はてなキーワード: トップクラスとは
http://anond.hatelabo.jp/20131105233601
えー。過去どれだけのサービスが生まれては消えていったと思ってるの?
mixiは現在進行形で瀕死の状態を晒してるけど、あれが栄えてたのだってほんの数年前の話だぜ。
Facebookすらも離脱する奴が増えて、数年後にはどうなってるか全く見えないだろ。
何の間違いか、はてなはしぶとく生き残ってるけど、ちょっと前のブログ全盛期と現在では参加してる奴の熱量も違うだろう。
ネットでサービスを継続して使った経験が少しでもあるなら、サービスがどこまでも拡大していくなんて話が妄想だって事はわかるだろ。
わかりやすい例として検索エンジンを上げてみます。検索エンジンと言えば、Google、Yahoo!、Bing、日本はこの3つでほとんど全てのシェアを占めるでしょう。
検索エンジンはサービスです。サービスの世界にあるのは利便性とコストパフォーマンスだけです。かなりはっきりと優劣がついてしまいます。
インフラは増田の言うように利便性とコスパが勝負なので、そこに乗っかるサービスを提供していく事でユーザーを誘い込む。
サービスを使うユーザーが増えると、さらにインフラのシェアが伸びる。
アイテム課金ゲームはサービスです。検索エンジンと同じでサービスの良さが勝敗を分けます。
スケールメリットを追求し最高のコストパフォーマンスで達成感を販売するサービスだけが生き残るビジネスです。
これも違うと思う。
ゲームはあくまでコンテンツで、ソーシャルは集客要素にすぎない。
今の課金ゲームはコンテンツが貧弱過ぎてサービス的なものに頼らざるを得なかっただけで、今後はコンテンツが重視されると思う。
事実、スマホの課金ゲームにも3D化やリッチコンテンツ化の流れは来ていて、開発費の高騰はコンシューマーと同じ道を歩もうとしてる。
スケールメリットを追求したアイテム課金ゲームはどんなものになるでしょうか。
スケールメリットのためにはなによりもまず利用者の数です。俺は前の記事でも言ってましたがソシャゲは人口です。人口が全てです。
任天堂の倒し方を知ってるくせに、自分で倒れかけてるGREEを見ても同じ事が言えるのかと。
アレだけ人口を集めたモバグリも、そこに乗っかったSAPも好調だったのはここ3年ぐらいだったじゃん。
キャラクターは老若男女が受け入れられる無難なキャラクターに、ゲームのルールもとにかく無難に、
ゲームの難易度も無難に(誰がどんなプレイの仕方で遊んでもあまり変わり映えしないように)、とにかく無難でありがちな要素で固めつつ、
クオリティは圧倒的に高く、ゲーム画面はとても見やすく、ルールはとにかくわかりやすく、サーバーとの通信はとても高速で快適に、
これって、コンシューマーの現状でもあるよね。
大衆向けに作ったらコンテンツは結局、こういう方向になるって事なんじゃないの?
この先は失笑ものの妄想だらけなのでコメントする気すら起きんけど、一つ言わせてもらうと、
ユ ー ザ ー を 馬 鹿 に す る な 。
仮に増田の言うような状況が発生したとして、その1年後にはこんな記事がニュースになってるだろう
一握りのサービスで満足し続ける程、ユーザーは馬鹿じゃないし我慢強くもない。
こっちでも書いたけどさ。
http://anond.hatelabo.jp/20131105161350
もういい加減、課金ゲームをコンシューマーゲームと比較するのやめようぜ。
過去を懐かしんで現状を否定するのはやめて、新しいプラットフォームでどうやったらユーザーを楽しませるかだけ考えようぜ。
コナミやセガやバンナム、スクエニ、カプコンといった大手は、課金ゲームでの収益化を模索している。
ゲーム業界なりの成功方程式が見えたら豊富なゲーム資産を武器にコンテンツを投入してくるだろう。
ガンホーはパズドラでボーナスステージだけど、脱パズドラ後のスマッシュヒットを作れる体制が作れるかが鍵。
コロプラも同様だが、ライト向け路線でいくのか、リッチ化でゲーム屋に挑むのかはわからん。
昔増田に「ソーシャルゲームの予算規模を軽くまとめる」を投稿した元ソシャゲ屋です。
http://anond.hatelabo.jp/20110918202040
島国さんがアイテム課金の強さを解いたブログ記事が読む人を納得させるつもりが全くない手抜きな記事でしたので、
僭越ながら俺が代わってアイテム課金ゲームの未来地平線を語らせていただきます。
10年後のアイテム課金ゲーム業界。生き残っている会社は精々片手で数える程です。
その数社が運営しているタイトルはおそらく20タイトル前後程度。
そしてそのゲームはつまらないです。パズドラの100倍はつまらないゲームになっています。
しかし、そのつまらないゲーム20タイトルを運営する5社で市場規模はコンシューマ業界よりもはるかに大きくなっています。
どうしてそういう未来になるか。
アイテム課金ゲームはコンテンツではなくサービスであり、サービスビジネスの世界ではトップクラスの企業しか生き残れないが、
トップクラスの企業だけはどこまでもサービスを拡大して膨張していくものだからです。
コンシューマーゲームはコンテンツ9:サービス1くらいにコンテンツという側面がでかい商品です。
対してアイテム課金ゲームはサービスが9:コンテンツが1くらいで限りなくサービスに近いコンテンツです。
