はてなキーワード: 危機意識とは
■背景と問題点
SI業界におけるシステム開発のプロジェクトでは、ソフトウェアの品質が問題になることが多い。
問題点は、知識不足や経験不足な人間が大量に放り込まれたプロジェクトでは低品質なクソコード(※1)を大量生産してしまう事にある。
※1:クソコードとは、可読性の低さ、保守性の低さ、コーディング規約違反、テストが不十分、静的解析の指摘結果が多い、命名の悪さなどが該当するコードである。
■解決方法
真っ先に思いつく品質向上手段としては、レビュー、指導(教育)が考えられると思う。ただ、コストがかかり浸透するまでに時間がかかるのが欠点だ。
そこで、人間の感性に訴える「羞恥心」をうまく利用する方法はどうだろうか?
クソコードの基準を作り、基準に満たないソースコードをコミットした人物を徹底的に「晒す」ことで、
危機意識が高まり、クソコードをコミットする前に見直しする結果、品質が上がると考える。
「晒す」とは、クソコードをコミットした人物の所属会社名と所属プロジェクトと氏名を館内放送するなどプロジェクトメンバーが一目瞭然で分かる公知の事実にすることである。
月末にクソコードコミットワーストランキングを作成し、食堂、トイレ、休憩スペースなどの目に付くあらゆる場所に掲示することで危機意識が生まれるだろう。
人月単価交渉の際にも基準値に満たない数値が出ていることを示すことで、具体的な根拠を持った単価の切り下げ交渉も可能だろう。
朝会・夕会があるのであれば、クソコード作成者を読み上げて周知の事実とするべきだろう。
請け負った会社単位でのクソコードコミットワーストランキングも作成し、会社ぐるみでの取り組みも強化させることで品質が向上するだろう。
■まとめ
プロジェクトメンバの意識が「クソコードをコミットすると恥をかく」を徹底させ、
きちんとしたものを作らなければならないという意識を芽生えさせる事が一番重要である。
ソフトウェアは目に見えないものなので、品質が分かりにくいが、
物作りの現場だとクソな部品を渡されれば次の工程の人間が困るのは目に見えている。
物作りの現場では、誰が不良品を作ったか?を特定されて、詰められるのは当たり前だろう。
だが、ソフトウェアの現場では未だそれを見ない。そろそろやっても良いのではないか?
読者の皆様はいかが考えるだろうか?
5月に某人形画像トレパク自称現代美術作家おじさん(性別を意図的に女性と偽っている?)がTwitterで告発されてからしばらくたちました。
検証画像が削除&Googleの検索除外にされたり…のせいか、いまいち拡散性に乏しい。
検証比較動画をみればトレースは火を見るより明かなのだけれど、
そう思わない人も多いようで何だかなあ…。
顔のパーツが一致するのはもとより、ヘアスタイルやヘアリボンまで一致するのに
どんな神がかった奇跡でトレースではないと思うのか。はたはた不思議。
イラストをトレースするより実線が曖昧だからわかり辛いのかなあ…。
この事態を傍観者として眺めていたのですが、この件は本当に炎上しない。
現状Twitterを中心にボヤ程度。
ネットは拡散性が高いと思っていましたが、こんなにも周知が進まないことに驚く。
Google検索しても
「アメリカ合衆国のデジタル ミレニアム著作権法に基づいたクレームに応じ、このページから ● 件の検索結果を除外しました。」
とあって、都合の悪い事はどんどん消して検索除外。3年もたてばなかったことになるのかなあ。
日本の著作権法基準じゃないからどんどん検索除外されていくしかないのか…。
ちなみに本人はほぼ何の説明もしないままTwitterに鍵をかけ、都合の悪い投稿は削除し、一方的に事態の収束宣言。
トレスに関しての疑問質問などはブロック&投稿削除が当初からのデフォですが、現在は個展の準備とグッズの制作にいそしんでいる模様。
世の中には、「ヘイト創作」というものがあるらしい。いや、ある。
それに関してはピクシブ百科 http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88%E5%89%B5%E4%BD%9C あたり、
実害やら前例に関しては ピクシブ百科「冬木ちゃんねる」 http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%AC%E6%9C%A8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B
なんかが詳しいので説明は省く。
これに「同人と公式はなんぞや問題」というものも並行して議論があって、なかなかに混迷を極めている。
