はてなキーワード: 主治医とは
中学生の頃パニック障害になり、一時不登校だった時期もあるものの、ここ数年発作もなく過ごしてる。
去年の秋、上司に何気なく「仕事慣れた?体調管理とかちゃんとしてる?」と聞かれたので、「今は元気ですけどパニック障害の既往症があるので再発は不安ですね」と答えたら、上司の顔色が変わった。
人事に呼び出され、なぜ黙っていた!と言われた。
欠勤もしていないし普通に勤務してるし、言う必要を感じなかったからとしか…。
各種手当の支給中止。
地方転勤。
条件を飲めないなら辞めろと。
新卒1年目で職歴もないのに辞めるわけにもいかず、条件を飲んで転勤したところ。
入社時はどうだったか知らないが、入社後に休職やらうつやら経験して、それでも総合職のままの社員の多いこと(今までは小さい支店にいたから、そういう人の存在を知らなかった)。
自分はと言えば、転勤したからといって何か体調に配慮されるわけでもなく、むしろ前任地よりひどいパワハラ上司に当たって毎日苦しんでる。
「辞めさせたいと思ったら、代替案なんか出さずにとっくに辞めろって言ってる」とは人事に言われたが。
労基やハロワでも相談してみたが、転勤時の念書に判を捺しているので、抵抗できる可能性は少ないとのこと。
総合職としての試験を受けて、一般職ならやらなくていいことをやって入社したので、正直不満だ。
一応「定時に帰らせろ」って診断書は主治医から会社に出してて、上司も把握してるんだけど、全然守られてない。
職歴つけたら辞めるべきか…。
好きでパニックになったわけじゃないんだけどなあ。
おい、ふなぽん!
ていうか、鼻は高いし形が整ってるし、耳の形も綺麗だし、骨格が整ってるよアンタ。
こちとら鼻は低いわ耳は異様にちっちゃいわ家が貧乏だから矯正できずにガチャ歯のままだわ皮膚生検したときのパンチ穴が顔にあるわ首には頸部リンパ節生検した時の跡があって首切り未遂して失敗した人みたいになってるわ尻には骨髄穿刺した時の丸い跡がいくつも残ってるわコンプまみれじゃコラ!!!!
あとステロイドいっぱい飲んでた時は額と顎にニキビが大量発生してたわ。
知ってるか? ステロイドざ瘡(ニキビ)はステロイドの量が減るか飲むのを止めるかしない限り、薬を塗っても治んないんだよな。
でも主治医は一応ビタミン剤や抗菌薬(ダラシンTゲル)とか出してくれてた。もちろん、大量のステロイドの前にはそんなもの無力だったがね。
そのうちステロイドの量が減ってきて、今じゃ維持量5mgしか飲んでなくて顔面ニキビMAX状態からは脱したが、顎ニキビだけが治らん。飲んでる免疫抑制剤も関係してるのかもしれないし、してないのかもしれない。食生活めっちゃ気をつけててもお肌の洗顔とお手入れを入念にしても顎ニキビだけは治らん。なのでこの件で3年前に皮膚科を受診した。そしたらディフェリンゲルとダラシンTゲルが処方されたんだけど、このディフェリンゲルが超やばいやつだった。顎にしか塗ってないのに顔中真っ赤にただれて(?)、皮膚が剥けまくって痛いのなんの。皮膚科医からは中止しましょうと言われたが、「もうちょっと頑張ってみたいです!」と言ってしまった。詳しくは書けないが、そのあと皮膚が大変なことになって、それが完治するまでに1年半かかった。そしてつい先月のことだ。顎ニキビだけはなんとかしたいと、今度は近所の皮膚科クリニックにかかった。前回はディフェリンゲルで大変な目に遭ったが、その後、国内で承認された「ベピオゲル[」という新しいニキビの薬に期待を持っていたのだ。
皮膚科医には、ステロイドと免疫抑制剤使用中であること、ディフェリンゲルで肌がえらい目にあったこと、今までビタミン剤や抗菌薬などを使用してきたが顎ニキビは何をやっても治らなかったことなどを伝えた。医師は期待通り「ベピオゲル試してみようか」と言ってきた。予想外だったのが「抗生剤も飲んでみる?」と言われたこと。正直、飲んでも飲まなくてもどっちでもいいわと思ったが、いま飲んでる薬の量がハンパなく多いので持参したお薬手帳を見せたところ「今回はやめとこっか」となった。だよね。今、薬14種類飲んでるし。
「ベピオゲルとアクアチムクリーム出すので、これで治らなかったら抗菌薬の服用をまた考えましょう。ディフェリンゲルの話からすると皮膚が刺激に弱いようなので、ベピオゲルは塗ってから15分経ったら洗い流しちゃってください。それでも十分効きますから。15分で大丈夫だったら30分、1時間というふうに時間を伸ばしていきましょう。アクアチムクリームは1日何回塗ってもいいです」
それで言われた通りに15分で洗い流して、そのあと保湿を兼ねてアクアチムクリームを塗りたくっているけど、あれだけひどかった顎ニキビがめっちゃマシになっとる。マジかよって感じ。顎の角質がいつも固かったのが柔らかくなってきてるし。あとディフェリンと違って全然刺激感ないし、皮膚も赤くならない。15分で洗い流してるんだから当たり前? でもニキビにはしっかり効いてる。一昨日から時間を30分に伸ばしたが皮膚に刺激感なし。あー、ディフェリンの件で顎ニキビ治療を諦めなくて良かったあ、と思ったのでした。
にしても、今度から新しい免疫調節薬をスタートさせるのでそれが皮膚にどんな影響を及ぼすやら。持病持ちは原病だけではなく副作用とも共存していかなきゃいけないから大変だ。そりゃ憂鬱にもなるさ。そう自分に言い聞かせながら今日も生きるワイであった。
その中に石原式色覚検査もあったのだが、物心ついた時からずっと絵を描いている自分は特に色彩感覚には自信があり、全て一瞬で数字の認識ができた………とはいかず、何枚かどうしても認識できないものが混じっていた。
帰宅後に、ミドリンPで瞳孔の開きまくった目を凝らしながらネットで調べてみると、どうも石原式色覚検査には色覚異常の人には見えて正常色覚の人には見えないパターンが存在するらしく、私が判別不能であったものはそのパターンだったようだ。
ちなみに、元増田の記事にリンクされていた簡易色覚検査は全て容易に判別できた。
結論:ミドリンPで瞳孔の開いた自分を鏡で見たらめっちゃ怖かったし、次の日まで目が痛かったし、眼圧検査の機械からプシュッて風が出るたびにビクッ…ビクッ…てなって笑えたし、眼科はハイテクマシンが多くてカッコよかったし、私の主治医はイケメンだった。
2年くらい前まで入退院を繰り返してた。
中高生時代にも子供精神科に通ってたけど、高校卒業を期に、いったん精神科も卒業した。