ここではコンテンツとは「表現に対価を払うもの」という意味で使います。
漫画はコンテンツです。漫画という表現に対してお金を払います。音楽、映画、小説、芸術品などもコンテンツです。
電車はコンテンツではなくサービスです。目的地により速く移動するサービスを受けるものです。SNSやスーパーもサービスです。
コンシューマーゲームは(将棋ゲームのような例外をのぞいて)コンテンツです。
アイテム課金ゲームでは絵やストーリーやゲームシステムのような表現に相当する要素は無料ですから。
満足感、達成感、優越感です。アイテム課金ゲームはお金を払って満足感や達成感や優越感を買うサービスです。
最近のカードゲームの絵は本当に豪華ですが、絵のクオリティという表現に対して対価を払うプレイヤーはほとんどいません。
時間はかかるミッションをすぐにクリアできたという満足感への対価としてお金を払うのです。
ものすごく強いデッキが完成したという達成感への対価としてお金を払うのです。
誰も持っていないレアカードを持っているという優越感への対価としてお金を払うのです。
そしてビジネスにおいてコンテンツとサービスにはその広がり方に大きな違いがあります。
コンテンツは表現を売るものなので、無数の表現、無数のコンテンツを生み出すことができます。
例えば日本におけるコンテンツの代表例である漫画を見てみればすぐに分かります。
アマゾンで新刊コミックを見てみると実に膨大な数です。どれだけの数があるのがわからなくなるほどたくさんの漫画があります。
それぞれの漫画は共存しています。ワンピースが圧倒的に売れていても漫画がワンピースだけになったりすることはありません。
サービスでは事情が180度変わります。サービスの世界では一番優れたサービスだけが生き残ります。ほかはどんどん死んで行きます。
わかりやすい例として検索エンジンを上げてみます。検索エンジンと言えば、Google、Yahoo!、Bing、日本はこの3つでほとんど全てのシェアを占めるでしょう。
検索エンジンはサービスです。サービスの世界にあるのは利便性とコストパフォーマンスだけです。かなりはっきりと優劣がついてしまいます。
アイテム課金ゲームはサービスです。検索エンジンと同じでサービスの良さが勝敗を分けます。
スケールメリットを追求し最高のコストパフォーマンスで達成感を販売するサービスだけが生き残るビジネスです。
スケールメリットを追求したアイテム課金ゲームはどんなものになるでしょうか。
スケールメリットのためにはなによりもまず利用者の数です。俺は前の記事でも言ってましたがソシャゲは人口です。人口が全てです。
日本のほぼ全人口を獲得するために、キャラクターは老若男女が受け入れられる無難なキャラクターに、ゲームのルールもとにかく無難に、
ゲームの難易度も無難に(誰がどんなプレイの仕方で遊んでもあまり変わり映えしないように)、とにかく無難でありがちな要素で固めつつ、
クオリティは圧倒的に高く、ゲーム画面はとても見やすく、ルールはとにかくわかりやすく、サーバーとの通信はとても高速で快適に、
達成感販売サービスとしてのクオリティとスケールメリットを追求したゲームになるでしょう。
その結果としてコンテンツとしての側面は極限まで薄れ純粋なサービスになります。
コンビニでお菓子を買うように、知り合いと軽くお茶でも飲むかのように、今のSNSのように誰もが自然に利用するサービスになります。
お酒の席で仲良くなった人と一緒にミッションに出かけて3分で終了するのが挨拶代わりのサービスになっています。
そのゲームは空気と同じで誰もが当たり前のように利用するサービスになっています。
そのゲームの課金はガチャ1回300円で何が出てくるかわからないなんてヤクザな課金ではありません。
パズドラの魔法石バラマキがキッカケで、アイテム課金ゲーム業界ではゲームの安売り競争がどんどん加速しています。
現在でも毎日のようにガチャチケットを配っていたり、簡単すぎてどこで課金していいのかわからないゲームが増えています。
価格が高いままで大した達成感も得られないサービスはどんどん絶滅していくでしょう。
そしてスケールメリットを追求するなら世界市場への進出は必須です。Facebookの日本進出で日本ローカルのSNSが駆逐されつくしたように、
スケールメリットを追求し最高のコストパフォーマンスを実現したただ1社だけが最終的に生き残れるのがサービスビジネスです。
海外も手に入れるためにゲーム内容は世界中のあらゆる文化圏の人間に受け入れられるレベルまで無難なものになり、
安売り競争も極限まで到達し、20年後には世界60億人が平均で一人あたり月に10円を払って利用しているサービスとして終着点を迎えます。
ここまで来たものがゲームと言えるものなのかと問われたらおそらく言えません。
サービス9.99:コンテンツ0.01ぐらいにまでコンテンツは退化しており、
純粋にお金で達成感を購入する達成感販売サービスとして完成しています。
そしてこれはコンテンツのままでは(コンシューマーゲームでは)絶対に到達し得ない地平線です。
その頃にはもうアイテム課金ゲームだなんて意識する人はいなくなります。
自販機でコーヒーを買ってカフェインを補給するのと同じレベルで達成感購入サービスを利用して達成感を補給するようになります。
すこし大げさ気味に書きましたが、アイテム課金ゲームというのがどういうビジネスで最終的にどんな形態を目指しているかがイメージできると思います。
