はてなキーワード: 小説家とは
いやそのへんもプロだろ。
マーケティングはビッグデータ分析みたいな技術研究面があるから別かもだが、企画のプロではある。
コミュニティの空気を読み、ネタを探し、視聴者を楽しませる企画や雑談内容を考えて、メンバーを決め、配信で表現する能力、それら全部ひっくるめた総合力が高いことで人気になるのがにじさんじのライバー。
まあそれはタイプの一つってだけで、ゲームの腕とか人柄で人気になってるやつもいるだろうがそれらは別の話。
にじさんじの奴らは、小説家やシンガーソングライターみたいな個人作家の集まりに近いんだよ。
編集から言われたネタを形にすることがメイン活動の、サラリーマン職人みたいなやり方じゃない。
会社に助言と相談をもらうことはあるだろうし、ライブみたいなクソ金のかかるイベントは会社主導だろうけど、基本は個人創作家の集まりに近いのがにじさんじ。
箱全体として盛り上がるべきっていう感覚がまずズレてる。
「にじさんじのファンだから○○も好き」じゃなくて「○○というライバーのファンであり、そいつはにじさんじに所属しているらしい」なわけ。
つーか「APEXのキルリレーという企画を立ち上げた」って、立ち上げたのは数週間前で実際に行われたのは9/5からで、増田が投稿された9/9の22時って五日間配信し続けて2434キル達成する頃じゃねえか。
なんなんだいったい。
もう10年以上、Twitterより昔に流行ったmixiからの付き合いの知人Aがいる。
Aは絵も書き字も書くが、申し訳ないがAの絵はお世辞にも上手いとはいえない。
鉛筆で薄い線を描いたようなラフ画が完成形のようで、トーンや着色もない。
まるで小学生か中学生がノートに走り書きしたようなイラストだが、本人もまた私と同じように一次創作をして楽しんでいた。
私は年間5回くらい、Aは1回くらい即売会に参加をする。すっかり顔馴染みで、Aは私が発行した小説同人誌を毎回買ってくれていた。
私自身、Aのイラストは稚拙で好きでは無かったが人間性は嫌いではなかった。悪い人ではないからだ。
Aはいわゆる「うちよそ」が好きだった。
自分が産み出した創作キャラ(うちの子)と、他サークルが産み出した創作キャラ(よその子)を一つの物語で共演させるものだ。
積極的に交流する創作者なら楽しめるかもしれないが、私は「うちよそ」が嫌いだった。
自分が書く物語や世界観が好きで一次創作を書いているので、余計なものを入れたくなかった。
あるとき、私が刑事が主役のミステリー小説を発行したときにAが本を買ってくれた。
コラボ=うちよそであることは明白だったが私はやんわりとその場を誤魔化した。
その時にAは私の作品に出てくるキャラクターのイラストを描いてくれた。
既に私の作品には絵師さんが存在したが、似ても似つかない稚拙なラフ画だった。
Aはまた買ってくれたが、「今度、私のアイドルとあなたのアイドルでコラボしたいですね」
また言われてしまった。そんなにうちよそがしたいのだろうか。
Aは自作アイドルの紹介文を送ってきてくれたが、Aが書くアイドルはプロデューサーさん系で私が書くアイドルは握手会系、アイドルとはいえ系統が違いすぎる。
私はいつかとその場をはぐらかした。
それから暫くして、今度は私がロボット物のSF小説を発行した。
Aはまた買ってくれたが、「今度、私のロボットとあなたのロボットでコラボしたいですね」
ミステリーでもアイドルでもロボットでも、Aにとってはコラボ出来れば何でも良いのだろうか?
結局これらのコラボ依頼は全て断った。
私の作品が読みたいのではなくコラボのために私の同人誌を買ってくれているのなら、金輪際スペースには来て欲しくないくらいだ。
最近、Aが個人誌の新作(SFロボット物)を出すとのことでゲスト原稿を依頼された。
・今回発表するのは1話ですらない0話で、キャラクターや世界観を紹介するだけの本
上記の内容でAの作品の二次創作小説を書いて欲しいと頼まれたが無理な話である。
1話すらない、世界観も主人公の風貌も一人称も不明な作品をどう書けというのだろうか。
そもそもAは自分が提示した資料で物語が書けると思っているのだろうか?
寄稿の話は断った。
Twitterで私が○○というスマホゲーを始めたと呟くと、Aは「フレンドになりませんか」とユーザー番号をスクショして送ってくる。
Twitterで私が★★というスマホゲーを始めたと呟くと、Aは「フレンドになりませんか」とユーザー番号をスクショして送ってくる。
そんなにスマホゲーを通して交流がしたいのだろうか。何のために?
