はてなキーワード: ファンタジーとは
ちょっと書き直そうとしたら間違えて消してしまったんで再投稿。
今回は雑感
マンガクロスなどで読める『瞳ちゃんは人見知り』と、やらわかスピリッツなどで読める『シャークな彼女の領域』ってのが表面上は似ている漫画なんだよね。
いわゆるヒロイン観察型マンガで、どちらのヒロインも威圧的な風貌のせいで周りから距離を置かれていて、学校では浮いている存在。それを語り手である男の子を通じて「第一印象はアレだけど、意外と魅力的な子だよ」ってのを描くわけ。
そんな感じでコンプセトや舞台設定は同じなわけだけれども、それぞれキャラの描き方(魅せ方)って点では全然違う漫画。
『瞳ちゃんは人見知り』は、まあタイトル通り瞳というキャラがメイン。
とはいえ人見知り気味ではあれど口下手ってわけでもなく、授業態度はいたってマジメ。
第一印象で相手を萎縮こそさせるものの、転校先の慣れない環境下でも上手くやっていきたいという彼女の健気さに周りがほだされていく感じ。
そして、『シャークな彼女の領域』のヒロインである鮫島も、高身長かつ怖い目つきで周りを遠ざけている。
ただ、こちらは人格もほぼ見た目どおりで、口調は荒く、制服は皆と違うデザインのものを着て、学校では授業中含めて堂々と居眠りをしてばっかりという不良。
ヒロイン観察役の男の子が「怖いとかじゃなくあいつ(鮫島)とは合わない」と言っている場面があるけれども、個人的には本作の象徴的なセリフだと思う。
彼女が周りから避けられているのは見た目が威圧的だとか以上に、そもそもレイヤーからして違うせいだと説明しているわけ。
けれども、タイトルにもなっている鮫島の“領域”を知ることで、彼女なりの価値観があり、魅力というものがあるってことを見出していく感じ。
表面上は似たような型でも、色々と魅せ方はあるんだなあと改めて認識した。
私としては作品って比較してナンボだと思うんだよね。個人の好き嫌いがあるとはいえ、それにしたって各々の中で“基準”はあるわけで。絶対的な評価ってのもそりゃあるだろうけれども、個人の価値観が出やすい話において相対的な評価ってのは基本だと思う。その評価スタイルだとヘイトを貯めやすい人がいて、その人たちと衝突するのが面倒だから、各々の物差しとなった作品を明言しないだけで。
「何が嫌いかより 何が好きかで 自分を語れよ」みたいな漫画のセリフがあるけれども、何が好きかで語ることが何が嫌いかで語ることより良いなんてことは絶対にないと思う。どちらの評価スタイルも同様に価値がある。
というか、あのセリフの元ネタとなった漫画ってワンピースの劣化と酷評され、すぐ打ち切りになった(いずれにしろ評価されなかった)作品であることは踏まえておくべきだし。あと、そういう時の反論に借りてきた言葉しか使えない人間に、とやかく言える理屈はないと思う。何が好きでも嫌いでも構わないけれども、せめて自分の言葉で語ってほしい。
そんなわけで、私は打ち切り作品の名台詞を気にせず比較していくわけだけれども、「比較されなければもう少し好意的な評価ができたかも」って作品があること自体は否定できないんだよね。
例えば最近だと、ガンガンオンラインとかで読める『我が驍勇にふるえよ天地 ―アレクシス帝国興隆記―』と、『織田信長という謎の職業が魔法剣士よりチートだったので、王国を作ることにしました』という戦記モノ。
『アレクシス帝国興隆記』は割と骨太な戦記モノで、山賊すらそれなりに戦略を考えて立ち回っているところとか、ちょっと感心した。
そして『織田信長という謎の職業』は、まあタイトルの時点で“どういうタイプの作品か”ってのは分かりきってはいるんだけれども、同じサイトで同時期に公開されている戦記モノだからどうしても比較しちゃう。ファンタジーの世界で職業が「織田信長」って時点で馬鹿げているから、細かいこと突っ込むもんじゃないのは分かってはいるんだけれども。
主人公がその職業を初めて活用するのが『“単騎で戦うとすごく強くなる能力”を使ってピンチを脱する』というものだから「他にもっとあるだろ!」と思わざるを得なくて。その後も史実からつまんできただけのことをやって、それで万事上手くいったって展開は陳腐すぎる。織田信長って要素自体、これまでの創作で長年こすり倒されてきたわけで、そのご時世にこれってのはキツい。
