はてなキーワード: 自己完結とは
その後
つまり、つい最近なのだが、また別れたというか付き合ってたのかすら曖昧なところである。
自己完結型先行ブロック女であった彼女は今まで通りの行動を繰り返し。
何かきっかけがあれば変わるなんて、淡い期待を持っていた自分がバカであった。
1ヶ月も経った頃に、警察の件の話を聞いたことがある。それに付いて彼女は「あれはお前が悪かった、私は怖かったから呼んだ」ということを言っていた。
ここまでくると、もはやプライドが高いなんてものではなく、病気だ。いや知ってた。
今では彼女は、ナンパしてきた男に付いて行ったり、やんちゃを繰り返しているようだ。
ある人は僕に言った。「優しいだけでは恋愛はできない。然るべき時に、ちゃんと怒れない奴はダメ」だと。
彼女を僕がこうしてしまったのかと考えると、少し罪悪感と嫌悪感が生まれる。
確かに、この女は本当にヤバい奴で、大の大人が揃いに揃って「サゲマン」という言葉を投げかけるような奴だ。
でも、本当にヤバい奴はここにいるのかもしれない。
https://twitter.com/tamako_han/status/912213814342434818
https://twitter.com/tamako_han/status/912217808842264576
人間だから、というよりは「動物だから」と言ったほうが納得感がある。常に発情期だからね。
ただ、頭ではわかるけど、残念ながら非モテには「感覚として」良くわからないと思う。いや、男女双方に対して普通に「セックスしたい衝動」をガマンできないのかよ?サルかよ。って感想は浮かんでしまうんですよね、どうしても。その感覚を共感できるだけの人生経験を持ち合わせていないからね、残念ながら。常に自己完結で処理してきた衝動だからね。
「二次性徴以降、恋人が居なかったことがない」みたいな人とは分かり合えなさそう。
でも頭ではわかるよ。
食べちゃダメなのに食べるとか、寝ちゃダメなのに寝ちゃうとか、お酒で薬を飲むのは良くないんだけど飲んじゃうとか、今日は休肝日だけど飲みたいからやっぱ飲むとか、疲れてるし風ひいて熱があるけど仕事しなくちゃならないみたいな、やっちゃいけないけど立ちションしちゃうとか、たぶんそういう感覚や事情なのでしょう。だから主張は肯定する。
モテ側の人も、非モテ側の人も、この辺の「感覚的な分かり合えなさ」を理由に「これだからキモオタは」「非モテは黙ってろ」「リア充はサルかよ」といったような「モテ・非モテ差別戦争」に持ち込んでしまうのも悪手だと思うんですよね。恋愛が市場化した以上は売れない人が必ずいるわけで。
それにこの方、日本のフェミニズムがレイシズムを隠しもしないことに絶望してフェミニストを名乗るのを辞めた人らしいので、オタクや非モテをも丁寧に扱わないと整合が取れないと思うんですよね。もし仮にそれをやり始めたら、オタク・非モテに対するレイシズムである日本のフェミニストらと同じ穴のムジナですからね。
追記:
https://anond.hatelabo.jp/20170925181848
自分はガチャ的な遊びをしないわけではないけど、おこづかい(お給料)の範囲でしかやらないし、そもそも貯金ゼロ状態とか不安すぎて無理。ありえない。貯金してない人が信じられない。
私に石は当たらないな。
ここで言われてる「依存」って、「亭主関白な夫」と「専業主婦の妻」みたいな関係のこと?バブルが弾けてから、そういう結婚の形態は上手くいかないって結論出たと思ってたけど……
今週、家の近くの店で一杯やってほろ酔いで歩いて帰っていたところ、大きな看板が目に飛び込んできた。
