はてなキーワード: 国家社会主義とは
アメリカが自己保身に走ってる間に国際機関とも発展途上国ともヨーロッパ諸国とも連携・支援という名の外交を展開してるのが現在の中国じゃん
もうヨーロッパも第三世界も中国チンポなしじゃ生きていけない身体にされちゃってるのに、国際社会に背を向けて自国中心にひた走るアメリカにこのまま尻尾振ってることが日本の国益になるのか?
コロナで経済崩壊経済崩壊!ってむしろこのままだと本当に経済崩壊しそうなのは中国よりアメリカなんじゃねーか?
中国は国家社会主義で国家と企業がほぼ一体的だから統制力が効いて非常時に強いんだよな。
中国人の日本に対する印象も最近は凄い改善してきてて訪日中国人は沢山お金落としてくれるし、言うまでもなくグローバル・サプライチェーンも三密以上に密接に繋がってるわけで。
もうアメリカとか終わってるだろ。
自分のことしか考えてねーのは中国と一緒だけど、中国は元々冊封体制の国だっただけあって他国の利益にも配慮するじゃん。あくまでチャイナ・ファーストだけどお前らにも利益は配ってやるよってタイプ。
今のアメリカは本当にアメリカ・ファースト。アメリカ以外は自分で頑張ってねってタイプ。
安全保障とか本当に酷いじゃん。日韓の貢献なんてなんとも思ってねーよあいつ。
それでもアメリカ経済は最強だったから経済的には価値があったけど、今後それも危ういよなってわけで、安全保障面では中国は油断ならないけど経済面ではもっと中国と親密になっていくべきなのではないだろうか。
■男女平等で男女仲良くが真のフェミとか言うクソオス、お前の様なオスを排除して女性独裁するのが真のフェミだよ
男の語るフェミニズムは「男のオレが不快にならない程度のフェミニズム」でしかない
「真の男女平等」とか「エセフェミ」も男に都合が良いものでしかない
そういう考えがすでに女性蔑視に染まってるクソオスでしかないし排除するしかないつってんだよ
そして女性を加害して今の地位にいるくせに、笑顔で仲良くしようとかサイコパスですか??
まずはその踏んでる足をのけろよ
男もフェミニズムを学ぼうとか男にとってもフェミニズムは救済とかそうやって男に媚び売って改善してもらおうとしても全く意味ない
そもそもオスが勝手に互いに殴り合ってるだけだから自分らでやってればいいのに、それでフェミニズムに頼って相手にされなかったら噛み付いてくるから本当に救いようがない
フェミニズムは女性のための女権拡張運動であってお前みたいな被害者意識だけ強いくせに女には加害してくる雑魚オスのママじゃねぇ
実際町山みたいなリベチンや「娘や嫁を守るためにフェミ」とか言ってる家父長制オスしか生まれてないじゃん
これが政治も何もかもおっさんが決める地位にいる間はいくら媚び売っても「男のペットとしての権利」程度しか認められない証拠だよ
結局金持ちが貧乏人と仲良く一つになってがんばろうとかいう階級協調主義=国家社会主義はごまかしでしかないのと同じ、金持ちは貧乏人を搾取することで利益を得るし、それを払いのけるためには金持ちを階級闘争で倒すしかないのと同じで、男は結局今の支配構造を維持して利益を得続けたいし、女性蔑視的価値観に完全に染まりきってる。男女闘争で男を倒して女性だけで社会のことを決めれるようにして一度この構造や価値観を根絶しなきゃいつまで立っても「男女平等」なんかにはなりはしない
男やそれのご機嫌取りで利益を得てる名誉男性は、男女の矛盾や対立、支配構造を覆い隠して男女仲良くしてもらわないと困るだろうけど、逆にフェミニストはその男女の矛盾や対立、支配構造を徹底的に暴露して煽ることで「男女を仲良く」なんていう策略を打ち砕く
一時的にプロレタリアート独裁があるように、まず男性を今まで女性に加害することで得たあらゆる地位から排除して、女性独裁の間にフェミニズムに基づいた女性のための社会を作る必要がある
教育や旧来の家父長制的価値観やセクハラ思考を与える習慣、表現を排除してまともなオスの子供が育ったあとなら、「男女平等で仲良く」やれるかもしれないけどな
労働者と資本家だったら数の多い労働者が勝つかもしれんけど男女で争ったら負けるわけないし
後々反フェミ認定されて粛清や強制収容所で再教育とかされるぐらいなら確かに男女仲良くとか生ぬるいこと言ってないでさっさと争って終わらせたほうがいいな
男の語るフェミニズムは「男のオレが不快にならない程度のフェミニズム」でしかない
「真の男女平等」とか「エセフェミ」も男に都合が良いものでしかない
そういう考えがすでに女性蔑視に染まってるクソオスでしかないし排除するしかないつってんだよ
そして女性を加害して今の地位にいるくせに、笑顔で仲良くしようとかサイコパスですか??