今回のごたごたの機会に、ちょっと分析してみて、いろいろ考えたことについて以下にまとめてみる。
分析と感想であって、提言でも注意喚起でもない。一種の野次馬根性と研究精神が表現としては近い。
ヘイト創作について考えてみよう!というわけだが、
「ヘイト創作」と「特殊な性癖やらのアレコレを含む二次創作(リョナ・バットエンド・闇落ち…etc)」の違いについて考えるのをきっかけにしてみたい。
私の言う「違い」の意味するところだが、今回はひとまず、閲覧者側の区別ではなく、書き手の精神によりスポットを当てる。
ので今回は、読み手から区別がつかない!とかそれによって出る被害について考察するのは今回の主題ではない。
定義しておくが「ヘイト創作」は上記の基準によるもので、夢全般、創作さにわ全般を指すものでは決してないということを最初に明記しておきたい。
ちなみに当方、相模鯖のさにわであり、成人済みの腐女子である。ちびちびと自分でも描いたり書いたりする。
ヘイト創作を選んで見ることはしないが、闇落ち・リョナの類は選んで見ることがある。
まぁそんな一プレイヤーの戯言です。
にある。
後者の目的なんて、そりゃあ「好きなキャラクターを好きな方法で可愛がること」である。
人によって可愛がり方は様々だが、その主目的は「特殊なアレコレ(と今のところ考えられる風潮のある傾向)」でない二次創作と変わらない。
「ヘイト創作」を書く目的、読む目的とは何か?を純化して、それでなくてはならない理由を考えてみると、
「誰かの不幸な状態・誰かが攻撃されている様を面白がること」にある。
オリキャラ可愛がりも俺TUEEEEも、閲覧数稼ぎも、ジャンル荒らしも、それは目的を達成させる動機のひとつであって、主目的ではない。
なぜなら、それらは「ヘイト創作」というジャンルの形をとらずとも、他の二次創作で達成することができるものだからだ。
ヘイト創作にあたらない、オリキャラ可愛がり、俺TUEEE、閲覧数稼ぎ、ついでにジャンル荒らしも、きちんと存在している。
頑なに拒否するそこのあなた、胸に手を当てて考えてみてくだされ。
ゴシップ誌もワイドショーも、「ご近所付き合いの怖~い話」みたいなレディコミの類も存在しない。
「ヘイト創作」は、根源にこの主目的を持っている。それが様々な形をとって創作され、消費されている。
それ自体は、特に悪いことでも良いことでもない。ただただ、そういう現象が存在している。
両者の大きな差はまた、「主目的にキャラクターという存在があるかないか」とも言い換えることができる。
「ヘイト創作」がエアプ、原作未読、未視聴でも作り出せる理由はここにある。
「キャラクターを可愛がること」を目的とする二次創作者と、「キャラクターを目的に含めない」二次創作者が存在し、
それらがお互いの居場所を食い荒らし始めた場合、当然のように衝突・摩擦が起きる。
二次創作、そして同人界隈における、衝突・摩擦は最も避けられるべきもののひとつだ。
なぜなら、同人とは辞書通りに言えば、同好の士が集まったコミュニティであり、衝突によって同好の士でなくなったら最後、それは概念ごと崩壊するからだ。
崩壊の例は様々だが、とにかくありがたい状態ではないし、精神的、社会的、物理的レベルまで取り返しのつかない事態さえ発生する。
そのために、これらの衝突は皆が注視し、議論し、時に殴り合う。
それ自体が衝突と化していくことも往々にしてあるのだが、流れとしてこうなってしまうのが、同人というコミュニティ存続のための危機意識なのだ。
一人で創作して楽しむのとは異なり、創作へのエネルギー+コミュニティ維持へのエネルギーが、現状の二次創作には必要になる。
以上のように考察してみた。
かつ同人というコミュニティを崩壊させない安定した存在となるには、
・衝突を避けるための手段をつくす
の二点が必要になるだろう。
大変に雑な分析ではあるが、
ヘイト創作について考える人への1つの視点提供になれば、自分の野次馬根性の昇華として嬉しく思う。
個人的なアドバイスをすると「誰かの不幸を面白がりたい気分」になったときは知恵袋とか覗くと省エネで発散できていいと思う。
追記:9月5日に一部修正
春名風花、トラブル連続のツイッター終了 - 芸能 : 日刊スポーツ
ナンデダヨ!
あの賢いのに自意識膨れ上がって見てみて、私の中のモンスターがこんなに大きくなったよ!って見せびらかすような子ははてなでこそ輝く子だったじゃん!
はるかぜちゃんの様なはてなのために生まれたかのようなスーパーエリートはてなーがはてなでブログかかないって終わってんじゃん!
はるかぜちゃん一人さえ居れば日々のキャンプファイヤーに困らずはてなはあと10年は冬を安心して乗り越えられたじゃん!
