はてなキーワード: 自己完結とは
恒常的にバブみという言葉を使ってる母性欠乏人間だけど、いい加減にして欲しい
こっちは静かにキャラクターに母性を感じて傷を舐めてるだけなのにさぁ
今回犯人が被害者を殺した理由は口封じだろうに、関係ない概念引っ張り出して延焼させるのやめてくんねぇかなぁマジで
お前みたいな無自覚なクズには本気で反吐が出る、マジで死んでくんねぇかな
案の定馬鹿の吹き溜まりであるクソアフィブログ「はちまゲロ寄稿」にまとめられてんじゃねーか馬鹿が
こちとらただでさえバブみという言葉が氾濫してオタクの流行として消費されてる現状とそれに注がれる冷たい視線に辟易してるのに、お前のような思考力がねぇくせに頭使ったつもりになって自己完結したゴミ記事書いて風評被害を呼び起こすゴミだよお前は
ネットなんて馬鹿が多い上に専門家とお前みたいなクソ素人馬鹿の境界線が曖昧なんだよ
わかってんのか?
馬鹿が多いんだよ
トリマーがうさんくさいし小さな犬を飾ってる。しかしそれが仕事な人なんだよなーと思って見ていたら、マツコがトリマーのカットをかわいくなーい!と言いまくってた。それにカリスマトリマーはそうですかね?と返事する。嫌な雰囲気だなと思った。マツコは純粋に可愛くないと思っただけだろうけど。
マツコのことは、出てる番組をほとんど見ているくらい好きだが、さすがに失礼な対応だなと思い世間ではどう見えてるのだろうとなんとなくツイッター検索してみた。
しかし出てきたのはこのトリマーは犬をおもちゃにしている!犬は物じゃない!ってので溢れ帰っていた。
えー。そこなのかー。うさんくさいカリスマトリマー、クライアントありきのサービス業なのにな。
ペットを○○風だの流行だのにカットだのエクステすることが怒りを買うのか。普通のカットはいいのに?
知人が鬱になったっぽいのと、
ブックライブで「うつヌケ」なる漫画が出てきてそれをチラ見したら分析してるようで大したこと書いてなかったので
この日記を書くことにする。
もう1つ加えるとしたらこの自己肯定を外的要因に一切頼らずに形成することができれば解決する。
どういう意味か?
なのでこれで一時的に回復したとしても、無くなればまた鬱に戻る。
例え個室に一人でぶち込まれて他者と一切コンタクト取れなくとも、
70億人が自分を批判し否定してきても揺るがない「自己完結型肯定感」の「自己肯定」だ。
これを自力で作るのは非常に難しい。
今までの成功例や他者からの評価や自分の経験や実績の積み重ねにより形成されているため、
また脱出する手段も分からない(治療部位が分からない)ために治すことができなくなる。
自己完結型の肯定を手に入れれば変革のための自己否定にストッパーを設けることができるので、
結果として無理をしなくなり心身ともに守られることになる。
ただし、自己肯定による非変質部位によって発生する無知や非学習能力によるリスクも付いてくるので、
自己肯定を作り出す際は十分注意して取り組まなければならない。
例えば「納豆にソースかけて食うのが最高に美味いのに同意してくれる人がいない」という事実があったとして、
もう一度この事実を見つめ直す。
自分にとって最も大切なことはソースをかけて最高に納豆を美味い状態で食うことであって、
目の前に大統領がいたら食いづらい気はするだろうし、
でもそれは納豆にソースをかけて食うのが好き、という事実に対しては何ら影響がない。
つまり本来は他者からの評価や影響を考慮せずともいい事柄なのに他者からの評価や肯定を求めているという、
この単純な自己完結型の肯定の簡潔さすら知らない人間が世の中に溢れかえっているという事実から、
まだまだうつ病患者としての予備軍は水面下にタンマリといるであろう。
そもそもの話、多数決でいえばこの世に1人しかいない自分の力ではどうやっても他者に数で勝つことはできない。
