はてなキーワード: 課題図書とは
大学時代、気にくわない講義は出席もせずノートも買わずに単位を取って卒業していた俺が来ましたよ!
自分を高める為に通う勉学の場である大学においてまでごまかしとはあまりに情けない。○○大学卒という肩書きはインチキで卒業した程度の人物でも真面目に講義に出て勉強していた者との区別はつかない。
肩書きはインチキできるけど、学んだ内容自体はインチキできない、それだけの話ですね。きちんと講義に出ていても、丸写しノートを一夜漬けした程度の理解もない人って結構多いですけどね。むしろ、実践においては講義で教えられた知識だけで事足りるということはあり得ないので、一夜漬け能力も重要ですよ。
私に言わせれば、一夜漬け野郎程度の理解もできていないできの悪い学生が、真面目に講義に出席していたというだけで単位に温情を与えられる方がよっぽどインチキだと思いますがね。
あと、どうでもいいことですが。
読書感想文なんてのは、教師が「生徒の自主性」の名の下に、予定調和的に自分のお気に召す作文を書かせる儀式なわけですね。要するに「正解がある問題」なわけです。だったら、正解をどこから探してきてそれをコピペするのは当然過ぎるほど当然。その程度のくだらない課題なんだから。俺は小学生の時は「この課題図書はつまらん」とかいちいち書いて提出してましたが、労力の無駄でしたね。
ただ、元記事やそのブクマにも腹が立つのは確か。要は単なるサボりの自己正当化とルサンチマンでしょうと。
これについては、私もcoconutsfineさんに賛成だ。「時間を節約させる」ソリューションをお金で売るのは正当なことであって、ビジネスの基本ですらある。世の中には、お金を出して時間を買いたい人がたくさんいる。
大学の中はビジネスの世界と同じ原理で動いていない、それだけのことですね。
マジメに勉強すれば成果が出るとは限らない。それは、マジメに働いても成果が出るとは限らないのと同じだ。現実の社会では、マジメさももちろん重要な資質だが、能力の違いやプロセスの違いも結果に大きな差を生む。
こういう人の言う「現実の社会」とは「ビジネスの世界」の単なる言い換えなんですよね。「アカデミックの世界」は現実じゃなくて虚構の世界に存在しているわけですか。へーえ。そういうお為ごかしの言葉を使って自分を正当化するのはよろしくないですねえ。
ちなみに、じゃあお前はどうやって単位を取っていたかといわれそうですが、自分で本を探して独学したり自主ゼミ組んだりしていました。
私の大学には、一部の教官の間でも、「講義は一手段であって拘束ではない、ただし結果は一切自己責任」という風土もありました。そのかわり、そういう教官の試験は一発勝負の温情なしだから、単位に甘いというわけでもなかったのです。
そうやって、どの講義に出てどの講義を捨てるかということを試行錯誤していく中で、「学問との付き合い方」という、ある意味では学問の中身それ自体よりも重要なことを学んで行けたように思いますね。卒業して以降、在学中に学んだ知識の全てが役に立ったとは言い難いですが、在学中に「学んだ」こと自体は大いに役に立っていると言えるでしょう。真面目に受けた講義が実はカスだったり、捨てた講義が名講義だったことに後で気づいて後悔したことも、今となってはいい糧となっていますね。
また挫折しそう。中学時代から数えて何度目だろう。
一応文学部に籍を置いているんだからさっと一読くらいはしておこうと思うのだけど、どうも苦手で。
といっても、『吾輩は猫である』なんかは読めたし、「夢十夜」は大好き(特に第一夜。世界文学も含めて、これまで読んできた短編の中で五指に入るくらいの愛しぶり)。高校一年で課題図書になった『こころ』も読めた。その他にも、短篇・中篇の類いはそこそこ読んでる。
問題はいわゆる「三部作(三四郎・それから・門)」と呼ばれているもの。「三四郎」の頭数十ページでいつも挫折する。どうにも読み進めるためのドライブ感が感じられない。なんなんだこのインテリ非モテ! ウザいんじゃ! という気持ちがふつふつと沸いてきて堪えきれなくなってしまう。むー。どれくらい読み進めると面白くなってくるもんなんだろう。