むさくるしい豚まんじゅうをはてなアイドルといって崇めたり貧乏なミニマリストの衣服を剥ぎとって炎にくべる必要なかったじゃん!
そこはお金払ったり専用デザイン用意してでも連れて来るべきだったじゃん!
http://anond.hatelabo.jp/20150323003104
↑ほんと、お前みたいのが「自意識過剰」「自慢か」「そんな美女でもないだろ」なんて小言いうから女は被害を訴えられないんだよ。
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女子高生という子どもが、電車内という社会で、痴漢という性被害に遭うことについて
https://note.mu/ogawatamaka/n/n209d5eb2807f
http://anond.hatelabo.jp/20150116171530
しつこいナンパや痴漢被害を「言えなくする」ミソジニーとミサンドリー
有償ボランティア(1時間数百円程度)であるファミリーサポートでさえ常に人不足なのに、ましてタダでなんて誰がするものか。
あと生後二か月の子なんて素人が預かるには危険すぎる。何かあったら数億の賠償金払えるってなら別だけどな。
嫁の両親と同居は男にとって「ハナからない」。嫁を自分の親と同居させるのは当然だけど自分がそんな目に遭うのは嫌だ、と言う男が多いから。
あと嫁の親側も嫌がる事が多い。息子の妻だったら「嫁」として自分が上の立場で好きなようにこき使える(と思ってる)年寄りは多いけど
娘の夫には強気に出られず、自分が娘の夫に気を遣う生活しなければならないから。
(因みに「嫁」だとしても自分が気を遣わなければならない、と考える年寄りは「嫁」とも同居したがらない)
ショットで頼める信頼のおけるベビーシッターが比較的安価に頼めれば、虐待とか育児ノイローゼとか減って、育児に対する不安も減ると思うんだけど。
保育士であっても危機意識無い人でなければ躊躇するんじゃないか?
核家族化は都市化と職住分離化の結果であり、嫁と姑の関係を煽り立てられたからではない。
っつーかそんなに大人になってもママと同居したいのかねこいつら。「ママと嫁が仲良くしてくれれば万事解決」?アホか。
仕事してたら保育園入れられる=その間子供預けられるからもっと楽でしょ。
何歳だと思ってるんだろうか。
実家を頼りたくても、定年延長&共働き化&介護問題放置で見えて来るのは、実家すら人が出払っていて頼れない未来。
都会はとっくに核家族化で実家は遥か遠い田舎というのがデフォになってたし、田舎はむしろ嫁が育児も姑の分の家事も全部やる、がデフォだし。
今の方が楽になってるわな。
保育園じゃ駄目なんかね。
ついでに六か月以降だと一時保育の選択肢が色々出てくる。安い公的なものは地域によっては埋まってて無理だろうけど
高い金出せばそこそこ空きはあるんじゃなかろうか。
昔の人は、同居の義母に面倒を見てもらった。なのに今の人は、自分で「姑はイヤだ」と言って、姑に協力してもらうことを拒んだんでしょ?
どうでもいいが、何故そんなに姑=暇だと思ってるんだろうかこいつらは。
ママはボクの為なら他の用事なんて全部すっ飛ばして協力してくれて当たり前!という認識なんだろうか。
実際はボクの為じゃなくて嫁の為な訳で、嫁の為にそんな事したい訳ない。
ボクの為であっても無料家政婦兼シッターとしてこき使われるなんてやなこった、暇で気が向いた時に孫と遊ぶだけの立場になりたい、って姑が殆どだと思うけど。
私は日本生まれの日本育ち、日本国籍をもつ血統的には完全なる日本人だが、日本が嫌いだ。以前は、ある英語圏で永住者として暮らしていたが、あるきっかけで日本に戻ってきた来た後、その国に帰れなくなってしまった。日本に戻ってきたことをいまは本当に後悔している。だが完全に後の祭りである。
日本が嫌いな理由はいろいろあるが、そのひとつは、日本民族以外の人たちがほとんど住んでいない、この同質性にある。同質なのは当たり前じゃないかというかもしれないが、たいていの国は、いくつかの異なる民族から構成されているのが、むしろ普通のことだ。普通でないのは、日本の方なのだ。
日本はあまりに教科書どおりの国民国家であり、ほとんどの国民がそれを当然視しているが、実は、国民国家など、この数百年で作られた便宜上のものにすぎない。そして、それが便宜上のものにすぎない以上は、やがて、消えていく運命にあるということだ。実際、その過程は、欧州ではEUという形で始まっている。東南アジアでも、まもなくASEAN経済共同体(AEC)が発足する。歴史は、移民が増え、国民国家が解体消滅する方向に、ゆるやかな速度で向かっている。