なので多数決によって自分の趣味嗜好をコントロールするというのは自分を抹殺するのと同じことだ。
例え誰一人賛同者がいなくとも自分が心からそう思ったならそれに従うことが個としての尊厳であり自由だ。
もちろんその結果、社会から反発が返ってきたとしても甘んじて受け入れるもよし、斜めに弾いてもよし、だ。
自分をマジョリティと比較していたずらに評価を下げることもまた無意味だと気づくべきだ。
追記するかも
終始、人の話を聞かない
相手の主義主張を一考して尊重するプロセスも余地も持ち得てないので基本的に自己完結型の非コミュニケーション人間
同じ作られた存在の王蟲はファンだから許すが新人類の卵は嫌いだから焼き殺すダブスタの典型
新人類の卵も、過去の人類が導き出した答えの1つであるにも関わらずその答えを全否定
現人類が唯一生き残る方法かもしれない墓所を個人的な判断で破壊する
例え墓所が騙すつもりだったとしても技術だけを盗めば済む話であって戦争に勝利した時点でそこに交渉の余地は十分あった
墓所を批判しておきながら自分も巨神兵やヒドラを騙して死ぬまで酷使したのに私って酷い子…で済ませる度胸
いくら戦争状態に突入したとしても結末が敵国民の皆殺しという風の谷の蛮族さながらの着地点、子どもをあれだけ大量に焼き殺すヒロインは後にも先にもナウシカだけだろう
とにかくキレたら躊躇なく人を殺す
信者たちからは無条件で肯定される、唯一冷めた目で見れるのは自立してるユパ様だが触らぬ神に祟りなしで矯正する気なし、ユパ様のエロ同人は希少
主義主張が違うはずのブ王やクシャナでさえ認めてしまうほどのカリスマ性で、咎めるべき対立存在がいない、対立すると死ぬので認める話に強制的にされる
結果として描いてる宮崎駿でさえ「こいつ頭おかしいわ」と振り返るほどのキャラになって暴走のまま決着したラスト
独裁者であり破滅主義者でもあるナウシカが許されるのは全てカリスマ性のおかげ
そもそも自然であるべきというこの手の自然主義が陥りやすい「人間のやることは自然に含まないのか」というパラドックスを解消どころか問題視すらしていない
所詮はナウシカのいう自然に任せろという自然の定義はナウシカの中にしかおらず、たまたまナウシカが絶対的なカリスマによってそれが肯定されているに過ぎない
だから私はナウシカよりもののけ姫が好きだしもののけ姫をナウシカ扱いして悦に浸る馬鹿とは絶対に同じ釜の飯を食いたくない
超絶強いSJWが自分色のポリコレ棒片手に敵をぶっ殺しまくった話
ナウシカに心酔してるものほど漫画版ナウシカを庇いたがる当たり、業は深い
嵐LIVE TOUR 2016-2017 Are You Happy? 12/3京セラドーム大阪公演MCにて、ジャニーズJr.内ユニットMADEがステージ上で紹介されました。
必死でメモをとり、解読してまとめましたので(自分の字を読み取るのに時間がかかった・・・)、よろしければどうぞ。
ニュアンス含みますのでご了承ください。少しでも多くのMADE担に届け!
ベスアQRコードのくだりが終わり(これも涙が出るほどおもしろかった)、
櫻井「昔ペットボトルでしゃ・・いや、マイク飲もうとしたことある」
松本「えー、今回ですね、ジャニーズJr.たくさん出てくれているんですが、今日はそのうちのMADEをみなさんにご紹介したいなと思っております。だいぶ長いことついてくれている」
MADE「失礼しま~す」正面より出てくる。礼儀正しさ百点満点。
口々にかわいいと連呼。Power of the ParadiseのJr.衣装をほめている様子。
冨岡(黄色)・秋山(赤)・福士(青)・稲葉(緑)と、メンバーカラーのリボンをつけていました。
ちなみにこの日の曲中は秋山冨岡(赤)・稲葉福士(青)でした。終わって誰かにメンカラのものを借りたかと思うとかわいくて頭抱える。
とみけんといなぴは誰に借りたの?教えて?
