと戻る。ガスは相変わらず出ない。そのころから毎日ではないものの通学も再び始める。
テレビでは震災特番だけでなく通常の番組が流れている。いつのまにかオウム真理教のニュースが増えている。世間全体が地震のことなんて忘れているんだろうとやはり理不尽な怒りと焦りを感じる。そう思いつつも、自分には帰る家が残っていたが小学校には帰る場所のない人たちがまだまだいるんだということに思い至り、自分の理不尽さを恥じる。
あれから18年。いつのまにか地震前と同じだけの時間が経っていた。忘れてはいけないと思う。今でも東北では大勢の人が震災の真っただ中にいることを。忘れられることが一番つらいことだと思う。
最後まで駄文を読んでいただきありがとうございました。阪神大震災、東日本大震災で被害にあわれた方に心からお見舞い申し上げます。
あぁ、これは私個人の考えだけど自殺は命の問題になる。あと失業率と犯罪の関係も長期的には心配になってくる。
という訳で景気悪化で男性失業者の自殺が増えてるなら、公共事業で仕事を増やすべきと思ってる。 別に電線の埋め込みなり、道路でも福祉でもね。
これは利益の再分配の問題だと思う。
仮にダメ男性が経済的合理性では死ぬはずだったとしても、救済はされた方がいいんじゃないのかな?
逆に弱い女性が弱肉強食的に死んでいるのであれば、救済された方がいいよな、と思う(メキシコ レイプ・ツリーみたいな)
というと「バラ撒きなのかよ」って批判はあるのだけれど、
ぶっちゃけ地方だと公共事業のような形で国によって利益の再分配がなされないと成り立たない。
http://www.jcp.or.jp/web_download/seisaku/20121126-seisaku-dj-net.pdf
これを読むと、同じ災害を引き起こさないための対策は一切行わないようにみえる
http://www.jcp.or.jp/web_policy/2012/11/2012-07.html
だが、分野別政策を読んでみるとこう書いてある
長周期地震動や地盤の液状化などへの対策を強化し、被害を最小に抑える取り組みをすすめます。交通やガス・上下水道などライフライン施設、河川堤防、がけ崩れや土石流などの危険箇所、老朽化したため池など、災害危険個所の点検を急ぎ、必要な補強・補修を優先しておこないます。住民の要求をよく踏まえて、電線の地中化など、安全性を高める措置をすすめます。災害対策を無視した開発行為の規制など、まちづくりそのものを、開発優先から、防災を重視した住民参加型に転換します。開発や土地利用の変更にあたって、災害に対してどのような影響があるかを事前にチェックする防災アセスメントを導入します。森林の荒廃が大量の流木や大規模な土石流をひきおこし、被害を増幅しており、間伐や風倒木撤去の徹底、作業用林道の回復措置などを確実におこなえるよう必要な支援を強めます。災害復旧にあたっては「原形復旧」をおしつけるのではなく、再度災害を防止するため必要な「改良復旧」をすすめます。
必要な補強を行うには土建屋に作業を頼まないといけない。同じ災害を防止したりするのも同様だ
頼む主体は国だ
国が行う事業は公共事業と呼ばれているから、必然的に需要も増えることになる
つまりやろうとしていることは自民党の国土強靭策と同じになるのだが、政策ダイジェストではそれに触れられていない
まったくもってバカだとしか言いようがない
太陽電池の効率を上げる研究が進んでいるが、藻から油を搾り取り、絞り粕はアルコール発酵させるという手法の方が、エネルギー効率的には遙に上回るし、水資源の豊かな日本にはふさわしい。既存山林の木材資源にしても、高速道路の国道化によって輸送コストを大幅に切り下げる事ができるのであれば、火力発電用の燃料としての転用が可能になる。木材だけを燃やした灰ならば、酸性土壌の改良材として使える。
太陽電池は、時間と共に性能の劣化が始まり、電池本体だけでなく、そこから電気を取り出す電線や整流装置等の耐用年数が短く、採算が取れる時期が永遠に来ない状態にある。特に、日本は高温多湿であり、電気系そのものである太陽電池にとって、環境は劣悪である。ほとんど雨が降らず、雲も発生せず、風も吹かない砂漠や礫砂漠のような環境でないと、太陽電池発電は採算は取れない。
