はてなキーワード: アフリカ系アメリカ人とは
人権的な取り組みが進んでいるカナダでは、人権問題が起きると国のトップがすぐ立ち上がって懸念を表明する。
もし日本で同じような出来事が起きたら、首長が立ち上がるだろうか。
トルドー氏は定例会見で、「アジア系カナダ人への人種差別的な行為が急増している」として非難。「ここ数週間、数か月にわたり、企業や建物、銅像が破壊され、人々は言葉による虐待や身体的な攻撃を受けてきた。こうしたことは容認できない。カナダではヘイトや暴力、差別があってはならない」と主張した。
企業や建物、銅像の破壊を虐待や身体的な攻撃と並べて、まるでマイナスしかないかのように言っている。
例えば銅像の破壊などは社会の歪みを視覚化するプラスの面もあると思う。
日本人は「いや、白人と黒人の間のことじゃん。ウチらアジア人だし、関係ないし」とつい反応してしまう。アジアに住むただのアジア人にとっては、植民地化と奴隷貿易と公民権運動というアフリカ系アメリカ人の歴史に対しての原罪など背負ってはいないし、責任のある白人(プラスせいぜいアジア系を含むアメリカ人)だけで勝手に謝っておいてくれよという気になる。
そこで気になるのは東欧人だ。ヨーロッパと言っても、東欧人(だけじゃないが)は日本人と同様にアフリカとアフリカ系移民への責任ある過去を持っていない。彼らはいまどんな気持ちでアメリカの騒動を見守っているんだろう。
ヨーロッパ系アメリカ人や西欧人の進歩的な人々から「我々白人も彼ら黒人の声を聞こう!」なんて言われても「え、知らんし」という風にはならないのかな。ばつの悪さというか、不当な連帯責任をなすりつけられた感じというか。クラスのヤリチンヤリマンが妊娠したからって全然接点ない童貞の僕までカンパしなきゃいけないんですか?みたいな。
「統計的差別」とは「個人の変えられない属性」と「期待されるパフォーマンス」に相関がある場合に、経済合理性を根拠として属性に対して行う差別を指す。某東大特任准教授の炎上で、この「統計的差別」が注目を集めているが、統計的差別には大きく2種類のパターンが存在するのにも関わらず、区別されず議論されることが多い印象があるのでここで整理したい。
「統計的差別」の一つめは、偏見(ステレオタイプ)による差別である。そして、昨今例にあがる偏見による差別はさらに2種類に分けられるように思える。偏見による差別の一つめは、偏見として本来は違いがないのにも関わらず、予言の自己成就(正のフィードバックループ)により、現状として差別が合理的になっているケースである。数十年前の男女雇用機会均等法が施行される前を想像してほしい。その時代であれば女性は女性であるために社会での適切な評価・活躍が望めないため、女性は教育を受けるインセンティブが弱い。そのため、女性は(平均的には)教育を受けていない分パフォーマンスを期待できず、結果として差別が合理的になってしまう。偏見による差別の二つめはAIによる差別である。現在の評価制度自体が女性差別的に行われている場合、偏見に基づいた教師データが作成されているため、AIによる予測自体が偏見に満ちたものとなってしまう。炎上したAmazonによる統計的差別はこれらの両者を含むと考えられる。これらの場合、短期的には差別が経済合理的になっていたとしても、差別の禁止することにより予言の自己成就や教師データの偏見を抑止することができ、長期的には社会の公平性・効率性を改善することができる。そのため、差別の是正は社会的に効率的と言える。
「統計的差別」の二つめは、生物学的な違いによる差別である。遺伝的な原因として母集団における分布に違いが存在している場合、属性に基づいた推測が合理的になる可能性がある。例えば、アフリカ系アメリカ人とアジア系・ヨーロッパ系アメリカ人の間では、運動能力の違いと同様に知能指数に明確な差が存在している。あるいは性差として男女の身体的な違いと同様に、男性の暴力的な傾向や女性の空間認識能力の弱さが明らかになっている。そして、これらの人種差・性差に基づく違いは生物学的な違いに根ざしている以上、(人種差・性差に比べて個人差の方が大きいと考えられるものの)偏見による差別とは異なり差別を禁止しても期待値としての違いが消えない。そのため、社会的な効率性という観点ではこの差別を禁止すべきかは明らかではない。
以上で記述的な議論を整理した上で、規範的な議論を行いたい。規範としては、仮に生物学的な違いとして統計的差別に合理性がある場合であっても、人種・性別のような「個人の努力で変えることのできない属性」による差別は禁止すべき、という思想が考えられる。能力があるにも関わらず属性に基づいた期待値が低いからといって差別されるのは、個人的な感情としては極めて不条理に感じてしまうのは自然であろう。しかし、「個人の変えられない属性」を差別の禁止の根拠にする場合、個人の能力の違いはどのように評価されるのだろうか。パフォーマンスに大きく影響を与える知能指数は、双生児法により遺伝が強く影響することが知られているが、これも「個人の変えられない属性」といえる。能力に基づいた差別は現状の社会制度・通念として広く受け入れられているが、生物学的な人種・性別による差別の否定を行うことで、必然的に能力差別も疑問が投げかけらていくのではないか。