【参考】12/3パワパラJr.カラー:黄色(山本・林・影山・福本)緑(幸大・基・岸1)自信はないけど。。
誰に借りたっていう妄想で30分はあっという間にいくね。
二宮櫻井あたりが「一人足りないからね、すみませんねぇ、4人だから」とフォロー。そこはMADEが行って欲しかった笑。
櫻井「でもずーっと僕らについてくれていますね。みなさんどうぞよろしくお願いします。ちょっとじゃあそれぞれ自己紹介お願いします」
二宮「はい」←なんでニノがはい?ってメモが残ってたから間違いなく言ってる。
冨岡「はじめまして。MADEのアクロバット担当冨岡健翔です!よろしくお願いします!」
秋山「はじめまして。えーっと、僕は嵐のファーストコンサートを見て、ジャニーズ事務所に入ろうと決めました。今、夢が叶っております。秋山大河です!」(突然の夢が叶っておりますに「?」のメモ笑。)
福士「MADEのなかで、一番顔面がうるさい眼力担当の福士申樹です。よろしくお願いします!」嵐客席ざわざわ。
稲葉「はい、100人乗っても~?大丈夫―!MADEのリーダー、稲葉光です!」(ほんとに突然100人~言い出すし、大丈夫~を自分でマイク通して言っちゃった。自己完結。)
大野「誰も言ってなかったぞ」
実際はちらほら全力の「大丈夫」が聞こえてきたから安心してください。
そして二宮くん大野くんツッコミありがとう。ツッコミのおかげでウケました。
再度(MADEがバックについてくれて)長いよねって話になり、
櫻井「俺らについてどれくらいになるの?ざっくり」
秋山「えっと、初めてツアーについたのが5×10のときなので、2009年ですね。7年。」
みんな拍手。
松本「だってツアーになるとね、MADEに会って、安定感のあるMADEのチームプレーが見れますし」
安定感!!だってさ!!!ありがとうございます!!!
そして尊敬する先輩の話へ。
松本「昨日ね、Jr.のみんなとご飯食べに行ったの。俺はニノとリーダーと近かったんだけど、ずーっとこっち側でJr.子に好きな、尊敬する先輩は誰みたいな話をしてて。まぁいろんな話を聞いて。じゃあ聞いてみよう!」
二宮「これは素直にね?」
櫻井「嵐じゃなくてもいいんだよ。あ、お父さんとかは無しね」
松本「なぜ?」
櫻井「お会いする機会あった?」
冨岡「先月、いやもう先々月ですね。10月ABC座っていう舞台をやらせていただきまして、そのとき演出が錦織一清さんで。あと僕らMADEとして2008年のPLAYZONEファイナルにつかせていただいたご縁もありまして、そのときからですね、実は」
秋山「僕はやっぱりこの事務所に入ったきっかけになった嵐さんが本当に大好きです」
客席拍手。
秋山「あとは今でもすごくお世話になっているNEWSさんだったり」
松本「まぁまぁでもさ、NEWSも4人いるし、嵐も5人いるわけじゃん?」
二宮「強いてでしょ?あえて」
松本「強いて、みんななんだけど、一人しか選べないとしたら?」(怖い)
秋山「僕はファーストコンサートのときに相葉くんのうちわを持っていたので相葉くんです。」
二宮「へー、相葉くんのドラマ・映画・歌・踊りではなく、うちわを持っていたから」
福士「僕はその、嵐さんに思い入れがすごいありまして、初めての嵐さんドームコンサートに初めて出させてもらったんです、10年くらい前なんですけど、自分が入ってすぐの年だった」
松本「ジャニーズJr.としてコンサートに出た初めてのものが嵐だったと」(ちょっと申樹のしゃべり方がやばくて伝わりづらく、言い直してもらってましたw)
福士「はい、嵐さんの東京、あ、京セラドームだったんですけど、それがすごい印象に残って、かぶってしまうんですけど、嵐のみなさん、が、ずっと変わらず尊敬しています」(句読点の位置やばい)
嵐がかぶってる?に反応。まだかぶってないよ!とやいのやいの。
福士「二宮くんです。尊敬する理由としてはですね、去年の打ち上げのときにも二宮くんってことに・・・」
相葉「ってことに」
二宮「おいアイツなんだよ」
福士「やっぱり天才だなって思ってて、なんでも器用にこなすところがすごい、自分にはないところなので、すごい尊敬しています。これからもよろしくお願いします」
じゃあ最後は。
大野「お前早いな、もうちょっと溜めろよ。な?全然見えてない、俺をスルーしていっただろ。(やいのやいの)もういいよ。」ひとしきり突っ込んで満足げな大野さん。
稲葉「僕たちMADEとして、T.A.B.O.Oのときから翔くんのソロにつかせていただいてるんです。それで翔くんソロのリハのとき、いっつもお弁当差し入れしてくれるんです」