台風や梅雨が目の前にあるというのに、日本中の家のすべての屋根に太陽発電パネルを載せる等と吹いているが、もう少し、現実的になるべきであろう。
太陽電池の効率を上げる研究が進んでいるが、藻から油を搾り取り、絞り粕はアルコール発酵させるという手法の方が、エネルギー効率的には遙に上回るし、水資源の豊かな日本にはふさわしい。既存山林の木材資源にしても、高速道路の国道化によって輸送コストを大幅に切り下げる事ができるのであれば、火力発電用の燃料としての転用が可能になる。木材だけを燃やした灰ならば、酸性土壌の改良材として使える。
太陽電池は、時間と共に性能の劣化が始まり、電池本体だけでなく、そこから電気を取り出す電線や整流装置等の耐用年数が短く、採算が取れる時期が永遠に来ない状態にある。特に、日本は高温多湿であり、電気系そのものである太陽電池にとって、環境は劣悪である。ほとんど雨が降らず、雲も発生せず、風も吹かない砂漠や礫砂漠のような環境でないと、太陽電池発電は採算は取れない。
台風や梅雨が目の前にあるというのに、日本中の家のすべての屋根に太陽発電パネルを載せる等と吹いているが、もう少し、現実的になるべきであろう。
それほど長い間公開されるとは思えないので、転載させていただきます。
減額ナシは当然のこと 2011年05月13日22:26 東電 退職金など減額検討せず
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1600765&media_id=2
当たり前ですね。
福島沿岸は14mなんて津波は想定されておらず、耐震はもちろん護岸関係も
外部非常電源も国の安全委の最新のデータでは1台で良いとされて
おり、それが機能喪失する確率は1/1000と評価されております。
今回、東電は福島第一において2台設置しておりました。結果として、
それが津波で2台とも喪失しました。1/100万の確率が的中してしまった
これをもし、想定内とするならば、三陸沿岸に国が09年に完成させた
防潮堤の損壊はどうなるのでしょうか?市町村も国も住民も「これほどの
津波は想定できない」と言っております。防潮堤が想定外で原発関係が想定内というのは国民の支持を得られないでしょう。
さて、この国の電力設備の構築には戦中を除けば官の力は一切使われて
いません。
電力会社は明治期に起こった各地域の電燈会社が由来です。その後、
電燈会社が統廃合を繰返し、大同電力、宇治川電力等が誕生しました。
実は、この頃の電力会社は今のような地域独占性ではなく、乱立状態
疲労劣化を招き統廃合が進みます。つまり、日本の戦前は電力自由化
戦中は政府の介入により発送電を担う日本発送電と各地域の配電会社に
再編されました。公社時代を経ている沖縄電力を除けば、電力に官の力が
戦後は日本発送電と配電会社は解体され、1951年5月に今の電力会社が
1地域1社体制で誕生しました。日本の電力の誕生は純粋な民間資本で
起こり、設備は民間力で築かれてきました。官営八幡製鉄所が元の
今の製鉄業、鉱業、運輸業等、今ある大企業のほとんどは官に設備の
さて、話を元に戻しますが薬害エイズ等、民間会社が起した事故であっても
国の基準や運用そのものに問題があれば、国も責任を負っています。
今回も同じでしょう。国の最新の基準を守っていたのは明白なわけであり、
今回はまずは政府が率先して補償する、つまりは税金を投入することが
先決です。原子力事業とは安全に細心の注意が必要であり、そのような
安全を守らせるために国の基準があります。基準を守っておきながら、事が
起きたら「税金の注入は許さない」では、電力会社はリスクだけ負って何も
ペイしない気の毒な存在と言えます。本来であれば免責でしょう。
もし、反対するのなら公的資金で賄われる彼らへの援助、税額控除、補助等を
すべて剥奪すべきでしょう。
”ベンチャー”を崇拝するこの国ですが、その国民が最古の”ベンチャー”を
つぶそうとするその不穏な動きに大変強い怒りを感じております。
到底許されることではありません。
>三陸沿岸に国が09年に完成させた
>防潮堤の損壊はどうなるのでしょうか?