私がお世話になった病院は精神医療専門病院で、なおかつ建物が新しくなって間もなかったのは、とっても幸運。
大学で一人暮らしをしてたある日、何故か包丁を持って外にでようとしてた。やばいと思って近所のメンタルクリニックに行ったら即病院に紹介されて、受診したその日に入院が決まった。
はじめは保護室という部屋に入れられた。
窓はなくて、トイレとベッドだけがある、施錠された個室。分厚い鉄扉についた小さな窓から、1時間に1回看護師さんが様子を見にきた。
部屋が真っ白で、ベッドに寝転んで天井を見上げるしかすることなかったから、いまでも白い蛍光灯は苦手。
何も持ち込めず誰とも話せず、孤独で辛かった気がする。
数日様子を観察されて、解放された。
4人部屋に移った。
入院の際にコード類や携帯は没収されてるので、音楽も聴けなかった。外部を遮断できるツールが使えないこれが一番辛かった。みんな顔死んでるけど。
病棟内でも保護室エリアと一般エリアは区切られてて、一般エリアは以外と静かだった。騒いだり奇声を発する患者は保護室に入れられてるから。
ご飯は食堂で一斉に食べた。毎回暗黙の席取り合戦がある。勝つために時間がきたら早く座ってた。
主治医の許可がでて看護師さんに言えば、1日に1回だけ売店に連れていってくれた。何買ったかはもちろんチェック。甘いもの好きだけど、買いすぎると怒られた。部屋に持ち帰ってこっそり食べたりした。
私と同い年くらいなのに立派だな、と思ったし劣等感爆発した。大学に行ってたはずなのにどうして今こんなところにいるんだろうって。病室の窓から大学が見えるのが、余計に悲しかった。
テレビ見るか、作業療法行くか、塗り絵するかくらいしかなかった。
それでも主治医が毎日顔を出してくれて嬉しかったのは覚えてる。
一度、持っていたタオルで首を締めることがあった。一応看護師さんに軽く報告してタオルは預かってもらった。
そしたら当直の医師に伝わってしまって、保護室に連行され身体拘束された。
両手首・両足首・胴体の5箇所をベルトでベッドに固定され、ピクリとも動けなかった。
おまけに血栓防止ストッキングなるものを履かされ、めちゃくちゃ痒かった。
痒くても掻けない。
拷問のようだった。時間が経つのが遅すぎて気が狂うかと思った。
私はまだ、見回りのタイミングでベルト外してもらってトイレできたが、最悪オムツらしい。女子の尊厳は守られた。
食事は胴体と手首のベルトが外され、ベッドの上で監視されて食べた。
翌日に主治医が来てくれて、もうしないことを約束して、その翌日に解放された。
あれは自分にとって紛うことなき拷問だ。罰則だ。約束を守るように頑張った。
症状の軽い人たちがいる病棟だったから、会話が楽しかった。気のいい兄ちゃんもいたし、優しい兄ちゃんもいた。
でもそれ以外の病棟は、みんな症状重くてそれどころじゃなかったなぁ。
私も病状が悪化して、ますます壊れてたし。身体拘束はこのころね。
なんだろ、そんな感じ。
まだネタはあるけど、区切るわ。
んじゃ。
はじめて使うので、おかしいところが多々あるかと思うが勘弁してほしい。
私は14~22歳の約9年間くらい精神科にお世話になった。その間に何度も精神科に入院する経験をしたので、ここに書くことで成仏させたい。
家は小金持ちで、中学から私立だった。中学3年のある日、左半身が突如として麻痺しだした。色んな病院と検査をたらい回しにされ、最終的に児童青年精神科に行き着いたのが精神科との長い付き合いの始まり。
だんだんと不登校になり、家にこもりだした。主治医が好きだったから病院には通った。そんである日「家から離れようか」と入院が決まった。
病棟はナースステーションを中心に左右に別れてた。左は小学生以下幼児まで。右は中学生から高校生かな。もちろんそれぞれの入口に鍵がかかってた。
総合病院だったからキレイだし、小児病棟みたいに明るい病棟だった。
・親とは専用の面会室で話す
・おやつは3時のみ
そんな感じの入院生活だった。看護師さんは優しかった。たまに左ゾーンの子達と一緒にレクもあった。めっちゃ暇だったけど、いま思えば入院生活はこんなもんだ。
長いから切る。
たぶん続くと思う。
ハサミの使い方を忘れました。
■ちゃんとハサミを使えたボクの話。
それまでのボクは、ケータイサイトを作るベンチャー会社でちゃんと働いていました。
2000年に誕生し、2007年には株式上場。最初は4人だった社員も今では150人強に。そんな中でちゃんとした給料をもらい、取締役という役職ももらい、ちゃんと仕事をしていました。
確かに、朝9時30分に出勤し家に帰るのは午前1時とか2時とかだったり、土日も出勤してたりもしましたが、「ベンチャー企業なんてそんなもんだよね。」と人からも言われ自分にもそう言い聞かせて働いてました。普通に。
逆にそんな風に頑張っている自分が誇りだったし、「最近寝る暇も無い位忙しい」ってことが自分にとっては「美談」でした。
そうボクがちゃんと普通に「ハサミ」を使えてた頃の話。
ここで一度考えてみてください。
■ハサミの使い方を忘れました。
「ボクってカッコいいのかなぁ?」とか「ワタシってかわいいのかなぁ?」ってのは、「誰か」と自分を見比べて、鏡の前で悩めばわかるかもしれません。
「自分って健康なのかな?」ってのは、健康診断を受ければ解決します。
ただ、「もしかして、ボクって精神的におかしくなってきたのかも?」っていうのは案外自分では気づかないものかもしれません。
幸いにも(?)ボクには兆候がありました。
ある日突然「ハサミの使い方」を忘れたんです。
ハサミを見て「あ、これはハサミだ。」ってことはわかるんです。でも「何に使うものなのか?」ってことが分からないんです・・・。
でも、「何のための道具なのか?」って事が思い出せないんです。
他にも「会社の資料を作っているときに誤字脱字が増えてきた」「会社の会議などスケジュールを覚えていなかった」「机の上に置いてあるお茶が、いつ注いだものかわからなかった」など、いろんな兆候がありました。
でも、なにより会社に行きたくなかった。社長に会いたくもなかった。
部下にも会いたくなかった。
この時期、会社でボクの身に何があったのかというと上司の取締役が変わったことくらい・・・。
その方は他社から転職してきた方で、もともとは凄くボクとも仲良くしてくれていました。
ところが、直属の仲間になった途端そんな関係は造り物だったことに気付きます。