櫻井「俺が物で釣ったみてーになる!!」
櫻井「あのー、俺がソロのときいつも大変なことお願いして時間かかるから、夜メシ食う時間ないから、俺が入る前弁当発注してその間に食べといてって言って、でソロのリハーサルはじめるの。だからそれで、みたいな空気になっちゃってるから・・・じゃあいいよ、また買うよ。」
MADE「ありがとうございまーっす!!!!!」何度も頭ペコペコ。
松本「えー、ということで。今回ツアー最後までついてもらってます。MADEのみなさんどうぞ覚えて帰ってください」
MADE「ありがとうございましたー!よろしくお願いしますー!!」
こんな感じでした。ほんとニュアンス。
今年はMADEがマイク持ってしゃべる機会が例年よりたくさんあって、嬉しいですね。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
言いたいことは何となく分かるぞ。要は作られたアニメの作風に、ある種の一貫性があるってことだろ。とりあえずテキトーに検索して調べた範囲のことを咀嚼したのでお答えしよう。
基本的に現在の日本のアニメの多くは、出来を語る際にスタジオ体系で語ることに、さして意味はない状態だ。アニメを構成する様々なものは、フリーランスの人たちを一時的に雇ったり依頼したり、他の所から外注しているのが主で、制作に関わる人たちはガラリと変わりやすい。
独自の作風で知られているシャフトも、近年の代表作品の背景美術は「竜美堂」という美術・背景専門スタジオと手を組んで制作していることが多い。竜美堂が潰れてもシャフトはなくならないが、“シャフトっぽさ”はかなり減るか、ぎこちないものになるかもしれないな。
だが、京アニは体系がちょっと特別なためスタジオ規模で語られやすい。他のスタジオが外注でやっている多くの工程を、自社のスタッフでほとんどやっているからだ。元請制作でほぼ出来ているので、作風にも一貫性が色濃く出やすいのだろう。
例えば特定の人にやって欲しいとき、その人がフリーランスだと他にも仕事があったり逐一の連携もとりにくい。スケジュールの遅れが余儀なくされたり、方針の変更を強いられるといった状況になることもある。そのダメージをもろに受けやすいのは特に作画方面だろう。
だが、スタッフの確保が自社内で十分に可能ならばスケジュール管理が楽であるということで、作画の安定にも繋がる。1話を放送する前から、スケジュール調整の賜物か全話のほとんどは出来ているケースもあるらしく、手直しする余裕もあることでより完成度は一定を保っている点も、スタイルの一貫性に一役かっているのだろう。
また、例えば担当の美術スタッフなどが表現に苦戦していたとき、社内の別の美術スタッフに相談するなんて連携もしやすいだろうから、より作風は統一感が生まれやすい。
あと、京アニはアニメーターのための学校もあり人材育成もしているので、このあたりも関係しているだろう。「境界の彼方」の作画とかは卒業生が多く参加しているらしく、その成果が出ているようだ。
ここ数年だと、原作すら自社出版なんてケースもある。元請けの作品がなくて上から企画を貰えないせいで、何も始まらない(アニメを作れない)ということは往々にしてあるので、それを自社で賄うってのは何気に重要だ。そうしてコンスタントに提供できるというのは、京アニのスタイルなどのイメージを受け手に根強くする要因にもなる。
あと、給料が歩合制ではなくて固定給らしい。これは、どんなに頑張って早く仕上げても給料が同じということで一概にいいことではないが、逆に考えれば時間をかけて一枚ずつ描いてもよいということで、これも間接的にクオリティの安定に繋がっているかもしれない。
つまり質問の答えは、京アニは制作においてスタジオ内での“自己完結度”が非常に高いので、そのスタイルが作品にも色濃く出やすいということだ。もちろん100%自己完結というわけではないが、ほとんどの制作は社内のスタッフでやり、人材育成もやっているので一貫性が生まれやすく、京アニのアニメは多くが「京アニっぽく」なるんだな。
もちろんそんなことが出来るのは、とどのつまりはお金と時間をかけたからなのだが、まあそれをコンスタントに可能にすることが並大抵のことではないのは、私みたいな素人でも分かることだ。
今回はガンガンオンライン
いきなり仲の良い女子アピールの打算から始まって、その打算があくまで異性を意識していること前提なのが、生きている世界線が違いすぎるなあ、と。
