はてなキーワード: プランテーションとは
フランケンハイマー監督の映画『RONIN』は、ソ連崩壊の余波が残る90年代の作品である。ソ連が崩壊した頃は、生活に困ったソ連の元・軍関係者が兵器を第三世界やテロリストに密売する可能性や、ソ連という敵を失ったことで欧米諜報機関の人間がリストラされる可能性が取り沙汰されていて、そのような世相が同作品には反映されている。
ロバート・デ・ニーロ(主人公)、ジャン・レノらが演じる「ソ連の崩壊に伴って仕事を失った東西諸国の諜報機関の元・工作員たち」が、アイルランド人らしき女性からリクルートされて、フランスのニースに滞在中の元・ソ連軍関係者と思しき男たちの持ち歩いている「怪しいジュラルミンケース」を強奪する非合法ビジネスに挑む…という話である。
このジュラルミンケースを巡る争奪線として物語は進行するが、その中身が何なのかは最後まで明かされない。ただ「非合法な真似をしてまで欲しがる人間たちが存在するような『物騒な何か』なのであろう」とだけ、観客には理解される。しかし、そのような理解で物語の進行には十分なのである。この映画におけるジュラルミンケースのような、物語進行上の小道具をマクガフィンと言う。
マクガフィンがマクガフィンとして機能しうるのは、物語の語り手と観客が「世界観」や「状況認識」や「常識」を共有しているからである。新聞やニュースを通じて、冷戦下における東西諜報機関の暗闘や、北アイルランド返還を要求してテロ活動をしていたIRAの存在、ソ連崩壊に伴う兵器拡散の危機などについて既に了解しているからこそ、たとえジュラルミンケースの中身が判明しなくても、観客は物語を読み解くのに支障が無いのである。ちなみに、主人公たちをリクルートするアイルランド人らしき女性が、物語の冒頭で主人公たちに対して「私はディアドラ」と名乗る。これは、日本人に擬えると「私は花子」と言うぐらい「平凡な名前すぎて逆に偽名クサイ」という描写とのことである。「アイルランド人」らしき人間が「偽名」で接触して「非合法ビジネス」を依頼してくる。となれば、90年代のフィクションにおいては「IRAか?」と推測するのは観客にとって極めて自然な成り行きであった。このような社会的な知識や認識を持たない人間が『RONIN』を観ると「何だかよく分からない話だった」となるかもしれない。
さて、海賊王漫画について言及したところ「『海賊王』の定義がハッキリしなくても、マクガフィンなのだから問題は無い」との意見が見られた。しかし、端的に言えば『海賊王』はマクガフィンとして機能していない。何故ならば、物語の世界の法則や状況に関する「確固たる土台情報」が与えられておらず、ジャンプ読者は共通認識を持っていないからである。
海賊王漫画は、政治・経済・軍事・警察・法律の社会体制、キャラの強さの根拠や尺度、海賊稼業が成り立つ社会の仕組みなど、全てにおいてアヤフヤである。
海賊王漫画に比べると、まだ『パイレーツ・オブ・カリビアン』の方が、海賊冒険物語としてはマシな方である。それが成立するのは何故かと言えば、以下のような「世界認識」が朧げながら観客に共有されているからである。
我々の世界での海賊の歴史は、ヨーロッパのような国々があり、中南米・アフリカ・アジアのように植民地とされた地域があった。海賊たちは、国家の軍や警察の力が及びにくい地域で略奪・誘拐などを行い、時には国家から許可を受けた「下請け業務」として海賊業務を行っていた(このような海賊船は、所謂piratesではなく「私掠船privateer」と呼ばれて区別される)。
国家の下請け業者としての海賊が成り立っていたのは、ヨーロッパの国々が互いに覇権争いをしていたからである。競争相手国の船が、私掠船にとって獲物であった。
覇権争いをしてまでも植民地にした地域には、金銀や宝石の鉱山が有ったり、香辛料や農産物の産地であったり、サトウキビやコーヒーなどのプランテーション農園を作って労働力に使う現地住民がいたり、宗主国がそこに侵出する様々な経済的な動機があった。