そしてこの頃でもコンシューマーゲーム業界は生き残っています。
テレビが全世界中に普及して誰もがタダで映像を見れる時代になってもハリウッド映画が廃れていないのと同じです。
また、ハリウッド映画が圧倒的な強さを誇っていても、低予算撮影の映画もB級映画としてマニアの間ではそれなりの存在感があるのと同じで、
日本のマイナーなゲームメーカーなどもボロボロになりながらもなんとか生き残っているのではないでしょうか。
そして上記のような全世界レベルの達成感販売サービスとはビジネス規模も何もかも違っているので比べるのも馬鹿らしくなっています。
※SNSのことだろ(ブコメも立派なSNSだと思います)というコメントが多いですね。でも似ていますが違います。
人生、そろそろやばいっつーか、夢敗れて山河あり、状態が近いかもしれない。
29歳、人生うまく行かなかった。
。。。。。。。。。。。。
親に寄生して無職という選択しもあったけど、自分を試さず人生を最初から諦めるのはダメなように思って、
で、大した人間じゃないし、まあ、だめだろうな。
。。。。。。。。。。。。
。。。。。。。。。。。。
子供の頃はいじめにあい、また性格もわるかったので、人との付き合いが下手だった。
自閉気味だった。
中学では相手に合わせることを覚えて、目立たないようにした。
他人とそこそこ仲良くはできたが、思想的には普通の感覚がりかいできず、悩み続けていた。
。。。。。。。。。。。。
大学もそこそこのところに行った。
だが、不全感はあった。
はたらいても、ダメだろうなとおもった。
研究に進んだが、人付き合いはできても、心は何も感じず、また研究もうまくはいかなかった。
。。。。。。。。。。。
この世にいるのが単なる現象で、生かされてるんだなと思うようになった。
生きているというか、生かされている。
。。。。。。。。。
かくいう自分も表面上はリア充とつるむ、キョロではないリア充をやっているが、
。。。。。。。。。
ただ、もうダメぽっとなっている。
潮時だろう。
そんなの、生きててもしょうがないとも思えるので、どうなんとは思うけど。
そもそも、生きるのに適した精神ではもともとなかったらしい。
。。。。。。。。。。。。。。
人生で学んだのは、
自分は自分で人生を選んだのではなく、そもそも、生まれた性格というか、脳の何らかのエラーに操られた人生だっただけで、
また、自分が唯一やりたいのは、優越感を得ることで、
問題を解いたり競う優越感。
ギャンブルでの勝利。
そういうものが唯一で、そのためのコツコツした努力は嫌いだけど、
コツコツした努力も、段階を整理すれば其れなりにちゃんとやる。
一応知能指数もかなり高かったので、学習すればたいていは、そこそこにはなった。
また、物事を処理するのが苦手で、
同時に数個並列したりはできるけど、
興味がないものには極端に発揚性が低く、やるべきことはどんなに簡単でもできない。
それこそ、ゴミを捨てるのすら相当頭をひねって、計画しないとできない。
。。。。。。。。。。。。。。。。
砂を噛むような日々だし、これを続けられるとも思わない。
努力すれば道が開けて楽しいとか、何もしないより行きてる努力をしたほうがいいとか、大人になったら分かるとか、
そういうのひとつもなかった。
人より学んだし努力もしたけど、何もなかった。
それは、一般論ではなにかあるかもだけど、自分はそもそも、頭がおかしかった。
性格には、
それを本質的に「感じる」部分が全くなかった。
全て、何にもならなかった。
。。。。。。。。。。。。。
親が金を注いでくれただけの人間なんだと思う。
わからない。
野崎まど『know』を読んだ。早川SFクラスタでやたらと評判がよいのでいつか読もうと思いつつも、過去に同氏の作品を拝見した中生まれていたわだかまりと作品の底のようなものが邪魔をしていたのだが、ここにようやく機会を得たので所感をはき出しておこうと思う。
一言でまとめると、『know』という作品はSF的/ライトノベル的想像力によって描かれた『ブッダ』である。つまり〝知ル〟という名の少女が正覚を得るまでの生涯およびその後の万人救済を、それに連れ添ったものの手で描いた物語の体裁を採っている。宗派は技術系過激派の大乗仏教といったところ。福音書と呼んでもよいのだが、本書に織り込まれた示唆(エピグラフとクライマックスが創世記の引用であることなど)に反して作中で知ルらが辿った道は真言宗のそれに近いように思えたため本稿ではそちらの用語を採用する。
こう考えると『know』というタイトルも知ルという少女を指すとも解釈できる。だが最もわかりやすいのは目次に並ぶ章題だろう。〝birth〟から〝death〟までまさしく一生が記されている。
さて本作の舞台は2081年の京都、情報材と電子葉という未知のテクノロジーによって情報空間と現実と思考との直結を果たした世界である。一方で情報へのアクセスと保護の格差は法律で規定されるまでに進む。そんな中、語り手を務めるのは作中トップクラスの情報エリートである。
〝birth〟の章では全知を定められた十四歳の少女・知ルとの出会いとともに、社会革新の原動力となった研究、そして彼女の誕生が描かれる。ちなみにこの配置のために作者は作劇上結構な力業を用いている。またここではもうひとりのクラス9・問ウも登場している。彼の姓であるアリステラというのは「最上級」を意味する名前。位置づけがわかりやすい。ただ女性名なのは気にかかるが……。