そんな打算的な部分を正直に吐露している時のほうが好きだという同級生に対し、そんな自分が大嫌いと屈託なく言ってのける、この一連のやり取りを四コマでさらっとやっているのが驚きだ。
気に入ったシーンは、男子3人組がニヤニヤしながら女子に絡んで、女子は何も言っていないのに勝手に自己完結して退散していくところ。
話題の相手を置いてけぼりにして、無駄にハシャいでる感じが微笑ましいと共に、青臭さ全開で妙に生々しかった。
25話はカモメの回想。
この漫画全体の作風にいえることだけれども、恋愛絡みになると途端に面倒くさい観念的なものを出すよね。
恐らく愛情以外の様々な「情」を絡みつかせて、それに対して明確な是非を作中で提示しないから、ヤキモキするんだろうなあ。
そういう情や弱さに対して、作中で肯定はしないけれども否定もしなくて、やや前向きに描写しているようにすら見えるから、鼻につくって側面はあるかもしれない(こういう人格の複雑さからくる人間ドラマの面倒くささって、私としては大好物だけれども)。
それが過剰だったり微妙にズれていることでコメディになりつつも、功を奏するっていう展開がいい。
最近気づいたんだけれども、蟻馬のポジティブぶりに比例するかのように、周りの毒気が強くなっている気がするんだが。
それにしても、相手の本音を引き出すためにとる方法が、吉本新喜劇でよくある芝居展開っていうね。
そういう点で、蟻馬はポジティブではあっても純粋な人間ではないのか。
雨で濡れているせいなのか、妙な勘繰りをしたくなる構図が中盤に多かったね。
いつも百合っぽいなあと思っていたが、冷静に考えてみたら別に百合でもないんだよね。
死が確実に自分に近づいてくるのを見るのは、とても不思議な気持ちだ。
今歩いている選ぶことの出来ない道は、選ぶことが「出来た」道であり、
選択を誤った過去の自分を、現在の自分がただひたすらに責めることしか出来ない。
とにかく色々な「ふるまい」の総体であり、
「きっとこうするべきだ」という数え切れないほどの選択を
意識の奥底の最低に住む知らないわたしが常に実行し続けている。
その知らないわたしの選択の無数の積み上げが自分なんだと思う。
選べるようで選べないし、引き返すことも出来ない。
振り向いた時にはいつも手遅れで、随分大切なものを失ってきた。
そして、上で言ったような考えに行き着くたび、自分ばかりを責めてきた。
それは、わたしが自分のプライドから、人に相談することが出来ずに
その方が楽だった。
そういうわたしを見て、周囲の人たちからは「能力が高い」「自己完結してる」「ちょっと冷たい」とか
わたしを少し遠ざけるようなことを言われることもあった。
彼らのそうした態度はわたしをますます孤立させ、気が付くと自分を責めることでしか前に進めなくなっていた。
誰とも深い関わりを持たず、関わりを避け、関わりを疎ましく思っている自分は
いくつになっても大人になることが出来なかった。
『手遅れになる前に、もう少し出来たことがあったよね』
その度に、わたしの中の知らないわたしに責められることにも疲れてしまった。
もしわたしが望むような道を進み続けたいと思うならば、
自分はテレビも見るしネットも見る、本もよく読むし、ゲームもする。落語や演劇や野球を見に行ったりする。一人でいくらでも暇を潰せるタイプの人間だったのだけど、それが最近辛くなってきたというか、素直に楽しめなくなってきた。
消費してるだけではないかと。何を食べても、いくらかは細胞になってあとはうんことして排出されるだけと思うと味などどうでもよくなってしまう。
全て自己完結だし、インプットは多いが、それが自分を豊かにする栄養になってるかどうかもよくわからない。アウトプットすればいいのかとも思うが、面倒だ。絵が描けるわけでもないし、文章が書けるわけでもない。話す相手もいない。
人生楽しんでる人はどうやってこの虚無と向き合ってるんだろうか
1話 … 75点:導入だしこんなもんか。曜ちゃんがいい子。
2話 … 70点:あんまり盛り上がらないけどまあ無印1期も2話までは準備期間だったし…。
3話 … 60点:時間間違えたはない。ダイヤと千歌の問答はまあまあだが、無印が神回だっただけに落差が大きい。
4話 … 85点:花丸と本の世界をうまく絡めた。ただ大きい流れは無印と一緒なので新鮮味はない。
5話 … 75点:ノリノリで中二→でも実は発作なので常識人になりたい→でも実はアイデンティティだし堕天使が好き、と無駄にひねって分かりにくくなった感。
6話 … 55点:面白いところが何一つない。せっかくのPVもランタンしか印象に残らないテイタラァク。
