はてなキーワード: 裁定とは
オリンピックを嫌ってるのはインターネットのユーザーだけで、実際には現実を生きる多くの人がオリンピックを楽しみにしている……という話が最近上がりはじめた。
でも、それは間違いだった。「ネット」なんていう主語すら大きすぎ、主にはてなという狭い狭い一部のコミュニティだけが嫌っているだけだった。
本日、Twitterのトレンドはサッカー予選一色になり、Twitterの多くのユーザーが南アフリカ戦の勝利に喜び、審判の不可解な裁定に憤った。
でも、よく考えればあたりまえだよな。
はてながネットのすべてなら、Twitterのトレンドは永遠に自民党批判でなきゃおかしい。どんな話題にも横入りして政権批判に繋げるのがはてなだから。
結局、はてなは敵を口汚く罵るだけの、何の力も持たないノイジーマイノリティってことがまた可視化されてしまった。
muchonov 大枠の主張は同意できるけど、解釈と感想の多様性を認めつつ「作品と京アニ事件は関係ないといってみたり、薬物中毒かもしれないといってみるのは間違いなんだよ」と突然正誤の裁定・採点者になっちゃうのはなぜだ
なぜって、正誤はあるからだよ。
あらゆる作品のあらゆる解釈が正しいとすると、そもそも文章や漫画による表現自体意味を持たないだろ。
解釈にある程度の揺らぎがあるのは事実だが、切り捨てられる解釈はあるだろ。あるだろ?「京本を殺したのは実は作中に登場しなかった藤野の兄だ」とか、あり得るかもしれないが「ない」だろ。いやあんのかな。あんのかもしれないね。
俺には明らかに間違った解釈に思えるものが、はてなでは正しい解釈であるなら、間違ってるのは俺の方だ。
「おはよう」を夜の挨拶だと思うのも正しい解釈だし、「障害者にうんこ食わせた」はバレンタインにチョコレートをあげたことの比喩と解釈するのが正しいから小山田が受けた裁きは不当だよな。
本来は多様な解釈が認めれるはずの文章の解釈に正解を求める国語みたいな教科は滅んだほうがいい。国語辞典は、言葉の意味の自由な解釈を奪う最低の本だから燃やすべきだ。
この文章はうちの猫がキーボードを叩いて生成した意味を持たない文字列だ。ちなみに猫というのはお前らが思っている猫じゃなくて、俺が火星から連れてきた宇宙生物の可能性があるからな。
売られているグッズには必ず著作権表示をつけないといけないくらい徹底されているのに、
積極的に売られなくなった作品の著作権は権利者にすら省みられなくなってしまう。
権利者の所在が分からなくなった著作物を孤児著作物というけれど、
そういったものが産まれる根本的な原因は著作権という権利が無形式主義に基づく権利、
つまりその著作物が生まれたら自動的に自然発生する権利であるからなんだよな。
企業の解散、もしくは権利者の死亡で上手く著作権が譲渡されなかった著作権は本来消滅するのだけれど、
本当に譲渡されなかったかどうかを確かめる術はあまりにも少ない。
権利者が生きているのか死んでいるのかすらわからないこともある。
そういった理由で宙に浮いたまま誰が著作権を持っているのか分からなくなってしまった孤児著作物が世の中にはたくさんある。
日本を含めたいくつかの国には一応裁定制度という「ちゃんと探したけれど権利者がどこにいるのかわからなかったらつかってもいいよ」という仕組みがあるけれど
利用された例はまだ多くない(ファミコンミニジャンプに収録された北斗の拳とかヤマジュンパーフェクトのような使用例はあるんだけど)しその上
裁定制度の根拠がベルヌ条約の途上国向けの附属書に書かれている強制許諾という仕組みなのでそもそも先進国では条約違反なのではないかという声すらあるという。
著作権がどうなっているのか、
孤児著作物を減らすにはそういう風にして誰がどの版権を持っているかという情報を公にしていくしかないと思うんだよなあ・・・
もちろん無形式主義は維持しつつ、著作権が著作者の手から離れたり著作者以外に利用されたりする時には登記を義務づけるようにして
考えるって言ったって妄想垂れ流すだけだけど
ビットコインの実体経済における源泉は電力だ。これは盛んに言われてるとおり。電力の他にGPU等のコンピュータリソースもあるけど、こっちは消費するもんじゃないし、ビットコイン単価と連携するのは電力の方。
したがって、ビットコインの高騰は電気料金の上昇圧になっていく可能性が高い。
一方、発電側を考えると、従来の大規模発電所に対して、太陽光や風力などのいわゆる再生可能エネルギーが脚光を浴びているわけだが、こういった発電は規模も小さいものが多く、人里離れたところに作らざるを得ない場合が多いので、送電コストや損失が大きな問題になることがある。
