はてなキーワード: 原付とは
幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。
また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。
ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。
バイトのシフトにはちゃんと遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。
現役で地方の駅弁大学に入学して、卒業が近くなってからは資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。
一応何とか大学は卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。
自分は、根本的に人生はディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的に自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。恐らくその頃が、自分の学力のピークになっていたと思う。
確か当時の全国模試の総合偏差値は70を超えていたはずである。
でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。
何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。
その頃から学力の減退も生じていて、自分で自分がコントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校のランクを一つ落として、何とか国立の大学に合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分の人生の最盛期だったのではないかと思う。
大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活が崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数の語学習得を目指し大学のゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分をコントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。
俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分の計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活は大学を卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。
何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐、牛乳、納豆、青魚、葉野菜。こういうものをバランスよく摂るようにしていた。でも、自分が自分をコントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神でバイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。
いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。
さて。
いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しかし実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己をコントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。
原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である。身体におけるありとあらゆる不調や、自身のコントロールを掌握できていない感覚は殆どの場合、血流の低下に基づいているのである。ADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動が有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効なもののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。
シンプルながら散歩はADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である。普段自転車や原付で移動する距離を、例えば自転車や原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneのヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。
腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレは実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。
ドストエフスキーや夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHDの改善法となると俺は思っている。大抵の場合、活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書のカテゴリーに加えておく。
基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。
同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである。
すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書や文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画のイラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間を生活の中に設けるようにしている。ファミレスやハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。
ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHDの改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなのである。なので俺は最近は文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。
鬱持ち・ADHD持ちにありがちな、思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。
上で書いた通り、卵や牛乳、青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。
つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなのである。つまりそれは、そう、料理の煩雑さや億劫さである。