近くで買ったコーヒーを飲みながら歩いていた私は、向かいの公園に座りながら、
桃太郎伝説のことを思い出していた。正確には、新桃太郎伝説(SFC/ハドソン/1993年)だ。
その名の通り、桃太郎が主人公のゲームだが、AUのCMの先駆け、金太郎や浦島太郎が出てくる。
当時の私は、その世界観に惚れて、ドラクエ以上にハマっていたし、天外魔境ではなく桃太郎伝説をやり込んでいた。
そして、こう思ったのだ。
「最近のゲームって、日本の歴史や文化に触れるソフトってないよな」
ある。
少し冷静になってググったらモンストにも、妖怪ウォッチにもいる。
そしてよくよく考えると、毘沙門天が何者か全然知らないし、桃太郎伝説に出てくるあしゅらもよくわかってないし、
敵キャラでわりと記憶があるのって、獄卒と酒呑童子ぐらい。そして、覚えているのは苦労したことぐらい。
この思い込み力(コミ力/こみりょくと言いたいぐらい)がむくむくと育っていることに背筋が凍る。
最初のネットの反応を受けて著名人も色々とコメントしてるようだが賛否両論である。
色々な意見があるのはまあいいとして、意味不明といった意見が目立つのはCMとしては失格だ。多くの人に意図が伝わるように作るのは大原則なので、それができていないのはストーリーテリングに失敗してるからだ。そこにこのCMの大きな問題がある。
でももっと大きな問題は、そもそものターゲット設定や企画意図そのものがずれてるんじゃね?ってことである
さ、洗い流そ。
というのがこのストーリーのタグラインであり、体だけじゃなくて心も綺麗サッパリ洗い流そうというのがコンセプトだ。
で、小さい子供がいる家族を狙って作ったのがこのCMなんだろうがだったらターゲットは母親だろう。父親は石鹸なんて買わないし銘柄もこだわりはないはずだ。
そこで母親を主役にして作り直すとどうなるかということなんだけど、これがわりとすんなり行くのである。
多くの人が無意識に感じてる違和感を分析すると、このCMで罪を犯しているのは父であり、そっち側が洗い流すんかいってことだとおもう。
払い流したいのは母親なんである。父親の一連の行動があった上で夫婦言い合いになるまではいい。そこで母親が言いすぎてしまって、そのあとで母親が風呂に入ってちょっと言いすぎてしまったな、お父さんのこと許してあげようと思い直す。そして翌朝に「昨日は言いすぎてごめんね」と仲直りするストーリーだったら多くの人はここまで違和感を感じなかったんではなかろうか。
おそらくこれを作ったプランナーは自己愛が強いというか自己完結型の性格なんだろう。他者のことを思いやれる人ほど、このCMに違和感を感じ、自己中心的な人はこれの何がおかしいの?となっている、そんな構図なのかなと思った次第である。
誰が得をするのか?
産む前によく考えなおしてほしい。
宗教上の事情で堕胎できないのなら、そんなカルト教団やめちまえ。堕胎もまた人権の一つだ。
胎児に多少の痛みは伴うかもしれない、だが、下手に延命されて生殺しにされるくらいなら、いっそ一思いにやってもらったほうが胎児も本望だろう
そして、もしもう生んでしまったのなら、保護者として責任をもって介錯しろ。この場合の介錯は、付き添って世話をすることでも、死を助けるという意味でもある。
さて、話を戻そう。
知的障害児やダウン症児は自治体から補助金を受けることができる。もらえる金額は障害のレベルに応じて違うらしいが、軽度でも月に約3万円ほど受け取れるそうだ。
ではその金はどこから出るのか?造幣局が刷るのか?それとも神が渡してくれるのか?