まずはその踏んでる足をのけろよ
男もフェミニズムを学ぼうとか男にとってもフェミニズムは救済とかそうやって男に媚び売って改善してもらおうとしても全く意味ない
そもそもオスが勝手に互いに殴り合ってるだけだから自分らでやってればいいのに、それでフェミニズムに頼って相手にされなかったら噛み付いてくるから本当に救いようがない
フェミニズムは女性のための女権拡張運動であってお前みたいな被害者意識だけ強いくせに女には加害してくる雑魚オスのママじゃねぇ
実際町山みたいなリベチンや「娘や嫁を守るためにフェミ」とか言ってる家父長制オスしか生まれてないじゃん
これが政治も何もかもおっさんが決める地位にいる間はいくら媚び売っても「男のペットとしての権利」程度しか認められない証拠だよ
結局金持ちが貧乏人と仲良く一つになってがんばろうとかいう階級協調主義=国家社会主義はごまかしでしかないのと同じ、金持ちは貧乏人を搾取することで利益を得るし、それを払いのけるためには金持ちを階級闘争で倒すしかないのと同じで、男は結局今の支配構造を維持して利益を得続けたいし、女性蔑視的価値観に完全に染まりきってる。男女闘争で男を倒して女性だけで社会のことを決めれるようにして一度この構造や価値観を根絶しなきゃいつまで立っても「男女平等」なんかにはなりはしない
男やそれのご機嫌取りで利益を得てる名誉男性は、男女の矛盾や対立、支配構造を覆い隠して男女仲良くしてもらわないと困るだろうけど、逆にフェミニストはその男女の矛盾や対立、支配構造を徹底的に暴露して煽ることで「男女を仲良く」なんていう策略を打ち砕く
一時的にプロレタリアート独裁があるように、まず男性を今まで女性に加害することで得たあらゆる地位から排除して、女性独裁の間にフェミニズムに基づいた女性のための社会を作る必要がある
教育や旧来の家父長制的価値観やセクハラ思考を与える習慣、表現を排除してまともなオスの子供が育ったあとなら、「男女平等で仲良く」やれるかもしれないけどな
通称の「ナチ(独: Nazi (ナーツィ))」は Nationalsozialist の初め2音節を同音異字につづり変えた物で、「ナチス(Nazis)」はNaziの複数形である。元来は当時の対抗勢力がナチ党員および国家社会主義者に付けた蔑称で、敵対するドイツ社会民主党員および社会主義者も同様に Sozialist を短縮して「ゾチ(Sozi (ゾーツィ))」と蔑称されていた。したがって、映画などの創作でナチ党員が「ナチス」と言うのは本来は誤りであり、自分たちにナチおよびナチスという呼称を用いる事は無かった。党員自身は党名のイニシャルを略して「NSDAP (エンエスデーアーペー)」、「NS (エンエス)」或いは「Partei (パルタイ)」と呼び、党員同士は「PG (ペーゲー)」(Parteigenosse 、党同志の略)、「Kamerad (カメラート)」などと呼び合った。しかし、ナチスという呼称は広まっており、ドイツ以外の全世界では通称となっている。日本でもナチおよびナチスの呼称が当時から使用されている[注釈 4]。現在は他の非ドイツ語圏でもナチス・ドイツなどの呼称が広く使用されており、ドイツ語にも同様の Nazi-Deutschland などの用語もあるが、分断時代の西ドイツにおいても「NSDAP」などの呼び方が一般的であり、ナチスの名称はほとんど用いられなかった。
我が党は、「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」と「日本らしい日本の確立」―の2つを目的とし、「政治は国民のもの」との原点に立ち立党された。平成元年のベルリンの壁の崩壊、平成3年のソ連邦の解体は、この目的の1つが達成されたという意味で、我が党の勝利でもあった。
そこに至るまでの間、共産主義・社会主義政党の批判のための批判に耐え、我が党は現実を直視し、日米安全保障条約を基本とする外交政策により永く平和を護り、世界第2の経済大国へと日本を国民とともに発展させた。
日本の存在感が増すにつれ、国際化のなかで我々は多くのものを得た反面、独自の伝統・文化を失いつつある。長寿国という誇るべき成果の反面、経済成長の鈍化と財政悪化からくる財政諸機能の不全に現在も我々は苦しんでいる。少子化による人口減少は国の生産力を低下させると言われる。
