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はてなキーワード: 神聖とは

2023-10-12

AV見てて改めて思うんだけど「コイツカメラの前でセックスしてるんだよな・・・」ってこと

いやその通りなんだけど

それがAVなんだけど

でも、セックスだぜ

カメラの前でセックスしてそれを公開するって単純にすごくね

まじで

セックス神聖化しすぎとかそういうんじゃなくて

人前でするもんじゃないのの最上級クラスやん

セックスって

でもソレをカメラの前でしてるんだろ

いや

すっげぇことだと思うよコレは

2023-10-11

はてなー代表してお詫び申し上げます

我々はオタククリエイター神聖視する余り人に教えることについて普段とは全然違うダブスタかまししまいました。

ここに謹んでお詫び申し上げます

2023-10-08

anond:20231008061858

いやおんなじ言葉を繰り返しになってしまうけど、なんで「一般の家庭」にレコードの盤面をクリーニングするとか指で触れないとかメガネクリーナーみたいな布でふくのとかやたらメンテが充実してたのはなんでやろなって話なんよ

みんなそんなに違いがわかるような音響もってたの?

テープもヘッドクリーナーとかクリーニングテープとかあったけど鉛筆で巻いたりと雑に扱ったりしてたしヘッドの交換とかしたことがある人どれほどいるのかと思うしフルコンポみたいなのあった家庭は一般じゃなかったろうと思うんよ

それなのになぜレコードの盤面はつやつやであるべきみたいなのが一般化されてたんかなって

いやレコードの音質がどうのとわかるほどのこだわりと設備があって保管状況にこだわりぬいてたらノイズかいわれてもふーんてなるよ

なんで一体型でフタもとれて速度も三段階くらいしかないレコードプレイヤーとかの家でも黒いレコードはつやつやを神聖化してたんかなって

anond:20231007180430

逆になんで一般家庭にやたら盤面をクリーニングするグッズが流行って溝を指で触らない神聖化になったんやろね

音の違いも劣化体験したことが無いはずなのに信仰に近い形でがん保険に入ってるみたいなとこあったよね

2023-10-03

性転換を希望してるのに性転換手術をしないトランスジェンダー

なんかニュースで、

心は女だから男の体のままでも戸籍を女にしろっていう裁判をしてるようだが。

戸籍の前にまず、男の体を女の体にしたいものじゃないのか?

現実の体と心の体が違うから、苦しんできたんだよな?

体は男のままでも、日本国内法律上は女になれば、それで満足なのか?

周囲から女扱いされたいだけなのか?

それじゃ、願望の強度がネカマと変わんねーよ!

性転換手術は金がかかるとか、手術の大変さとかで、リスクがあるらしいが、

当たり前だろ。

リスクがあるなんて、当たり前だろ。

なりたい自分になるためにリスクを背負うなんてことは、世界中人間がやってることだろ!

心が女なら、体も女にしろ

整形したり化粧するブスは、心は美人から整形したり化粧して美人になるんだ。

筋トレする奴は、心はマッチョマンから筋トレして理想マッチョマンに近づくんだ。

心は金持ちと同じだって思う貧乏人は、節約したり金儲けして金持ちになるんだ。

心は天才だと思ってる人も、勉強したり成果を出してやっと天才と呼ばれている。

心は若者のままな老人は、必死で若作りするんだ。

みんな頑張ってるんだ。

心の自分と、現実自分の違いに、苦しんで、だからこそ努力して、リスクを背負って挑んで、あがいてるんだ。

それができないなら、心の自分を周囲に認めさせるのは、あきらめなきゃいけない。

それは自分の心の中だけのもので、現実になっていないからだ。

ブスがブスのまま「整形はリスクがあるからヤダ!でも私の心は絶世の美女なんだ!ミスコンで優勝させろ!」と叫んで、

世の中が「そうか、ブスだけど心が絶世の美女なら、君は絶世の美女だな!」とミスコンで優勝させたら、おかしいだろ。

お前はそんなおかしいことを、性別にだけ認めろと言ってるんだ。

性別だけ神聖視するのか?特別視するのか?

性別も、外見も、生まれも、年齢も、

ぜんぶ大事で、心の中は不可侵で、だからこそ、現実個人の心だけで歪めちゃ駄目なんだろ!

めちゃくちゃな裁判するな!