基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。
脳に一定以上の煩雑さや負担を押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。
追記。瞑想は効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブな効果が起こっていると思われる。
読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアルな瞑想を行うことがある。これもまたオススメ。
など
こんなところだろうか。
思い出し次第追記を行いたいと思う。
今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要な発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である。
上では書かなかったが、俺は重篤なインターネット依存症持ちでもある。
しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所や欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである。
是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。
自身の病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生」なのだ。
それでは。
陰湿なイジメかどうかと、危険かどうかはまた別の話で、「陰湿なイジメ」かつ「危険」であるから炎上したのであれば「危険」なだけで炎上するような世の中になってほしい、と思わなくもない。
今から十年ちょっと前、我々のサークルではジャッカスが流行っていた。動画を見てパクり動画を撮って、サークルの納会でそれを見て楽しんでいた。
私も考えなしにそのブームに乗って、スーパーのカゴ乗せる台車で暴走したり、スキーウェアを着てスキー板をつけて道路を練り歩いたり、原付きにくくりつけたスケボーに乗って原付の2速に振り落とされて河原をごろごろ転がったりした。金曜日に「明日◎◎河川敷でジャッカスやるよ」って言われたら二つ返事で参加した。
見る方もやる方もゲラゲラ笑ってて、ただちょっと変で危ないことしてるだけでとてもハッピーだった。すごく楽しかった、先輩が死ぬまでは
先輩は、飛び込めるだけの深さがないプールに飛び込んで首の骨を折って死んだ。
楽しいから真似していいわけじゃないんだってその犠牲があるまで気付けなかった私達はすごく頭が悪かった。
各集積所を回っては“お目当て”を探し抜いてゆく。
ここ最近、資源ゴミと不燃ゴミの日(指定袋に入って持てるなら大型ゴミで出すものも不燃ゴミになる地域)になると、必ずといっていいほど、同じ地方に属するナンバーをつけた回収業者が来る。
朝6時半とか7時に。市の回収業者が10時以降にしかこないのでそれまでに。
知ってる限り2台はいる。
以前、不燃ゴミの収集日で、仕事の出発前に集積所に出すため、自宅敷地内の玄関先に朝出しておいた金属ゴミが入っている不燃ゴミを置いていた。それを外から見つけたのか、インターホンわざわざならしてくる輩。
強い口調で、いや眠くて不機嫌ながらに、『あなたは市の業者じゃないだろう』というとふごふごいいながら、立ち去った。
周辺のご近所さんところでもインターホン鳴らしては要らない原付などの“お目当て”を回収してた。
不審者は通報するしかないかと思い、通報だけはして自分の不燃ゴミはもちろん集積所にちゃんと出した。
集積所から私の金属ゴミやら、余所様の金属ゴミの入ったもののみ抜き取ってすたこらさっさと消えた。
この前に通報した警察官から、また不審者が居たら通報してくださいと言われ通報。
そのときの会話では、
・もちろん自宅内にあるゴミを勝手に持って行かれたら窃盗になる。
・集積所の中に入ったゴミは回収自治体の持ち物となるため、自治体が被害届を出さないといけない。
という話だった。至極当然な話ではある。
たぶんインターホン押してきたのはもしあとからもめて窃盗にならないよう同意を取ろうとしたのだろう。
集積所の話となると、自治体側に聞かなければならない。
・違法回収がひどい地域にこちらから収集日の朝などにパトロールなどは行くようにしてる。
・集積所に出してるのは住民の方々だが、集積所に出た時点で自治体側になるのはわかってるのでせっかく回収したゴミが適切に回収されず、申し訳ない。
ということだった。
税金納めているから、なんでもやれ、それくらいやるのが普通だろ!という極端クレーマー理論は展開する気はない。
ただ思うのは指定ゴミ袋をきちんと買って、日や時間を守ってだすのに、ルールもモラルもない輩にもってかれ、どう処分されてるかわからない。
むしろ都合のいいとこだけ抜いて知らない場所に投棄されてるかもしれない。
仮にも事件になったとして、ゴミを適切に出す側には何の落ち度もないし、疑われる話すらないが、ただ自分の出したゴミが輩のせいで、事件後に迷惑をかけて他人様にまた回収してもらうゴミになってしまうのが嫌なのだ。考えすぎかもしれないが。
しかも指定ゴミ袋だってわざわざ買うのに焼却処分されずにわからないところへ行ってる。
何のために袋買ってるんだよ。
よくわからない勝手に無料回収の輩を見つけた瞬間に警察に不審者として通報するか、はたまた状況証拠を抑えて自治体に知らせるしかないのか。
中学生、高校生の頃に電車通学だったので家から駅までは自転車に乗っていた。
当時地元(関東、地方都市)はそんなに治安がよろしくなく、ワゴン車でナンパして女の子を連れ去ったり、露出狂の変態に遭遇したり等の噂がよく立っていた。私も白いワゴンから声を掛けられ、無視して自転車で走り去ったら「ブース!!」と大声で罵られたことがあった。駅前でそれなりに人もいる中でブス呼ばわりされたことに傷ついたけど、さらわれなかっただけ良かったんだと思うことにしていた。
痴漢にあった日は、部活で少し遅くなり暗い中自転車で帰宅していた。寒かったからマフラーをぐるぐる巻いてた。
後ろから原付か小型のバイクが走ってきていたのは、ライトでわかった。追い越して貰おうと少し左に避けると、その瞬間右から手が伸びてきて私のスカートをバッと勢い良く捲った。
私は混乱して右を向いて、私を追い抜いていこうとするバイクの人を睨んだ。凄く驚いていたし怖かったけれど、声をあげることは出来なかった。
バイクはそのままスピードを急に上げて私を追い越して、道路を斜めに(右端へ寄るように)走って、電柱に激突した。グシャっという音がした。
車通りもそれほど多くない道で、普段の私なら事故を見たら駆け寄るなり救急車呼ぶなり出来ていたと思うけど、直前にスカートを捲られたことがショックで近寄れなかった、というか手助けする選択肢が頭の中に全く生まれなくて、そのまま全速力でチャリンコを漕いで帰宅して、ご飯食べてお風呂入って寝た。
グシャってなった人がどうなったかは知らない。死んではないと思うけど…。まあ十年も前だし、グシャってなった人もわすれてるくらいの怪我だったらいいな。
この日のことについてずっともやもやしていて、私には罪悪感があるのかなと思っていたけど、もしかしたら「なんで見えもしない(その後追い越してしまうから)パンツの為にスカートを捲ったの?」というのが気になっているからかもしれない。
・なんで見れないかもしれないのにスカートを捲るの?この女のスカートを捲ってやったぜ、というのは、例えば最終的にリリースはするけど、この大きさのブラックバス釣ったぜ。みたいな、ハンティング的な気持ちが満たされるのかな?