〝child〟では神護寺を訪ねて高僧と悟りについて問答する。ここで択ばれた真言密教とは即身成仏を極意とし、また教えを秘する——つまりオープンの逆をゆく——ことを是とする仏教の一宗派であり、つまりは作品の主題と密接に関わる教義を掲げている。物語構成上からも初日にふさわしいといえよう。
〝adult〟では京都御所に匿われた古文書を通じてイザナミ・イザナギの二柱の行いから生きたまま黄泉路を往く手段を学び取る。これで境界を越える準備は万端、残るは実践のみである。
〝aged〟において知ルは当初の目論見通り入定を果たす。その前夜、主人公と知ルは〝知恵の実をかじる〟と称して情報交換における無上の行為に達する。つまりセックスをする。
〝death〟では知ルの死後の肉体と、彼女の還りを信じる主人公の姿が描かれる。この情景は高野山の奥の院で空海が今でも生存しているという伝説を想起させる。
そしてエピローグでは生還した知ルによる革新が成った社会が語られ、物語は終わる。
——わけだが、この小説の価値はなんと言っても計算されたフィニッシング・ストローク(最後の一撃)だ。
作中では真理に至るための方法を量子葉によって脳を育て、高密度の思考による情報のブラックホール化を行うことだと説明しているが、これはあらゆる意味で知ルを育てた天才技術者の言うように「我々では無理」なのだ。彼の生誕は2014年であり、刊行年の一年先に設定されていることに留意したい。アーサー・C・クラークの名作『幼年期の終わり』は年少の読者に対して希望を残したが、この作者の意地の悪さはそれさえ許さない。
しかも知ルが死後の世界で目にし、人々に広めたものが何であるかは一切語られることなく物語は終わる。
この物語が抱える問題意識は情報格差である。作者はそれを人類間のレベルから、全知の存在たる神との格差へと推し進めた。だからすべての人が全知となった瞬間、格差は消滅し、万人救済が果たされることになる。しかしそれはあくまで作品世界内の話にすぎない。読者はその外にいる。その格差を肌で感じた瞬間、初めて読者は揺さぶられ、知ることへの欲求を呼び覚まされる——格差を埋めたいという渇望によって。ただ純粋に「知ることと生きることは同じ」と断じた知ルに比べて何と浅ましいことだろう。けれどそれもまごうことなき人間の本質である。語り手が中途半端な情報強者に位置づけられていたことも、妙に鼻持ちならない人物であったことも計算ずく。すべてはこの一行の効果を最大化するための小道具に過ぎない。
もとよりメタフィクションを指向する作家であると感じてはいたが、人工的な世界を下敷きにすることでより巧みにそれを演出できるようになったらしい。
で。
実はここまではすべて前置きである。読者を操ることを至上とするこの作家がメタフィクションへの可能性をこの程度のウェルメイドな小説に留めるはずがない。
この作品に残された最後の謎はずばり〝ただひとりに向けられた暗号〟である。正直な話、この解明に挑む資格があるのは野崎まどの全作品を電子化して常に携帯するような気狂いだけに違いない。
けれど非才を尽くしてその手がかりくらいは拾い集めておきたいと思う。
(後編へ続く)
パシフィック・リムを見てきた。
本来なら言うことはない。夏らしい平凡なポップコーン映画だった。
ただ、ネットの一部界隈では、映画監督の姑息なイメージ戦略にアテられたのかなんなのか、過大評価すぎるものが多く見えるので、細々と感想を書き連ねてみる。
映画監督が円谷ファンを自称しているらしいので、円谷のビデオソフトで例えると、パシフィック・リムは、怪獣大図鑑みたいなもの。(ウルトラマンの戦闘シーンのみを編集したプロモーションビデオ)
怪獣が暴れる映像のために他の全ては下敷きか犠牲になってる。ひたすら怪獣、巨大ロボ、衝突、破壊、爆発の繰り返し。
それらのアクションシーンには、見どころが沢山ある。細部までしっかり意味ありげにデザインされたロボットの造型。重量感。一進一退の攻防が次から次へと展開する。
友人達を集めて、談笑しながら見るのなら、かなりいい作品だと思った。
ただ、それ一辺倒なので真剣に見るのには向いていない。映画館など黙って鑑賞せざるを得ない環境だと、ワンパターン過ぎて睡眠誘導になりかねない。
間というものが皆無だ。心を落ち着けて、さあこれから山場だぞ!というシーンなど無く、パチンコ屋にいるような騒々しさが延々と続く。
ウルトラマンとは違って、テーマ性は薄い。ドリフトというシステムで取って付けたようなお題目はあったものの、じーんと心に響くものではなかった。
円谷ファンを自称する監督だが、本作に登場する怪獣には円谷作品のような多様性は一切ない。
全部クローンであるという設定と、欧米的説得力の問題でああなったのかもしれないけれど、どれも土気色に水色の体液でカラーリングが一緒で、形態には差異があるものの、画面の暗さとそれに溶け込む暗い色のせいで大した差を見いだせない。
最終決戦には3体もの怪獣と同時に戦うことになるのだけど、そのときにはもうどれがどれかわからない状態になってしまった。
最後の真打ちとして登場した3体目は、カテゴリー5(今までは4止まりだったのだろう、未知のタイプだ!と司令部が騒いでいた)と呼ばれていて、さぞスゴイ奴が出てくるのだろうと思ったら、気持ち大きいだけに感じる上に、乱戦してるうちに見せ場もなくボロボロになってしまった。
何のために盛り上げたんだ!
