はてなキーワード: 考察とは
単刀直入に言おう、俺は「うっせぇわ」と「可愛くてごめん」が嫌いだ。
「可愛くてごめん」は最初気に入って何度か聞いていたが、しばらくしてからその歌詞から漂う人格にだんだん嫌気がさしてきて、気づくと聞くのをやめていた。
初めて聞いた時、なんて痛々しい歌詞だと思った。この歌詞考えたやつ絶対黒歴史になるだろ。
高校生が考えた歌詞に違いない。と思ったが調べてみたらこの歌詞を書いた作曲家は25歳らしい。嘘だろ。じゃあ天才だ。
まずこの曲の歌詞の大意は、社会に出るまでに敷かれたレールに対する反抗というこれまでの音楽で幾度となく繰り返されたありきたりなテーマだ。
こういった思考は中高生に多く見られるというのは同意してもらえると思う。
気づいたら大人になっていた』
というフレーズを見てほしい。この時点でこの歌詞における主人公は”大人”になっている。
俺の意見では、”社会のレールに乗ってしまった”という意味での”大人”だと思う。
精神的な成熟を示す”大人”という形容詞は”気づいたら”なっているものではないからだ。
さてここで作者の話に戻るが、作曲家は通常の社会のレールに乗ってなれるものではないので、この作者は仮想の主人公を立てていると考えられる。
そう考えると歌詞の奇妙さが浮き彫りになってくる。
それは、この”大人”像があまりにもディティールが低いということだ。
・最新の流行は当然の把握
・酒が空いたグラスあれば直に注ぎなさい
・皆みながつまみ易いように串外しなさい
・会計や注文は先陣を切る
ステレオタイプ過ぎないか? 俺が最初に高校生が考えた歌詞か? と感じたのはここが大きい。
俺の考えだと、この歌詞の仮想主人公は高校生くらいだ。というか社会に出た人間がこんなこと考えてたらヤバくないか? いくらなんでも幼稚すぎるだろ
『社会のレールに乗るくだらない社会人になりたくない、という中学生か高校生の痛々しいメンタリティを表現した曲』
だった。
現代は誰もが「何者」かになりたい時代だ、としばしば指摘される。「うっせぇわ」の歌詞は痛いほどその事実を体現させていると思う。
という歌詞は、自分はほかの者たちとは違う、一切合切凡庸ではない「何者」であるという宣言に他ならない。
他にも、
・頭の出来が違うので問題はナシ
・私が俗に言う天才です
自分が特別だ、と思うことがどれだけ特別じゃないことかとかそういうことも気づいていない青臭い歌詞だ。
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
“自身のお気に入りの歌詞は「あなたが思うより健康です」というフレーズだという。syudouはまだネットシーンでのみ活動をしていた当時に、ネットの音楽が「病んでいる」「暗い」というイメージで片づけられていたことに不満を持っていたといい、それに対してガツンと伝えたいという思いが上記の歌詞に込められている”
と言っていたそうで、これはつまるところ”大人”に対する反抗というこの曲のテーマに加えてもう一つ、”陰キャの復讐”というものがあるということだ。暗い、根暗な陰キャは実は強いんだぞ! というシンプルなテーマだ。
俺が最も気に食わないのは
『つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー』
という部分だ。
昔の有名なコピペを思い出す。
“初カキコ…ども… 俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、 他に、いますかっていねーか、はは
今日のクラスの会話 あの流行りの曲かっこいい とか あの 服ほしい とか ま、それが普通ですわな
it'a true wolrd.狂ってる?それ、誉め 言葉ね。
なんつってる間に4時っすよ(笑) あ~あ、義務教育の辛いとこね、これ”
この最後のほうにある
という部分が「うっせぇわ」の歌詞とめっちゃ似てる。すごい似てる。
結局、この曲の歌詞とこの曲に共感している人々は、自身を社会のレールに乗ることを受け入れた”模範的な人間”なんだ、という肯定的な評価を(無理やり)することで、国家による法的な統治に安住している卑怯者に過ぎず、その自分が語る反抗もせいぜいSNSで(しかも匿名で)文句を言うくらいしかする度胸しかない。
うわあ、まさしく陰キャって感じだ。
と俺は思ったわけだ。ああ、もちろん犯罪行為を肯定しているわけではない。
この曲で最も頻発される「可愛くてごめん」という歌詞に関する俺の考察を述べておく。
まず想像してほしい、橋本環奈が「可愛くてごめん」と言ったとする。そんなことを言われてしまったら俺たちは何も返す言葉はない。「はい、可愛いです」と答える以外の余地はない。
さてここで考えてみてほしい、
と言うだろうか?