・なんでナンパ断るとブース!っていうの?ブスだと思ったら声かけなくない?ブスが万が一応じてきたらブスと仲良くすることになるじゃん?
我が家と似てるなあ。
ずっと成績が良かった。
でも、コミュ障。
弟は、勉強はイマイチだけど家族に好かれ、そして友達にも恵まれるタイプ。
弟は、もともとはバカだと思うけど(原付の免許に落ちるようなやつだ)俺に負けるのが悔しくて、あらゆることで挑んできた。
勉強もそこそこできるようになった。
例えば、ある年の1学期の数学の試験が俺が85点、弟は90点、引き分け。
「やった!お兄ちゃんに勝った!」
弟は喜んだ。
両親も弟をよく褒めた。
俺からしたら、普通の公立中学の数学の試験と、高校でしかも進学校の数学の試験とじゃ、難易度が違うのだから、俺のほうがむしろ褒められるべき、と思ったりしていた。
その一方で、やっぱり弟が好きだった。
兄弟喧嘩をしても体格差でコテンパン、学力でもコテンパン、それでも突っかかってくる弟が愛おしかった。
勉強は出来ても要領が悪く失敗したり叱られたりばかり俺は、社会人に出てからは損してる。
その点、弟のほうが、うまくやれている。
弟は結婚もしてる。
でも、弟は、昔も今も、俺の才能を信じてくれている。
毎日が日曜日の無職、誰にも咎められない一人暮らし、なまじある貯金、腐る要因のなかで、腐らずに資格の勉強ができたのは、誇れる兄でいたいという想いがあったからだと思う。
弟が好きだ。
直人
現在32才
青森県育ちの横浜市在住。母の親戚の知人の法事中に生まれた。生まれてしばらく父親一人で育てられている。
一人暮らしの2人兄妹の兄
紙の本と電子書籍を書いていた(筆名は不詳)。最近出した本は「卑しさに包まれたなら」
ロードバイクと原付を所持。過去には250ccネイキッドやスクーターにも乗っていた。
成人年齢は22才に引き上げろと連呼している。
妹 31才・・・一人暮らし中。育った場所と母校は兄と同じ(高校と大学)。
名古屋生まれの2人兄妹の妹で東京都渋谷区在住。母が単身赴任中にアパートの浴槽で生まれた。生まれてしばらく母親に育てられた。
以前は横浜在住で、当時と同じ250ccネイキッドを現在も所持している。
小学生時代に不良と共謀していじめを起こし、保護観察を受けていた。
ゲームソフトを何本も所持、購入している。
兄妹が生まれる前からオートバイと自動車を乗り回していた(車種失念)。郵便屋で金融に詳しい(定年退職している可能性あり)。
兄妹の同級生から「不良肌」と恐れられていたらしい。(兄妹を虐待していたこともある)
魔法少女ものとファンタジー小説・漫画、携帯機・PCゲーム好き。
父・・川崎にて母と同居中。
民間人上がりの元正規公務員で現在は嘱託職員で年金生活満喫中のITオタク。
男性にとってうんこ漏らしは日常的ではないが、いつ起きてもおかしくないイベント。
中山秀征も、
意外と我慢出来る。
セックスがしたいけど、相手がいないからゼルダで遊ぶ、みたいな性欲と別の欲の相互変換が可能。
夢中になれば全て忘れられる。
専業主婦は男性に負担が大きいだけじゃなく、女性にリスクが大きい。
と思いつつも、それを言い出せずにいる。
30代でも1/4が童貞。
男性はビタミンC以外のビタミンは十分に肉から取れると思ってる。
一部のミネラルについては植物性のものから取る必要があるが、貝類などで代用出来ると思ってる。
女性は「野菜」という栄養素があると思ってるのではないだろうか。
食物繊維?これ以上お通じよくなったら困るよ。
内面の整理のために吐き出しています、その関係上乱文になってると思います。
間違いなくあそこに地獄があった。
少なくともあの時の僕にとっては地獄だった。
虐められた、とても虐められた。誰も味方がいなかった。
虐められるターゲットだった。友人は居なかった。一人だった。
家の中にも安らぎはなかった。家もまた気を張る場所であった。信頼ならない場所であった。
母は精神障害者だった。弟は知的障害として小学校の時分から養護学級の者として生きていた。父はそんな二人の世話に明け暮れていた。
とても頼ることなど出来なかった。
学校では「死ね」「キモイ」そんな言葉がずっと浴びせかけられていた。常に居場所がなく、昼休みは別の校舎の廊下や音楽室の陰といったひと気のない場所に避難する時間であった。
