はてなキーワード: 判別とは
今回挙げたのは今苦しんでるやつを救うためだからな。
科学的検証に由来しない誰かが正しいといったという時点でそれは宗教だよ。だから間違ってるというわけではないが。
科学的検証に耐えたやつが宗教から出ていったのと、霊感商法が跋扈してるから、怪しいものになるわけだ。
で、霊感商法が跋扈している以上、科学的検証に耐えたもので言えるのならまずそちらを先に言わざるを得ないと思う。
元増田はだいぶ弱っているし、そういうやつほど霊感商法のカモだ。仏教いいよ瞑想いいよマインドフルネスいいよと言って、偽装した霊感商法に走られては困る。
今の御時世広告で怪しい連中が構えてるしな。
まずは取っ掛かりで頭を休めて、落ち着いて関心があったら上座部仏教の方にいったらいいかもねぐらいの立場だ。
落ち着いて、ある程度理性的に考えれるのなら、怪しいやつなんて怪しいと逃げれる。
上座部仏教もいいと思うけど、今苦しんで訳がわからないやつにとっては、霊感商法も、上座部仏教も正しさが判別がつかない。
あと、悟ったってのは僕の主観だ。ひょっとしたら書いてるのかもしれんが知らん。
悟りって僕は「認知の歪みが取れた」ぐらいの意味だとしか思ってない。
悟ったって言ったらそれだけで怪しいと思ったんでしょ?だからこそ、科学的検証と、今苦しんでいることにターゲットを当てている本を書いてるやつを選んだ。
全然専門家でも何でもないし文章も下手だし書きながら感覚的な持論を頭の中でまとめるので失礼。
そもそも清潔感って、元を辿ると感染力のある病気や衛生的に危険なもの回避する為に出来た概念であり、
生理的な嫌悪感を持つ事も、ある種、種の保存というか原始的な本能から来ている判断基準だと思うのね。
これはフケに限らず、肌や髪の毛などの見た目でいわゆる大多数(その社会における一般の枠組み)と違う異質なものを排除する習性というか
衛生的に危険な存在を排除する事、自らを衛生的である事で、自分を、社会を守ろうとする意識が根付くのは確かに人間が社会を形成する上で過去に必要だったかもしれないなと。
医学とか文明が未発達の時点では、それこそ危険な病気との違いも判別が出来なかっただろうし、そうした排除はある意味仕方がなかった面もあるかもしれない。
ただ今は少なくとも先進国においてはもう衛生面で周囲に危険が及ぶなんて可能性も少ないし、病気かどうかは区別がつくしある程度は治療も出来る。
例えば何か斑点が出来て身体が何か病気のサインを出していても、本人がそれに自分で気付いて治療を受ける事が出来る事を一応は前提にする事が出来るという事。
だから他者がそれを見て忌避したり排除する必要性がない時代になってると思うのよ。
いわゆる文明の発達、医学の発展がそうした無知からくる偏見を乗り越えられる時代に来てると思うわけ。
イケメンや美女を好む個人の自由は残しても、そうじゃない者を批判したり非難する必然性がないというか。
つまり今の現代では清潔感という概念で他者を攻撃したり強制する必要性がないわけ。
文明が、異質な存在を認める事が出来るだけの力と情報を蓄えて、医学的なものとかなんか社会学とか、詳しくはないけど発達してさ、多様性を担保出来るようになってきているからこその必然的な世界の流れだと思うのよ。
それこそ人種や性や容姿や身体障害とかも含めてさ、まだ発展途中だとしても。
敵とみなして構えたり攻撃しなければいけなかった社会ではなくなっていて、バリアフリー的な仕組みがあればどんな人でもそのままで生きていけるようにってのが社会の発展であり文明の進歩というかさ。
そこに清潔感とかそういう判断基準ももう次のステップにいけると思うのよ。
持病で肌の皮脂分泌が多かろうと、フケが出ようと、体毛が濃かろうとさ。
そういう流れが文化的な側面にも波及して人類が進歩しようとしてると感じるのよ、自分は。
でもまだその古い習性を持っている人間が清潔感とかって未成熟な価値観で他者を非難する状況が残ってると。
今はブツブツの肌もそれが持って生まれたものならそれを美しいと認めようって時代なわけよ。
もちろんまだまだ当たり前に残ってるし、そういう意識を持ってる人のほうが大多数なのかもしれないけどさ。
