はてなキーワード: 自由意思とは
都会の人が想像するような都合の良い自然って実は田舎にはあんまりないんじゃないかと思う
うちはすぐ近くに山があるけど傾斜が凄いし木がぎっしり生えてて駆け回ったり秘密基地を作れたりするような感じじゃなかった(エロ本は捨ててあった)
樹木の種類は分からないけどヒノキ?樹液が染み出してカブトムシが来るタイプじゃなかった
子どもの目から見ても落石の危険がありそうだし見通しが悪いからイノシシやクマが接近してもギリギリまで気づかないんだろうなって恐怖もあった
山の反対側、家の近辺は本当に民家しかない
民家民家民家、その民家ゾーンを抜けたら田んぼや工場や学校がある区域に入って、そこを抜けたらまた民家ゾーンに入ってずーっと行くと市役所や図書館がある
親に車を出してもらわないと家以外どこにもいられなかったし車を出してもらえたところで行けるのはイオンの中の小さなゲームコーナーくらい
博物館だって常設展示のダイオウイカのホルマリン漬けくらいしか見るものがなかった
通う学校の選択肢が少ないから山猿のような子とまっとうな人間の子が一緒に押し込められて過ごさなければならなくなる
何でもインターネットで手に入ると言っても都会で行われているライブに参加する体験や大都市にしか展開されていないチェーン店でのコラボ商品は手に入らない
映画だって上映される作品は少ないしスクリーンは都会の人が見たら家のテレビで見るのと同じじゃんって思うくらい小さいと思う
そう言えばよくネットでは、例えば一人飯を恥ずかしがる人に対して
「お前のことなんて誰も見てない」「自意識過剰だ」と言われるがそれは都会でしか通用しない言い分だ
また知り合いでなくとも人のことをじろじろ見てその様相を脳みその皺に刻み込むのを生きがいにしている人は多い
それに迎合しないと「記憶力が悪く注意力が散漫な無能」のレッテルを貼られることさえある
都会の人がいくら「そんなことはない!」と叫ぼうと残念ながら田舎ではその常識は通用しないしそれが現実なのである
増田がどの程度の田舎に住むのか分からないけど少なくともうちはこんな感じです
参考までに
https://yt3079.hatenablog.com/
◎日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民(外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける
→日本人と移民の人口比逆転は時間の問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?」
(出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる)
◎約90年で人口が半減するスピード(しかも子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機的非常事態。それなのに対策は後手後手
→例えば、ウイルスの蔓延は現在進行形で悪化のスピードが早く、人権を制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化はダメージの時間的スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。
◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続。政府自治体の対策の対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策は効果が出ていないのが現実。
→本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくない。だから育児支援で保育所をいくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区の出生率は全国平均以下)
◎出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。
→独身に低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者(年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在は戦時中よりもはるかに低い出生率。日本を含む先進国は生活が多様化しており、コスト要因の結婚の必要性と優先順位の低下により、低所得者から結婚を回避するようになった。
◎子作りしたい人への環境支援ではなく、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策が重要
→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援に関係なく、子供を作っている。問題は出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚は個人の自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。
◎動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身は増税(実質的独身税)」
→早婚に金銭的メリットが生じて、相手の理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手の対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。
◎少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやすい育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来、負担の大きい子作りに対し、反発のない対策は効果も期待できないはず(作用反作用の法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手な倫理やモラルで負担回避を正当化すれば、将来世代は先細りの一方。