我が国は、これ等の現実を明るく希望ある未来に変えるため、少子化対策とともに、教育の充実と科学技術開発に国民資源を注力することにより生産性を向上させ、長寿人口の活用と国民資質の向上、国際化への良き対応により、経済成長が達成でき、国民生活の充実が可能なことを世界に示さねばならない。
我々は、日本国及び国民統合の象徴である天皇陛下のもと、今日の平和な日本を築きあげてきた。我々は元来、勤勉を美徳とし、他人に頼らず自立を誇りとする国民である。努力する機会や能力に恵まれぬ人たちを温かく包み込む家族や地域社会の絆を持った国民である。
家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、公への貢献と義務を誇りを持って果たす国民でもある。これ等の伝統的な国民性、生きざま即ち日本の文化を築きあげた風土、人々の営み、現在・未来を含む3世代の基をなす祖先への尊敬の念を持つ生き方の再評価こそが、もう1つの立党目的、即ち「日本らしい日本の確立」である。
我が党は平成21年総選挙の敗北の反省のうえに、立党以来護り続けてきた自由と民主の旗の下に、時代に適さぬもののみを改め、維持すべきものを護り、秩序のなかに進歩を求め、国際的責務を果たす日本らしい日本の保守主義を政治理念として再出発したいと思う。
我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない。自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由であることを再確認したい。従って、我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない。これと併せて、政治主導という言葉で意に反する意見を無視し、与党のみの判断を他に独裁的に押し付ける国家社会主義的統治とも断固対峙しなければならない。
また、日本の主権を危うくし、「日本らしい日本」を損なう政策に対し闘わねばならない。我が党は過去、現在、未来の真面目に努力した、また努力する自立した納税者の立場に立ち、「新しい日本」を目指して、新しい自民党として、国民とともに安心感のある政治を通じ、現在と未来を安心できるものとしたい。”
何だかんだやってみてはいるものの、安倍麻生のぼんくら感は否めず国民が怒りつつあるのが今。
本来なら自民党内で自浄作用するはずだが、戦後レジームから脱却し新たな日本の基礎を作ることが最重要項目だから
成り上がり議員や長年続けてきた議員は意見するよりも、このままボンクラに突っ走ってもらいたいと考えている。
しかし、まぁそんなに上手く行ってないよね実際は。
このコピペ思い出した
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朝日が日露戦争をマンセーした事をもって保守化したとか言ってる奴がいるが、
親大陸派=親アジア主義、親儒教、親社会主義、親官僚制(=中央集権) 親全体主義、親人治主義と
親英米派=親国際主義、親資本主義、親封建制(=地方分権)、親自由主義、親立憲主義
なんだよ。
親大陸派は天皇制を認めるかどうかで国家社会主義(親ドイツ)か共産主義(親ソ連)に分かれ、
親英米派は伝統の重視の度合いで保守主義と自由主義に分かれる。
今風の言葉で言えば、反米保守は親大陸派で、親米保守は昔ながらの親英米派なんだよ。
両者は戦後、反共産主義という一点で手を組んだ訳だが、元々は水と油。
共産主義が崩壊した90年代以降、元の親大陸派vs親英米派の構図に戻っただけの話。
戦前の革新官僚や軍部の中に国家社会主義者に儀装した共産主義者が沢山いたってのは
有名な話で、この両者は天皇の扱いを除いては対立点はないから、転向は簡単。
でも、親大陸派は絶対に親英米派にはなれない。逆もしかり。根本の思想が違う。
で、日露戦争の評価について言えば、「白人に対する被支配者有色人種の勝利」と言う点を重視するのが
親大陸派の特徴で、英米日の文明国が専制的(=アジア的)なツァーリのロシアに勝利したと言
う点を重視するのが親英米派の特徴。当時の人々はどう思っていたかと言うと、圧倒的に後者
