はてなキーワード: 担保とは
していい差別はつめたい熱湯ってのみたいな「文字だけではなりたつ」表現だよ
言葉ありきで現象が産まれるのだったら「差別なんてない」っていえばこの世に差別なんて存在しないよ
「現にしてる」っていったとしてもじゃあ「差別なんてない」って言葉を消滅させることができる表現があるのかって話
言葉は現象を伝達用に借り受けしてるもので、現金みたいなもんだよ
担保やサービスやモノとか約束を手に取るまでの代わりのものであってそれそのものはただの紙切れみたいなもん
ただの言葉で音なだけ
実際の結果へたどり着くための手段が言葉なのであって言葉があればどこの結果にでも着くわけじゃないし
いくら言葉をつくして支払いをしたとしても手に入らない結果はある
「していい差別」が存在したとしたらそれはお金で買える程度のものやその言葉で十分事足りる状態のこと
差別プレイができるお店の中だけのお話だったり電源を切ったらおわる世界の中だけで広がるお話だったりするならそれは「そこにある」だろう
昔だったら精神科病院にずっといる感じだったんだよね。
過去の触法行為があって帰り先がない少数の人と、治療がある程度奏功して退院できそうな人両方が、長期入院になっていたということ。
病院側も、多数の手間のかからない障碍者がいるから、少数の手間のかかって長期になる触法気味の障碍者を受け入れられた。
少数の人たちの現状は、プライバシー保護の問題もあって、公にはされないから、偉い人やらマスコミには「罪状」は見えない。
精神科病院の在院日数が問題になって、すでに入院している人中で施設に出せる人はどんどん出しているけれど、あらたに触法行為があって入院が長期になりそうな人は、入院しづらくなっている。
医療観察法の適応になような重罪に類するような触法行為でも、入院期間は3年。
もちろん健常者の例えば殺人でも、最短5年くらいで出所するから
世の中的には、暴力のリスクは、加害者に障害があるかどうかは置いておいて、受け入れる必要がある時代になっている。
本来、暴力行為の加害者で、治療の余地もなく、手間をかけたケアが必要なひとについては、法的手続きを経て、長期に入院を可能にする制度と施設と運営資金が必要だと重くのだけれど、障碍者にお金をかけることについても批判がありそうで、難しい。
法的手続きについては、司法の関与が望ましいけれど、これまでは、精神保健指定医という制度で代替してきたように思う。精神保健指定医の制度で問題なのは、判定する医師が利害関係者であるところ。
虐待など事件が起こると、法曹関係者やマスコミは精神科医療への不信ばかりかきたてる。批判はごもっともと思いますが、長期に入院せざるを得ない人については、立法して、処遇を担保しほしいと思います。
障碍者施設の大量殺人事件があったけれど、裁判を通じて、被害者の入所経緯や状態が詳らかにされるかどうか気になっている。大量殺人は全く持って許されるべきではないという前提はあるが、大多数は善良な方と思うけれど、一部には唐突に人を殴っちゃうような、不条理な障碍者がいるような気がするし、施設側の処遇にも問題があった可能性もありうる。
差別の問題が深くかかわっていて、触法行為を繰り返す人が障碍者の中にいて、そういう人には長期のケアが必要だという話なると、一般の障碍者の差別を助長するし、障碍者全般に対する差別があると、一部の人の触法行為すら表に出てこなくなる。表から見えない密室では、虐待などの事件が起こりやすくなる、かもしれない。
重度行動障害のある人への医療的アプローチ、など、元増田が言う、暴力的な児童などにたいするケアの技術や方法論は向上しているけれど、現場ではやっぱ怖えぇなーってひとに、時々出会う。このあたり、触法行為と精神疾患については、心神耗弱や責任能力の議論として端的に表れる問題以前に、どう処遇していくかっていう社会制度の問題でもあるけれど、感情的になりやすくてまともな議論ができていない気がします。いっぽうで、犯罪の疾病化や、その逆の疾病の犯罪化が、深い議論を経ぬままに制度化されてしまうことに危惧を覚えます。
無いとはいっていない。僕たちは。
ただ、あなたがいう方法では再現性が高くないから、論文としては認めにくい。
きちんと再現性を担保せよというのが学者の意見。そこが勘違いのもと
僕たちみたいな下等な学者でも再現できるように手順を言う。かわりに名誉をプレゼント。あるかないかでいえば、あるかもね。 それは問題ではない。
人間が月旅行をする未来はありまーす。 ← これを学会発表というから 卑怯者といわれるのは 妥当ではないか? あるかないかではない。再現性がどの程度ある方法を公開するのか?