→目的(少子化解消)は手段(人権に問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットがデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨な社会になっても、子供を作らない自由意思尊重が大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき)
★本稿のポイント
少子化対策の「思い込み=(人権やモラルは少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にのみ人権やモラルを我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題は解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働の担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権や倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策の本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済も回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合の日本人に訪れる悲惨な運命とそれを回避するための、効果を優先した対策を提案、解説する。
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近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来は人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人の出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事の日本社会と政治に問題意識を投げかけたいと思います。
問題は解決するより、発見する方が困難です。個人も組織も、自ら気づかない潜在的な問題により、傾いていきます。少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府の少子化対策関連予算は先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出の観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。
現状の少子化対策は育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性の政策しかとられておらず、改善の兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府は実質的な移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人と移民の混在する国になっています。さらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民の割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツは海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります。公用語が中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。
そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児は個人の権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在の少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策が必要であると考えます。しかしそういった対策は、個人の自由意志に反する可能性のある対策であり、モラルや倫理観の問題で実行に大きな障壁があります。しかし、動機付けの対策に有効性があって少子化が改善される可能性があっても、現代人のモラルや人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います。
少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラルや現代人の自由や権利を理由に放棄してもいいのか。現代人のモラルや価値観はその人種の存続や持続性以上に重要な価値観なのかーー。
このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります。現在出尽くしている対策や論点とは違った観点と具体的な対策を提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います。
【要点・トピック】
現状の少子高齢化が改善しないまま、実質的移民の外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人と移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人と外国由来の国民・住民の人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間の問題。不可逆になる前に手を打つべき。
政府、自治体の育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論付けが必要。国民の自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化の構成要素である未婚率の高まりは少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観の多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策の方針を「大幅に変えないと」今後もさらに日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から」出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。