『アレクシス帝国興隆記』が戦記モノとして特筆してすごいってわけではないけれども、少なくとも『織田信長という謎の職業』よりはマジメにやってると比較せざるを得ない。けれども私が『織田信長という謎の職業』だけ読んでいたらスナックを食べる感覚で楽しんでたと思うんだよね。「『アレクシス帝国興隆記』はマジメに戦記モノ書いているのに、こっちは織田信長の物語を翻案したものをファンタジーで塗りつぶしただけじゃないか」って思ってしまったが故の悲劇。比較しなければ楽しめるものさえ比較してしまうのは困りものだなあって点では、比較論を嫌う人の気持ちも分からんでもない。
馬の口につけて引く綱。
だいたい、現代に生きる平均的な市民である私は、乗馬をする機会などほとんどなく、ファンタジーや時代小説で馬術に関する用語が出てくるたびに辞書を引かねばならない。同様の理屈で、船舶に関する語彙についても無知であり、これが外国語にもなるとどうしようもない。「朝びらき丸 東の海へ」の原文に挑戦したときにも、児童書なのでそれほど難解な言葉が出ているはずもないのに、困惑した。
ちなみに、この言葉が出てきたのは興亡の世界史シリーズの「アレクサンドロスの征服と神話」である。マケドニアでは、敵を一人も殺したことのない者は馬の端綱を帯とする屈辱を受けねばならなかった。当時のマケドニアはきわめて軍国主義的な国家であった。
ブクマコメントと返信、ありがとう。 もともとこの疑問は「なんで日本人は赤毛のアンがそんなに好きなんだ?」って疑問に答えようとしたときにふと浮かんだ疑問だったんだ。
実際古くさいとか言われようと、赤毛のアンってカナダ人がドン引きするくらい日本人に人気で、今はそうでもないんだろうけどいつもはこの時期プリンスエドワード島は日本人の観光客であふれかえるらしい。
あと、念の為に書いておくと、どっちの作品も小学生くらいから読めるようやさしくした本は出ているけれど、別に子供向けじゃない。とはいえ「子供でも読める」は三大に入れるには必須かなと思ってた。当然、近所の図書館に置いてあることも重要だと思う。
それにしても、ファンタジーが山盛りでお勧めされるのはちょっと意外だった。挙げた2冊、どっちもファンタジーじゃなかったから。ハリーポッターのおかげでイギリスのボーディングスクールが海外展開に大成功したし、長くつ下のピッピだってやってることや起きていることそのものがファンタジーじゃないかと思うくらいに突飛だったりするし、ファンタジーと現実の境目は意外とわからないものだけど、今回はファンタジーは外したいなと思った。「不思議の国のアリス」「モモ」「ムーミン」「星の王子さま」「ハリーポッター」あたりは今回はごめんなさいだ。
そうすると残るのは「大草原の小さな家」「嵐が丘」「高慢と偏見」「あしながおじさん」「風と共に去りぬ」「秘密の花園」「小公女」あたりか(ほかにもいっぱい挙げてもらってる)。
そして、改めて題名を言われてみて初めて、随分昔に交際してた(と断言できるほど深い交際ではない)友達から「嵐が丘」の現地報告絵葉書もらったこと、思い出した。自分にとって「ヒースクリフ」は性格の悪いアメリカンなマンガ猫のことだったから、何書いてるのかさっぱりわからなかったんだ。そんないやなトラウマを思い出したので3つめは「嵐が丘」ということにしておきたい。
もちろんこれは自分の中で完結する話だし、最初の疑問への回答に「3大日本女性が好む海外文学」なんて書くつもりもないので、各自好きなように候補を入れ替えたりして3大を決めてほしい。もちろんそっちにはファンタジーが入っていても全然かまわない。
エクスカリバーなんてその最たるもので、それまでの日本の漫画やゲームにおけるエクスカリバーは超切れ味の凄い剣としてしか扱われてこなかった。
元ネタに対しての経緯も興味もまったくなく、単に有名な剣を順番に並べて知名度の高い順に高い攻撃力を割り振っただけのお粗末なファンタジー作品しか存在しなかった。
実際、凄いことだと思うよ。
この部分は同意する
伝説の武器や神話が単なる「名前の響きがカッコよくてなんか有名な奴」じゃなくて作中でしっかり元ネタを再現されてる作品って画期的だと思うんだよ。
オタク作品ってせいぜいが「ゴーレムの頭を削ると死ぬ」以上のことは考えずにフェニックスも朱雀も同じものとして扱ってきたような所があるじゃん?