ところが、日本だけは、あまりに日本人だけで凝り固まっているために、近い将来の大幅な人口減が確定しているにもかかわらず、依然として移民を受け入れようとしない。なにも、単純労働者ばかりが移民ではない。高収入の知的労働者なら、移民であっても、社会保障や治安への負担も少ない。むしろ、若い移民が入ってくれば、彼らは社会保障を支える側にまわり、税収に貢献し、消費の拡大という形で、経済に貢献してくれるだろう。
だが、こういう合理的な議論が日本ではできない。右翼をはじめとする一部の国民が、日本民族の神秘的な純血性を信じており、こうした「外の血」を入れようとする論客に対して個人攻撃を行うため、みな口を閉ざしてしまうからだ。
結果として、日本はこれから衰退の一途をたどることになるだろう。人口が減っていく国に未来など無いことは誰が見てもあきらかだ。もっと深刻なのは、ここまで追い込まれても国民に危機意識がないという点だ。これが一国が衰退していくときの姿なのだろうか。
私は、いま日本でやっていることに区切りがついたら、いずれこの国を出ていくつもりだ。こんな国と心中する気はさらさらない。反日でも売国奴でも、なんと呼ばれようが平気だ。日本を「救う」つもり満々の右翼たちにこの国の未来は任せることにしよう・・・彼らが主張するように日本が復活するようにはまったく思えないのだが。
本好きの高じた結果、その購入物によって汚染された室内は、積読現象によって室内の壁際を、二周ほど周回したころから、家主は、危機意識をいだいた。購入欲求から出発した恒常的な床不足と家計破壊は、室内に家主の生息をゆるす状況ではなくなり、電子化は必然であった。
だからといって、本当に床が抜けてからでは、家主は、裁断機を運用し、自炊する力もなくなってしまうだろう。
電子書籍リーダーの導入は、家主は部屋とともに死にむかうのではないかという認識が、本好きからひろがった時に生まれて、電子書籍の購入が開始された。
電子化が開始されれば、すべての蔵書を均一に電子化させる、という家主の決意は、まちがいではない。
しかし、特例事項があったことが、その後の過ちをうんだ。家主が必要と認めた書籍は、部屋に蔵書できるという規定である。
条件はあった。
入手が困難な希少本と、画集のような今の形に意味がある書籍という規定である。
規定は、理想的にその理念を行使するということはないし、一般的な人びとの視点からみれば、床が、抜けていると見えないことが、この規定を拡大解釈して、運用されたのも当然である。
さらにいえば、本好きから産まれたビブリオマニアが、紙とインクのフィーリングを忘れることができるものではないからこそ、そこに、無条件に規定を無視したくなる思いがうまれた。
その欲求は、正しい。
しかし、ビブリオマニアのもっとも深い罪業は、積読の増殖が、室内環境と家計にとってもっとも危機的なものであるという認識を認知しないことにあった。
しかし、電子化は、その代償を家主みずから支払わなければならない時代であり、電子書籍時代とは、技術革新の時代でもなければ、祝福された時代でもないのである。
その認識から生まれたフラストレーションは、ますます本好きの人びと、ビブリオマニアたちに、物理本回帰の欲求に火をつけるのは、逆説的ではあるが、当然の帰結であった。
増殖した積読という本が、たえず回帰する形は、物理本でしかないという欲求は、ビブリオマニアの二重の罪業である。
しかし、床を完全に再生させるためには、千冊以上は処理しなければならないだろうし、千冊処理するあいだに、積読は、さらに増殖するだろう。
つまり家主は、すでに、蔵書全部が部屋におくことはできないと、覚悟をしなければならないのである。
これも、本好きには、容認できる認識ではないのだ。
しかし、現代は、すべての例外規定が排除されて、ビブリオマニアは、電子書籍リーダーに逼塞しなければならないのである。
『……でなければ、版元が起こした反乱も、あの時、死んでいったストアたちの霊もなぐさめられない……』
マスダは、そう思う。
まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
小さなといえば、大化初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業と狩猟しかなく、人材といえば仁徳天皇以来の読書階級であった渡来人しかいなかった。
大化の改新によって倭人は初めて律令的な「国家」というものをもった。
誰もが「日本人」になった。
不慣れながら「日本人」になった倭人たちは、日本史上の最初の対外戦争の敗戦に、危機感をもった。
この痛々しいばかりの危機感が分からなければ、この段階の歴史は分からない。
