はてなキーワード: 矯正とは
やれ「コンビニの野菜は栄養が流れてる」やら「加熱すると栄養が流れ落ちる」やら「なんたら性食物繊維になりえないからもっとこれたべろ」とか
俺は娯楽で野菜食ってるの
栄養とか知るか
野菜くいてーから食ってるのになんで正しい効率的な食べ方矯正されなきゃいけねぇんだよ
キレそう
いまや誰もかれもが、運動といえば馬鹿の一つ覚えのようにジョギングをしている。
そもそもジョギングとはかつてのテニスやフェンシング、乗馬のようにハイソなスポーツであり、庶民がやるものではなかった。ジョギングは自己と周囲の他人にたいして一定の配慮ができる人のみに許されたエレガントなたしなみだったのである。
それが、外に出て走り回りさえすればジョギングをやったことになり、あたかも流行最先端のワークアウトをしているかのごときイメージがつきまとってしまった結果、実施人口が増え、一気に民度が下がってしまった。
新型コロナウイルスの流行においては、ウイルスの混入した飛沫を吹き散らかしながら公道を走り回るモンスターが多数発生し、ジョギングは悪そのものとなった。
このような事態となったのも、ジョギング=簡単かつ流行最先端のワークアウトという根拠のないイメージを大衆に流布し多数の参入を招いた者の所行があったからである。
我々は過去に遡り、このような根拠のないイメージを矯正し、今こそジョギングを人口10万人あたり0.2人までが実施可能なマイナースポーツに戻さねばならない。
これは誇張ではない。日本の人口規模、もともと馬や飛脚が走ることしか想定していなかった江戸時代の道路計画がほぼそのまま引き継がれている日本の公道にとっては、それぐらいの実施人口がかろうじて許容可能な適正レベルなのである。
僕は学生なのだが、休暇中は大量の課題と勉学を程々にしつつも、インターネットの海でバカンスを過ごしていた。
さて、本題に入ろう。新型コロナウイルスの流行によって更に露呈してきた「大人(笑)」について、少々愚痴を垂れ流させていただきたいのだ。
「大人」は何をもって大人とするか。僕はこの問いにいつも頭を悩ませる。
マスクを高値で転売し不要不急の飲み屋へ出歩き著名人を誹謗中傷し「自粛警察」ムーブをし、更に口を開けば「若者がー」。
こういう事を言うと「大人に反抗したがる尾崎豊のなりそこないがよォ」と言われそうだが、そんな人には、「反抗期」は「大人に反抗したがる時期」ではなく「子供と違ってなんでも出来ると思っていた大人が子供と同じくなんにも出来ないことを知ってそれに言及しだす時期」で、それを乗り越えると「もう皆何も出来ないんだから一々矯正しようと思うのも疲れた」と思いだすのが人間だと思っているので「あなたにもこんな感じの時期、ありませんでしたか?」とだけ言っておこう。
最近の話題で言うと、「センター試験の廃止」「外部試験の導入」が僕からするととんでもなくムカついた。ああでも安心して欲しい。大人の方々、初めからあなたたちに期待などしていない。特に教育関連の仕事に務める方々よ。しかし、期待していないにしてもこれはあまりにも酷すぎやしないだろうか。なんの中身も計画もなく、ただなんか国際的な国際に合わせて国際したかったんです国際🥺というのが伝わってきた。滑稽。
「身の丈にあった受験を」なーんてこと、思っていたとしても言わないのが大人(笑)の務めではなかろうか。身の丈にあった職業じゃないからその職辞めた方がいいですよ。
「私たちの時はこうだったからお前らも我慢しろ」理論はすごくサムい。そんな考えは大便と共にトイレへ流してからインターネットを使ってくれ。あとそういう大人(笑)に限って我慢してない。
「大人」っておっきくなった子供で、人間はもって生まれた価値観のベースからそう簡単には変われないんだよって、「大人」ってだけで信頼する同世代に言いたい。「大人」なんていないんだ。子供に手を出す大人は、あなたにとってどれだけ落ち着いてカッコよく見えたって、同年代から見ればただのハリボテだ。
この国を支えてくれているという点を無視した結果の文章でないことは分かっていただきたい。それはそれ、これはこれ。
ここまで喚き散らしておいたのだから、僕は「大人」な大人にならなくては示しがつかないな。
まず初めに「身の丈にあった」スーツでも買ってこようか。
これ、よく考えると「労働を代替するためのロボットが恋愛対象をも代替する」がテーマだから、矯正施設に入れられて治療用のVRの中の女性に恋をするオチの方がいいかな。
これらはすべて自分の思い込みであるかもしれない。それを前提に、各々判断された上で、できれば助言を賜りたい。
多少長くなるが、最後まで読んでもらえれば伝わるはずだ。これは決してはてなユーザーにとって無関係の出来事ではないと自分は考える。
ある迷惑系YouTuberがいる。(そもそも「迷惑系YouTuber」なるジャンルが存在している時点でげんなりするが)仮にAとしよう。
自分がAを認識したのはおそらく半年ほど前。自分がたまに動画を見るYouTuberにAが絡んできて、ごちゃごちゃしていたのがきっかけだ。
「ああ、炎上芸ね」と思って、自分の中でAの存在をミュートした。
それからも、ちょこちょこAの存在がちらつくこともあった。相変わらず、有名YouTuberに凸をして知名度を稼いでいるらしいということは知っていたが、特段気にしていなかった。
先日ほぼ初めてAの動画をまともに視聴する機会があった。詳細は省くが、その動画では、とあるYouTuber(Bとしよう)の自宅に凸し、B本人ではない関係者(つまり一般人)に対するプライバシーの侵害が堂々と行われていた。
考えるより先に当該動画をYouTubeに通報していた。当然、チャンネルごとBANされた。