なお、この整理に与えるバイアスの存在として私の個人的な思想を明らかにしておくと、現在の社会における能力差別はある程度は是正されるべきと考えている。某氏の「お前が終わってんだよ」には本当に嫌気がさす。
下記に署名した日本研究者は、日本の多くの勇気ある歴史家が、アジアでの第二次世界大戦に対する正確で公正な歴史を求めていることに対し、心からの賛意を表明するものであります。私たちの多くにとって、日本は研究の対象であるのみならず、第二の故郷でもあります。この声明は、日本と東アジアの歴史をいかに研究し、いかに記憶していくべきなのかについて、われわれが共有する関心から発せられたものです。
また、この声明は戦後七〇年という重要な記念の年にあたり、日本とその隣国のあいだに七〇年間守られてきた平和を祝うためのものでもあります。戦後日本が守ってきた民主主義、自衛隊への文民統制、警察権の節度ある運用と、政治的な寛容さは、日本が科学に貢献し他国に寛大な援助を行ってきたことと合わせ、全てが世界の祝福に値するものです。
しかし、これらの成果が世界から祝福を受けるにあたっては、障害となるものがあることを認めざるをえません。それは歴史解釈の問題であります。その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。 そのために、政治家やジャーナリストのみならず、多くの研究者もまた、歴史学的な考察の究極の目的であるべき、人間と社会を支える基本的な条件を理解し、その向上にたえず努めるということを見失ってしまっているかのようです。
元「慰安婦」の被害者としての苦しみがその国の民族主義的な目的のために 利用されるとすれば、それは問題の国際的解決をより難しくするのみならず、 被害者自身の尊厳をさらに侮辱することにもなります。しかし、同時に、彼 女たちの身に起こったことを否定したり、過小なものとして無視したりする ことも、また受け入れることはできません。二〇世紀に繰り広げられた数々 の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度 はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点におい て、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾 取したという点において、特筆すべきものであります。
「正しい歴史」への簡単な道はありません。日本帝国の軍関係資料のかなり の部分は破棄されましたし、各地から女性を調達した業者の行動はそもそも 記録されていなかったかもしれません。しかし、女性の移送と「慰安所」の 管理に対する日本軍の関与を明らかにする資料は歴史家によって相当発掘さ れていますし、被害者の証言にも重要な証拠が含まれています。確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。 「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、 永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が「強制的」に「慰安婦」になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。特定の用語に焦点をあてて狭い法律的議論を重ねることや、被害者の証言に反論するためにきわめて限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません。
日本の研究者・同僚と同じように、私たちも過去のすべての痕跡を慎重に天秤に掛けて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています。この種の作業は、民族やジェンダーによる偏見に染められてはならず、政府による操作や検閲、そして個人的脅迫からも自由でなければなりません。私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます。
多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、未だに難しいことです。第二次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに四〇年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに一世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、十九・二〇世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。