モラルや倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラルや人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。
続きは以下にて
https://yt3079.hatenablog.com/
◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか
政権に関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題に対応するため、政府や経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的な移民(国連の定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさらに推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法が施行された。彼ら外国人が高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民の高齢化問題も出てくる。
このまま、日本人の人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人と外国人の比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保と観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。
◆出生率の数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口がゼロになるか」の確定年数を導ける指数。内戦中のシリア、アフガンや北朝鮮より先行きが危ない少子化日本。
出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口がゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然と認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しか生まれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代は就職氷河期世代で不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである。
この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前は大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率を人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口の半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。
内戦のシリアやアフガン、独裁政権下の北朝鮮ではいずれも出生率が2を上回る。いくら、内戦や政治不安で経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代が平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。
◆現日本人が外国人(実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋な日本人は消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人が過半数割れ。
「移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である。出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。
2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニックや黒人、アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人の割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さらに2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人の出生率が2を切り続けて増えず、白人人口がゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックとアジア系の流入がその穴を埋めているためである。アメリカの出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民の出生率が高いためである。現在、アメリカは多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人とヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。
事前知識を全く持たず鑑賞したため、お恥ずかしながら原作が小説ということをエンドロールで知りました
日本中を震撼させた未解決事件に自身の声を使われてしまい、その後の人生が歪んでしまった3人の子どもに同情したわけではありませんがクライマックスでは気がついたら目に涙が浮いていました
最後まで見終わったとき頭の中に浮かんだ言葉は、おおよそ誰もが聞いたことのあるだろう説教でよく使われるものでした
「お前は自分ひとりで育ったわけではない」
子どもの頃なら意味を図りかねて素直に受け取れない言葉でしたが、大人になるにつれ理性的に自分一人で生きていくことはできないし、今のような普通の暮らしはできないということを知っています