2023-09-26

anond:20230926155744

まりは......私有財産

G&Wは、私有財産宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:

このような神聖ものは、多くの場合存在する唯一の重要かつ排他的財産形態である......神聖文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的財産も同様である。このような社会では、私有財産概念と聖なるもの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除構造なのである。(p. 159)

ここで「絶対的もの」が「私的もの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。

この混同は、著者が宗教私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的定義を持ち出している:

デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たち絶対的私有財産について語るとき、その根底にある論理社会効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。

そして著者は、アマゾン原住民仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在神聖所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋私有財産概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。

G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである現代私的所有権を、超自然存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理社会効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?

先住民活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖ものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。

デュルケムの洞察の中で最も強力なものひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるもの神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。

デュルケムが実際に主張したこと

デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブー起源説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性隔離する力は血の力であり、聖なるもの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。

デュルケムにとって、「分離」という原初的概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女親族は、彼女所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり彼女男性との付き合いからも世間から隔離した。彼女隔離は、特別儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女身体神聖ものであり、それに関する彼女選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団行為と関連して、人間意識言語文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。

もしG&Wが現代進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム洞察が、血のように赤い黄土色が、男性女性の肉体が神聖ものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代考古学説明を、いかに先取りしていたか認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)

季節的か、月的か?

さて、『万物黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたかである

人類学を学んだことのある人なら、エスキモーアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルヨーロッパ後期旧石器時代氷河期文化適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。

この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期天才政治家たちは、革命で得たもの永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである

私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類グループ狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカ進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。

権力振り子

G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要儀式は、女性月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。

コンゴ熱帯雨林では、女性たちは男性勇気潜在的支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:

単一パターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実のものと、その結果としてのさまざまな社会可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである

もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。

この最後質問は実に深いものであるしかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的認識を深めてからでなければならない。私たち先史時代祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?

結婚が恒久的なものになったとき

中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代比喩Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶもの確立している。このような社会における親族関係居住パターンは、月経排卵兄弟恋人親族関係結婚共同体連帯セックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。

このようなパターン古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロック説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係パターン結婚後の住居の多様性理解することも重要である--これも決定的に重要トピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。

非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンはるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカ狩猟採集民の女性は、母親キャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係結婚生活の間を交互に行き来する。

母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫から圧力で住居を変え、夫とその親族永住せざるを得なくなることもある。このような場合子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。

人類はいかにして「行き詰まった」のか

これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケア強制的コントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀ヨーロッパ北米のウェンダットにおける処刑拷問光景描写している。国王臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長義務モデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダット囚人に長時間拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。

そうしてG&Wは、ケア支配区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明見出したのである

私たちは、ケア支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身自由に再創造する能力私たちいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり私たちいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要ことなのだ...。

狩猟採集民の研究ジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人軍事指導者拷問者、ヨーロッパ君主経験限定し、これらの人々の心理的葛藤想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的支配することを混同してしまたからだと示唆しているようだ。

これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉提示されているだけなのだ

外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たち事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?

この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。

(続く……)

2023-09-25

anond:20230925112807

元増田です。

確認できるブコメは目を通しました。


世間知らずなことを恥じています

彼を解放して上げてほしいとかセックス拒否離婚理由になり得るとか、なかなか驚きました。

自分にその気がないからと言って相手にも押し付けることは良くないなと思いました。反省しています

不快にさせた人がいたらごめんなさい



見合いの経緯が気になるというブコメがあったので、お答えすると

家族の勤め先の上司の子供を紹介された、というものです。

上司の強い希望だったと聞いています特に特別事情はないですね。



みんな想像以上に性行為が大切なんだなーと思いました。

私は彼のことを人として尊敬しているし、良い家族になりたいです。子供も欲しいです。

見合いする以上、子供を産むことは契約に入ってると思いますが、方法はなんでも良いと思っていました。それこそ体外受精とか?