とても辛かった。そんな場所だった。
部活は小学校の時にサッカーが好きだという理由でサッカー部に入った。大失敗だった。
部活中にも時折、野球部の方からボールが飛んできて僕に当たっていた。たぶん、ぶつけられていたのだと思う。頭に何度も当たっていた。とても辛かった。
中学校1年の2学期から休みがちになった。1学期でも体調を崩しがちであったが、休むために休んでいたのはこの頃だったように思う。
とても行くことが嫌だった。そんな風に休むものだから、勉強も遅れがちになった。宿題が溜まったのもより行きづらさに拍車をかけた。
英語がついていけなくなった。
家は貧しかった。貧しいが故に常識も知らなかった。小学校の宿泊研修で初めてリンスの存在を知る程度には貧しかった。
とても閉じていた。服もなく、娯楽を知らず小学校の夏休みの絵日記に苦労していた、そんな記憶が残っている。
旅行に行く人達を羨ましく思いながら、隣町の祖父母の家に行く位が一番の遠出だった。
どんどん私は中学校に行けなくなっていた。田舎の中学校故だろうか、治安もよくない学校であったのも一因だったとは思う。
通学の自転車が指定の自転車だったが、指定の物ではないものを買い与えられ、そのことがまた虐めの原因にもなっていた。
通学することが苦痛だった。
家の中では良い子でなければ、迷惑をかけないようにしなければならず、学校には居場所がなく、そんな状況が続いていた。
中学1年の三学期にはほとんどいけなくなっていた。ひたすら虐めの恐怖に怯えていた。布団の中でまるまって何故虐められるのか分からず、相談できる相手もいない、一人で苦しみ続けていた。
家の外に出るのが怖くなっていった。休んだことを揶揄されることもまた恐怖だった。ひたすらに家の中で時間を過ぎ去るのを願っていた。夜になってようやく少しだけ外に出られるような有様であった。
中学2年には全く通うことができなくなっていた。申し訳ないと感じつつも動くことができなかった。昼に父が職場から帰ってきてお昼の支度をしてくれる時間が僅かばかりの気晴らしといった毎日であった。
中学3年のころには少しだけ保健室登校のようなことをしていた。それでもほとんど休んでいた。勉強についていけなくなっていた。将来の恐怖に押しつぶされていった。
受験があった。とてもできず、また遠方へ通えるような財力はなかった。地元の県立高校に進学した。
高校に入った。周りは大人になっていたからか、虐められることはなかった。だが、僕自身は人間不信になっていた。やはり一人だった。
そして、とても落ち着かなくなっていた。
授業中に突然笑いだすようなこともあった。エア友達と脳内会話して笑いがこぼれていた結果だった。
ギャップを感じていった。普通が分からなくなっていった。休むようになっていった。精神科へ通うことを勧められた。ここで初めて通うようになった。
月イチでの通院の日々だった。それでも行けないことには代わりはなかった。
出席日数が足りなくなっていった。補修を受けるようになっていた。補修にも行けなくなった。単位を落としてしまった。通わなくなった。
単位が複数落ちてから、一つだったら頑張ればなんとかしてあげれたと言われた。もう遅かった。手遅れだった。
留年するか転校するか退学するかの選択肢となった。金銭上、転校することは出来なかった。そのまま退学することになった。
高校に入ってからしばらくしてから与えられた携帯でネットに依存するようになっていった。
普通じゃなくなっていく苦しみを誤魔化していた。なんとか逃れようとしていた。
ネットに居場所を求めるようになっていった。その間は少しだけ救われていた。
将来への絶望は消えなかった。
父母弟の介護をしつつ、田舎町から出られず永久にそのまま終わるようにしか思えなかった。
17になった。心を誤魔化すためのゲームで繋がりができていた。オフ会に参加することになった。
オフ会に参加するのが唯一の遠出だったと思う。
隣の県まで電車で行った、少しだけその時は救われていた。
18になった。早く頑張らなければ、何かしなければという焦りと苦しみがちりちりと焦がしていたが見ないようにしてゲームに没頭していた。
19になった。オフ会で会った友人たちが大学生になっていった。僕は一人取り残されていった。