沿岸に、今回の津波に耐えうる堤防を造らなかった国はその地域の
住民を見捨てていたことになるがね。
>今回はまずは政府が率先して補償する、つまりは税金を投入する
>ことが 先決です。
福島や浜岡の件もそうだが国の指針を守っていたのに、その法を超えて
事業者の負担を第一としたり設備を止めさせるのは、民間への政府の
不当な介入であり民業圧迫でもある。
今回のような未曾有の災害の補償、復旧に関わる費用は国民全員で
分かち合って負担するのが復興の原則だと思うがどうかな?
全く同感です。
「国策」として運営されていて、万が一の事故のためにある原子力損害賠償法においても国の責任は免れないと思います。
しかしいざ事が起こった段において民間を前面に出すようでは「国策」の根幹も危ういように思います。
「想定外」に対して何でもかんでも噛み付くのは勝手な思考の短絡以外の
何物でもない。
JALという会社の件は記憶に新しいところだがJALの経営悪化の
核心とも言える整備業を外注という事態になった。これにより
整備技術の流出、技術継承ができなくなり直営技術の低下を招いて
原発は高度な技術の塊でもあり電力事業とは発電(運転)と流通の
連携がとれて初めて成り立つ。それを(事業者として)分離してしまったら連携能力が低下し、こと心臓部の制御技術は組織によって維持されるがそれも低下してしまう。
そうしたらJALと同じだろう。今度は世間の「東電いじめ」による世間による「人災」という名の深刻な事故が怒るね。
そもそも電力は同量発電同量消費が原則であり、メーカーみたいに
そんなリアルタイムで変わる高度な電力需給を支える組織人にそれ相応の報酬や福利厚生は与えられるべきであり、そもそも今の減額された
給与体系ではとても釣り合わない。中小企業とは違うことを誰もわかっていないことが残念な限りだ。東電社員の待遇保護は国としてしっかりやらねばいけないことと思う。
もっとも、この国の住民のほとんどは大企業に冷たい。派遣とか生産性の低い人には生活待遇向上をさせるべきと言っておきながら、エネルギー事業という国策を民間で行っている人には「全財産投げ打て」とか「リストラで処分しろ」と言うんだからな。
栞…つけさせて頂きます
>結果として、
>それが津波で2台とも喪失しました。1/100万の確率が的中してしまった
世の中には確実に予想できることと、計算不可能な不確実な事象が
あることが切り分けられていないことが問題かと考えます。
不確実な事象でしょう。東北では14mを超える津波は三陸海岸にしか
来ていません。その三陸にはさらに高い津波が押し寄せてビントロ巻きさんの
おっしゃるとおり最新の防潮堤をも破壊してしまったわけですが。
何か物事が局所的に捉えられて全体を見渡した議論がされていないことは
気がかりです。
あの…電力喪失は津波が原因じゃないって事は、既に語られてるんですが?
で
最初に語ったのでしょうかね?
何点かご見解をお聞かせいただきたく。
・震災直前に、33機器の点検漏れ(しかも半年から11年もの漏れ)に関する報道がありましたが被害拡大の要因としての可能性はどのようにお考えですか。
・ステーションブラックアウトの後の電源車手配(の不足)、および作業の失敗が伝えられましたがこの点についてはどのようにお考えですか。
・ベントの指示から実施までの時間についてはどのようにお考えですか。
・海水注入についても東電の判断の遅延を指摘する向きがありますが、この点はいかがでしょうか。
・かつて2002年にはシュラウドのひびさえも隠蔽する事件がありました(発覚しました)。今回のステーションブラックアウト以降の被害拡大について、国民のどれほどが東京電力を尊重するとお考えでしょうか。
・法的責任以外の道義的/社会的責任についてはどのようにお考えですか。
尚、くれぐれも邪推はなさいませんよう、文章そのままにご理解いただけますようお願いいたします。裏は一切ありません。これらの点について、ご見解をお聞かせ願えますか、とだけ申しております。
根拠のない暴言はやめてもらいたい。
・電気野郎さん
貴重なご意見ありがとうございます。
三陸の防潮堤との比較について補足ありがとうございます。
されていました。が、どこかの○主党とかいう党(別名・公共事業
・低気圧(;・∀・)さん
JALもそうですが本来、公共インフラを担う場合、一組織が運転・保守・
必要です。一見関係なさそうな営業も供給の受付には配電線容量や
引き込みの電柱の調整など流通部門、設備保全部門との調整が必要に
なります。つまりは全てが繋がっています。それを切り離そうなんて
言語道断だと思います。これでは設備のわかる営業や、発電のわかる
設備屋が育たず、結果として未来の電力需要と供給力の刷り合わせが
・なごやんさん
今は物事が一方的な視点から強引に検証させられている気がします。
でも、一番問題なのはハード面の対策(原発の安定化)を鋭意行ってい
る東京電力の支援をしっかり政府ができていないことが問題です。
東電は福島第1原発の復旧および運転再開(廃炉前提の5・6号機の再開は
必須だ)で手一杯なので、避難住民への補償といったソフト対応は政府が
主導となって迅速に行わないといけないと思いますが。
・ZYX@まも~さん
まだ検証も途中なのに、非公式な談話を持ち出すのですか?