今日の日本は、最も弱い立場の人を含め、あらゆる個人の命と権利を価値あるものとして認めています。今の日本政府にとって、海外であれ国内であれ、 第二次世界大戦中の「慰安所」のように、制度として女性を搾取するような ことは、許容されるはずがないでしょう。その当時においてさえ、政府の役 人の中には、倫理的な理由からこれに抗議した人がいたことも事t実です。し かし、戦時体制のもとにあって、個人は国のために絶対的な犠牲を捧げることが要求され、他のアジア諸国民のみならず日本人自身も多大な苦しみを被 りました。だれも二度とそのような状況を経験するべきではありません。
今年は、日本政府が言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる絶好の機会です。四月のアメリカ議会演説において、安倍首相は、人権という普遍的価値、人間の安全保障の重要性、そして他国に与えた苦しみを直視する必要性について話しました。私たちはこうした気持ちを賞賛し、その一つ一つに基づいて大胆に行動することを首相に期待してやみません。
過去の過ちを認めるプロセスは民主主義社会を強化し、国と国のあいだの協力関係を養います。「慰安婦」問題の中核には女性の権利と尊厳があり、その解決は日本、東アジア、そして世界における男女同権に向けた歴史的な一歩となることでしょう。
私たちの教室では、日本、韓国、中国他の国からの学生が、この難しい問題 について、互いに敬意を払いながら誠実に話し合っています。彼らの世代は、 私たちが残す過去の記録と歩むほかないよう運命づけられています。性暴力 と人身売買のない世界を彼らが築き上げるために、そしてアジアにおける平和と友好を進めるために、過去の過ちについて可能な限り全体的で、でき得 る限り偏見なき清算を、この時代の成果として共に残そうではありませんか。
おっす。後で呼んでくれよ。ところでヒップホップのイメージってどうよ。多分あんま良くねえよな。
ドラム缶で焚き火しているアフリカ系アメリカ人の若者の集い、思い浮かべたりするよな。
90sってやつだ。おっさんはね、そういう野蛮さも大好きよ。でもね、今日はそうじゃない部分についてお知らせしたい。
でさ、最近、ラッパーが歌うようになったわけよ。auto-tuneというピッチ補正エフェクトの流行もそれを後押ししている。Childish GambinoやTyler the creatorなどの最近のアルバムに触れるまでもなく、みんな歌ってる。
昔はhook(サビ)にシンガーを連れてきて歌わせていた。あるいはdrakeのように”誰かに書いてもらって”歌ってるやつもいた。こういったフロウ(うたい方)の変遷が、扱えるトピックの幅を広めた一面もある。しかめっ面でラップしてなければいけなかった昔と異なり、メンタルイシューだとか、センシティブな内容も歌われるようになった。加速度的にヒップホップは柔軟になりつつある。
Childish Gambino "Sober"
https://www.youtube.com/watch?v=jx96Twg-Aew
Tyler The Creator "Earfquake"
https://www.youtube.com/watch?v=HmAsUQEFYGI
ILOVEMAKONNEN "Tuesday" feat. Drake
https://www.youtube.com/watch?v=avFq9errZCk
Kyle "ShipTrip"
https://www.youtube.com/watch?v=9OBTg6FDLBQ
また、多分にホモフォビックだった90'sとは異なり、近年はLGBTのプレイヤーも増えた。Kodie Shaneや、YOUNG M.A、Taylor Bennet(Chance The Rapperの実弟)など。こういった動きを牽引したのは、ゼロ年代後半に登場したOdd Futureである。後述する。
ああ、またkusorareというゲイのYoutuberも人気である。有名曲のパロディを投稿している。"cummo"とか"Dicko Mode"とか"Gaycon"とか、どこかで聞いたようなタイトルでググれば出てくる。
Kodie Shane "Sad"
https://www.youtube.com/watch?v=QGIDU7V3osQ
https://www.youtube.com/watch?v=Ace7tLKJoMU
Taylor Bennett "Streaming Services"
https://www.youtube.com/watch?v=IuStECxfOiI
Young M.a "OOOUUU"
https://www.youtube.com/watch?v=gVf_4Ns3qLU
今年一番売れたrap songはLil Nas X "Old Town Road"である。彼は最近、ゲイであることを告白した。そのことについて、お友達のラッパーのyoung thugが”大丈夫?やな奴もおるでな”などと心配したりもした。
https://www.youtube.com/watch?v=w2Ov5jzm3j8
つづくよー。
それ言った奴大丈夫なんだろうか?