「どんな選び方しても2世3世議員を減らせないだろう」って?
うーん。よく言われるネタだけど、「政治家選抜共通テスト」くらいやったらいいと思うんだよ。あるいは既存の試験が適切だと判断できるなら、司法試験でも、あるいはたとえば国家公務員(総合職・大卒程度)試験を面接以外受けて成績公表でもいい。少なくとも官僚になる奴は基本的にはこれに合格してるわけだし、それと同等の能力があることくらいは示すべきでは。もちろん、別に新たに試験を設けるのもあり。制度の作られた20世紀中頃とは異なり、家庭事情から公教育すらまともに受けられない人というのは大きく減少し、また、社会も高度複雑化した。そんな現代においては、それぞれの専門性はもった上で、かつ、行政について最低限の知識があることくらいは担保できないと、議員活動の上で色々とマズいんじゃないかな。こうやって立候補の前に網を掛けるだけで、中身のないタレント候補や2世3世議員の乱立を、少しは減らせると思うんだよね。とりあえず参議院だけでも導入してみるとか、どうかな。一度受検すれば5年は有効で、期限の切れる前年から当年までの間に再び受検しないと、国政選挙に関わる被選挙権を失う、とする。つまり「政治家免許更新制度」ですね。全国津々浦々の教員ですら全員これを自費で行っているのだから、遙かに職責の重い政治家の皆さんが、まさか「能力の証明など不必要だ!」とかおっしゃらないでしょうし。
陶片追放は、ポピュリズムを強化するものなので、正直あまり効果はないという気がするんですよね。選出するところで民衆の知性が働かないのに、追放に際して働くと期待できる根拠がないので。また、マイナスを恐れた政治家が、失点だけないようにばかり振る舞うのもマイナスで、やはりその地位には一定の安定保証が必要だと思うんですよ。それよりも、国政選挙において、選挙本来の形に則るなら、結局「その人がどういう活動してきて、どういう思想の下、どういう政治をしていくのか」を公正にチェックした選挙公報に基づき投票する、という仕組みを整備するのがいいんじゃないかと思うんですよね。「地盤・看板・鞄(金)」で決まる選挙にしないためには、その原点に立ち返るしかないでしょう。
これをするには、ネット投票の仕組みを整備しないといけないんですが、
・選挙葉書で投票サイトにアクセスすると、ランダムに選ばれた二人の人間について、その選挙公報が示される。
・これを4~5回繰り返したら、投票終了。
みたいな選挙にする(ぶっちゃけ、この前増田で少しバズった「戦う猫の話」のkittenwarからアイデアを得た。)、つまり、PoliticianWar。選挙に金も時間もかからないし、公報の内容は選挙管理委員会によってファクトチェックかけられて、必要字数のみ、かつ、正しい内容しか掲載できないようにする。(いま、民間で選挙のときにオープンしてるサイトみたいなのを想定してもらってもいいと思う。)
これで、「地盤看板鞄」関係なく、お金もかからない選挙が実施できると思うんだけど、どうだろう。というか、これで困るのって「地盤看板鞄」頼りの選挙ばかりしてきた人たちですよね? あと、「それでも結局芸能人含めた有名人が有利じゃね?」と思われるかもしれない。それは否定できないけど、「全く公平に比較対象を用意した」状態なら、「よく分からないから有名人に入れる」みたいな人の数を少しは減らせると思うし、それなら、現状より少しはマシになると思う。あと、投票率も上がるし、「全然知らない人に○したけど、あの人その後どうなったんだろう……」みたいに、政治への関心も高まると思うんだけど、どうだろう。
まずオーディション通った、ある程度の質が担保された者たちである時点で人気がでやすいし、
共通プラットフォームを使えるのでそういったことを気にせず中身に専念しやすいのも強い。
ライブの接続数変化を追って、どういうところで人がいなくなっていくか(改善点)なども相談できるサポート員がいるしね。
企業から公務員に転職した俺が、元増田と他の参加者の違いが生まれる背景を頼まれてもないのに説明します。