まあ俺の意見では、橋本環奈はそんなことを一ミリも思わないだろうし、言うわけがない。橋本環奈にとって自分が可愛いことは息を吸うことと同じくらい当たり前のことだからだ。わざわざ自慢する必要がない。
そして本当に可愛い女の子は、自分のことを可愛いなんて言おうものならほかの女子から総攻撃を受けるので、心のそこでそう思っていたとて口に出さないものだ。
つまり本当の勝者は他者の僻みに迷惑をかけられることはあれど、そこから一転攻勢、「むかついちゃうでしょ? ざまあw」などとは絶対に言わない。ここに「可愛くてごめん」に秘められた興味深いメンタリティが表現されている。
この「可愛くてごめん」の主人公は、学校では地味な女の子で(確かPVでもそう表現されてたかな?)、周りの、いわゆる”一軍”女子に憧れ嫉妬し、ある種、僻みさえしている。
そして休日になると自分の好きな可愛い服を着て、メイクをして、”可愛く”なって街に出かける。そう――”一軍”女子と肩を並べるために。
可愛い自分に嫉妬する誰かがいると思い込み(実際にいる可能性はもちろんある)、自分のことを僻む、顔の見えない誰かのことを意識し、自撮りをSNSに載せて、自分が可愛いことを証明することで、そうした誰かと一人孤独に戦っている。
その誰かとは実は、スクールカーストのてっぺんに位置する一軍の女子を僻み、コンプレックスを抱く自分なのだ。
「可愛くてごめん」について考察してるとなんか可哀そうだなという感情がわいてきて、執筆当初にあった嫌いという感情が薄れてきた
俺もこんな風に匿名掲示板で嫌悪を吐き出すという陰キャムーブをしてるなと今思ったw ダブスタかもしれん
誰もが「何者」になりたい世界はSNSの発展によってもたらされた。他人といくらでも比べることができる世界で、自分という唯一無二の存在が本当に唯一無二であるということを証明する必要がある。
俺もこんな記事を書いて「何者」になったつもりなんだろう。伸びるといいな。
ありがたいことにたくさんのコメントを頂いた。
いくつか興味深い指摘があったのでその点をもう一度考察してみた。
この指摘は、「可愛くてごめん」の歌詞はほかの人からバカにされたりする自身の趣味に対する偏見をはねのける少女の精神性を表現したものだ、というものだ。
そうした精神性からこの曲の歌詞を振り返ると真っ先に浮かぶ疑問はこれだ
“なぜ自身の趣味をバカにされたり、見下されたりすることへの反抗が「自身が可愛いこと」なのか?”
これはルッキズムに少女の価値観が支配されていることを示していると言える。しばしば言われるように”可愛いは正義”というやつだ。この価値観の元では”可愛い”者は強く、”可愛くない”者は弱いのだ。
人からバカにされたり、根暗や変わっていると思われる蔑まれがちな趣味を持っている私(≒いわゆる陰キャ)の私でも可愛いぞ(≒強いぞ)! という主張だ。これは”陰キャの復讐”という文脈に回収できるのではないだろうか?