元々私はAにユーザー番号を教えておらず、今もAをフレンド登録はしていない。
先日、そんなAをTwitter(私が世間話をしている鍵アカウント)からリムーブした。
Aも鍵アカウントなので影で私のことを言われているかもしれないがどうでもいい、Aは他のフォロワーとコラボなりゲスト原稿なりし合えばいい。
10年の付き合いが何だというのだ、今の私は解放感に満たされている。
ちなみにAからは私のサークル情報だけを呟く公開アカウントをフォローされているが、サークル情報なら勝手に見ればいいと放置している。
もしも今後私が即売会に参加したらAは姿を見せるのだろうかと密かに気になっている。
この10年、コラボやスマホゲーのフォローに再三応じなかった私へ何度も声を掛けてくれたAには多少感謝している。
私には「絶対に合わない男の法則」があって、それは「とある男性作家が好きな男」とは全然全くこれっぽっちも理解し合えないというやつで、今んとここれが百発百中。実際は十人弱だけども。
一応毎回「今回は違うかも」という気持ちで挑むんだけど大体「無理や」ってなる。
あれはなんなの、なんで、なんでああなるの。なんで、なんで……と思いながらまあその作家の名前を上げるとき皆何故か得意気なのも相まって全然好きになれない。何故ライトノベルの少し上くらいのいやライトノベル好きだけど、感覚的にそれくらいライトに読めるエンタメ作家でそこまで「読書好きなんですよね俺」って顔が出来るのかがわからん。十代かお前は。古本屋で働いてる時は良かった。そういう男がほぼいなかった。バランスのよい読書生活は大切だ。
しかし何故かその作家を好きな奴はお薦めしてくるの、止めて欲しい。読んだことあってもお薦めしてくるの。読んだってば、そんな有名な人読んでるから。そんで何故か得意気にうんちくを傾けるけど、それもう十人弱から聴いてるんだ。ていうか、普通に読んでるから、まあ私にはちょっとつまんなかったというか、合わなかったというか。って感じなんだけどやんわり言っても薦めてくる。うるさいからもう止めろお前と趣味は合わねえと思いながらにこにこしちゃうんだよね~はあ~弱さは罪。
「俺流行り物とか見れないんですよ」とか馬鹿にしてくるが私は鬼滅を新連載当初から推していたしお前が知らねえ小説家を五十人は知ってる、約束する。まじその作家が好きで作家買いするのは別に悪いことじゃないけどそこで止まっちゃうと人間も止まっちゃう感じがするから新しい作家にチャレンジしなくちゃいけないなくらいの何か意識的な物は持って置いた方がよろしいかと思われます。言わねーが。
流れで言ってみるけどその作家推しのそういうテンプレ男さんに「漫画好きなくせにアクタージュ読んでないのはダメ」とか言われたんだけど、最近作者捕まってて「あー読んでうっかり感動とかしなくてよかった~~!!」って思った。うっかり感動しちゃったらわたしが傷つく。なんか傷つく。作品と作者は別だけど、全くの別物ではないと思うから。そういう価値観で製造された物を愛さなくて本当に良かったって思いながらそいつの顔を思い出せないことに気付く。
そんでもって更新された『某作家が好きな合わない男』が直属の上司だった。
あ~~くっそ~~~~~~違って欲しかったのに嫌な勘は当たってしまった。
合わね~~つか純粋に嫌な奴~~~~~~!!嫌味っぽくて斜に構えてて変わってて尖ってる俺という演出をするが何も尖ってないし変わってもねぇのそういう決まりでもあんのかってくらい同じなのは本当になんなの~~~~~~~~~~~!!!!
別に作家は嫌いじゃなかったけど、十人弱の男達のせいで着々と嫌いになりつつある。
因みに女性版だと「女性向け恋愛シミュレーションゲームが大好き過ぎる女性」とはほぼ趣味が合わない。
別に決めつけから入ってなくても「合わないな」って思ってたら……みたいなケース多過ぎな。なんなんや。お互いに歩み寄っても何処かズレてしまう。
まあ同じ鬼滅が好きでも、私は彼らの生き方や人に対する優しさが好きなのであって、キャラクターと恋愛したいわけではないので、そりゃズレるんですわな。
BLEACHでもざんぱくとうの話がしたくて、チェーンソーマンだと魔人のかっこよさの話がしたくて、まあそういう事なんですね。
たぶん十人弱の男性に対してもそういう仕組みで仲良くなれないんでしょうね。
いや~~~~~~~価値観の違い。
十人十色。
みんな違ってみんないい。
結論 : 嘘はやめよう
だから、まず断っておくと、この記事では読書が好きな人を否定しているわけじゃない。
読書の効能としてまず挙げられるのが読解力の向上だが、これには根拠が無い。読書の習慣と国語の成績に有意な相関があるというデータはない。
読解力は、自然に身に付くレベルを超える場合、意識的に訓練しない限り高めるのは難しい。
もちろん読書であっても、たとえば「ある程度内容のある本を、一節読むごとに要約して、添削してもらう」といったことをすれば読解力は上がるだろう。が、そんなことを日常的にしている読書家はほとんどいないだろう。
ちなみに「読書で読解力が上がった気になる理由」の方ははっきりしている。
つまり、あるキーワードに関連する文章を予測しやすくなったために、読解力が上がったように錯覚しているに過ぎない。たとえば、「ディープラーニング」というキーワードが含まれると、囲碁の話が出てくる場合が多い、というレベルの知識を蓄積しているに過ぎず、内容そのものを理解する力は上がっていない。
(もちろん、きちんとした読解力があった上で、そういう検索能力があることは、悪いことではない)
