はてなキーワード: 谷底とは
https://note.com/__carpediem___/n/nba61eb70085a
この記事を拝読して少し思うところがあったので初めて記事を書いてみる。
先に言っておくが、筆者を批判する意図もないし、世の中に何か伝えたいわけでもない。
ただ、自分の境遇を書き殴り、あわよくば共感してくれる人が現れることを期待しているだけだ。
ちょうど増田なら周囲のノイズ情報から人間性を邪推されることもないし、純粋なぼやきを書くのに最適だろう。
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筆者は田舎の一般家庭という途轍もないギャップを必死の努力とそれを土台とした更なる努力の積み重ねで乗り越えようとしている。このまま突き抜けて欲しい。
が、世の中にはそう上手くいく人ばかりではない。
たまたまちょっと頭が良かった田舎者が、分断された世界を乗り越えようとするも、中途半端な努力のツケが回ってきて手前の谷底に落ちて沈むこともあるのだ。
私も北関東の片田舎の公立中を卒業し、そこから紆余曲折あっていわゆる高学歴層である東京の大学に進学した。が、それは努力の放棄の結果でしかない。
「成功率1割未満の綱渡りを何度も繰り返して辿り着いた先には、そこが『スタート地点』の奴らがゴロゴロいた」なんて経験は彼女からすると慣れたものだろう。
だが、私はそれを高校進学で体験し、そこでまさしく「人生を賭けた」努力を放棄してしまった。スタートラインが高い奴に勝つには一点集中しかない。一点集中は苦手だ。
小中学校は地元の公立だった。この手の記事で紹介されている事実に相違ない。付け加えるとしたら同級生が暴行で少年院に入り、卒業生がバイクで学校に乗り込んでくるし、喫煙率は中学生の時点で1割ぐらいだったということぐらいだろうか。
そんな中学校だが、3年時の学年主任にまさに世界の分断を教えられ、県内でも都会の子供たちが通う私立高校への進学を勧めてくれた。(彼の息子さんがその高校の先輩で、今は東大を卒業して超大手メーカーで働いているらしい。息子さんは分断を乗り越えた。)
受けてみたら運良く特待生になれた。当時好きだった子が先に同じ高校へ進学を決めていたし、修学旅行が海外だったので親の許可をもらって進学を決めた。
(ちなみに中学の時一番勉強ができた奴は地元の公立高校から東大に進学し、今頃は公認会計士の試験に通っているだろう。彼も分断を乗り越えた。)
高校に進学していきなり衝撃を受けた。
まず、ブルーカラーの家庭が我が家しかない。みなホワイトカラーで高給取りの子供だ。余談だが私はそれを嫌だと思っていないしむしろ世の中の為になる仕事で稼いで育ててくれたことに感謝している。だが、どうしても育ちの違いはある。言葉で表現するのが難しいが、見た目・行動・趣味の全てに清潔感があり、上品さがある。
なるほど育ちの違いとはこういうことかと初めて身を以て理解した時だった。そして同時に思った。「こんなに育ちが良くてなおかつ才能もある人間に勝てるわけがない」
当時私はITエンジニアになりたいと思っていて、理系に進んで情報科で院進して…なんていう未来を思い浮かべていた。しかしおそらくこのまま理系に進んでも中の上ぐらいにはなれるが秀才・天才の類にはなれない。
そんなことを思って文系に進んだ。これが1つ目の努力の放棄だ。
文系でもSEとしてITの世界に入る道はあったから、最終的に同じような結果になる以上他の選択肢も広い方がいい。そう思って文系で高学歴を目指した。
といっても受験勉強はそれなりに頑張ったつもりだったし、結果的にはよいものだった。が、東大を受けなかったことはその後の努力を放棄することに繋がる。
東大に入ればもっと育ちの違い・地力の違いを認識させられる。しかも大学に入ってからも受験勉強のような厳しい勉強が待ち受けている。受験勉強で懲り懲りだ。そう思って東大以外の大学を受けた。
(ここでも自分が勝てなかった奴は東大に合格し、今頃は官僚になっているだろう。彼も片田舎から這い上がった。分断を乗り越えた。)
結果として受験は上手くいき、予想通り合格した。そして大学に進学した。まあ、そこも世間一般的には優秀とされている大学なのでありえんエグい育ちの違いを見せられるのですが…。
就職活動を通して思ったことだが、田舎から生産されるべきは理系の秀才であり、文系のエリートははっきり言って求められていない。というよりかは結局育ちの良さとコミュ力の高さとある程度の頭の良さと整った顔面が求められているので、そんな遺伝子ガチャを田舎で成功させることがまず無理に等しい。遺伝子ガチャに成功しても育ちの良さをカバーするための努力は尋常じゃない。冒頭の記事の筆者はそれを実現しそうなところまで来ている。本当に頭が上がらない。