(余談だが、当該動画がBANされる以前にこの動画を取り上げていたYouTuber系情報サイトがあり、PVほしさにプライバシー侵害に加担しており、あまりにevilと言う他ない)
そもそもそのチャンネルも2週間ほど前に新設されたチャンネルで、迷惑行為、時には犯罪行為を動画にして、その度にチャンネルがBANされている。
まず当該動画を観た時点で、強い嫌悪感と同時に、違和感を覚えた。
BANされた当日、チャンネルをまた立ち上げ、1本目の動画では、「もう迷惑行為はしない、Bの自宅にもいかないと思います」と宣言(?)していた。その数時間後には、そのチャンネルに、BANされるきっかけとなった当該動画を再び投稿。新チャンネルも即座にBANされた。
本題はここからだ。
Aの行動はもう、炎上で知名度を稼ぎ、再生数を伸ばして金を稼ぎたい、という初発の動機から逸脱しているからだ。
別のYouTuberが「何がやりたいのかもうよくわからない。当初、戦略的に迷惑行為をしていると考えていた。けど、本当に何にも考えてない奴なんだ」と言っていた。その通りだ。
「承認欲求」が現代ではまるで悪かのように語られることが多いが、それ自体は自分を愛するためには必要なものだ。ただ、Aの承認欲求はどんどん肥大化して、暴走が始まっているようにしか見えない。
このまま彼を放っておけば、取り返しのつかないことが起こるかもしれないと思っている。
自分の考えすぎであればそれが一番いいが、過去の痛ましい事件を教訓にするなら、何かアクションを起こすべきだと考え、悩んだ末に増田に書いている。
言うまでもないが、Hagex氏の殺害事件を念頭に置いている。
あらかじめ言っておきたいことがある。ここまで書けば、Aについて思い当たるユーザーもいるかもしれない。しかし、ブコメで当該人物の名前やリンクを貼るのは止してほしい。このエントリが本人に届くことは本意ではない(だからタイトルも抽象的にした。正直伸びるか不安だ)。
実は、Twitterで本人に注意することも考えた。しかし、それは逆効果ではないかと考え、対応に窮したため今この増田をしたためている。
はてなとは文化圏が違いすぎるため、このエントリーが自然と本人に届くことはない。
自分は、AからYouTubeを取り上げるべきだと考えた。当該動画のサムネイルがすでにプライバシー侵害にあたり、そのサムネイルが投稿されているため、Twitterも通報しようかと考えた(まだしていない)。
しかし、それでは何も解決しないどころか、逆効果かもしれないと思った。
自分には専門的な知見はないが、Hagex氏の殺害事件については、多くのはてなユーザーと同じく、衝撃を受け、その後の裁判の推移を見守り、どうすれば防げたのかについて考えた。
https://anond.hatelabo.jp/20191114021558
Hagex氏の殺害事件について、犯人について、「何度も通報されてBANされ続けた犯人は、はてなという居場所を奪われ、運営やユーザーを敵と認識し、殺意が芽生えたのではないか?」という指摘がある。
もともと犯人の言動はおかしかった。通報は妥当だった。しかし、それが彼の行動をエスカレートさせた側面がなかったとは言えない。
今YouTubeでも同じことが起きている。Aは今後も、何度もBANされるだろう。その度に、行動がエスカレートするかもしれない。
当該動画の再生数は、自分が確認した段階で数十万再生ほどあった。味をしめて、ますます過激化するかもしれない。
コメント欄は、YouTuberキッズで溢れている。読まずともわかるだろう。そこには、Aを煽り、犯罪行為を助長させるコメントが並んでいる(もちろんまともなコメントも沢山ある)。
そして、YouTuberは、他のYouTuberの言動をたびたびネタにする。的を射た批判もあれば、炎上に乗っかって再生数を稼ぎたい中身のないものもある。
例に漏れず、Aについて、他のYouTuberがこぞって動画のネタにしている。これも、Aを助長する要因になってしまいかねない。
凶行に対して自衛することはできる。しかし、このまま放っておけば、AあるいはAの周囲で、痛ましい事件が起こるのを防ぐことはできないのではないか。
先のエントリでも書いた通り、自分は、日々起こる事件の一部は、経済的支援(例えばBIの導入など)によって防ぐことができると考えている。しかし、この国でそれは期待できない。
例えばAが、犯罪行為以外の動画配信に切り替える。あるいはYouTube以外の食い扶持を確保する。
例えば身近な人間がよくAの話を聞く。その上で、必要に応じて、しかるべき機関(病院や警察)に協力を仰ぐ。
自分が考えられるのはそのような方法だが、調べた限り、Aの身近な人間で、そのような提案を受け入れ協力してくれる人は見つかっていない。Aの仲間やスタッフ(マネージャー?)と思しき人間は存在するが、その人間に期待することはできない。
正直に言ってとても面倒くさいが、自分自身が警察に通報することも辞さないつもりだ。ただ、Aが犯しているのは軽犯罪の類で、反省しているふりさえしていれば執行猶予がつくだろう。またすぐにでもYouTubeを再開するのは目に見えている。
Hagex氏の殺害事件は痛ましいものだった。自分ははてな民として、せめてあの事件を教訓としたいと思っている。
(今日1日とても忙しくしているためほとんど反応を追えないし追記などもできないので悪しからず)
反応見ました。コメントも全部読みました。読んで、ましてやコメントをくれてありがとうございます。
そしてこの期に及んで、ブコメで名前を出したり、Hagex氏の刺殺犯を蔑称で呼ぶユーザーがコメントを残していることに、多少なり失望しています。