正直、読書至上主義者がいう「教養」っていうのが何のことだかサッパリ分からんので、何とも言えないのだが、読書で「心の豊かさ」とか「人生における重要な教訓」とか、そういうものは得られない。
(まあ、本人が「得られた」と思っているなら、それはそれでいいと思うが)
特に、夏目漱石とか森鴎外みたいな「小説」で教養がどうのこうのとか言ってる奴がたまにいるが、笑止千万である。
小説なんて単なるエンタテインメントであって、暇つぶし以上の意味はない。アニメやゲームで教養が身に付くと言っているのと変わらない。
(もちろん、小説家を目指すなら、表現の技巧などから得るものはあるのだろうが)
こっちも、「読書で教養が身に付いた気になる理由」ははっきりしている。
要するに、文章中の「格言」などを抜き出し、自己流に解釈して「深い」などと思っているだけのことである。
これも、内容の理解力を伴っていないという点が、上のセクションで述べたことと共通している。
要するに、読書至上主義者のいう「効能」の正体は、内容を理解せずに飛ばし読みをしたり、格言やフレーズを抜き出して勝手な解釈で味わうことに満足感を得ているだけなのだ。
まずはこちらをご覧頂きたい。
https://twitter.com/m_molockchi/status/1296416784552267778
諸口正巳さんという小説家が筆を置かれるらしい。
要約すると思ったような反応がもらえなくて気に病み、徐々に小説が楽しくなくなり、筆を置くと。
正直に言うとたまたまこの引退宣言が目に留まっただけで、増田はこの方の事を詳しく知らない。
だが、この方が反応をもらえなかった理由はすぐに分かった。
これに尽きる。
大勢の人からちやほやされるには、それが偶像である必要がある。
夢とか幻想などと言い換えても構わないが、人はどうしても、自分の都合のいい存在に惹かれる。
いくつか例え話をしよう。
・好きなアイドルがいた。「彼氏は卒業するまで絶対に作りません!」というプロ意識の高さに惹かれて応援していた。しかしある時彼氏とホテルの前にいる写真を週刊誌に撮られてしまった。あのプロ意識の高さが虚言だと気付きファンを辞めた。
・Aシリーズの動画が面白くて、そのYoutuberをチャンネル登録した。しかしそのYoutuberはAシリーズの動画をある時から投稿しなくなり、Bシリーズの動画ばかりを投稿するようになった。しまいには「Aシリーズの動画は反応悪いからいいかなww」とTwitterで呟いた。それを見てチャンネル登録を外した。
・シリーズもののゲームの待望の最新作が発売された。過去作の大ファンだったので早速発売日に購入した。しかしプレイしてみると、大好きな過去作のキャラがdisられておりショックを受けた。こんなことであれば新作をプレイしなければよかった。
人が離れる時、そこには「自分が抱いた都合のいい幻想の破壊」が存在する。
であれば、自分という偶像コンテンツを維持するために、都合のいい幻想を見せ続けなければならない。
しかしながらざっとTwitterを見ただけでも、氏に自分という偶像を維持する姿勢は感じられなかったのだ。
著作を読んで楽しむことと、SNSを含めた最新の投稿をリアルタイムで追い続ける事は違う。
例え本が好きでも、好きな漫画や小説の作家を全員フォローし、全員の最新の投稿をしっかり追っている人は多分そんなにいないからだ。
「自分のSNSアカウントで好きなこと呟いちゃいけないのかよ!」
という反論が必ずある。
呟いちゃいけないわけではない。
ただ、なにも包み隠さず好き勝手に呟こうとすると、絶対に「偶像」は仕上がらない。
芸能人が日常のぼやきではなく、見栄え重視のまとまったツイートをすることが多いのはこの為だ。
氏のTwitterは偶像ではなく、一人の人間だった。だからSNSをしつこく追うのはきっと相当熱心なファンだけ。
でもどうしてもそういう風にできている。
反応をするのは人間だ。
最初に言うが、これがそういうタイトルの増田文学で、全部単なるフィクションなんてことはない。紛れもない事実だ。
私は今年で40になる。これはちょっと嘘。±30歳ぐらいの範囲で嘘をついてると思って欲しい。
そこそこ安定した業界の安定した職場で正社員をやっている。給料は良くない。
ぶっちゃけこの仕事は嫌いだ。まず面白くない。労働時間も長めだ。スキルの身につきも悪く同業他社への転職だって苦しいだろう。なまじ安定してるせいで変な人間だけが居着いて、ちゃんと他所で生きていける人間は逃げていく。
こんな妄想にいつも取り憑かれている。
夜中にアイディアをひらめいてプロットエディタに設定を並べて、次の日見たらつまらなすぎて消したことが10回ほど。
それとパロディ小説が流行っていた頃に、真似事をしようと匿名掲示板の書き込み欄に妙なものを打ち込んで5分後に完全に飽きて消したのが3回ぐらい。
ハッキリ言って、この小説を書く以前の行為の段階で自分には才能と呼べるものがないことがハッキリしている。
アイディアは思いつかないし、文章力はないし、情熱も続かない。
小中学生の頃は青い鳥や角川の文庫をよく読んでいたので同級生よりはちょとばかり文章は上手かったが、それでも読書感想文の賞すら貰ったことはない。
ある時提出した宿題の出来が良かったのか論文コンクールへの応募を薦められ、好きにしてくれと教師に伝えたら後日参加賞をそっと渡されたことはあった。惨めだった。
ブログの投稿内容を10年前と見比べると露骨に語彙が減ってきたなと感じる。
そんな状況なのに、私は今でも「私はいつか作家になるのだ。超売れるのだ。そして仕事をやめるのだ」と思い込んでいる。
信じられるかい?