まず結論から言うと、根本的に事業構造が違うから違うのだということで、優秀かどうかなんてのは微塵も関係ないのです。
それに対してお役所は、先に収入(税収)があって、それを配分して事業をやります。
企業において一番大切なのは、もちろん収入と直結する事業のアウトプットですが、お役所では、何に税金を使うのかという配分の部分が一番重要なのです。
お役所では、事業実施の前年度にはその事業の予算化をしておく必要があります。
また、予算額を超えて事業をすることも、予算要求時と大きく異なる内容で実施することもできません。予算を大きく余らせてしまっても良い顔されません。
このため、予算要求時には、事業の計画を概ね固めてしまい、ちゃんとした算出根拠を持っておく必要があります。
また、予算を配分してもらうまでにはいくつかハードルがあり、上司、財政部局、首長、議会と、順番に説明して承認してもらわなければなりません。
事業が実施できるかどうかわからないこの段階で、かなり正確な見積りと、必要性、公益性、実現可能性の全てをクリアして説明できることが求められるのです。
民間だと、とりあえず走り出してから考えたり修正したりしながら、最終的にアウトプットがちゃんとできればOKなところがあるので、一番最初に机の上で完璧な企画を考えるなんてのはただの時間の無駄でしかないですが、お役所はそうではないのです。
元増田はそれが染み付いているから、初期段階から色んなアラが目につくのだと思われます。普段から彼女が上司に言われてるような事なんでしょう。
でも、最終的なアウトプットまで至る場合は、おそらく初期の企画とは全く異なるものになって、一応形になってるはずです。もちろん、アウトプットまで至らないことも多いですが、そういうもんです。
元増田からすると、雑な企画で走り出すことはまるで理解できないだろうし、逆に、走りながら考えるのに慣れている人からすると、最初からそんなに考えてたら何もできないと感じるだろうと思います。
これは、良いとか悪いとか優秀とかそうでないとかではなく、構造の違いです。
民間企業が役所と同じやり方をすると、一つの失敗も許されなくなって新規事業なんて何もできなくなるし、お役所が民間企業のスピードでやると公平性や公益性を損ないクレームだらけになるでしょう。
就職活動でたくさんお祈りされると自尊心がズタズタにされてしまうのはわかるんですが、優秀かどうかとか民間企業落ちたとか、そういう瑣末なことに囚われないで、違いを理解してそれぞれの役割を全うすることを心がけたほうが良いと思います。
最後に蛇足ですが、お役所仕事について、役所に入って感じたことを。
お役所の仕事がダメになりがちなのは、予算を取るところが山場であって、肝心な事業の実施時には適切に予算を消化することが目的化してしまっていることが往々にしてあるからじゃないかと感じました。
予算がついてから突然担当にさせられることもよくあるし、予算が中途半端な額に減らされてまともに事業ができないのにやらないといけないこともあるので、本来の目的とかどこかに消えてしまうことも少なくないです。
補助金がつくから、国がやれっていうから、的な理由で予算を付けられてそもそも何のためにやるのかもよくわからないままにやることもあります。
アウトプットの品質はあくまで担当者の能力や意識にかかっているので、この辺をもうちょいなんとかして、アウトプットの質を担保する方法ないかなあと思って過ごしてます。
割とぬるいことしているし、同僚もぬるい人もそうでない人もおるわ。どちらかというとぬるい人の方が比率として多い。
こっちから見ると役場の人たちすごいなぁとかきちんとやってるなぁとか思えることはたくさんあるわ。逆ももちろんあるけどご苦労さんや。
たぶん公務員違いやけど、今日ハコヅメ読んですごいなぁと思いながら午前中過ごしたわ。
ただちょっとその参加者のほかの女性の能力下に見すぎやと思うわ。