まず、その後について報告します。
Aは、逮捕された可能性があります。スタッフがSNSでそう投稿し、本人も沈黙を守っています。
報道されたわけではなく事実の裏どりができているわけではありません。
ただ、彼に迷惑行為、あるいは犯罪行為をされたYouTuberは多く、そういう意味ではいつ逮捕されてもおかしくないため、事実である一定の可能性があると考えます。
自分は当初、逮捕されても意味がないのではないか、といった懐疑的なことを書きました。
悶々と眠れない夜を過ごしそのままの勢いで書いた今朝から時間を置いて、冷静になった今、皆さんのコメントを読んだ上で、多くのユーザーが指摘されている通り、やはり司法の手に委ねるのが一番いいと思い直しました。
コメントに答える形で、もう少し、自分の立場と考えを説明させてください。
親愛なるとかいっといて自分は増田で身分隠して書くのかおめでてーな 増田を汚すなよカス
指摘はその通りです。しかし、自分は匿名をかさに、普段、対面で言えないような言葉遣いはしないように最低限気をつけています。
自分が顔と実名晒してその迷惑系ユーチューバーとやらを攻撃してターゲットを自分に移せばいい話
そのくらいの覚悟なしに他人を集団でイジメて何か解決すると思ってんのかクズが
これもその通りです。覚悟がないわけではありませんが、現時点ではその覚悟を固められていません。しかし、大きな誤解があります。Aを批判する意図はなく、単に無駄な人死にをできれば防ぎたいというだけです。理由は後述します。
たとえどういう文脈であろうと、低能先生の内心を慮ったり心情を推察したりHagexに殺された理由を求めてみたりしたくはないし、するべきではないと思う。意味不明幼稚な動機で人を殺した奴を絶対に赦してはならない
自分は、そうは考えません。人生を踏み外す瞬間は実にあっけなく訪れます。必ずその時、本人は思います。「まさか自分が」と。
今日と同じ明日が来ることを何も疑わないでいられればそれは幸せですが、その幸せはある日、何の理由も脈絡もなく奪われることがあります。
これは単なるつまらない事実です。その事実を踏まえて、自分は、明日自分が被害者ではない確信も、明日自分が加害者でない確信も、持つことはできません。
主張と意思には同意するけど「犯罪やりそうな奴がいるので、実際にやる前に『矯正』してあげよう」という事でもあるしなあ。
もしかしたら、そうかもしれません。昔でいう『マイノリティ・リポート』、今でいう『PSYCHO-PASS』みたいな世界観でしょうか。
しかし、ことが起きてしまった後に「こうしていればよかった」と自分自身が悔やまないために、痛ましい事件を未然に防ぐために、今この時自分に何ができるか、それを考えるのがそんなにおこがましいことでしょうか?
自分は、「人を救いたい」とは思っていません。人が人を救うなど、おごりが過ぎると考えます。単に、必ずしも起きなくてもよかった悲劇をできれば避けたい。そう思っているだけです。
Bもsamyuの実家にいる両親に凸して晒しあげて稼いでだから嫌いだわ。
自分も同意見です。自分は、そもそもYouTuberというジャンルが苦手です。中でもBは比較的嫌いな部類に入ります。YouTubeを見る時間は、はてなを見る時間のおよそ20分の1程度です。
しかしAの件に関しては「Bも嫌い」という話ではありません。好き嫌いの話ではなく、このままでは抜き差しならない事態になるのではないという危惧を表明しています。
来られた方もロクなもんじゃない事には触れないのな。hagexの時と同じで卑怯者だよ。お前は生前のhagexや◯◯◯◯には苦言を呈そうとしたのか?どういう行動原理で動いてんだよ。(勝手に伏せ字にしました)
大きな誤解があります。自分は、たとえ被害者であろうが、Hagex氏の言動は看過できないものと考えています。Bも同じです。できればBにも、他人を煽り、「〜〜〜を救いたい」みたいなクソにクソを塗るような妄言を垂れ流す動画を投稿するのは金輪際やめてほしいと、そう思っています。
しかし、B自身は“戦略的”で“打算的”な人間です。再生数ほしさに犯罪行為に走るほど血迷っていない、という意味で。その点、抜き差しならない状況にあるのは、Bではなく明らかにAです。
増田は何を守りたいの?A自身?Aに迷惑をかけられているYoutuber?事件を未然に防げたかもしれないのにと悔やむ未来の自分?自分が絶対守りたいものをひとつだけ選ぶと自ずと行動が決まるのでは。全部は守れないよ
目の前で、命のやりとりが行われそうになっているとしましょう。自宅の隣で、今にも、誰かが誰かの命を奪いそうな状況を察知しているとしましょう。
できれば止めたいと自分は考えます。それは、誰かのためではないのです。強いて言えば自分のためでしょう。
隣で殺人が起きても、自分は平和に暮らせるでしょう。でもある日きっと、わからなくなる。あの日、殺されていたのはどうして自分ではないのか。あるいは、あの日、殺したのはどうして自分ではないのか。
あの日の自分を止めたい。ただ、それだけです。この感覚を伝えることは非常に難しい。ただ、自分はAのためでもBのためでもなく、“AにもBにもなっていたかもしれない自分”のためにだけ、胸を痛めています。
単なる一視聴者に過ぎないのに責任を感じすぎ。もうYouTubeを見るのをやめたら?精神が持たないぞ。いやむしろ既に精神的にヤバくなってるからこそ首を突っ込んでる可能性もあるか…
ヤバくないです。むしろ、ヤバくならないために、どうすれば防げるかということを考え、質問しています。
すごいこと発見した!「愛なるは」を反対から読むと「はるな愛」だ。
ほんとだ!