植民地域と本国との間で行われる貿易の関税を逃れて密輸するのも、海賊の仕事の一つであった。
海賊が略奪した貴金属貨幣や物品、誘拐した人間を欲しがる人間が、宗主国や植民地域に「顧客」として存在し、また略奪や誘拐ビジネスで富を手に入れた海賊が消費活動を行なって、植民地域の経済圏に金を落としたからこそ、海賊稼業も成立していた。
このような大まかな共通認識が観客にあるからこそ映画『パイレーツ〜』も成立するのである。これに比べたら、如何に海賊王漫画がアヤフヤなまま連載を続けて、本来は連載初期に描いておくべきであった、読者が物語を読むための足掛かりにするべきことを何も描いてこなかったのが一目瞭然である。
「パンピレホニョンに俺はなる!」と言うだけではマクガフィンにはならない。
【2021/05/06誤字を指摘して下さった方、ありがとうございます。】
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンはインディアンに対する差別や黒人奴隷プランテーションを大々的に行ったから、建国の父として讃えられることは間違っていると主張するニュース記事を見た。
個人的にはアメリカにもワシントンにも思い入れはないので、別に彼を擁護するわけではないのだが、このような考え方には違和感を覚える。あなたが彼だったとして、あの時代に生きて、奴隷制に反対という立場を取るだけの勇気があったのか?と偉そうなことをいってみたくなるのである。よく言う、時代性を考えれば妥当じゃないかというやつである。
どうして時代性という考えが生まれるのか。我々の倫理観はどうして進歩するのか。
人は、環境によってその生き方を変える。アイヒマンという有名なナチ高官がいた。彼はもともとは穏健派でマジメな公務員タイプの人間で、ユダヤ人はアーリア(ドイツ)人と隔離して生活させるべきという思想こそ持っていたが、虐殺することはやりすぎだと当初は考えていた。しかし、他のカリスマある過激派幹部党員たちと討論を重ねた結果、ユダヤ人はやはり根絶やしにするべきだと意見を翻す。
結果としてユダヤ人を虐殺する命令書にサインした彼は、当然のことながら裁判にて死刑を言い渡されるが、のちに、彼と同じような圧迫状態に置かれたときに人間が倫理にもとる行動を取るかを調べた、いわゆるミルグラム実験において、人間の多くは道徳より権威・安全・保身を優先することがわかった。
人を、倫理を、道徳を規定するのは環境だ。では環境を規定するのは何か?一体何が奴隷という怖ろしい制度を肯定する道徳を生むに至ったのか?
ワシントンの時代、奴隷労働による大規模なプランテーションなしにはアメリカの工業化は支えられなかっただろう。リンカンによる奴隷解放だって、北部の工業化が十分に進んだ結果、奴隷の需要が薄くなったのが原因のひとつだとされている。
彼らは、奴隷労働なしには生きられなかったのだ。少なくとも、奴隷労働なしにはアメリカは今日のような巨大工業国に育つことはなく、このグローバルな科学社会もいまほど繁栄することはなかったであろう。
環境を規定するのは科学技術だ。人類の知恵だ。我々の需要を、その時代の科学技術が満たしきれないとき、我々は一部の社会的弱者に負担を押し付けてやり過ごそうとする。これは時代を超えて起こってきたことだ。日本国内を見ても穢多・非人・部落など枚挙に暇はない。
奴隷労働という『悪徳』の恩恵を享受した我々が、そのことによって得た新たな道徳観で彼らを批判するとはなんだか皮肉だ。回顧主義によって昔の人の悪徳を批判するのもいいが、むしろ未来の人間に批判されるべき悪徳が自らに備わっていないか、我々はもっと考えるべきではないか。
非正規雇用労働者、医学部の不正入試問題、保育士や看護師と言った一部の職業の常軌を逸した低賃金労働、過密環境下での畜養エトセトラエトセトラ……これらは、数十年後科学技術が進歩したときにはおそらくほぼ解決されるだろうと私は考えているし、その暁には未来の運動家たちの回顧的な批判にさらされるだろうとも、私は考えている。