喫煙室で顔を合わせると、不機嫌な顔をされ一言も口を聞くことはありませんでした。仕事で相談すると「今忙しい。それくらい自分で考えろ。」と一蹴され、取引先に向かう電車の中で「あんたってこの会社に8 年間もいて今までどんな実績上げてきたの?何も無いんじゃない?あったら私の耳にも入ってくるけど。本当は社長もあなたの事なんて要らないと思ってるんじゃない?」なんて事も言われました。
なんとなくですが、「社長が僕自身を鍛え上げるために、この取締役にそう言ってあるのかな?」なんてポジティブに思ってた事もあって。
今までの同僚としての距離感ではなく、取締役としての距離感で接してくれているから、こんな冷たい態度なのかな?って思ったから・・・。
その数日後。その人に会議室に呼び出されました。
その一言で目の前が真っ暗になりました。
信じていたAさんBさんもボクの味方では無かったんだ・・・。
「そんな事くらいで他人に相談するし、仕事もできないし、あんたなんて生きてる価値ないんじゃない?」
『もうこの会社に居たくない。』
そんな気持ちがボクの心のすべてを満たしていきました。
でもそれは、自分の兆候(症状)を相談し解決してもらう為じゃなく、会社に行かなくてよくなるように「診断書」を書いてもらうためでした。
そう。ハサミの使い方を忘れてしまったボクは、もう一度ハサミを使えるなるようになることよりも、いまの現状(会社)から逃げ出したかったんです。
もう一度ハサミを使えるようになりたいなんて気持ちはこれっぽっちもありませんでした。
■ハサミの使い方を思い出した今のボク。
1年2ヶ月という長い休職期間を経て、この度元の会社に復職いたしました。
精神的にも安定しています。まだまだ薬は飲み続けていますが・・・。
でも、逆に薬さえ飲んでいれば普通に生活できるわけで、何てことはありません。
うつ病になる前の自分や生活には、絶対戻りたくないと思っています。
あんなに仕事人間だったボクが、会社と上手く距離をおいて物事を考えています。
今でも人混みは苦手です。
でも、そんな所に行かなくても生きていけるので不自由はありません。
そう。
特に趣味もなく、会社で評価されること・会社の仕事をこなすことだけが、ボクの生きがいであり、ボクの存在を必要としてくれる居場所だったんです。
そりゃぁ、その会社から「あんたなんて必要ない。」って言われれば、自分の居場所が無くなるんだから、うつ病にもなりますよ。
今のボクは、趣味であったり、美味しい食事であったり、大好きな自然だったり、友達だったり、ブログだったり、いろんなところに居場所があります。
御飯食べるための仕事。要するに飯の種って事です。
それくらいに割り切ったお付き合いを会社や人間関係に置いてみると、多少嫌なことも我慢できるのかもしれません。上司にガミガミ言われても、新しいカメラのレンズを買うためなら・・・って。
では、ボクがここまで変わることが出来た経緯をご紹介します。
■休職できた。
「休職」ってボクの中では重病(骨折とか入院とか)の方しかできないと思っていました。
よく勘違いする人が多いのですが「うつ病は心の風邪」って言う人がいます。
うちの会社の総務の人も「うつ病は心の風邪だからちょっと休めば治りますよ。」なんて、気休めを言ってくれました。
しかも外傷も見当たらない「脳の重病」だと。
だって、食欲もない・眠れない・何もする気が起きない・・・これって心(気持ち)でどうにかなるものでしょうか?
「心」なんて自分の体のどの臓器かもわからないのに、「心の病気」とか「心の風邪」って言われることが本当に怖かったんです。
心療内科の先生やカウンセリングの先生から「うつ病は脳の病気です。」って聞いて、本当に安心しました。自分がおかしくなっちゃったのは「心(気持ち)」がおかしくなったんじゃなくて、脳がちょっと壊れちゃったんだなと。
しかも、ちゃんと薬があるのであれば、怖くもなんともない。何となく「心の病気」って言われると、自分自身がおかしくなったように思っちゃって怖かったんです。もう元に戻らないような気がして。
当然の権利だと思いました。会社のストレスで脳に病気を持ったわけですから。だから休職することに何の抵抗もありませんし、恥ずかしくもありませんでした。
最初の診断書で「3ヶ月の休職期間を必要とする。」と記載してあったので、会社からは3ヶ月の休職期間をいただきました。
3ヶ月で治るんだと思っていましたが、治りませんでした。
そして、会社の休職期間の限度である「6ヶ月間」に休職期間を延長してもらいました。
多分、6ヶ月で治ります。うつ病になる前の仕事人間の自分には。
ちょうど休職期間が終わる6ヶ月後の頃、会社と面談を行ないました。
その時の総務の方の対応に疑問を覚えました。
毎回「調子はどうですか?」と聞かれ、ボクは「たまに、メマイとかします。人の多いところとかだと。」と答えます。事実、今でもそうですが・・・。
それを「明確な復帰の意思、どこに復帰したいかの意思表示がありません。」と言うふうに社長や他の取締役に報告していたようなのです。
人混みでメマイやパニック障害を起こしている状況で「はい!もう大丈夫です!元の取締役として働かせてください!」なんて言える人はいないと思います。
もう、休職期間も終り自然退職(自己退社)になるんだから、言いたいことは全部言ってやれ!って気持ちでした。
休職期間に入るときに社長からの伝言で「休職は認めるけど、戻ってきたら取締役解任ね。」って言葉を頂戴してました。
それ以外他にも例の人から言われたことの全てを総務の人に報告し、「パワハラではないか?」と詰め寄りました。
そもそも、総務の人は現場で何が起こっているのかを知りません。
噂レベルで「こんな事いわれたらしい。」と言うことは聞いていても、他の取締役本人の口から伝えなきゃわかってくれません。
だから言いました。
本当に。
今までのストレスを全部吐き出したんです。
抗うつ剤の服用者が暴れたり言動が荒くなったりってニュースを見たことがありました。
今思えば、この頃のボクはそんな状態だったのかもしれません。
でも、今のボクは当時のボクを責めたりはしません。
自己嫌悪もしていません。
薬の力を借りていたとしても、自分の気持を汚い言葉や罵声であれ会社に伝えられた自分を褒めてあげたいと思っています。
だって、それだけストレス溜まってたんですもん。たまったストレスを吐き出させてくださいよ・・・。
今思えば、休職してすぐにストレートに会社に気持ちをぶつければよかったなぁとも思います。でも、そんな気力も余裕もなかったんですよ。