https://anond.hatelabo.jp/20130809115823
そういえば高学歴の世界・低学歴の世界なんて言葉もあったな。どうも田舎の公立中を卒業して必死に努力して都会の旧帝大や早慶に何とか入った人間には、こうやってエリート層と底辺層との分断が実感を持ってのしかかるものらしい。
地元の公立中を出た人間が、初めて都会の人間と高校で交わり、そこで夢に向かって成り上がる努力を放棄した。次に大学進学でも妥協し、やはり頂点を目指す努力を放棄した。
周囲の「普通」を見ると出生ガチャの時点で勝ち目がなさすぎるし、一方で同じような境遇の人間は信念に裏付けられた本物の努力で分断を乗り越えている。
どちらもない自分はそんな分断を乗り越える人間のライバルとして花を添えることしかできなかった。
一方でたまたま周囲の人間には恵まれ、人生そのものはコスパよく楽しくやっている。結局はずっと興味があったITの世界に入れることになったので(結局のところ分断は乗り越えられず大手の子会社だ)、これからもトップを目指さずに成功とも失敗ともつかない谷底の人生を歩んで行こうと思う。
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最後に、「この割れ切った世界の片隅で」の筆者はまだ高校生らしい。これからも私には想像できない、耐えられないような苦労をたくさんするだろう。我々のような屑の屍には目もくれず頑張ってほしいです。最後の最後まで勝ち残った時にはきっとその境遇が誰にも負けない強さとなって味方してくれるはずだから。応援しています。
同年代がん患者さんの情報発信がきっかけで、幸いなことにステージ0の超早期乳がんを発見したのがこの夏。
早期のがん患者は治療を終えそのままひっそりと日常に戻って行く人が多いのか、あまりインターネットに体験談も見当たらず…
この度約6ヶ月の治療を終えたので、簡単ではありますが自分の体験談もインターネットに漂流させてください。
出産直後は乳の生産が安定せず、両胸しこりだらけ(これはあるある)。
そして徐々に安定供給が始まり1年が経ち…そろそろ乳が枯れてくる時期にやってきても1箇所だけ残り続けるしこり。
丸というよりは、いびつな楕円形…?
触れて見た感じでは2センチくらい。
「ここだけ母乳が溜まりやすいのかな?なんか気になるな」と思いつつ、体調面での自覚症状は何もなし。
あと最大の難関は、自分が病院に行きたくても0歳児を預かってくれる先もなく…しこりに気づいてから半年はゆるやかに過ぎて行きました。
これまで、TVでピンクリボンの特集を見ても、芸能人が乳がんになったニュースを見ても、全部人ごとだと思ってました。
両親も健在。
でも、そんな私でもなっちゃうんですね…がんに。
しこりに気づいて半年が経ち、子が1歳になったので保育園に預けて復職。
その頃、同じ職業の30代子持ち女性の乳がん闘病記を読む機会がありました。
なんとなく「授乳中だから、関係ないだろう」で済ませていたしこりがまた気になり始めます。
「安心するために、乳腺科に検査に行っておくか」という軽い気持ちで
早めに会社を早退し病院を予約、保育園にお迎えに行くまでの1時間に検査に行きました。
過去に会社の健康診断で乳がん検診も受けたことがあり、エコー検査もマンモグラフィも受けたことがあったので、検査自体に特に不安はありませんでした。
(検索すると、よく「マンモは泣くくらい痛い」とか出てくるが、個人差あるのでビビってないでとりあえず検査には行って欲しい)
ホッとしたものの、「念のために精密検査受けますか?」と言われ、「まぁ安心するために受けとくか」くらいの気持ちで
悪性腫瘍だということがわかりました。
最終的な病理結果は以下。
あれよあれよという間に精密検査の日程が組まれ、手術日が決まり、手術決行。
ジェットコースターのような数カ月でした。
思えば、はじめに町医者に行って検査結果を待っている間が一番気持ちの谷底でした。
今、標準治療がすべて終わって当時の自分の心境に一問一答で答えて行くと
→ステージ1でも、5年生存率100%。2019年においては、早期の乳がんは治せる病です。信頼できる最新の統計データを見て一旦落ち着こう。
→医学的に、子に対して影響はないとエビデンスが出ているそうです。
→実際には、手術入院の5日間を除いては、通院しながら継続して働くことができました。焦って会社辞めないで!人事とか社労士さんに相談して!!