人は、放っておいても死にます。何なら、すぐにでも死にます。だから、無駄に命を縮める必要はない。自分はただ、そう思っています。
まだ終わってはいないけど。正直に言えば個人的にはよかったことのほうが多い
・在宅勤務が常態化
・思想界隈、左派への幻想の消滅(別に右派にも期待はしていないが)
・はてブをみなくなった
一度生活が止まり、半ば慣習化していた付き合いなどもリセットされ、本当に自分に必要だったのか再検討する時間ができた
お金はたかが10万と思う人もいるかもしれないが貧乏だと超切実で貯金何か月分に相当するかを考えるとありがたい、福音だ
PCを買い換えなければならないが分割でなく一括でそこそこのスペックのものを買えるのは非常に大きく、やっと始めたり環境を構築できることがたくさんある
思想や政治についても一時期よく見ていたが、今思えばコミットすることが自分の幸せに結びついていたか?を考えるとむしろ逆だ
考えるのをやめろとか思想を持つなというわけではなく、何かに属して矯正されるびが窮屈だったと自覚できた
人に考えや所作を強要したり減点法で人を罵倒する姿に思想ではなく人間をみてしまったからだ
はてブにしてもそうで知らないうちに煽りに影響を受けていたと認める、見なくなって気分が楽になった
twitterも同様で徹底的に整理しトレンドもみなくなり無意味な不安がなくなった
一度立ち止まることで自省できたこと、新しく踏み出すチャンスを得たことに要約されるがとにかく個人的には悪いことばかりではない
「投資」ってお金を増やすイメージがあるけれども、こういうのも純粋な「投資」だと思う。
お金の投資ってリスクがあって、リスクの許容度次第でリターンの範囲がだいたい決まってくる。
けれどもこれらは、お金と時間をきっちりとかけなければならないが、リスク(=変動の意味)の割には大きなリターンを長期にわたって確実に得ることができると思っている。
もしも、似たような事例があれば教えてほしい。
(読書についてはよい投資だと思っているが、「リターンを確実に得られる」という点でリスク(変動)があり、シャープレシオ(投資の効率性)が上の例より落ちる と思っている。なお、上述の例に対しては反論していただいて構いません)
まあみんな言ってることでもあるけど色々な記事を読んだ上で妄想マシマシで書くとたぶんこんな感じなんだろう
法務省官僚A「黒川のせいで法務省も検察も評判ガタ落ち…これで退職金まで全額払ったら不味いよな?」
法務省官僚B「でも法務省内規でできる矯正措置(訓告や厳重注意)[1]じゃ退職金は減らんぞ。懲戒処分するしかないけど基本的に任命権者である内閣がするもの[2]だし進言するか」
法務省官僚C「人事院指針でも賭博は戒告相当[3]だって主張すればいけるだろう」
官邸の人間A「そんなことしたら内閣の責任が問われるじゃん!法務省内で完結する形にしてよ」
官邸の人間B「懲戒処分と矯正措置両方とも行った例もある[4]けど、基本矯正措置は懲戒処分をするに満たない行為で行うもの[5][1]だろう?懲戒処分と違って法務省による矯正措置は検事総長ら法務省の人間に権限がある[1]から矯正措置を行ってもらえば内閣としては動かずにすむ」
官邸の人間C「じゃあ法務大臣には内閣の一員でなく法務省の一員としてという体で訓告を提案してもらえばいいな」
法務大臣「(法務省の一員として意見を言えば)事態は重大で(法務省単体で判断できるなかで一番重い)訓告が妥当だと思います」
法務大臣「(それはさておき私としては)訓告が妥当だと思います。最終的には措置権者の判断になりますけど」
法務省官僚「どちらにせよ内閣は動く気はないな…。けどすぐに何か措置を打たないと世間から批判が出る…」
検事総長「検事長に訓告できるのは私だけ[1]なので私から訓告しておきましょう」
首相「(懲戒処分はさておき検事長に対する訓告については検事総長にしか権限はないから)検事総長が諸般の事情を考慮して適切に処分を行った。私はその報告を法務大臣からもらった」
メディア「どういう経緯なの?」
法務大臣「法務省内と内閣で協議して内閣で決定されたものを私から検事総長に伝え、検事総長から訓告にすると聞いた」
野党「法務大臣、首相の証言と食い違ってるよね?嘘ついたの?法務省は懲戒処分相当だと思ってたらしいけど」
法務大臣「いや、法務省内と内閣での協議は同時並行だったので…。協議の中でさまざまな意見(懲戒処分相当だという意見か?)が出たのは確かだけど、(内閣は懲戒処分をする気がなく)協議の結果、法務省としては(法務省に懲戒処分の権限がないから)一番重い訓告が相当だと考えた。そこで(法務大臣である私は法務省の代表(=行政庁)なので)法務省として訓告が相当だと検事総長に伝えた。(制度上検事長に対する訓告権限は検事総長にしかないのだから)検事総長が訓告相当だと判断して法務省から内閣に報告し(当然だが)内閣から異論は出なかった。(検事長に対する訓告についての)措置権限は検事総長にしかないから検事総長が処分を行ったという首相の答弁と私のメディアに対する発言に矛盾はないし、法務省としても意見を述べることしかできない」
刑事局長「(最初どう判断したかはさておき)経過としては、法務省として調査結果を踏まえて(最終的には)訓告が相当だと考え検事総長に伝えた」
官房長官「法務省が21日検事総長に訓告相当と伝え、検事総長も訓告相当と判断して処分した。同日法務省から内閣に報告があり、決定に異論がない旨回答した。法務省の調査結果や黒川氏の処分内容についてはあくまで法務省と検事総長が決定したもの(確かに訓告については検事総長にしか措置権限がないから『決定』は検事総長が行っている)」
官房長官「(質問には直接答えず)今申し上げた通り(だが懲戒処分についての判断に関しては何も答えていない)」
一部の人「つまり官房長官は内閣は懲戒処分にするか訓告にするかの判断に全く関与していないという主張か(早合点)」