なんか公務員や民間やからと言うより性格の違いなんやと思うけど、そもそもたぶんその女性たちワークショップでまともなもん出そうと思ってないで。
たぶん増田もそれは分かっていると思うけど、それ以上にまともなもん出そうと思ってない。
時間内に輪を乱さずそれなりのものをワークショップで出せばいい。
満足げな態度って言ってるけど、民間で覚えるのもぶっちゃけそういう態度きちんと取れることやわ。
自信がないときに素直に自信がないって態度とってても良いことなんて一つもないで。
あとはまぁワークショップ自体でテンション上がったんやと思う。仲良くなったみたいやしおしゃべり楽しかったんやろ。
そもそもマーケや研究職がそんなコンサルみたいな事いきなりできるわけないし。
うちの会社でもそういうアイデア集めて短期でってあるけど、そこで覚えることって「あーこの程度の質でないとまとめられんな」やねん。
だいたいが時間的な制約と人の能力の制約で。金の制約とかはその後。
ワークショップ形式って特に短期だと「輪を乱さない」つまり「余計なトラブル起こさず時間内に終わらせる」って条件を付けると一番能力のない人に合わせることになるねん。
増田も今回そうしたやろ。みんなそれやってるわ。
ほんで何のスキルが向上するんやって言うと、ある程度の会議とかできちんと発言できることや場の主導権持つことやわ。
主導権持つ能力って大事で、自分が主導権持たなくても話の流れきちんと作れるようになるし。
今回増田が全く主導権握れずに、増田の望む最低限のクオリティも担保できなかったわけやん。
せっかく持ってたアドバンテージ初手で潰されてるねん。潰した人達は天然か「制約増えてめんどいことなるなー」って思考したかは知らんけど。
それでもまぁ確かに大手民間ってだいたいの人がそんなに能力ないで。
いつももうちょっとだけ頭使えよって思っている。ワークショップではあんなしょーもないアイデアしか出せない。
特に企画やマーケ、営業なんてその能力をいかに効率的に特化させるか大事になってくる人多いんちゃうか。
たぶんほとんどの企業が経営戦略って言いながら適当な博打打って適当に進めているわ。
陰謀論見ると大体の感想は「そんな複雑な計画立ててないし、そんな能力ないで」やわ。
わしらが民間が獲得したのは結局ある程度適当な人材である程度適当に進めることや。
それをスピード感って呼ぶこともあるし、効率化とか低コスト化とかって呼ぶこともあるわ。
あと、ほんまに本気出して進めたいときはワークショップみたいな形式でなんてやらんで。
完全にワンマンで始めるわ少なくともうちやと。
たぶんそこは公務員も一緒やと思うけど。
例えばLTV60% で500万借りたのであれば、下記の計算で担保に必要な価格がわかる
500 * 10/6 = 833.3333...
考え方としては0.6 倍すると 500 になる値なので、答えは500より大きいことが直感的にわかる
0.6 は 6/10 です。
6/10は 100%の値を 60% に割合減少させるための値
なので、逆に60%のものを 100% に戻すなら 10/6 で 6 と 10 の対比をひっくり返して、かけた値が大きくなるように調整する
これは教科書的な回答としては、資産のポートフォリオ、つまりお金・物(車とか高級ワインとか金とか)・株式・債券とかを、バランスよく分配しましょうという考え方に基づいてるんだろうね。お金、日本円だって価値が変動しているわけじゃない?円安とか円高とか。意識する機会が少ないだけで、1000円持ってるだけでも価値がゆるく変動するギャンブルに乗っている、とも言える。
バランスが偏っていると、たとえば円がゴミ同然になってしまったら、全財産がパァだ。だから分散しときましょうね〜、どのみち大なり小なりギャンブルしてんだから。という感じ。(異論は認める。)
経済成長を前提としている、はその通りかな。富の移動が富を産む、その総量は人口増大と経済活動の合理化によって担保されている。ということになってるんではないか。
読む限りだと、
であってるよな?