本作では上記のように戦闘シーンに特化した結果、オリジナル作品にも関わらず原作のダイジェストを見ているような忙しなさを抱えることになったが、その対価として、大ボリュームの戦闘シーンを2回もこなしている。
ただひたすらカッチョイイロボとでかい怪獣の戦いを表現したいというのなら、間違っていない選択だと思った。
海底に開かれた次元の扉を閉じるために、主人公たちのロボットは海底を歩いて進み、そこを守る怪獣と最後の決戦を繰り広げるのだけど・・・。
深海なので画面が暗く、水中なので動きは鈍い。敵が3体でてくるものの、暗さと没個性が相まってただごちゃごちゃ戦っているだけという印象。
地上での戦いだけで良かったのではないか。前半のほうが凄く感じただけに鈍い上に乱戦でグレードダウンした感のある最終決戦は、視聴者にとっても集中力の限界との戦いだった。
マーケティングの一環なのかなんなのか、監督の日本に対する愛情の現れなのかはわからないけれど、本作には日本人俳優がメインヒロイン役として参加する。
現代のヒロインを演じた菊池さんのほうは、海外の俳優に混じってなお遜色のない演技をしていた。吹き替えだと声が林原めぐみだし、かわいい。
ただ、問題は子供時代の回想シーンで。芦田さんという日本屈指の子役俳優が演じたのだけれど・・・。
最初にフォローとして、泣きながら逃げるだけな上に、実在しないCG相手というハードルの高い演技であったろうことは言っておくとして。
日本のトップクラスの子役と言えど、いざ洋画にでてみると、世界の子役俳優の足元にも及ばないのだなということがわかる。
最後、斜陽を背負うイェーガーを見上げる場面になると、お遊戯感が炸裂する。
”眩しくて顔に手をかざす”という行為と感覚を理解していないのだろう。あのシーンだけ、最近ありがちなCGギトギトのダサい邦画を見ている気分になった。
全体的に見て、僕はこの映画は好きだ。
映像はやっぱりすごいとおもったし、音の使い方も凄く良かった。
主人公機が画面中央に現れるときには決まって「デューン」というジングルみたいな物が入るのだけれど、あれのお陰で暗くごちゃごちゃした画面でも、すぐに主人公機だ!カッケー!という気分を呼び起こしてくれるので凄く乗りやすかった。
ビデオを借りてきて家で見るのなら、下手な名作系の映画よりも満足感を得られる内容だろうと思う。
でも、最近ネットで見られるレビューのたぐいは、流行に流されて一辺倒になっている雰囲気がある。
あまりに勢いがありすぎて、この映画が面白く無いやつはわかってないという上から目線めいたものも見受けられる始末。
本作はそこまでのものじゃない。ただ映像がかっこいいだけの、ポップコーン映画だ。
この映画を見て満足感が得られなかったとしても、当然と思えることは上に書いたように沢山ある。
おそらく、監督は円谷作品のファンということを大々的にアピールしていたことが出火元のひとつであるように思うのだけれど、
それで釣られた人たちは、この映画を見終わって果たしてどう思うだろう。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/12/004216を読んで思い出したことがある。
思い出したから書いているだけで、それ以上でもそれ以下でもないことを先に述べておく。
1950年代生まれの女性がいる。叔母ではないが、記載が面倒なのでここでは叔母ということにしておく。
叔母はそこそこの中学を出て、慶応女子高に行った。当然、高校を出たら慶応大学に行くつもりで。
当時は1学年3クラス150人弱、半分くらいが中等部からの持ち上がりで残り半分が高校受験して入る。いずれにせよ、東京とその近隣から通う女の子ばかりだ。
受験して入ってきた下町のクラスメイトが2年になったときに驚いた
彼女以外の全員がびっくりした。
このクラス、じゃないよ。
たまたま勉強ができたので、中学の担任が異様な熱意を持って彼女とその両親に慶応女子高の入試を薦めた。
なので、彼女は慶応女子高を受けた。通学もそんなに時間がかからないし、悪くないと思ったからだ。
でもそれ以上のことは考えていなかったらしい。
大学なんて、本当に一部の特別な人が行くところで、中学で勉強ができたからといってみんながみんな行く場所ではない・・・彼女の頭の中では、世界はそうなっていたのだ。
「だからなに?」
彼女は女だったから、大学卒業後、就職先で結婚相手を見つけて家を出た。その地域を出た。高学歴の人がたくさん住む地域に、移っていった。
けれど男だったらどうなったのだろう。
就職しても転勤が無ければ、親元から会社に通っていたのだろうか。
近所の飲み屋で幼馴染と顔を合わせたときに、仕事とは別によぉよぉと話をうまく合わせられたのだろうか。
結婚相手は幼馴染から選べたのだろうか。それとも大卒→就職した大企業の仕事ぶりに合わせた相手を選んだのだろうか。
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もう一人、私の友達のことも書いてみる。
関西生まれで、彼はトップクラスの国立大学の工学部から大学院に進み、研究所勤めをしている。
彼の両親は中卒で、兄3人も高校中退。彼だけが勉強の人だった。
仕事の関係で東京で暮らしていたけれど、めったに関西に帰らなかった。
なぜ帰らないのかと尋ねた。
「帰ってもだれとも話が合わないから」
勉強する環境っていうものを親も理解していなかったから、両親が自分のためにテレビを着けるかつけないかでけんかするのがテレビ以上にうるさかった。
兄たちの宿題は小学校のころから全部自分がやっていた。面白いと思うものがあっても、兄弟とも近所の男の子たちとも共有できなかった。
兄たちは好きだ。でも、兄も両親も「会社で働く」ということが分からない。だから「最近どうしてるの」といわれて、返事をしてもまったく会話にならない。
好きだけれど、会話が成り立たないんだ。だから帰りたくないんだ。
「想像してみろ。いわゆるレールの上を行く男たちの人生を。小学校中学校と常に成績はトップクラス。有名進学校と受験戦争の駒をすすめ、一流大学にはいる。はいって3年もすれば今度は就職戦争。頭を下げ会社から会社を歩き回り、やっと入る一流企業。これが一つのゴールだが、すぐに気がつく。レースがまだまだ終わっていないことを。今度は出世競争。ギャンブルにも酒にも女にも溺れず、仕事を第一に考え、ゲスな上司にへつらい、取引先にはおべっか。毎日律儀に定時に会社へ通い、残業をこなし、ひどいスケジュールの残業をこなし、そんな生活を10年以上続けて、もう若くない。40近い年になってやっと蓄えられる金が1000万、2000万という金なんだ。」(利根川幸雄)
たった6年しか無い参院の任期の一年を何のビジョンも提示せず「なんでもやる」
それは対外的には何もやらないのと同じじゃないのか
ワタミ自身にいれてくれてるワタミ支持者にたいしてはそれでいいのかもしれないが
あんた比例当確だろ?