7話 … 75点:繋ぎ回だが犬ネタがない、梨子がまともなだけで評価が上がる。
8話 … 90点:曜の「やめる?」の使い方、千歌の細やかな心情描写と終盤の台詞が素晴らしい。
9話 … 75点:果南の独善的なお節介にしか見えないのがきつい。ダイヤ言うところの鞠莉の立場とやらにもう少し描写があれば。
10話 … 70点:ギャグがあんまり面白くないが、曜ちゃんの負けレズネタで盛り上がる。
11話 … 100点:神回。百合でなく普通に友情とみてもいい話。千歌が曜の想いを理解してないという批判もあるが、そこまでやると完全にレズアニメだからこれくらいでいい。
12話 … 70点:μ'sの後追いをやめること自体は歓迎するが、そこに至るのが千歌のよく分からない自己完結なのがちょっと…。
13話 … 70点:モブ不参加の下りと寸劇が長すぎるのはアレだがそれ以外は無難な最終回かなーと思ったらめっちゃ叩かれてて驚いた。
平均 75点
2期は85点。映画は90点。
俺自身は、はっきり言って物心ついた頃から「頭のいいキャラ」だったので、このとんでもない現実になかなか気づけなかった。
しかし今、Twitterのしょせん高卒漫画家が何故か「こんなに真実を知ってる俺。それが分からない馬鹿ども」みたいな振る舞いをしていることに違和感をもって初めて気づいた。
ネットが、ひいてはそんなネットに影響される日本の現代社会がこんなに頭が悪くなったのは、馬鹿が頭が良いふりをしているからなのだ。
もっと正確に言えば、馬鹿が「ネットの振る舞い」として学習してしまった「マナー」が、本来は「本当にリアルでも頭良いキャラ」の奴だけが取っていい行動の猿真似という形に行き着いているということなのだ。
良いか? 俺みたいに、学校の成績も良かった、本を読んで雑学もあった、ガキの頃からこまっしゃくれたディベート小僧として大人に嫌われてきたくらいの奴が、ネットでも同じように知識をひけらかし議論を吹っかけて、俺頭良いんだぞアピールをしまくるのは当然の事だ。
だけどお前は、別に学校の成績も良くなければ、本も読まず雑学クイズなんか全然解けなければ、小難しい哲学の問題なんか考えてると頭が痛くなってすぐゲームでも始めちまうような馬鹿だったはずだ。
いつからお前は「お利口キャラ」として振る舞える立場なんだと錯覚するようになった?
学校教育レベルの歴史年表も一通り抑えてない、ニュースで政治家の名前や外国の地名が出ても殆ど知らない、ソクラテスを読んで「これこそ知だ」なんて中二レベルの初歩的な知的好奇心を刺激された経験すらない、完璧な非インテリ層だろ?
それが悪いわけじゃあない。漫画家やらなんて一芸で生きてるのはそれはそれで偉い事だ。頭が良くても出来る事じゃあない。
でも、馬鹿には変わりないんだ。
なんで、「俺は馬鹿だけど漫画を書く才能があったんだぜ」って身の丈にあったプライドで満足しなかった?
なんで、「俺は馬鹿だけどスポーツの才能があったんだぜ」って昔は誰もが留まれていたはずの領域で留まりきれなかった?
「馬鹿だけどオシャレだぜ、喧嘩が強いぜ、音楽の才能があるぜ、」それで良いじゃないか。
何故ネットに繋がると、TwitterやSNSや掲示板、匿名ダイアリーに投稿し出すと、みんなまるで 俺 み た い な 、元から頭が良くてそれを証明する事実にも事欠かなくて、傲り高ぶってますみたいなキャラになろうとするんだ?
無理なのに…
俺は元々「頭が良いキャラ」なので、気づいてなかったんだ。
単にみんな、俺みたいに頭が良いキャラとして驕ってるだけの同志だと思ってたんだ。
でもよく見たら、お前ら完全に教育ドロップアウト組じゃねーかみたいな奴が今や何故かいっぱい俺みたいな奴の真似をしている。
どう考えても、ガキの頃からリアルで「俺って頭良いなあ〜」なんて自己陶酔に浸れる経験ばっかだった俺とは違う人生を送って来た奴がいっぱいいる。
いつからこうなった。
いつからお前ら、そんな身の程を完全に勘違いした行動をとるようになったんだ…。
これは実のところ、「高卒のくせに」くらいの、完全に身の程知らずなレベルだけの問題ではない。
昔なら「世間知らずで一般の本とか読まないけど、この分野の知識だけは人生賭けるレベルに究めてるぜ」って自己完結で満足してた理系の研究者なんかが、何故かこれっぽちも知りもしない法律の話題にいっちょ噛みなんかして、酷いでたらめを平気で吹聴したりしている。
そもそも日本人は、「欧米みたいに合理合理言ってない」のが緩くて自慢の民族じゃあなかったのか?
