2013-01-21

1月17日記憶

先週の1月17日、やはり自分の観測範囲にもいくつもの震災感想みたいな投稿が流れてきて、色々と自分でも思うところがあったので書いてみようと思う。記憶違いもたくさんあるかもしれないが。

1995年当時、自分神戸市長田区に住む18歳の学生だった。いつのまにか震災前と同じ時間が経っているということに今気づいた。

あの日、1月17日に提出しなければいけない課題があったので、朝3時くらいまでかかって課題を片づけようやく眠りに落ちたころに、まったく経験したことのないほどの揺れで目を覚ました。揺れで目を覚ましたというより、目を覚ますまでそれが揺れであるとは理解さえできていなかった。古く狭い家で所狭しと家具家財が並べてあったので、自分の上にも多数の本が落ちてきた。本棚でなく本程度でよかったと、後から部屋を眺めて思った。とにかく、階下で寝る親が大丈夫なのかと傾いた階段を駆け下りた。造りの古い家なので隣家と土壁が共有されているはずなのに、割れた壁のところどころからからの光が入ってきているようだということに階段下りながら気づいた。隣家との間に隙間ができたのだろうかとぼんやりと思いながらも階下へと急いだ。部屋は恐ろしく家具が散乱しいくつもの食器が割れているものの、幸い親も兄弟もとくに怪我もなく無事だった。とにかく外に出ようと身近にあった上着を羽織家族で家の外にでた。壁を共有するはずの隣家は、我が家と隙間があいたのではなく、完全に倒壊して路上瓦礫の山と化していた。すぐ近くにも、1階が倒壊し瓦礫の上に乗る2階、のような家屋がいくつかあった。自分の家が半壊で済んだのは本当にたまたまだったんだと思う。普段、挨拶することもめったにない近所の人たちと会話を交わす。幸い崩れた隣家の人は無事だったようで、すでにどこかへ行ったとのこと。まだ外は薄暗く「今何時ですか?」と今思うと少し間抜けな質問をした覚えがある。まったく現実味がなかった。

母に促され近所に住む祖父母の様子を見に行く。祖父母の家は我が家以上に古い建物で密集して立っている。徒歩で15分ほどだが必死で走った。家はかなり崩れかけていたが、幸いにも倒壊せずに原型を保ち、二人とも怪我もないようだった。あとでもう一度来るから注意して暖かくして、と言い自分の家へと無事を伝えに戻った。今ほど携帯電話は普及していなかった。

家に戻るころには空が白み始めていたが、すでにそのときにはあちこちに黒い煙が空高く登っていた。家にもどり再び家の前で近所の人たちと状況を交換しあっているときだったと思う、どこかから「裏で人が埋まっている」という声が聞こえた気がした。気がしたのではなく聞こえたはずだった。でも、自分にはまったく現実味がなくどうすればよいのかわからず動けなかった。このとき自分の行動、何もしなかったという行為を今でも激しく悔いている。

そこからしばらくはよく覚えていないが、午前中には祖父母も連れ、家族で近所の小学校避難しようということになったようだ。たまたまその小学校は何年か前に立て替えたばかりの新しい校舎で、大勢の人に安心感を与えていた。学校へ着いた時点ではまだ給水タンクに水が残っていたようで、とりあえず持っていた水筒に少しだけ水を入れた。すでに大勢の人がいたが、とりあえず手頃な教室へと入り、家族、祖父母あわせて6人で2畳ほどのスペースを拝借した。あとから知ったことだが、早い段階で小学校へと避難し、教室へ入れた人は恵まれていたようだ。午後には教室体育館といった室内はすでに足の踏み場もないほどの混雑になり、大勢の人が階段廊下で寒さに凍えることになった。

誰かがポツリとどうしたらいいのか誰か指示してよと言うのが聞こえた。まったくそのとおりだと思ったけれど、絶対にかなわないことだし、自分をしっかり持たなくてはと思った。