昆虫図鑑しか手元になくて、「僕昆虫博士になりたい!」っていう子と、
昆虫図鑑と魚図鑑が手元にあって、「僕昆虫博士か魚博士になりたい!」っていう子がいたとき、
というような。
この前提で間違いないよな?
その前提で話すと、
確かに、将来の身の振り方を決めるに至る程の、価値観を変える劇的な出来事は、田舎には全然なかったな。
あのときの〇〇さんとの出来事が人生変えました!っていう出来事は田舎にはほとんど起こり得ない。
起こり得たとしても、田舎にいる人々、即ち、先生とか医療職の方々との間でしか起きないな。
人としての輝き方の種類が少ないというか。目に入る輝いてる?人たちが公務員か医療職以外にまじでない。だから、それ以外になりたい!という大志を抱く機会が、田舎で過ごすとまじで少ないと思う。
で、そんな中で育ったおれが文化資本(キャリアの幅を広げるキッカケ)にどうやってアクセスしてきたか?って話を今からする。
おれは2つ幼少の頃なりたいと思ってたものがあった。いわゆる、「こういうキャリアを歩みたい」と思える文化資本と触れ合う機会が2つだけあった。
で、
1.「ポケットモンスタールビー」
2. 「遊戯王」
っていう話。
ポケットモンスタールビーはコロコロコミックで見て欲しいと思ったんだけど、コロコロコミックは母親がある日唐突に買って来てくれて、そこからハマった。
だから、
1.雑誌とかYou Tubeとか、文化資本に繋がりやすい媒体 or 文化資本そのもの(図鑑とか、解体できる四駆とか)を手が届くところに置いておいてあげる
2. 本人が興味がある分野が出てきたら、金積んで何でも体験させる
とかだな。
キャリアを広げるという意味の文化資本は、モノベースであれば、田舎には住んでいても割と金で買い与えられると思う。いわゆる図鑑とか雑誌の類だな。
スケートリンクに連れてって、子供にスケーターになる将来を連想させたり、サーカスに連れてって、パフォーマーになる機会を連想させたり。
だから、意識すべきは、金積めば与えられるモノ由来の文化資本と並行して、体験に依存する文化資本も意識的に与えることだな。
あと、中段に、
「田舎で育てられた自分は文化資本が与えられなかった」と落ち込んでほしくない
とあるな。
これはハッキリ言う。増田が定義する文化資本に限っていえば、それは思ったことはない。
東京に出て来て初めて見た職業はたくさんあるが、別に今からでも成れるものが多いので、
「あー、昔自分も魚図鑑買ってもらってたら、今頃魚博士だったのになーーー」
なんて言うことは全く思わない。
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ただ、田舎で育って損だったと思うのは、世の中に学歴フィルターなるものが存在することを知らなかったってことだな。
東京来てみて、商社マンとか、外銀とか、そういう職業を知った。
こういう職業だけは、今から努力してもなれないよな?(中途とかは抜きにしてだぞ)
こういう機会に直面したとき、
「あーーー、高校時代、いや中学時代に学歴フィルターのこと教えてくれよなーーー、そしたらめっちゃ頑張ってたのにーーー」
ってのは思った。
なんでみんな東大を囃し立てるのか分かんなかったし、恐らく田舎の高校生はMARCHとかすら微塵も知らない。俺も知らなかった。
これだけは今もめっちゃ思ってるな。
「選択肢が削られた!田舎に住んでたせいで!」と思うのはここくらいかな。
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とか。
要は趣味を共有できる友達が居なかったことと、趣味までの物理的な距離が一番しんどかったかも。
文化資本与えられたあとで、それに勤しむ機会がないのはしんどかったな!