いつから「世界は全て間違っている。日本だけが真理を知り宇宙の真実を見つめている本当に合理的な立場を取れる国なのだ」なんて勘違いで世界に喧嘩を売るほど頭が良い事になった?
長い間「合理的にものを考えるのが苦手」「幅広い知識に欠けている」と当たり前に、ありのままに認識されていた連中が、何故いきなり挙って「実は俺は完璧だった。物知りだし合理的だった」なんて言い出すようになっているのか?
一つは、結局ネットが「言論」の世界になったことで、誰も彼も「言論の徒」として能力を競わなければならなくなったということがあるだろう。
それ自体は悪い事ではない。民主主義の基本にあるのは、民衆がきちんと議論を通して意思決定できるということへの信頼だ。
誰も彼もが「言論」に参加せざるを得なくなったことについては、歓迎すべき面もある。
しかしながら、この国はやはり、「合理主義じゃない、緩い民族」の国だったのだ。
誰も彼もが言論に参加しようと思っても、それを支える教育的基礎がなかった。
きちんと事実を引用した主張をするという文献取り扱いの基礎や、混ぜっ返しや詭弁は許されないという弁論的な基礎は一般国民にまったく叩き込まれていなかった。
結果、誰も彼もが、とりあえず「頭が良い奴みたいに傲慢に振る舞う」という上っ面の真似だけをして、言論と呼ぶことも憚られるような子供の屁理屈をがなり立てる社会が、本当に気づかぬうちに一瞬で、出来上がってしまったのだった。
なんということだろう。
今からでも遅くない。考え直せ。思い出せ。
お前は、もともと、頭が良かったか?
それで改めて思ったのは、宗教というのは、本当に当初の原型なんかねえなということである。
キリスト教にしても、イエス自身はせいぜいユダヤ教の改革派ぐらいの立ち位置だったのが、
パウロが世界宗教への道を開いた結果、今のようになったらしい。
自分は、特に宗教心もないが、たぶん統計の上では大乗仏教の信者ということになっている、
どこにでもいる平均的な日本人だ。
上座部仏教については、「あ、東南アジアあたりでメジャーなやつでしょ」ぐらいの印象しかない。
しかし、どちらが当初の精神を引き継いでいるか考えてみると、もう明らかにあっちだと思う。
確かに、ブッダは王族で、当時としては恵まれていたし、妻も子もいたらしいが、
あんな思い悩んでばかりいたんでは、俗世で生きてて幸せなわけがない。どちらかと言えば我々サイドだ。
きっと、人付き合いも何もかもが煩わしいと感じるタイプだ。
どうやら、宗教というのは、仮に個人の救いという小さな問題から始まったものだとしても、
どこかの段階で「勢力拡大」というものが、教えのうちに組み込まれるものらしい。
誤解を恐れず言うならば、それはリア充に乗っ取られるということである。
他者を救わねば自らの救いもない、とか細かい理屈はあるが、要は群れたがる人間が主流派となり、
そうでない人間はそこから追いやられたと考えるのが自然だろう。
おそらくキリスト教もまた、リア充のパウロに乗っ取られてしまった結果が今なのだ。
イスラームはちょっと別だ。あれは最初からリア充サイドだったとしか思えない。
ムハンマドは商人・軍人としても有能だったらしいし、自らジハードなんて言っちゃってる。
そしてなにより、幼妻である。リア充でなくてなんだというのか。
自分は社会性がないので、リア充のいるところでは幸せに暮らせないと思っている。
そもそも、他人との交流が苦痛だ。人に好感を持ってもらえるような容姿もなく、話せば人を不愉快にする。
だから、自分を救うものがあるとすれば、それは趣味以外にないと思っていた。
確かに、その辺を歩いている人の真似をするよりは、二次元にはまっていた方が気が紛れた。
しかし、その趣味もまた、自己完結する世界ではなかったのである。
だが、この世界にもリア充が侵入し、そして幅を利かせている今、自分は肩身の狭さを感じつつある。
ライブに通い、SNSで他者と絡む。そういう人間が、やがてここでも正統派となり、
どうやら、宗教も二次元も、もちろんインターネットも、安住の地にはなりそうもない。
自分はどこに行けばいいのだろう。
世の中には、気持ちよく反論をする、あるいはよどみなく自説を述べることで自分をより論理的(な風)に見せるという目的のために、批判対象の議論を勝手に矮小化し単純化する輩がいる。