貧困にあえぐ非正規雇用労働者が労働者全体の数十パーセントまでをも占めるのはなぜか。会社に正規雇用者を雇って保険料その他の経費を払うだけの経営的体力がないからだ。会社が流動性の高い人手を求めているからだ。正社員がその要件を満たすようにするための仕組みがないからだ。それらの問題を解決し、全ての雇用者たちに十分な生活物資を与えるだけの生産技術を我々が持っていないからだ。
犬や猫といった一部の哺乳類が動物愛護法で手厚く守られているにも拘らず、同じ哺乳類でも豚や牛は毎日おびただしい数が動物愛護という概念につばを吐きかけるような環境で肥育され屠畜され死んでいくのはなぜか。そうしないと我々は良質かつ大量の動物性蛋白質を手に入れることができず、そして動物性蛋白質を手に入れなければ人は健全に成長することが難しいからだ。
女性が医者になることが嫌われるのはなぜか。女性が妊娠したときに、医療という絶対に穴を開けてはならない業務にできる巨大な穴を埋める方法が現在見つかっていないからだ。そもそも、女性が妊娠したときに長期に渡って休職しなければならないほど、医療技術やリモートワークが進歩していないからだ。
話はそれるが、医学部不正入試の際に、この問題を提起した人が炎上していた。女性が多くなると、その分医療従事者に負担が増えることになり、システム全体が崩れかねないと。日本に生きている以上、誰しもこの構造的な問題の恩恵を受けているはずなのだが、これを一方的に叩いていた人は一体何様のつもりなのか。さぞ時代を先行きする高い道徳心をお持ちなんだろうな、と思いながら見ていた。
もっと直接的な話をしよう。石油資源を燃やさないため、トウモロコシなんかの生物資源から取り出した燃料を使おうという動きはかなり昔からある。だが、もし今すべての車がバイオエタノールを使いだしたら何が起こるか。全ての森林をトウモロコシ畑にしたとしても、我々の消費しているエネルギーを生産するにはとうてい足りないのだ。つまり、バイオエタノール、生物燃料という考え方は(少なくとも現行の技術では)人類を支えるだけの力を持っていない。現在の我々は自らの使うエネルギーを自己生産することすらできないのである。そして、そのつけを払わされる社会的弱者とは、未来人たちだ。彼らは、化石燃料は燃やし尽くされ、大気の汚染され尽くした地球という大きな負担を押し付けられるのだ。
この我々の巨大な『悪徳』に対して、我々は未来人になんと言われるのだろうか。呪詛を投げつけられるのだろうか。それとも、時代性という言葉とともに、やんちゃをしてしまった子供を見るような目で許してくれるのだろうか。いずれにせよ、今のところは物言わぬ存在である彼らからは批判されないのを良いことに、彼らに莫大な負債を押し付けていることは間違いない。
我々は皆、生きていくために必死だということを言い訳に、平気で他者を踏みにじる、巨大な業を背負った罪人なのだ。そして、そうである以上批判されることはあるし、完全に正しく生きてかつみんな幸せにしようなどという幻想は捨てねばならない。様々な意見を取り入れ、熟慮し苦悩した末の自らの選択は批判されないと思ったら大間違いである。皆あなたと同じように苦しんで、罪を背負って生きているのだ。むしろ、我々の権利とは、自由とは、選択とは、もらった批判を受け入れるか、心の中でくさすか、そこにこそあるのだ。
理想論を語るにしろ、現実論を語るにしろ、それを受け入れるところから始めなくては、現代の社会問題に関する議論は的外れなものになってしまうだろう。
とりあえず、"アメリカ 奴隷制度 映画"で検索してみよう。この3作品が腐るほど出てくる。どれも面白いから、そりゃまとめられちゃうよ。でもこれじゃ増田で聞く意味がないよねえ。
演奏に代金は払いたくないのか(一部のコメントに対して。最初の文章から変わっています)|ソプラノ川上真澄の音楽とバラがいっぱい、時々子育てブログへようこそ!