たとえばFFの召喚獣なんて最たるもので属性以外はすげー適当で、たとえばナイツオブラウンドなんてよく分からん奴らがカッコイイポーズ連続で決めてるだけの意味不明な代物じゃん。
その文化の中で、元ネタの神話の設定をなぞりつつも独自の設定も加えて昇華させるってのを登場させた全てのオカルトガジェットに対してやる作品って画期的だったよ。
エクスカリバーなんてその最たるもので、それまでの日本の漫画やゲームにおけるエクスカリバーは超切れ味の凄い剣としてしか扱われてこなかった。
元ネタに対しての経緯も興味もまったくなく、単に有名な剣を順番に並べて知名度の高い順に高い攻撃力を割り振っただけのお粗末なファンタジー作品しか存在しなかった。
実際、凄いことだと思うよ。
気持ち悪い信者やガチャ廃人のせいで変なイメージがつきすぎたけど、Fateが画期的な作品であるという事実はそれでも揺るがんと俺は思うね。
新型コロナウイルスの影響で、どの電車も窓を開けて走るようになったわけだが、気候が良くなるにつれ、その開き方もだいぶ大胆になってきた。
初めは、車両端の何枚かの窓が、上の方だけ申し訳程度に開いているだけだったが、今や、あらゆる窓が全開になり、走行中の風の吹き込み方には恐怖を覚えるほどである。
例えば、新聞を読んでいたら、手から吹き飛びそうなほどだ。というか、実際に飛んで行ったのを見たことがある。車内を紙束が舞うというのは、コロナ以前では考えられなかった光景であり、ある種のファンタジーさえ感じてしまった。
そうして、恍惚にしばし酔っていると、落語のような呼応として、隣の車両から週刊誌が飛んで来ることになる。それは丁度真ん中あたりのページで開かれており、蝶のように片半分ずつを揺らしながら舞っていき、寝ているおじいさんの頭に乗る。カツラのようである。
もちろん、電車からは何物かが飛んで行くだけではない。洗濯物が飛んで来て、網棚の忘れ物のレパートリーが増える。駅弁が飛んで来て、ちょうどいい旅のお供になる。桜の花びらが飛んで来て、その速度と居なくなったあの子に思いを馳せる。そして、黒いカラスが飛んで来て、寝ているおじいさんの頭に乗る。カツラのようである。
つまりは、乗客全員が一つのコントを演じているような錯覚を覚えたわけだが、思えば「嵐は愛に気づくために吹いてる」のであり、全開の窓から吹く強風の恐怖感は、乗客同士にそれに打ち勝つだけの連帯感をもたらしたのだろうと、ひとり納得する。
とにかく、そんな微笑ましい通勤風景が垣間見られるようになった電車の様子を、通勤自粛により電車に乗り損ねている皆様にありのままレポートしたわけだが、これを聞いて、これが満員電車に戻ってしまったらどうなってしまうのだろう、と思い悩むのはもっともなことだと思う。
ちまたでは、人が増えればコントの幅が広がるのでますます楽しみだという素朴な意見がある一方、換気の問題は非常に心配であり、換気機能をさらに良くするため、扉も開けっ放しにすべきだという素朴な意見も出ているようだ。
よく考えたら、電車はジェットコースターよりもスピードが出ているわけで、そんな中、平然とスマホをいじったり、寝てたりするって改めてスゴいことだなと、窓が全開するようになって思ったわけだが、扉も開けっ放しになれば、そのことはなおさら痛切に感じられるのだろう。
例えば、急カーブのたびごとに扉から落ち、また乗り直す間に遅刻する社員が増えたと憂える新聞記事を読みながら、「新聞って、本当に有ったことを書いてるんだな」とか言いつつ、風吹く電車の手すりに一生懸命しがみつくことで、このしがないサラリーマンにも、新聞の記事に対する共感を覚える日がようやく来るのだろう。
そうなったら、通勤電車もSFの素材になれそうだ。車内を舞う週刊誌に比喩が籠められる日も遠くはない。おじいさんもまもなく目を覚ますだろう。そうして、ファンタジーを帯びた満員電車に戻る日はいつなのだろう。早く満員電車に乗ってみたい。
ジャンルの規模は中規模くらい
今は新規が入ってくることも少なく、だいたい見たことのあるメンバーでゆるーく続いている
私は自分で言うのもなんだけど、そのジャンルの中ではかなり絵の上手い方だと思う
今まで描いていたジャンルが大きいジャンルばかりで、まわりにはほとんどプロみたいな人もいた
自分より上手い人がいて当たり前、敵わなくて当たり前、っていう感覚だったから、自分が誰かに嫉妬するイメージは今までわかなかった
アンソロには引っ張りだこだったし、作品のブクマやRT自体は前ジャンルより少なくても、とにかく感想がたくさんもらえた
不思議なことは、pixivでのブクマ数が前ジャンルより少ないのに、イベントでは前ジャンルより多く本が売れた
自惚れでなく、同じCPの人はほとんど自分の本を買っていたと思う
プレゼントがもらえることも多かった
Twitterも、これまで絵以外は嫌がられるだろうと思ってあまり呟かないようにしてたけど、日常の愚痴にすら励ましのリプライが来て、自分は今人気者なんだと錯覚した
とにかく毎日が充実していた
それもHさんのことを知るまでの話だ
神と呼ばれている文字書き、仮にHさんは、私と逆カプだった
だからHさんの作品は読んだことがなかった(そもそもR18以外の小説はあまり読まないというのもある)
Hさんのことは、skypeでジャンルの友達と話しているときに知った
好きな二次創作の話になって、一人が「正直、解釈が一致すれば逆でも読める」と言って、みんながそれに賛同した
私も、好きな二人だったら左右はわりとどちらでも良かった
リバはあまり好かれないという頭があったし、自分のCP(Hさんの逆CP)の方が圧倒的に数が多かったから、わざわざ逆CPを描こうという頭がなかっただけだ
「正直、解釈が一致すれば〜」と言い出した一人が、「特にこの人が好き」と言って作品のURLを貼った
驚いたのは、私以外のその場の全員が「読んだことある」「好き」と口々に言ったことだ
私はかえって読んだことがないと言うのが恥ずかしくて、黙っていた
その後しばらく、みんなHさんの作品のすごさについて熱弁していた
プロフィールに左右固定過激と書いている人もいるのに、みんな逆も読んでるんだなあ、と意外な気持ちで聞いていた
Hさんの作品がなかったらここまでこのジャンルにはまらなかったと言っている人もいた
さすがに気になって、通話が終わった後でHさんの作品を読んでみた
正直、私には良さがよくわからなかった
何というか、起承転結から文体から何から何まで、私が今まで読んできたCP小説とあまりに違っていて、まずすごく読みづらかった
話の内容は、なんか道徳の教科書を読まされてるみたいな気分になった
正直説教くさい
キャラクターについて断定的に書かれていて鼻につくというか
文豪みたいな雰囲気を予想していたけど、淡々と事実だけが書かれている感じで、文章がすごく綺麗!とも感じなかった
ちょっとすごいな、と思うところがあるとすれば、キャラクターの台詞がすごくリアル
「ああ、このキャラこういうこと言うよね」っていう、再現率の高さ?