犬派?猫派?のノリで体外受精でもいい?て聞けるかなーって(今思えば甘いですね)

男の人は女性と性行為できるかできないか尊厳を保っているという意見は驚きました。w



また、私は見合い市場にいるのは恋愛を諦めている、放棄しているという認識があってこれも結構批判がありました。

学生時代に、可愛くなきゃ恋愛対象に入れてもらえないし、告白して成功して恋愛してその先にセックスがあるのかなーって思っていたんですね。

相手に求められる努力して、綺麗になって、その先のボーナスステージ感覚です。

セックス神聖化しすぎというご指摘ももらいました。

風俗などは全てを飛ばしお金解決するイメージなので別ですが…

私この人が初めてのお見合いじゃないので、見合いの席に来る人はこの「努力」を放棄しているなーて感じていたんです。

椅子取りゲームして音が鳴り終わって席に座れない人が集まったなーって(私も含めて)

なのでセックスボーナスステージ)楽しみたいなら努力しろよ!って本気で思ってました。

私も好きな俳優とか、学生の時気になってた子はいたけど、努力していない恋愛市場放棄人間だったので…



繰り返しになりますが、思い込みが強い私が全部悪いです。

彼にはちゃんと伝えます

不幸にしたいわけではないし、彼が嫌なら婚約解消しますね!

ありがとうございました!

おっぱいポロンが異常であるということにした女性たちによるマッチポンプ

昔は授乳なんておっぱいポロンして乳首乳児の顔で隠して母乳あげてたんですよ。

言ってみれば令和の時代でもそうやって母乳あげてても何も問題ないんですよ。

それなのに女性おっぱい他者に見せてはならない神聖ものみたいに扱う女性たちが、おっぱいポロンして授乳させることは良くないことだと言い始めたんですよね。

からその場でおっぱいポロンかあるいはケープで隠す程度で十分なのに、授乳室が必要だなんて意見が出てきたんです。

そして一度授乳室が作られると、授乳室はあって当然、授乳室以外で授乳させるのは非常識授乳室を設置しないのは女性差別、という意識が作られたんですね。

そして今、授乳室を作っても「こんな授乳室では授乳できない。作り直しなさい。」という女たちが現れたわけですね。

 

最初からずっと「授乳なんてその辺でおっぱいポロンしてやればいいんだよ」って価値観で生きていた方が生きやすかっただろうに。

女性自分たち自分たちを生きづらくしてるよね。

まあもちろんいつだって男性たちを悪役にして話は進むんですけどね。

動物権利を認め過ぎないで欲しい

あんまりやると人間の方に逆流してくる。

人間と違って動物は下等なので痛みとか苦しみとか無視ええんやでー」という逆流防止弁によって防がれているカタストロフィの多さをキチンと想像して欲しい。

動物にも権利があると主張し続けると神聖不可侵たるものとして人間様と動物を切り分けるのが難しくなっていく。

すると「クジラダメだけど虫は下等だから痛めつけてもセーフ」といった差別基準人間の方にも波及してくる。

黒人白人と違ってモンキーよりだから人間扱いしなくてセーフ」をやっていた時代に逆戻りするということだ。

すべての動植物人間と同じ権利を認める余裕が産まれるまでは「権利人間様だけにある。器物損壊環境破壊は気にしなきゃだが、動物尊厳感情は今は気にするな」で貫き通すべき。

もし今後人間の余裕が失われ動物に分け与えすぎた優しさみたいなものが足りなくなったとき、それを動物から取り上げられるかどうかで争うことになるだろう。

そのとき「犬は人間の役に立つけどモニャムニャ族は単なる野蛮な山賊文明社会の敵みたいなもんだから権利を認めるのをやめよう。まあ面白いから保護はするけど人間扱いはせんでええやん?」「せやせや!」「ほんまやなんで気づかんかったんやろ」「じゃあお猿さんの代わりに薬の試験とかもしてええんか?」「ええんちゃう」「せやなーお猿さんは頑張ってるのにモニャモニャ族は単なる臑齧りみたいなもんやしカスだよなあ」「わかるわー」みたいになりかねん。

逆流を防ぐ方法は「人間様だけが特別です」を緩めないことだけなんだ。

2023-09-23

anond:20230923093159

無印ガンダムについてのご意見ありがとうございます無印ガンダムは、1979年から1980年にかけて放送されたアニメ作品で、機動戦士ガンダムとも呼ばれています無印ガンダムは、その後のガンダムシリーズの基礎を築いた作品として高く評価されています無印ガンダム特別視される理由は、その先駆的な要素や独自の魅力によるものです。

ただし、個々の作品にはそれぞれの良さや特徴があります。他のガンダム作品比較することなく、無印ガンダムを100点満点で評価し、他の作品を50点未満で評価することは適切ではありません。それぞれの作品独立して完成されたものであり、個々の魅力やメッセージがあります