約めて言えば、会社における社員教育のせいだ。それと「仕事」に対する意識の違いだ。
アメリカの会社は大手であればあるほどいわゆる「即戦力」を取りたがる。何かしらの技能、資格、実績を有している人々をリクルートするのだ。だから、しぜん中途採用が多くなる。つまり、最初から「プロ」として雇われるわけだ。
対して日本の会社はいわゆる新卒一括採用を行う。たいして技能も実績も持たない純真無垢な新人社員をOJTで実地教育していく。このとき、社員たちは様々な分野の部署をたらい回しにされる。どの部署についても一定の知識を得られるように、よくいわれる「ジェネラリスト」教育ってやつ。
しかし、このジェネラリスト教育に罠がある。というか、教育後の人材の使い方に罠がある。
アメリカの会社員はプロフェッショナルなので、基本的に自分の分野外の仕事はできないし、仮にできたとしてもしない。日本ではよくある「君、◯◯もできるって言ってたよね? ちょっと助けてよ」が通用しない。なぜなら、それは契約にないから。もしその人から助けを借りたければ、金を払って雇い直すしかない。
一方で、(まあ企業にもよるけど)日本の社員はそのへんかなりユルユルだ。極端な話、全然自分とは関係ない他部署を特別な技能を発揮して手伝ったところで、お礼なんて感謝の言葉と、よくて飲み代のおごりくらいだろう。「会社は仲間なんだから、家族なんだから、親切(ただばたらき、と読む)にするのがあたりまえじゃん?」という意識だ。持ちつ持たれつってやつ(自分のほうが持つとは言わない)。
それだけじゃない。こうした仕事における「境界のゆるさ」はどんどん拡大されていく。
まず日本人は仕事とそれ以外の時間をあまりわけない。国勢調査かなんかのアンケートに出ているが、日本人の人生の優先順位のトップにくるのは「仕事」だ。その意識がトリクルダウンを起こした結果、「仕事外の時間も仕事の話をしてもいい」という変な慣例ができる。
たとえば、「飲みニケーション」といわれるものがそれだ。日本企業で働く外国人はよく「ニホンジンは飲み会で業務に関する重要な情報交換を行うカラずるいデース」と愚痴る。そう、業務時間外に仕事の話をしあうのは彼らにとって「ずるい」のだ。一時期の喫煙室なんかもそうした役割を担っていた。
そして残業。サービス残業。これについての説明は不要だろう。文字通り、自分の時間を会社のために捧げているのだ。タダで。
こうした仕事と人生、公私の境界線がゆるゆるになっていった結果、さらりまんたちの倫理もメルトダウンしてくる。
彼らはニコニコ動画や youtube にあげられているちょっと面白い専門技術を持った面白い人々の動画を見て、あるいは pixiv のイラストなどを見てこう思う。
「この人たちは『親切で』こういう面白いものを公開してるんだ。良い人たちだなあ」
そこに奴隷を収奪するプランテーションオーナーのような攻撃的意識はない。むしろ、彼らはプロフェッショナルに「好意」を持って「讃えて」いるのだ。
そこには「この人たちは『たまたま』特別な才能や技能を持っていて、そういうものがあるんだから当然『親切』で芸を提供してくれるよな」という考えが底流にある。「尊敬」などはない。あったとしても「技能」ではなく、「態度」や「生き様」などといったその人自身の人間性に対する部分への尊敬だ。
日本の「芸」は大道芸人だから〜「芸」は自分でも習えるから「芸」なのだ〜などというなまっちょろい歴史解釈的説明づけなど及びもつかない残酷さがここにはある。日本人の「プロに金を払わない主義」は間違いなく近代日本社会が、私達が作り上げ是認してきた監獄なのだ。
私たちは根本的な錯誤をしている。プロは「誰にでもできること」を「助け合い」のために使う人間ではない。「誰にでもできるわけじゃないこと」を「報酬」のために行使する人間のことだ。言葉で言えばまるで簡単だし、誰でも表面上は「そりゃそうだ」と思うかもしれない。でも、日常的に誰しもがプロをプロとして扱えるように振る舞えるわけではない。わかっているはずなのに。わかっているはずなのに。わかっているはずなのに。なぜだろう。なぜそうできないんだろう。
社員教育システム、そして仕事に対する倫理観を根底から変えないかぎりこういう悲劇は今後も続くし、「プロ」は永遠に軽視されつづける。そしてこの国において「◯◯しないかぎり」という言葉は暗に「未来永劫実現しない」という意味を含んでいる。つまり、これが日本だ。がんばってはたらいていこうな!