ただ、一方でやっぱり、私が読みたい二人の話じゃない
合わないなーと思って、読むのをやめた
私がそんな冷めた感想を持った一方で、よく通話しているメンバーたちは、事あるごとにHさんの話をした
逆CPということで、今まで話題に出せず、我慢してた分爆発した感じ
話を聞いてると、やっぱり皆Hさんの作品の「セリフのリアルさ」が好きみたいだ
「ほぼ原作」とまで言う子もいた
私は勇気を出して「暗い話が多いよね」と言ってみた
私はどんなCPでも、ハピエンが好きだったので、そのせいでちょっとHさんの作品は合わないのだということを細やかに主張したかった
最後にハピエンになるための当て馬とかじゃなくて、ガチで浮気する
説得力があるだけに辛かった
Hさんも逆とはいえ同じ二人が好きなはずなのになぜこんなことをするのだろうと思った
「暗いけど、これが真実だという気がする」
と誰かが言った
「Hさんは原作を正しく読んで、キャラクターを正しく書いている」
というのがみんなの共通認識みたいだった
正しい二次創作って何?と私は鼻で笑いそうになった
とにかくみんなが急に言葉の通じない人になったみたいで怖かった
HさんはTwitterをやっていた
私はどんな人か気になって、Hさんのことを検索してみた
私はブロックされていた
何もした覚えがなかったのでちょっとショックだった
けど、他の子もブロックされてるからROM垢で追ってる、といっていたので、
私もHさんの作品は好きにならないし、このままお互いによく知らないままで終わればいいやと思っていた
あるイベントの後、いつものメンバーでアフターをすることになった
Twitterでも呼びかけたので、知り合いが知り合いを呼ぶ感じで、いつもより大規模な集まりになっていた
一人が、Hさんに声をかけたらしい
Hさんはどんな人なのだろうと少し気になった
はじめての人も多いということで全員自己紹介をした
そのときにHさんのことをはじめて見た
顔は超美人というわけではないけど、小綺麗にしていて、彼氏がいると言われても驚かないレベル
あととっつきにくい人だと思ってたけど、かなりよく喋るし笑顔も多い
寡黙で怖い人が来ると思っていたので意外だった
いつも通話している子たちと引っ付いて行動していた
フリータイムになると真っ先にみんなHさんのところに向かった
みんな口をそろえて似たようなことを言った
Hさんは作品が始まったばかりの頃に一度だけサークルで出て、そのあとはしばらく新刊を出してなかったらしい
本楽しみに読みますという人たちに「すごく直したいところ多くて 恥ずかしい」とはにかんでいた
空気が変わったのは、Hさんが一人に「新刊買いました」と伝えたときだ
「私逆CPなのに…いいんですか?」と声が震えていた
一方で、周囲の子たちが100%笑顔じゃなくなったのを私は感じていた
作品見せてくれるだけで嬉しい、とみんな言っていたけれど、やっぱりどこかでHさんと絡める逆CPの人が羨ましかったんだと思う
Hさんはpixivだと、正直絵があんまり上手くない人でも、自分と同じCPならよくコメントしたりしていた
たぶんそれを狙って、全年齢の話に両方のCPのタグをつけ始めたことがいるのも私は知っていた
みんなHさんが自分の作品に興味がないことを、「逆CPだから仕方ない」で誤魔化していた
Hさんは「サンプル見て、これは買おうって決めてたので」と言った
空気を感じたのかわからないけど、「逆CPの人には、自分のツイートとか地雷だったら申し訳ないなって、ブロックさせてもらってるんです」という説明も付け加えた
嘘だ、と私は思った
私はつい気になって、別ジャンル用のアカウントでHさんのアカウントを見たことがあった
Hさんは作品で選んでいる
極めつけは、Hさんに新刊を買ってもらったと知って舞い上がるその子の一言だった
「Hさんに読んでもらえるなんて、認められた感じがする」
その場ではみんなに合わせて笑っていたけど、あの瞬間のこと、私は一生忘れられないと思う
たぶんあの場にいた子の中に、私の他にも同じこと考えた人がいるんじゃないかと思う
「私たちは失格ってこと?」
もちろん、Hさんに悪気があったわけじゃないのはわかっている
正直、このジャンルに来てから人との距離が近くなったから、身内買いに疲れていたところはあるし
誰が悪いわけでもないんだけど
そのあとHさんは他の人と話し始めたので、私たちグループはHさんから離れた
「○○さんの新刊は〜だったし〜」とお互いの作品をほめ合う空気の中で、誰かが私の作品について触れた。
「○○さんのはとにかくかわいい二人って感じ!」
だけど今の私には、Hさんの小説と違って、中身のない、BLのテンプレにキャラを当てはめただけの話、と罵倒されたように聞こえた
だけどHさんみたいな人はきっとどこかで私のことを、チープで人に媚びてる絵師だと馬鹿にしてるんだろう
一言だってそんなこと言われたわけじゃないのに、私の気持ちはどんどん沈んでいった