自分の気持を整理して、相手の言うことを理解し、自分の気持と照らし合わせ、思いを伝える気力と余裕を持つまでに半年掛かったってことです。
その半年間のことは正直よく覚えていません。
ひたすら寝て、きちんと薬を飲み、食べられるものを食べる。
人間として何とか生きている感じ。
でもきっと、気力を貯めこむ期間として必要な半年間だったんだと思います。
おかげで気持ちが会社へ伝わり、会社の規程が「病気の場合での休職は1年間とする」と変更されました。
ただこれに素直に感謝できるまであと半年かかりました。当時は当たり前だろって位に思ってました。
一気にストレスを吐き出したボクは、やっと何かを吸収する余裕ができました。
人からのアドバイス聞いたり、本を読んでみたり、ちょっと難しいテレビを見てみたり、Twitterを始めてみたり・・・。
やっぱり自分の気持ち(想い)が自分の中に溜まっていると、人から何を言われても「そうは言うけど、ボクはうつ病だし・・・。」みたいな感じで聞く耳を持てなかったりします。
想いを全て会社に吐き出して、やっと「何か」をしてみようという気持ちになれました。
この想いの吐き出し方や吐き出し先は人それぞれだと思います。
ボクの場合は「会社のせいだ」と思ってしまっていたから、会社にぶつけたまでで。
まずは何故自分がうつ病になったのかをきちんと主治医やカウンセラーと相談し、答えを見つけることが必要なのかもしれません。
余裕が出てきたところでやっと気付きます。
「うちの会社でうつ病でこれだけ長く苦しんでいるのは自分が初めてだ。」と。そして、相手を思う余裕も出てきます。
「もしかしたら、会社の総務人事の人達や社長は『うつ病』について何も知らないんじゃないだろうか?だから、ああ言う対応しかできなかった。」と。
「だとしたら、そりゃぁ、仕方ないよね。」と。
簡単に言っちゃいましたが、「そりゃぁ、仕方ないよね。」って考え方は、ボクの中に初めて生まれた考え方でした。
仕事人間だったボクは「何にでも白黒付ける」事を求められ、必ず答えを出さなければいけなかった。「仕方ないよね。」とか「どうしようもないよね。」で片付けることなんて出来なかった。
全てにおいて私生活でも白黒付けて生きてきました。
「この世にはどうしようもないことがある。」
それに気付き納得できたことは、これからのボクの闘病生活を大きく左右する出来事でした。
「会社の人達や社長は『うつ病』について何も知らないんじゃないだろうか?」から「だとしたら、そりゃぁ、仕方ないよね。」と思ったボクは、「うつ病」について知ってもらおうと思いました。
せっかくなので会社の人だけでなく、全国の人にも。
■うつ病を楽しんでみる。
まずはブログやTwitterで「自分がうつ病であること」「うつ病の人ってこんな人」ってことをセキララに語ってしまおうと思いました。
当然、ブログで「ボクはうつ病です。こんな生活を送ってます。」なんて記事を書こうと思ったら、自分の生活で「あれ?」と思ったことを記録しなきゃいけません。
・ あれ?ボクは何でこんな事してるんだろう。
・ あれ?ボクは何でこんな事を考えたんだろう。
・ あれ?ボクは何でこんな事が出来ないんだろう。
・ あれ?ボクは何でこんな事が出来なくなったんだろう。
例えば、ある日「冷蔵庫にサランラップを仕舞っている」事がありました。
朝、冷蔵庫を開けたら冷蔵庫にサランラップが入っていたんです。
・・・あれ?ボクはなんで冷蔵庫にサランラップ入れたんだろう?って思いました。
「サランラップが冷蔵庫に入っていました・・・。うつ病って凄い。」って。
「疲れてるだけだよ!」
「冷たいサランラップって気持よさそう!」
などなど。
あれ?と思いました。
ちょっとでも人を笑わせる事ができるってことは、凄いことなんじゃないか?
急に目の前が明るくなった感じがしました。
そこであることに気付きました。
自分の中で「変な行動や変な考えを全てうつ病のせい」にするのって意外と楽だって事に。
だって、病気がボクをそうさせてるだけで、ボク自身がおかしいわけではないんじゃないか?きちんと病気と向き合って対処すればいいだけじゃないか?
これに気づいたときに本当に楽になりました。
今まで無かった「目標」ができたんです。
そして、このメモは主治医やカウンセラーに相談するときにも役立つんです。
それからのボクは、「うつ病を楽しむ」生活に切り替わりました。
■「ありがとう」って言われたくなる。
そんな日々を繰り返していると、Twitterでメッセージを貰いました。
「ブログを拝見しました。ご想像の通り、ボクも若干うつなのです。薬も服用しています。でも、まだ公表できていません。ブログを読んで気持ちが楽になりました。ありがとうございました。ただ、それがいいたくて。」
別に誰かを幸せにしたいとか何も考えずに書いているブログに、「気持ちが楽になりました」って言ってもらえるなんて思ってもいませんでした。本当に嬉しかった。
こんなボクに「ありがとう」って言ってくれる人がいるんだ。
「生きてて良かった。」って泣きながら母親に話をしたことを今でも覚えています。
それから他人から「ありがとう」って言われることをすれば、自分の存在理由を見つけることができるのかもしれないと思うようになりました。
同時に、きちんと自分からも「ありがとう」と言える人になりたいと思いました。例え、コンビニの店員さんであっても「ありがとう」って言うようになりました。外食したときはお金を払って店を出る前に「ごちそうさまでした」って言って帰るようになりました。
もしかすると、その事自体が別に褒められることではないのかもしれません。
人間として当たり前のこと。
だとすると、なおさら「今までやってこなかった自分」を恥じるようになってきました。
そう「仕事人間で余裕が無く他人に『ありがとう』とも言えなかった自分」が恥ずかしくてしょうがなかったんです。
普段探してみると「ありがとう」って言う機会は思った以上に転がっています。
それに気づかなかった過去の自分がおかしいんじゃないか?って思ったんです。
それが自信から確信に変わったときにハッキリと目が覚めました。
そして「うつ病になる以前の仕事人間の自分になんて戻りたくない。」と。
とはいえ、自分って何故こうなんだろうって、自信を無くす時はあります。
そんな時ボクは、あまり褒められる事ではないのですが、見知らぬ誰かと自分を比べるということをしています。
例えば、街でタバコをポイ捨てしている人を見かけたら、「自分はポイ捨てしないなぁ。」って思えれば、その人よりも自分のほうが生きてる価値があるのかもしれません。