今 から思えば、実に滑稽なことに、農業と狩猟の他に主要産業のない国家の連中は、東アジア先進国と同じ都市を持とうとした、律令も同様である。賛同が得られ るはずがない。が、ともかくも統一国家を作り上げようというのは、元々大化の改新成立の大目的であったし、改新後の倭人の危機意識でもあった。
イオンの不誠実さも非難されるべきだろうけど、イオンの気持ちもわからなくもない。
なんでウチだけだ、というようなユッケ社長的な気分もあるだろう。
俺はちょいちょい中国方面に旅行に行くのが趣味なんだが、あちらの食い物など食って大丈夫か?との心配を頂くことがある。
確かに手放しで安全とは言いがたい。現地テレビ放送も、安全な野菜の選び方なんかを特集しており、現地人に危機意識もある。
しかし最低限のことに気をつけていれば、概ね問題ない。いや、問題ないかどうかは数十年経ってみなければわからないかもしれないが、現状特に健康被害はない。
あちらでは快餐というスタイルの、チョイスしたおかずぶっかけ飯を喰うことが多い。指差しだけでメニューを選べるので、外国人旅行者にも人気だ。
快餐屋は一食500円以上する店もあれば、20円以下の店もある。
件の20円以下の店は、そのイカレた安さから人気があるかというとそうではなく、汚い身なりの労働者がパラパラといるだけで、全く繁盛していない。店もボロく、匂いも臭い。
そんな店で何かを食いたいかというと、どんなに安くても御免な訳で、概ね200円ぐらいの店に入ることが多い。
お肉などは公設の市場があり、そちらをブラブラみて回るのも楽しい。
見たこともないケモノヘンの漢字の獣肉がところ狭しと売っている。貂なんて食えるのか、と感動することもある。
あちらでは、鳥肉は鶏よりも鴨の方が、比較的メジャーと思われる。
彼の鴨肉であるが、これまた一羽丸鳥で、千円近い品もあれば、百円以下の品もある。
件の百円以下の鴨が、これまた鳥だけに飛ぶように売れるかと言うと、無論そうではない。
モノには適正な価格があるということは、実際誰でも知っていることであり、現地の人間はもちろんのこと、ポッと出かけた旅行者ですら、小一時間も市場をブラつけば、概ね把握できる。
その中で極端に安いものがあれば、それを警戒するのは、ごくあたり前の心理である。
その警戒を、果たしてスーパーのバイヤーが、冷食工場仕入れ担当が、共有しているかというと、当然共有しているだろう。
本部の人間は安くしろと要求する。日本の経済の仕組みでは安くするのが正義だろうから。
彼の国では、安くしろというと、下限知らずにどこまでも安くなる。数十円の丸鶏があるお国だ。
大阪西成に俺の愛するスーパーマーケット、スーパー玉出という店がある。
こちらの惣菜が実に象徴的で、精肉コーナーに豚バラ肉が100グラム120円前後で売っているのに対し、デリカコーナーでは豚バラチャーシューが100グラム80円で売っている。
パートのおばちゃんが手間暇かけてコトコト煮込んだチャーシューが、生肉より値下がりするなどという、河原の積み石よりやりがいのない過酷な労働を、彼女らに強いている訳では無論ない。
それら加工食品は、その出自を明らかにする必要がないから、原材料費をどこまでも抑えられる。
そしてそれが今後どのような影響があるのか、それはわからない。
今後、米農家の補助金が削減されていく趨勢にあるとのことらしい。
これに関しては全く恐ろしいという気持ちにしかならないが、ウェブ上では、補助金ジャブジャブの農家は潰せとの声が高い。
実際厳しい競争の中で生きている、都市部の住人にとって、不公平感があるのも理解できる。
しかしながら、総じて先進国の農業で、全く保護を必要としない分野はどれほどあるものだろう。
無論、規制を緩和して、やる気のある農家や企業の参入を推し進めるのは良いことだろう。
農業大国と言われる国々、特にアメリカ、フランスでは、補助も厚い。
アメリカでの農業補助金は、大別して5種類。作付面積に対する補助金。市場価格による差額の補助金。ローン充当補助金。最低価格保証金。作物保険への政府充当金。などなど、日本の補助金など可愛らしいと思えるような補助金の幅の広さ。
その上先般のバイオエタノール原料買い付け保証などなど、挙げたらきりがないほど補助金ジャブジャブである。
特に市場価格ベースの補助金は、WTOからお叱りを受けかねない、輸出補助金に触れると見られており、今般のTTP交渉では果たしてどうなるかというところでもある。
この恐ろしい規模での補助金によって、折角の国連の援助を受け殖産された後進国の綿花、穀物畑などが、価格競争で打撃を受けて青色吐息だそうだ。
例えばコーンだと、その金額の八割以上が補助金に依っており、俺達が喰うケロッグコーンフロストは、アメリカ人の税金によって八割増量してもらっている。