しばらくすると、次のイベントの告知があった
私は一瞬、参加するか迷った
以前ほどは楽しめない気がしていた
こないだのイベントが楽しかったのか、新刊を出せるかわからないけど次もたぶん出ますと書いていた
私は迷った末、出ることにした
誰かへの嫉妬をこんなに強く感じたのははじめてだった
イベントがないのに原稿を完成させる気にもなれなくて、全てが有耶無耶になってしまった感じがした
私はなんとなくやる気がなくなって、ジャンルの友達とは絡むけど新しい作品をあげたりはしない、落書きをたまに描くくらい、って感じでやっていた
Hさんに対する気持ちも、関わることがなければすっと消えていった
だけど最近、私たちのグループの内の1人(仮にFちゃん)がある告知を上げていた
Fちゃんは、前のイベントのときにHさんに新刊を買ってもらって喜んでいた子です
告知の内容は、FちゃんとHさんが合同誌を出すというものだった
Fちゃんとは、あれからもグループで頻繁に通話してたけど、合同誌のことは私たちの誰も、一言も聞いてなかった
だから何、って感じなんだけど
Fちゃんの中で、やっぱりHさんは私たちより上なんだ、と思った
表紙と告知絵をFちゃんが描いていたけど、いつものFちゃんより丁寧に描いてるな、と私はわかってしまった
Fちゃん結構めんどくさがりだし、前にアンソロの原稿もミスを指摘したけど所詮二次創作だからいいよって直してなかったし
ここまで書いて改めて自分が嫌になった
こんなに難癖をつけなきゃ生きてられない人間だだっけ?
同人ってこんなに苦しくなってまでやること?
アカウントを消そうと思ったけど、
簡単に切るなんてできなかった
こないだ、Hさんの感想箱に「ずっとこのジャンルにいてほしいです」というメッセージが来ていた
私は早く消えてほしい
もうやだ
ごめんなさい
以上でした
性別のステレオタイプを排して性別に縛られない多様な価値観やライフスタイルを肯定しよう!みたいな価値観が根底にある作品増えてきたよね
だけど同時にそれって欺瞞だよねって思うんだよな
今の世界ではステレオタイプから逸脱した人間は他に付加価値(容姿や才能など)を有してない限り社会の鼻摘み者になるという非情なオチがつくよね
そういう現実の前提を無視して描かれる無毒化されたファンタジーに片寄ってるのが気になる
あとそれらのファンタジーを称賛する読者にも一部に凄い軽薄さを感じる
性風俗産業は立派な職業である、と口にする人々が自分の恋人や家族が性風俗産業に従事する想定には消極的な態度を示すのと極似した軽薄さを感じる
ゲイに嫌悪感を示す男は多いけど、例えば爆サイで自分の近所を検索すると最寄の商店がゲイの発展の待ち合わせに使われてたり、酷い時はよく散歩する近所の公園、銭湯や商店のトイレが発展に使われてたりするんだよね
ここのところ風俗に行ってなかったので、もう行かずに済むように風俗で何が満たされてたのか考えて対策的なものをメモしておく。
破産したり、のめりこんだりせず、上手に付き合っていけば風俗は本当に面白い娯楽だと思う。
だが、最近やりたいことは一巡してしまった気もするし、値段が高くコスパが悪いと思う。
あと、仕事してるときに、安易に「この案件片付けたら風俗行くぞ」的なモチベーションしか感じなくなってきたので、もっと楽しみを分散したい。
風俗関連の情報にうっかり触れると、行きたくなってしまうので、もう見ない。特に体験談は想像力を掻き立てられるのでダメ。
これまで文字で読んで、映像で見て、聴いて、想像してた行為が自分の体験として感じられる喜びは素晴らしかった。
だけれど、最近はテンプレ化したプレイを淡々とこなされているだけな気がして、次はコレと予想できてしまって面白くない。
ところで、セーラー服のスカートにはポケットがあるんだぜ。プレイ中に何度も手を突っ込んでしまったけど大丈夫だったのかな。
正直に言って、ギュッと女の子に抱き着き胸に顔を埋めると、何物にも代えがたい安心感を感じていた。
ずっと謎だったのだけれど、ふと思い出がよみがえってきた。
幼少期に、行きたくない学校キャンプから帰って母の胸で号泣し、ヨシヨシと頭を撫でてくれたことを思い出した。
ああ、悲しいもので、どうして大人になると、そうしてもらえなくなるのか。
普通の大人は、もう母に抱かれたいと思わないのか。あるいは別の方法で満たされる方法を知っているのか。
ふと、モフモフな犬を触ったときに、女の子に触れるのと同じタイプのドキドキを感じたので、犬を飼うのは無理でも猫カフェにでもいってみようか。
単純にさ、好きなAVで見たことをファンタジーとわかっていてもやってみたかったわけよ。
まず、M系のプレイ。
女の子が辛そうなのは苦手で、逆に平手で僕の尻を叩いてもらったり、顔面に馬乗りになってもらったりした。
楽しかった。直接気持ちいことだけが、快感じゃないんだなってわかってんだ。
あと、これが一番大好きなんだけど、女の子にアニメ系のコスプレをしてもらうこと。