「冷房はつけっぱが良い」という話は、ただ「つけっぱの方が電気代が安くなった」という話だけでなく(諸条件によってはこれもありうるが)、「変に我慢して暑さが頂点に達するまで待っても、暑くなったところから一気に冷やすためには涼しい時間帯からゆるゆるとつけとくのと『同じくらい』電気を使う」(我慢するだけ損/不健康)とか「さらにその場合最高出力を全世帯で同時刻にかけることになり『ピーク電力』が上がる」とかのデメリットも勘案しての話であり、詳細は自分の状況に応じて考えようという程度の「提案」である。
しかるにこれら議論を全て捨象して単純に「エアコンつけっぱで電気代が安くなるわけないだろ」などと言い捨てて得意げな奴らが大量に発生した。
似たような事象は数年前「朝バナナダイエット」に注目が集まった時にも見られた。
これは本来「カロリーコントロールをすべきだ/したい」という目的意識と意欲があるものの、「では具体的にどこから手を付けよう」というところがわからない、もしくはそこを研究している時間がないという「意識は高いが忙しい層」に向けて、朝食をバナナに置き換えると「総カロリーの抑制」「朝食は抜かず、一日の活動に支障がない」さらに「食物繊維も取れてなお良し」ですよという考え方のヒントを与えたものに過ぎない。
「バナナを食べれば食べるだけ痩せる」なんて話はどこの誰もしていないのに、勝手にそのようなものの様に決めつけて「反論」し、気持ちよくなっている猿が雨後の筍のように現れたものである。
節電やカロリーコントロールといった生活の知恵に限らず、大抵の知識やテクニックとはこういうものである。
絵描きに「どうすれば絵がうまくなりますか」と質問すると、「デッサンをすると良い」とか「模写をする方が早い」とかいろんな答が返って来る。
結局は人の数だけやり方はあるという事だが、一点だけ誰が何を挙げている場合にも共通する前提がある。「それら練習を通して、自分の絵を客観的に反省し、描きたいもののイメージを鮮明に思い浮かべられるようにしろ」ということである。それをいちいち言葉にしないのは、それこそが「絵を描く」ということに他ならないからである。「絵を描く」ことをしたいと望む人間が、その時点での自分の技術的問題点を認識し「こういうところをもっとうまく描きたい」という問題意識を持って『いない』とか、「構想段階でもっと良いアイデアがポンポン出て来ると良いのに」という野心を持って『いない』とかいう事は、そもそも想定する必要すら意識に上らないからである。
にも拘らずこの場合もまた、現れるのである。その程度の常識的な問題意識も持たず、「デッサンをやってもうまくなんてならないぞ!詐欺だ!」なんてことを言い出す連中が…
おおよそ全てのアドバイスやティップスと呼ばれるものは、「問題意識」が相手にある事を前提に、その「問題意識」に取り組むとっかかりのヒントを与えるだけのものであって、問題意識の有無に係らず万人に適用可能な、ただああしろこうしろという指示のままにエスカレーターに乗っていれば勝手に問題が解決されていてくれるような、甘ったれにありがたい『完全な答』を教えてくれるような神様仏様はこの世に存在しないのである。
しかるにその程度のことも、人生十数年か何十年か生きてるのか知らないが、理解できないくそったれの甘ったれが世には溢れている。
あまつさえ、そうやって自分に問題意識がないだけのことを逆に笠に着て、問題意識のない自分にもすぐにご利益を与えてくれるドラえもんとはなれないアドバイザーをかように「論破」してみせたり無能呼ばわりしたりする。
自分では「頭の良い俺が不完全な証明を喝破してやった」なんて悦に入っているが、何の事はないただ自分の中に問題意識が足りなかったために相手が役に立つ話をしているのが何も理解できなかっただけである。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ」とはよく言ったものだ。
実際は、動かないどころか、そんな自分を正当化し、あまつさえ相手より有能な人間かなにかの様に錯覚し出す。そうして誰にも「論破」されない全能感を、何も『しない』ことで肥大化させ続けるというアクロバティックを通り越してもはや永久機関的ですらある自己完結に至るのが真に無能な輩の生態なのである。
考える脳味噌のない連中ほど、自分の頭が良いものか何かのように思い込み、考える脳味噌がないゆえにその状態の矛盾にも気づかずますます確信を深めていく。
自分から動き、問題意識を蓄え、種々の知識がその問題意識を解決しうるものかという観点のみをもって議論し評価する、ということが出来ないのはただの前提条件に達してすらいない無能中の無能なのである、ということを、この永久機関の中に引きこもった連中が理解する日は来るのだろうか。