きっともう不毛なわけよ、体質的に一般的な清潔感の概念から外れた人に努力を強いるような社会の仕組みと価値観と観念がさ。
要するにマイノリティに努力を強いる社会はもう時代遅れだと思うわけ。
あと動物はそもそも最初から一緒にいれば姿かたちが違うものも排除しない、場合もあるよね全部かは知らんけど。
だから本能的、とか生理的って思ってるものも実は本当の意味で根源的なものではなく、後付けの感覚だと思うんだよね。
これは美しいと感じるものについても。
なんかそんな事を思いました。
FE→AP→PM→ST→SC→SM→AUときて、SAに来ました。
SAって一般常識的な感じで何勉強すべきかわかりませんでした。。過去問と関連調査くらいです。
■午前2
多分合ってる:1,2,5,6,7,9,10,11,17,29,20,22,25
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■午後1
<大問1>
設問1(1)受講者に向け5週間前に案内メールを送信する運用。(3/20内示で4月上旬で実施だから。)
(2)人材開発部で受講者と登録したタイミングで案内メールを送信する。(これは想像で書くところ。)
(3) 受講者:所属が変更となる受講者
タイミング:月の2日,3日から始まる講座。(名簿など作ったタイミングと、月初からの所属が変わるからと考えたが…これは間違ってそう。)
設問2(1)人事異動に対応できるように社員基本情報に所属を複数登録できるようにする。(なんかこれも間違ってそう。)
(3)資格名は受領データにないので登録時に設定できるようにする。
設問3: 機能:講座一覧の照会機能(間違ってそう。この機能は有ると思うけど、ぴったりな表現は見当たらなかった。)
不具合:照会日付での最新情報が判別できず正しく表示できない。(主キーじゃないとNULLが入るうると…と考えました。間違ってそう。)
<大問2>
設問2:開示請求件数の約半数が年度初めの4月、5月に集中するという特性
設問3(1)利用者登録していない個人や法人から開示請求する際に、手数料など追加項目を設定するため(いい感じに思ったが、ちょっと飛躍しすぎかも。)
(2)職員認証システムとのデータ連携が月1頻度に抑えられるため
設問4(1)現行同様、必要に応じ情報提供先に電話で連絡できること
(2)場所や時間の制限がなく即時に文書を取得できること(手作業の手間を低減したい、も書きたかったが文字数足らず。)
(3)事業者の開示請求が多く、メールアドレスより法人用電話番号の方が登録しやすいため。
■午後2
設問2(PKGと要件ギャップと対策案)を選択。過去問にほぼ同じがあり考えたことがあったので。
骨子だけ記載しておく。
1-2.PKG選定の理由
顧客のシステムが10年動いていて、文書腐ってたり保守コスト運用コスト挙がっているのがPKG導入の背景。
2.PKGと顧客希望機能とギャップとそれに対し検討した解決策
顧客現行システムの機能一覧と、自社PKGの機能一覧を紐づけて整理。それを複数回のデモで確認した。
①PKGのにはAAA機能がなかった。まあどうでもいいトラブル対応用の機能。
②PKGのにはBBB機能がなかった。これは企業競争力に寄与する業務機能。
③PKGのにはCCC機能がなかった。これも重要だがPKGの追加開発はコストが大きく厳しい。
①別機能を組み合わせて代替としてもらうよう依頼。マニュアル作って補足。
③自社追加開発のコストを整理して高いとアピールし、接続する他方システムで改修してもらうように打診。
大変良いと評価した。安易な追加開発に進めずよかった。デモでその認識相違も埋めてよかった。
契約書の追加記載などで避けられたかもしれないので、その可能性も比較すべきだったのが✕。
ちょっと強引で顧客や他システム側に嫌われたかも。もっと早めに気づいて展開できればよかった。
以上
プログラマー&マネージャーの俺に言わせると、その職場は超ブラックなので転職したほうがいい
確かに未経験者を現場に入れる風潮はあるが、それは経きちんと研修を受けさせる前提のはなしだよ
「俺もそうだったからお前も」って上司はただの思考停止の馬鹿だから鵜呑みにしなくていい
・研修は具体的にどの程度あるのか?