が多いだろね。当時の一般の日本人は文明の度合いを肌の色よりも重視した。
このように考えると、朝日が日露戦争を賛美したのは何の不思議も無い。国家社会主義と共産主義
の間は容易に転向できる。そのうち、大東亜戦争の「白人支配からの解放」という面について
賞賛する日も近いだろうね。そして孫文のアジア主義の訴えだが、中国は伝統的に日本と英米との
反近代伝統保守(江戸時代以前が理想)の反安倍もおるし、国家社会主義の反安倍もおる。社会主義はリベラルではない。リベラルは自由主義。だからガチ共産主義者の反安倍もリベラルとは言わない
ちな自分はアベノミクスどころか、1990年代中期から一貫して経済状態が良くも悪くもなってない、身分は非正規雇用な
良くも悪くもなってない横ばい状態でも、そのまま10年20年経つと、正社員になれた同年代や歳下との相対的比較で自分の経済的待遇に不満が溜まってくる
思想の左右上下に関係なく、そういう奴は今の日本に確実に万単位でおるぞ。とくに1970年代生まれは無駄に数が多いから負け組も全体数が多い
大正ロマンは悪いのか?
https://togetter.com/li/1264601
こんなん公式がポリシーも知識もなく出したり引っ込めたりするから、さも「大正浪漫」が悪いみたいにみえとる案件やんけ。大正浪漫に何の問題もありません、と毅然と対応すればすむ話でアホらしいわ。
明治末から儲けていたのは財閥や成金であって、彼らは西洋に追随する貴族趣味の文化を謳歌してた。一方、「大正浪漫」は、生活の苦しみを味わいつつ社会の矛盾に目覚めた大衆であり庶民の文化や。政府の弾圧を受けながらも海外の文化、思想、自由主義や民主主義にあこがれ革命を夢見た人々。文学の世界で言えば浪漫派の中核にいた与謝野晶子は「君死に給ふことなかれ」という反戦詩を書き、石川啄木は「地図の上 朝鮮国に 黒々と 墨をぬりつつ 秋風を聴く」と詠んで韓国併合を行った政府の方針を憂い、現代人が直面する社会の矛盾や苦しみを「時代閉塞の現状」という評論にまとめた。これのどこが問題なんや? 「ご意見ありがとうございます。しかしながら、私たちが『大正ロマン』に込めた願いは以上のようなものですのでご理解いただければ幸いです。」と返せばそれでいい話や。引っ込めるからむしろ「やっぱ疚しいんや」と向こうが思いよったやろ。ふざけんなや。
大正浪漫から連想されるのは、帝国主義や財閥の下で苦しむ庶民が上からでなく自分たちの手で文化を生み、自由を謳歌しようとした時代とその文化なんや。そして、震災を経て、社会に絶望した連中のうち、純粋な連中は国家社会主義に走り、不純な連中は帝国主義を推し進めようとした。その結果、気が付いたら止めようとしてもどちらにも止められへんチキンレースとしての日本の暴走が始まったわけや。その直前の時代を代表する大正ロマンは、近代日本民衆のはかない目覚めの象徴やで。国家にぶんなぐられてすぐまた眠ってしもたけど、そのとき少しだけ日本人は「自由」を信じた。そういう文化が大正ロマンなんや。アナーキズム、女性解放、米騒動、ストライキ、自由恋愛、デカダンス、海外留学、魂を解放する芸術……そういうもんがないまぜになった文化、それが大正ロマンなんや。
せやからな、たとえばイギリス人がヴィクトリア朝の文化風俗をファッションとしてもてはやしてたら、インド人怒る、これは(余計なお世話でそんな暇なインド人おるんかと思うが)一応理解できなくはないよ。西部劇やその時代を称揚したら、ネイティブアメリカン怒る、配慮した方がええ、これも一応分かる。それらは、いずれも征服や迫害とその文化がダイレクトにつながっとるからな。しかし、日韓併合と大正ロマンはそうではない、むしろ反対や。そういうことを無視して味噌も糞も一緒にすんな。何より、大正ロマンに対してごく適当な理解をした連中が、今度は手のひら返してしたり顔で「大正ロマンはやっぱ帝国主義でダメですよ」とか言い出すのは耐え難い。お前らの知ってる「大正ロマン」てだいたいサクラ大戦やろボケ。そんなんで何か語んな。ほんまやっとれんわ。
断っておくと俺自身はセーフティネット拡充派であり、そう言う意味で労働問題の立ち位置は左派だろうと自認している