昨日は自殺に失敗してしまった。車の中で練炭を焚いたが、頭が痛くなり胸が気持ち悪くなり、涙や鼻水が溢れ、苦しさを我慢していたが我慢しきれずに外の空気を吸ってしまった。その後も、車の中で練炭が燃えるまで待っていたが、死ぬことはできなかった。ただ、頭痛と吐き気だけが残った。
自殺するのも簡単じゃないなと思った。あれだけ苦しい思いをしても、死ねないのでは。
睡眠薬の量が足りなかった。もっと強烈な眠気が来る量を飲んで、それから練炭に火を点けなければならない。
自殺未遂したことを、主治医に報告するべきだろうか。また入院になってしまいかねない。そこまで正直に話す必要はないだろうとも思う。
話したところで何か変わるだろうか。良い方向に変わるだろうか。
30歳独身男性。双極性障害で精神障害者手帳持ち。就労継続支援A型事業所に通い、月7万円ほどの収入。障害年金は受け取っていない。
主治医から「現在は一般就労は難しいが、いずれは一般就労へ。いずれは一般就労する身なのだから、障害年金は受け取るべきではない」と言われている。
だが一般就労できたとしても、障害者枠では良くて手取り月12~13万円ほどの求人しか見当たらない。そもそも、いつになったら一般就労できるのかめども立っていない。
実家暮らしであり、生活費などはほぼ親に出してもらっている。が、いつまでも親を当てにはできない。父親はあと2年ほどで定年の年齢で、母親は専業主婦である。
以前、障害者になる前に働いていた頃の収入などで、1100万円ほどの預金がある。
将来への心配や不安ばかりがある。今のところは金に困ることはないものの、それがいつまでもつかは分からない。
結婚などは考えられもしない。こんな障害者など誰も相手にしないだろうと考えている。
自分が障害者であることに強い劣等感を持っている。友人はかなり少ないもののいることはいる。しかし、自分が障害者になったことを打ち明けられる相手はいない。
「やだい!手術なんか受けないんだい!」
独特の消毒臭に混じって大きな金切り声が白い廊下に響いた。ここが病院であることを忘れるほどの元気な声、わたしは深くため息をついた。8歳になる我が息子は生まれつきの難病を抱えている。治療法もなく、担当医曰く10歳まで生きられれば奇跡らしい。それ以上延命できた例がないそうだ。助かる助からない以前の問題だ。
「病気なんだから治さないとダメよ、お外で遊べなくなるんだから」
手術をしてもいくばくかの延命にしかならない。儚い命をいくらか繋ぎ止めるだけの手術。それだけのために息子の体にメスを入れ痛みを与えることになる。本心ではそんなことしないで欲しい、そう思ったが少しでも長生きして欲しいという思いもあった。
少しでもこの子の笑顔を見ていたい。元気に叫ぶ姿を見ていたい。できることなら外を走り回る姿だって見たい、そう思った。もう、手術をしてもらうことしか選択肢はなかった。しかし、息子にとって手術は恐ろしいものらしく、頑としてこれを受け入れなかった。
「僕ね、病気じゃないよ。元気だよ。お外でも遊べるよ」
屈託のない笑顔でそう言う息子は元気そのもので、本当に病気じゃないかもしれない、そう思えるほどだった。けれども病魔は着実に息子の体を蝕んでいる。そう思えば思うほど涙を堪えることしかできなかった。それしかできない自分を心の底から情けないと思った。
この笑顔をいつまで見ることができるのだろうか。
苦痛に歪み、そのまま消えてしまうであろうこの笑顔、私には守ることのできないこの笑顔、正直言って私は迷っていた。このまま何もせず、ただ息子の笑顔が消えていくのをジッと待つべきか、それとも成功率が低く、成功したとしても気休め程度の延命にしかならない手術を、そんな無意味ともいえる手術を息子に受けさせるべきなのか。どちらが親として正しい選択なのか……。いくら考えても答えが出なかった。
「やあやあ、俊夫君、体調はどうかな?」
主治医が看護師を伴い、満面の笑みで病室に入ってきた。息子の余命が幾許もないこと、手術は困難を極めること、成功しても気休め程度にしかならないこと、それらを私に告げた時の深刻な表情がまるで幻であったかのような快活な笑顔だった。
「どうかな? 俊夫君。手術を受ける気になったかな?」
医師は俊夫の顔を覗き込んだ。すぐに俊夫が顔をそむける。
「手術なんて受けないよ! だって怖いもん。痛いのだって嫌だよ。手術を受けても受けなくても僕、死んじゃうんでしょ、知ってるよ。それなら受けない方がいい」
なんてことだろう。息子は自分の命が残り少ないことも、成功率が低いことも全て知っていた。もう先が長くないことを知りつつも、私たちを悲しませないよう精一杯の笑顔で振舞っていたのだ。息子の前では泣かないと決めていたのに大粒の涙が零れ落ちた。
辛いのは私たち夫婦だけじゃなかった。息子だってそれ以上に辛かったのだ。こんないい子を死なせてはいけない。こんないい子を失いたくない。もうどしたらいいのか分からなくなっていた。
病室に静寂が訪れた。その空気を破るかのように医師が切り出す。
「今日はね、俊夫君に会わせたい人がいるんだ。俊夫君も良く知ってる人だよ」
ドアを開けると廊下の窓から漏れる西日が病室に入り込んできた。その眩い光を遮るかのように大きな人影が躍り出る。
「やあ、俊夫君、元気かな」
大柄の男性はそう言った。逆光で姿が見えなくとも優しい表情をしているであろう柔らかな声だった。
眩しさに目を細めていた俊夫がまじまじと影を見る。次第に顔が見えたのか目を見開いて驚きだした。
そこには、息子が大ファンのプロオナニー選手、スペルマズの松井選手が立っていた。ブラウン管越しに見るのとは違い、体も大きく、なにより漂うプロオナニー選手独特のイカ臭い匂いが印象的な人だった。
「実は私、松井選手の後援会の会長をしてましてね、俊夫君が大ファンだということを伝えたら是非会ってみたいと言われたんですよ」
「すげーすげー! お母さん、松井選手だよ! サインもらおうよ!」
あまりの息子のはしゃぎっぷりに照れ笑いを浮かべた松井選手。息子が差し出したプロオナニーカードにも快くサインをしてくれた。サイン入りのカードを渡しながら松井選手が切り出す。ちゃんと俊夫の目線まで屈んで話してくれる姿が印象的だった。
「俊夫君、手術受けるのが怖いんだって?」
途端に俊夫の表情が曇る。
「違うのかな?」
俊夫が重い口を開く。