ツイッターで面白い(と自分では思っていること)を呟いた時にいいねが2個ついたら喜ぶような人間が、作家として大成する可能性があるのか?
もうこんな妄想ぐらいしか自分には残ってないからなんだろうな、と。
あまりにも毎日が惨めすぎるから何かしら妄想に縋ってないともう限界なのだろう。
たとえばこれが「仕事で大成功する」とか「エンジニアとしての才能に目覚める」だったりすれば、きっとそれはもっと生々しい実感を伴って日々何も積み重ねていない自分の姿を映し出すことになるのだ。
「小説家になる」というアホみたいな夢だからこそ、本当に何もしてないままでなんとか夢を見続けられているに違いない。
なにせこうやってどうでもいい言葉を書いたり読んだりするだけでも「読み書きの練習」だと言い張れるんだから。
インプットはともかくアウトプットにはそれ相応の労力が必要になる。
昔ネットにプログラマーにもイラストレーターにもなれない奴が小説家を目指すというフローチャートが貼られたが、そのどうしようもなさがいい方向に働いているのだ。
とにかくこの妄想は私が死ぬか、次の妄想に取り憑かれるまで続くのだ。
むしろ、私の人生を貶めるような妄想から私を守ってくれているのがこの妄想と言える。
宗教や薬物や恋愛に人生の逆転を求めてのたうち回らぬようにするためのものだ。
自分の人生に余計な劇物を混ぜ込まれないよう、なにかコントロールしづらいものが始まらぬよう、不活性な夢を詰め込んで空虚なままにしているのだ。
昔2chでみたコピペ「人生を壺に例えるのなら、小石や水を詰めてしまう前に大きな岩を入れなさい」。
あの話における岩を自分の人生に入れることも出来ず、かといって手頃な石を必死に集めて人生の価値を取り繕うのも面倒だから、風船を一つ押し込んで人生を終わらせることにしたのだ。
このままつまらない仕事を続けて、結婚もせず、大した趣味も持たずに死ぬ。
酔生夢死を夢見ながら実際にはそれなりの苦痛を緩やかに味わい続けて命が潰えるのを待っていく。
そのための連れ合いとして必要不可欠だから生まれた夢だったのだと思う。
全て忘れたい。
こんな程度の人間に生まれたことも、生きるために人波の中でゆっくり針のむしろを感じて生きる時代の中に生まれたことも。
何もしたくない。
何もせずに生きていたい。
だけど、いつか何かが起きて生きててよかったと思えるからと自分に騙されてここまで生きて、今更何もなくて終わらせるのは耐えきれない。
それで選んだ夢がこんなものか。
それで結局、何もやっていない、と。
どうすればいいんだ。
駄目だ。
自分で書いて読み返すのもキツい。
……という話になるはずなのに、女性BL研究者がハル・ベリーの降板を支持してるのが謎すぎるんだよな。
「大炎上」を受け……ハル・ベリーのトランス役降板は、行き過ぎたポリコレか? | 文春オンライン
これは、トランス役にトランスジェンダーの俳優をキャスティングしたっていう話じゃなくて、トランス役に決まってたシスジェンダーの俳優を引きずり下ろしたって話だよね。
私は、トランスジェンダーの俳優にシスジェンダー役を演じる権利と資格があるのと同様にシスジェンダーの俳優にもトランスジェンダー役を演じる権利と資格があるはずだと思うので、本質的な演技力に欠けるとかの話であればともかく、シスジェンダーであるというだけの理由でハル・ベリーが引きずり下ろされたのは間違っていると思う。仮にトランスジェンダーの俳優の雇用機会を尊重するにしても、それは新作映画に積極的にトランス俳優を起用していくとかのやり方であるべきで、一旦は内定していたシスジェンダーの俳優を引きずり下ろすのはどう考えてもおかしい。
でもまあ百歩譲って、シスジェンダーであるという理由でハル・ベリーがトランスジェンダー役から引きずり下ろされたのは正しいとしましょう。
BL作家のすごいところは、ゲイの人に気を遣ってとか、ゲイの人に一生懸命たくさん取材をして、というわけではない人がほとんどで、自分たちの楽しみを追求しているだけ、という人が多いのに、それでも、リアルなゲイの方から見て、ポリティカリーにコレクトな表現にたどり着いている人が大勢いることです。
「トランスジェンダー役に決まったシスジェンダーの俳優を引きずり下ろす」ことを肯定した人が、女性文化としてのBLを肯定するのは意味不明すぎる。当然、ゲイではないどころかそもそも男ではないBL作家は全員引きずり下ろせと主張しなければ筋が通らないだろう。
いや、「当事者じゃないやつが当事者の役をするな」っていう主張はそういう結論を帰結するんじゃないんですか?