ただ世間というかそう言う流れを見ると確かに「ブラック企業許すまじ」「格差許すまじ」ではあるんだが、同時に「外国人排斥」「日本国民としてのアイデンティティ」を口にする輩が明らかに一定数以上いるように感じる
はてなで無邪気に受け入れられてる労働者の左派的な観点の広がりは、一歩間違えればナチスのような国家社会主義へと転びかねない危険性を孕んでいるのではないか
そしてそれの行き着く先は戦争なのではないか…そうした考えが時々頭をよぎることが最近増えて来ている
こんなの俺の考えすぎであってほしいが…
はてなの人たちとは反差別では完全に意気投合できるんだけど、政治経済の話題になると意見が違いすぎて居心地が悪い
かと言って数少ないリバタリアン優位な場所はなぜか同時にネトウヨ自民支持患ってるやつだらけ、俺としてはスノーデン、アサンジ、ロンポール議員みたいな路線のリバタリアンは好きだが日本のリバタリアンはどいつもこいつも劣化橋下みたいなのばかりでうんざりする
一応俺の意見を言うと自民党こそ大きな政府の最たるもので、とてもじゃないが支持したくない、ていうかここが目指してるのは国家社会主義だろ最悪だよ、立民も大きい政府志向だが人権方向じゃ自由重視のリベラルなんでまだよっぽど支持できるて感じです
もしかして自由経済重視と反差別って成り立たないのかなぁ…俺個人としては差別がないほうが最終的に市場経済にもプラスになるという考えなんだが…
あとそうであったとしてもやっぱり政府権限の強化は警戒してしまう、とくに安倍政権を見てるとね…みんななぜそこまで無邪気に政府というものに全幅の信頼を寄せられるのかが疑問…
いや反論として自由の行き着く果はモヒカン社会ってのはあるんだろうが、結局政府も強大なモヒカンになる危険性はあると考えてるんだよね、ナチスとか民主主義で生まれたモヒカンみたいなもんだし…
政治の話の脱線は置いといて反差別とか社会市場両方の自由をきちんと追い求めてるリバタリアンの方っていますか?僕一人だと思うと正直寂しい。
追記:俺の言う差別とは生まれ持った属性でどうにもならないことに対するものです、人種や民族、障害など…しかし確かに知能に関してはどうなんでしょうね、貧乏人の子供は貧乏であるべきか、たしかにその通りだと思います、自身としては機会の平等方面ではなんらかのセーフティは敷かれても良いと思う立場です
あと日本じゃ特に民間の救貧が無いも同然だからやはりリバタリアンとなると弱者死ねになりやすいのかなってのある気がします、僕は言うなれば穏健リバタリアンが理想みたいな所があるんで本来はリバタリアンではないのかもしれません
さらに追記:リバタリアニズムはたしかに全てにおいて自由を重視しますが「他人の自由の侵害」については反対だという理解です、これを適用すれば人種民族性差別は他人の自由の侵害になりうるので反対とは言えると思います、ただしここはリバタリアンの間でも意見の相違が多く、更にいうと「経済不平等こそ他者の自由の侵害だ」といったレベルまで行くとリベラルに入るのだと思ってます
国会憲法改正特別委員会の諮問委員会が1日、非正規雇用制度をなくして整理解雇を原則的に禁止するとともに、労働組合の経営参加を保証する左傾的内容の憲法改正案草案を作っていたことが分かった。世界的な傾向である「フレクシキュリティ」(労働市場の柔軟化)とは逆行する内容を憲法に盛り込もうというものだ。諮問委はまた、憲法前文などで国家体制の根幹をなしている「自由民主的基本秩序」という言葉を削除・修正するなどしている。
本紙が同日単独入手した諮問委の改憲案には「期間制・派遣制労働の事実上禁止」「整理解雇禁止」「労働者役員制」などの条項が多数盛り込まれている。改憲案第35条第2項は「労働者を雇用する時に正当な理由がない限り期間の定めがなく、直接雇用しなければならない」となっている。また、「解雇から保護される権利」も規定している。経済界関係者は「現行の期間・派遣制労働者の存在を否定し、事実上、労働者の終身雇用を確保するという意味だ」と説明する。
経済分野では、法案に入れるだけでも議論を招く事案を憲法に盛り込んでいる。諮問委は第119条第3項を新設し、企業に対する消費者の集団訴訟と懲罰的損害賠償制の保証を明記した。企業が「経営負担が増す」と懸念している制度を憲法で規定しているのだ。現政権が雇用創出案として提示した「社会的経済」に関する内容も諮問委の憲法改正案に盛り込まれている。改憲案には「所得と社会サービスを保証される権利」などもある。