→テレビドラマの悲劇的な演出に毒されています…これは抗がん剤の副作用。乳がんの放射線治療では髪は抜けません。
→左胸に手術の傷はありますが、驚くことにサイズにほぼ左右差がありません。目立ちにくく仕上げてくれたそうです。先生ありがとう!医学ってすごい!
→トータルでかかった治療費は、半年間でだいたい40万円くらいでした(加入している健保で上限を超えた分はこのあと戻ってくるので、この半額以下になります)
身近に患者がいない人にとっては、先入観で「がん=治せない病気」だと思っている人も多いと思います。(私もそうでした)
正しい医学情報に触れましょう。しかも最新の。2000年代と2010年代でも標準治療の内容は変化しています。
私の場合は、夫が徹底的にここ最近のデータを調べ上げてエビデンス武装してくれたため心強かったです。
仕事をしていたから、がんのことを考えすぎずに生活できたと思います。
身近な例としての啓発も含めて、割と気軽に周囲の友人にカミングアウトしていたのですが、
友人がドン引きしてしまい変な空気になってしまったことが何回かありました。
相手も、わたしとどう接していいかわからなかったんだと思います。
そもそも「相手に自分が乳がんであることを伝えて、どうしたいのか?」を考えた方が良いなと感じました…。
子育て世代のみんなー!皮膚科、小児科、耳鼻科…子の通院行脚お疲れ様です!
自分の通院ってついつい後回しになるよね。わかる!
あとこれを読んでるパパさん、ママが検査に行くために会社を遅刻/早退して子供を見ていてくれると嬉しいです。
ひとまず一区切りということで。
驚くほど多くの人に読んでもらえて嬉しい!あたたかい言葉ありがとうございます。一点だけ補足。
【町医者はどうして見逃したのか?】
「曖昧な記述があってはいけない」と具体的な医学情報を端折った関係で、言葉足らずになってしまいました。
近所の乳腺科では「穿刺吸引細胞診」という検査を受けました。これは即日検査できる反面、取れる細胞も少ないので確定判断が難しいそうです。(ちなみに転院時、検体を大病院にも持ち込みましたがそちらでも「良性」との判断でした)
大病院では、局所麻酔をして更に多くの細胞を採取する「針生検」という検査を事前予約して行いました。
ステージ0で見つけるのも難しい段階のがんだったと思いますし、むしろ町医者の先生が適切に大病院へとご紹介してくれて大変感謝しております!先生ありがとう!!
Day,7
7日目
This journey is my treasure.
フライトの時間を考えるとできる事が案外少なく、荷物整理位しかする時間がない。
「Awesome! Malaysia. This journey is my treasure.」メモをしたため、ホテルをチェックアウト、ブッキングし直したタクシーで空港へ向かった。
タクシーで空港に向かいながら、マレーシアやシンガポールの経済状況などについて調べる。
マレーシアはブミプトラ政策のもと格差を縮小し、長期的展望での経済運営をしてきた結果、ASEAN5カ国の中では飛び抜けた発展を成し遂げたらしい。
マレー系と中華系の経済格差が縮まったことにより、国民の「格差を埋める」という共通認識が近年薄れ、経済発展としては踊り場に差し掛かっているという。
当座の危機が薄れると、心の奥底に眠らせておいた感情が目を覚ますのはよくある事だ。
しかし、マラッカで見た民族が手を携えた壁画のように、マレーシアの人々は夢と誇りをもって正しい未来を選択するのだろう。
また、次の一手も考えられており、アジアで最も発展したイスラム教国として、イスラム金融のハブの地位を狙っているらしい。
旅程の関係でほとんど散策できなかったが、タクシーの窓の外からみるクアラルンプールの発展度合いや、今までの旅行で最高ランクに通じた英語などを考えると、現実的に狙えるプランのように思える。
この国が文字通りの先進国になるかどうかはこれから先の5年だ。
一方、国民一人当たりのGDPにしてマレーシアの6倍、自分を不安に陥れるほどに未来的だったシンガポールは、華人中心の都市国家であるにもかかわらず、公用語にマレー語をくわえ、マレーシアとの関係に気遣いを見せているという。
マレーシアとシンガポール、谷底から妖しく誘い声が聞こえるタイトロープの上でバランスをとりながら、二つの国に住む人々は明るい未来を目指してこの谷をわたりきるにちがいない。