映画のトランス役はトランスの役者じゃないとポリコレじゃないけどBLは女が書いててもポリコレ、なんて理屈が通るわけないでしょ。
当事者の役は当事者がやるべきだ、というのはひとつの主義であり、私にはまったく賛同できないけど、それを一貫して主張するのであれば賛否はともかくとして立派な態度だと思う。でも、同じ口で当事者じゃない人が書いてる創作を称揚するのはダブルスタンダードってやつだろう。
私は、演技や創作に当事者性は必ずしも必要ではないと思う。低い声を出せるのなら女性声優が男性キャラを演じてもよいし、高音を出せるのなら女性キャラクタを男性声優が演じてもよいし、同性愛者の俳優が異性愛者を演じてもよいし、黒人声優が白人キャラに声を当ててもよいし、日系アメリカ人が中国を舞台にした映画で主役を演じてもよいし、第442連隊のドラマに中国人をキャスティングしてもよいし、男性作家が百合小説を書いてもよいし、女性作家がBL漫画を描いてもよい。だから当然、ハル・ベリーにもトランスジェンダーの人物を演じる権利があるはずだ。
でも、ハル・ベリーは引きずり下ろされた。
それを支持するのなら、当然、自分の好きなジャンルでも同じことを支持してなきゃおかしいはずですよね?
他人に行き過ぎたポリコレを押し付けておいて、自分には適用しないなんて都合のいい話が通用するはずないでしょう。
先月のBLポリコレ問題もそうだったけど、女性文化としてのBLとポリコレは根本的に相容れないのに、ポリコレを推進する女性のBLファンが大勢いるのは本当に謎。自分の作品の中でポリコレに気を使っているだけならとやかく言うことじゃないけど、他ジャンルにポリコレで火を付けてまわっているのはいったい何なんだろう。他ジャンルがポリコレじゃなくても放っておきなよ、あんたの好きなジャンルだってポリコレじゃないんだからさ。ポリコレじゃない創作をしている者同士、仲良くポリコレの押し付けに抵抗しようぜ。
BLというのは、女性にとって性のファンタジーなので、リアルな社会とは全く無関係なんですよ。
「トランスジェンダー役に決まったシスジェンダーの俳優を引きずり下ろす」というのは、リアルな社会問題を扱っているので、全く別。
「これはマイノリティを扱ってはいるけどあくまでもマジョリティにとってのファンタジーだから実際のマイノリティとは無関係」なんて理屈、ポリコレ的にはアウトに決まっとるやんけ。
いや、ワイは「BLは女性にとってのファンタジー」でいいと思うよ。「ジャンプのお色気セクハラ描写も男性にとってのファンタジー」なわけだし、当事者の人たちがBLに対して「こんなゲイはいねえよ」って思ったとしても、それは女性が男性向け作品に対して「こんな女いねえよ」って思うのと同じだよね。消費なんてのは多かれ少なかれそういう要素があるんじゃないですか。そこに文句つけるのは野暮ってもんよ。
でもそれはポリティカリー・コレクトな態度じゃないよね。マイノリティの表象をマジョリティが好き勝手に消費するのはよくない、というのがポリコレなんだから、BLが女性のファンタジーであればあるほどポリコレ的観点からは否定されるべき対象にしかならないでしょ。
女性文化としてのBLとポリティカル・コレクトネスは水と油なんで、どっち捨ててどっち守るか選んでくださいね。個人的にはポリコレ捨てるのがオススメだけど、BL捨てるっていうなら止めないよ。
それトランス俳優の活躍の場が非トランスに奪われてるのはおかしい、っていうのがまずありきだろ
なおポリコレ先進国では「シスジェンダー女性がゲイを主人公にした小説を書くことは当事者から機会を奪っている」という理論に基づいて女性小説家が叩かれている模様。
そんな遅れた認識でポリコレについて論じてたの? ちゃんと認識をグローバル水準にまでアップデートしてね! そんな認識じゃガラパゴスすぎるよ!