そんなわけがない。その金は労働者たちが汗水たらして働いて収めた金だ。
私も納税者の一人だが、馬鹿な親が勝手に生んだ障害児なんかに金を納めなければならないなんて不本意なことだ
第一、知的障害者であるとわかった上で産んだのならば、その責任は生んだ親に責任があるはずだ。
好きで援助するのならわかるが、それを何故我々が税金という形で強制的に援助しなければならないのか。
子供手当はわかる。子供たちの未来は我々の未来でもあるから、我々の未来への投資と解釈している。
だが、知的障碍児とダウン症児の平均寿命は健常者よりも短く、更に、とてもじゃないが我々や日本社会に貢献してくれそうにない。むしろお荷物になる可能性のほうが高いだろう
一概にとは言えないが、彼らの多くは、健常者と同じように生活することはできない。
彼らの自立率も結婚率も、健常者たちと比べると著しく低い。
そのことに、彼らは大きな劣等感を感じ、コンプレックスを持つだろう。
いくら親が幸せにしてあげようとしても、その劣等感だけは拭い切れないはずだ。
障害児を生みたがる奴は独りよがりだ。少しでも障害児の心情を考えたことがあるのかと問いかけたいほどに。
「これは神様の試練なんだ」とか、「この子は天使なんだ」とか、そんなのはお前の脳内の考えでしかない。
彼らの多くは自立できない。もし親が死んだら彼らはどうなるか?もし大量の遺産があるならいいが、そんなわけじゃない普通の貧乏人が障害児を生もうとするな
もし生みたいのならば、彼らを一生養っていく覚悟で生め。
それと、もしこの記事に対して何か言いたいことがあるなら、「あなたはなにもわかっていませんね。」とか、「お前こそ池沼だろ」みたいな、自己完結でため息以下の価値すらないコメントではなく、「いやこれはこうこうであれがこうだから~」みたいな、具体的な指摘と情報源をもって頼む
結論から言うと、「あれ?この子少しおかしいな?」と少しでも感じた時点で別れるべきだと思う。 後に残るのは、彼女の構って欲しい時だけ話を聞く人形と化した自分だけだ。
今メンヘラちゃん付き合っていて、少しでも異変に気づけて、これで付き合っていけんのかなと感じるのなら、すぐに離れることをオススメします。時間が勿体無いですし、何よりあなたの価値が下がります。
・スペック
携帯で書いたため、おかしくなってるところがあるかも。また、文才ないですが許して。
また、「彼女が重度の境界性人格障害だった」というタイトルでブログを書かれている人がいます。かなり参考になります。ぜひメンヘラで悩んでいる方は見てください。
付き合ってる以上、解決策はないのですけども!!
1.馴れ初め
馴れ初めはスマホのチャットアプリ。当時自分は、そこにいる女の子に対して適当なことを言って遊ぶクソみたいな生活をしていた。そんな中で見つけたのがその子である。自分のおふざけにも全部反応してくれる、こんなにいい「おもちゃ」はいないと当時は思っていたね。
そんなこんなで会う気もなかったけど会うことに。するとかなり驚いた。今まで写真より可愛い顔をした女の子に出会ったことがなかったからだ。それに、かなり自分の好きな顔である。
そして、ワンナイトラブからのお付き合いということになった。これが五月のお話。
2.交際
交際してすぐ、その子に彼氏がいることを知る。というか、それまで知らなかった。成り行きで告白されてとりあえず付き合った相手だということを彼女は自分に話してくれた。毎日くるらしいメールに対して、「なんやこいつ、女々しい奴だな」なんて思っていたが、まさか今自分が逆の立場になるとは思ってもいなかった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、彼女はこの男と別れたかったらしく、なぜか俺が仲介して別れてもらうことにはなったが…。
後にわかったことだが、この男とはちょくちょく連絡を取り合っていたようだけど割愛。
5月に付き合い始めて1ヶ月の間に三度ほど別れた。その別れた原因は様々だが、覚えている限りでは
・私のことを女と思ってくれてない
・やっぱり私はあなたにふさわしくない
などがあげられる。
別れては付き合い、を繰り返し数ヶ月の月日が流れた。
3.事案 その1
付き合って2ヶ月ほど、大きな事案が発生する。それは、彼女の「妊娠したかもしれない」という言葉から始まった。
もちろん予防してなかった訳ではない。ただ予防していても毎回相手に取られて、それでも続けていた自分が悪いのは明白ではある。
生理についての知識が皆無だった俺はその時に、生理についてアホみたいに調べた。
結果、妊娠してるかどうかも分からず、検査薬を使ってもらうよう促した。