そこで、こういった小規模電力は基本的に送電せず、現地でビットコインのマイニングをすればよいのではないか、と考えている人は既にたくさんいそうで、これを突き詰めていくと、マイニングによる利益が送電の利益を上回るならマイニングして、そうではないなら送電に回すのが効率的になる。
この方式が確立すれば、ビットコインの相場に裁定が働くようになるので、売電市場とビットコイン相場が連動して、価格が安定するのが本来。
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
フェルスタッペンの父ヨスが、ハミルトンと同じマシンにマックスを乗せることを世界中が望んでいるという記事を拝見したので、個人的見解を述べさせてもらいます。
結論から言いますが、たとえW11にマックスを乗せて直接争わせたとしても、彼がハミルトンに勝てなかった可能性が極めて高かったと考えられます。それは、レッドブルのハイレーキマシンからメルセデスのローレーキマシンに乗り換えることで、異なる挙動のマシンへの対応に時間がかかるという意味ではなく、ドライバー個人のドライビングの総合的なスキルが、ハミルトンに遠く及ばないという意味です。
まず第一に、フェルスタッペンはシーズンを通して、ドライビングに一定の波があります。近年のレースで例を挙げるなら、2018年メキシコGPや2019年オーストリアGP、そして同年のドイツ、ハンガリー、ブラジルのように、あるレースでは支配的、ないしそれに準ずるレースペースで走れても、2018年中国GP、同年のモナコなど、別のあるレースでは、自らのミスで取れるべきポイント、または優勝すらも取りこぼしています。一方のハミルトンは、自らのミスでポイントを取り損ねたレースは、選手権の行方が確定した後のものであれば、2019年ブラジルGP、そうでないものでは、2020年ロシアGPなどですが、さらにもう1つ直近のミスを列挙するためには、なんと2016年スペインGP、実に4年以上もの時間を遡ることになります。1ポイント差でチャンピオンが決まることもある選手権では、これほど走りの一貫性に差があっては、対決させる前から敗北は確定しているようなものです。
第二に、これは同じ世代の期待の若手ルクレールにも言えることなのですが、フェルスタッペンは他者との接触や、際どいバトルが非常に多いドライバーです。デビューイヤーと比べると改善され続けてきてはいるのですが、それでも多すぎますし、第一の理由と関わってくるのですが、それでポイントを取りこぼす場面が見られます。
具体的な例を2つ挙げてみましょう。1つ目は、2018年ブラジルGP。記憶に新しい、周回遅れのオコンとの接触で優勝を失ったあのレースです。多くの視聴者はフェルスタッペンが一方的に被害者だと考えているでしょうが、実際にはそうではありません。リプレイをよく見てもらえればすぐに分かるのですが、フェルスタッペンはオコンにスペースをほとんど残していません。オコンはフェルスタッペンと並んでターン2に侵入した際、イン側の縁石の内側に設けられたソーセージ状の縁石ギリギリまで寄せていますが、互いのタイヤのサイドウォール同士ではなく、互いのタイヤの接地面同士が接触しています。ルールでは、バトルの際車1台分のスペースを残すことになっていますから、もしスペースを残していてそれでも接触したのなら、互いのサイドウォール同士が接触するはずで、今回は互いのタイヤの接地面同士ですから、どちらかがスペースを残していなくて接触したことになります。そしてオコンは目一杯イン側に寄せているわけですから、スペースを残さなかった犯人は当然フェルスタッペンとなります。フェルスタッペンは、自らの「だろう運転」で、優勝を失ったのです。勿論、オコンは周回遅れですから、周回を取り戻す際にはノーリスク、ノーバトルで追い抜かなければなりません。レース中に科せられる罰則のうち、失格の次に重い10秒のストップアンドゴーペナルティが科せられたことからもそれが分かります。しかし、インシデントに対する裁定を根拠に相手をいくら非難したところで、目前だった優勝は絶対に返ってきません。したがって、自分は出来るだけのことをして接触を避けながら走行しなければならないのですが、この時のフェルスタッペンにはそれが出来ていませんでした。同年アメリカGPの、ハミルトンとフェルスタッペンの終盤のバトルを見れば、その技術、リスクを見極める力の差は明らかです。ハミルトンはフェルスタッペンとのバトルの際、もし自分が強引に抜きにいけばどんなリスクを伴うか、非常によく理解していました。接触を避けるために常に細心の注意を払っており、レース後のインタビューでフェルスタッペンにスペースを与えすぎてしまったと話していたことからもそれが分かります。もし接触すれば、タイトル争いの終盤で痛すぎるポイントの取りこぼしがあること、つまりタイトルを争っていないフェルスタッペンと、争っている自分が、それぞれ何をどれくらい失うのかということを、よく分かっていました。これがハミルトンとフェルスタッペンの差なのです。