「うん、怖いよ……。だって体を切っちゃうんでしょ、それに成功しないって看護婦さんが言ってた。僕知ってるんだ。僕もうすぐ死んじゃうんだもん……」
「僕らプロオナニー選手はね、常に怪我との戦いなんだ。僕も俊夫君くらいの頃に酷使しすぎでペニスの靭帯が裂傷してね、アメリカの有名な先生に手術してもらった。あの時は怖かったなあ」
俊夫が頷く。
「今でも怖いよ。ペニスに爆弾を抱えてプレイしているようなものだから、オナニーボックスに立つたびに怖くなる。逃げ出したくなる。またあの痛みが再発するんじゃないかって」
「やっぱり……痛いのは怖いよ……」
「でもね、それは違うんだ。痛いのは確かに怖い、手術だって怖い。でも本当に怖いのは、恐怖のあまり挑戦することを放棄する、そんな逃げ腰な自分になってしまうのが怖いんだ」
「ああ、そうだ。挑戦することを忘れ、嫌なことから逃げ出してしまう。それは確かに楽かもしれない、怖くないかもしれない。けれども、そこから一歩も進めなくなってしまうんだ。動けなくなってしまうんだ。痛みや手術なんかより僕はそっちのほうがずっと怖いな。あの時逃げなかったから今の自分があるわけだしね」
「そんなの良く分からないよ。やっぱり僕、手術するの怖いもん。一人で死んじゃうの怖いもん」
今度は俊夫が首を横に振った。
最愛の息子に「一人で死ぬのが怖い」とまで言わしめた自分の無力さを呪った。悔しかった。また大粒の涙が流れ落ちた。それに気づいたのか気づかなかったのか、松井選手はこちらを一瞥した後、俊夫の両肩に手を置いてさらに続けた。
「じゃあこうしよう。今夜のナイターで僕がホームシャセイ打つことができたら俊夫君も手術を受ける。これでどうだい?」
松井選手はまっすぐ俊夫の瞳を見ていた。また俊夫は首を振った。
「無理だよ、松井選手は確かに2012年にシャセイ王のタイトルを取ったけど、最近じゃスタメンからも外れて、たまに代打で出てくる程度、今シーズンなんて一本も打ってないじゃないか。そんなの絶対に無理だよ」
「俊夫……! なんて失礼なことを!」
一歩前に出たわたしを松井選手は右手で制した。そして変わらず俊夫の瞳を見ながら続けた。
「無理だからこそ挑戦するんだ。僕の挑戦と君の挑戦、賭ける価値はあるんじゃないかな? それとも怖いかい?」
「……わかった。僕、松井選手が今夜ホームシャセイ打ったら手術を受けるよ、絶対受ける。約束するよ」
「男と男の約束だ」
「俊夫……」
あの子が手術を受ける気になってくれた。立ち止まらず、前に向かって歩く気になってくれた。
病室を出た松井選手を見送り、病院の玄関で深々と頭を下げた。すると、松井選手は車に乗りながらこう言った。
「お母さん、プロオナニーの世界では常に挑戦です。相手ピッチャーの放るエロネタがとても抜けないようなものでも必死で抜く、それでホームシャセイを狙うんです。俊夫君もそうだけど、お母さんにも挑戦する気概を忘れないで欲しい。大丈夫ですよ、今夜、僕は打ちますから」
私の心を見透かされたかのようだった。成功率の低い手術に怯え、息子の笑顔を失うのを怖がっていた。ずっとずっとその場に立ち止まり、ただ漠然と病魔が進行していくのを見ていた。それじゃあダメなんだ、挑戦しなきゃいけない、俊夫だけじゃない、私だって。もう迷いはなくなっていた。
走り去る松井選手のポルシェのテールランプを見つめながら、私は何度何度も深々と頭を下げた。
その夜、特別に病室でテレビを観る事を許された。看護師がやってきていそいそとテレビのセッティングを始めていた。いよいよ、松井選手の挑戦、息子の挑戦、そして私の挑戦が始まるのだ。
試合は1-0の投手戦だった。松井選手の所属するスペルマズは、今シーズン首位を独走するオナホールズの大型ルーキー投手に完璧に抑え込まれていた。オナホールズの犠牲シャセイで1点が入ったのみ、スペルマズは負けていた。もちろん、松井選手はスタメンから外れ、未だ出番がない。
「いやー、ちょっと今日は両投手状態が良いですね、白熱の投手戦の様相を呈してきました。これはちょっとホームシャセイ打てないんじゃないかな」
解説者が白熱の投手戦にご満悦といった調子で解説する。試合は9回裏、いよいよスペルマズ最後の攻撃となった。
そんな言葉も空しく2アウト、いよいよ最後のバッターがオナニーボックスに立った。もうダメだ、この投手なら抑えてしまうだろう、そして試合は終了、松井選手が出るまでもなくスペルマズは負けてしまう。
「あーっと、ボークですね、ボークです。山田投手、エロネタを投げる前にチラッと見せてしまいました。見た感じフォークのような、40代熟女のセミヌードですね、これは痛い、ボークです。打者は無条件に1塁まで進みます」
奇跡が起こった。好投を続けていた山田投手がボーク、同点のランナーが一塁へと出た。
「あー、ここで監督出ますね、どうやら代打のようです。代打ですね、今ゆっくりと主審にかけより代打を告げました、場内放送にご注目ください」
一斉に場内がどよめく。それと同時に病室でもどよめきが起こった。いつの間にか医師や看護師だけでなく、他の入院患者までテレビに駆け寄り松井選手と息子の挑戦を見守っていた。
「ここで松井とは驚きですね。左投手山田に対して左曲がりの松井が代打です。松井選手は今シーズンはまだホームシャセイはありません。これは思い切った起用ですね。さあ、一打出れば逆転サヨナラ、注目の打席です。」
松井選手はゆっくりとオナニーボックスに立つと、おもむろにズボンを脱ぎ始めた。そして血管を浮き立たせた逞しすぎる男根を誇らしげに素振りする。全盛期の松井選手独特のオナニースタイルだ。そそり立つ男根が相手投手を威嚇しているかのように思えた。
「ストライク! 今のはスライダーですかね、女子プロレスラーのヌードコラージュでしたね」
「今のはちょっと抜けないでしょう、厳しい球投げるなー」
ピンと張った糸が部屋中に縦横無尽に張り巡らされているかと思うほど緊迫した空気が病室に流れた。いつの間にか誰も声をあげなくなっていた。固唾を飲んで小さなブラウン管を見守っている。
松井選手の男根はまたも空しく虚空を切り裂いた。これでツーストライクだ。もう目を覆いたくなる気持ちだった。
「解説の権藤さん、またスライダーですね。二球続けて女子プロコラ、これには松井、全く手が出ません」
「決め球は何できますかね」
「恐らく得意のカーブ、それもYAWARAちゃんのコラージュあたりでしょう」
テレビを観ていた誰もが息を呑む瞬間。いよいよ最後の球が放たれる時が来た。目を逸らしてはいけない。そう思った。わたしが逃げてる場合じゃない。
ドピュ!