文化資本も担保してあげつつ、こういうところも気にかけてくれ。
趣味があるようだったら自分も同じものを買ってライバルになってあげるとか、東京までの物理的な距離を金で解決してあげるとかそういうやつ。
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で、ここから話変わるんだけど、おれの文化資本の定義を話すぞ。
おれは「文化資本」を、走馬灯で見ることので切る、人生最後の映画の厚みだと捉えてる。
俺に言わせれば、ロックしか聞かないやつより、ロックとクラシックを聞くヤツのほうが、人生最後の映画のサントラは充実してると思う。
田舎だと、
船釣りとか、海だとか、庭で焚き火したりとか、近所の畑の仕事手伝ったりとか、畜産農家の牛とか鶏見に行ったりとか。ボロいトタン集めて秘密基地作ったりとか。死ぬ前の走馬灯は、間違いなく都会育ちの人よりは長い(分厚い?知らんけど)と思うな。それはホントに親に感謝してる。
個人的には、後者の定義で文化資本を捉えるなら、都会の文化資本は大人になってからいつでも回収できるけど、田舎の文化資本は大人で回収するのはむずいな。仕事の都合で大概都会に住んじゃうし、成熟した脳みそじゃあ、釣りよりネットサーフィンのほうが楽しいだろうし。
とりあえず益田に言いたいことは、文化資本を前者の定義と捉えてるなら、それなりに努力は必要だな。ただ、後者の定義で捉えるなら、田舎への移住はポジティブにとらえていいとおもうぞ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/georgebest1969/status/1362343129676881922
岩田医師がブコメでボロクソに言われてるけど、高山医師の態度もひどかった。
高山医師の返信によって岩田医師が歪めた解釈で批判したように読めてしまうが、高山医師が安全が担保されていない氷を「いいですよ」といったことは間違いない。そこに岩田医師が根拠(テキスト)をもって反論しても、「岩田先生って、東南アジアに行っても「氷」は避けてんですか? あるいは、プロとして「ダメだって言ったからな。俺は」という指導?」などと不遜な態度をとり、挙句の果てには「私は世間話レベルで応じてしまいました。」と開き直る始末であった。感染症に詳しい医師として厚労省に出入りし、メディアにも出ている医師が、である。
(https://twitter.com/nonbeepanda/status/1361673589544480769)
そもそも話は東南アジアで氷を入れて飲むのは安全上問題がある、というものだ。
管理が明確になされていない氷を避けることは旅行医学の基礎的な内容であり、東南アジアではその安全性が担保されていないことを岩田医師はデータを出して示したが、それに対して高山医師は「そういう時代の経験のもとに私はお話ししています」とあくまで個人の経験をもとに持論を展開し、「料理人が手洗いしてなくて、コップや料理が汚染されてるリスクと大差ないのでは?」とか、熊本の馬刺しのことを持ちだしたり、「東南アジアで氷なしで暮らしていくのなんて、ほとんど不可能」などと、関係のないことばかり述べているのである。
それに対し、岩田医師が批判されているようなツイートをするのは仕方がないのではないか。確かに、「東南アジア」を「途上国」、「中空の氷」を「カチ割り氷以外」と置き換えてしまってはいるが、安全が担保されていない氷に対して「いいですよ」と言っていることに違いないのである。世間話になんでそんなに噛みつくんだという批判もあるが、途上国での氷の使用は明確にリスクがあるということが、教科書にも載っていて試験にも出るような基本的な内容であるのに、影響力のある医師が軽く「いいですよ」と言ってしまったら被害が増えるだけである。
https://anond.hatelabo.jp/20210218183322
釣りなのかもしれないけど、何のアドバイスにもなっていないので、
・色味については難しいので、白と黒だけでいいです
・服の種類をたくさん揃える必要はありません
・黒いパンツと白シャツ、白スニーカーと黒いバッグがあればいいです
・必要に応じて黒い革靴を加えてください
じゃあ、それぞれ何を買えば? となりますね。
騙されたと思って以下の通り買ってみてください。
・黒いパンツ: ユニクロのウルトラストレッチスキニーフィットジーンズ
→試着してジャストサイズを買い求めてください。ピタッとしてるなと思っても、ストレッチが効いているので快適に過ごせると思います。試着室で屈伸して実感してください。