面白くなってまいりました
熊谷千葉市長は千葉市が行った、コンビニにおける成人向けコーナーについて、これの表紙にカバーをかけることを要請するという行政上の行いに対し、民主主義的プロセスによって決定されたものであり、この要請は正当なものであると主張している。
また、その要請を端緒として決定されたイオングループにおける成人誌等に関する流通規制について、これは民間が独自に行ったものであり、表現規制という批判は当たらないと主張している。
以上のことについて反論すべくつらつら書いたのが、書いたら満足してしまった部分があるので、増田にて放流することとした。
五千文字以上の乱文を読むことは骨が折れると思うので、主たる主張を始めに書く。
まず、民主的プロセスのみを根拠として表現規制を行うことは肯定することには大きな問題がある。
表現規制を行うのであれば、表現の自由の重大さから鑑みて、単に民主的プロセスの正当性のみではなくそれ相応の慎重さが求められると考えるが、千葉市が成人向けコーナーの雑誌に対しカバーをかけることについて民間に要請するにあたり、慎重に取り扱ったという証拠は今のところ提示されていない。
またイオングループの自主規制は、その前提となった千葉市の要請に基づくものであり、これと一体として論じるのが適当である。
このことは、ミニストップと熊谷千葉市長が共同して記者会見したことからも明らかなように、千葉市の要請とイオングループの規制は政治的にもセットで語るべき問題であることは明らかである。
よって、イオングループの決定についての政治的責任を、熊谷千葉市長は一定程度負わなければならない。
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ある表現物に対し、役所などの行政が規制を設けることは、これはすべて表現規制である。これは表現規制という単語を見れば明らかである。
よって、千葉市によって行われたコンビニに対する表紙の隠ぺいなどの要請は表現規制の要請である。
また、イオングループによる撤去について、これの端緒となったのは千葉市の要請であり、その因果関係があることは熊谷千葉市長も認めるところであり、また共同記者会見を行いイオンの発表として千葉市の要請を端緒としていることを明記しているのだから、千葉市の要請した表現規制の延長として捉えることは自然なことである。
このようなイオンの動きは「自主規制」と呼ぶべきものでもあるが、日本の表現規制の歴史においては行政による規制と自主規制は両輪の関係で不可分であり、特に本件はイオングループによる自主規制も行政による規制の要請とそれを受けての自主規制であることから、これを一体として論じることが適当である。
一度ここで確認したいことは、あらゆる表現が許容されるわけではないということだ。これは、一部の表現が法などによって規制されていることからも明らかであろう。例えば他者の人権を侵害するようなものは名誉棄損の罪などによって規制されているし、性器の露骨な描写についてはわいせつ物として規制が行われている。
すなわち、あらゆる表現のなかから、他者の人権などと比較し、規制されなければならないものについてこれを行っているのである。
したがって、今回の千葉市についてもその表現規制が妥当であるかどうかが検討されたかどうか、またそれが客観的に見て妥当であるのかどうかを見なければならない。
しかし、熊谷千葉市長のツイートを読む限り、民主的手続きの正当性を主張するのみであり、そのような妥当性の検討を行った形跡は確認できない。
また、表紙の隠ぺいについては自由競争市場に対する規制であることもここで指摘しておきたい。
「民意があり、議会が承認しそれを行政が実行したものであるから、この表現規制は正当なものだ」
とまとめることができるだろう。
しかし、これを以ってして表現規制を行うことの危うさについてここで指摘しなければならない。
なぜならば、民主主義は必ずしも正しさを担保するわけではないからである。
例えば、以下に例示したものは民意に基づき、民主的な手続きに基づき行われたものだが、果たして正当化しうる政策だろうか。
ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP)は一応は民主的な選挙によって議席を獲得し、一応の手続きを経てユダヤ人に対する迫害を行った。
日本がアメリカとの戦争状態に入ったとき、アメリカは世論の後押しを受けて日系人を強制的に収容した。またこのときその財産も事実上簒奪された。これらの名誉回復は1980年以降にようやく行われた。
「黒人専用」「白人専用」といった人種差別政策が行われていた。これらは民意によって支持されていた。
オーストラリア政府によって行われていた一連の非白人への差別政策。
また、熊谷千葉市長の主張を言い換え、このようなものも導くことができるだろう。
『民意の代表たる議員が議会質問をもって提案し、関連予算が議会で承認され、並行して市民意見も聴取して改善を求める意見が多数と確認』
されたならば外国人や性的少数者に対する排斥などを行うことは正当である」と。
これらは不当に差別的なものであり、人権の侵害であることは論を待たないと思うが、熊谷千葉市長はこの理屈で表現規制は行えるものとしているとしているのだから、これについても是であるとこれまでのツイートからでは判断せざるを得ない。
そうではないのであれば、熊谷千葉市長はある特定の物事については単に民意や議会における手続きだけではなく、より広範な正義に基づいて判断するべきだと考えているのであり、そしてその特定の物事には、表現に対する規制は入っていない、ということになるだろう。
表現の自由も、単に手続き上満たしているからといって、これに制限を加えることを正当化することができるのだろうか。
私はそうは思わない。表現の自由は大切なものであり、表現の規制はこれを慎重にしなければならないと考える。
そしてそうであるならば、それは単に手続きを満たしているからと言ってそれを実行することを正当化することはできない。
表現の自由は基本的人権の一つであり、すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利をいう。
また、ここには報道や出版の自由なども含まれる。民主主義において自由な討論は欠くべからずものである。政府などによって恣意的に表現を規制することは原則としてあってはならない。
日本における性的表現物に対して規制している法律は刑法175条で定義しているわいせつ物頒布等の罪である。
サンデー娯楽事件により、わいせつ物を構成する三要件が定義された。
すなわち、
.性欲の興奮、刺激を来すこと
その後チャタレー事件、悪徳の栄え事件などで判例を積み重ねている。
刑法175条の運用として、警察は局部が映っているかどうかで取り締まりを行った。このとき、陰毛も性器の一部として取り締まりの対象としていたが、1980年頃から徐々に変化し始め、陰毛が映っていても直ちにそれをわいせつ物とされなくなっていき、1990年に入ると事実上陰毛については刑法175条の規制の対象ではなくなった。「ヘアヌード解禁」とも呼ばれる。
このように、判例に拠らず行政側の恣意性によってわいせつ物の判断が変動していくのが我が国におけるわいせつ規制の特徴の一つである。
1950年のチャタレー事件をきっかけとして各地の地方自治体で青少年健全育成条例が制定されていき、それと同時に民間のPTAなどで悪書追放運動が起きる。特にマンガが標的とされ、各地で燃やされるなど過激化した。
1989年東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生、宮崎勤が逮捕され、大量のアダルトビデオを所持していたと報道されたことで、これらのメディアが人間に悪影響を及ぼすとしてメディア効果論が起こた。また、それに関連して朝日新聞が漫画本が子供に悪影響を与えると社説で論じたことをきっかけとして再びコミック追放運動が起きた。これらを受け、成年向けコミックでも激しい自主規制が行われた。
各地で制定されている青少年健全育成条例で定められており、過激な暴力や性表現のものを包括的、あるいは個別的に指定する。指定された書籍は18歳未満への販売が禁止され、区分陳列をしなければならないほか、業界団体が自主規制として指定を受けた図書の流通を制限している。