それと、私は「結果として、それが津波で2台とも喪失しました。1/100万の確率が的中してしまった 」と書きました。1/100万という確率は飛行機墜落事故で死ぬ率より低いんですよ。
仮にこれが津波が原因でないとするならば、偶然にもこの確率が当たってしまった東電にとって不幸な出来事になりますな。ならば、
なおさら公的資金による補償をしていただかないと国民世論はおさまりません。
・とりすさん
>ステーションブラックアウトの後の電源車手配(の不足)、および
>作業の失敗が伝えられましたがこの点についてはどのようにお考えですか。
原子力発電所の第一関門は「止める」です。まずはこれに注力ですな。
電源車の不足といいますが、電源車は足りていました。ただ、原発と
外部を結ぶ特高送電線鉄塔が損壊したことにより外部電源が絶たれました。 外部電源が絶たれたので所定の電源車では足りなかったわけですね。
ところで近年中に発生するとされていた宮城県沖地震の想定Mは最大で
7.5でした。つまりは阪神大震災のチョイ上ですな。この程度なら
鉄塔は損壊しません。が、今回はどの地震学者も予想していなかった
M9でした。エネルギーに換算すると阪神大震災の1000回分です。
このような予想不可能な現象の発生により外部電源が絶たれ、これこそ
>・ベントの指示から実施までの時間についてはどのようにお考えですか。
適切ですな。放射性物質を外部に出すのは相当慎重な判断を要求されます。
ベントの指示の時間を言及される方がいますが、これは政府の周辺地域の説明等の手際の悪さなどが原因です。東電はとばっちりを喰った格好です。
もし、根回しに時間がかかるのなら、「放射性物質拡散についてのいかなる損害や補償も現政権が公的資金の活用によって責任もって対応する」と事前に東電と確約を行えば良かっただけです。
>・海水注入についても東電の判断の遅延を指摘する向きがありますが、この点はいかがでしょうか。
海水注入は炉内に塩分を固着させることにより、その後の冷却系統の接続等に支障をきたします。そもそも非公式とはいえ、政府に事前に淡水をろ過する大型ポンプの提供の申し出を行った企業があったにも関わらず、海水注入にこだわった現政権の手際の悪さが原因です。
淡水による注入を上空もしくは地上から行っていれば、水素爆発も
免れたでしょう。残念です。
>・震災直前に、33機器の点検漏れ(しかも半年から11年もの漏れ)に関する報道がありましたが被害拡大の要因としての可能性はどのようにお考えですか。
>・かつて2002年にはシュラウドのひびさえも隠蔽する事件がありました(発覚しました)。今回のステーションブラックアウト以降の被害拡大について、国民のどれほどが東京電力を尊重するとお考えでしょうか。
意図的に結び付けようなんて考えないでくださいね。33機器の点検漏れがあっても、原子炉の停止および冷却系統は地震発生当初稼動していました。件の発電機も稼動試験では正常動作しています。
国より補足で出ていますが。私個人としては、こんなことを攻め立てる
国民はおかしいかと思うね。機能や時点で最新の基準と照らし合わせた検証で事実上問題なければ、法令の逸脱による説明を東電に求めるのは
ありですが、それを処分までして原発を全部停止なんてのはありえない判断だと思います。
これについては当時の旧福島県知事の対応が諸悪の根源でした。一地方県知事の意見によって国策の原子力を止めさせるなんて暴挙以外の何物でもない。
ところで、たしか、この知事って汚職か何かで逮捕されませんでしたか?