自分自身の勉強のために比例票を無駄にするのか。他の参議院になる人たちの公約も曖昧なものが多いがそのなかでもトップクラスにビジョンが曖昧だ。
しかもブラック企業の代名詞にまでなってる企業の元会長さんのくせに「うちがブラックなら日本にブラック企業なんていっぱいある。気にしてない」とか言っちゃってる。いやいや気にしろ。「クラスの皆もってるから3DS買ってー」と同じレベルか。
なにが「子供たちが夢を語れる国にしたい」だ。20時間拘束の低賃金で夢とかばかじゃないのか。手に職もなく、技術も身につかず、毎日に必死でステップアップすらできなくなるわ。
正直反吐が出る。なんでもやるなら「すぐに辞任」してくれ。
参議院ていう制度自体もやめてほしいくらいなのに。2制にするならもっとマシなシステムにしろ。
【追記】
TBの争いが悲しいよ
最近また就職活動に関して書かれたものを見るようになったので何となく書いとく。
で、自分が自分なりの経験と周りの言ってることを合わせて色々と重要なことがあるのでそのへんを。
まず、強調してもしきれないところがあるので書いとくけどさ
諦めない
これ。
いや本当なんかもうちょっとこれ頭に叩きこまなきゃいかん。日本は新卒採用至上主義だから。日本は新卒採用至上主義だから。
もうね。もしわからないんなら、新卒でこぼれたらどうなるかの末路を今すぐここを離れてGoogleで調べてみるべきだ。就職活動自体がクソみたいなゲーム?そうだ。その指摘自体は正しいかもしれない。だが残念な事実だけれど、その指摘をしたところでその残念なゲームを避けながらあなたの人生をより良くする方法は残念ながらないみたいだ。なので、もしそれを強く思うのであれば、なおさら、そのゲームでよいスコアを残し、よい職についてまともな社会的地位を得た上で、もう一度それを訴えながら社会に影響をあたえることを試みるべきだ。
さて、長くなったけれど、この点はおさえていてほしい。それでも諦めたくなることがある?そうかもしれない。実際就職活動はとても不条理なゲームだ。努力を行ったところでスコアが上がる程度はおそらく知れているし、元々そのゲームのスコア自体がほとんど運に任されている。実際に就職活動を終えた人の声を聞いてみたらいい。あれはほとんど運だった、とみんな口を揃えて言うはずだ。一部にとんでもないハイスコアを残す人がいるだろう。でもおそらくそういった人は、トップクラスの学歴だったり、帰国子女だったり、体育会で実績を残していたりなどなど、可視化されたわかりやすいシグナルがあるに過ぎない。そういったものを持たないほとんどの人達にとって、やはりこのゲームは運にまかせることになる。
では何が言いたいのかというと、これはもう、結果出すには数当たるしかないってことなんだよ。単純に打席×打率で成績が決まる。で、打率の部分は自分の能力値にとんでもなく秀でたもの(又は極端なマイナスポイント)が無い限り、大差ないことになる。
のでひたすら打席数を増やすしか無い。ここで重要なのは、もうひたすら運であると、完全に割りきって、自分が否定された感覚を持ち過ぎないことだ。自分も経験があるのでとても理解できる。お祈り、なんてものはなんだか全人格を否定されているような気分になるものだけれど、そうじゃない。採用の枠が決まっていて、例えば10人の枠に100人が応募しているとする、そうならば自分がその10人に入る確率は単純に10分の1なんだよね。そこに特別にアピールできるものが無い中で挑めばそれはもちろん確率のゲームとして打率は一割だ。けれども感情が生じる。自分は否定された、自分には価値がない、だとか。そうではない、単純にそういうゲームなのだから、静かに音楽が流れる椅子取りゲームでタイミング悪く、音楽の鳴り止んだ時に自分の目の前には椅子がなかったと受け止めればいいんだ。
なんかもうちょっと色々書きたいことがあったけども、このことはほんとうに紛れも無い真実だから。なんだかんだそのとき大変でも続けてれば気づいたらどうにでもなってたりするから、がんばってください、ほんと。
29歳が昨日見た夢の話。
10代後半であろう僕はね、きっと7個くらい上だろう兄と暮らしてるわけよ。親らしきヒトは見当たらない。
そしてたぶん近所に住む兄と歳の近い幼馴染みであろう「ねえさん」て呼んでるヒトがいて、その3人で農場?みたいのをやりくりして生計を立ててた。
いつからなんだろう、たぶん、ずっと長く。
農場は近所の人達と共同で使用しているような農場でボロボロではないけど、僕ら3人がいるから、いるからというか3人を育ててくれるために続けているような状態に思えた。
近所の人達は僕らよりだいぶ歳上の人たちばかりで子育ての延長のような想いもあってかよく面倒を見てもらってた。
芋と豆を一緒に育てたり、農場だけどお茶を液体の状態で出荷したり、全員がゴルフウェアを着たセレブな家族が来て農場内での犬の散歩を手伝ったり、その土地の偉い人っぽい高齢の老夫婦のおばあさんと喋ったり、近所の人達と休憩の合間に楽しくご飯を食べたり。
若い3人ではなんだか危なっかしい感じだったんだろう、いろんなヒトが手伝ってくれてた。
若い僕が見てるのは、最高の理想ではないし刺激なんて皆無だけど、みんないつも笑顔のそんな暮らしだ。
兄は顔は整ってるが聡明ではなく、時折バカが染みだしてしまい、けしてかっこいいわけじゃない。
でも不思議と周りに人が集まる人望のある人で、いつも明るくて人を気遣って寂しい雰囲気を出さなかった。愛嬌のある性格だった。僕を不安にさせないようにしてたのかもしれない。
ねえさんは自分から楽しく喋るわけじゃないが話している側が楽しくなってくる不思議な魅力のある、地域でもトップクラスの美人だ。
いろんな人と話ができて無理してる訳じゃなく笑顔を絶やさない人で、いつも明るくて兄よりももっと人を気遣って寂しい雰囲気を出さなかった。達観してるというか、芯の強いヒトなんだろう。
まわりのひとは、僕もそうだったけどいつか兄とねえさんが結婚するんだって思ってた。
3人で生計を立てていてそれが自然だったから疑ったことなんてなかった。なにより2人はだれがどうみてもお似合いのふたりだった。