私は自分ひとりで育ったということはなく、今現在自分ひとりの力では生きていけません
私は27年という生の中で、義務教育を受け、高校を選び、大学に進学し化学を学ぶことを決め、修士の学位を取得し、現在は化学メーカーの開発職に就いています
これは、自分で選んできた進路でおおむね小さい頃からの夢を叶えたと常日頃から思っています
親姉妹は私の良き理解者であり、おしみなく手を尽くしてくれこのような人生を歩ませてくれました
意識したか無意識だったかによらず、これまでの人生の中には、恐らく上にあげた進路の選択の他にも数多の分岐点がありました
私はその時々の選択は、全て自分の意思によるものだと思っていました
先に述べたように、私はひとりの力では生きていけませんので、当然他人というものが自分の人生に密接に関わっているということは承知していますが、それでも、自分の人生の選択だけは不可侵の聖域のように自由意思によって決定されたものであったと信じていたかったのです
27年間、人によっては吹けば消えるような浅い人生だと思いますでしょうが、私にとっては全てです
完全な順風満帆なものだったとは言えませんが、おおむね幸せに生きています
好きなときに家族似合うことができ、友人ともいつでも連絡がとれます
趣味も充実していて、たまに美味しいものを食べては幸せを噛み締めています
平和と自由を享受している私は、正直他人を恨むとか嫌うとかそういうことはあまり得意ではありません
このような人生を歩むことを守ってくれた大勢の人がいたからです
自分で選んできた人生の分岐点での選択肢は、確かに自分で挙げたものがほとんどなんだろうと思います
しかし、そこでいわゆる道を踏み外してしまうような、現代社会からふるい落とされてしまうような、そういった「正しくない選択肢」を取捨選択してくれた大勢の周りの人々がいたはずです
この映画に出てきた3人の子どもたちの周りにもそういった人々がいたとは思いますが、力及ばす、犯罪に関わるという選択肢を選ばされてしまったのだと思います
彼らは完全な被害者であり、間違った境遇を歩むこととなってしまいました
この映画はフィクションですが、世間にはこのような子どもたち(大人たち?)は大勢いるのかもしれません
罪を犯す人の気持ちも、他人を巻き込み人生を台無しにする人の気持ちも、どんな事情を聞かされても全く理解はできないと思います
本人は正義を信じているのかもしれませんし、純粋な悪意によるものかもしれません。全く人を人とも思わない自分勝手な扇動によるものかもしれません
今いる社会から踏み外してしまいそうな選択肢を持った人と関わってしまったとき、それが私だったとき、あるいは私以外の誰かだったとき、私にできることはあるのでしょうか
わかりません
私の理解するフェミニズムは、男女を平等に、同格に扱う思想であった。
人が性別でなく純粋に個人の資質で評価され、誰もが平等に権利を持つ世界を目指すものだと思っていた。
「女性だから」昇進できない世界を否定する。「女性だから」給料が低い世界を否定する。「女性だから」男性から暴力を受ける世界を否定する。
「女性だから」苗字を男性に奪われる世界を否定する。「女性だから」によるすべての不利益を否定する。
素晴らしい世界だ。掛け値なしに最高の世界だ。だが私はこの世界が実現することを望む一方で、それを世に主張するだけの勇気を持たない。だから、
非難を恐れず世に問いかける「フェミニスト」たちの勇気を、私は心底から尊敬していた。
それ故に、この記事の内容が信じられない。
https://mirror.asahi.com/article/13432941
この「フェミニスト」は、「女性だから」による差別を否定するべき彼女は、「女性だから」男性に守られる世界を、肯定しようとしている。
何か読み間違いがないか、目を皿のようにして読んだ。だが、どう解釈しても、彼女はこう言っているのだ。
「私は自分の好きなこと以外はしたくないので、それを実現するために女性であるが故の特権を利用する。社会が暗示的に与えている、男性が『男性だから』
得た経済的優位を頼り、それと引き換えのぬるま湯みたいな自由を享受する。だが誤解しないでほしい、それは私が自由意思で選んだものなのだから、フェミ
ニズムの否定ではないのだ」
私には全く信じられない。おかしいではないか。「女性だから」を理由とする不公平な抑圧からの解放をうたう活動家が、なぜ「女性だから」得られる利益を
平然と享受しようとするのか。少なくとも自らをフェミニストと任ずるのであれば、その都合がよい「自由意思」とやらを反フェミニストによる「だから女性は」
「やっぱり女性だから」という反論に利用されないためにも、子供のような我欲の実現に女性の特権を利用していると後ろ指をさされないためにも、範を示す
べきなのではないか。最低限、フェミニストはその対決すべき相手、つまり男性に対して筋を通すべきなのではないか。
フェミニズムとは平等であり、平等とはギブアンドテイクの世界ではないのか。「女性だから」と押し付けられる不平等は否定する一方で「女性だから」得られる
特権へ浅ましく縋ろうとするのではなく、「私はあなたにこれを与える。だからあなたは私にこれを与えよ」ではないのか。利益と同様に不利益に対しても等しく
なぜ、なぜ、本当になぜ、この「フェミニスト」は男性の庇護による片務的な負担を「フェミニズム」の一形態だと言うのか。単なる一個人の怠惰や自己中心的
なわがままではなく、立派な「フェミニズム」だというのか。これではまるで、「フェミニズム」が子供っぽい強欲を通すのに都合のいい屁理屈に成り下がってしまうで
はないか。「私は研究以外のことがしたくない」。結構。だが、フェミニストがそれを実現する手段は、「男性の経済力に頼る(あるいはそう他者に指摘される
余地を残す)」手段以外であるべきではないのか。自由意思かどうかなど関係ない。むしろ、本来フェミニズムとはそういった「自由意思」の裏にあるスティグマ
私はこれがフェミニズムだと信じることができずに、いくつかのリンクをたどった。同じサイトに、「女性の権利を主張するのに、奢られるのってズルい?」という記事
を見つけた(https://mirror.asahi.com/article/13365758)。そこではある論者がこう発言していた。