そして当然アメリカであるからして、その全補助金額の七割以上が、上位数%の大規模農家によって独占されている。
まさにアメリカというお国柄らしい、ビッグになるほど保証も厚い、悪夢的アメリカンドリームの類の補助金だ。
方やおフランスでは、アメリカ同様、斯様な大農家向けの補助金も充実しており、これまたグレーな輸出補助金の類も、ジャブジャブ拠出しているのだが、反面、小規模農業のみならず漁業、加工業への保証もこれまた厚い。
例えば農地のその周辺環境、景観への配慮などを目的とする補助金。また産品の国定ブランド化とそれへの国際的な法的保護、輸出補助金など、小規模でも国際社会で十分戦えるような保証が充実している。
彼の国の優良な小規模一次、二次産業への保証は、単にその百姓の生活、土地の景観、田舎ワイナリー、漁港を守るという小さな目的ではなく、それに付随する食の安全と文化、外食産業、観光業、ひいては国のイメージという、より大きな対象への投資なのだろう。
翻って日本には、果たして保護に値する農業、食産業が無いだろうかというと、全く実に多い。
地方地方に奇妙な郷土料理や農法やらが、険隘な国土ならではの多様性に富んでおり、港町に行けば、寿司屋の生ゴミかと見まごう奇妙な鱠が出てきたり、山国に行けばタクアンのままで美味いのになんで燻製にしちゃったかなーという漬物が供せられる。
狭隘な土地に無理やり作った田畑や、それにまつわる行事や伝統産業ら、それら無数の多様性が重層的に折り重なり、文化というものが形成される。
食にやかましい中国人に、俺はベトナム料理が好きだと述べたところ、中国人は鼻で笑って「ベトナムに料理なんかねーよ。美味しい菜(惣菜)ならあるけどな」とのたまう。
最近は冷蔵庫に入ったりなんかくわえたりするのが流行りらしいです。
このへんのことについては、書こうと思ってうまくいかなくていくつか文章を放置してあったんだけど、今日、どこぞのまとめ見て不意にまとまったので書いてみる。
なおこのエントリは、本来だったらもうちょい精密に考えなきゃいけないところを、自分の経験に引き寄せすぎて、ちょいとざっくりと処理しちまってるので、あんまり論としてはよいものではないです。
さて、件の炎上した人たちについては、バカに見える。現実問題としてアホだなあとは思うわけだが、俺自身の思想によって、バカであるという判断では終わらせられない。もしバカなのだとしたら、過去にも同様にバカはいたはずで、過去のバカと現在のバカはあまり変わらない、彼ら、彼女らだけが特異的にバカなのではない、と考えるわけだ。つまり、彼ら、あるいは彼女らが悪いというのはではなく、環境やら状況やらに理由があってこうなった、ということをまず考える。実際悪くねえかっていったらそりゃ悪いことしてるんだけど、そういう状況に至ったのにはなにがしかの理由があるはずだ、ということだ。
話が錯綜しそうなんで、先にだいたいのところをまとめておく。代名詞はめんどくさいから「彼ら」で統一する。
彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。
彼らの感覚としては「所与の権利」の範囲が非常に広い。権利が広いため、たいていのことをしても許される「ことになっている」。許さないものがあるのだとしたら、それは許さない側の理屈がおかしい。「うちらなんにも悪いことしてないのになに文句言ってくるの」ということになる。
彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーションがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。実際にはそれは、インターネットの仕組みの内部で動いているサービスなのだが、ここでSNSと「うちら」の結託が起こる。SNS=うちらとなるわけだ。なんとなくは「インターネット全体」という外部があることは知っていても、それが「うちら」に積極的に介入してくることは考えない。もしそれが容喙してきた場合、彼らの理屈に従えば「うちらなにも悪いことしてないのになに勝手に干渉してくんの」ということになる。ましてネットの場合、リアルとは違い「外部」は完全に可視範囲の外にある。おそらく彼らにしてみれば不意打ちの感覚が強いだろう。
こうして「冷凍庫に入る」という行為が「許され」、それを「うちら」の内部での武勇伝として公表し、しかし外部の存在はまったく意識しないため、炎上する可能性を想像できない。さっき見たラーメン屋のまとめでもこの流れは完全に一緒である。
なぜ想像できないのか、という問題がある。