「抜いた抜いた! これは大きい! グングン伸びているーーー!」
松井選手の抜いた白濁液は大きく漆黒の空に飛んでいった。まるで星空と一体化したかのように白い液滴がフワリフワリと宙を舞った。
「ライトバック、必死にバック、それでも追いつかない。入ったー入ったー! ホームシャセーイ!」
「やはりYAWARAコラでしたね、それを見事に抜きました。あれはピッチャーを責められないですよ」
「渾身のYAWARAコラを抜き返した松井の白濁液! ライトスタンドに飛び込みました!」
「あーあ、最前列のスペルマズファンがドロドロになっちゃってるな」
「いま、松井はゆっくりとベースを回ります。たくましいですね、あれだけのホームシャセイの後にまだ勃起してますよ。そして今、ゆっくりとホームイン! サヨナラです、サヨナラ2ランシャセイです!」
ワッと病室でも歓声が上がった。医師も看護師も入院患者も、まるで自分のことのように手を取り合って喜んでいた。
「今日のヒーローインタビューは、見事な逆転サヨナラシャセイを打ちました松井選手です! どうでしたか、最後の1球はカーブだったようですが」
そんな質問はお構いなしに、松井選手はマイクを奪い、カメラに向かって呼びかけた。
「俊夫君、見たか! 約束は守ったぞ! 今度は君が約束を守る番だ!」
それをベッドの上で見ていた息子は、ふっと私のほうを見てこう言った。
「お母さん、僕、手術受けるよ、手術受けて病気を治して松井選手みたいなプロオナニー選手になるんだ!」
私はもう、涙で何も見えなかった。
「そうだね、頑張ろうね」
そう言うのが精一杯だった。
「よし、俊夫君も松井選手との約束を守ろう。そして完治したらオナニーの練習だな!」
医師がそう言うと息子はニッコリと笑って
「大丈夫、オナニーの練習ならいつもしてるよ! 看護師さんでいつも抜いてたんだから!」
ポークビッツのような男根を差し出し、必死でしごいて見せたのだった。その手つきは素人とは思えず、また病人とも思えないほど逞しくて頼もしいものだった。
「こいつは頼もしいや! ははははは!」
いつまでもいつまでも、息子が喘ぐ声と共に医師と看護師、そして私の笑い声が病室に響いていた。
―あれから10年、ブラウン管の向こうに我が息子の逞しい男根が映し出されている。そしてそのテレビの横には、あの日、松井選手にサインしてもらったプロオナニーカードに並んで、息子のプロオナニーカードが寄り添うように置かれている。
この記事について
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171203-00010000-yomidr-sctch&p=1
きちんと理解していない人が的外れな意見で炎上させているの、見ていられなかったので書きました。
できる限りわかりやすく平易に書こうとしていますが、そのために誤解を招く表現が生じた場合は適宜修正を加えます。
三点あります
③やめてほしいこと
まずそもそも発達障害かどうかというのは医師にしか「診断」できません。臨床心理士がそうでない人間がそうかもしれないと思うのはあくまで「推測」です。そして発達障害に理解のない人間が「あの人発達障害なんじゃない?」と言うのは悪口になります。
発達障害であると「診断」されている場合、その人あるいはその人の保護者は困っている可能性が高いです。どちらかでも困っていなかったらわざわざ医者にいって診断などしません。困っている原因が発達障害であるとわかれば対処法がわかってうまく付き合っていくことができるかもしれません。この診断はレッテル貼りのためのものではなく、今後「発達障害によって困っていること」をうまく対処していくためのものです。
くだんの記事は決してレッテル貼りをしたいわけではなく、単にケースの話をしています。
「発達障害でない人間」は通常、他者への発話の際に波風をたてない言い方を把握しています。また、相手によってもそれを変化させることができます。「めんどくさいから一人で行くわ」という発言に嫌な気持ちにならないグループもあるでしょうし、仮に思うことがあっても相手を攻撃しないグループであれば、同じ内容の発話であっても話は全く違うでしょう。しかしこの記事にこの事象がケースとして乗っているということは、この女子中学生はこの発言の後「仲間はずれにされて部活にいづらくなって」います。
・その後女子中学生は仲間はずれを受けて困った
この場合、怒るべきはこの記事を書いた人ではなく、「めんどくさいから一人で行くわ」という発言に対して許容せず排除するような環境がつくられていることではありませんか? また、この女子中学生でない他者が似たような発言をしてそれが許容されるかどうかは、この女子中学生には全く関係のないことです。
その発言をしても許されるかどうか判定のできる人間とは違い、このこの女子中学生は仲間外れになりました。「なじみたい」のに「なじめない」という時点でこの女子中学生は困っています。これがエスカレートするといじめに発展する場合もあります。女子中学生って、異端に対して厳しいですよ。「自分は別に平気だった」という人もいれば、平気じゃない人もいます。平気だと主張する人は平気なのでしょうが、それを当事者に押し付けるのはおかしいんじゃないかと思います。
誤解しないでほしいのは、私はいじめの原因が発達障害者にあると言いたいわけではありません。いじめをするのはいじめる側が悪いです。そしていじめを許容する社会の歪さを表しています。しかし、女子中学生が「発達障害」であることによって「一般的な社会性に欠けた言動をすることがある」「その相手がどう思うか気持ちを考えられないことがある」ことで女子中学生が不利益を被っている場合、純粋に支援するべきです。
また、発達障害に対して理解が進んでいないことについては、ケースの女子中学生の発言に対して仲間外れを決行することからもわかります。記事に対するネガティブな反応が仲間外れをする側でなく発達障害のケース自体に向いていることも「ああ理解がすすんでいないんだな」という印象を深めました。発達障害者でないならこの記事のケースに自己投影するのはおかしなことです。
基本的に前提として発達障害者、またはその保護者が困っている以上、支援する必要があります。