今朝はねえさんが農場に来る前から兄がいつもより元気だ。
自分たちの農場で生産しているモノを多分だがベタ褒めしている。多分というのはその表現方法に擬音が多すぎて意味不明だからだ。
ああ、バカになってるな。
そうかやっと勇気を出したか。僕のことなんか気にするな。本当におめでとう。
兄の一大決心は農場で芋と豆を選別中に僕もいる前でさり気なく言ってみたつもりだったんだろうけど不自然全開だった。
ねえさんは黙った。どうしたんだろう。
兄はバカだが理解した。兄と同じ血筋の僕はすぐに理解できなかった。
兄が「そうか」とつぶやきにしてはでかい声で仕事を放り出して走って結構な速度で視界から消えた。僕はその時にようやく理解できた。
いつのまにかねえさんもいなくなってた。
少しぼーっとしてしまった。近所の人達が手伝いに来てくれる頃だな。
そんなことはどうでもいい、どう考えてもねえさんを探すのが優先だ。
事務所らしきところに向かった。農場中に響く放送でねえさんに向けてとりあえず事務所に来てと呼びかけなければいけない気がしてる。
途中、探してないけど兄を見つけた。今朝元気だった男がアロハを着て猫背でこちらを見ながら立ちすくみ号泣していた。そして近寄ってくる。
泣いている理由を話している。擬音が多い。
どうやら沖縄のダイビングスクールに行く気らしい。号泣しながらなぜか多言語で「沖縄に連れて行って」と書いたヒッチハイク用のパネルを首から下げて号泣しながら走って農場の正面口とは逆の方角に消えていった。
そういえば前に農場で芋を全滅させた時も兄は号泣して近くの海で泳ぎまくってたな。と、冷静に思い出した。
走り去っていくアロハの兄を見て、僕といつのまにか手伝いに来てくれた近所の人達は笑いながら「まーた始まったよ」みたいな空気でそれでも兄の性格を知ってるから、あれならどこに行っても大丈夫だろうと放っておいた。たしかに兄はバカになれる人だから大丈夫だろう。
そんなことより問題はねえさんだ。老夫婦のおばあさんに事務所から呼びかけてもらい、僕は農場内を必死に探した。
ねえさんは正面口付近で仕事としての犬の散歩を頼まれている最中だった。セレブ家族よ、空気を読まずによくそこで止めた。偉いぞ。
「ねえさん!大丈夫か!」 声がいつもより大きくなってた気がする。
「今日はもういいから、それと明日からのこと気になると思うから後で連絡する。あいつは大丈夫そうだったから気にしないで」というと
ねえさんはいつもどおりの笑顔になろうとして「別に私は大丈夫だから」とセレブ犬を引き連れたまま農場の正面口から出て行った。
追って呼び止めればいいのに「どう見ても大丈夫じゃねえだろ、明日からあんたどうすんの?」なんて考えている間にねえさんを見失った。
頭のなかとは言え、ねえさんを初めてあんた呼ばわりした。兄のことを聞かず、話を切るためにいつもどおりに振舞おうとしたねえさんの態度に冷たさを感じてちょっと腹が立っていた。
ねえさんに明日からのことどうやって伝えようか考えながら事務所に戻った。
3人ともまだどうにでもなる年齢なんだ。将来を気にしながら生きなきゃいけないけれども希望も夢も可能性もあるし、なんとでもなるんだ。と普段はあまり喋らない土地の偉い老夫婦の夫が言った。たぶん僕を慰めてくれたんだろう。
明日から僕自身、生活できなくなるわけだが、そんなこと考える余裕は頭のどこにも無かった。
農場を閉めなきゃいけない時間だねと近所の人に言われ、そんな時間かといつもどおりに道具を片付けに行こうとしたら
29歳に戻った。
「ちょっとおもしろいいい夢だったなー」とぼんやり思い出して断片も拾い集めてニヤニヤした。それから寂しくなって後悔した。
兄とねえさんにお礼を言っておけばよかった。近所の人にも。
兄には「またね」それとねえさんに「フラレた方は皆が慰めてくれるしなんとでもなるから、フッた方は必要以上に傷つけてしまった、もっと早くどうにかできてたなんて思ったり気に病むことなんてないんだからね」と言っておけばよかった。
兄はきっと夜には旅行者の車に乗っけてもらって話を聞いてもらって慰められながら南下し、旅行者のいい思い出になってるだろう。あいつは大丈夫だ。
ねえさんはきっと普段を取り戻すまでに時間がかかるのだろう。
ヒトの幸せな生活を壊してしまった、時間を奪ってしまったという自責の念に捕らわれるタイプの性格だ。
ねえさんはどうして断ったんだろう。僕が知らない、兄が知らない所でなにか考えてたんだろうか。肉親関係でなにかあったんだろうか。
今の生活の限界を感じ取ってたのかもな。いま考えると兄をあの農場から解放するための勇気だったかな。なんてったって刺激がない。
なにか理由があって一緒に行けないというのもあるんだろう。
いやそれは今の僕の願望で、きっとずっと前からその気なんて全然なかったのに周りの期待を裏切れなかったんだろうな。
兄の性格を知ってるからってのもあるんだろうけど、同情をしないように流されないように肺の奥を押し殺して返事をしないようにして断ったんだと思う。芯の強い人だから。
うおー、マジか、ついにセンター無くなるかーと、センター試験を受験した世代として感慨に浸っていると、その目的は「大学志願者の学ぶ意欲を引き出すことで高等教育の質を高め、国際社会で活躍するグローバル人材の育成につなげる」ことらしい。
呆れてしまった。
日本No.1大学である東京大学の秋入学、推薦入試の導入は記憶に新しいし、No.2の京都大学も入試改革に躍起だ。そしてその目的は、概ね今回のセンター試験改革と同様である。
ただ、この流れには違和感を禁じ得ない。
「入試改革」の話はよく聞かれるが、「教育改革」の話は聞かないからだ。
入試なんていうのは、単なる選抜にすぎない。それによって教育を施しているわけではない。
学習意欲が無かったり、グローバル人材が育たないのは、入試が悪いからなのだろうか?それは誰がどう考えても否である。
百歩譲ってFラン大学が入試改革をするならまだ分かる。しかし、東京大学や京都大学は誰もが認める日本トップクラスの名門大学である。
日本最高クラスの人材が集まっているはずで、そこで「入試改革」をして一体何になるのだろう?