場合によっては沖縄県民やアイヌの人々やコリアンやアフリカ系アメリカ人やネイティブアメリカンやロヒンギャ族や中東出身の難民達までネトウヨになりかねないぞ?
女性専用車両はミソジニストが主張する様な男性差別ではなく、合理的な制度だ。「許される差別」ではない(そもそも差別という物は許されない)。しかしこの事を日本国内だけでなく、世界中の人々にもきちんと理解してもらえるのかというと不安が残る。
丁度この女性専用車両のトピックと同時期に、平昌五輪に関する様々なニュースが流れている。考えてみる良い機会だ。2年後の東京五輪の開催時、女性専用車両の存在に訪日外国人の方が戸惑う可能性はないだろうか。
東京周辺エリアでは、女性専用車両が複数の路線で運行されている。そのエリアで五輪が開催されるのだから、外国人観光客にもこの車両の必要性を理解してもらい、スムーズに乗客を運ぶ必要性が出てくる。
そこで世界中のどの国の人々でも、必要性を理解してもらえるような方法を考えてみた。
本題に入る前に、考える対象になっている問題が現実に起こる事かどうかも考えておく必要がある。
「訪日外国人に女性専用車両の必要性を説明する場面自体が、現実的に起こりえない。」つまり倫理的な判断を無理やり絡ませる非現実的な問題について、考える事自体が不適切という可能性もあるだろう。
例えば「トロッコ問題」を取り上げた以下のブログの議論では、非現実的な問題を出題するサンデル教授本人を殴るのが正解という解決策が示されている。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/08/06/105035
仮に、今回考察する問題がトロッコ問題のように非現実的であれば、黙って私を殴るのが解決策となるかもしれない。
ネトウヨが散々大失敗大失敗と騒いでいた平昌五輪は、実際に国際情勢上の懸念事項や設営トラブルもあったが、結果的に成功裏に終わった。世界各国から選手だけでなく、沢山の観光客も訪れた。次は平昌五輪と地理的、文化的な条件も、開催時期も近い東京での五輪だ。しかも、一般的に冬季より夏季五輪の方が参加国が多くなる。そうなると平昌五輪と同じかそれ以上に、人数も多様性も上回る外国人が訪れると想定する事は現実的だろう。
更に、女性専用車両の運行時間には、多数の外国人観光客が電車で都内を移動するだろう。そして、女性専用車両の存在に不慣れな地域から来る人も多数含まれるだろう。事前にトラブルの回避策を考えておく事は、十分現実的な課題だ。
東京五輪の計画自体を頓挫させる事で、訪日外国人の数を抑制するという手段も存在するだろうか?しかし、一度国際的合意をもって決定された五輪は実施されるのが通例であり(懸念事項のあった平昌五輪も無事行われた)、この手段の方が寧ろ非現実的だろう。
また、女性専用車両が必要になる背景事情として、東京の人口の過密さを挙げる人もいる。しかし、残り2年間で人口を分散させる現実的な手段も思い浮かばない。
そこで、この問題が現実的な課題であるという認識については、ここで合意をとっておきたい。その上で、いくつかの予想される場合ごとに、理解してもらう方法を考える。
イスラム諸国を中心に、女性専用車両が存在する国は他にもある。そうした国から来た人々には、「女性の権利を守るため」と伝えれば理解してもらえるだろう。
既に述べた通り、女性専用車両の扱いに不慣れな人々、そうした車両が制度として存在しない国も多い。しかしそうした国から来た観光客にも、必要性を理解してもらわなければいけない。一方で、世界には多様な文化や価値観があるため、全員に同じやり方で説明しても、理解してもらえるか怪しい。少しずつ条件を分け、できるだけその条件に沿った理解を促す事が必要だろう。
そこで有用だと考えられるのが、世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数だ。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/11/01/nippon_a_23263093/
各国の男女が置かれている状況を比較することができる、国際的指標だ。これをもとに、順位が日本(2017年度は114位)より上の国々と下の国々に条件を分けて考えてみたい。