二つの国、驚くほどの格差、理想と迷い、3つで足りないたくさんの民族が住む街。
「世の中ってこうだよね」と言った時の「世の中」が「どこまで」なのか、その定義を広げてくれる一週間だった。
タクシーに乗る前にホテルのドアボーイのお兄さんに「この旅は僕の宝となった」と言ったら、「また戻ってきてください」と言われた。
「Sometime.」英語力が心許なくて伝わりきらなかったかもしれないが、体のいい断りではない、それは本心だ。
了
片思いしてるだけなのに自分が勝手に抱えてる独占欲について整理してみようと思う。
仮に、もし仮に付き合えたとしての話。
あの人は私よりも年上で今の職業と転職前の職業の人間関係、それから高校時代にチームスポーツをやっていたたぶん濃密な人間関係、大学時代の学科やサークルの人間関係があり、私には想像し得ない世界を持ってると思う。
彼のもつ人間関係は広く、性別を問わない。facebookでたくさんの女友達と繋がってるのを見た。交際歴もそこそこあると言っていたので、元カノという存在がある。喧嘩別れするような性格ではないと思うので、まだ繋がりがあるかもしれない。
それからお姉ちゃんがいる。交際相手に関して求めるものとかって異性の家族がある程度基準になると思う。
比較的上流の家庭で、話に聞く感じのお父さんならきっと美人を妻にするのだろうし、彼にとっては美しい母そして姉が家にいてそれが基準なんだろう。容姿に関してはただの推測だけど。
そして彼は身長こそ平均よりやや小さいが骨格や顔を見ると頭からつま先までバランスが整ってる。
ここで自分に関して立ち返ってみると、私の外見、知性、家柄とかじゃ敵わないんじゃないかと思う。
私は若干背が高く体格に恵まれてることを除けば並の見た目だし、高校と大学は偏差値で言えば彼より上位にあたる学校を卒業してるけど専門が全然違うから比較対象として使える尺度じゃない。実家は借家だ。異性の友人は少なく、愛してやまない同性の友達がまあそこそこの人数いる。
仮に彼が大学の友達複数と会ってくると聞けば魅力的な女性がいてそっちに傾くんじゃないかと不安になるだろうし、携帯の画面にSNSの通知が見えちゃったら勝手に不安になりそう。
私にとってはすごく大事な友達や家族とキャリアだけれど、なんとなく相手に対して自信をもって誇ることはできない…気がする。
しかしそれは人間1人を取り巻く世界に勝手に優劣つけて比較して、勝ち負けみたいな尺度で考えてるから。そんなの苦しいし無意味なだけだとは思っている。
どちらかが国立大出たけど片方は指定校で私大だとか、またどちらかはインターハイに出場したとかそんなの比べても何にもならない。
自分を取り巻く世界、また相手のもつ世界ことについて自分一人でまるで谷底に向かうようにして深く考えて、結論が出たら一回り成長して誰かと付き合えるのかな。
B級グルメが持ち上げられて研鑽を怠っている間に、チェーン店の開発部は凄い勢いで味覚をハックしていく。
ジャンクフードという戦場でご当地グルメが勝つのはもう難しいよ。
科学的方法論がグリバンバーベーコンを起爆点として語られ始めてから500年、その間外食チェーンは日夜己を磨き続け、ご当地グルメはアド街でおだてられることで満足してしまっていた。
もう追いつけない。
坂から転がることでウサギを追い抜いたことに安心して眠り始めた谷底の亀たち、彼らはもう追いつけない。休んでしまった亀はもうウサギに追いつけない。
百合SFってのは「ハンバーグと唐揚げのコンボメニュー」なんだと思う。
私はハンバーグも唐揚げも大好物だ。そこそこの年齢になってきたが、一般的な調理方法で使われる油の量ならばまだまだウエルカムだ。もし、いきつけのレストランで「ハンバーグと唐揚げのコンボメニュー」のフェアがやっていたとして、私はそれを知った時に初めになんと思うだろうか?「お、いいじゃん!」まず間違いなくこれだ。フェアの内容が増量なのか割引なのか、それとも別の何かなのかに関わらず自分の好きな食べ物がフィーチャーされたイベントにワクワクしないはずがない。こういった食に対するワクワクは代えがたいものがある。別段節制しているわけではないが、普段よりちょっと贅沢なものが食べられると思うだけで、人は人生を華やかなものと認識できるものである。我ながら単純なものだと思うが。