また、無印ガンダム特別視することによって他の作品を軽視することはありません。多くのファン無印ガンダムを愛している一方で、他の作品も同様に愛されています。異なる作品に対する尊重理解を持つことが、より豊かなガンダム体験を得るために重要です。

おっしゃる通り、一部の熱狂的なファン特定作品神聖視することはありますが、それは個人主観的意見であり、全てのファンが同じように感じるわけではありません。異なる意見や好みがあることは自然なことであり、多様性尊重することが大切です。

最後に、オタク文化アニメに対する偏見先入観を持つことは避けましょう。多くの人々にとってアニメガンダムは楽しみや感動を与えるものであり、個々の好みや興味によって異なる評価が生まれものです。

無印ガンダム好きな人ちょっとおかしい説

ガンダム好きな人ロボットアニメ好きな人別にいいんだが、なぜか初代のガンダムを別格にして語る人は格下に見ている

ジョーズなんかのようにナンバリングを経るごとに劣化するものサメ映画というジャンル自体ネタ化したものと違って、別作品としてそれぞれ完成されているのに、なんか初代信者だけおかし

それぞれのガンダム比較してではなく、無印をまず100点にして後を50点未満の中で評価している感じ

追記

なんでこんなのにブクマつけてるんだか…

俺が言ってるのは、無印だけをそんな特別視するほどではないんじゃない?ということ

そこを無視して無印の良さを言うだけだから、話が通じないオタクみたいで引くんだよ

無印が嫌いではなかったのに、無闇矢鱈と神聖化するオタクがいるので今では気持ち悪い作品に見えちゃう

ファン作品汚している

anond:20230923080414

なんかわかるわ

しか感想屋さんも玉石混合

ガチの人、丁寧な批判も書く、感想を書く行為とは何かを理解している鑑賞者としての素質の豊かな人もいるが、

鑑賞者とはとても言えない頭が悪い小学生みたいな視野が狭い人、全肯定するだけの人、学術的な見解からはかなり遠い個人的考察を書いてる人もいて(心理学倫理差別経済など既に社会集合知があるような分野では、専門外の人間駄文という自覚はせめてほしい)

創作者にありがちな権威構造嫌いなんだよな。創作神聖ものとして考えてる。

これにマジで嫌悪感がある

創作への感想自由だ!創作者は神!感想なんだからなんでもいいじゃん!を免罪符に何言ってもいいどう扱ってもいいと思ってる人とか、全肯定後者しか受け入れない人がいたりとか

ぶっちゃけ後者なんて外から見たら小学生お絵かきノートみたいなものなのに、そこに必要以上に権威性持たせてるオタク界隈とか

やばいやつあるよね

大卒の人がいないのかな

自省や自浄が一切ないのがキツすぎる

2023-09-12

anond:20230912215017

あれは完全にふざけだから許せる

ジャニオタジャニーズ神聖キモくないとか言ってる割にしっかりキモからイライラする

2023-09-09

anond:20230909003731

あのスペースを聞いていて残った個人的違和感

・終始「娘をAV女優にしないためには…」という話ばかりで「息子のAV出演」「息子/娘がAV女性を消費しないためには」の話が全く出ていなかったこ

・「セックス神聖もの好きな人とだけするものから…」という非常に保守的な性への価値観

・「AVが実際にどのように作られ、AV女優が具体的に1本のAVに出るためにどんなことをしているか」を知らずにAVのことを語っていたこ

子どもにあまりオープンに言えない(けれど自分は誇りを持っている)職業に、親になる可能性の人は就いてはいけないのだろうか?

AV男性の性を満たすものとしてのみ語り、AVを観る女性存在無視していたこ

AV女優になるバックグラウンド類推AV女優の数が増えているということを語る際の客観的根拠の乏しさ

他にも色々あった気がするが、全体的に性に対する保守性とAVを観る女性無視AVを消費する側にしないという視点の欠如とAVへの無知さとAV女優への強烈な差別意識が強烈で、聞きながら何回か笑ってしまった。

自分の子どもをAV女優にしたくないという気持ち否定しない。でも敵のことをもう少し勉強した方が対策は立てやすいだろう。

2023-09-04

anond:20230904173131

そういうフ女子ってそんなあさましいことしたり神聖視してるはずのキャラ自分の汚い感情投影したりなんでできるの?