業界団体の出版倫理協議会が制定した、性描写が過激な成人向けコミックにつけられるマーク。
コンビニで定めている成人誌とは区分が異なる。これらはコンビニには原則として流通しない
-コンビニ向け成人誌
コンビニエンスストア側が成人向けとして区分し、成人向けコーナーなどに陳列する雑誌。
-春画の展示
春画は江戸時代に版画で刷られた性的表現物で、今日ではその美術性が評価されている。
しかし、日本国内でこれを自由に展示することはできない。なぜならば、性器に修正が施されておらず、わいせつ図画にあたるからである。数年前に実現した春画展も、主催者と警察など関係先がなんども折衝を重ねて半ば例外的に開催にこぎつけたと理解している。
その春画展に合わせて春画を掲載した週刊誌のいくつかがわいせつ図画を掲載したとして警察から指導を受けている。
このように、日本の性的表現物については行政側の規制の要請と民間団体の自主規制とが複雑に折り重なっており、民間側の自主規制についても含めて表現規制として論じられる。特に今回は熊谷千葉市長並びにイオングループが千葉市の要請をきっかけとしていることを認めており、千葉市の要請とイオングループの自主規制については一体として論じるのが適当である。
政治的にも、ミニストップと熊谷千葉市長が共同して記者会見したことなどから、この自主規制とそれによってもたらされる表現規制に対し、一定の政治上の責任を負っている判断される。
熊谷千葉市長はコンビニ成人誌に対して自主規制を行っていないかのように批判したが、コンビニ向け成人誌はコンビニで流通できるよう自主規制がすでに行われているし、その内容は青少年健全育成条例などによって規制を受けている。
表紙についても水着を着用するなどわいせつ性を抑えており、青年誌などと比較して規制しなければならないほど突出して過激であるとは言えない。言えるのであればその根拠を規制する側である行政は提示しなければならない。
また、表紙の卑猥さについて基準を設けての規制ではなく、区分陳列されていることによって一律で規制しようとしたことは、表紙の卑猥さとは無関係の規制である。これは当初の規制の目的のひとつである、成人向けコーナーの雑誌の過激さによってもたらされる不快さを低減するための措置としては不適当である。
以上より、私はコンビニにおいて成人誌と区分される雑誌に対して表紙をカバーするなど表現規制を行うことについては正当性を見出すことはできない。
また熊谷千葉市長のツイートを読む限り、これら比較検討を行い、それでもなお成人向けと区分される雑誌の表紙を隠さなければならないことの正当性を検討した過程が見えず、よって表現規制に対する慎重さを読み取ることはできない。
不快に思わされないことは人権の一部と言えるが、その人権を擁護するために他者の権利を侵害する場合、これを比較検討して結論を出さなければ公平ではない。
例えば、性的少数者に対する不快感はどうであろうか。近年、性的少数者についての認識が変化し、これを受容する方向に世論は形成されているが、これまでの歴史において性的少数者は迫害されてきた。性的少数者が迫害された理由はいろいろ考えられるが、そのうちのひとつは個々人が思う同性愛者に対する不快感によって、同性愛者を迫害することへの肯定的世論が構成されていたからだろう。
多数が不快に思っているのだから、性的少数者を迫害してもいいのだろうか。
もちろん、これは否である。性的少数者を不快に思う気持ちは内心の自由ではあるが、内心の不快によって性的少数者の人権を侵害していいわけではない。
表現の自由も同様である。単に不快であるというだけではそれを規制することは他者の表現の自由に対する侵害である。
また、個々人の趣味嗜好は多様であることから、単に不快さを理由としたとき、その範囲は無制限に拡大していき、実質的にすべてが不快であるから規制する、ということにもなりかねない。
よって、不快さを根拠として表現を規制することは適当ではない。
以上すべてより、千葉市が当初求めた成人向け雑誌にカバーをかける要請について、これ表現規制であり、またこの規制は適当ではない。
イオングループが発表した流通規制は千葉市が要請した表現規制と一体として論じられるべきものである。また、イオングループが実行した自主規制に対し、熊谷千葉市長は一定の政治的責任を負う。