そして、その精神性の内側には普段抑圧されているマイノリティのコンプレックスがある。
そのコンプレックスが最も示されているのは、「可愛くてごめん」の歌詞すべてと言っていい。
「可愛くてごめん」と連呼することは、可愛くない自分を無理やり鼓舞するために必死に主張しているように見える。私は可愛いのだ! ということを全身全霊で認めようとしている。それは他者に向かっているように見えて、自分自身を納得させるために繰り返されている。
そうすることで「私は強いのだ!」と納得しようとしているように見える。
あと、「うっせぇわ」も「可愛くてごめん」も作詞者がそう考えている、と俺自身が思っているわけではないよ。正直ここまで若者に刺さる歌詞を詳細に書くことはマジですごいと思う。
実際こうやって俺が嫌いになっているという事実こそがこの曲の歌詞が素晴らしいものであるということの証左でもあるしね。
あと、「それを嫌うお前の中にそういう精神性がまだ少し残ってるからだろ」的な指摘があって笑ったwww
俺は男オタだけどこれが叩かれるのはわかる。
スレ内の>>1への批判として何度も書かれてるけど、本編準拠の展開予想なのか、
本編を完全無視したカップリング虚妄なのかでノリが大きく違って、
そのどっちなのかが分からないスレタイと>>1だからあんなに荒れたんだよ(ニュートラルな考察っぽい口調で、内実がCP虚妄)。
カップリング妄想なら妄想とわかるように書いてくれればいちいち批判とかしないし、真剣に考察おっ始めたらお前の考察おかしくね? っていう議論に発展するのは当たり前じゃんとしか言えないし、中途半端なんよな。
本気で本編内の描写から5号スレがあり得ると思ってるならこの程度の批判にたじろがず正面から自説を論じてほしいし(「実はスレ→5号の好意はこれだけ描写されててミオへの好意より上だぞ」っていう根拠を挙げてくれれば5号スレが妥当という結論でまとまるはずだからそこをサボらないでほしい)、
妄想なら妄想で「俺の妄想だけど」とか「誰にでも明るい子にドン引きされてる描写が性癖」とか書いてくれれば生暖かい目で見守れるし、「スレッタが5号に引きつった笑顔を見せてる……これは恋する乙女の顔ですわ」とか書いてくれれば一目でネタだとわかって大喜利会場になるんだから書き方を工夫してほしい。
当時、クラスメートが書いてたのを思い出す。
俺はというと内心“そういうカルチャー”を下に見ているような、文化人を気取る典型的イタい若造だった。
そんな陰キャと、そのクラスメートは仲が良くも悪くもなかった。
だが、クラスメートだから教室内にいれば姦しい会話は嫌でも耳に入ってくる。
耳にこびりついてしまったので、気になってその小説に目を通したこともあった。
結局、面白かったんだが、面白くなかったんだが、今ではタイトルすら思い出せない。
俺がケータイ小説の潮流を特に感じたのは、確か『あたし彼女』っていう作品が何らかの賞をとったというニュースだったか。
ケータイでメールやブログを書くような文体で書かれた本作は、ある意味で「ケータイ小説」というジャンルを象徴していたように思う。
それは、このジャンルに今まで触れてこなかった人間も巻き込み、賛否両論の渦を起こした。
そして“賛否両論”なんて表現をするときは、えてして“否”が多いものだ。
かくいう俺も“そのクチ”だった。
小馬鹿にする意図で『あたし彼女』の文体を真似てSNSに書き込んだりした。
「完全に駄作だし、こんなのに賞をやる奴らも阿呆」といった具合の振る舞いである。
今でも本作を面白いとは思っていないが、あれにも評価すべき点があったのは確か。
あげつらうこと自体が目的になっていたのは文化人として3流だったな、と我ながら思う。
そんな潮流のケータイ小説にも「定番の材料」といえるものがあった。
今でいうなら“なろう系”の「異世界」だとか、「転生・転移」だとか、「RPG要素」だとかだが。
ケータイ小説でいうと、それは「セックス」だとか「不倫」だとか、「妊娠・中絶・流産」といったものだった。
なぜそういった材料が定番化したのかを分析できるほど俺は有識者ではない。
それでも考察するならば、「自分にも関係なくはないけど、非日常感のあるシリアスな材料」がそれらだったんじゃないかと。
あれらの書き手や読み手には学生が多いと思うし、学生は保健体育で性知識を学んだばかりだから創作で使いやすかったんじゃなかろうか。
はてさて、なんでこんな話を、今さら。
はてブでもホッテントリになったようなので、既に読んだ人も多いだろうか。
作家は普段「りぼん」で描いているらしく、なるほど絵柄もそうだが表現や演出、コマ割なども実に少女漫画って感じだ。
漫画なら何でも読んでた頃は家族が買ってきたマーガレットも貪っていたが、概ね製法は変わってないんだなっていう安心感を覚えた。
そんな製法で作られた本作は、扱われる題材がケータイ小説みたいで不思議と新鮮。
皆にはどう映ったのだろうとブコメを眺めてみると、“リアリティ”があるだのないだの語る様子が目に留まった。
そういえば『あたし彼女』の選者にも、あれ(あたし彼女)を“リアル”だと評価している人がいたのを思い出す。
その妥当性はともかく、その時に俺はケータイ小説の潮流を、ふと感じたのだった。
潮の満ち引きは海が枯れない限り続くのかもなあ、みたいな?