これについては「あらかじめ許されている」という感覚との関係を考えたい。所与の権利の幅が大きいということは、逆になにやっても自分たちには危害は及ばないということでもある。つまり危機意識の低さだ。その一方で、情報はどんどん入ってくる。情報が入ってくるということは、世界は有限だということでもある。「しょせんこんなもん」という見切りが先に立ってしまう。つまり彼らは「しょせんこんなもん」という有限の世界で、手足をどう動かそうと「許され」、それだけになにをやっても手応えがない。脱法スレスレ(と彼らが考えるところのこと)のことをすれば、それなりのリアクションはあるからおもしろさはある、ということだ。
以上、ざっとまとめるつもりだったが、これだけでかなり長くなった。
俺がなにゆえこういう考えに至ったかというと、そういうものを日常的に見ているからだ。俺のブログを読んでいる人は、はてなのアカウントを持っている人がわりと多いだろうし、そしてはてなはおそらくネットのなかでも特異的に高学歴の人が集まっている場所だと思う。俺はよくこのことに言及するが、根拠は「自分の周囲から聞こえてくる会話」と、ブコメなりなんなりから漠然と把握される「はてなユーザーの平均的なイメージ」との乖離があまりに大きいからだ。
どうオブラートに包んでもうまく表現できないだろうから、あえて露骨な言葉を使う。この世には「低学歴の世界」というものがある。ネットからは非常に可視化されにくい場所だ。ここでは当用漢字ですらも通用しないことが多い。最近では「試飲」という言葉が通じなかったたため「ためしに飲んでもらう」という言葉に言い換えた。特定の個人に通じなかったわけではなく「ああ、これはだいたい通じないな」と思ったから言い換える結果になった。抽象的な概念はかなり通じない。そもそも「概念」という言葉そのものが通じないだろう。個別具体的な事物を束ねて、現象として説明するような言葉では、なにも伝わらない。
そういう場所が現にある。
彼らが「インターネット」というものの全体像が把握できないと気づいたのは、バイトがmixiに個人情報をまるっと書いていて、そのことについて口を酸っぱくして注意してもまったく通じなかったからだ。どころか「コメント欄に知らない人が書いてたけど、悪い人じゃないっぽいから今度会ってくる」と言い出した。
善悪定かでない不特定多数の人間が、自分の名前、ケータイ番号、職場、交遊関係にアクセスしうるということがなにを意味するのか、彼らは理解できない。というより「不特定多数」という「人間一般」を思い浮かべることが難しい。彼らにとって人間とは「知人」か「知人でないもの」の区別くらいしかなく、そして「知人でないもの」は、彼ら自身がそうしたものになんの興味も持たないように、相手も自分に対して興味を抱かない「はず」の存在である。
結局バイトに俺の注意が伝わったのは、実際に俺が自分のPCでmixiの該当ページにアクセスしてみせたからだ。
店頭にたまるお子様たちから学んだこともある。あまり治安がよろしくない彼らだが、こちらが注意すれば、ひとまずはいなくなる。しかしまたすぐ現れる。何度注意しても同じである。こちらが見ている目の前でゴミを捨てる。カップ麺の残りはだばぁする。やりたい放題なのだが、意外にも「出入り禁止」は効果がある。ただ出入りを禁止するだけではだめで「あんたら客じゃないから」というのが効果がある。そう伝えると、彼らは裏切られたような顔をする。彼らの自意識は「客」である。客であり、買い物をしている以上「明確な犯罪でなければ」なにをしてもいい、ということになっている。実際のところ、彼らは意外なほどに万引きなどはしない。
だから「俺ら客だよ?」に対しては「別に買ってもらわなくてもいい」と言う。「ほかの店を利用してくれればいいです。うちのことは利用しなくていいです」と言う。これは彼らにとって、前提となる権利の全否定だから、裏切りにあたるわけだ。しかし諦めはわりと早い。権利を保証しない以上、彼らにとって俺はいてもいなくてもいいものになったからだ。
こういう経験を通じて、最初に書いたような考えに至ったわけだ。
彼らの常識は、いわゆる社会の常識とは異なる。異なっている以上、社会化されていない。俺はエントリとして書いた以上、彼らを社会化する方法について述べるべきだろうが、いまのところちょっとなんの対策も思い浮かばない。特にネットにああいう迷惑行為をアップしてしまうような手合いだと、なにをどうやっても制御できる方法が思い浮かばない。
とはいえ、そういうものはかならずなんらかの制裁を与えられるのがこの日本の社会というものである。よくも悪くもそういうものだ。
で、それがネットの炎上というかたちになって表れているのだと俺は思っている。