いやさあ、コスプレ衣装ってかわいいよね。コスプレAVの元ネタを当てるためにアニメ見てるよ。
そんなにキャラに思い入れがあるわけでもないけど、かわいい衣装でウィッグを被ってカラコンを付けれもらうと物凄く興奮する。
たぶん、そういうAVを見まくったせいで条件付け(パブロフのち〇ち〇)になったんだと思う。実家で普通にテレビを見てて、コスプレイヤーが出てくると変な汗が出る。
実は、コスプレしてもうときのクライマックスは、全裸から衣装に着替えるとき。全部着てもらって、女の子にクルッと回ってもらうと、もうまんぞくだったりする。
ある程度色々なプレイをしてみたことで、ほとんどのプレイは精神的満足感なんだなってわかったので、ある程度妄想でもいい気がする。
コスプレについては結局のところ、かわいい女の子と衣装が好きなので写真でもいいかなって思う。いつか衣装を作ってドールに着せたい願望はあるけど、解決になってない気がする。
裸体はミロのヴィーナスのように美しくてうっとりした。
だけど裸体と性欲は複雑に絡み合っているから難しい。
かわいい女の子はいくら見ても、充実感が満ちてくるわけじゃない。
悲しいよな、どんな美人でも抱き着いたら顔は見えないんだぜ。
少ない情報から、風俗嬢がどんな子か予想し、それが当たって美人だったり優しかったりすると、これがすごくうれしい。外れたりするとバカらしくなる。一度だけ、そんな負けを取り返すために二日連続で風俗に行ったことがあって、すごく後悔した。
ギャンブルにしたって一回の掛け金が数万円になるっていうのは、あまりにも酷いじゃないか。
今後は食べログとtwitter空間を駆使して、おいしい飯屋を探してギャンブルすることにしよう。
休日にテーマパークに行くように、ライブが生きがいというオタクのように、風俗店で「初めまして」から「さようならまで」現実を忘れて夢の中に居たいんだ。
まず、現実逃避していいときとダメなときを見極める目をもちたいし、現実逃避の方法は他にいくらでもある気がする。
他愛のないことでも、若い女の子と会話すると、頭の中が清々しい気持ちになるのはなぜだろう。
だけど、たいてい女の子とはうまく会話できないので、オバサンの会話に相槌を打っているほうが楽だったりする。
これは、とにかくさりげなく会話がしたいだけなので、結構風俗以外でも満たされそう。
単純に、肉体が気持ちいいんだよね。
道半ばだけれど、アナルと前立腺の快楽には無限の可能性があると思っている。
こうやって、僕の欲望を整理してみると、なんだかすっきりしたよ。
※自己陶酔長文
※同人界隈のくだらない話です
※ハガレンはあくまで個人的な感想、感慨、そういうものの中で引き合いに出しただけです。こじつけというか、たまたまこういうものの中で自分がしっくりくるのがハガレンだっただけです、うまく言えないのですが。ハガレンが好きな方は閲覧気をつけてください。
「鋼の錬金術師」という有名な漫画がある。鋼の義肢を持つ兄のエドワード・エルリック(通称エド)と、鎧姿の弟、アルフォンス・エルリック(通称アル)が、「真理」(神様的な存在)に奪われた自身の体を取り戻すための旅をする中で賢者の石をめぐる壮大な陰謀に巻き込まれていくダークファンタジーである。
私はこの漫画が大好きなのだが、一つだけ「あんまり気に入らないなあ」という展開があった。それは、物語の最後、主人公のエドがアルを取り戻すためにとった手段のことである。
そもそもなぜ兄弟は体を奪われていたのかというと、死んだ母親を蘇らそうとして人体錬成を試みた結果、錬金術の「等価交換」の法則により、代わりに自分たちの肉体を奪われてしまったからだった。二人の肉体を取り戻すには万能のエネルギー源である「賢者の石」が必要だったのだが、エドとアルは賢者の石が生きた人間を材料にして作られていることを知ってしまう。
経緯をまるっと端折るのだが、結局物語の終盤、エドは賢者の石を使わずに二人の肉体を取り戻す方法に気づき、実行する。エドの決意に、「真理」は「正解だ」と言って笑う。
エドが全てを取り戻すために差し出したのは、エドが錬金術を使う能力そのものだった。
私はその展開に正直もやっとしていた。
「鋼の錬金術師」の見どころの一つは、エドが繰り広げる巧みな錬金術の数々だったからだ。それに、「最年少国家錬金術師」という厳つい肩書きや手を合わせるだけでどんどん色々なものを作り、意のままに動かすバトル、錬金術の知識を使い炭素硬化の能力を使う敵をもろい消し炭に変えてしまう展開……。錬金術はエドというキャラクターのアイデンティティだった。
実のところ、錬金術のような便利なものに頼らず額に汗して自力で生きろという作者のメッセージは作中で示唆されてはいた。エドの師匠のイズミは凄腕錬金術であるにも関わらず、「錬金術に頼っちゃいけない」と言って近所の子供の壊れたおもちゃを手作業で直す。そしてエドも最終回、「錬金術がなくてもみんながいるさ」と、金槌を手に清々しい笑みを浮かべる。
