はてなキーワード: 下位者とは
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都市部において両親が高学歴の富裕層か教育熱心な家庭に生まれ、中高一貫の名門私立学校出身者にとっては最底辺の進学先であろう。
それでも私にとってそこに入学できたのは強運と努力と才能の結実した成果であった。
私は中学校では50人中だいたい2番だった。
高校は地元の相対的にはいちばんいい進学校にいき、成績は控えめに言っても360人中だいたい5番以内だった。
その進学校は地域全体で約2000人のうち上位360人が集まるので、合わせると5番/2000人で上位0.25%ということになる。
地方出身者は、首都圏や関西の金持ちなら鼻で笑うようなFランク大学に上位0.25%しか入れないのだ。
日本の大学入試制度は一見すると平等な試験選抜であるが、それに特化した訓練を受けられるかどうかという点で大きな不平等があることを、エリート達は知らない。
塾で真ん中より上なら開成とか灘に合格できて、高校で真ん中より上なら東大法学部なんか楽勝だった奴らが国を仕切っている。
私も上述のように田舎の出身ではあるが、それでも普通科の選択枝が複数ある時点でだいぶ恵まれていたし、両親もいちおう大卒で教育意欲は高かった。
ちなみに中学までの同級生のうちで両親が大卒なのは私だけだった。
ちなみに私が通った大学では、入学後の成績順位が試験のたびに開示されるが、成績上位者はのきなみ地元ローカルトップ高出身で、
成績下位者は一流進学校出身者が占める、みごとなまでの「高校偏差値との逆相関」が見られる。
極限までお受験マシーンとしての能力をブーストされた者と、田舎で競争相手にも欠くような者たちが、
大学入試で結果的に同じ成績を残したのであるから、伸びしろは言わずもがなというわけだ。
しかし田舎の貧乏人に進学のチャンスを与えることは、ポテンシャルの高い人材を上に引きあげるある種の効率を改善することに繋がり、その余地はまだ残されている。
日本の学校教育では「不平等に見えること」が何よりも嫌われ、成績の開示や成績優秀者の表彰などを大々的にすることはないし(運動会で運動音痴の公開処刑はするくせに)、
公立校では進学校ですら進学実績を売りにして生徒を募集することがタブーである雰囲気すらある。
しかしそうした消極的な姿勢によって、塾や私立学校などの有料コンテンツでブーストした層が大学受験を勝ち抜きやすくなり、
格差と階級の固定という、より好ましくない事態が生まれている。
よりチャンスの公平な社会と効率的な人材育成のために、初等教育から徹底した到達度別のクラス分けや飛び級・留年を採用するなど、学力と家庭環境の相関度を下げる改革が望まれる。
詳細は他にゆずるが、階級流動性の高い社会では教育予算が多く、人口に対する教師の割合が多く、公立校でも能力に応じた授業が提供されるなど柔軟性が高い。
(出典がすぐ出せない、たしかシノドスか何かで読んだ、あと森巣博の本とか)
ちなみに私の出身大学は失楽園の著者と同じで、出身高校は極楽とんぼの太ってない方と同じだ。
あと学歴社会の是非は問わないでください。高学歴を是として、高学歴が高収入を得られるのを前提にしないと話がややこしくなるんで。
そのレベルのことで代案原理主義者好きとか嫌いとか言ってるの? 頭のおかしい共産主義者か?
企業において賛成とか反対で物事が決まるのは経営会議か株主総会でしょ?
プロジェクトのアイデアAかBかっていうレベルの物事を決定するにあたって判断するのはそのプロジェクトの責任者であって、その責任者は経営者(経営陣)によって選任されてるはずだ。
プロジェクトチームの平参加者が「俺は反対だ! 反対派のほうが多い! これは失敗する!」とか顔真っ赤にして叫ぶほうが頭がおかしいんだよ。
責任者がAでいくっていえばAだし、代案も出さないでAに反対する参加者はただのサボタージュ存在でしかない。そりゃ「対案出せないなら反対するなよ」っていうよ。その本質は「お前には意見を言う資格がないからサボタージュしたり派閥活動するなら昇進しろよ」だ。
仮に(下位者から見て素晴らしい)対案Bをだして責任者がAを選んだ場合でも、それは責任者もしくは経営陣から見たばあいAの方が利点があったんだ。もっといえば責任者が無能でA選ばれたとしても、その責任は文字通り責任者がとるわけであって、下位者がとるわけにはいかない。決断はその担当者の義務なんだよ。だから労働法があって、経営陣(会社)の指示で業務を行ってその業務が失敗した場合でも、被雇用者に責任を追及してはいけないことになっている。
以上が原則であって「現場ではそうなってない」とか「参加者だって責任を追及される」ってのはまた別の問題だ。そういうクソ会社だったら告発すればいい。
しかしそれは「すべての被雇用者が代案なく反対できる多数決で経営や業務をおこなうべきだ」ということにはならない。それはキチガイの妄想だ。