自宅も祖父母宅も、周りは火の海になっていて、家まで火が来るのは時間の問題だと思ったので、とにかく貴重品と身の回り品を避難先の小学校へと急いで持ち出した。途中、小中学校のころの同級生とすれ違う。お互いよかったと声をかけつつも精神的にも時間にも余裕がなくそのまま別れる。

つの間にか夕方になっていたけれど、相変わらず現実味はわかなかった。いつのまにか、誰かからおにぎりを頂いていたので食べた。小学校教室で2畳ほどのスペースで6人で寝る。隙間で横になるものの、興奮して眠れないので諦める。校舎の外ではすでに自然発生的にできあがった自警団のような人たちがたき火を囲んで輪になっていた。

翌日、翌々日と何をしていたのかあまり覚えていないが、とにかく顔を洗って歯を磨きたいと思ったことだけは覚えている。3日も経てばそんなことはどうでもよくなった。幸い、食事に関しては小学校へ十分な量の支援物資が届けられ、あまり困ることはなかった。毎日歩いていた街が完全に焦土になっていることに強いショックと悲しみを受けながら、なんとはなく道を歩いて過ごす。今でも火事のあとの匂い解体現場匂いがすると心が締め付けられる気がするのはこのとき記憶とつながっているからだろうと思う。

このころ、テレビ広告公共広告機構のものではなく通常のCMに戻った。避難先の小学校教室では常時テレビがつけられていたので、CMが切り替わったことに大勢の人が不快感をあらわにしていた。

5日目くらい経ったところで、母親の友人が家へと招いてくれた。最寄駅はすでに焼失していたので、20分ほどかけて隣の駅まで廃墟の街並みを歩く。電車に乗り3駅ほど移動すると、まったく地震なんてなかったかのように日常の街並みが広がっていた。母親の友人宅で風呂に入り、暖かい食事を頂く。普通の家庭というものをひさしぶりに思い出す。電車に乗って帰り、また30分廃墟を歩いて小学校へ帰る。滋賀の親戚が祖父母を預かるとのことで、祖父母を送り出す。

1週間を過ぎたころ、担任から来られる学生だけでも登校するようにとの連絡が入る。片道30分歩いて電車に乗り、久しぶりに学校へ。やはりここも地震なんてなかったかのような日常そのままが残っている。何人もの同級生と抱き合って無事を喜びあう。

電車に乗って数駅移動するだけでまったく地震の影響を受けていない街が広がり、みんないつも通りの生活をしているということに理不尽な怒りと焦りを感じる。

あちこち綻んだ家を親の友人の大工に応急処置してもらう。とにかく散乱した家具や食器を片づける。家の前で切れてぶらさがる電線関西電力作業員に直してもらう。そんなことをしながら2週間ほど経つ。ガス、水道はないので自衛隊給水車毎日ポリタンクの水を入れてもらい、カセットコンロで最小限の湯を沸かす。不思議もので、ポリタンクカセットコンロがこのころには十分な数が普及していた。おそらく支援物資として大量に届けられたりしたんだろう。ありがたいことだと思った。

1か月ほどして小学校から自宅へと戻る。ガスは相変わらず出ない。そのころから毎日ではないものの通学も再び始める。

テレビでは震災特番だけでなく通常の番組が流れている。いつのまにかオウム真理教ニュースが増えている。世間全体が地震のことなんて忘れているんだろうとやはり理不尽な怒りと焦りを感じる。そう思いつつも、自分には帰る家が残っていたが小学校には帰る場所のない人たちがまだまだいるんだということに思い至り、自分理不尽さを恥じる。

あれから18年。いつのまにか地震前と同じだけの時間が経っていた。忘れてはいけないと思う。今でも東北では大勢の人が震災の真っただ中にいることを。忘れられることが一番つらいことだと思う。

最後まで駄文を読んでいただきありがとうございました。阪神大震災東日本大震災で被害にあわれた方に心からお見舞い申し上げます

  • http://anond.hatelabo.jp/20130121012612

    今、36歳ですか? 大変だったんですねえ。と言われてもかえってアレかなあ。 ちょうど18歳だったから、18年で感慨深くなるけど、区切りの良い年数としては20年とかで大々的にテレビが...

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