まあ普通に考えたらこんなの言いがかりでしかないけど、ポリティカル・コレクトネスの理路からいえばこうなっちゃうんだから、ポリコレを支持するなら女性作家がBL書くのは問題視されなきゃおかしいんじゃないですか。ワイは「こんな結論が導かれるポリコレは根本的に間違っている」って思うけど、日本のガラパゴス表現を批判しグローバル水準を崇め奉るポリコレ支持者の皆さんは当然この結論にも賛同するんですよね?
メキシコ移民を題材にした小説『夕陽の道を北へゆけ』について、作家が縁もゆかりもない白人で文化盗用だと批判されている( https://www.newsweekjapan.jp/watanabe/2020/08/post-68.php )ので、文芸も批判の対象にはなりうると思う
綿密にリサーチしてリアリティに凝っても当事者じゃないとポリティカリーにコレクトじゃない扱いされるのどうかしてるけど、こういうイカれた状況が現代ポリコレの最先端なんだから、日本のカルチャーはポリコレを取り入れてアップデートすべきと主張する向きにおかれてはぜひぜひ有言実行で最先端のポリコレを取り入れてくださいねとしか言えない。ワイはこんなのついてけねえって思うからポリコレに敵対するけどな!
少年ジャンプ編集部に腐女子の女性が入り込もうとしてた件も、要するに男性文化の簒奪なので、女性は女性の文化を自力で作ってほしい。女性主人公で自立したフェミ的、ポリコレ的価値観の作品を……。
一応言っとくと、ワイは「ポリコレを支持するならBLはアウトでしょ」と言ってるのであって、「BLはダメ」とも言ってないし「男性文化を簒奪するな」とも言ってないで。あくまでポリコレと女性文化としてのBLは相容れないって言ってるだけ。当然ワイはアンチポリコレ派なのでBLも自重せずどんどんやれ派です。
ポリコレ派腐女子は、まあ、うん、政治的信条に従って趣味捨てるか趣味に操を立てて政治的に転向するか、好きな方選べばいいんじゃない? そんなのはあくまで腐女子の中のごく一部、ノイジーマイノリティなんだろうし。……ノイジーマイノリティだよね?
該当記事、トランスの身体性はシスに再現不可能と断言してるのも悪手だと思う/てか何故それこそ当事者じゃなくBL研究家の人が書いたの?/日本腐ェミが連帯しようと言ってた韓国フェミも最近は「脱BL」掲げてるよね
トランスの身体性はシスには再現不可能論、つまりトランスとシスの違いは服を着て演技していてもわかる、見分けがつく、という話だから、それを特定の属性の排除の口実に使うのはトランス女性は女子トイレに入るなって言ってる人たちと半歩くらいの距離しかなくない? って思うし、その論理で言うなら当然トランスはシス役を演じることもNG、シス役はシスの俳優に、という結論になっちゃうよね……。
韓国のフェミニズムを持ち上げてたら脱BLの動きが始まってて頭抱えてるのは草しか生えない。結局、アメリカのポリコレは所詮「アメリカのポリコレ」であり、韓国のフェミニズムも所詮「韓国のフェミニズム」に過ぎないのであって、日本の文化風土に適してないんだよね。そこは日本風に換骨奪胎しようとする試行錯誤が必要なはずだったのに出羽守ムーヴを決めちゃうから外国の動向に振り回されることになる。本当に大事なのは日本社会で生きる我々がいかに自由で主体性を保っていられるかという点なのに……。
実際、これがスタンダードになったらおっさんずラブみたいなドラマはガチのゲイにやらせなきゃいかんようになって成り立たないよね。そんなんカミングアウトしたくないだろうし。
トランスの役はトランスの俳優に、と書いた同じ記事で『his』はゲイへのエンパワメントとか書いてあるのは意味不明すぎるよね。宮沢氷魚ってカミングアウトしてたの? 知らなかったなぁ(棒読み)。COしてない俳優が出演しててもエンパワメントになるならシス俳優が演じててもエンパワメントになるやんけ。別々の記事ならともかく同じ記事でこんなダイレクトに矛盾してるのはちょっと……
それはずれた論点に感じられる。生み出すものが完全に虚構か、実際の肉体を持った人間を利用したものか、は受け手に大きな差があると思うんだけど。この論理だと男性百合作家もダメだよね。
「当事者の機会を奪う」が論点になってるんだから完全な虚構か実際の肉体かなんて些細な違いでしかないし、ちゃんと小説が問題視された例も提示してるのに読めない?