と、仮にこういう経緯だとすれば嘘は言っていないな嘘は。
でも、この妄想通り時系列の前段階とか一部の事実をばっさり削ってたすればかなりミスリード。
櫻井よしこ氏の番組で安倍首相が「基本的に検察の人事は検察の総意で決まる」「介入して変更してない」みたいなことを言ってたのもそういう類の手法使ってるんじゃないかね。
そしてこういう可能性があるのに勝手に解釈して官邸主導の一部報道を否定と書くと多くの人が騙されるのでよろしくない。
別に首相や法務大臣は「官邸は懲戒処分すべきだと主張していたのに法務省は訓告で済ますべきと反対した」と言ってるわけでもないんだから、「勝手にメディアや国民が勘違いしただけ」とか言って逃げるぞ。
[1]
第1条
1 法務省(外局を除く。)の一般職の職員(以下「職員」という。)が国家公務員法(昭和22年法律第120号)第82条第1項各号のいずれかに該当する場合において、服務の厳正を保持し、又は当該職員の職務の履行に関して改善向上を図るため必要があると認められるときは、当該職員の監督上の措置として、訓告、厳重注意又は注意(以下「訓告等」という。)を行うことができる。ただし、同項に規定する懲戒処分を行おうとするとき又行ったときは、この限りでない。
2 訓告は、職員の責任が重いと認められる場合に、当該職員の責任を自覚させ、将来における服務の厳正又は職務遂行の適正を確保するため当該職員を指導する措置として行うものとする。
https://yamanaka-bengoshi.jp/法務省職員の訓告等に関する訓令%ef%bc%88平成%ef%bc%91%ef%bc%96年%ef%bc%94/:title=山中理司弁護士による資料紹介]
なお、上記総務省文書によれば、矯正措置の権限を持つ者として「法務大臣……検事総長」などが挙げられている。山中弁護士が示している訓令原文にある表によれば検事長に矯正措置を行えるのは検事総長に限るようだ。
「ただし、同項に規定する懲戒処分を行おうとするとき又行ったときは、この限りでない。」にも留意する必要がある。
[2]
検察庁法
第15条
1 検事総長、次長検事及び各検事長は一級とし、その任免は、内閣が行い、天皇が、これを認証する。
第84条
[3]
懲戒処分の指針について
第2
(9) 賭博
[4]
あくまで倫理法等に違反する疑いのある行為に対して国家倫理委員会が動いたものではあるが、2018年は懲戒処分と矯正措置の両方を行った事例が2件あったという。
[5]
また、各府省は、懲戒処分に至らない非違行為について、指導・監督上の措置として訓告、厳重注意等の措置(以下「矯正措置」という。)を講じている。」
あんなことをさせてまで、戻れないことは、想いに応えられなかったことになりますか。
戻らないことは、言葉を、想いを、理解できなかったということになりますか。
あんな昨日ですら、届いた悪意は、こんな風に見えるべきではないとわかっているけど、隠し通すのならば、「あの場所に戻る」という選択肢しかないのであれば、私はもう本当に、そこにはいられない。
必要な時だけ、必要なことだけ、できることがもし万が一あるのなら、その時だけ、その旨だけ、言ってくれれば、なんでもするよ。
伝えるべきではない。
隠しきるしかない。
笑っていればいい。
笑っていなきゃいけない。
幸せだけ見ればいい。
楽しいだけ伝えればいい。
隠し切らなきゃいけない。
痛みなんてない。
無視すればいい。
そう言い聞かせて、言い聞かせて、また一睡もできずに、布団から出られずにいる。
涙と鼻水の量で、いいデトックスとダイエットにはなったかもな。
最近はひとりで手帳に文字を書いて書いて、躓いた漢字は10回ずつ練習したりして。
一昨日は、「滑稽」っていう漢字がスムーズに書けるようになった。
どれだけ文字を書いても、知りたいことは自分の中からは見つけられないし、どれだけ眠れずにひとりで泣いていても、次の日にはまた同じことで涙が出ちゃったりする。
1/100でも言えてたら、スっと消えてたはずのモヤモヤが、ひとりだと、消化したつもりが、何度でも蘇ってくる。
そろそろ限界かなって、なんかこう、わーってしたくなる。わー!!!って。叫びたい。
でも。
そんなふうに、「ひとりじゃ無理」なんて、いつまでも言ってるわけにはいかなくて。
何かがなきゃダメだとか、誰かが居なきゃ無理だとか、そういう、自分以外の何かに貰う幸せは怖い。
自分次第で変えていける以上のことは、もうやらない。
ひとりでいなきゃ。
ひとりでも大丈夫なようにしなきゃ。
だって。
早く慣れなくちゃ。
所詮私はこんなもんだよ。
夢なんて見なくても、生きていかなきゃ。
楽しくなくても、毎日を乗り越えなくちゃ。
そうやって、キラキラしたものから目を逸らして、うつむいて、必死でこうやって、何も見ないように、何も聞かないようにして、見たいものも、聴きたいものもシャットアウトした中で、それでようやく、最近ようやく少しずつ、眠れるようになった。
それでもほんの少し聴いただけで、すぐにまた世界がキラキラしてしまう。
そんなことを繰り返してきた。
出された結論が、正しいってことは、すごくよく、ちゃんと、わかってる。
私はそれ以上もそれ以下も望んでなんていない。
いつだって変わらない、正しくて、まっすぐな姿勢に、すごく安心している。
そういうところにすごく惹かれたんだと、改めて強く思う。
本当に、そう思う。
でも。
それが本質じゃないって、確信じゃないって、ちゃんとわかってる。
言葉尻を捕えるのはよくない。
伝えたいのは、そういうことじゃない。
わかってる。
ちゃんとわかってる。
けど。
死んでしまった感情やえぐれてしまった傷は戻ることはないし、悩んで悩んで泣いた日が無かったことにはならない。
そもそも。
痛みを感じずにいられるくらいなら、そうしてた。既に何度もそうしてきてた。
傷を見せずに笑える程度なら、笑ってきた。
ねぇ。ちゃんといつも、笑ってたでしょう?