「5号×スレッタってもしかして今なら成立するのでは?」だよね。
https://bbs.animanch.com/board/1909218/
まあ>>1見た瞬間荒れるなと思ったよ。
17話でミオリネに拒絶されてスレッタが傷心中なのは事実だし、
18話以降で5号が登場し「休学中だったエランさんが帰ってきた」だったらワンチャンいけたかもなと思うけど、
これまでの5号が丁寧に丁寧にハニトラに失敗してスレッタの好感度削ってきてんだよね。
17話はスタンガンまで持ち出してスレッタを完全に傷つける側になって、グエルにやられてスタコラ逃げる三下ムーブ。
何を思って「今なら成立」なのか全然わからん。10話ではそういうの盛り上がったけど…。
ローカルルール云々っていうより「本編の何を見ていたんだ?」みたいな叩かれ方をしているんだよ。
5号は16話でベルメリアのことも殴ってるし、スレッタを軽薄に口説ける状態にはまるで見えない。
叩いていたのが女性オタクばかりかというと、それも分からんよ実際…。
スレ内の>>1への批判として何度も書かれてるけど、本編準拠の展開予想なのか、
本編を完全無視したカップリング虚妄なのかでノリが大きく違って、
そのどっちなのかが分からないスレタイと>>1だからあんなに荒れたんだよ(ニュートラルな考察っぽい口調で、内実がCP虚妄)。
5号×スレッタの専スレでは本編を完全無視した妄想がずっと繰り広げられ続けてて、荒らしが来たり叩かれたりもしてない。
あにまんで叩かれた元増田以外にも、Twitterでの男オタと女オタの接触事故もあって、
女オタが描いた二次創作にガンプラアイコンおじさんが考察をリプライで送るみたいなことも起きてる。
(おじさん構文ではない。SFジャンルっぽい小難しい文体と言ったらいいんだろうか。そしてリプライは無視されている)
ツイステやブルアカではこんなこと起こらないのよジャンル自体で男女が住み分けられてるから…。
水星のネタ系二次創作と男女カップリング二次創作のとこは、なんなら半々かも?ってくらい男女比が拮抗してる。
なんかだいたい男性が住み分けの空気を読めてないことによって事故ってるように見えるけど、
設問の彼女について考察したり想像したり妄想したりと、そういう事をする彼女以外の関係者全員についての関係性を考察するのは意義があると思う
しかしそれだけでしょう
まず会話ができる関係性にある登場人物の外にあるのが問題の核心である彼女
これについて直接関係性を持つことが出来るのは議題を上げた人物だけ
差別主義者で舐め切っていてふざけて傷つけようとしているとか、心の底からやり直したいと願い続けているけどそのために取れる手段の選択肢を知らないだけとか
第三者が直接的に問題の核心に触れるということ自体無意味で無理な話
みんなが当事者意識でその確信の彼女について触れようとすることで無限の広がりになる選択肢を得たとしてどうするのか
結局裾野を広げる事で発言者がとくにどの方面やだれかに利益をもたらすわけでも被害を及ぼすわけでもなく自身の楽しみのためだけに利用ができる
問題点はそこだっただろうか
核心の彼女について気になっている人間の気持ちの持ちよう それが問題点だったのではないか
彼女がどういう人間であるという想像や どうしたいと思っていると考えられるという予測など そういったものを用意することで悩んでいる人間の精神状態をどうするか
どういう方向だとその質問者がよりよい体験ができるのだろうか ということが問題の追及すべき結果であったり先であったりするのではないか
途中にある彼女の状態にについて伝聞から推測をあげていることについては無意味ではないだろう
前提があってもなくても というかあるかないかも確認できない状態で一つのフィルタから通された情報でなにをどう判断するのかは問題の核心ではなく行動の選択だろう
狭い場所で極限的な状況で選択肢が限られている場合、状況の判断と問題点の様子の正確さを求める事が一番必要だろうか
それが危機的状況から脱出するようなものであった場合、自分の命をねらっているそれの詳細を求め情報を整理したり想像したりすることが最も重要だろうか