今日はここまで。
「現在の日本の電力の30%」という話と,消費電力の伸びは家庭部門が大きいということから,
省エネ+太陽光(ま,新エネルギー全般でもいいですが)が30%になればいいということなら,
年間何キロワットか,遅ればせながらWikipediaで調べてみた.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
国名 | 運転中 | 建設中・計画中含む総量 |
アメリカ | 106,061 MW (105基) | 107,261 MW (105基) |
フランス | 66,020 MW (59基) | 67,650 MW (60基) |
日本 | 49,467 MW (55基) | 66,977 MW (69基) |
世界全体 | 392,128 MW (435基) | 480,501 MW (531基) |
日本は原発を相当推進していたんですね.フランスを超えて2位になりそうな勢い.
世界でも数少ない原発を作る企業を抱えているし,CO2削減という点でもいいんだから,それを推進するのは納得できる.
で,気になるのはアメリカが計画中がわずか1基というところで.
実は私は原発は必要だと思っていたのですが,大前研一のこの話で考え中です.
http://www.youtube.com/watch?v=U8VHmiM8-AQ
まとめると,
とのことです.
彼は特に太陽光発電を原発の代わりにとは言っていなかったと思いますが,
個人的に太陽光発電が面白いと思うのは分散発電だという点です.
いつだったかクレーン船が電線ひかっけて大規模停電になたことがあったじゃないですか.
首都圏大規模停電(しゅとけんだいきぼていでん)とは、2006年8月14日、日本の東京都23区東部とその周辺139万世帯の住宅や鉄道などに電力が供給されなくなった出来事である。 クレーン船のアームが架線に触れ切断した事故による。
こういうのも太陽光発電という分散型の発電だと,ダメージを軽減できないかなぁと.
もちろん太陽光発電で全部カバーできるわけではないので,あくまで電力0になるのを回避する程度でいいんです.
計画停電も各自が太陽光発電を持っていれば,もう少しダメージが少ないのではないかと.
(まぁこの話は,自宅に発電装置を持てたら水力でも風力でもいいんですが)
ちなみに太陽光発電の発電量は,,うーんグラフしかないのでわからん.
とりあえず原子力との比較はお話にならない状況なのがわかりました.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89%E7%99%BA%E9%9B%BB
国名 | 運転中 |
アメリカ | 500 MWp |
日本 | 1,200 MWp |
世界全体 | 6,900 MWp |
ただ同じくWikipediaにはこのようにも書かれています.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89%E7%99%BA%E9%9B%BB
積極的に開発を進めた場合の将来の導入可能量は戸建住宅53GWp(ギガワットピーク)、集合住宅22GWp、大型産業施設53GWp、公共施設14GWp、その他が60GWpなどとなっている[51]。 太陽光発電の累計導入設備量が100GWp(=1億kWp)になると、その発電量は日本の年間総発電量の約10%に相当する(200GWpで約20%、8TWpで8倍の計算)。
業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。
人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。
地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。
一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。
生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。
本を買うより、身の安全の確保が第一だ。
店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。
激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。
だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。
目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。
あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。
まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店の入り口近くにある金属の柱にしがみつく。
建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。
何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。
一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。
もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。
視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。
地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。
銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。
勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。
その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。
私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。
長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、
だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。
そうだ、職場に行かなければならない。
揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場のビルへと向かった。
エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。
階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。
それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。
ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。
「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。
オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した。
自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。
それから、階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難した。しかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。
その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板が地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話で写真を撮っていた。
本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。
地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。
携帯電話を操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。
それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。