許容できない、許せないとか、認められないとか、そういうことではなくて。
別に誰かがどうとかじゃなくて、そんなことはどうでもよくて。
んー、なんて言えばいいかな。
言わなければ、出さなければいいとか言う問題ではなくて、「殺意」や「悪意」がある場所に、私はいられない。
それは、合うとか合わないとか、好きとか嫌いとか、そういう問題じゃない。
だって、合わないからと言って、攻撃や反撃をしたいってなる心理が、私にはわからない。
だからそれはつまり、「合わない」以上に、【「私」に「徹底的な落ち度」がある】ということになる。
いくつも直そうとしてきたけど、原因をいくつ潰しても、止むことは無かったし、何をした?何が悪い?ずっと考えて、直そうとしてきたけれど、そのどれもが、攻撃対象としていいという程の落ち度だとは、思えなかった。(もちろん完璧でないしできた人間ではないし、落ち度は沢山あるのは重々承知しているけれど)
これからもそんなことに気を使って、気を配って、神経をすり減らして、自分を殺して、それでも笑っていくことは、もう限界。
何がそんなに悪いのか。
何がそんなに不満なのか。
何がそんなに嫌なのか。
何がそんなに迷惑なのか。
いっぱいいっぱい考えた。
直そうとした。
変えてきたこともあった。
でも、解決しなかった。
いっぱいもがいた。
だけど、これを「努力不足」と言われるのであれば、私に努力はできそうにない。
これからは、自分を変える努力ならば、自分自身か、喜んでくれる人のためにしていきたい。
快感も幸福も喜びも幸せも全部ぜんぶ、そんな恐怖も痛みもかき消すほどの威力があったから、ずっとそこにいたけれど、だからといって、恐怖も痛みが、無かったことにはならない。
マイナスなんて、そんなの簡単に超えるくらいに幸せよ。もちろん。そりゃそうよ。そんなの、わざわざ言わなくたってわかってるよね?
私がどんなに救われて、どんなに楽しくて、どんなに幸せだったか。
そんなこと、さすがにちゃんと、伝わってるよね?
嬉しいし、幸せだし、本当にどうしようもないくらい、泣けるくらいに最高!って震えるよ。それだけが事実だよ。
それが足りないなんて聞こえたら、それは悲しすぎるから、それだけは本当にやめてよね。
だけどね。
興奮が穏やかな日常に戻ったとき、切り刻まれた傷を、隠しきれる自信がない。
傷ががちょっとあったから気に食わないとか、妥協できないとか許容できないとか、そういうことじゃない。
聞かなければいい、見なければいい、そういうことには、できなかったよ。毎日毎日。毎日さ、頑張ってみたんだよ。しようとしたんだよ。
でも、痛かったし、怖かったよ。
“くだらない、しょーもない”と言われても、私には、もう限界だった。
心の中の細胞が、壊死したみたいになっちゃって、腐って動かなくなっちゃったしこりができた。切り取って、無機質な何かで埋めるしかなくて、ちょうど、私のからだとおんなじみたいに。
「信じて」くれる人も「いない」のに、馬鹿みたいに図々しく、笑ってなんていられないよ。
守るとか、そんな労力、こんな私に使う必要なんてない。
守ってほしいわけじゃない。守らなきゃいられない存在であるのだとしたら、そんな自分が悪いと思う。
そのチカラは、もっと大事な、「信じてて」「感謝してる」「大切な」人たちに、使ったらいいよ。
だって、そんなキレイで、みんなが幸せで、《平等で対等な世界》は、〈私の目の前の現実〉とは、【イコールじゃない。】
これが水平だという説得力は私にはないし、そもそも、そんな歪んだ世界を見せたくないから、説得するつもりもない。
“鵜呑みにしていない”と何度も言うなら、だったらもう、そんな事実、全部ウソだと思って、何も無かったことにしてくれていいよ。
全部私の嘘で、被害妄想で、かまってちゃんで、歪めてるのは私で。それでいいよ。私に、信じるだけの、日頃の行いが、価値が、足りなかっただけのこと。
ううん。そうじゃなくても、あの発言も、決断も、鵜呑みにしないことも、全部正しいと思う。そうするしか無いと思う。
だから、別に責めているわけでも嘆いている訳でもなくて、本当に心から、正しいと思う。
だけど、全部私の嘘で、被害妄想で、かまってちゃんで、歪めてるのは私、ってことにしたとしても、私ひとりが違って見えてしまっている世界には、い続けることはできない。
歪んでいるのが私の方だって、美しい世界を見ようとしても、ハッキリと突きつけられる現実の、矯正の仕方がわからない。私には、私に見えている現実が、言葉が、態度が、つらい。それだけのこと。
これは私の問題で、だから、どうして欲しかったとか、責めているとか、間違っているとかじゃない。正しい。そうでしかない。そうするしかない。ちゃんとわかってる。
信じてほしかったとか、寄り添って欲しかったとか、味方が欲しいとか、そんなワガママを言うつもりも、そもそも、そんな願望も微塵もないけれど、だったらじゃあ何が望みなんだって聞かれたら全然わかんないし。
だったらどうしたらいいんだって言われても、そのままでいてほしい、幸せでいてほしい、笑っていてほしい、以外の望みなんて何も無いよ。今までも、今も、ずっと。
そういうところが好きなのは、本当だし。
すべてを超えるほどの光なのも、宗教かよってくらいに信じてるのも、幸せなのも、本当だし。
だからこそ、こんな風にうだうだ辛気臭い顔をしてる自分が許せない。
「サイコー!」「楽しい!」「天才!」「かっこいい!」って笑っているだけ、ができないのであれば。こんな顔をしているのであれば。そんな私は、いるべきじゃない。
「邪魔」「消えればいい」「死ねばいい」「早く消えろ」「迷惑」「みんなが望んでる」おっしゃる通りです。まったく。そうだよね。その通りです。って感じ。
別の、私の役割だと喜んでやってきたことも、既に変わりはちゃんといる。
会社と同じで、私がいなくて回らなくなるような組織なんて、この世にひとつとしてなくて、そうやって世界は回ってる。
噛み合わない錆びた歯車は、とっとと捨てて、交換してしまったらいいよ。
もっともっと大きくなるのなら、たくさんの人が関わるのなら、なおさら。
パーツひとつで揺らいじゃうようなヤワな作りじゃないって、そんなの私が一番わかってるけど、だからこそ。
そのパーツが全体の動きを少しでも鈍らせたり、他のパーツを傷つけたり、バランスを崩す可能性がほんの少しでもあるのなら、その欠陥品が私なら、一刻も早く捨ててしまってほしい。