「奢ることと、対等であることは全く別物だから。お金出すって行為は庇護じゃないから。あなたの貴重な時間をいただいてありがとうっ、てことだから。上とか下
とかじゃないから」。
どういうことだ。本当にどういうことだ。仮にも女性の権利について論ずる場で、いけしゃあしゃあとこれを言うのか。あるいはこの発言者は、世の男性が本当に
「あなたの貴重な時間をいただいてありがとう」という純粋な気持ちで女性に奢っていると心底信じているのか。もしそうなら、発言者は性差別を論ずる人間とし
て不適切なまでに無邪気だが、まだ私にとって救いがある。だが、もしこの発言者が「『女性だから』奢らなくてはいけない」という男性による強烈な性差別を、単
に自らの利益になるからと適当な理論づけで許容しているのであれば、それを肯定するのがフェミニズムなのであれば、フェミニズムとは最悪の差別思想ではないか。
私は、フェミニストという存在を、フェミニズムという思想を否定したくない。これらの記事の主張が、単に「フェミニズム」の名を騙る何か別の存在であると思いたい。
フェミニズムとはもっと高尚なものであって、「女性である」が故に得られなかった権利を得るために、「女性である」が故の権利を喜んで手放せる存在だと、少な
だがもし、フェミニストが何か適当な言い訳を重ねて「女性の特権は手放さない」というのであれば。それがフェミニズムだと言うのであれば。もはや私は、フェミニズムを
信じることができない。
だから、お願いだ。フェミニズムとは何か教えてくれ。本当のフェミニストの名を教えてくれ。私にフェミニズムを、嫌いにさせないでくれ。
恋愛願望が無いわけでは無いのですが特定の誰かへの明確な好き、と言う気持ちになかなか結び付かないのです。
元々人付き合いが苦手で一人でいる事が好きなのもありますし
恋愛物の小説が好きな事もあって現実の恋愛に目が行かなかったのかもしれません。(もちろん現実の恋愛とフィクションは完全に切り離して考えています)。
それでも人生が充実していたので一人でいる事に別に不満を持っていた訳ではありませんでしたし、
恋愛も結婚も全く考えずずっとこのまま生きて行こうと思っていました。
が、ある時知り合いから自分の恋愛についての考え方をバカにされた事がトラウマになりました。
「好きな人が出来たことがない、恋愛はしてもしなくてもいい物だから好きな人が見つかったらでいい」と答えたら
「不細工だから強がりを言っているだけ、本当は恋愛したいに決まっている」と言われいくら反論しても聞いて貰えませんでした。
それからも恋愛をしたいと思わないと言うだけで上から目線のアドバイスや人格否定をされたり、
『結婚していない人間は人格に問題がある』『中年のまま童貞になると異常者になる』
と言った未婚者への偏見や差別を見ていくうちにパートナーを作らないと差別されるのではと言う恐怖心が沸いてきました。
独身をバカにされたり、人格を否定されたりするのが怖くて怖くてたまらなくなって好きになった人が出来たときのために服を研究したり女友達の話を聞いたり色々な努力をしてきましたが恋愛に関わる事が全て苦痛でしかありませんでした。
服を買おうとしても誰かからバカにされるのが怖くて全く楽しめません。
モテたい、と言う価値観もよくわからなくて好きな人がいてそこから行動するならともかく好きな人がいないのに性格も良くわからない人から好かれたいと言う気持ちがよくわからないんです。
もっと恋愛を簡単に考えろよ、とりあえず好きな人と付き合ってみろと言われますがその好きな人がいないんです。
恋愛は本来自由意思でする物のはずで誰かに強制されたり押し付けられたりする物ではないはずです。
でも現実では誰もが恋愛をしたがっているはずだと言う価値観を押し付けられている。
そんな価値観無視すればいいと言う人もいますが自分は他人に勝手に自分の意思を決めつけられて軽蔑される事が悔しいのです。
そして誰かに迷惑をかけた訳でもなく傷つかず一人で過ごしたいだけなのに勝手に問題ある人物として断定され傷つけられる、これが辛いのです。
このままだと今まで全くコンプレックスを感じていなかった性的経験が外部要因により自分の一生もののコンプレックスになってしまいそうです。
他のトラウマやコンプレックスと違い相当な労力をかけて望んでいない事をしないと解決しないのが本当に辛いのです。
〇〇歳までに彼女を作れないとダメ、性交渉していないとダメ、結婚しないとダメ---
本来自由意思であるはずの性を価値判断にして押し付けるのはセクハラではありませんか?
勝手にパートナーがいない事を不幸なことにしないでくれませんか?
人は誰かを好きになってもならなくてもいい、好きになった時だけ恋愛をすればいい訳で強制的に押し付けられる物ではないはずなんです。
性経験の話で傷つく度にトラウマになって一週間は立ち直れなくなります。
子孫を残すのは性に積極的な一定の個体だけでいいし自分から自由意思のためにそれをする個体が多いのに
自分はSさんと同じように恋愛経験が全くなく異性から性の対象とされたことも無かったのですがそれが苦痛とは考えたことがありません。
正直こうして勝手に憐れまれたり、性経験を至高とする価値観を押し付けられたり、童貞である事を否定されたり問題であるかのように語られる事の方が本当に傷つきます。
彼女が出来ずに悩んだ事はありませんが童貞を勝手に不幸せだと決めつけられたり
恋愛経験がない人間は問題があると言われたらそれこそ一週間はずっと苦しみます。
正直元増田さんが人生の価値を異性に求めすぎて異なる価値観の人間を勝手に不幸だと決めつけているように見えてなりません。
みんながみんな元増田さんのように異性がいないと生きる事が辛くて仕方ないと思うほど異性を求めている訳では無いのです。
そもそも好きな人が出来た時にしたい人がすればいいだけと言う恋愛を必須のように押し付けられるのがもううんざりなんです。
勝手に義務として好きな人や本人の意思の有無に関わらず恋愛を押し付けられて不細工が恋愛から降りたいと言っても負け惜しみとして処理される、勝手に憐れまれるのが苦しくて苦しくて仕方ないんです。
オタク仲間にも彼女が欲しくて仕方ないと言っているインセルもいますし彼らのような人がいないわけではありませんが
世の中全員彼女が欲しくて仕方ないと決めつけているのではないのですか?