食べ放題は様々な種類の料理があるし、量も自分の好きなだけ食べられるから満足感は限りなく大きくなるはずだ。
しかし実際に食べ放題に行ってみるとこれは必ずしも正しくない。むしろラーメンや定食1種類のほうが満足度が大きくなる場合もある。
人間は本能的に食べ物を求め、自己の生存を維持するために食物獲得の戦いを繰り広げてきた。その本能は、現代においても無意識のうちに行動や感情に影響を与えている。食べ放題のスタイルは、飽くまで食べ物がたくさんあることの象徴であっても、その提供形式には人間の根源的な欲望が絡み合っているのである。
大きな塊の料理から自分で取り分けるという行為は、人間の深層心理に強く訴えるものである。狩猟社会では、獲物を狩るという行為が生存そのものを意味していた。獲物を仕留め、大きな塊から自分の分を切り取ることは、その人が優れた狩猟者であることの証しであり、それがそのまま社会的なステータスに結びついていた。そのため、大きな塊の料理から取り分ける行為は、狩猟者としての成功体験、すなわち勝者としての記憶を呼び覚ましているのである。
一方、小分けにされた料理を食べるという行為は、その獲物を分け与えられた者、つまり弱者の記憶を呼び起こす。狩猟社会では、最も大きな肉塊を得ることができたのは強者だけで、それ以外の者はその残りを分け与えられる形で食べ物を得ていた。そのため、小分けにされた料理を食べるという行為は、狩猟の結果として分け与えられたものを受け取る、すなわち弱者としての記憶を呼び起こすのだ。
現代社会においても、この勝者と弱者の記憶は、食事の形式を通じて無意識に表現されている。「食べ放題で満足できない」と感じるのは、その提供形式が我々の深層心理と連動していないからである。つまり、食べ放題という形式が提供する「量」の豊富さという約束にもかかわらず、料理が小分けされているという事実が、我々の根源的な欲求、勝者としての記憶を満たすことができず、結果として満足感を得られないのだ。
しかし、この考察はあくまで一つの視点であり、全ての人が大きな塊から取ることを好むわけではないかもしれない。個々の食事スタイルは、その人の文化的背景や個人的な好み、そして環境によって大きく影響を受ける。それでも、食事の形式が我々の深層心理に及ぼす影響を理解することは、我々がどのように食事を楽しむか、どのように満足感を得るかを理解する上で有益であろう。
食事は単なる栄養摂取以上の意義を持つ行為であり、その選択や形式が我々の心理状態に影響を与えることは間違いない。食べ放題のスタイルも、その一つの表現形式として見ることができる。そして、私たちはその中で、自分自身の欲求を満たすための最善の方法を見つけることが求められるのだ。
アプリとかのプロフィール欄に性行為したいかしたくないか書くメニューがあればいいのにね。
https://anond.hatelabo.jp/20230503204955
この増田も言及しているが、富山から若い女性が流出しているというニュースで地元が炎上している。
ネット上で憶測が憶測を呼びとんでもないことになってやがるので、当事者として事実を書こうと思う。以下、大変不名誉なことに例の記事で「問題のある層」として紹介されてしまった「富山から出た20代女」として書きます。
とりあえず、自分の実体験を踏まえて誤解は誤解、合っている部分は合っていると説明する。0歳から18歳になるまで富山の中心地富山市で見聞きしたことですが、地域によって違いはあると思う。
はい、まずこれですね。ご期待に沿った回答でなくて申し訳ないが、私の場合は「都会の企業より待遇・条件のいい企業がないから」です。私は大学進学で富山を出て、そこから新卒で就職した。国内外でそれなりに知名度のある大企業の専門職で働いており、ハッキリ言って内定が出た都会の企業以上の待遇が期待できる会社は富山にはなかった。海外赴任したいし。仮に私が男性でも、それは変わらなかったと思う。「女はお洒落でキラキラした都会に憧れるから」とか「いい男を捕まえるために都会で遊びたいんだろ」とか的外れな女性蔑視考察をしていた方々!超地味〜な理由で申し訳ない!