もう1つの例が、2019年メキシコGPです。辛辣な評価になりますが、トップチーム、トップカテゴリーに在籍しているドライバーにあるまじきミスが目立ちました。まず予選での黄旗無視。これは非常に危険な行為です。もしマーシャルがコース上に出ていたらと考えると、3グリッド降格で済んでラッキーだったと考えるべきでしょう。そしてこのほんのささいなミスが決勝で大きく響いたことは、周知の事実です。スタートでは繰り上がりでフロントローを獲得した直線の非常に速いフェラーリに前を塞がれ、ターン1、2では一緒に並んでコーナーに侵入したハミルトンと軽い接触があり、互いにマシンのコントロールを失ってシケインをショートカットしながら通過。これによりフェルスタッペンは、アルボン、ボッタス、ハミルトン、そしてマクラーレンの2台にすら前に行かれて8番手まで後退してしまいます。そしてさらに悪いことに、スタジアムセクションでボッタスを強引に抜いた際に接触によりタイヤがパンクし、最後尾まで後退し万事休す。ハードタイヤに交換した後は、6番手まで追い上げるのが精一杯でした。このレースで所謂3強チームは全車完走していますから、事実上の最後尾フィニッシュです。レッドブルはここ数年メキシコで非常に競争力のあるシャシーを持っていたこと、ホンダPUもその設計上高地でシャシー同様非常に競争力があったことを考えれば、この結果がいかにチームの期待を下回っているか想像するのは容易です。まず、予選中の初歩的なミスが、スタートでの混乱と接触を招きました。黄旗無視によるグリッド降格が無く、ポールポジションからスタート出来ていれば、ターン1までの長いストレートでフェラーリの脅威に晒された可能性は否定できないものの、最初のシケインをトップで通過することは、4番グリッドからスタートして同じことをするよりも遥かに簡単だったでしょう。それどころか、4番グリッドスタートはハミルトンとの接触を招き、8番手という順位を彼に与えます。そして失った順位を取り返そうとボッタスに仕掛けた際には、さらに接触し、パンクしたタイヤで1周してからピットインを余儀なくされるという最悪の事態を招いてしまいます。予選のたった1つのミスが、次々と別のミスを連鎖的に、とりわけ接触を招いているのが分かると思いますし、ボッタスとのインシデントに至っては全く不要な接触だったと思います。レースペースは最速なのはほとんど間違いないのですから、直線まで待ってパワフルなホンダPUを使って安全に抜けば良かったのです。これは後付けの理論ではありません。フェルスタッペンがボッタスを抜いたのが4周目のスタジアムセクションで、残り周回数は67周もありましたから、オープニングラップのツケを払う余裕は十分にありました。しかし「自分と相手がそれぞれ何をどれくらい失うのか」を見誤ったばかりに、そのチャンスすら失ったのです。今のF1は競争が非常に激しいので、ほんの僅かなミスにつけこまれますし、ここまで幾重にもミスが重なれば、勝ちようがありません。ハミルトンが同じ立場であれば、間違いなく直線まで待ってからオーバーテイクを仕掛けたでしょう。
これで、フェルスタッペンが将来的に良いマシンを手に入れた場合にも、タイトル獲得の望みは薄い理由が説明できたと思います。確かに彼の走りは活気があり、見ているものを熱くさせる、一番見ていて面白い走りをするドライバーです。フェルスタッペンの走りに見惚れてファンになる気持ちが凄くよく分かります。一方のハミルトンは、リスクを最小限に抑えた、悪く言えばとにかく目立たない走りをするドライバーです。フェアですが、隙が無いだけにその分派手さも無く、見ていてあまり楽しい走りをするタイプではないでしょう。しかしながら、これはあくまで見ている側の視点です。ドライバーは、熱い走りをするドライバーと呼ばれるためにF1で走っているわけではありません。シーズンが終わった後に、その年のワールドチャンピオンと呼ばれるために走っています。フェルスタッペンがタイトルを取れないのは、メルセデスが圧倒的に速いマシンを持っているからというだけではないのです。彼が正しいドライビングが出来るようにならなければ、近いようで遠いタイトルへの苦難の道のりは続くでしょう。