まっすぐな場所に、私だけが歪んでいるその場所が、それでも好きだったけれど、そこが私の居場所だったことは一度もなかった。
その特等席で、私だけが歪んでいて、そこでは見られないのなら、ひとりでそっと遠くで見ていようと思った。
だけど、遠くで見るのはダメで、どうしてもその場所でないと見られない星なのであれば、もういっそ、心の中で思い描くだけでいい。
それでも十分に、私の心を照らしてくれるし、見えなかったとしても、俯いていたとしても、その星が何よりもキレイに光っていることを、私はちゃんと知ってる。
だから、それでいい。
大丈夫。
私はひとりでも大丈夫。
そんなこと、幼稚園の頃からわかってたはずなのに、ちょっと、期待しすぎちゃっただけ。
キャパ以上の、身に余るほどの、幸せや夢を、少し見させて貰えただけ。
楽しくて、幸せだっただけ。それだけ。
願いが叶えられるように、そうなるように生きろというのなら、私はひとりでも大丈夫なように、これからも感情を殺す努力を、ちゃんとする。
誰からも守ってなんかもらえなくても、ちゃんとひとりで立てる場所で、ひとりで暮らしていく。
誰が味方じゃなくても、自分で自分自身を正しいと思えるように、変わっていく。
もう泣かないために、きちんと食べて眠って生きていくために、そのためだけに、生きていく。大丈夫。ちゃんとできる。
大丈夫。
誰かが照らさなくても、キラキラ輝いていて、これからますます、輝きは増していく。
見てくれる人は、たくさんいるから。
ごめんね。
傷つけるだけ傷つけて、結局は何の役にも立たずに捨てられてしまうだけの歪んだパーツで。
期待通りに、戻ることが出来なくて。
頑張らなきゃって思ったけど、もう死んで、切り取ってしまった細胞は、戻せないや。
隠し通すことが出来なくて。
ずっと笑っていられなくて。
本当に幸せで楽しかったのに、要らないところを見せてしまって。
それなのに、近くで見ようとしたりして。
こんなこと、見せたくなかったし、笑ってたかったのに。
ごめんね。
泣かせてしまって。
こんなことを言わせたかったわけじゃないってわかってるのに。
消えないように、救うために、言ってくれたって、ちゃんとわかってるのに。
ちゃんとわかってるのに、望み通りにできなくて。
わかっているのに、こんな風にしか思えなくて。
わかってるのに、こんな風にしか言えなくて。
わかってるのに、またいなくなろうとしていて。
本当にごめんね。
すごくすごく、幸せでした。
これからも、遠くても、
輝く星が存在してくれているということが、今までも、これからも、私のいちばんの幸せです。
本当にありがとう。
これからは、「サイコー!」「楽しい!」「天才!」「かっこいい!」って、キレイな世界だけを見ていてほしい。
ずっと笑っていてね。もっと輝いていてね。
これからもずっと、大好きだよ。
毎日新聞の世論調査によると首相支持率が急落しているそうで、つくづく首相にはなりたくないもんだな、とそう思った。
他の政策の賛否はともかくとして、目下の最大の問題である対新型コロナウイルス防疫政策についてもっとも成功しているのは日本だろう。
にもかかわらず、首相の仕事というものは民衆の賞賛という形では報いられてはいない。
一つは死者数の少なさと、今一つは我々の市民的自由への当局による制約が事実上一つもないということだ。
この二つを同時に達成した国は、他に一つもない。
なぜこの二つに注目するべきか?当たり前すぎるかも知れないが一応振り返っておく。
まず、死者数。
感染しようがしまいが、結局は命を救うのがもっとも重要だろう。
苦しい病気にかかりたくはないが、死ぬよりはいいし、感染しても症状がでないまま終わるのなら免疫ができるわけでかからないよりもいいかも知れない。出歩かれても困るが。
ちなみに超過死亡という概念もあり、国際的な比較にはこちらの方が有効だという議論もある。
この指数で見ても日本の状況は、諸外国に比較して優れていると言える。
もちろん、経済は重要だ。だが、経済のために自由や人権を無視して良いのか?そうではあるまい。
我々の一人ひとりが自発的にさまざまな自由の行使を控えているのだ。
自粛警察とか同調圧力とかいうのは瑣末な問題で、諸外国にもあるものだし、そもそも当局による行為ではない以上、政府による直接的自由の制約とは言えない。
緊急事態宣言にともなってそれらが生じたとは言えるかもしれないが、それは間接的なものであるし、ならば間接的な制約と直接的な制約でどちらが政府による自由への干渉の程度が大きいか?問うまでもない。
もちろん「自粛警察」による他者の権利の侵害は非難されるべきものだが、実際にそれは本物の警察によって取り締まられている。
マスクの転売禁止と、医療機関へ分配するためのマスク供給業者からの強制買上げ。
これらも市民的自由への干渉と言えば干渉なのだが、例えばフランスのように理由のない外出を禁じる(移動の自由への明白な制約)と言った強硬なものとは程遠い。
ましてや一個の都市からの移動の手段を完全に封じるとか、スマホにアプリをインストールさせて接触者を全部特定させるとか、「検査拒否罪」で強制的にPCR検査を受けさせるというものではない。
日本以外の国で防疫に成功している国は、どこも市民的自由をかなり大胆に犠牲にしている。
生命、市民的自由、経済、これらは三つとも重要だが、少なくとも生命と市民的自由を守るという点でもっとも成功したのは日本だ。
経済への影響は、どこの国もまだどの程度のものになるかは分からない。
ならば現時点では、日本のCovid-19対策こそが自由世界の模範であろう。少なくとも現時点では。
強調しておくべき義務を感じるが、日本の成功は「市民的自由を犠牲にしないCovid-19防疫は可能である」ことを示す重要な証拠だ。
「自粛」というのは社会的かつ自発的な行為なので、その主体は我々一人ひとりの国民だ。
我々の政府の選択は「社会における接触を8割減らす」という専門家会議の方針をバカと言われようがアホと言われようがほぼ「国民への呼びかけ」のみで実現することだった。
そしてそれは成功した。
政治は我々の社会が育んできた専門知を信頼し、愚直にそれを実行した。
その途上で、俗悪なメディアに煽られた民衆がPCR検査の実施拡大を求めたが、首相は拡大するとは言ったものののらりくらりと躱してきた。
こんなものを真面目にやっていたら(おそらくはできたろうが)本当に医療システムは崩壊していたろう。
さて、私が首相だったらと考えてみる。
なにをしていただろうか?