しかし、彼女の答えはノーだ。「私は絶対こんなの使わない」の一点張り。
らちがあかないと考えた自分は以前聞いていた相手の親の番号に連絡する。
その様子を見た彼女は、鬼のような形相で「そんなことしたら家に帰れない、あんたのせいでこうなったんだからね!!」と怒っていたのを覚えている。
結果的には、彼女は検査薬を受け取らず、歩いて家に帰ったようで、6時くらいに着いたようである。
ちなみに自分はかなり迎えに行きたかったが、親に止められ行くことはできなかった。
4. 事案その2
10月くらいだと思う。上記と同じようなことがあったが割愛させていただく。
5. 事案その3
チョコレートを作る材料費用がなかったらしい彼女は、自分に貸してくれるよう頼んできた。もちろん仲良く付き合ってたと思っていた俺はお金を貸したが、そのお金は返ってくることはなかった。
当日には連絡は一切なし。アホみたいに心配して、もしかして死んだのか?と思っていた次の日、「好きな人ができたから別れたい」と連絡が来たと同時にブロックもされていた。最高にロックだと思った。目から汗が出まくってた。
ちなみにその後、朝の6時ごろに電話がかかり、明らかにラブホのテレビ音が聞こえる中、「今から遊ばない?」と彼女から連絡があった。傷心して頭がおかしくなった俺はもちろん向かったね。そして何故かまた復縁した。今思うと俺も意味がわからない。
6. 事案その4
電車の中で怒らせてしまい、降りる駅になっても起こしてもらえず、何故か真夜中に真っ暗なトンネルを歩くことになった。トラウマものである。お金も落とし、喉も乾き死を感じたため、ここで初めて警察のお世話になることになる。本当に申し訳ない。
7. ビックイベント
タイトルにもかいてある通りの事件が起きる。経緯としては、俺が相手側の家の中で彼女を怒らせてしまい、「家の中に見知らぬ不審者がいる」と彼女が嘘の通報をしたのである。
現行犯逮捕待った無しであると考え俺は外へ逃げた。説明してなんとかなりそうにもないと考えたからだ。また、その日はバイトがあり、事情聴取なんてされた暁には確定的に間に合わないのは明らかである。
自分の家に帰り着いたと同時に謎の電話番号から大量の着信があった。そう、ポリスからである。留守電には「無視し続けるなら然るべき処置をとる」と今まで生きていた中でベスト3には入るであろう衝撃的な言葉が録音されていた。
相手の証言と自分の証言が全く違い、自分は紐づける決定的な証拠があったため難は逃れたが、もしあの時、証拠が何もなかったらと思うと怖いよね。
その警察署にお世話になったのが二回目ということが身を救ったのかもしれない。
この事件から連絡は来なくなった…といいたいが、実際はきた。それに喜んでる自分もいるからもうダメだと思う。
それも「はなせる?」「やっぱりいいや」とラインにて自己完結してまたブロックというような感じ。もちろん相手と連絡できるようなものは全部遮断したつもりだけど抜け道は幾らでもあるんだよね、その気になれば。早く忘れたいのに忘れられない。忘れかけた頃にあいつがまたやって来ると思うと、毎日が楽しく過ごせない。いつになったら元カノを忘れることができるのかなっていう話でした。
生来、大声が苦手で、幼少のころ、親に「そんな勢いで言われても頭に入らない、もっと優しく言って」「文章に書いて伝えて」などとお願いし、理解されなかったエピソードに始まり、今でも怒鳴り声に直面すると、文字通り固まって黙り込むという、コミュニケーションにおける最悪手を取る結果になってしまう。
これは男性の罵声であっても、女性のキンキン声であっても全く同じ。それどころか、「あ?何言ってんの?」程度の凄んだ声でも必要以上に緊張する始末である。
なんというか、何か返さないといけないと思っても、そういう風に言われた直後からしばらくの間、考えがまとまらないのである。
日常会話では、某大御所お笑い芸人の定番芸よろしく「あんだって?」みたいな聞き取り事故が結構起きる。
というか、コミュニケーションは「相手ごとに個別最適化された、些細なことの積み重ね」なのは、読者諸兄もよくご存じだと思う。
どういうわけか相手の言動を観察できず、どうしても一方通行気味の会話となってしまう。
それでも友達らしい付き合いはどうにか可能だが、彼女を作るとか、仕事でステークホルダーと際どい内容を話せるレベルの関係を作ることは、非常に困難ないし不可能である。
実際、自分の恋愛経験はアラフォーの今でも毛が生えた程度だし、仕事でもコミュニケーション面は完全に落第点である。
歩くときも座っているときもついつい考え事をし、それで誰かとすれ違う時は「お互いが同じ方向に動く」コントみたいなことがたまに起きる。
これって騒音のせい?