と私の場合はそうなんですが、実際に皆様が指摘されている「若い女性の扱いが酷いから」「陰湿な県民性だから」というのも正直富山を出る理由の一つにはなると思います。それについてこれから書きますね。
これは間違いなくある。あちこちで言われている「富山は共働き率が高いが家事・育児は全て女負担」「専業主婦は遊んでいると言われる」は残念ながら私の周りでは事実です。冬は雪かきもあるけど、それも女の仕事。
【捕捉】私の周りでは女が雪かきしていたが、冒頭にも書いたように地域によって違いはあると思う。あと、富山市の場合は、余程狭い道じゃない限り除雪車がまとめて雪をどけて道を作っていた。
うちの家庭の話をする。私の母は富山では珍しく管理職で社会的地位が高い。収入も父より上だ。しかし家庭内での家事や育児は、ほぼ全て母か私が負担していた。私は小学生の頃から事あるごとに父から家事労働や弟の面倒を見ること、祖母(父の母)の介護をすることを求められてきた。理由を聞くと毎回「女の子なんだから」「長女として」という言葉が出てきた。今問題視されている「ヤングケアラー」扱いされてきた。そして母より稼ぎが少なく家事・育児をしない父は、仕事以外では家でゴロゴロしているか遊び歩くかしていた。それでも一族の扱いは「一家の大黒柱」。
このように、女性であることを理由に理不尽に家庭内労働を押し付けられる文化は今でも根強くある。でも男性は男性で、一人立ち後や結婚後も仕送りして親や兄弟を養って当然という空気もあるため、問題は「男尊女卑」というより「性差別的な価値観」「性的役割の押し付け」な気もする。
県民性をまとめるなら下記の3つだと思う。年齢や性別、職業に関係なく、富山では下記が「普通の人」として扱われていた。無論まともな富山県民もいるが、あくまでも富山のマジョリティは下記なのだと思う。
⚫︎差別意識が強い
⚫︎嘘をつく
⚫︎差別意識が強い
地方だから…と一括りにするつもりはないが、全体的に差別意識が強い。また、息をするように人権侵害レベルのことをする人がかなり多い。陰湿な村社会のようなコミュニティがあちこちにある感じ。
これは性差別だけでない。県外から来た人や外国人等、周りとは違う人に対する差別が本当にひどい。実際、国外や県外から来た人が口を揃えてそれを指摘し「富山にはもう2度と住みたくない」「陰湿な人が多すぎて暮らせない」と言っている。
学校や会社で束になり村ぐるみで追い込んで組織から追い出した、という話は頻繁に聞く。また驚くことに、ほとんどの人がそれを酷い事、恥ずかしい事だと思っていないため、加害者側の人たちが笑いながら話しているのをよく見る。「集団とは違う存在を皆で一致団結して追い出す。」彼らはそれこそが「正義」だと疑ってない空気すらある。法律や倫理観なんぞより、自分たちの村の平穏を維持することが大事なのだ。
⚫︎嘘をつく
「嘘も方便」のような嘘ではなく、自分の利益のため息をするように人を騙す詐欺師タイプの人が当たり前にいた。というより、富山ではそういう人が「普通の大人」だった。
医者・歯科医が患者に「ここを治す必要がある」と嘘をつき多額の金を巻き上げる。営業や店員が商品の説明の際に「こんな機能がある(実際にはない)」と客を騙して買わせる。中学や高校の教職員が生徒に「個人スマホからのネットの閲覧履歴や書き込み履歴は全て学校側が把握しているから余計なことをすれば分かる」等の嘘を教え従わせる。
全て身近で目にしたことだ。富山市の進学校付近でこれなので、自分の周りが特別治安が悪かったわけではないと思う。
都会に出てみると、自分にメリットがあろうがなかろうが関係なく嘘をつかず誠実に対応するのが当たり前という人ばかりで本当に驚いた。個人的には一番富山とのギャップがあり驚いたことである。
スルーしてる人が多いのだが、個人的にこのニュースで一番問題だと思ったのはここ。
