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2018-07-05

10年前のインターネット

ふといろいろと思い出してみたけど10年前とちょっと前くらいにインターネットにハマって2chも常にチェックして

いつだったかのまネコ問題とか、インスパイヤとか、電車男とかそんなのが身近にあって

インターネット配信なんてのが始まったらやってみたり、当時のユーストリームゲイの集まりだったり

当時集まってたサイトで遠く離れた友人の彼女誕生日を祝うために突撃埼玉から大阪まで行かせたり

ネットで仲良かったオッサン病気で死んだり

気づいたら30も半ら、すっかりおっさんになったなー

みんなどこ行ったんだろ

2017-06-10

終わったバンド

当時一番好きだったバンドユーストリーム弾き語り配信をするというので観ていた。

そのバンドインディーズ時代には期待のギターロックバンドとして注目されていた。

本当にかっこよくて、中学生のころに地元ライブハウスにきた彼らを観にいった日のことは未だに鮮明に覚えてる。

けれどもメジャーデビューしてからは全く売れず鳴かず飛ばず

しまいには大衆ウケのいいJPOPに路線変更したけどそれでも売れず。

それでも自分はどうしてもそのバンドのことが好きでずっと聴き続けていた。

そんな状態だったけども、その日50人くらいはその配信をみていたと思う。

メンバー視聴者からリクエストされた曲を歌っていて、コアなファン自分はとても興奮しながら観てた。

メンバーのほかに見知らぬ30代のいかにもクリエイター風の眼鏡男がうつっていて

誰だろうと思っていたら、一度ミュージックビデオ監督として一緒に仕事をした人らしく

それから時々飲みに行ったりする仲とのことだった。

休日の夜ってこともあってメンバー眼鏡男もお酒をたくさん飲んでて楽しい雰囲気で、配信開始から時間くらい経った頃。

どんな会話の中でか忘れたけど、眼鏡男が「けどお前ら終わったバンドじゃん」って笑いながらメンバーに向かって言った。

「えっ?」と思った。メンバーも同じ気持ちだったのか、ボーカルが「今なんて言いました?」って軽く聞き返してた。

そしたら眼鏡男はまた悪気なさそうに「え?終わったバンド!」って答えてた。ありえない発言だと思った。

そこで眼鏡男が話題を変えたのでそこでこの話は終わったんですよ。メンバーもそんなに気にしてない様子だった。

けど自分は怒りに震えていた。好きなバンドのことを「終わったバンド」って言われたら普通怒る。

本当はコメント欄で「お前今なんて言った?」ってブチ切れたかった。けど場を壊したくなくて我慢した。

今でもこのバンドの曲を聴くたびにこの日の眼鏡男のことを思い出すし、あの時ちゃんとコメント欄でブチ切れておけばよかったと思う。

メンバーも他の視聴者もこんなこと忘れたと思う。けど僕はたぶんこの先もずっと覚えてると思う。

あなたは覚えていますか?眼鏡男さん?

2012-11-26

駒場祭ものがたり

昨日、駒場祭に行った

駒場祭にも、他大学学園祭同様に、屋台が乱立している。

 素人東大生素人屋台など食べたくない、その屋台に費やすエネルギーを、

 学園祭コンテンツに振り向けて欲しい、と思うのは、自分だけか?

★行きは井の頭線が激混みなのを予想し、小田急代々木八幡から歩いて駒場裏口まで行ったが、

 小田急ガラガラだし、代々木八幡から東大まで歩くような酔狂な親子連れ

 自分たちだけだった。

 井の頭通りと山手通り交差点富ヶ谷交差点でしたっけ?)も、以前は歩道橋だけで歩行者横断歩道もなく、

 強制的に階段上り下り強いられ、バリアフリーじゃなかったのだが、

 昨日行ったいつのまにかエレベーター歩道橋に完備され、バリアフリーになっていた。

 山手通りも(首都高工事が終わって)歩道も広くなって歩きやすくなったし、

 なぜこの「代々木八幡代々木公園東大駒場」の裏ルート世間認知されないのか、よくワカラン。

 井の頭線の激混みラッシュの分散の意味でも、駒場祭事務局

 「井の頭線は大変混み合います代々木八幡代々木公園からの迂回をお願いします」と

 一般来場者に呼びかけるべきじゃ、なかったか

しか東大駒場の裏口って、殆ど掲示もないような裏口なので、「知る人ぞ知る」状態。

 関係者でなければ、代々木八幡から歩いてきても、迷ってしま・・・

 ひょっとして、東大生の中でも、裏口の存在知らない人が、いたりして。

★帰りは井の頭線渋谷経由で帰ったが、渋谷寄り車両は激混みなのはわかっていたから、

 池ノ下寄り改札まで少し歩いて、そこから乗車した。

 ホームの放送は、必死になって

 「渋谷寄りだと乗り切れない場合があります吉祥寺寄りに行ってください・・」と言っていた。

駒場祭の日くらいは、井の頭線急行駒場東大前に臨時停車させても、バチ当たらない気がする。

 あとセンター試験の日と東大二次試験の日も。

駒場祭は、一般素人は「1号館」を周回するだけでも、結構楽しめますな。

 一般人が見てもわかりやすい展示は、結構1号館に集中している気がする。

 個人的にはセミナーの類を聴講したいのだが、いかんせん子連れでは・・

 下馬評では「レゴ部」「天文部」が評判の双璧ですな。

 

★ところで、学生会館、生協はいつのまにか建て替えられましたな。

 1号館や900番教室のような、レトロ建物戦前?)は、「残そう」という

 動きになりますが、旧学生会館のような、恐らく昭和の30~40年代辺りに

 建てられた建物は、単なる「老朽化した建物」と見なされ、さっさと取り壊される。

 しかし、25年前の学生とかが思い出になっているのは、

 1号館や900番教室もさることながら、学生会館とか生協とも、結構思い出になってるのでは?