車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。
仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから、渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。
正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。
そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から、仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。
最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。
移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。
同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。
私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。
被災直後であるから、携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから、機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。
車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式の最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパーのビニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。
1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。
これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。
しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。
3時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。
外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。
この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。
さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。
我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。
何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜のスープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから。
4時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。
最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。
家族は全員、茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。
意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。
家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震で家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。
自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。
そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかに、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球ではなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。
本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした。
また、その時の私は、黒いタイツにストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した。
茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事の可能性が低くなったのでひとまず安心した。
余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度も何度も地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。
母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしい。テレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。
兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。
父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。
ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した、津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。
私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。
この時、電話はまともに使えなかったが、メールやインターネットならば使用可能な状態にあった。
機械音痴らしい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい。
娘さんの勤め先は、長町にある。我が家は仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。
午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。
先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから。停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点で水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。
しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。
とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。
夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。
形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールやネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画やユーストリームでNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。
日の出まであと6時間。ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。
3時か4時になった頃、NHKのラジオが音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。
長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。
被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。
携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。
これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災の体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。
また、普段は趣味で小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。
私が住んでいる仙台市泉区のとあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した。
最近、はてブを見ていると昔見た話題を扱った記事がブクマ集めて人気エントリーに入ることがちらほらある。ユーザーが入れ替わったとか、twitterのRT効果とかいろいろ理由はあるのだろう。
直近ではGIGAZINEの「電線にとまる鳥の群れを五線譜に見立てて音楽を演奏」というエントリや、ギズモードの4kbのプログラミング作品ネタ。
どちらも去年、一度話題になっている。「なんで今更話題になるんだ」という疑問がもたげてくる。別に情弱、情強とかいう話ではなく、純粋な疑問というか。ネットメディアなら2chとはてブを見るのをルーティーンにしてるのが普通じゃないのか。「あれ、この話題去年見た」地獄のミサワが言いそうな台詞だが、ミサワの気持ちが少し分かる気がする。
で、「あれ、この話題以前見た」という記事を発見したとき、最初に見たのはいつだろう、と思ってグーグル検索で調べてみると、見事に新しいほうの記事しかなく、古い記事は埋れている。新しい記事の2chスレ、twitter、アンテナサイト等、どうでもいいものばかり上にくるから。調べようはあるのだが、古いほうの記事がなかなか検索で引っかからないと、「自分の記憶のほうがおかしいのではないか」と思えてきて頭が混乱してしまう。予知夢?千里眼?タイムスリップ?などといらぬ妄想もしてしまう。最終的には若年性アルツハイマーを疑って病院いったほうがいいのか考え始めたところで、ようやく検索に引っかかって安心する。
ギズモードのほうは過去話題になったときの記事にリンク貼ってあるからいいけど、そこまで親切心のある記事は少ない。
これからニュースサイトでサルベージ記事が多くなるかもしれない。記事を書く人は、公開する前にググッてみて過去に話題になっていたなら、そのサイトのリンクも貼って欲しい。
それだけで日本は良くなると思うんだ。
電線、電話線、光ファイバーが張り巡らされた電柱を見て、自身を投影している人間は多いはずだ。
これがなくなったら、気分もすっきりすると思う。
車道にあることによって、歩道が広くなり、車は気をつけて走るので事故も減るはずだ。
そう歩道もひどい。
人口密度2,000人/km^2以上のところは、歩道の広さは車道並みにないといけないはずだ。
そうそう、法人税なんてやめよう。
あれは節税のためにあるようなものだ。
知り合いの大家なんか、税金を節約するためにさらにアパートを買い、それがさらに儲かって、という金持ち父さん状態だ。
ま、このへんでやめとこう。
現地人を雇用せず、地元に利益を還元しない中国企業にイラク人の怒り
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イラクで石油生産が再開されて、一番の頭痛は何か?それは中国である。石油を掘る。地元に利益を還元しない。労働者は中国から連れてくる。まったくスーダンでアンゴラでナイジェリアで展開していることと同じパターン。石油は掘った分だけ水を入れて地盤を安定させる。技術の基礎である。中国の炭坑で事故が多いのはガス爆発より地盤沈下、安全管理の杜撰さからくるが、まさか原油採掘現場でも同じことをやっていないでしょうね。
イラク石油省が外国企業に採掘を許可したのは去年からだが、最初のテストケースは中国企業=シノペック。初の外国参加の原油採掘現場はバグダッドの東南に位置するワシド地区のアーダブ油田(推定埋蔵10億バーレル)である。同地区は最貧地方で道路も学校も病院建設もいや発電所の建設も石油収入をアテにしていた。同地区の多くの村には電気がきていない。
1バーレルにつき1ドルの利益還元は、いったんバグダッド政府に入り地方交付税のごとく還元される仕組みだが、中央政府は世界的な原油価格の下落を理由にワシド地区に還元しない。地元民の不満は中央政府より、ここで石油を採掘している中国企業に向けられる。いまにも爆発寸前という空気に中国人労働者は町へ一歩も出ないでサイトに引きこもり集団生活という惨めな状態に陥った。
▲あと1000人の中国人エンジニアが現場にやってくるが。。。
アーダブ油田の開発プロジェクトは総予算30億ドルと見積もられ、サイトの警備などで若干の地元民の雇用が見られたが、月給は600ドル以下。加えて試掘による原油汚染が田園の穀物を枯れさせ、また水を使うから付近の井戸が枯渇し、怒り狂った住民らは発電施設破壊などの直接行動を展開し始めた。送電線が破壊され、電線は夜中に盗難にあい、あげくに発電所近くにロケット弾が撃ち込まれる。
イラク政府は地元民への還元より、治安部隊を送って中国の施設警備にあたらせ、また中国側も「このプロジェクトは23年の長期契約であり、実際の原油採掘はあと三年かかる」として地元民の要求を蹴った。そのため、中国人エンジニアらは恐怖におののき、誘拐を恐れ、警備がつかないと散歩も出来ない有様となった。
あまつさえ来年一月にはあと1000人のエンジニアが中国からやってくる。なぜ地元民を雇用しないか? との樋に中国企業は「いまから訓練する時間はないし、無駄だから」とすげない返事を返す。
こうした社会不安と治安悪化にイラクが外国企業を招致しての入札は下火となり、わずかに南方ルマイラ油田(178億バーレル、イラク最大)にBPと中国企業が応札したくらい。
△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△
通巻第2715号 (9月16日発行)
あなたの人生に興味ないしどうでもいい。
ただ、社会貢献もしないで、人と違う事をして
それを批判されたくないってのは虫の良すぎる話。
あなたが今まで生きてこれたのは、沢山の社会からの手助けがあっての事。
もちろん、その多くは親や兄弟・親戚・近所の人などだが、
あなたが考えて見てもないような人達があなたの生活を支えてる事に気付いてないの?
あなたが使ってる、ケータイ。
これ一個見ても、ケータイに電力を送るための資源確保、電力を届けるための電線、
電力を安定して届けるための整備、安全に使えるように作られた部品、
ケータイの電波を拾うための機器、ケータイがつながるためのネットワーク……
これらを、対価を払っているから、自分の勝ってにしてイイ!!とか
商売なのだから、それを供給されて当たり前だ!とか
思ってるなら、世の中を知らなすぎだし、甘えすぎ。
隣の中国や韓国を見ても分るとおり、金を貰おうが手を抜く奴らは普通に沢山いるし、
そもそも相手に対して信頼を置かないのはbusinessの鉄則だし、
ちょっとしたトラブルで商談は失敗に終わることなんていくらでもある。
そして、当たり前だが、たかが個人よりも力のある企業の方が自分の言い分を通せる。
多少不自由でも、生活が難なく出来、明日の命の心配をしなくてもいいのは、
“日本の社会が、社会構成員に対して寛容で、社会構成員が誠実な社会を作ってきたから”
に他ならない。
“ロボットのように、自立を捨てた人達じゃなくて、自ら考え社会を良くしてきたから”
では、あなたはその社会に貢献してる人達が、自分たちのを夢を全部叶えて、
自分たちの夢だけを優先して来たとでも言うのだろうか?
当たり前だが、そんな都合の良い話はなく
「皆が己の夢や希望を少なからず犠牲にしてでも、安全で便利で信頼できる社会」
にするために身を粉にして働いてきたからだろ?
あなたが、この社会に貢献しないで、自分勝手な夢を追いかけて社会に批判されたくない?
どれだけ我儘なんだ?それが許されるほど特別な存在だとでも?
ついでに、あなたが求める批判されないレールは昔からこの国にもある。
日本でなら、“勉強を頑張って、東大でも入って、官僚になる。”って話さ。
それを行える様に最低限の勉強だって社会が負担してくれてるのに、
それを行えてないのは、あなたが遊んでたから、あなたが凡夫だからだろ。
そうじゃなくても、日本ではまだ夢を追う事を許容されるだけ自由は与えられてるし、
それを実現させられるだけの余裕はもらえるだろ。
これだけ社会に多めに見てもらってるのに、まだ「批判はしないで!!」とでも言うつもりなのか?
リソース食って、インフラを使わせて貰って、自分は好き勝手にやらせて貰う以上
成果がでなきゃ、批判ぐらい甘んじて受け入れろ。