って思う

2023-09-03

anond:20230902195346

こんなものは単なる消費行動上の選好にすぎない。

SMモノのAVで抜いたらサディストで、ロリ仕立てのを選んだらロリコンなのかといえば別にそんなことはない。

まいたび同じようなものばかりでは飽きるので、目先を変えるために今日たまたま〇〇モノをチョイスしたというだけのことだ。

熟女モノとかJKモノといったパッケージは、本質的には似たり寄ったりのポルノコンテンツささやか差別化するためのフレーバーにすぎない。同じ女優が化粧を変えて出ていたりするし。

中には飽きもせず「自分絶対ネトラレものしか観ない」みたいな消費者もいる。だからどうだということもない。そういう偏った傾向も、「どっちかいうと巨乳好き」とかの単なる好みの延長線上にある。

増田は単なるズリネタチョイスの傾向が己の「アイデンティティなのだという。

それと同時に「単なる好みなのだから不当に差別するな」という。

真っ向から矛盾しているようで実はしていない。これはごくありきたりなオタクメンタリティなのだ。どういう商品が気に入ったかというだけの事を自分アイデンティティだと、そしてそのチョイスは他人が侵すべからざる神聖ものなのだと、大袈裟に言い立てる。

傍目にはたかがどのフレーバードロップを選んだかというだけの話なんだけどな。

呉智英先生はかつて「血液型占い差別の代償行為」だと喝破した。

ひと通り衣食足りてそれなりに平和な、のっぺりとした日常生活空間ドラマチックに彩りたい欲望人間にはある。

そのお手軽な手段が、占い陰謀論といったオカルトの類であり、また「単なる消費行動上の選好に過剰な意味付けをする行為」なのである

似たりよったりの商品を手軽に表面的に差別化するためのトッピングと同様、周りの有象無象と似たりよったりの自分に「〇〇推し自分」というフレーバーを施すのだ。

そういう「遊び」なんだという自覚がどっかにあれば、それは高度化した消費社会を軽やかにのしく生きていくための知恵だとも言える。

でもなんかマジでその気になっちゃって「この性癖故に迫害される自分」みたいに被害妄想こじらすバカがいる。

お前は悲しきモンスターでも不当に迫害されるマイノリティでもない

ただのそんじょそこらエロまんが好きのボンクラだ。あんま深刻がるな。

■それにしてもたかがお店で売ってるものを「命」「魂」にできるって本当に手軽でいいな。

そんなんじゃ到底満足できない者こそ身の処し方を考えなければならない

■「何が好きかで自分を語れよ!」何が好きかでなんで自分を語ったことになるのか。何が好きじゃないからですぐ喧嘩するし。幼稚な。

2023-09-01

anond:20230114094840

これは逆にセックス神聖視しすぎてる感あるな

あとポルノコンテンツは、プロの高度なプレイなのでそれを基準に考えるのはちょっとどうかと思う

バッティングセンターに興味あるけど、プロ野球選手みたいにうまく打てないだろうから止めとくか……ってなってるような感じ

2023-08-28

抱き枕に向かって腰を振り狂うおのれの下半身の虚しさたるや、まるでモヤシをおかずに飯を貪っているようなものである。夏でも人肌恋しくなるものかと絶望する。人類希望の星、セクサロイドはいつ実現するんだろう。別に高性能な機能じゃなくていい。可愛らしい顔と、すべすべで柔らかい肌と、女性の平均身長より少し低めのぷりっとした身体があれば、あとはなんだっていい。膣がなくても構わない。そもそも僕には穴は必要ない。僕らのドッキングはその程度じゃ到底収まらない。それは頭のてっぺんから足のつま先まで、全身の肌と肌が隙間なく密着することで生まれ官能的なエントロピーの波により、僕らは神聖なる魂を解き放ってサイケデリックランデブーへと旅立つのである。いつかそんな日が訪れることを心より願っている。