プログラマーに向いてるかどうかってはなしだけど、そんなことは始めて数年で判別できるわけがない
全体像が見えてないから何がわかってて、何がわかってないのかも見えてないだけ
未経験でも、きちんと研修を受けて毎日1つずつ覚えていけば1年後には立派なプログラマーだよ
ただ、そこから質やスピードの良し悪しは経験と知識がものを言うから小さな積み重ねが必要になる
1年後にスタート地点に着くって考えて頑張って
書き方は釣りっぽいけど、今30代前半以下のPCユーザーにはフロッピーディスクを実際に見たことがない人達が多いはずで、あのアイコンが「保存のメタファー」として直感的でなくなってるのは確かだと思います。
ただ、検索を虫眼鏡アイコンで、電話を黒電話アイコンで、電気を稲妻アイコンで表象するのと同じように、ひとたびユーザーの側に「これはこういうもの」という強力な連想が確立・共有されてしまえば、ユーザーが必ずしもその表象されてる実物を知らなくても大きな問題は起きないようにも思います。
それより何より、自分が昔から気になってるのは、この保存アイコンに代表される「機能アイコン」の特殊性についてです。多くの人々が感じているように、機能アイコンには意味がわかりにくいものが多い。たとえばWordやExcelだとこんな感じ:
https://gyazo.com/c0d77ae6fd252d756b40f95da10c9cc7
https://gyazo.com/f2807738b32978daa8edb8ab9f9b8441
「これアイコンにする意味あんのかな、単体で見ても全く意味わからんな」というものがたくさんあるよね。
何で機能アイコンってわかりにくいか、考えたことありますか? デスクトップメタファーでは、コンピューターの中にあるオブジェクト(ファイルやディレクトリ)を実世界に存在する書類やフォルダに見立てて、それをアイコンとして表現することで直感的に理解・操作できるようにしているわけですが、機能アイコンはそうじゃないんですよね。機能アイコンが表現したいのは、オブジェクトではなく、アクション(行動・働きかけ・変化)なんです。
①その機能を表象するモノをそのまま使う(フロッピーや虫眼鏡や錠前など)
②その機能を表象するモノに、動作や変化を示唆するプラスやマイナスやバツや矢印を重ねる(削除行に×マークをつけたスプレッドシートなど)
③その機能を実行したときの視覚的結果を表す(中央寄せや下罫線など)
このうち①は、実世界での活動になぞらえられるような基礎的機能にしか使えない。②は、もともと小さい機能アイコンにさらに小さい意味素を付け加えることになるので、とても見にくいうえに、似たような機能アイコンを区別しにくい。③は、ごく簡単な結果であればよいけれど、複雑だったり抽象的だったりする結果を表現することはほとんどできなくなる(たとえば、上のExcel機能アイコンの「アイテムの後ろの空行を削除する」や「XPS形式の添付ファイルとして電子メールで送信」など)。①②③のいずれも、アクションをオブジェクトで表現することに本質的に無理があるからわかりにくいわけです。
じゃあ、なんでそんな「本質的に無理がある」ものがここまで普及して広く使われているのか。この問いを突き詰めると、機能アイコンはもはや直感的理解を助けるためのメタファーではないからだ、という答えにたどり着きます。
例えば、わかりにくい(アイコンとしての具象性が劣っている)からといって機能アイコンを取り去るとどうなるか考えてみると、「いや、やっぱちょっと困るな」となる人は多いのではないでしょうか。もしリボンUIに文字だけで機能がずらずら並んだらものすごく見にくいし、目的の機能を探しにくい。つまり機能アイコンの利点は、今では①UIの省スペース性(たくさんの機能を有限のUI領域に整然と詰め込める)と、②瞭然性(学習さえ済んでいれば、文字列の読解処理を経ずに瞬時に判別できる)の2つにあるのです。
機能アイコンはデスクトップメタファーとは違って、ユーザーの学習コストは下げてくれない(直感的理解は全く支援しない)けど、一度学習してしまえば、日々その機能を利用するときの操作コストは格段に下げてくれます(元増田も、保存アイコンがないよりは、フロッピーアイコンのままのほうがずっと楽なはずです)。これが確実にユーザーエクスペリエンスを向上してくれているわけですね。
個人的には、だから機能アイコンのことは機能シンボルって呼ぶ方が実態に則してるんじゃないかなと思ってます。アイコンは偶像だけど、シンボルは約束事、協約ですからね。
論文が「正しい」か「正しくない」かを査読者が判別可能な,ある意味特殊な分野である数学のことしか分からないけど,
数学だと論文の主張とその証明が正しい事は前提になってて,主張が間違ってたら落とすのと,主張は正しくても,
論文誌のレベルにふさわしい面白い結果かどうかで採否が決まったりするよ
論文の正しさは投稿者にも原理的には判別可能だし,投稿する側は勿論必死のパッチで証明の正しさを検証してから投稿
するけど,ワイルズのフェルマーの最終定理の証明の一回目の査読では間違いが見つかったみたいに人間は完全ではないから,
査読者が何も見落とさないか?と言われると,それは見落とすことも多分ある,としか言いようは無いけど,自分では気づけなかった
こんな物があるから固体を気体と誤認して大の大人が漏らすという悲劇が続くのだ。
肛門から出てくる物は固体(体調によっては液体)と決まっていれば誰もチャレンジなどしないというのに。
体内の不要なガスを排泄腔から一気に排出するのではなく全身の毛穴から薄く少しづつ排出する――なぜ人体はそのように進化しなかったのか?