「この論理だと男性百合作家もダメだよね」って言われても、うん、そういう帰結になるからおじちゃんはポリコレに反対してますって話をしてるので……え? まさかワイがポリコレBL規制派だと思ってるの? 読解力ぅ~~~~~~~~~
非当事者がマイノリティを主役にしたものを作るなって言われてるんだから、当然、ポリコレの観点からはそもそも女がBLを書くこと自体がけしからんという結論になるんじゃないですか。
……っていう話をしてるんですがマジで通じてないの? 読解力やべえな! これもう賛成反対どうこう以前の問題でしょ……
そもそも論として、炎上したから慌てて引っ込めた的な話をあまりロジカルな文脈に出すのは双方良くない気がする。 / だんだん語調が強くなりすぎてBL全体を委縮させる意図でもあるのと増田に聞いてみたくもなる。
BLは別に萎縮する必要はなーんもないし好きなだけ男どうしの性愛を描けばいいと思うんだけど、ポリコレを掲げて他ジャンルにイチャモンつけてまわってるごくごく一部のBLファンの活動については存分に萎縮すればいいと思うよ。キズナアイNHK特番とか宇崎ちゃん献血ポスターとかラブライブ皺ポスターとかの昨今の男性向けコンテンツの炎上事案、どれも腐女子兼フェミニストの人たちが中心になって暴れ回ってたよね?
「BLはちっともポリコレじゃない」「ゆえに腐女子は他ジャンルのポリティカリー・インコレクトな描写に文句を言う資格はない」の2点がコモンセンスになってほしいなぁ、というだけ。どうしても他人をポリコレ棒で殴りたければ腐女子をやめてからにしようね。もちろんポリコレ派じゃない大多数の腐女子に対しては何も文句ないっすよ。存分に男どうしの愛を創作して楽しめばええねん。
「お前の理路を敷衍するとこうなるよな?」という話が「たとえ話」に見える人間、議論に向いてなさそう。
それを認めると、創作物かけないじゃん
大学入試の現代文、あまりにも簡単すぎて足切りとしての意味あるの? って正直疑問だったんだけど、なるほど足切りとしてはあのくらいのラインがちょうどいいんだろうなあってこういうブクマ米見る度に実感しますね……
先日、始めてなろうに小説を投稿したんだがそれで、ネットの小説投稿サイトで多くの人に読んでもらおうと思ったらとにかく人目につきやすく、かつ、ブラウザで見やすくなるように『細かく区切り、細かく投稿する』というスタイルで投稿するのが普通だと知った。
まあ、ランキング上位になってネットから小説家デビューするぜ! みたいな意志がなければ、投稿頻度に関してはそこまで気にする必要もないのかもしれないが、プラットフォームの特性的に1ページに長い文章をまとめて載せるような作品はネット投稿にはあまり向かないように感じた。
たぶんこういう傾向はどこの投稿サイトでもあんまり変わらないと思うけど、強いて言えばのレベルで良いから、プラットフォームの性質やその界隈の文化的にまとまった文量を投稿しやすい小説投稿サイトってないかな?
俺は小説自体は趣味レベルで昔から書いていたが、基本的に学生時代の文芸サークルなんかのつながりで身内に見せるだけで満足していた。
ただ、年齢が上がってくるにつれて、そうした仲間と会う機会も減って、それでネットの向こうの見知らぬ誰かに自分の書いた物語を読んでもらえたらなと思うようになった。
投稿した作品は内容としては『灼眼のシャナ』とか『とある魔術の禁書目録』とかバトルものが強い存在感を放っていた一昔前のラノベ界隈の影響をモロに受けたような展開や世界観の作品。
文庫本で500ページくらいの文量を5章くらいに分けて投稿した。
投稿経験のある人なら分かると思うが、どう考えても一章に投稿する文量としては多すぎる。
投稿してからしばらくして評価やアクセス解析を見たら、ポイントは1桁、閲覧者数も100と少し程度だった。
まあ、有象無象の作品の一つと言った感じの評価だが、それでも自分の作品が見ず知らずの人の目に触れるという体験には喜びがあった。
あと、特別なろうを意識した作品でもなく、宣伝も投稿後に自動作成される宣伝文を普段使いのフォロワーが50人もいないTwitterアカウントで投稿しただけの作品が、100人以上の人の目に触れるというのは結構な驚きで、改めてなろうのプラットフォームパワーに感心した。
相手のキャラが自分を「可愛い」「綺麗だ」と言ってくれる描写が多いと最近気づいた。魔法が使え、チートな能力を自由に得られる妄想の中でさえ、ブスのまま愛されることはないのだ。
ならば美醜逆転世界や、美的感覚が異なるモンスターを相手にすればよいのか。
いやそれではルッキズムと距離を置けていない、催眠術で言いなりにしてくるのはどうか。
だがそれは救いにはならない… 人間と人間のコミュニケーションであるからこそ承認は意味をなすワケで、自由意志を歪めて道具に変えてしまった時点で、愛の言葉は意味消失する。
非モテの男は、女性をあてがわれても、風俗にいっても、それだけで満たされることはない。告白してくれたとて、同じ言葉を誰にでも言っているってわかったなら落胆してしまう。利用価値を見出して擦り寄ってきたって気づいたなら悲しい気持ちになる。恋人にならなくたっていい。自分自身の人間性をまっすぐにみて、ただ手を繋いでくれるだけで、ぜんぶ報われる。
障害を個性として取り扱って好きになって褒めたりほしい、そういう主張は近年メジャーになってきている。でも"ブスも個性扱い"でいいかは疑問だ。デメキンみたいで可愛い、って記述を読んで救われた気分になるか?