自由意思である恋愛を勝手に押し付けられて美醜で勝手にジャッジされて憐れまれるのにもううんざりなんです。
コロナの大流行で現在進行形で世界の歴史が大きく動いている。日本に住む私達は政府から自粛を要請され生活様式が一変した。私の生活にも様々な変化があったが、そのうちのひとつが自炊する頻度が大幅に増えたためスーパーの野菜売り場で悩むことが多くなったことだ。そのときに私が感じ、考え、悩んでいることを書き残そうと思う。
私は関東の某県で医療に携っている。三次救急指定病院や大学病院に勤務していた時期があるので、様々な重症度の患者を診てきた。そのなかでも幾人かの忘れられない患者達がいる。外国人技能実習生だ。4年間で3人、それぞれ様々な疾患のために入院し治療に当たった。そして3人とも保険に入っておらず、退院直後に帰国する手筈を(多くの苦労のすえ)整えた。そのなかで技能実習生の送り出し機関や受け入れ企業の組合、大使館、入国管理局、保健所などと交渉する機会があった。また逃亡した技能実習生の横の繋がりや助け合いについても知る機会があった。詳細については記載できないが、本当にこの制度は許せない。これは絶対に続いてはいけない仕組みだ。そう確信させるような失望、交渉相手が信頼出来なくなるエピソードが何度もあった。私は今でもその担当した1人が救急外来で処置を受けながら「アッラーフアックバル、アッラーフアックバル!!」と叫んでいたこと、その後回診のときに仕送りをしないといけない家族が何人もいること、日本のアニメが好きだ、とはにかみながらTシャツに描かれたキャラの名前を教えてくれたことを忘れられない。彼らはいまどうしているだろうか。生きていてほしい、母国でも治療が続けられていてほしいと願う。
私が携った人のうち2人は農業に従事していた。私はこの県の農業に、少なくない人数の技能実習生が関わっていることを知っている。そして彼らが低賃金で、過酷な労働環境で、理不尽な契約で、無保険で働いているからこの野菜売り場の一部の野菜がこの価格で販売されていると想像する。コロナで多くの人達が困窮している、だから私は自分の手の届く範囲の人達の手をとりたい、応援したいと思っている。その一環として地元の野菜を買おうと手を伸ばすとき、(でもこの野菜は技能実習生の誰かの苦しみのうえにあるんじゃないか?この野菜を食べて応援することはその制度を維持することに力を貸すのでは?)と考えてしまう。
一方で、地元の農家の人々の顔も知っている。彼らの家庭環境や経済状況もほんの部分的にであるが知っている。あのおばあちゃん今年は桜見れたのかなぁ、と思い浮かぶ。しかし、その野菜が栽培された県や農家の写真はあっても私が知りたい情報である外国人技能実習生が酷使されて作られたものかどうかはスーパーの展示からはわからない。当たり前だ、私達は私達が生きることで踏みにじる命や人生を知らなかったことにして生きるほうが快適だからだ。
私は個人的な関心と決意から技能実習生制度は許せないと思っているが、例えばこの記事を打ち込んでいるiPhoneがどんな環境で作られたものかは知らない。知らないからこそ次の機種の買い替えを楽しみにしていたりする。多分調べれば多くの情報が出てくるだろうが、あまり調べる気になっていない。フェアでありたい、自分の倫理観に沿った選択をしたい、でも自分の知識と時間と預金に限界があることが歯痒い。
私はそういった葛藤を抱えて、どうかこの野菜が理不尽な苦しみのうえに存在するものではありませんように、と小さく祈りながら地元の野菜を選ぶ。国内フェアトレードの普及、そしてなにより技能実習生制度の一刻も早い改善を心から願う。