・白シャツ: ユニクロのエクストラファインコットンブロードシャツ
→これも試着してジャストサイズを買い求めてください。シャツの肩のラインが自分の肩に沿っているかを確認するのが一番わかり易いと思います。大きすぎず、小さすぎずで。
服はこの2種でいいです。暑いときはエアリズムを、寒いときはヒートテックをインナーに。
ニットは着なくていいです。寒いときはこの上にコートを羽織ってください。
(もうコートが要らなくなる時期ですが、もし買うなら同じくユニクロの
とりあえず上下買ってみて、しっくり着たら同じものを買い足していってください。
洗濯はちゃんとしましょう。シャツは1回着たら、パンツは1週間着たら洗濯してください。
→踵の部分に色がついたものがありますが(そこが緑のものが定番なのですが)、
全部白のものを選んでください。できれば。
・黒バッグ: プラダのV136というやつを買いましょう。どうやら廃盤なので中古で手に入れましょう。
以上です。
これで1年間365日、同じ格好に身を包み、何の迷いもなく過ごしてください。
どこに行っても「清潔感があってそれなりにおしゃれに気を使っている人」という
印象を抱かれます。本当です。
そして、ドレスコードが厳密に設定されているようなレストランや冠婚葬祭以外は
どこにでもいけます。
スタンスミスは1万円、プラダのリュックはおそらく10万円くらいかかりますが、
支援が必要はマクロな視点(国や社会を考える目線)で、軽蔑するのはマクロな視点(自分が結婚する相手を見る視点)だから両立はすると思う。
マクロに見れば少子化だし、子供に健やかに育ってもらうことは社会として担保すべきこと。
一方でいざ結婚するとなると、すぐ離婚するような甲斐性のない人、1人になったら厳しくなることは分かりきっているのにそんな判断をしてしまう無計画さ、そんな計画性のない人と一緒になりたくないという気持ちはわかる。
あと、一度離婚している人は離婚に関する知識と経験を積んでいる分、何か少しでもしくじったら簡単に自分も切られるのではないか、という不安が常に付き纏うよね。
1.金を貸す銀行の立場からはマンション>オフィス>ショッピングモール>物流倉庫
分譲マンションを買うのは主として個人で住宅ローンを借りてくれるが、BISのリスクウェイトが低いので資本が少なくて済む
デベ向けのオフィス建築ローンはすでにたくさん貸しているから積み増しにくい
ショッピングモールはもとの土地のオーナーが工場だったり大地主だったりして、銀行ともとから付き合いがあったり再建や相続からみだったりして他にもメリットがある
2.投資ファンドの立場からはオフィス>物流倉庫>マンション>ショッピングモール
賃貸マンションはオフィスビルに比べて規模が小さいし、空室リスクが高いのでREITにも入れにくい
底地の地価が高いビジネス街は銀行からお金を借りやすいし、テナントが埋まればREITに入れて安定資産となる
ショッピングモールはキーテナント(スーパーとかホームセンターとかパチンコとか)の発言力が強いし、自治体もうるさいし、開発からかかわるのは手間も時間もかかってリスクが大きいけど、よさげなものになりそうだとわかるまで待ってたら入り込めない
図書館は法律がそうだからというのは理解している。
はい、非常に真っ当な疑問ですね。図書館法というのはいかにも特別法特別法していますし、
そんな特別法をあえて作った理念はなんぞや?という疑念を持つのは論理的思考の当然の帰結です。
こういう時は当の法律を見ましょう。
図書館法
図書館法第1条 (この法律の目的)
この法律は、社会教育法(昭和24年法律第207号)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。
社会教育法第一条 (この法律の目的)
この法律は、教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の精神に則り、社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにすることを目的とする。
はい、また飛ばされました。特別法の濃い匂いが漂っていたのは伊達じゃないですね。
教育基本法 前文
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
はい、「前文」ですよ、前文。さすが基本法、憲法級の重厚さです。
読みましたか? 前文だけに、その内容も高邁な理想と理念を謳う大上段な代物です。
さて以上からわかるのは
・「図書館法」(昭和25年制定)というのは、教育基本法、社会教育法を受け、その目的を直接に受け継いで補完するために制定された。