 むやみに取り壊すのは、「現役学生OBの、場の共有」がなされなくて、

 あまり感心しないのだが。

屋台で「何もつけないパントースト、50円」を売る「やる気ない屋台」が評判になってたそうだ。

 これって、一種の「ネタ消費」だと思う。

 以前原宿の「ニコニコ本社」の付属カフェ物見遊山で行ったことあるが、ここでは

 「食欲を減退させる、ブルーカレー」なんてのがメニューにある。

 なぜこういうのがメニューであるか、と言えば、

 「ブルーカレーを食べる姿を、ニコニコ動画で全世界配信」したいという、

 一種の「ネタ消費」が見込めるからである

 ネタ消費はどこでも成立するシロモノじゃなく、トーストの件では

 「駒場祭」という場があったから、成立したんだろう。

 他の学園祭だと、成立したかどうか。

 良くも悪くも注目される「駒場祭」だからネタ消費マーケティングが成立するのだろう。

ケータイツイッターで「駒場祭」をチェックしながら回ったので、

 展示を見ながら、当時にツイートチェックする、という不思議ライブ感覚を味わった・・

★誰かのツイートで「駒場祭、誰かアーチスト来てるの?」というのがあった。

 ・・・芸能人を呼んで集客するような、「どこにでもある学園祭」は、他大学に任せておけばいい、と思う。

 駒場祭は「中身で勝負」してくれ。

★「クレープ屋の理三女子可愛い」というツイートも横行していたような・・・

 これって、インカレサークル東大の主に男子と、他大学の主に女子)で、実際は他大学女子、というオチだったりして。

 

 そもそも、東大男子って、あまり東大女子を相手にしない気がする。

 東大女子と他大学女子なら、他大学女子を選んでいる気が・・・

 もっとも、小生の知っている某キャリア官僚は「東大女子しか恋愛相手にしない」という

 ポリシーだったようだから、人それぞれか?

駒場祭の各企画をYoutubeなりユーストリームで中継すれば、結構支持されると思うんだけどなあ・・・

2011-03-15

1日目

その時、私は書店にいた。仕事は3時から始まる。

業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。

買いたい本を片手に持って、レジへ向かう。

人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。

地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。

一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。

生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。

平成23年3月11日午後2時46分の出来事である

本を買うより、身の安全の確保が第一だ。

左手に持つ本を放り投げ、私は出口を目指して駆け出した

棚の高い場所から、多くの本が勢い良く吐き出されていった。

店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。

職場はすぐ近くにある。職場へ向かおう。

激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。

だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。

目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。

あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。

まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店入り口近くにある金属の柱にしがみつく。

建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。

何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。

一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。

もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。

視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。

地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。

銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。

勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。

その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。

私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。

長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、

だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。

そうだ、職場に行かなければならない。

揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場ビルへと向かった。

本震があって間もなく、仙台市内全域は停電となった。

エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。

階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。

それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。

ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。

「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。

オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した

自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。

それから階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難したしかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。

その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話写真を撮っていた。

本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。

地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。

携帯電話操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。

それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。

車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。

仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。

正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。

そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。

最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。

移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。

同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。

私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。

被災直後であるから携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。

車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパービニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。

1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。

これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。

しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。

時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。

外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。

この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。

さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。

我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。

何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜スープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから

時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。

最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。

家族全員茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。

意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。

家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。

自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。

そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかにゲームセンターUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球はなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。

本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした

また、その時の私は、黒いタイツストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した

茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事可能性が低くなったのでひとまず安心した

余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度何度地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。

地震当時、各々が何をしていたかを話した

母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしいテレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。

兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。

父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。

ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。

私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。

この時、電話はまともに使えなかったが、メールインターネットならば使用可能な状態にあった。

機械音痴しい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい

娘さんの勤め先は、長町にある。我が家仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。

午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。

先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。

しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。

とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。

夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。

形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画ユーストリームNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。

日の出まであと6時間ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。

3時か4時になった頃、NHKラジオ音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。

 

長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。

被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。

携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。

これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。

また、普段は趣味小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。

私が住んでいる仙台市泉区とあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した

ガスと水道は未だ使用不能。ライフラインが完全に復旧するまで、一ヶ月はかかるそうだ。

しかし、命があるだけ儲け物である。生きていれば何とかなる、との言葉を信じてみようかと思う。

2011-03-14

radiko.jp

今なら東京以外でも聞けるみたい

ニコ動ユーストリーム以外でもネットで放送が聞けるよ

既出かしらん?

追記

既出だったん

2010-12-04

http://anond.hatelabo.jp/20101204143431

「なんだっけこれ」と思ったら

この間自殺ユーストリーム配信した24歳行員が

そっくり同じような人生ポリシーを述べてたぞ。

なんか布教元があるのか?

 
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