まず、順位が日本より下の国から来た人々には、自国よりも順位が上の国(日本)で実際に行われている、有力なジェンダー平等化制度の一つとして理解してもらうのが良いだろう。希望の範囲だが、自国での採用も検討してもらうのも良いかもしれない。
順位が上と一言で言っても、アイスランド(1位)、ルワンダ(4位)、フィリピン(10位)、イギリス(15位)、ボリビア(17位)、南アフリカ(19位)、アメリカ(49位)等、様々な文化圏の国が存在する。女性専用車両への強硬な反対論が影響力を持っているイギリス、以前に陸上競技のジェンダー問題で世論が揺れた南アフリカ、トランプ大統領を選出してしまったアメリカ等、個別の不安要素も存在する。
しかし、共通理解の助けとなる国際指標として、ジェンダーギャップ指数の日本の順位は皆さんの国よりも低迷している事を伝える。また、日本では実際に性犯罪や女性の被る不利益が深刻である事を合わせて伝え、この男女間の不均衡(権力勾配)を是正する措置として専用車両が必要である事を理解してもらうのが良いだろう。
どうしても個別に考えなければいけないのは、南アフリカやアメリカといった国々の黒人の方、中でも男性への説明だ。(「黒人」という表記には場合によって望ましくない含意がある事は私も理解しているが、「アフリカ系アメリカ人」と表記してしまうと南アフリカ人との混同が避けられない。また、両国で表現を揃える場合は「アフリカ系南アフリカ人」という論理的に整合性のとれない表現を使わねばならない。したがって、やむをえず「黒人」を用いる)。
なぜ南アフリカ人あるいはアメリカ人全般ではなく、黒人に限定しているか?彼らは「Whites only」といった看板を掲げる人種隔離政策がかつてとられていた国々で、隔離されていた側のマリノリティグループの人達だ。「Women only」といった女性専用車両の表記を見て、特別な感情を覚えてしまう可能性があるからだ。
それでも黒人女性であれば、自分が乗車可能なカテゴリーだと認識できるだろうが、黒人男性の場合は通常は乗ることができない。そのため「差別を受けた」という彼らの誤解を招きかねず、特別に理解を促す説明方法を考える必要がある。間違って専用車両に乗ってしまい、彼らが乗客に締め出されるような事態は何としても避けたいし、日本人が決して名誉白人ではない(差別などしていない)という姿勢も示さなければならない。
また、たびたびネトウヨやミソジニストは、「女性専用車両は白人専用車両と同じ差別」という雑な議論を展開する。両者が全く別の物である事を明確にするためにも、女性専用車両について黒人男性に理解してもらう方法を丁寧に議論する事は大切だ。
「Women only」とは書いてあるが、「Whites only」の様に(彼らの想像する様な)排他的な中身ではなく、障がい者や高齢者、幼児といった社会的弱者であれば、男性でも乗れる事を伝えるのが良いだろう。例えば世界的な有名人として、南アフリカにはパラリンピック陸上競技のピストリウス選手(両足が義足)がいる。彼の様な身体障がいがある男性も、女性専用車両には乗る事ができると伝えるのが分かりやすいだろう。
特にアメリカの黒人の方には、アメリカの多くの大学入試基準で採用されているアファーマティブアクション制度に例えて説明するのが良いだろう。アファーマティブアクションの必要性、そしてマイノリティの地位向上に対する有効性については、既に社会的議論が尽くされており、比較的スムーズに受け入れられるだろう。
現時点では私の知識不足により、アメリカのパラリンピック選手、南アフリカのアファーマティブアクション制度等の具体例を思いつかなかった。実務的には各国の有名な事例を事前に調べておき、観光客の出身国に合わせた例で説明するのが良いだろう。
最後に、男女別に分かれているトイレや風呂に例えて説明する方法もとれないか検討した。しかし、これは「なぜ車両は男女で半々になっていない?」「既に男性がいるトイレや風呂に後から入ってくる女性なんかいるか?」といった問いに答えにくくなるため、断念した。
さっきの読んできたよ。
なんか多様性を保つために、
わざと他の白人やヒスパニックやアフリカ系アメリカ人より、アジア系アメリカ人のハードルを一番高くしたっていう話だった(よね?)。
そんで白人とヒスパニックとアフリカ系アメリカ人の中にもそれぞれハードルの高低があるみたいに読めたけど、間違ってる…?