つい最近、国連が下記の提言をしたにもかかわらず、真逆のことを当然のように行っていて頭を抱えた。富山県民はあまりにも人権意識が低すぎると言われても、私は反論できない。
国連人口基金(UNFPA)は19日、2023年の世界人口白書を公表した。人口が減少に転じる国もあるなか、出生率を政策で操作しようとする国が増えており、女性に悪影響が及ぶと懸念を示した。出生率にこだわらず、男女平等で社会や経済の発展を目指すべきだと提言した。(2023年4月19日 日本経済新聞の記事より)
まず、富山県民に限らずこれを言う人は「健康で生活保護等を受ける事なく働いて納税し社会を支える人がほしい」という意味で言ってるんだと思う。逆に言えば、その「増やすべき人間」に中に納税奴隷にならない人や障害者年金を得て暮らす障害者、生活保護を受けなければ生きられない人は入っていない。また、病気や性的指向等で子供を作れない、またはなから作る気のない人たちもその中には入らない。つまるところ、「少子化対策」とは優生思想に基づいて、人間を生産性だけで見ているからこそ出る言葉だと思う。
そもそも、妊娠・出産は女性の体や脳にとんでもない負荷をかけ、最悪後遺症が残ったり死ぬこともある重大事項だ。それをやる・やらないを決める権利は本人にしかない。「妊娠から出産後に至るまで死ぬほど苦しむし、マミーブレインで頭悪くなるし、結構な確率で後遺症残ったり死ぬけど子供産んでくれない?」と他人が推奨できる類のものではない。子作りを推奨する側は、男女問わず子供さえ作ってくれれば相手の体なんぞどうでも良いと言わんばかりにそのマイナスな医学的事実を伏せたまま妊娠・出産は「幸福なこと」だと喧伝する。
また、Twitterで散々言われていたように子供を本人の同意をなくこの世に生み出し、義務だからと強制的に労働させるのは倫理的に考えても利己的でグロテスクだと反出生主義的な指摘をされても仕方ないだろう。
●未婚化を阻止
はい、言うまでもなく人権侵害の極みですね。男女を結婚させ出生率を上げるという発想自体、女性を産む機械、男性を産ませる機械として見ている。人間には結婚する・しない、子供を作る・作らないを決める権利がある。また、結婚するにしてもその性別は当然異性である必要はない。
・魚が美味い!
・米が美味い!
・家賃が安い!
ジャンケットバンク(田中一行)が面白いのでちょっと書かせて。
次のギャンブル、シヴァリングファイアがどうなるのかを考えるのが楽しい。我ながら良いファンだ。
ここで読める→https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496840031515
→ジャンププラスのコメントでは「氷点下で凍ったペットボトルでガラスを割る」とか「水をガラスにかけて凍らせた後、100度の温度差で割る」という考察があった。
他には「冷却口に水かけて凍らす(温度が下がらないようにする)」とかもありか。霜が張った冷凍庫みたいな。
→そもそも、最終的には-30℃くらいになるにせよ6戦×4ラウンド×選択時間1分+最終ラウンド10分=34分でそんなカチカチに凍るか?(最初は室温からスタートだし)とも思う。
一応濡れたタオルなら-10℃で振ればすぐ凍るらしい。上着を水で凍らせてガラスにぶつけよう!(やけくそ)
もしかしたら真経津は「34分で凍るか怪しいから引き分けのラウンドをわざと作ったのさ!(ドヤ顔)」をするのかもしれない。
→つまり、ゲームでは真っ当に勝たずに氷点下も100度も耐えるということでもある。
→「ストックが少ない」というのを、司会は「じゃんけんに負け続けたやつをぶち殺す」と言い換えていたのも気になる(グーで2回勝てばストックが少ないまま勝てる)。