雑音をシャットアウトする手段で、古くからある定番の一つは耳栓だ。
最近はこの耳栓も大変便利になり、ノイズキャンセリングで不要な音だけ排除し、必要な音はクリアーに聞こえるという「デジタル耳栓」なるものまである。
昔ながらの耳栓は個人的にあのフィット感が嫌いで、かなり若いときに数回試してやめてしまったが、このデジタル耳栓はイヤホンもどきだし、そんな気にならなさそう。
その結果は、自身のQOLに、想像以上の途轍もない効果をもたらすこととなった。
最初は電車で使い始めて「あれ、こんなもんか」という感想だった。まあ車内放送は聞こえるし、別にいいけど。
などと思っているうち、よりによっていつも降りる駅近くになって眠り込んでしまった。
それでも、いつもは不思議と車内放送を聞き逃さず、すかさず起きて降車できるのだが…今回はそうならなかった。
実に20年ぶりくらいに車内放送を聞き逃し、乗り越しをやらかした。
大慌てでいつもの駅に駆け戻り、デジタル耳栓を外す間ももどかしく改札をくぐった。
そこから速足気味で歩き始めて数秒後、いつものペデが、なんだか違うのである。
えらい静かなせいなのか、自発的に周りを注意しないと…という意識が自動的に働いてしまった感じだろうか、とにかく人の動きがよく目に飛び込んでくるのだ。
それも、周りを注意せず歩いている人なんて一瞬で分かってしまうレベルで識別できる。
これなら例のすれ違いコントなど起きようがない。
そうなる前に、なんとなく人の動きが読めるのだ。
上述のように周囲に注意しつつも、それでも考え事がやむことはなかったのに、独り言だけがパッタリやんでしまった。
独り言をしなくても、考えたことがスッと頭に入っていく感じだろうか。
数年来の友人と電車内で会話したとき、とにかく相手の話に苦も無く追従できたせいだろうか、彼が今まで話した中で、最も楽しそうに喋っていた…ような気がする。
こちらも、その話しっぷりから「コイツの飾らない人柄、すげーイイ奴だ!」などと妙に感動してしまったり。
これってもしかして「ちょっとしたこと」ができていたということだろうか。
だとすれば、確かにこの「ちょっとしたこと」は他人に教えられない。
自分もコミュニケーションが苦手なので教えてほしいクチだったが、これは文字通りフラットな経験から体得するしかないんだなーと痛感した。
数年前に話題になった、某引っ越し業者の幹部がユニオンのスタッフを怒鳴る動画、最近取りざたされた某女性議員の「このハゲー!!!」で始まる動画、この2つをデジタル耳栓をつけた状態で試聴してみた。
確かに「あーコイツやべえ、すっげーなオイ」とは思ったが、さほどビビらなかった。
これなら「あっすみません●●は××にしておきます、あの、ご指摘ありがとうございます」くらいのアクションを咄嗟に返す余裕はありそう。
少なくとも、怒鳴り声で感じる威圧感は最小限だった。
別に変なクスリをキメたつもりはないのに、デジタル耳栓をしている時間が、極上に安らかなひと時になっている。
とにかく不安感が全然ない。不安になる事を考えていても、である。
「満更でもないな」という気持ちが非常に支配的で、安心感が凄まじい。
ともかく、「人間の感情も思考も、全て感覚によって形作られる」ことを認めざるを得なかった。
そして、「この世界は俺にとってうるさ過ぎる」とも。
というわけで、なるべく早く、というか可能な限り最優先で、聴覚過敏の専門医を受診しようと思う。
確かにデジタル耳栓は快適なのだが、これを今後ずっと使い続けていいのか、そもそもの自分の感覚異常の正体は…など、色々気になる。
世の中には一概には言えないことが多い。
いろいろなニュースを読み、一概には言えないと思いつつ他の人のコメントを見ると、「これはひどい」などのタグを使って断定的に語っている人などもいて、「この人は一概には言えないとは考えないのか」などとぼんやり思ったりする。何か自分もコメントを書こうとする。しかし一概には言えないと考えて書くのをやめる。その繰り返しだ。
一概には言えないのだから無責任な100文字コメントなどするべきではないと考える。ただし私のこうした態度についても一概に言えないところがあって、一概に言えないとはいっても態度を保留するのではなく何らかの立場から積極的にコメントしておくことも必要であるという考え方もあるだろう。しかしこれについてもやはり一概には言えず、一概には言えないということだけは私は言うことができるが、何らかの立場からのコメントは私にとってやはりどこまでいっても一概には言えないものでしかなく、私はその意見について100%の責任を持つ自信がない。そういった無責任な参加がどこまで許されるのか。