・その目的というのは「民主的で文化的な国家を更に発展させ、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」という「新憲法の精神」そのもので、
・新憲法の精神実現のためには、「我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図る」のが重要という認識がなされています。
・具体的には、憲法公布(S21)→教育基本法(S22)→社会教育法(S24)→図書館法(S25)、というダイレクトな流れがあり、GHQと国会は新憲法制定後、大急ぎで、この教育関連法セットを整備してるわけです。
当時の情勢的には、とりあえず占領して、「自由な民主主義国家」を作ってみたものの、GHQにしてみればこの間まで「天皇陛下万歳!」とやってたファシズム国家の人民がいきなりこれを使いこなせるのか甚だ不安だったわけです。ならば対策は教育、それも学齢のみならず社会人も含めた全国民の教育が必要、という危機感があって、教育基本法の大上段な前文と大急ぎの教育関連立法の背景になっているんですね。
(そんな事情なので、「大急ぎ」と書きましたが、実際にはGHQは基本法から図書館法の整備まで3年かかっていることすら苛立って督促かけまくってます)
この「【日本国民再教育計画】になんで図書館まで含まれるのか?」というと、そこは(欧米的な)「議会制民主主義のイデオロギー」の部分になります。
・「議会制民主主義」は健全で良識ある市民がいてこそ成り立つ。
・健全で良識ある市民が育つには自由な言論と知識へのアクセスが必要
これが欧米的ポリアーキー(おおざっぱには「自由を重んじ議会を中心に据えた民主主義体制」と思ってください)を支えるイデオロギーの柱の一つなのです。
大日本帝国は法的な主権者こそ天皇でしたが決して絶対君主ではなく(機務六条)、普通選挙による衆議院を持ち、三権分立を整備し、(憲法上の規定外ですが)議会が首相任命に影響力を持っている、という結構民主的な制度を持つ国家でした。それがガチガチのファシズム国家として(ワイマールドイツはもっと民主的だったわけですが)連合国に挑んできたわけですから、連合国としては戦後日本の「ファシズム再発防止」にはかなり細部まで気を使いました。その重点施策の一つが「全国民再教育」で、とはいえ全国民対象の「再教育キャンプ」を作るのは手間も費用も膨大。ということで社会人教育向けとして白羽の矢が立ったのが広報宣伝やマスコミ統制と並んで図書館だった、というわけです。そりゃ気合も入りますし特別扱いもするってもんです。
大日本帝国にも無論図書館はありましたし、「図書館令」という法令(勅令でした)もありました。ところが、この図書館令は「この令を守れば作っても宜しい」という認可のための法整備で、
など、欧米的な「健全で良識ある市民の拠り所たる図書館像」とはかなり方向が異なるものでした。
この違いが「健全で良識ある市民の育成に失敗した」(欧米的観点では、そうでなければ民主的な国家がファシズム化したり革命が起きたりするはずがないのです)原因の一つに見えたため、この認識に基づいて、
・市民の知識へのアクセシビリティの確保(無料で全国津々浦々に)
・改正図書館令のような「図書館が思想統制の末端機関となる事態」を防げる図書館の独立性
「自由な知識の集積、その集積への市民の自由なアクセスなくして民主主義なし」というのは、自由な議会制民主主義の根幹をなすイデオロギーで、だからこそGHQは全力で推進したわけです。
あくままでイデオロギーですから、「功利の観点で利が多い」という判断から図書館を特別扱いしているわけではありません。「民主主義が成り立たない」という「(エビデンスがあるとは言い切れないにも関わらず)重要過ぎて試すことすらできない根幹の部分」を盾にとっているからこそ特別扱いOK、というか「特別扱いしなければならない」という理念なのです。
そういう背景ですから、例えば体育館を図書館と同じような強力な法的地位を与えるよう運動する際には、「図書館が特別に位置付けられている理由」は全く参考になりません。図書館のケースと全く別の論理、例えば「功利のエビデンスを示して財政難でも優先すべき、と多数の賛成を得られるよう説得」なんかを行う必要がありますので、なかなか実現は難しいのではないでしょうか。
もし図書館同様の理由で体育館が特別で強力な法的地位を得ようとするなら、まずは「健全な精神は健全な肉体にしか宿らない」とかの、現在の民主主義と異なるイデオロギーを持った国家体制に作り替えるところから始める必要があります。