また一人になった。
一人の時間が長くなった。その分だけ余計に焦りと苦しみが増していった。向きあおうとして、オフ会の友人との繋がりを控えた。
より苦しくなっていった。薬に甘えないようにせねばと思ってあまり通院してなかった時期でもあった。
夜に原付を飛ばしてみたり、自分なりの反抗をしていた。それでも苦しさは消えなかった。
夏の終わり、自殺を図ろうとした。海の近い町だった。このまま砂浜から海に入っていけば泳げない自分は死ぬのではないかと感じていた。
服が海水を吸って重くなっていった。明確に死の恐怖を感じた。このまま自分が死んでいなくなる恐怖だった。この世から消え去りたくないと感じた。
砂浜へ引き返した。びしょ濡れのまま、一人家に帰った。自殺しようとしたなんて打ち明けることなど出来なかった。
死ななきゃいけないという感情はそれでも消えなかった。僕は考えを捻じれさせていった。
死ななきゃいけないなら、自分自身が死ぬことを納得できる人間になろうとすればいいじゃないかと考えるようになっていった。
当時のニュースの影響もあって、大量殺人者に憧れるようになっていった。ああすれば死ねる!と。
30になったら行おうと思っていた。そこまでの命ならと思って、散財するようにもなっていった。
課金ゲームにハマっていった。諫められても、助けてくれなかった親への恨みから正当化していった。
深みにはまってどんどん続けていた。
バイト探しをするようになっていった。田舎だから、求人は貴重だった。
毎度のごとく落ちていった。
21になった。レンタルショップのバイトに受かった。バイト代はすべて課金ゲームにつぎ込んでいった。
22になった。僕はバイトのままだった。世間の就職にまた焦っていった。
23になった。友人の誘いで地元の原発の作業員になった。入ってウキウキな気持ちと原発への嫌悪感がごちゃ混ぜになっていた。
半年で辞めてしまった。よりヤケになっていった。クレカで借金を作れば自分も死ぬことに納得いくだろうと破滅的な行動が増えていった。
24になった。転職サイトで中途で入社した。ネットの販売員だった。営業だった。件数は全然取れなかった。頑張っても取れなかった。
頑張ることの意味が分からなくなっていった。努力しなくなっていった。ネットへの依存は深まっていった。
グループ内で転籍させられた。借金は増えていった。死にたくてたまらなかった。
25になった。課金ゲーで出会った友人に職に誘われた。僕は後先考えずに飛びついた。殴られるような営業から逃げられると思った。
転職先は良いところだったが付いていけなかった。そのころにはもう考えてもストレスで意識が飛ぶようになっていた。
無職になった。生活保護を受けるようになった。治療を受けても、あまり合わなかった。借金は残ったままだった。
四か月経ち、今日バイトを始めた。あまりのおぼつかなさに愕然とした。
死ななきゃいけない声が聞こえていた。今までは、周りを批判的に見たり、自分の実力を弱く見せたりして補助を貰おうとして誤魔化していた部分も遂に終わりを迎えた。
虐められていたときに亡くなった祖父母へのお別れの気持ちも1週間ほど前に整理がついた。
https://anond.hatelabo.jp/20170926003427
http://www.news-postseven.com/archives/20151004_354612.html
「原付バイクを手放した多くは女性です。ヘルメットの着用でヘアスタイルが乱れるのが嫌という人や、
エンジン音のうるささやガソリン臭が苦手といった声も根強かったため、
主婦層をはじめとする原付ユーザーは、急速に電動アシスト自転車へと移行していきました。
自転車のモーター性能が飛躍的にアップしたことも普及を後押ししました」
自転車好きは、実はすべての移動手段のなかでも最も健康寿命が長く、実際に長生き。徒歩移動者よりも自転車利用者は長生き。
http://www.epochtimes.jp/2017/05/27201.html
自転車通勤者は徒歩通勤者よりも自動車通勤者よりも全死因死亡リスクが低い/BMJ|医師・医療従事者向け医学情報・医療ニュース
https://www.carenet.com/news/journal/carenet/43895