万引き家族

家の近くに神社があって、通勤で毎朝その前を通る。

そうすると決まった時間に、神社の外からとても丁寧なお辞儀をしてから駅に向かう家族がいる。

どんなお願い事をしているのか、それとも過去に起こったことに感謝しているのかわからない。

両親は50歳くらい。おそらく息子と思われる男子中学生くらいだと思う。

過去に大きな病気にかかったときに頼ったのか、未来のために何か大切な願い事を掛けているのか。

特に会話もなく神社に近づき、入り口の外に3人が横並びになって、特に合図があるわけでもなく3人がきれいお辞儀をして、そのまま何事もなかったかのように駅に向かう道を行く。

そこだけ切り取るととても美しい何かを感じさせるシーンなのだが、何かが引っかかった。

毎日しっかりと決まった時間に家を出ているわけではないので他の日はどうかわからないが、同じ時間神社差しかるときは決まってその家族神社の外からお辞儀をする姿が確認できた。

それでなんとなく他の時間帯でも気にするようになったのだが、この家族以外にも、一定数の人が神社の外から非常に丁寧なお辞儀をしてから駅に向かっていることに気がついた。

朝の時間帯、忙しいという理由で中に入るまでもないという感じなのかもしれないが、お辞儀だけは手を抜くまいとする姿は皆に共通していた。

それだけ切り取ると確かに美しい何かを感じさせるシーンなのだが、やはり何かが引っかかった。

そうなのである

誰一人としてお賽銭を投げていないのである

賽銭を全く投げていないのにも関わらず、お辞儀だけはクソ丁寧なのである

それはもう神社にしてみれば万引きでしょ。

願い事の万引き

いや、神様に手を合わせたいならちゃんと参って。

ちゃんと参るっていう行為自体信仰の対価になるのだから、そこ端折ったら万引きでしょ。

それに気づいてからそれまでどこか神聖に見えてた彼らがエビルな存在だとした感じられなくなってしまった。

しかすると何かのタイミングでまとめてそれなりのお布施(初穂料?玉串料?)を払っているかもしれない。

それにしたって、そんなに大きな神社なわけでもないのだから、たった十数メートルの参拝を省略するのはどうなのか。

だったら神社の前を通るときに心のなかで手を合わせていけばいいだけなのに、お辞儀だけクソ丁寧っていう願掛けの線引はまじで意味がわからない。

神様ガチプレッシャーかけて、絶対に元取ってやろうっていう魂胆が見え見えなのだが。


似たような話で、大手町に将門塚というのがあるのだけど、めちゃくちゃ丁寧なお参りをしてる人がすぐ横に路駐してた車に乗り込む姿をみるとやるせない気持ちになるのよね。

そこを通るとかなりの頻度で路駐があるのだけど、そのせいで左折車線に入りづらくて迷惑だしそもそも危ない。

人に迷惑をかけてまで参られる側がどんな気持ちになるか考えればわかることだろうって。

観光地とか映えスポットならわかる。

エゴ全開で迷惑かけてくれたほうが殴り返せる分いい。

お参りは誰よりも丁寧!って姿が、謙虚の皮を被った傲慢に見えておかしくて仕方ない。

願えば願うほど祟られてるなじゃないかって本気で心配になるよ。

本人必死なら申し訳ない。

ももしかしたら、その問題に対する解決方法もっと別にあるような気がする。

2023-08-21

[]無性に素っ裸で海水浴したくなったのでバルセロナに行ってきた

5年ぶりに裸になりたくなった。

コロナ禍も落ち着いてきたから脱いだ。

アクセス

Playa de la Mar Bella。ビーチ全体ではなく、限られたエリアヌーディストビーチちゃん看板でこの先が全裸ゾーンって書いてある。

カタルーニャ広場停車場(Pl Catalunya - Portal de l'Àngel)からH16のバスPg. Calvell - Rambla del Poblenou停車場まで。徒歩の時間も込みで30分

バスから公園を横切って移動する。なんか途中にドッグランもあった。ビーチそのもの公園から高台というか小山で遮られている。

感想

小山を向けて海に向かって右側にまず行ったんだけれど、さっそく小山の上で全裸で仁王立ちしているおじいさんがいた。

でも、その時点ですごくトイレに行きたかった。で、近くの海の家的な店で聞いたんだけれど、トイレはお客さん専用だとのこと。

しょうがないので、近くにトイレはないか小山の左側の店に行った。そしたらそこにトイレがあった。

用を足してあたりを見回す。一応ヌーディストビーチなので裸でシャワーを浴びている人もちらほらいたんだけれども、それよりは筋肉質のビキニパンツ好青年のほうが多かった。こっち側ゲイビーチらしい。皆さん概してマナーがいい。健全出会いの場という印象だ。