だが、やはり読者からすると、「それでいいの⁉︎エド、あんたすごかったのに」と思わざるを得なかった。
しかし今、Twitterをやめたことで、エドの清々しい笑みの理由がわかるようになった気がしたのだ。
前置きが長くなってしまった。
私は同人の字書きである。Twitterやpixivで二次創作小説をアップするとそこそこバズる、ジャンルではまあまあ人気の字書きだ。
小説を書くのが好きなぼっちオタクの私にとってTwitterは、ジャンルの情報や推しの素敵な二次創作、実社会のニュースやトレンドをリアルタイムでたくさんチェックすることができる大切な情報ツールであると同時に同人友達を見つける出会いの場であり、萌え語りができるコミュニケーションツールであり、どのような傾向の話を書けば芳しい反応が返ってくるのがすぐにテストできる巨大な実験場であり、お手軽に承認欲求を満たしてくれる蜂蜜の壺のようなものでもあった。
しかし、同人界隈でTwitterをやっていると、疲れることもたくさん出てくる。人間関係、承認欲求、ジャンル学級会。三者三様に歪められたキャラの二次創作がどっと流れてくるタイムラインに疲れ、私は果たしてこのキャラを本当に好きなのだろうか?それともみんなで口をそろえて「〇〇ちゃんえっち」とか「可愛い」とか「エモい」とか言わなければいけないような集団意識のせいで好きだと思い込んでいるだけなのだろうか?と悩むこともあった。Twitterでキャラグッズを次々と大人買いする人々や、論理が通っているのかよくわからない考察ツイートを見るたび、胸焼けするようになってきた。創作でも、いわゆる「互助会」に組み入れられるのが重荷になってきた。
それでも、同人のSNSが私の生活の中心にあり、そこでの中堅字書きという立ち位置が数年の間私のアイデンティティだったから、Twitterをやめられなかった。情報を追えなくなったり、忘れられたりするのが怖かった。
(一応リア友もいないわけではないけど、就職を機に皆地方に散ってしまってあまり会えないし、しょっちゅうはやりとりしないため「居場所」感はあまりなかった)
冴えないぼっちの日常生活を送る私の唯一のきらきらしい社交場が失われることへの不安感から、私はTwitterを続けていた。
だけど、限界が来た。
きっかけは、私が、おそらくリモート飲み会で、ジャンルの顔的な人の不興をかったことだった。このことについては何を言っても主観になってしまうのでうまく説明できない。特別な粗相をしたつもりはなかった。ただ、今まで仲良くしてくれていたその人が、飲み会を境に急に全く絡んでくれなくなったので、何かしてしまったのかな天…と思った、というところだ(他の飲み会メンバーからはハブられてはいなかったけれど、わざわざ「私なんかやらかしました?」なんて鬱陶しがられる自意識過剰な質問もしづらかった)。強いて言えば最初、私のスマホの電波があまり良くなくてもたついたせいで若干場を乱してしまったとか、その人が話しているとき一度トイレに立ったとか、そういうことはあった。もしかしたらとんでもない粗相を無意識のうちにしていたのかもしれないし、あるいは全く別の理由かもしれない。
とにかく、その人が絡んでくれなくなった瞬間、その人の取り巻き的な人たちがほとんど反応してくれなくなったのだ。
Twitterで彼女たちがワイワイ盛り上がっているのがやたらと目についた。彼女たちの創作をヨイショすれば機嫌を直してくれるかもしれないけれど、不純な動機で同人を利用するのはもう嫌だと思っている自分がいた。
私は、何をすればいいのかよく分からなくなってしまった。彼女たちより有名な字書きになって見返してやろうと憤ったり、自分を責めたりと、このご時世において生活に困っていない恵まれた身でありながらバカみたいな理由でメンタルがぐちゃぐちゃになった。ジャンルの顔的な人や、それに媚びている取り巻きたちのかいた推しを目にするたび、推しそのものが嫌いになり始めている自分がいた。
(また、同人界隈がきっかけになって仲良くなり、LINEを交換して旅行などにも行った人たちがジャンル移動していたため、TwitterでやりとりすることがほぼなくなったというのもTwitterをやめるきっかけの一つでした)
楽しいこと、心が慰められることよりも、つらいことの方が上回っていると気づいたとき、やめようと思った。
そして私は、ずっと私の生活の中心にあった同人アカウントを消した。消す前から、このご時世における自分の悩みの卑小さ、不毛さには気づいていたが、消して改めて、自分が長い間スマホの中の小さな世界を首を縮めてのぞきこむばかりで、顔を上げてきちんといろいろなものの広がる世界を見ていなかったのだと気がついた。
思えば、どこかに観光に行っても、何を食べても、Twitterに投稿することばかり考えていた。何を書けばウケるかとか、通知の数とか、そんなことで頭がいっぱいだった。いつのまにか自分自身で、同人アカウントしか居場所がない状況を作っていた。