神が人を創造したというのであればいかなる意図で男と女は生涯にわたり自らの腸内の気体と固体の判別に悩まされる定めとされたのか?
ぶっちゃけ話をすると,私はこれまで「別に査読はなくてもいいだろ」という話を延々としてきたのだが,ブコメやらtwitterやらで文系擁護派の一部の人が「人文系の学問は査読になじまないんだ!」みたいな議論を始めてることには正直困惑している.
日本語で文学関係の査読つき論文とかたくさん出てるし,というか英文で文学を専門にした査読誌は普通にあるし,国際的な和文査読誌も存在するし,問題のおおもとになった日本社会学会には和文と英文の査読誌があるわけで,文学や社会学の論文が本質的に査読に馴染まないなんてわけはない(実定法学は知らん).査読できるならした方がいいだろう.学術的ではないエッセイにまで査読を求めるのは間違っているけれど,新規性のある学術論文を査読制度に向いてないと言い募ることもおかしいと思う.
査読になじまない型の研究としては,たとえば史料校訂とかそういうのが挙げられるかもしれないけれど,それだってやろうと思えば外部チェックは入れられる.論集だってもし余裕があれば査読をした方が質が高まるし,選書系や新書系ではない単著も査読をした方がいいだろう(このへんは出版社の体力との相談になってくる面もあるので,今すぐに査読制度を取り入れろとは言えないことがもどかしい.twitterではOxford University Pressで査読つき単著を刊行した人が議論していたけれど,OUPと日本の出版社は体力違いすぎるんで……).
私が査読なしの論文を業績として認めるべきだと主張するのは,現在査読がなくとも良質な論文や著書が多く存在しており,それらを形式的に査読されていないという理由だけで無価値であるかのように扱うのは間違っていると考えるからだ.だが未来永劫査読すべきでないと主張するつもりはない.
もちろん査読という制度には様々な問題があるので,全面的な導入に慎重になるのはわからないでもない.文系分野での査読制度の拡大は止められない趨勢だろうが,一方で「査読されていないものの良質な文献」も産出され続け,全面的な査読制度の導入まではかなり遠いだろう.そのあいだにじっくりと議論をすればよいと思う.査読がないから文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系に査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく.
id:hogefugapiyox 「査読がないから文系は無価値だ! と絶叫するのでも,文系に査読はなじまない! と拳を振り上げるのでもなく」ほんこれ/ 査読が実質なしという事で近年問題のpredatory journalについての考えも聞いてみたいかも
英語じゃないと業績として認められない分野のことはわからないけれど,和文論文が業績として通用する分野ではpredatory journalの話はあまり聞かない.
というのは,和文査読誌を出してる主体は,学会もしくは大学・研究所などの機関にほぼ限られるから.
学会が出している査読誌の多くは,投稿資格を会員に限定していて,多くの学会は年数千円の会費(院生や非常勤と常勤では価格に差をつけている学会が多い)を払いさえすれば誰でも会員になれる(推薦者が必要な場合もあるが,指導教官とか先輩とかに推薦してもらえばよほどのことがない限り会員になれる).つまり査読誌は会費で維持されており,こういう雑誌では投稿も掲載もふつう無料だ(流石に抜き刷りとかは金を取ることが多いだろうが).会員は会費を払い,見返りとして論文投稿の権利と雑誌を頒布される権利を得る(余談だが,日本の学術誌のOA化にあたっての障害の1つがこの「会費で学術誌を維持する」システムだった.会員は会費を払って雑誌を受け取っているのに,会費を払っていない者にまで無料で公開するなんて何ごとだ! というわけ.今でも,CiNiiやjstageで無料公開してるのは発行から○年過ぎた号だけです,みたいな運用をしている雑誌はある.