ところで、なんの話題だったろうか。そうだ、百合SFだ。元増田の内容をハンバーグと唐揚げに置き換えるとすると「肉料理を眼の前にしている時に、酪農家の『食肉文化はなくなっていった方がいいのかもね』という発言を目にした」といった感じだろうか(全然 違ったらゴメンね )。私がその状況に出くわした時に何を思うかシミュレートしてみる。「そうだねぇ。それはそれとしてこちらのお肉料理は冷めない内に美味しくいただきますね」こんなところだろうか。
世界は常に変わっていく。長く生きていれば変わっていく世界の中にあって変わらない自分だけがまるでウラシマ効果で俗世から切り離されていく宇宙旅行者のように感じてしまうこともあるかもしれない。逆に、変わっていくだろうと思っていた世界が、実際の所は全く変わらずに拍子抜けをしてしまうこともあるかもしれない。悩み苦しんで、選択を迫られながらも世界を変えていこうとしている人々もいれば、移ろいゆく情勢に合わせて自分を変えていく人々もいる。無関心や身勝手から世の中に起ころうとしている良い変化を妨げてしまうこともあるかもしれない。
例えば食肉文化の未来を憂う酪農家とただの肉好きの私、「食肉文化」の現状を変えていけるポテンシャルを持っているのはどちらだろうか?これについては私よりも酪農家の方であると思う。「より現場に近いから」くらいの理由付けではあけれど。
そう考えた時に、『食肉文化はなくなっていった方がいいのかもね』 と述べた酪農家がその発言を実現するために、私ができる現実的な方法はなんだろうか。「肉を食べること」これしかないと思う。「買い支え」と言いかえることもできる。もちろん「支えるぞ!支えるぞ!」と張り切って過度に買い求めれば、需要過多となり、期待とは反対方向の谷底に世界はまろび落ちてしまう可能性はあるので注意は必要であるけれど。
もし明日、食肉文化がなくなったら?それは困る。では30年後、食肉文化がなくなっていたら?それは困る、とは明言しづらい。もしかしたら私は変わりゆく世界に順応することに成功し、「ハンバーグと唐揚げのコンボメニュー」がなくても生きていける体になっているかもしれない。そもそも年齢的に脂っこいものが駄目になっているかもしれない。それはそれで悲しい。
梯子が要らなくなるのは何年後だろうか。
梯子がなくなった時に、私はどう思うだろうか。
まぁ、それはそれとして、 文字を打ち込みながらハンバーグと唐揚げを画像検索していたら何だかお腹が空いてきてしまった。さて、冷蔵庫になにか残っていたかな。
京都大学に進学してから、何にも目標を持たずに、シューティングゲームにのめり込み、思い出したかのようにDTMをやり、それが生き甲斐であるかのように自身に思い込ませながら生きてきた僕ですが、ここ京都大学にやってきてから3度目の春を迎え、また違った感情を抱くに至ったので、これまでの人生への懺悔も兼ねてここに記しておきたいと思います。書いてはみたものの、恥ずかしくて特に見返したりもしない雑文となることをお許しください。
僕が京都大学に進学しようと思ったのは、高校3年生の時だった。親族に会う序でに京都へ観光に行き、銀閣寺など見物したそのまた序でに、京都大学へ足を運んだのだった。
そこで僕が目にしたのは、混沌と洗練が入り混じった新鮮な光景だった。
立て看板はどれも、その存在自体がお手本となりうるようなものではなかったが、ベニヤ板に塗られた厚さ数ミリもないような塗料から感じられる深い熱意に、この大学の学生が持ちうる矜持のようなものを自然と感じ取っていた。
そんな単純な理由から受験し、何とか合格を得て入学した。真新しいスーツに身を包んだ出来立てほやほやの京大生達と、入学式、ガイダンス、授業を経て交流した。人生の中でも最高に刺激的な春だったと思う。
交流を重ねるごとに自ずと分かることだが、実際の京都大学生皆が独特の熱意を抱えているわけではなかった。その多くは、勉強が出来たから、学問への熱意があったから、親が教育熱心だったから、そこにいるのだった。
さらに言えば、京都大学理学部では、3回生次に振り分けがあり、それまでは学生として勉強をやりつつ自身の学問的興味の対象を絞っていかねばならなかった。