「入試改革」は、学生の質の担保を高校に丸投げしていることに他ならない。
学習意欲が無かったり、グローバル人材が育たないのは、高校や入試のせいではなく、大学のせいである。
4年間をかけて大学が学生を育てなければならないはずなのに、何故かそれを怠り「入試」で出来るだけ完成された学生を求める。無い物ねだりにもほどがある。
こんなのは「高等教育機関」ではなく「高校生選抜機関」だ。実に恥ずかしい。
ユニクロ、社名でいえばファーストリテイリングは240時間以上時間外労働をすると処罰(しかもかなり凄まじい)の対象になるので、それ以上はみな申告せずにサービス残業状態である。
しかし、逆に言えば、240時間まではしっかり残業代が出るということである。
240時間ということはだ、例えば基本給が21万とすれば、21日出勤8時間労働を基本とすると、時給1250円。
割増で1.2倍でるとすると36万もの残業代が支給されている計算になる。
基本給と合わせれば総額で57万である。
明らかに、あと一人雇ったほうが安い。
これが繁忙期の1ヶ月だけ240時間残業が必要だけど、残り11ヶ月は暇で暇で定時帰りってなら、雇い入れない理由としてわかるが、ファーストリテイリングはこの殺人的な時間外労働が定常化している。
あるいは、残業代は240時間出すけれども、実際は+200時間ほどサビ残してもらっているので元は取れてるという理屈だろうか。
ファーストリテイリングのサービス残業に対する姿勢というのは、かなり厳格なもので、サービス残業が発覚した場合、上司を含めて降格、繰り返せばクビというものだ。
「仕事が出来るようになってもらいたい。成長してもらいたい。」
と心底思っている。
普通の人が200時間以上残業しなければ終わらない仕事を定時までに終わせる、これが柳井正の考える足切りラインである。
これが常軌を逸しているのは明らかであるが、それについてはここで区切ろう。
常に、社員一人一人が成長できる前進できるように、出勤退勤時間を一時間以上前倒しして、早く帰って家で勉強できるように配慮し、英語教材を配るという配慮。
「どんなに忙しくても、辛くても、乗り越えろ。乗り越えるだけじゃなく、次のステージでも活躍できるよう力を蓄えろ」
涙が止まらない。
「はじめから出来る人などいない」「一勝九敗でいい」「行動してみる前に考えても無駄です。行動して修正すればいい。致命的にならない限り失敗してもいい。やってみないとわからない。」といい、今、出来ないことよりも、常に前進することが重要、チャレンジ精神を非常に高く買う。
と言うような社員を高く買う。
社長についたTという男、彼の目にかなっただけあり、それはそれは超人である。
ラガーマンで全国準優勝の経験があり、20代でMBAを取り、つまり体力も知力もトップクラスであった。
しかし、たった三年で解任される。
「去年フリースが売れすぎたから、今年売り上げを落とさないためにはどうしたらいいか」
そんなことはして当然、更に攻めろ攻めろ、である。
Tのほか、何人も社長を譲ろうと打診したことがあるが、いつも固辞されてきた。
そりゃあそうだろう(笑)
根本的には、柳井正の言う、「仕事が一番楽しい」の「仕事」の部分も「楽しい」の部分もズレまくってることが全ての原因だろう。
彼の言う「仕事」は、一般人には、「フルマラソン」くらいに聞こえる内容だ。
しかも、彼の「楽しい」は「せっかくだから金だったり命だったりを賭けて走るのが楽しい」「当然、いつだって倍プッシュ」である。
どれだけ凄まじいことか。
5兆って、日本国内だけで5兆売ろうとしたら、生まれたばかりの赤ん坊から死にかけのジジババまで、一年に一人4200円ユニクロ製品を買わないといけない。
そんなの絶対に無理だ。
アパレルで今最も世界で売り上げている会社だって、1.2兆くらいだ。
アパレルで5兆売るなんて、大嘘つきか、キチガイか、どちらかだ。
2000年に2200億だった売上は、2013年9月予想では1.1兆円となる。
柳井正はたかがアパレルと思ってないし、たかが平社員、店長、たかがバイトとは思っていない。
高い志と、海よりも広く深い心で、神様です。
でも、ついていける人はいません。