ニコニコのF1タグで恐らく最大手のあのF1解説動画、動画の内容が目に余るほどにお粗末。「解説」って言っときながら何の根拠もない自分の見解述べるだけとか、事実と異なるどころか真逆の事すら書き始めてて、もうほんといい加減にしてほしいんだわ。見なきゃ良いとかそういう問題じゃなくて、こっちがいくら意味不明な批判してる人間に理屈立てて説明してもキリないんだよね。ぶっちゃけ日本国内で不当な批判してる人間、この人の解説動画とF1Gate.comに毒されてる説マジで普通にあると思うよ。というかこの人がF1Gate.comみたいなアフィもどきの怪しいサイト斜め読みして動画作ってる可能性大。「この動画の情報は真実とは限りません」とか情報を1本の動画にまとめて発信する側の人間として失格な言い訳やめて、ちゃんとチームが出してるデブリーフをしてる動画とか、FIA.comのスチュワードの裁定が書かれてる文書読んでから作る気にはならないの?自分の感情抜きにしてインシデントそのものを論理的に評価する地頭とか持ってないの?はっきり言ってゴ○。無知な視聴者ボイロで釣るだけの商売は楽でいいねえ。
さすがに批判コメだけだとただのアンチと同レベルだから、特に酷かった「解説」をいくつかピックアップしてみた。御本人が見つけた時に、是非参考にしていただきたい。できる頭があったらあそこまで酷くならないと思うけど。
①2019年カナダGP、ベッテルの5秒のタイムペナルティに対して「個人的に厳しすぎる」と言い添える→これは「解説」ではない。これはあなたの感想でしょ。優勝をペナルティで奪われたベッテル可哀想くらいにしか思ってないのが丸分かり。厳しすぎると思うのであれば、せめてその根拠くらい示すべきでは?100歩譲って示したとしても、コース復帰時のベッテルの幅寄せが無ければハミルトンは前に出ていたことが、インシデントが発生する直前のタイムギャップなどから認められたから、スチュワードはタイムペナルティを科したのであって、車両から送られてくるテレメトリーやリプレイから得られる証拠を覆せるだけの根拠なんて、示せるわけないのはほとんど分かりきったことだけど、もし厳しすぎると思うならせめて根拠くらい示さないといけないのでは?ペナルティがレース結果に直接影響を及ぼした時に、よくこのタイプの意見をよく見かけるけど、スチュワードは科したペナルティがレース結果に介入するかは一切考慮しないのは周知の事実。少々話が外れるが、2018年中国GPで、上位2台がピットエントリーを通過してからSCが宣言された時のボッタスとベッテルの「下位ドライバーが有利になった」という批判に対して、故チャーリー・ホワイティング氏が「安全管理が我々の仕事で、結果管理ではない(要約)」と反論していることからも見てとれる。SCが出たタイミングが下位ドライバーに有利に働いたのは文字通り結果論であり、どのタイミングで宣言すればドライバーに平等かなど、考慮するはずがない。これはペナルティを科す際も全く同じ。違反行為の重大さに応じて罰則を科すのであって、レース結果にどう影響するかも考慮してペナルティを科してしまったら、それこそ同じ違反行為に同じペナルティが科されなくなってしまい、この手の文句を言う人間がよくほざいてる「スチュワードに一貫性が無い」状態になってしまうが、それを分かってて書いているのか?曲がりなりにも「解説動画」でしょ?誰もあなたの感想なんて求めてないよ。
②2018年ドイツGP、ハミルトンのピットエントリー侵入後の区分線またぎについて「ペナルティは無かったようです」→これ特に酷かった。FIA.comに、このハミルトンの一連のインシデントについての裁定が書かれた文書があり、そこには「Decision:A Reprimand.(1st reprimand of the current season)」つまり、「処分:勧告処分(現在のシーズンで1回目の勧告処分)」と書かれている。つまり、最初に言った事実と異なるどころか真逆の事が書かれている。ペナルティは科されていないと解説しているのに、実際には勧告処分という罰則がきちんと科されている。ふざけてるのか?ぶっちゃけこの1点だけ取り上げても、いかに適当に動画を作っているかよく分かる。いくらなんでもこれは「真実とは限らない」じゃ通らないでしょ。こちらで確認した限りでは、この件についてなんの訂正削除謝罪も見てないんだけど、どういう神経してるの?もう少し自分の発言に責任持つべきでは?