→反則は「暴行・通信機器の使用・遅延(すべての選択は1分以内)」で、わざわざガラスで隔離されているのに暴行が禁止されているのも気になる。
強いて言えば前述の「凍らせたペットボトルでガラスを殴る」のが暴行扱いになるんだろうか。
→反則負けした場合の処遇は書いてないけど、ワンヘッドだし、たぶん死ぬのだろう。
→究極的に言えば、あれは御手洗くんの物語なので真経津が死んでもいい…が、「他の銀行の賭場を潰したデギズマン」だの「灰色の目の男」だの伏線を置きまくっているのでまだ死なないと思う。それに真経津が死ぬには相手は小物すぎる。
ニコニコとツイッターのせいで根付いた実況文化の影響もあるのか知らんが画面をずっと見てねえんだよ。
あのさあ……「主婦が料理しながらでも話がわかるように全部セリフで説明するのがテレビドラマの最強方程式」とか知ったことっちゃねえんだよ。
登場人物が状況をセリフで全部説明するせいで結果的に感情の部分を表現してる時間取れてねえし、内容も他のことしながらでもついけるようにそもそもペラペラだしさ。
そりゃあんなの倍速で見られても仕方ねえよ。
最初から普通に作った作品の30%ぐらいの内容しか載せてねえんだからさ。
ふざけんなっての。
映画なんて映画館で画面に集中してる前提で作ってんだから瞬きより長い時間目を離せる用に作ってるわけねえだろ。
倍速でいいから画面にずっと齧りついてろっての。
内容わからねえから考察サイトであとで確認したとか言ってんじゃねえよ。
倍速でいいから2回見ろよ。
タイパ重視で作品ゴミにしておいて知らん顔してるっててんじゃこっちのが100倍害悪だろ。
つうか最近はドラマもアニメも実況コメント目当てみてな作りしてるのマジで辞めろよ。
いい加減ちゃんと作れ。
つうかそのノリで映画まで作ってる奴らいんの本当頭おかしいから辞めてくれ。
なんで映画までながら見前提で全部セリフで喋って説明すんだよ。
無音が続いても画面が続いてたら問題ねえだろうに……ラジオドラマと間違えてんのか?
アイツらのせいで文化壊れてんだよ
ブクマカ「口頭試問で落とせばいいだろ」
ブクマカは、質問されたことに答えられるのと、理解したことや自分の考えを文書にまとめることの違いが理解できない。口頭試問と文書作成は相補的だがオーバーラップしている部分はそれほど大きくない。今後は「作成された文書での学生の理解や考察の評価」はほぼ不可能になる。大学教育は問題に答えられればいいというものではない。テクノロジーをうまく使えることは大学以上の教育を修める上で重要ではあるが、レポート課題の出来が単なるAI使用スキルに置き換わってしまったので、今までとは評価方法を大幅に変えなければいけない事態になっている。しかも突然。今まで作成された文書で評価していたことを全て口頭試問で置き換えることはとてもできない。困ったなあ。
自分はモテる男でもないし結婚願望もなかったが、たまたま自分のことを好きになってくれた人がおりその人と付き合って結婚した。
妻のことは全くタイプでもないし性格的にも好きではなかった。しかし、当時ゴフマンの社会学をかじっており、自分のことを「この女性のことが好きでこの女性を喜ばせたり幸福にするために常に最善を尽くそうとする男」と思い込んで生きてみるという実証実験のつもりで交際し始めた。
現在、妻のことを好きかと言われたら別に好きでもないし経済的負担や労力は半端ない。
しかし、できる限り「夫」や「父」として振る舞い、それに対する妻や子供、周囲の人の反応やその後の彼らの言動行動を観察し、社会学的に分析、考察することは楽しい。自分にとっての結婚生活のメリット。子供は生まれてきたから育てはしてるけど、メリットとは到底思えない。
そんなことなくない?
考察対象になるのって主に成立した背景とか意図とか動機で、批評性が強い作品じゃなければ読者へのメッセージがどうとかってあんまり語られなくない?