こっち側海の家名前は「Be Gay」で、おそらく「ゲイであれ」と「陽気にやろうぜ」の掛詞だ。シャワー付近には裸の女性もいたが、着衣の人が多かったのでここで裸になるのはためらわれた。

さっきはトイレに行きたくて状況がよくわからなかった反対側はどういう雰囲気かと思って、戻ってのぞいてみると、こっちのほうが普通に裸になっている人が多い。ただしシャワーはない。ほとんどが男性で男湯っぽい雰囲気だけれど、カップルが数組いて、父と幼児海辺で戯れていた。男女比は大体10対1くらいで、以前訪れたウイーンの混浴サウナとはだいぶ雰囲気が違う。それにウイーンのほうが夫婦連れが多かった。

私はここで素っ裸になった。ウイーンとは違って遮るものがないし、着替える場所もないのでちょっと緊張したけれど、えいやと脱ぐ。まずは上半身裸で太陽を浴びて、それから下半身も脱ぐ。パンツ下着を同時に脱ぐ。お尻丸出し。やっぱり全身を太陽にあてると気持ちがいい。

ところで、バルセロナのビーチでは普通にトップレス女性がいる。二人連れの女性がなんだか楽しそうにしていた。ヌーディストエリアの隣なので、それこそ全裸中年男性がたくさんいるのだけれど、まったく気にしていない。私がヌーディスト的な世界に憧れるのは、相手のことをじろじろ見たりせず、自然な姿をありのまま受け入れているからだ。相手けが着衣、私が裸(あるいは逆)というプレイ結構興味はあるけれども、ここで感じる解放感とはまったくの別物だ。

何となくだけれど、ビキニパンツトップレスってなんかユーモラスだ。ジーンズトップレスのほうがセクシーだ。なんでだろ? ティーバックの水着もなんかお尻丸出しでなんだかセクシーよりも面白衣装って感じちゃう。服って脱ぎすぎて裸っぽくなるととユーモラスになっちゃう。そういえばここで見かけたおっぱいの大きなすっぽんぽんの中年女性、きれいだったけれども、バルセロナ市内で見かけたへそ出しファッションのほうがよっぽどエッチな印象だった。

へそ出しと言ってもブラトップみたいなもあるし、タンクトップみたいなのもあったし、おへそまわりだけ出ていて、その周りのお腹レースで覆うタイプのもある。

ボディスーツっていう、ハイレグレオタードみたなトップスジーンズみたいな恰好女性も見たけれど、腰の素肌が出ているだけなのに、すっぽんぽんよりもなんだかエッチだった。十代もいたし、ぽっちゃりした人もいた。誰も気にしていないのがいい。さすがにパンツが見えそうなミニスカートにはびっくりしたけどね。

で、何でそう感じるか。たぶん素っ裸になると、身体にはどこにも境目がなくてひとつながりで美しいって感じるんだけれども、中途半端に隠すとかえって暴いて見たくなるというか、えっちな部分が強調されちゃうんだろうな。

さて、裸で太陽を浴びてうとうとしていると、水売りのおじさんが通るのが見える。アジア人は私だけだった。アフリカ系の男性が数人いた。でも誰も気にしない。バルセロナ日本人観光客が多いけれども、ここは私だけ。無名のままでいられるって素敵。よそ者の気楽さ。

十分に太陽を浴びた私は、ほかの泳いでいる人たちに続いて、素っ裸で海に飛び込んだ。頭まで潜ったり、波に乗ったり、大股を広げて背中で浮いたりした。すっぽんぽん太陽を浴びると気持ちがいいし、何物も遮るものがない海に一糸まとわぬ姿で飛び込むと、なんだかいろいろな汚れが流れ去っていく感じがした。これは木々に囲まれウイーン混浴サウナでは味わえない感覚だ。途中で急に深くなっていて、一瞬足を取られたのには焦ったけれどね。海に飛び込んで、休んで。また飛び込んでを繰り返す。

で、すごく開放感があったんだけど、ウイーンのほうがマナーが良かったかな。おっちゃんがおちんちん一往復だけいじってたし。単に皮に砂が入ったからかもしれないけど。あと、小山の茂みの中でごそごそやっている人がいた。邪魔したら悪いからよく観察しなかったけど、あれはなんだったんだろう。きっと気にするのは無粋。

あと、ウイーンと違ったのは、こっちは陰毛処理していない人がほとんどだった。ヌーディストから自然派なのかな?