③2020年ロシアGP、ハミルトンのペナルティに対する無線の内容、表彰台での態度を槍玉に上げる→ハミルトン絡みのどいひーな解説多いと思わなくもない今日この頃。この人もしかしてハミルトン嫌いなだけなんじゃ?と思ってみたり。一応2018年シーズンからレース解説は全部見てるんだけど、おかしなこと言ってる時は大体いつもハミルトンが絡んでる。まあいいや。まず無線について、というか表彰台の態度もそうだけど、相手も人間でしょ?ステアリングを握り続けた手やヘルメットが当たり続けた頭には跡がつくほどの負荷がかかるし、時に3リットルもの汗をかく。精神的にも肉体的にも疲れ果てた状態で、それでも紳士的に振る舞えというのは、この人だけに限らずあの時にハミルトン叩いてた連中も含めて、一体何様なの?と問いたい。一流のドライバーも人間なのだから、時には頭に血が昇るし、悪態をつく時もあるに決まってるでしょ。2019年オーストリアGPのライコネンの中指立て批判した?あれ国際放送だとモザイク入れないといけないくらい下品な行為なんだけど、どうせライコネンはそういうキャラだからとか言って笑ってたんでしょ?2018年ブラジルGPの表彰式でのフェルスタッペンの態度は?批判した?どうせしてないでしょ?オコンにぶつかられて可哀想みたいなしょうもない感情論に流されてたんじゃない?これらの行為もハミルトンの行為も、どちらも同じ「お行儀の悪い」行為なのに、片方は批判して、もう片方はしない、そんな人間に他人の振る舞いを批判する権利なんか無いよ。ハミルトン叩いてる不特定多数の連中もそうだけど、単にハミルトンの態度が気にくわないから批判しているに過ぎない。もし、その態度や発言が不適切と言いたいのなら、それを決めるのはスポンサーやチーム、またはスチュワードなどであって、少なくともあなたでは絶対にない。不適切であれば正されることは、ムジェロでハミルトンが着ていたTシャツの一件が証明している。最も、あなたが自分の品位を下げることを厭わず気にくわないドライバーを叩きたいのなら、好きにすればいいと思う。
粗探しでもこれだけ出てきた上に、レース解説の方は各1回ずつしか見てなくて、F話本編の方は全く確認していないので、2019年イギリスGPのボッタスのタイヤ戦略を「ミス」と評価していた所など、戦略を雑に解説しているところなどをもっと細かく探せばいくらでも見つかると思う。視聴者が1日でも早くあの動画を卒業することを祈ってる。てか、主が下調べしてから動画作れるようになれば済む話でしょ?いつになったら出来るの?あと、ホンダとかフェラーリとかのファンに突撃されたときのために言っとくけど、こっちはハミルトン信者でもファンでもないからね。あしからず。
村人が行動せざるをえない情報を意図的に改ざんして流したのは大きな罪でしょう
(罪の定義が村人が村人の行動に対しての裁量の範囲内だったとして)
むしろその少年が村人が行動する動作が見たいという欲求を満たすために不必要で実態のない情報を使って行動させ
その行動がコストに見合ったリスクとリターンを得るべくして構成されていたのに完全に虚実としてコストのみ消費させる
村に対し損害を成すことであるのにその支払いを求めなかった事は村人たちの善意でしょう
団地の非常ベルを鳴らすと非日常的な状態が展開するので楽しいから押すのは非常ボタンを設置している団地の責任ではないですよね
オオカミ少年の問題は事実の伴わない物語を口走るいわゆる「嘘」を発言することが楽しかったわけではなく
狼がこようがこまいが狼対策で行動をする村人たちの姿 そのコストを浪費する姿を見ることが楽しかったことが問題です
他の何かの行動で問題行動を回避し満足感を得るように行動を制限させるべきは親の仕事で彼の行動を制限したり教育してその警報部分を触らせないようにする必要があったのは監督者の責任ですが
監督者が愉快犯を教育していないことが悪いという言い方もおそらくできますが この物語で大切なのはこれを教訓として特定の読み手に特定の知見を得てもらうためです
それは無邪気に嘘をつくような若年者に おまえに罰がくだるぞという教育方法で自分のデメリットでしか物事の価値をはかれない相手に 嘘はよくないという事柄を伝えるためです