元々真面目に勉強をやるようなタイプではなかった僕は、秋あたりから、徐々に学校に行くことをやめてしまった。行かなくたって単位くらい取れるというちょっとした甘えのつもりだった。でもそんなことの積み重ねが、毎日授業に出ているクラスメイトと顔を合わせることへの罪悪感、恐怖心へと変わり、ついには眩しい大学生達に紛れること自体への恐怖心に成長してしまった。
朝起きて、時計を見る。そろそろ行かなきゃな…とは思う。う~ん、今から風呂入って行くのしんどいな…とも思う。今日くらいいっか…。といった調子に、クズ人間をやっていた。
そんなこんなで、無い能力に甘え、拾える単位すら落とし、どんどん自分の進路を狭めてしまった僕は、「せめて毎日大学に行っていれば」という自責の念と、「やっぱ自分に大学生なんて向いていないんだよ」という開き直った感情のどちらも捨てきれないまま、2度目の春を迎えてしまった。
葛藤はあったものの、そんな堕落した生活を覆すことは出来ず、状況は悪化していくばかりで、2回生は家からも出ないような生活が続いた。それは自暴自棄のようでもあったが、ただ将来のことを考えていないだけというのが正しそうだった。それでも、決して裕福ではないのに、「教育は財産」と金銭面を負担してくれている親に対する罪悪感は常にあった。連絡を取るのもしんどくなっていった。一方で、知り合いに対しては、自身の生き方と辻褄を合わせるかのように開き直って、人間性を疑われてもおかしくないような言動を繰り返した。
しかしそんな生活にも必然というか幸いというか、終わりは来る。2回生後期も終わり頃というころ、僕はこれ以上、親にも、そして将来の自分にも甘えることが出来なくなった。
親の元に単位数不足の通知が行って、親と担任を交えた三者面談をやったのだ。
そこで、自分のこれまで2年間の過ちについてすべてを話した。それだけなのに、あれだけ怖くて見ることさえ出来なかった京大の学生用サイト(KULASIS)も見ることが出来た。最後の数週間ではあったが授業に出た。人と同じ、当たり前のことをすることの清々しさといったらなかった。そして、罪悪感に埋もれていた、僕の周りのすべての人に対する、申し訳ないという気持ちを取り戻した。
丸々一年大学に行っていない自分に学生をやる能力が残っているか、まだまだ不安はあったものの、ようやく谷底から抜け出せたと思えた3回目の春だった。
この2年間、僕という存在そのものを批判されても文句は言えない甘えた生き方をしてしまった。たった2年で、僕は自分のこれまでの人生を否定してしまった。
結婚を強く望んでいる人でしたし、なぜ独り身なのか理解できないほど魅力のある方でしたからいつかはこうなるとわかってはおりました。
私は懲りずに何度もふられ、それでも好きなものは好きだったので繋がりを断つことはできませんでした。
相手に特定の大事な人ができれば、もう二人で話すこともできなくなるでしょう。それでも私は想い続けることをやめられないと思います。
今までは意識的なのか無意識的なのか、付き合えそうな人を都合よく好きになっておりました。その為片思いを長くするという経験もほぼ無く、諦めるという決断ができずにいます。
好きな人に好いてもらえないというのは苦痛以外の何物でもありません。一刻も早く、そんな状況から自分を開放してあげたい。
あまりにも遠い人を好きになってしまいました。今は考えられないけど、もし今後誰か他の人を好きになった時に少しでも自分を好きになってもらえる確率が上がるように、自身の価値を高めておきたい。そう思いながら資格の勉強に励んでおります。
親愛なる会員の皆様へ。
初めまして、今日そちらに入会することになりました。どなたですか…お入りください。ありがとう。
長い上に大変お見苦しい話になると思いますので、抵抗のある方は回れ右でお願いいたします。
朝の通勤途中、私はトイレのない特急で猛烈な便意と戦っていました。しかもゆっくり座れる有料の指定席です。おおよそどの鉄道か特定されてしまうかもしれませんが、電車に被害はないので問題はありません。
本来降りる予定の駅よりもいくつも手前で降りなければ間に合わないと判断しました。というか、既に電車の中でもう漏れそうで、でもここで漏らすのだけは成人女性として避けねばならないと必死に括約筋に力を入れて頑張っていました。