大学や研究所は言うまでもなく自分たちの研究費で雑誌を維持しているので,投稿料や掲載料を取らないことが多い.それって紀要じゃ,と言われるかもしれないが,投稿資格を学生や教員に限定していない場合があり,下手するとそのへんの学会誌よりも査読が厳しく良質な論文が載ったりするので,研究機関が出している=紀要というわけじゃない.これは外国でも割と見るんだよね.
もちろんごく稀に出版社が商業で出している学術誌もあるのだが,そういう奇特な出版社は文系の学問に理解があり非常に良心的なので投稿料を取らないことが多い.少なくとも私が知ってる雑誌はそうだ.
そして,日本語のアカデミアは豊かではあるが英語ほど広くないので,predatory journalが参入しようと思うほどの旨味がないし(全世界から微妙なデキの英語論文をかき集めてくるから商売になるわけでしょ?),たいてい自分のレベルでも投稿できる雑誌が探せばどこかにあり,場所を選ばなければ発表できてしまうわけで,わざわざ悪徳業者にカネを払うインセンティブがないんですわ.最近は学内紀要にも査読つきが増えてるから,紀要に出して「査読つき論文です(キリッ」というのも可能.ただ学会誌か紀要かは下手すると雑誌のタイトル見れば判別つくから,「あ,こいつ査読論文いっぱい書いてるとか言ってるけど全部紀要だわ」みたいなのはそれこそ業績リスト見るだけでわかったりする(まあ,学内紀要でもガチ査読していることはあるので,紀要だからといって低く見られるのも可哀想なのだが.うちの大学では学内紀要に落ちたという悲鳴もちらほら聞こえます).
なのでpredatory journalに関しては,うちらには関係ないね程度の感覚.id:min2fly氏の指摘は本当にそのとおりだと思う.
(……)査読は英語で“Peer review”,同じ分野の研究仲間(“Peer”)による評価を指すが,国際化が進み,大量の研究者・雑誌・論文が存在する状況において,果たしてある雑誌の投稿者,査読者,読者が一つの研究コミュニティの「仲間」となっているのか,ということになるだろう。互いに見知ったコミュニティであれば,でっちあげられた架空の研究者に査読を依頼するなどありえないし,不正に査読を通過して論文を掲載したところで,内容が稚拙であればむしろ評価を下げることになる。また,ある程度雑誌数が限られていれば,聞いたこともないハゲタカOA 誌に掲載された論文は不審に思うはずである。(……)査読はある程度限られた規模の研究コミュニティにおいて問題なく機能する仕組みであって,現状の国際化・巨大化した研究者集団の規模に適用するには限界があると言えるだろう。
人文学と社会科学か。社会科学のほうが科学なのに怪しさが入り込む余地がある気がしてしまうのも奇妙だが、哲学とかだと論理的な議論はあっても「正しさ」を決めることはできないからかな。
なんとなく「人文学」と書いたけど,「人文科学」と呼ぶこともある.私個人としては別にどっちでもいいかと思うけど.人文系と社会科学系と呼んだりもする(総称は「人文社会系」とか「人文社会科学」とか).「社会科学」は略せないんだよな,「社会学」とかぶっちゃうから.このへんは前増田で参考文献として挙げた隠岐さんの著作が面白かったから読んでほしい.オススメ.
理系でも教授の贔屓やコネはないわけじゃないけど論文数(あるいは引用数)で無能認定する仕組みは馬鹿の排除には有効なんだよ(捏造の動機にもなるけど)。
論文数で無能認定は文系でもよくあることです(ただ,論文をあまり書いていないだけで該博な知識を有してる人なんかは尊敬される.周りは「もっと論文書いて! 読みたい!」って思ってるけどw そういう人がポストを得られていなかったりして業績少ないから仕方ないと思う反面すごいもったいないなと思ったり).ただこれも分野によっては1年に1本書いてりゃまあ標準的,というところもあれば1年に2・3本書くのが当然だろ? という分野もありで,その上分野によっては査読の有無での格付けとかもあまりしないので(そりゃ学振の申請書では査読つきとなしを分けて書くけどね),安易に異分野の人が自分野の基準で無能判定するのは本当に良くないからやらない方がいいと思う.今年は著書1冊書いてるけど論文は書きませんでした,を理系基準で業績ゼロって判定されたら暴動起きますよ.