んーそうだね、まあやりたいことはわからないでもないけど、人種によって優秀な人がハーバード大学で学ぶ機会を損失するのはもったいないし、それもなんか変だよね。
そうだねー、まあみんなが平等になろうよっていうときに、思わぬ誰かが犠牲になっちゃうのはよくないね。
私はそれでも差別はなくなるといいと思ってるけど、その裏で誰かが犠牲になるのかもしれないっていうことは常に念頭に置いて注意深くやらないといけないよね。
そこをゴリゴリ無理強いして犠牲者を厭わずっていうのは確かに偽善ぽいね。
そういうことはわかるなー。
追記)なんかでも、その後でこんな話もあって、
俺が言ってんのはさ
「アジア人を優遇した映画」ってアメリカで観る人全然いないんじゃない?
ってことだよ。
ついでいうとその4割の非白人からアフリカ系の人抜いたらどれくらい残るのよ。
アフリカ系アメリカ人が活躍する映画はちゃんと確立されているし、
「とりあえずアフリカ系俳優だしといたからいいでしょ?」っていう風潮は長いこと存在するよ?
そのせいでヒスパニックやアジア人の不満は解消されないままだったのが、
ポリコレによるホワイトバッシングが今になって炸裂してる背景にあるとも思う。
デンゼルワシントンの主演映画と渡辺謙の出演映画じゃポリコレ的意味は違うと思うの。
「アメリカ人が出る映画が好きでそういう映画をよく観に行く」と
「黒人や東洋人が好きでそれらが登場する映画をよく観に行く」と
「黒人や東洋人が出てさえいれば外国(非アメリカ)映画でもいい」も
それぞれ意味が違うがな
そんなの承知の助。
だから俺が言いたいのはさ、
だからと言って「非白人、特にアジア人を優遇した映画」はウケない。
だからアメリカでポリコレに配慮して映画作るのって大変だよなってことよ。
さらに言えばその非白人もアフリカ系、非アフリカ系、アメリカ国民(2世以降つまりネイティヴ)、非アメリカ国民と分けて考えなきゃいけない。
今でホワイトウォッシング抗議してるのは非アフリカ系のアメリカ国民で、
彼らがやってることは
実際観に行くかわからないけどそういう物を観る機会を作れ。」
ってことなんだと思うわけさ。
博識な増田諸氏には改めて説明するまでもないが、ローザ・パークスはバス運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み
人種分離法違反の容疑で逮捕され、アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となった女性だ。
今年の12月でローザ・パークスの逮捕から60年が過ぎ、増田のある人物を思い出した。
恵まれている者、妊婦に席を譲らないと宣言し、ホッテントリを叩き出す。
状況や周囲の人物関係は1:1に当て嵌まりはしないが、当たり前のように差別されていることに対して不満を表明し
人々の注目を浴びたという点に於いて両者は等しい。
ローザの言葉を借りれば、京都の彼もまた「屈服することに疲れていた」に違いない。
ローザの逮捕は黒人によるバス・ボイコット運動から人種差別を禁止する公民権法成立につながった。
いや、恋愛市場から排斥されているのは容姿の良くない者のほうだ。
彼にそれを成し遂げてもらいたいところだが。
ローザが逮捕時に乗っていたバスは大切に保存され、ヘンリー・フォード・ミュージアムに展示されている。
妊婦に優しくされない人間が妊婦に優しくする筋合いなどない : http://anond.hatelabo.jp/20151018215156
在日朝鮮人っていう超面倒くさい代物は、どっちかというとアフリカ系アメリカ人の問題に近いでしょ。
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。