これは関連があるようなないような話であるが、私はヘテロセクシャルのアラサー独身男性であり、そして風俗にいかないことにしている。岡村隆史の発言で活発な議論が交わされているが、私は選択肢が大幅に狭められたにもかかわらず本人の自由意思による選択だから自己責任である、という論には与しない。様々な反論があるだろうが私は日本の社会が男尊女卑が根底にあると感じている。卑近な例で言えば医学部入試問題、女性医療従事者の産休育休問題、患者の女性医療従事者に対する風当たりなどについて思うところが大いにある。そういった社会のなかでもとから職業選択や経済的不利があり、世界的な不況でさらに苦境に立つ若い女性が本来選択するつもりがなかった職業として風俗というハイリスクな職業(感染症としても、また働いている最中/働いたあとのスティグマとしても)を選ばざるを得ない状況になることを社会的に成功した男性が心待ちにする姿勢を放送することは品性が欠片もないと感じる。深く恥じてほしい。私はそういった他人の苦しみを踏み台にして自分の性欲を解消したくないし、自身の、そして今後パートナーになりうるかもしれない人への感染防御のために風俗にいかないことにしている。正直にいうと私はモテない。パートナーは長くいないし、この5年で性交したのは2回だ。どうしようもなく孤独で寂しく、自暴自棄な気分になったときに風俗のサイトを開いたり体験談を読んだことは何度かある。それでもやはり現時点の日本で男性が風俗を利用することは男女間の権威勾配に胡座をかいているように私は感じる。私はこの社会構造に納得していないし、与したくない。セックスするならお互いの自由意思で、対等な関係でしたいと本当に願っている。
なぜこの話題を出したかというと、技能実習生制度と風俗はともに弱者に不公平な社会制度が前提としてあり、本人の自由意思による選択だから自己責任という体で存続しているアンフェアなものだと感じているが、両者に対する私の対応が一貫していないように感じたからだ。
私は地元の野菜を買う、風俗は利用しないという選択をしている。アンフェアネスに対する選択が違うのはなぜだろうか、と考えると、野菜を買うときは直接加害者にはならないが、風俗を利用するときは直接加害者になるからでは……?と気付いてしまった。もし野菜を買うときに小さく祈ることで一定確率で技能実習生の苦しみに寄与することが許されるなら、風俗を利用するときも対応してくれる風俗嬢が選択肢を狭められた結果ではなく、本人の自由意思で風俗に従事していますようにと小さく祈ればいいのでは?と。あるいは一貫性をもたせるために地元の野菜を一切買うべきではないのでは?と。
妄想と仮定のうえの思考実験で自己欺瞞かもしれないが、今は以下のような結論にしている。仮に地元の野菜を回避して別の県の野菜を買ったとして、どれだけ技能実習生の苦しみが減るか不明である。一方、私は野菜を食べたい、また地元の県の経済を少しでも回したい。都道府県別に技能実習生が生産に関わった野菜がわかるなら、より少ない県を選ぶ。そういった情報がない以上、小さく祈りながら地元の野菜を選ぶ。しかしもし今後よりよい買い方があればそれを選ぶ。風俗嬢がまったく経済的に不自由しておらず本人の自由意思で従事している可能性はゼロではないが限りなく低いと想像する。私が愛した女性が私をパートナーとして受け入れずひどく孤独であることと、私が風俗を利用するかどうかは別の問題であり、風俗にアンフェアネスがある限り私は利用しない。という結論になった。
勿論この考えは完璧ではないと思う。本当に技能実習生を憂うなら抗議デモに参加を考えるべきだし、風俗を利用しない選択が結果的に風俗嬢の経済的苦境を悪化させるかもしれないし、利用しないことが風俗が賎業であるという偏見を後押しするかもしれない。(もし私の友人や家族が風俗に従事したいと言い出したらまず止めるだろう、そしてそこに一部もスティグマがないかと言われると難しい)不十分な情報をもとにした不十分な選択かもしれないが、今の私はアンフェアネスに対してこういった選択をしている。
私は自分の考えを確かなものにしたいので、もっと他の人の意見を知りたいです。野菜のより良い買い方や風俗利用について、そして根本的にはアンフェアネスに対する選択について、是非意見を教えてもらえないでしょうか?参考文献も購入を検討するのでご教示いただければ嬉しいです。
18時48分 追記:ブクマ、レスありがとうございます。全部目を通します。あと参考文献を載せてくれた方、ありがとうございます。購入しました。のちほどいくつか返信できればと思います。