あと歴史学や文学だと,いちばん大事な仕事は論文執筆じゃなくて史料校訂だ,という感覚もあったりして,そのへんがきちんと評価されるのが望ましいよなぁと.ある平安貴族について論文書いても分析視角がニッチならあまり引用されないかもしれないけど,どこぞのお寺なり旧家なりにしまわれてたその貴族の日記を活字に起こして誤字脱字を訂正して単語の意味を解説して背景情報を補足して(日記って本人にとって当たり前のことは書かれないけど,1,000年経ったらそんなことわからないので),っていう作業をしたらその後平安時代の歴史や文学をやる人に参照されまくる基礎文献になったりする.こういう地道なレファレンス作りや史料校訂がきちんと評価される仕組みであってほしい……
これは技術的問題.色んな言語で発表される紙の本での引用数,どうやって数えたらいいの……? ってやつ.異国の本屋さんで面白そうな学術書があったから手に取ってみたら私の論文が引用されてたとか,異国で買った本をパラパラ読んでたら知り合いの英語論文が引用されてたけどその知り合いはその異国語を読めないから多分存在を知らないだろうなとか,そういうの割とあるあるなので,人文系じゃ誰も被引用数なんて気にしてない.ぶっちゃけ無理ゲーだと思う.
あと,英語の本で引用されて,そのあとその英書が10か国語に翻訳出版されました,という場合は,何回引用されたと数えるべきだと思う? 1回? 11回?
そもそも優れた先行研究を褒めるのにもダメな先行研究をけなすのにも引用をするわけで,ある論文の中でむっちゃ参考にされた文献とけちょんけちょんにされた文献の2つがどちらも引用1回ってことにされちゃうの不公平すぎない? って思うんだけど.それに,自分の専門分野についてあまりにひどい俗説が広く出回ってるときは学術文献じゃなくても引用して批判することがあるので,たとえば日本近代史の人が小林よしのりの『戦争論』を名指しで批判するとかよくある.純粋に引用された数で勝負したら小林よしのりに惨敗するマトモな研究者って大勢いると思うんだよね.
というか,文系だと「他人の書いた文章を研究対象にする」というのがあるので,村上春樹の研究なら当然村上春樹を引用するわけで.さらに学問分野によっては,「文献リストに先行研究と研究対象を一緒くたに並べる」慣行を持つところもあり(これはその分野なら英語圏の査読誌でもそうなってる),たとえば樋口直人『日本型排外主義』という日本の極右を研究した本の文献リストには,日本や欧米の社会学者が書いた真面目な研究文献と桜井誠や櫻井よしこや西尾幹二の本がABC順でごちゃ混ぜに配列されていて,両者は引用の形式面からはまったく判別できない.本文を読めば前者を参考にして後者を分析したり批判したりしてるのがわかるんだけど,機械的に区別することは不可能.なので在特会に関する研究が進めば「桜井誠に引用数で負ける研究者」がたくさん出てくると思うけど(というか現時点での私が負けてる疑惑),この基準どう考えてもおかしいでしょ.文系の業績を考える上で被引用数はマジで無意味だと思う.
id:q-Anomaly 面白かった。一般文芸と一緒になっているから大変なのかな?理系だとわざわざトンデモさんに言及したりしないしね。間違いを指摘するときは論文ではなくて直接メール、もしくは研究会で議論かな。
もちろん文系でも別に公な場で晒し上げるほどじゃない間違いだったら直接本人に言うとかあるのでそのへんは批判する人の性格とか人間関係にも拠るところはあり,一方で理系でもSTAP細胞のときはさんざん批判論文出てたように思うので公開の場で批判する文化は当然あると思うのだけれど,間違いの指摘を必ず公開の場でやるわけじゃないとか言われるとじゃあこれまで理系には透明性のある評価基準があるけど文系にはそれがないからダメとか言ってたのはいったい何だったんだよ……って思うわ.あなたが言ってきたわけじゃないからあなたに言うのは不当なのかもしれないけれど.
id:hogefugapiyox 増田 理系(理論)でも独創的な論文で高く評価されるけど問題自体が超ニッチで引用は増えないことはありうる。そこで論文誌や国際学会のランクが役立つことはある。正しくてもレベルがそぐわないものは査読で落とされるので
これは文系でもあるある.メジャーなテーマを研究していてもつまらん論文しか書いてなければ意味はないしマイナーなテーマでも面白い論文が書ければ就職が決まる.
id:death6coin 参考にしたのと批判したのは別にリストアップする形式がいまから生まれ得るかというと・・・難しそうですね。批判にも論外から一部の点で疑問があるまで程度があるだろうし。
「この論文はこんな資料を発掘してくれたので重要だ.でも発掘した資料の解釈に疑問がある」とか,どっちにリストアップすればいいんだよという話で.