世界の命運や肉親の志を背負って闘うエドと、ただの同人字書きの私では月とすっぽんよりさらにかけ離れており、同じ括りで語るのはおこがましいこと限りないということは分かっている。
しかし、そのとき私は確かに、エドの最終回での清々しい笑みの理由がわかった気がしたのだ。
エドは、錬金術の能力を手放すとき、「思えばずいぶん踊らされたよな」と口にした。錬金術師として活躍したエドは、しかし、錬金術で母親を蘇らそうとして大切な家族を奪われ、錬金術を使い倫理にもとる悪事をはたらく者たちを数多く見てきてもいた。錬金術は、壊した物を直すこともできるし、武器にもなる、一見万能な術だ。しかし死んだ人間を蘇らせることはできないし、錬金術頼みでは解決できないこともたくさんある。
Twitterも同じである。日常のあらゆる情報をリアルタイムで発信する。Twitterを使えば全世界の人々と繋がれる。しかし、日常に入り込むそれらは、同時に、日常を強大な「それ」(錬金術/Twitter)なしではいられなくさせてしまう。「それ」を利用しているはずの私たちは、いつのまにか「それ」越しでしか世界を見られなくなってしまう。
錬金術にしろTwitterにしろ、便利ですごいものは良くも悪くも影響力が大きくて、世界やものの見方を変えてしまう。それに振り回され、人間の作った枠組みの中でおだてられて自分はすごい人間なのだと慢心し、甘い汁を吸ったかと思えば虚しい思いもする、そんな力の渦から脱却したから、エドは最後、笑ったのだと思う。
Twitterを退会し、同人の交流をやめてできた時間の中でやりたいことは意外と早く見つかった。小説や映画など色々なものに触れてみたい。資格を取ってキャリアアップしたい。今は難しいが、時勢が安定したら小説のカルチャースクールに通いたい。どうにかして、ネット頼みでなく新たな交友関係を築けるよう模索していきたい。
たぶん、徐々にTwitterをやめたことに対する寂しさや後悔は増していくのだろう。それでも、私のなりたい未来の姿は小さな世界の局所的人気者ではないから、寂しさを糧にしてふんばりたいなと思っている。
最後に。
今やってる『BNA』、駄作とは思わないが、見ていて複雑な気分になる
劇中の「獣人」てのがなんか露骨に現実の人種民族的な被差別者ポジションで
というパターンは不滅の模様
今の日本の漫画やアニメでは、ファンタジー的なメタファーにしているが
ULTRAMANでも地球にいる宇宙人の多数は善良で社会に溶け込んでる設定
そういうのが存在しないのだとすると
「オタの右傾化」てのもなんか信用できない気がする
あるいはウヨのオタは『BNA』や『亜人』みたいな作品を見ても
「この劇中でいじめられてる主人公は、中国人、朝鮮人に支配される日本人の姿だ」
かつて、1970年代の漫画やアニメのヒーローはむしろそんなんばっかりだった
半分悪魔のデビルマンしかり、すぐ動作不良を起こす人造人間キカイダーしかり
半分ロボット人間のキャシャーンも劇中で守ってる相手の人間に嫌悪されてた
俺はマイノリティ側に自分を投影する非常に古いタイプのオタクなので
逆にウヨのオタは
「なんで異種族が絶対悪者で普通の多数派一般人が正義の作品がないんだ!?」
と強い不満を抱いてたりしないのか?
ゲイビデオと現実のゲイは、ヘテロ向けAVと現実の女性と同じくらいかけ離れたものだし
そもそもゲイ向けだろうがヘテロ向けだろうがAVってのはファンタジーだが
作風変えてるだろ
例えば、ろくに外出できない中で、男女はどうやって出会い得るのか。また、その愛をどうやって育むのか。特に性愛はリスク視されるのか。
今まで通りの描き方では、いくら現実の事物を扱ったところで、期せずしてファンタジーになってしまうので、「なろう」小説以外でも異世界恋愛モノが流行りそう。
つってもゲイ向けのゲイビデオを好んで観てる腐というのもいるし、最近流行りのゲイが出てくるドラマなんかにも結構釣られてんじゃん腐って
別にそれが悪いとは言わない
女児向けのアニメやゲームになぜかおっさんが群がって、それがいくらキモかろうが、そいつらを完全に排除できるわけではないのと一緒(そんなことを言ったら腐が「少年ジャンプ」なんか読んでるのがそもそもおかしいということになってしまう)
田亀源五郎もエロ漫画がネットミームになったかと思えば、一般誌で社会派路線に走ったりしている
それだけゲイ向けと腐向け、ファンタジーとリアルの区別が必ずしも明確にできるわけではないという話だ
だいたい「あれはファンタジーで現実とは関係ない」つって通るんなら、フェミさんの言う性的消費云々にしたって「現実にいるお前らのことじゃない」って言やあ同じことじゃん
でもそうじゃないんでしょ? ファンタジーが存在して公開されるだけで悪だって言うんでしょ?
だったらなんでBLの時だけ別の理論がポコッと湧いて出てくるのか謎
ただのご都合主義じゃん