この流れは続く。続かない理由が思いつかないからだ。ひとつには彼らが炎上を避ける方法を学習すればいいのだが、それにはたぶん相当の時間がかかる。どこかでの炎上があって、それを見たとしても、それと自分たちの行為が結びつかないからだ。「あれは外部で起きていることであり、うちらとは関係ない」が原則となる。また、炎上させるほうも手を緩めることはないだろう。なにしろ彼らの傍若無人なふるまいは、同世代にとってこそいちばん迷惑になる。ならば、ネットという「力」を活用しない手はない。
俺は、俺の思想にしたがって、彼らの存在を可能な限り正しく把握し、そこに感情的色彩を挟まない努力をしなければならない。「あれはバカで、どうにもならない」でかたづけてしまうのは、俺にとって敗北だからだ。
というような話を、車のなかでうちの奥さま相手にしていた。うちの奥さまいわく、
「だから、子供できるだろ、結婚すんだろ。そうすると落ち着くんだよ。伝統芸だろ」
芸かよ。
「いまでもこの方法は有効だと思うんだけど……でもなあ……昔はそういうのが有効だった理由って、暴れるだけ暴れて、それって反抗するってことだったんだけど、やるだけやれば、反抗してた大人たちはそれなりに大したもん、というところに落ち着いたからじゃん。そういうの、ないからね、いま」
「ないですか」
「ないよ。大人もいなくなりつつあるし、反抗でもない。両方の側面からアウト」
アウトですか。
さて、俺は考える。俺の常識、社会の常識のほうがまちがっていて、彼らの「うちら」感のほうが正しいという可能性をだ。俺には「うちら」と「うちら」が出会ったときにどうなるのか、ということについての知識がない。しいていえば、各コンビニごとに溜まる集団はひとつだけで、住み分けが成立している、ということくらいだ。
俺に考えられるのはこのへんまで。
おそらくこういうのちゃんと論じた本とかはあると思うんだけど。
同じ場所でけっこうな期間にわたって店をかまえていて、彼らが高校生のころから見てたりもするんだけど、昔だったら、男は肉体労働、女は水商売っていう上がりのかたちがあったはずなんだけど、受け皿のほうが少ないせいか「どうやって生活してんだろこいつら」と思うようなのが増えてる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
やはりピカ米危険だよね…。
米のように主食で日常的に食べるものについては、ベクレル値が低くても気になってしまう。特に安い定食屋や牛丼チェーンのような、安い米使ってる所はやばそうだ。サイトで産地を公開していても「日本」としか書いてなかったり、吉野家にいたっては福島で米作るとか言い始める始末。企業の危機意識がかなり低いことがうかがえる。消費者があまりうるさく言わないからか。
去年ぐらいまでは震災前の古い米使ってるから安い店は逆に大丈夫(それはそれで好んで食いたくはないが)とも言われていたが、さすがに最近はそうじゃないだろう。
人々の警戒心も薄れてきて検査とかかなり杜撰だろうし、産地偽装やヤミ出荷はそこかしこで続いているのだろうし、出所のはっきりしない米は食わない…とするしかないではないか。10年経ってもガンが増えなかったらそこで初めて安心できる。今はまだ警戒を解ける段階ではない。
俺は元増田じゃないんだけど、そこまで長文で反論してくるんだから、こっちも無視は行けないと思い、1点だけ突っ込ませていただく。
で、俺が言いたかったのは、スケボーは見た目、想像以上に難しいし、危険。大人になってやっても遅い。チョロチョロ乗るぐらいなら出来るかもしれんが、大抵大怪我する。
サーフィンやスケボーが危険なのは元増田だって理解してるだろうし、やったこと無い(スケボーは幼少の頃にあるが)俺でも危険なのは分かる。てか、危険だと思わず、全く危機意識0でやる人間なんていないだろ。ましてや大人で。
でも、「楽しそうだと思うからやってみよう」と思うのが大事であって、その楽しさを単に増田で伝えたかっただけだろ。お前みたいに宗教的に批判する意味がわからんし、そういう考えが”頭が硬い馬鹿”だって俺は言いたいんだ。
お前がやってるのは、酒飲みのくせに「酒のうまさや楽しさを伝えようとするなんて、アル中が増えたらどうするんだ!!!」ってイチャモン付けてるのと変わらん。酒の飲み過ぎが危険なんて誰だって理解してるんだよ。
大人になって酒を飲んだこと無い奴が、「うまそうな酒だな。飲んでみよう」と行ってバーに行くのか、先入観を持って「酒なんて体に悪い。ビールは不味いだけ」って思うか、ポジティブかネガティブかで結果も変わる(かもしれない)ということを言いたいだけだろ。
泥酔するほど酒飲んでわざわざ他人の投稿を批判するお前だ。俺の言ってる意味分かるよな?ちなみに俺は1度も泥酔したことなんてないけどな。