でもって,リストアップの形式については出典をどう示すかという形式が大きく絡んでくるんですわ.たとえば,歴史学なんかだと先行研究と研究対象は別々にリストアップするけど(それでも流石に優れた先行研究とダメダメな先行研究は分けないよな),それは社会学とは違うやり方で出典を表記しているからそういうことが可能なんだという事情もあって,まあこのへんは自分で学術書やら論文やらを読んで出典チェックしたことがないとわかりづらいかもねえ.社会学とか一部の分野で全部ごちゃ混ぜにした文献リストを作るのにも合理的理由があるんですわ.
id:hisawooo 増田に言うんじゃないんだけども、トンデモ論文への直接的な批判するなら一番マトモで普通な手段は編集者宛のレター(つまりは読者からのお便り欄)じゃないかね(理系の話をしてますよ
なるほど,そういう慣習があるのね.言われてみれば文系でletter欄って見ないな.
で,文系の論文だと本論に入る前に「先行研究の整理」ってやるんですわ.「先行研究Aは基本的に妥当だがこの部分の解釈に問題があり,先行研究Bは古いため近年発見された資料を使っておらず,先行研究Cは優れた研究だがちょっと私のやりたいことについてあまり触れられてなくて,先行研究Dは論外」みたいに整理した上で,じゃあ先行研究A~Cの成果を踏まえて先行研究Cが見落としている角度から先行研究Bが使ってない新資料を使って先行研究Aとは違う解釈します,みたいに自分の論文の意義や新規性をアピールするわけ.なので純粋な参考文献だけの抽出とか無理ゲー.
id:enemyoffreedom 引用数の正しいカウントがやりづらいのは、さすがにその分野の引用慣習に問題ありな気も。他分野や門外漢から見た透明性の確保も今後は必要になっていきそう。まぁそれだけが業績評価を左右するようだと不健全だが
たくさん引用されたから価値がある研究! とかいうローカル基準に基づいてヨソの分野の引用慣習をまるごとdisるならこっちもお前らのそれってPV数狙いのSEO対策でクソ記事垂れ流す互助会みたいなクソ慣習だなって言っていい? つーか文系は査読なしで論文のチェックをしない! 不健全! と文系は批判対象も引用に含めている! 不健全! ってマジどうやれば同じ口で言えるんだよって感じ.クソ論文をきっちり論文中で批判してるから正しいカウントが難しいって話に正しいカウントがやりづらいから問題とか言われるのマジ批判のための批判じゃん.全部ごちゃ混ぜで引用するのにも合理性はあるんですよ.そんなのはその分野の論文なり著書なりを読んで出典チェックしてみればわかりますよ.何度も言うけど英語圏でもこういうやり方なの.本当にこの慣習を是正したかったら理系の皆さんが大好きな英語で全世界に普遍的な問題提起をなさってくださいよろしくお願いしますクソが.
面白いと言ってくれるのはありがたいんだけど,あなた一連の増田をちゃんと読んでる? このトラバツリーの中で,私は何度も自分がオタクだって言ってるよね? だからhttp://b.hatena.ne.jp/entry/372509722/comment/rciみたいな雑括りされても本当に困るんだけど.まあ記事の隅っこで書いてるから気付かなくても仕方ないところはあるけど,そうやって文系とオタクを対立構造にされて困るのは私みたいな文系オタクなんだよ.ほんと勘弁して.
正直私はキズナアイについては興味ないし,どうせならシロちゃんにやらせればよかったんじゃ,とか思うけど,同時にあのくらいの服装が叩かれるとかおかしいよな,とも思うよ.なぜか服装に関してはゴリゴリの保守派になる連中が多くて目眩がしてるよ.色んな変わった服装を好む人への抑圧だろ.ぜんぜんNHKに出ていいよ.それが多様な社会であり自由な社会だよ.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.ただもう本当にこれ以上関わり合いになりたくないのでここ数日の荒みきった心を『ヤマノススメ』の録画を見ることで癒やしてきます.一連のレイニーブルー展開を鑑みると絶対ここなちゃんはひなたをあおいから寝取ろうとしてるしかすみさんはあおいをひなたから寝取ろうとしてると思うんだよね.