オレは、小説において容姿への言及を一切やめることを提案したい。綺麗だの美しいだの、そういう褒めを男性キャラクターにまったくさせずに、主人公をただただ人間扱いする。そこに特化してエンパワメントしていく。病弱な男子だってバトル漫画を読めばヒーローになれる。同じように、ブサイクは人間扱い創作を読むことで、人間になるんだ。
ずっとインターネットをばかりやっていた。それなのに一角の人物にもなれなかった。
自分がネットを始めた頃にネット活動を始めた人たちは、今や人気ブロガーやライター、小説家になったり
Vの物になって人気を得ている。
一方自分ときたら、多少ネット上で表現活動をやっていた時期もあったが、引っ込み思案であることや
持ち前の学習能力の無さや、どの才能も人並み以下だったこともあり何一つ成果はあがっていない。
それ以上にインターネット中毒をこじらせ、実生活にも影響を受け、30を手前にして最近社会復帰したフリーターという有様だ。
あの日、同じようにネットを楽しんでいたはずだったのに、どうしてこんなにも差がついてしまったんだろうか。
それを思うたび、悲しくて胸が張り裂けそうだ。
執筆経験なしアラサーが半年間で二作完成させて電撃小説大賞に投稿する...
当時は今以上にコロナ関連の記事ばかりだったから、変わり種として受け取ってもらえたのかもしれない。
せっかくなので、続報を書きたい。
前回の記事では7月に一次選考の結果発表と書いたが、コロナの影響で、発表は今日だった。
まさにいま結果を見た勢いでこの記事を書いているが、二作のうち一作が一次通過していた。
後付けの解釈でしかないが、自分の仕事に関する知識を活かした作品が通過して、キャッチーな要素をにわか知識で詰め込んだ作品が落選した。
二次・三次選考の結果は、来月発表予定だ。一次で10分の1に絞られ、ここから更に半分、半分、、、と削られていく。だから一次に通ったぐらいで何を浮かれている、と思われるかもしれない。それでも、次の結果が出る前に今の気持ちを残しておくのもいいのではないかと思った。
完成させたことやその過程を褒めてもらえたのは、素直に嬉しかった。記念にチャレンジしたかっただけだろう、という辛辣なコメントもあったが、確かにそういう気持ちはあったと思う。あらためて振り返ると、前回の記事を書いた時は、自分がどこまで本気で小説を書きたいのか、なんで小説を書いているのか、よくわかっていなかった。
方法論を褒めてもらったのも、ありがたい。ただ補足しておくと、書いたことで自分がゼロから考えたものはない。どれもネットや本で紹介されていたもので、自分は組み合わせただけだ。だから、創作法という観点でオリジナリティはない。
友人に見せたことがすごい、友人良い奴、というコメントも非常に嬉しかった。なぜならこれが一番精神力を要したし、友人は確かに良い奴だからだ。ちなみに友人は結局一度も「面白い」と言ってくれなかったが、改稿版を読みたいとも言ってくれた。これはとても誠実な態度だと思う。面白いと言っておいたほうが、ずっと楽である。
更に余談だが、友人からの第一稿(つまり人生初の小説)へのフィードバックに対して、自分が「……を誰かにやらせようと思う」と返したとき
自分も、全く同じことを考えていたからだ。自分の頭から出てきたキャラクターが、自分以外の誰かの頭の中に生きていた。
この言葉は、一生おぼえていると思う。
ここからは、前回記事とも創作論とも関係のない、つまらない内容だ。
前回記事を投稿後しばらくは、一切執筆をしないままあっという間に数週間がすぎた。熱が冷めたのかと思った。コメントにあったとおり、一度しかない人生、記念に一回チャレンジしたかっただけだったのかとも思った。
だがある日、ためていた仕事をいつものように片付けているとき、急に物語が頭に浮かんできた。そこからまた、100字以内で物語を説明するログラインを沢山作った。あらすじを、今度は6つひねり出して友人に見せた。そして今は、毎日小説を書いている。
前回記事に対する反応は、しばらく毎日のように眺めていた。自分が書いたものに対して、他人からこんなに反応がもらえることがあるんだ、褒めてもらえることがあるんだ、と思った。あの時の気持ちは、とてもここには表現しきれない。
友人とのやりとりに関してもそうだが、言葉にできない・表現しきれない、なんて小説家志望としては落第である。それに、きちんと日常を送っている人たちにとってはこれくらいありふれた出来事なんだと思う。