ある一概には言えない事象について断定的なコメントをしたとする。そのとき私は他の人から「一概には言えない」と批判される可能性がある。そして私はその批判が一概には言えないとは言えないだろうということを知っている。何か発言するたびに私は「一概には言えない」と他の人から批判を受けるだろう。そしてその批判は正しいだろう。一概には言えないのだ。
そこで私の選択肢は以下のとおりだ。
一般的には3番目を選ぶ人が多い。自分が考えたことをある意味で無責任に書く。もちろんその行為には「一概には言えない」という批判がつきものである。
すこし注意深い人になると4番目を選ぶ。一概には言えなさに自分は気づけるだけの知能を持っていると示すことができる。しかしこのときもまた「一概には言えないとわかっていて、さらにわざわざ〈「一概には言えない」と書く〉というアリバイ工作のごとき責任逃れをしてまで発言するべきではない」という批判を受ける可能性がある。「一概には言えない」と書いておくことによって批判をかわしつつ言いたいことを放言するというこういった手法はあまり紳士的ではないだろう。
2番目にも問題はある。「一概には言えない」というコメントにどこまで価値があるのか。多くの場面で多くの人は一概には言えないということに気づいている。仮に多くの人が一概には言えなさに気づいていない場合に「一概には言えない」というコメントをすることには価値がある。明白な真理だと思われていたことに対してそれが実は一概には言えないのだということに気づくこと自体に価値があるからだ。ただしこういった状況はかなり限られる。多くの場合「一概には言えない」にはほとんど情報としての価値がなく、そういった場合「あなたは何が言いたいのか」「あなたの意見はどういったものであるのか」と聞かれることもあるだろう。その場合「一概には言えない」という態度の保留を放棄することをせまられる。つまり「一概には言えない」とあえて書いたことによって、そこから自然なコミュニケーションの流れとして踏み込んで断定的なコメントをするように求められるという逆説的な状況が生じる可能性がある。
そういったわけで私は1番目を選ぶことが多く、一概には言えないと考えている場面では「一概には言えない」とも書かない。私は何も書かないのだ。私が何も書かないということは私がその場に参加していない、存在していないことにほとんど等しく、私は他の人から私を発見されて、一概には言えなさの放棄をせまられることはないだろう。ひとまず安心する。ただし私が思うのはこういった態度が賢明なのかどうかということである。もちろんこれ自体も一概には言えないだろう。誰にも発見されず、自分の頭の中でただ「一概には言えない」と考え続けることに価値はないと考える人もあろうし、誰にも発見されずとも一概には言えなさを貫くことによって自分が一種の偏見によって堕落することもなかろうと考えることもあるはずだ。
私はうなってしまう。一概には言えないのだ。しかし私は語るべきであるのか。「一概には言えない。しかし……ということは部分的に妥当するように思われる」などといった語り方がどこまで有用であるのか。多くのことは一概には語れず、つねに例外はあり、何かを語ることはむずかしい。「一概には言えないし、例外は無限にあるが……」
私は何かを語ろうとするとき一概には言えないということはよくわかる。私以外の多くの人もわかっているはずだ。それでも彼らは語る。そこにはリスクがある。彼らの語りが正しいかどうかは一概には言えないのだ。
「ある程度」「そういった傾向」「……の一部は」「かならずしも……というわけではないが」「何時何分何秒地球が何回回ったとき、そのときにおいてのみ」
私にはわからない。一概には言えないということだけはわかる。
ジャズの一回性というものが語られることがある。私は一種のインプロヴィゼーションに身を任せるべきなのであろうか。私はいつでもでたらめの神託をでっちあげることができる。だがやはり私はそういった風なことはやらないだろう。一概には言えないのだ。私は自己完結してしまう。むしろ自己未完結とでもいうべき状況かもしれない。私は一概には言えなさに拘束されている。私の翼は鎖で縛られている。
例えばアフリカの貧困欠食児童からしたらハンバーガーでさえごちそうだけど
お前は恋人とディナーをマクドナルドで誘われたら「はあ?」ってなるだろ
これが恒常的に生活水準に慣れ切った人間が感じる経済的幸福度の変化
真理に到達したとか大層なことじゃなくて日常生活でも測れる感覚だから
結局、金を自由に操作できる段階に至ってやっとお金によって幸福度変化が発生しなくなり
でもそのゲートを開けれるのはロスチャイルド家だけなので、個人はどこかしこで「ま、アタシの年収ってこんなもんだな」って自己完結して欲求を自力で停止しなければならない
自己完結の愛に巻き込まないでくれる?