監督者の責任で嘘をつくことが 自分を育ててくれて保護してくれてる相手に損害を与え申し訳ない思いをし それは自分自身の損失よりさらに大きい反省をする感受性のある相手にならば監督者の責任を問う物語になっていたでしょう
あと余談ですが「嘘」というのが「ただの言葉の羅列でつかいどころによる何か」みたいな定義にされているでしょうか
現状まだ発生していないことに対するものすべてを嘘といえば嘘になるかと思いますが それは「予定」となにが違うのでしょうか 「約束」は嘘に「まだなっていない」だけで嘘と呼んではいけないのでしょうか
現実になる可能性の低い見込みのものを敢えて または情報を伝達された人がおおよそ予想するであろう事を反映しない結果に至ることをしっていて 情報を伝達することがおおよそ「嘘」の類でしょう
それならば手品も嘘になりますし ぜったい行くといっておいていけない可能性があるけどする約束は嘘になるでしょうか
結果当事者となる人が先に予定していたものと異なる結果になった時点のことを嘘といって その可能性を排除するために事前に失敗の予測を「嘘(の可能性)」として認識するのではないでしょうか
すると今日の夜「狼がきた」という嘘(狼が来るのは明日の夜)でその発生時点から行動して有効な対策が打ち終わる時点までにおいて狼が来なかったら「嘘」で行動を終了して撤退するはずです
しかし翌日狼が来たら「誤差1日で予言が的中した」と言えなくはないですが言う意味はありません むしろ対策行動にでるタイミングをずらしたというのはフェイントをかけた形になり意図的な侵害行為でしょう
少年が正常な精神状態でなかった場合狼がみえてしまっていた可能性があったとしてもその少年を「管理」や「治療」することがなかったことが村人の善意だったのかもしれませんし またその行動を制限しなかったことが「少年が行動したかったことの自由を制限した」ことでもないので良心ではあるでしょう
どう考えても少年の無知による楽しみとそれが楽しかったとしても支払うべきコストには見合わないことを知らなかったことが問題でしょう
無知は罪だったこと その無知による他者へ行動を要求する傲慢さは支払いをもとめられること この構造を理解してもらうために少年という悪が罰を受けるという説明的な物語になるのは合理的でしょう
少年はすこしも救われるべきではないし発言する前からそれが事実とはことなることを情報として発信することには大きく問題があることを知ってもらう必要はあります
少年が自分だけは助かるなどという選択肢はありません 一人で生きていけるなら少年は嘘をつく旅に出て一人で暮らしてもいいはずです 少年は村人をつかってあそびたい 村人の中に居て共に生きていくうえで問題行動をしたいという破壊的な問題要素そのもです
嘘をついても反省すれば許されるという許容が村といった自治を形成する組織で適用されるものか 村とはどんな組織か 教育とは何か を「嘘ついたら死ぬぞ」でしか知見を得られない知識レベルの人に教えることはできません
オオカミ少年は死んで当然でした
嘘が許される社会形成について教育について話を書くのであれば かなう可能性のない自己責任の約束を行いそれが守れなかったときに後悔と反省を踏まえ自己犠牲により対象となる包括組織に報いるべきでしょう
そんなのはジャンプのヒーロー漫画でしょっちょうやってるので、オオカミ少年を小難しい大人の話にぼかして問題である嘘(ついてる時点ですでに破綻しているので社会的に裁定が下される時点で罪で悪)をなにかしらいい話にフィーチャーする必要もないでしょう
シンプルに「嘘ついたら死ぬ」ストーリーの単純で明快な話を ごちゃごちゃと手を加えて意味の解らない話にするならもうむしろ狼少年以外でもなんでもいい話です
おそらく元増田が混ぜ込みたい「嘘とは範囲がひろくていいウソわるいウソ(罪とされるされないの差のあるものがある)」は、嘘という名前になっている時点で「嘘(害悪)」です。
根拠がない警報を鳴らし続けることが特訓になるとして、そのコストを無駄に支払わせる決議権がなんの同意もなしに唐突に少年などにふりそそぐものでしょうか 社会が崩壊してます
嘘は嘘です 失敗した予定は失敗した理由を挙げて次回に反省をして改善をしていくことで 嘘≠失敗 ではない履歴にのこせます