括約筋から「ごめんもう無理…」と言われても「そんなこと言わないで、あなたは出来る子、私は知ってるわ。今までだって乗り越えてきたじゃない」と言い聞かせ、何度かの山を越えている時ふと、頭に浮かんだ「こういう時、辛いのは山なのか谷なのか?谷底も良い例えではない気がする」というどうでもいいことを考えつつ最大の山場を迎え、何とかやり過ごせるかどうかの瀬戸際に電車が駅に着きました。
括約筋は死にそうです。
朝のラッシュ時に人混みを避けながらトイレに着いて中に入りリュックは降ろしてる暇ないのでこのまま…と思った時、頑張ってくれていた括約筋が死にました。
自宅で一度用を足した際、お尻にトイレットペーパーを挟んでいたので少し出たくらいなら大丈夫と思ったのですが、その量は少しではなく、そして括約筋が息をしない今は3度に渡り何かが決壊するのを私は感じました。
これはほんの十数秒の話ですが、この間も私はワイドパンツや下着を下ろしていましたし、下ろしながら「これは確実にやばい、会社に行けないかも」と思いました。とりあえずまだ止まらないそれに逆に冷静になり、普通に拭いて流しました。
さて、恐怖の現状把握です。
おそるおそる下着を確認するとなんと思ったほど出ていないではないですか。もうすぐ女性特有の日が始まるためナプキンを付けていたので下着に被害はありませんでした。あの決壊は何だったのか。完全勝利……その四文字が浮かびかけてもう一つ最悪の可能性に気づきました。結果ビンゴでした。
前の方まで流れてきたことにより下着が無事だったのです……女の子の赤ちゃんを育てた経験の方はわかるかもしれません(私は未婚なので想像で話しています)。
後ろから前へ…ばい菌が入るかもしれない大変危険な状態です。慌ててトイレットペーパーとアルコールティッシュで痕跡がなくなるまで拭きました。駅の灼熱のトイレで汗だくになりながら私は何をしているんだろう……そう思いながら片付けを終え何食わぬ顔で出社しました。
会員でない皆様におかれましては、括約筋を過信してはいけません。声に耳を傾けてください。無理と言われたら無理なのです。
会員の皆様に幸多からんことを。
これもっとサーティーワンアイスクリーム側は推していった方がいいのにね!
寝正月よ!
お昼にごそごそと起きて支度してお出かけしてって感じ。
餅食ってる場合じゃないわよ!
もちろんノーマルタイヤなので、
ガッツリ積もってるところで引き返してきたけど、
帰り道凍ってるもんだから
くるくる回って横滑りする車体をガードレースに任せて擦りまくって下山したわ。
雪山に車つっこんで車の形の穴が空いちゃったのには笑っちゃったけど!
漫画か!って感じで。
とりあえず、
ノーマルタイヤじゃ強まった雪道に攻めた走りが出来ないわ。
うふふ。
ブランチと来たいわね。
そうそう!
それはさておき、
皮ごと使えるし便利よ。
本当かどうか分からないけど、
残留農薬的な問題は国産の方がまだましかなって安易に思っちゃうわね。
私それ信じてるから!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
まずはじめに「癖毛」と「天パ」を別物だと謎主張する奴がいるが同じだぞ、と。
天パには「波状毛」「縮毛(縮毛矯正の事『縮毛かける』とかいう奴がいるけどそれだと縮れちゃうゾ)」「連珠毛」など様々な種類がある。
俺の場合、剛毛で太い連珠毛なんだけど、これが生かせるってレベルじゃなく酷い。
一本一本がうねってる上に縮れててボコボコしてるんだよ。友達に「俺の陰毛のがマシ」って言われるレベルな。
俺の話になるが、髪の毛の頓着が無かった小学生のころはサラサラだったんだが水にぬれると林家ペーみたいになったそうだ。
思春期に突入した中学生頃から髪の毛が原因で地獄を見ることになる。
膨れ上がり、縮れ、光が反射して汚らしく光る髪は嘲笑の的になった。
最初は笑って誤魔化していた日に日に肥大化していくこのコンプレックスについて調べているうちにもう直らないという現実にぶち当たる。
髪質っていうのは毛穴の形状の問題であって、ヘアブラシを入れようが良いトリートメントを使おうが俺のような髪質はサラサラのストレートにはならないのだ。
「なんだ髪ぐらいで大げさな」と普通の人は笑うし、俺も普通の髪質だったらたぶん笑っていたと思う。
俺にとっては谷底に突き落とされた気分だった。どれだけ頑張っても普通の頭はできないのだと。
同級生がワックスをつけて髪型を気にしているのがとても羨ましくて、次第に普通の髪質が直視できなくなった。