この症例においてはすでに女子中学生はおそらく発達障害と「診断」されていています。あなたが医師でもなんでもなく、女子中学生の他の言動をみたこともないのであれば、あなたが彼女を発達障害であるかどうか決めることではありません。そして女子中学生の発言の一つのみを見て「自分もこれぐらい言うしこんなの発達障害じゃないじゃん」と思い込むのは、発達障害に対する偏見を表しています。
もしもあなたに発達障害者は奇声を発したりブツブツ言ったりするものだという思い込みがあるのだとしたら、それは数多くある例のうちの一つでしかないと言わせてください。
→あなたが発達障害でないなら発達障害と言うのは絶対にやめてください。冗談だとしても迷惑になります。この記事はあなたが発達障害であるかどうか診断するものではありません。あなたが普段このように言うことがあることと、記事の女子中学生がこのように言うことは別の事象です。あなたが本来憤りを感じるべきはこの発言をしたことでその女子中学生がその後いじめられたであろう環境にあるべきだと私は思います。
・職場でいじめを受け、発達障害だとレッテルを貼られ退職に追い込まれた。しかし診断結果は発達障害ではなかった。
→大変な思いをされましたね。しかしそれはその職場の人間があなたに対し行ったことであり、この記事はあなたがに対してレッテルを貼るものではありません。同一視してまるで自分がこの記事によって攻撃を受けたように言うのはやめてほしいです。
この世界でのコミュニケーションはだいぶ部分が「発達障害でない人間」で構成されています。そのため広汎性発達障害の人たちがコミュニケーションの場にいるとき、発達障害出ない人間らしく発話や行動することによって「発達障害でない人間」から異質なものに受け取られることが多々あります。「発達障害でない人間」がコミュニケーションをとるときにはある程度相手がどこまで許容するのか何がアウトなのか把握し、会話のなかで「相手を傷つけないであろうと思われる語彙」を無意識に選んだりすることが「できる」ことがほとんどです。場面などによって「できるがしない」場合もあるでしょうがそれは「できない」ではありません。
ここが一番重要なのですが「本人または周囲が困っていること」「対処法がわからずうまく付き合っていけないこと」がトリガーですので我々が「え~〇〇ちゃん/くんは別に発達障害っぽくなくない?」などというのは本当に的外れです。この手の発言はむしろ迷惑であることを知っていてほしいです。あなたにとってそれは発達障害者に対するいわゆる「誉め言葉」なのかもしれませんが、本人がそのことについて本当に困っている場合、無理解を悟って悲しくなります。「○○ちゃん/くんって発達障害なんじゃない?」というレッテル貼りと同等にやってほしくないことです。本人が困っていることについて、主治医でもなんでもない他者が判断することではありません。
もしもあなたがこの記事に対して疑問に思うことがあったなら、まず広汎性発達障害についてきちんと調べてみてください。なぜそれが「障害」だと言われているのかについて考えてください。当事者が困っていることについて、「障害じゃない」なとどいうのはやめてください。当事者が困っていなければ、それが「障害」と定義されることはありません。
眼窩の裏あたりに扁平上皮癌が出来ていると。
放射線治療も投薬も切除も出来ないので、
完治は無理ですと言われた。
転移はせず、臓器不全には繋がらないものの、痛みで食べられない時が来て、おそらくそれは半年〜一年以内に訪れるとのこと。
それまでは痛み止めの薬をやって、食べたいものを食べられるだけ、好きな事を好きなだけさせてやって上げてください、と。
まだ8歳。早すぎるよ。。。
前の奥さんと別れたとき、お前と男ひとり猫一匹の生活が始まったっけ。
離婚したてで一人で項垂れてたとき、子猫だった癖に俺を慰めにきてたな。
いつも玄関まで迎えに来てたな。
仕事で忙しくてあまり帰れなかった時、寂しさのあまりか家にあるケーブルを齧りつくしたよな。
新しく出来た彼女を家に呼んだとき、見たことない顔で威嚇してたな。
隙あらばテーブルのご飯を盗ろうとして俺とバトってたな。
その後、奥さんとなる人と暮らし始めたら速攻で懐いてたな。
今建てている新居にはお前用のハッチ、遊び場、トイレ置き場を用意しておいたのに。使う所を見たかった。
追記
経緯をちょっと書くと、
9月頭頃、抜歯した側の目が充血し涙が出るように
10月中頃、角膜に潰瘍が発見。合わせて口腔内陥没が発見。主治医からここで扁平上皮癌の疑いありと。
先週、医療センターでCT撮って、扁平上皮癌と診断。写真で見ると頬骨の裏がなかった。。。
という感じ。あっという間。
2ヶ月前までは普通に暮らしてたのに、今では腫瘍で押されているからか、片目が閉じられない状態になってる。
ただし、食欲はめっちゃある。ドライフードは嫌がるけど、食事量は前の倍くらい。
ずっと続けばいいけど。
ググって同じ癌の画像を見たけど、かなり凄惨なものもあり、正直胸に来るものがあった。
出来るだけ長生きしてほしいのは本心だけど、痛み止めも効かないくらいツラくなるなら楽にさせて上げたいってのも本心。
わからないよ。
入院中に検査のための骨髄穿刺はしたことがあるけど、そのときは局所麻酔だったし、主治医からは外来でもできる検査だから安心してって言われてた
なんで骨髄提供だと全身麻酔なんだ? と思って調べてみたら、採取する骨髄液の量が段違いに多いらしいね
ちなみに私は手術室ではなく、6人部屋の病室で、自分のベッドの上で骨髄採取しました
(もちろんカーテンは閉めて)
ベッドにうつ伏せに寝て、2人の男性研修医と主治医(男性)と女性看護師1名に囲まれながら、パンツ(下着)をお尻の半分くらいまでずりおろされたときが一番恥ずかしかったですね
あとは局所麻酔ガンガン打って、尻の上あたりに例の極太注射針をねじ込む(?)んですけど、麻酔が効いてるから全然痛くない
例えるなら、下から生えてる親知らずを抜くときみたいな感じですよね
痛くはないけど、なんか工事してる!骨をゴリゴリしてる!!っていう
6箇所も穴開けられたって書いてるけど、その穴の跡、全部茶色いシミになって残ってません?
私は2箇所に穴開けましたが、何年経ってもそのときの跡が消えません
もし自分なら、と考えてみたのですが、赤の他人のために自分の命をリスクに晒し、更に体に一生消えない丸い跡がいくつも残るような骨髄提供はとてもできないですね…