これ面白い。「実際は擁護・反発ツィートが多かった」オタがヒステリックにわめいていたことが可視化されました。千田さん、池内さん、森次さん、宇野ゆうかさんあたりはネットリンチの被害者といっていいよなあ
理不尽な言いがかりに反発したら「ヒステリックにわめいた」ことになるんだ.そんなの私が書いた増田を「なんで発狂してるの」とか「文系は理系と違って感情的」とか言ってきたクソ野郎どもと同じじゃん.
キズナアイ叩きについてはオタクとして腹が立つし社会学叩きについては文系として腹が立つし,とにかくこの騒動に関わった連中全員不快だとしか思わないよ私は.つーか公共放送でへそ出しノースリーブの服着て解説して何が悪いんだか.
あー、この内容の本だから表現の自由戦士に粗さがしされて叩かれた、ってことなのね(今やっと理解)。回収にならなかったら読みたかったのに。
あなたが文系の学問に敬意なんてさらさら持ってないことはよくわかりました.あなたみたいな人は文系叩きに加わってた方がお似合いですよ.
一章まるまる他人の論なのを擁護するつもりはないけど、なぜ編集も見落としてしまったこの件がいま見つかって話題になったんだろう?っていう話。で、地味な本書がじっくり読まれたのはそのテーマのせいだよね?
勁草書房みたいな文系学術出版では名の知れたところから,現代社会と密接にリンクした論争的なテーマの本を,学術書としてはお手頃な価格で販売しておいて「地味」はねーわ.あれは当初から論争的な書籍として出版されたものでしょ.そういうのを出したら一般読者からも読まれるに決まってる(だからあの価格でも売れたんだよね).
で,それが日本語で学術出版する意義だって私はこの一連の増田で主張してきたわけだけども.日本語で学術論文や学術書を執筆することは研究成果を広く私たちの社会に届けることと同義であり,文系にとってはそれが重要な社会貢献なんだという話を私はしてきたのだけれど,私の増田を「面白い」と言ってた人がそれを真っ向から否定するのには困惑しかないっすわ.あなた,いったいどこを読んでいたの?
ファンタジーに興味のある一般人が中世ヨーロッパについての学術書を読む,小説好きの一般人が文学の研究書を読む,古代文明にロマンを感じる人が考古学の書物に手を伸ばす,そういった行為の延長として「表現の自由に関心を持つ人が表現規制を主張する著書を読む」という行為があるのであって,それは学術書をじっくり読む動機としては極めて真っ当としか言いようがないです.文系の出版を,学問をバカにしないでください.
なんなんだろうか、キズナアイの宣材画像や衣装、構図が性的かどうか、って議論がされるときに、「オタクは、キズナアイで興奮してるくせにしてないと嘘をついてる」といったようなことを言い出す人が出始めた。
「童貞をこじらせたミソジニー≒オタクども」はあのキズナアイの宣材画像をみたら興奮するんだそうだ。
全然関係ない話なんだけど、おれはいわゆる両刀だ。同性の友達にたいして、性的に好きでなく人として好きだという話をしているわけだが・・・。ごめん大嘘、両刀であることは、はなしてない。
何十年もかかって分かったんだけど、「あふれんばかりの性欲と加害性をもっている」男性で「誰彼構わずセックスする倫理観の外れた」バイセクシャルで「異常な性欲を内に秘めてる」オタクでも、
性的に興奮する対象とそうでない対象っていうのはいる。しかしそれだって状況や主観からの構図によって変わる。
キズナアイのことを性的に感じる時があるだろう。だけれどそれはキズナアイが単にアニメ画で、あの声で、あの肉体を持っていて、あの衣装だからでなくて、シチュエーションや場所やそのひとの思想なんかが絡んではじめて生まれるものだ。
逆に言えばNHKやyoutubeのキズナアイに興奮しないが、エロMMDだったら興奮するひともいるかもしれないし、まったくキズナアイに興奮しない人だっている。
これはわざわざいわなくとも当たり前だが、同性にしか興奮しない人も、そういう興奮をいだいたことのない人だっているのだから、
「男性でオタクなやつは」みたいな雑なくくりで性的目線で見ているかどうかなんて判別できるわけがない。
あの手の議論に触れるのは避けてるしするつもりはないけど、「特定の属性にいる人はあれに性的興奮を覚える」なんて言うのはちょっとどうなの?