うそう、それに、財布も浜辺に置いてある。だからウイーンのほうが安心して裸になれたかな。持ってきたのは現金ちょっとだけだったけど、服も財布も盗まれたらどうしようもない。

でも、やっぱり海にはいろんなものを押し流す力がある。何か聖なる洗礼を受けたというか、生まれ変わった感じがする。何も恐れるものがない気持ちになる。これから生きていくこともいつかは死ぬことも、自然と一体になった私は恐れることはないと。水着邪魔されず、海水が私の全身を撫でる。頭からつま先まで。無限に広がる温泉のような素晴らしさ。それはとてもやさしくてあたたかい。来世とはこんな感じではないか。個我が消えて宇宙に包まれているのはきっとこんな安心感だ。そんな宗教的気持ちまでも出てくる。裸になるって神聖

とはいえ、十分も泳いでいたら普通にオーシャンビューの温泉で構わない気もしてきた。このあたりで私の全裸徘徊願望は収まってきたらしい。温泉では髪の毛を水につけたり、泳いだりはできないんだけれどね。でも、なんだかこうやって心から裸になるのは、信頼できる人の前でだけのほうがいい気がしてきた。

気が済んで、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。やり残したことを終えると、すっきりすると同時に、なぜあんなにこだわっていたのかがわからなくなる。

罪悪感とは少し違う。やる必要はなくなったかなという気持ち。もう少ししたら気分も落ち着いてくるだろう。これは再確認だ。これは自分にはもういらない要素だということの。別に外で裸にならなくても、普通に暮らしていけるという感じ。

やりたいことをすべてやってしまったという感覚が、おそらく次ステップ必要なんだ。

現に、帰宅してからは、以前は家では裸で運動していたのに、旅行から帰ったら普通に着た方がいいなって感じられるようになった。

なお、小山の右側と左側をつなぐ浜辺は人がぎっしりだった。歩いていくのがためらわれるくらい。たぶん8月ハイシーズンなのと、潮が満ちてきていたからだと思う。

バルセロナはこの時期は日没が21時だ。私がカタルーニャ広場を出たのが18時で、ビーチに着いたのが18時半くらい、脱いだのが19時、だいたい20ちょっと前くらいまですっぽんぽんで過ごしてすっきりして帰った。服を着た人のいるところまで裸で歩いてシャワーを浴びる気にはならなかったから、軽くタオル身体をふいてホテルシャワーを浴びてご飯食べて寝た。

2023-08-19

最近フリーゲームって質が落ちた気がする

ウディコン1位とかは相変わらず面白いんだけど本当にそれぐらいかな。

ここ数年で印象に残ってるのはホロライブ格闘ゲームぐらい。

オタクなら一生に一度はやっておかなければいけない義務教育レベルゲームフリーで出てないように思える。

たとえば

シルフェイド幻想

魔王物語物語

ruina

辺りの作品だ。

今の20代はともかく30代以上のオタクでこれをやってないのは流石に「君……ちょっとコンシューマー商業ゲーム神聖視しているみたいだね。浅いよ」と言われても仕方ないんじゃないかな?

最近フリーゲームにそのレベル作品は多分ない。

ホロライブ関連のファンゲームにしたって、Vを追ってる人間であっても「いやー俺ゲーム興味ないからやってないです」と評価くだされて何もおかしくないと思う。

フリゲ業界の熱はもう完全に失われた感じがある。

1000円ぐらいで製品版出して、それでも普通に売れてようやく「あのゲームはやったほうが良いですよ」と言われる土壌に立った感じというかね。

そもそも実力のある制作者はインディーズ最初から勝負する時代なんだろうね。

責任が伴わず好きにやれるのが魅力のフリーゲームだけど、本当に情熱のある人は「面倒でも良いから金の力で仲間を集めたり時間を作ったりしてもっと良いのを作ろう!」となるんだろうな。

アイディアはめちゃインディーズだけどスタッフ結構使ってる感じのゲーム話題になってるのはここ10年ぐらいでかなり見るわけだが、あの辺も昔はフリゲとして公開されてたんだろうな。

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