>自転車通勤者は、電車や自動車に比べてガンに罹るリスクは45%少なく、心疾患の場合は46%、また早期死亡リスクは41%少ないことが分かりました。
実は自転車はバイクや自動車と比べて事故率等が最も低い。ノルウェーやイギリス等先進諸国の都市部が自動車を減らして自転車を増やす政策で交通安全向上を推進しているのはこの為。更に渋滞も公害も不健康も減る。
https://anond.hatelabo.jp/20170925155940
高額自転車、売れ行き快走 電動は10万~12万円が主流 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO03491970Q6A610C1000000/
気軽に乗れる暮らしの足というイメージが強い自転車で、高額品の売れ行きが好調だ。
一般的な自転車だと数千円から3万円で買えるが、電動アシスト自転車は10万円以上する商品が一気に普及した。
趣味として楽しむ自転車も10万円以上が当たり前になった。圧倒的に高い自転車にはどんな魅力があるのだろうか。
電動アシスト自転車の快進撃 ついにバイクの年間出荷台数を追い抜く
http://diamond.jp/articles/-/11028
http://cyclist.sanspo.com/8483
http://thutmose.blog.jp/archives/45444067.html
http://gmmi.jp/press_news/news/item/914
小さな頃丘を登ったことがある。丘と言っても公園にある3mほどの段差のような存在だ。
手で草を掴み、脚で懸命に地面を捉え、よじ登る。
世界が変わった。
せいぜい130cm程しかない身長では知り得なかった光景が視界に広がっていったのだ。
それからというもの冷静な大人では進まないような草木生い茂る道だろうと、高い場所なら登り続けた。
大きくなり山を登り始めた。
見たことのない花や透き通った渓流は美しい。険しい道すら日常からの乖離を感じさせ楽しくあった。
何より山頂にたどり着いた時の光景、あれだけは何にも代えがたい。人生の拠り所とすら言える存在だ。
事故にあった。
なんてことはない自損事故だ。
原付なのにスピードを出していて、飛び出してきた猫に気を取られて、ハンドル操作を誤って、地面を滑るように転げていった。ただそれだけ。
世界がくすんでいった。
座って見る世界は閉塞感がひどく、山頂のような自由を感じさせる光景とは程遠い。
大学に行くこともなくなった。
ただぼうっと自宅の窓から外を眺めるだけ。
残念ながらこの話に救いはない。
ただ山登りを愛していた青年は脚が動かなくなり、引きこもりになった。それだけ。
これから先ツラい現実と戦うかどうか、今はその一点のみを考えてる。
ぐるぐる思考が巡ってしょうがないので現状をまとめる意味を込めて書いた。
今年中には考えをまとめたい。
スーパーで日持ちする物を大量に買い込めばいいじゃん
原付免許持ってるならメルカリでカブが4万で売ってるから多少スーパー遠くても買い込みとの合わせ技でコンビニより安く済むかもな
「10万円以上するものを毎年買い換えるとか常識的におかしい」
これは私がネットで見かけたiPhoneXに対する意見のごく一部だ。
今月Appleから発表されたiPhoneX。その税込14万円という値段を巡って、ネット上では買う/買わない論争が繰り広げられている。
iPhoneXに14万円の価値があると思った人は買えばいい。
iPhoneXに14万円の価値がないと思った人は買わなければいい。
たったこれだけの、2行で済む話ではないか。
あなたは現実社会で生きていて、こう感じたことはないだろうか?
「この人はこういう考え方をするんだ。自分とは違うみたいだ。」
誰もがこう感じて生きている。しかし多くの人はその「違う考え方」にイチイチ突っかかったりしない。
世の中には色々な考え方があると理解しているからだ。ある程度その「色々な考え方」を許容する必要があると、分かっているからだ。
それなのにどうしてネット社会では、「他人の考え方を許容する」という現実社会では当たり前のことを、こうも簡単に見失ってしまうのだろう。