狼がきていないけれども 狼が来たぞと警報をだしてみた もしきてたらすごいことなので というのは 記録して反省してどうすべきか考えれば「狼がきていない時の状態でも緊急体制をとっておく」でしょうか
いつでも対応できることでしょうか そのコストを払えるだけの村の収益を大きくすることでしょうか そんなビジョンの話はまた別です この童話は「当事者は責任をとる」がそんな漢字を知らない子供にもわかるようにしたものです
それを言い伝えるほうの大人がいい年して情報の扱い方もわからず達成できなかった事象についてなんでも嘘といったり改善できる過去の失敗を嘘といったり語彙が足りないことには嘆かざるをえないでしょう
我ながら、何とも支離滅裂な夢を見た。
夢とは得てしてそういうものだが、寝覚めの悪さは否定できない。
昨日の疲労、冷凍諸君、エナジードリンクが体に残っているからだ。
“あの時”に限りなく近い、最悪の状態。
「あー……そうだ、これこれ、この感じ」
それが絶不調という形であれ、目論見どおりであることには変わりない。
課題レポートのように掲げるならば『バロメーターとバイオリズムの因果関係・相互作用』といったところだろうか。
まあ、これは超個人的な究明でしかないので、ここでは“マスダメーター”だとか“マスダイズム”とでも呼ぼう。
このマスダメーターは調子の良し悪しを指標する、いわば基準値のようなものだ。
大まかに「身体」・「精神」・「神経」などに分類しているが、これらは相互に作用している。
今の俺が正にそうだな。
疲れているのに重たい料理を食べたから消化不良を起こし、その消化不良とエナジードリンクが睡眠不足に繋がる。
それぞれの要素が絡み合って今朝の不調に繋がり、その不調が更なる不調を生む。
これがバイオリズム……じゃなくて、マスダイズムにも悪影響を及ぼす。
マスダイズムとは、個人的に「何となく気になること」や「何となくやっていること」を概念的に纏めたものだ。
俺が毎日やっている、テレビのチャンネルと音量を10にするというのもコレに含まれる。
気になっても引きずらないし、やらなかったとしても後悔に値しない、そんな些細なものだ。
一瞬、体の中を通過していくだけ。
しかし、マスダメーターが不調だと、この“通過”が円滑に行えなくなる。
どうでもいいことを必要以上に気にしたり、悪い方に考えたりする。
占いを信じてもいないのに、やたらと気にしていたのも、そのせいだろう。
やらなくてもいいことに対して成功・失敗の二元論で判定してしまう。
あの時、俺が「しまった」と思ったのも、それが原因だ。
それに悩んだところで、不調で思考も働かなかったのだから、納得のいく結果・結論なんて出てくるわけがない。
そうして最初に抱えていた不調を解消できないまま不平不満が重なり、負の連鎖へと繋がる悪循環が生まれたってわけだ。
噛み砕いていうなら「調子の悪い人間が何かをやれば、それは悪い結果になりやすい。そして悪い結果を出してしまった人間は、更に調子が悪くなる」みたいな話さ。
そして、結果というものは、結果を出した人間というものは他者にも影響を及ぼす。
それが授業中にやたらと名指しされる因果へと繋がったってわけだ。
つまり俺の思うまま、この日は最悪だったってこと。
「心ここにあらずといった感じだな」
「そんなに悠々としているとは、私の話を聞くまでもなく解答できるというアピール……そう解釈してよろしいかな?」
ボーっとしていたので主語は聞き逃してしまったが、その言葉が誰を指しているかは明白だった。
もちろん、授業の内容は頭に入っていないので答えられるわけがない。
これから俺は的外れな解答をして、先生に嫌味たっぷりの説教を聞かされるのだろう。
しかし気負いはなかった。
馬面教師の宣告と共に、俺は“答え合わせ”を終えていたのだから。
この癖を仲の良いクラスメートは知っているが、いま俺の口元がどのような感情を表しているか、そこまでは分からないに違いない。
だが、それでいい。
この法則と同じで、これは個人的で、誰も共感しなくていいことだ。
だからこそ、せめて自分が納得できる結論を求めなきゃいけない。
それこそが俺の、俺による、俺のための法則と、その証明なんだ。