社交的でよく笑う性格だったのだが、酷く内向的になったのはちょうどこの時期だったと思う。
頭が悪い上に髪が原因で社交不安を拗らせるようになった俺は近所の偏差値40ぐらいの底辺高校に進学した。
高校入学を機に縮毛矯正をかけた。長年、憧れていたサラサラの髪の毛を手に入れたのだ。俺は嬉しかった。鏡の前で頭を振って笑っていたのを覚えている。
これで普通に過ごせる。そう思った。しかし入学してから数日、クラスの女の子に言われた。
頭の中が真っ白になった。やっと普通の髪質になったとおもったのに。今思うとそりゃそうだよな、と思う。
俺みたいな剛毛な連珠毛が縮毛をかけると数日で光が乱反射して白光りするようになるのだ。粗悪なカツラのようになる。
ショートヘアにしたかったが、そうすると縮毛矯正の持ちが悪い。
縮れ毛が見えることにおびえていた俺は長めのミディアムを維持しながら縮毛矯正をかけ続けていた。in the soupのボーカルぐらいの長さはあったと思う。
通りすがりに女の子が吐く「キモ」の一声が恐ろしくて恐ろしくてしょうがなかった。
それでも縮毛矯正が精神的な支柱になっていた俺は中学の頃よりかは幾分誰かと話せるようになった。グロメンから雰囲気フツメンぐらいにはなれていたと思う。
ある日、クラスメイトの女の子に告白された。正直嬉しかったが、同時に思った。
「俺の本当の髪質がバレたら嫌われるんじゃないか」
「髪で顔の雰囲気って滅茶苦茶変わるし俺がやっていることは不細工が整形したのとたいして変わらない行為」
「もしも結婚して子供が産まれたら子供が俺と同じ生き辛さを味わうかもしれないそれだけは避けたい」
飛躍した思考だったが当時にそう思った俺は「ごめん」と断った。そして今に至るまで交際経験がない。
縮毛矯正を一度すると手放せなくなってしまう。今年で29歳になるが、今でもかけてる。
すっぴんで人に会いたくない女性の気持ちが俺には痛いほどわかる。
俺もこの頭で人に会いたくないし、高校の頃の友達と会うときはいまだに縮毛矯正をかけてる。
家族からは病気だと言われる。お前の頭なんか誰も見てないし気にしてないと。
ネットでヘアカタログを見ると俺の髪質の人なんてだれ一人いない。
画像検索すると時々出てくるが、縮毛矯正のビフォーアフター画像で、酷い縮れ毛のビフォーが俺だ。参考になる髪型なんて何一つ出てこない。
時々けっこう強い天パの人が天パ対策の方法を自分の写真を上げてやっているがその人たちのが幾分マシな髪質なのだ。柔らかさがある。
未だに心の底から子供は生みたくないと思っていて、やはり理由としてはこの髪を遺伝させたくないっていうのが強い。
入社前に縮毛矯正をかけて2か月たったあたりでひどく癖がでてきて、ストレスと天パでテンパってしまい仕事をバックレたこともあった。
もう何も手がつかなくなってしまう事があるし、いまだに人の目が怖い。堪らなく怖いのだ。
誰かが言う。「天パをネタにすればいいだろ」
この酷いコンプレックスの使い道が道化のネタにしかできないという悲しさがわかるだろうか?
きっと同じ天パでも社会生活を全うできる人もいる傍ら俺みたいに腐る人もいるんだと思う。
もしも腐った人、腐りそうな人がいたら少しでもわかっていただけると思う。
たぶん周りは髪ぐらいっていうとおもうけど、俺は君の辛さは痛いほどわかる。
電車で見た君がこれを読むことは無いと思うけど、お互いなんとか生きていこう。
私の母親は、関西人なせいなのか、ギャグのつもりで人をけなすことを言う
私のことはブス、おばはん、年増、などなど。ちなみに私は今年で30歳。どうして30一生懸命生きているだけでこんな風に罵られなければならないのだろう。
日頃、年齢差別やそれに結びついた女性差別は良くないよね、みたいな感じで生きてるから、母親にこういうこと言われると、立ってる場所の床が外れて谷底に突き落とされる気分になる。
母親にそれ年齢差別だよ、とか、家族にブスとか言うのはモラハラとか場合によっては虐待だよとか
それとなく伝えたこともあるが、屁理屈言うなと怒らせてしまった
きっと母親もそうやって口汚ない言葉をかけられて、そして適応してきたのだろう。そう思ってもやはり悲しいし、辛い
だから実家へはあまり帰りたくない。父親はそういうことは一切言わないし会いたいのだが、母親はそういう感じで、会う前はすごく緊張する