PCR検査を増やすとは言わなかったとは思う。足りないから増やせという発想ではシステムの別の部分を壊すことがあることを職業上よく知っているからだ。ただ、記者や低俗なワイドショーを口汚く罵って舌禍を起こしていたことだろう。
マスクは配ったと思う。暇でバカな痴呆老人がやることが無いから街からマスクがなくなっている。あいつらに我慢させるためにとりあえずばら撒いたるわ。だがやはり舌禍を起こしていたことだろう。
経済について私は何をしていただろうか?少なくとも手続きが面倒だとかなんだとかっていう連中には「お前ら、その金が必要ってことは仕事がないってことだろ。面倒でもやる時間くらいあるだろ。忙しくてやる暇ないなら商売繁盛で結構なことだ」と煽ってやはり舌禍だ。
口も育ちも悪い。
幼少期から「〜じゃねぇよ」「〜だろ」みたいな言葉遣いばかりしてきた。
女の子なんだからそんな言葉遣いしないでって親にも言われてた気がするけど、そもそも親から移った言葉遣いなので、さして厳しく矯正された覚えはない。
小学生の頃、同じ学区に養護施設があって、親が死んだり虐待された末に施設で暮らす子供が、だいたい学年の10%くらいいた。
施設の子供は、窃盗恫喝虐めを繰り返す不良から、いつも笑って心優しく振る舞う模範生まで様々だったので、人間性は家庭環境に寄らないのだと思っていた。
人見知りの恥ずかしがり屋で、授業で当てられると極小さい声で短く答えるような、でも仲のいい友達とはよく笑ってよく話せる、大人しめの子供だった。
私も似たような性格なので仲良くなって、休み時間も放課後もよく一緒に遊んでいた。
仲の良いAのことを施設の子だと意識せず一緒にいられたかというとそういうわけではなく、Aには一定の嗜虐性が見られた。
自分より弱い者に対して、小学生でも越えちゃいけないラインの罵倒を繰り返した。
加えておくが、A自身が自分より弱いと認める人間はごく僅かで、私は最初はAが誰かを見下すことすら想像できなかった。それくらいAはいつも大人しく謙虚な態度だった。
しかし、一度でも自分より相手が弱いと認識すると、聞いてるこっちまで苦い表情をしてしまうほどの酷い罵倒を勢いよく吐いた。
我々と同じクラスに、いつも浮いてしまう女子Bがいた。なんとなくクラスメイトからは軽い無視やいじられを受けていたが、本人は自覚がない上に正義感が強く、クラス委員を立候補するような人だった。(そして投票で落ちる)
ある日、白衣を忘れたので私服のまま給食当番をするAを、Bがやんわり咎めた。
咎めても仕方ないのだが、Bはそういう性格なので指摘せずにいられない、というようだった。でも出来るだけ優しく、言葉を選んで軽く注意した。
Aは激昂して、持っていた箸とアルミ皿を、音を立てて机に叩き置いた。
お前如きが、このブス、役立たず、しゃしゃり屋、吃り、ニキビ、死ね
そのあとも色々続けていたが、授業中では2cm以上開くことのない唇が大きく歪んでよく回っている様が目に焼き付いてしまって、他の言葉をよく覚えていない。
ただ、確かに最後は、「お前の皿にピーナッツ混ぜてやる」と言った。
Bは重度のピーナッツアレルギーで、給食では特別な待遇を受けていたので、クラス中がBに誤ってピーナッツを食べさせてはならないという認識を共有していた。
もはや脅しで、殺人予告だ。
徐々に衆目を集め始めたAは、ピーナッツで死ぬのなんかお前だけだ、と言って締めた。
インターネットで日々、差別や偏見を目の当たりにしている今読んでも、どこが超えてはいけないラインなのかと拍子抜けするかもしれない。
当時の私には、AがBを殺害方法を添えて殺人を宣言しているように見えた。給食当番のAには容易に為せるのだ。
本当に殺人が起きてしまう、という緊張感に、超えてはいけないラインが見えた気がした。
何度かラインを踏み抜いていくAを見てきた。あまりにも感情が昂ったときは、手を上げていた。
一度だけ施設に入るまでの話をしてもらったが、本人も詳細がわからないらしく、母親に連れてこられ、そのまま預けられたと言っていた。
口も育ちも悪いと自負しているが、Aの前でだけはそう言えなかった。
わかるよ。極端な話なし崩しになる可能性すらある。台湾では実施したもののほとんど誰も従わずすぐになくなった。
女性「専用」車両と表記せざるを得ないのもわかる。本当は専用ではないのに、そういうものだと認知されなきゃ意味がない。
だけど、歪なんだよね。法律では男性乗車を禁止することがどうやら難しいらしい。憲法に抵触しかねないからだと思うけど、ともあれ現実には男性乗車は法で禁止されていない。
だから協力で成り立っているという認識が大事だとは思うものの、協力しないバカが居るので騒ぎになることもある。
ややこしい話だけど、そもそもの原因である痴漢はホント厳罰に処してもらいたい。
厳罰でも矯正でもなんでもいいけど、撲滅しないとずっと無関係のところで揉めることになる。