id:blueboy さんがこんなブコメを書いていた。
女性の社会進出はだいたいどこも男より能力が高い高学歴女性が声を上げ始..<script src="https://b.st-hatena.com/js/comment-widget.js" charset="utf-8" async></script>増田は馬鹿すぎて話にならないから、比較生産費の概念を勉強しろ。男と比較するんじゃない。女が働くかどうかが大事。女が働かなければ、男が二人分働いて、ブラック労働環境になるしかないんだよ。それは日本だけ。2015/05/17 22:13
それで疑問に思ったのだけれど、比較生産費説を用いれば女性の社会進出で労働環境は改善され、少子化などの影響は無いのだろうか。
まず比較生産費説というのを再確認すると、比較優位に特化して全体最適を図りましょうというのが比較生産費説。
簡単なモデルを使って、2つのパターンを考えてみたのだけれど、どうも分からない。
1つ目は社会の仕事の量が不変の場合、4人の人がいる。労働に比較優位がある男女1人ずつと、育児に比較優位がある男女が1人ずつ。
このときに、本当は前者の人が労働を、後者の人が育児をすればいいわけだけど、社会進出が進まない場合、労働優位の女性が育児に、育児優位の男性が労働に行くことになる。
仕事の量が不変であれば、女性の社会進出が進んだ社会は進んでいない社会よりも労働時間は減少する。
この場合の問題は、労働と育児を足した全体での生産は効率化されるが、その内訳は分からない。
理想的な例で言えば、労働優位と育児優位の両者がくっつけばいいが、労働優位と労働優位、育児優位と育児優位がくっついた場合、誰が育児優位の家庭の生活費を見るのか。
そして二つ目の例は、社会の仕事の量が可変である場合。つまり、効率化した仕事分は無限に増え続ける場合。
この場合は労働環境の改善はなされない。50年前よりもGDPが増えたにも関わらず、仕事量が減っていない。
仕事は無限に増え続けるが、育児の量が無限に増え続けることはなく、両者の間で労働量に差が生まれる。
この場合では労働優位の女性が男性に変わってブラック労働をしているだけなので、労働優位の女性の分の出産が減ることになる。
なんだか雑な感じになってしまったけど、比較優位で社会がよくわからないので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。
馬鹿でごめんね。
追記
1社会の必要量が不変であれば、効率化したぶん失業者が出るということ。
2社会の必要量が増え続ける場合でも、アフリカのプランテーション経済みたいに経済が二極化してしまうということ。
ところで、この映画は相当不穏。
オープニングで、長距離を飛んで来た巨大なバナナのオブジェが、パン工場に打ち込まれるところから話が始まる。
危うく名犬チーズが死にそうになったが、どうやらこれはバナナ島の郵便らしい。中にはお祭りへの招待状が一枚。
住民総出で遊びに行くことになるのだが、一行はお祭りの準備を手伝うため、先行する。
そのころ、バナナ島では沢山の人に来てほしいことから、世界中にドンドコ大砲を撃つ。もちろん招待状付オブジェだ。
ちょっと待て、当たり前に流すな。
他国に向かって大砲を撃てば、十分な開戦の理由になる。でも、作中はみんな気にしない。
さて、このバナナ島、住民は腰蓑まいた裸のバナナ人間なのだけど、どうも裕福には見えない。
この辺り、トロピコというか、バナナ共和国としてちょっとリアル。
名産品はバナナ、というかバナナ以外の産業は皆無らしく、工業力も(住民の生活に関しては)低い。
プランテーションというか、モノカルチャーというか、経済的にはあまりよろしくない。
作中、バナナ島に急激な冷気が流れ込み、バナナが軒並み枯れてしまう。
その後、紆余曲折を経て、冷気の元凶は氷鬼という巨大な怪物だと判明。
バナナ島の住民は大砲でバナナの巨大オブジェ型爆弾(!)を発射。
それは、島外の人間の前では駄目だろ。
いろいろあってフレイザードに似た感じの氷鬼を撃破して島は(一度枯死したバナナの森がなぜか)元通りになりました。メデタシメデタシ。
ううん、通常回の方がよかったな。
事実と真実ですれ違っているというが、そもそもの命題の設定の仕方が間違っているとしか思えん。
例題の「ワシントンの斧」に関して言うならば、
命題を「ワシントンの斧という寓話は真実であるか否か」とするなら、
アメリカに桜が上陸したのは1909年12月。ただし、この時は害虫被害が懸念されてすべて焼却されており、現在DCとかニューヨークで見られる桜は1912年3月に運ばれたもの。 ワシントン幼少時(1730~40年代)には桜の木は当然無い。 これを根拠に否定する輩もいるのだが、英文では"English cherry tree"となっている物があるのでおそらく、桜桃だと思われ、これなら17世紀にはイギリスからアメリカに持ち込まれている。 ワシントンの家は黒人奴隷プランテーションを経営していたので、桃桜があっても格段不思議ではない。 また、海外の挿絵等では背景が農場に見えるものも多く日本で翻訳した時点で相当意訳されてしまっており日本語訳を元に審議を見定めるのは難しい
となるわけで、これは事実の積み重ねだから、認識の違いは起こらないと思われる。
また、「これが子供の思想形成にどのように影響していくか?」という命題に関しても、
寓話を読み聞かせるのは容易いが、子供は大人の行動から物を学ぶのであり、実際の大人が寓話に反した行為を行っている場合には悪い影響を与えるだろう。 事実、アメリカにおいても、"George Washington's axe"は、先祖代々伝わる由緒ある斧だが、刃は錆びたので交換し、柄は古くなったので交換した。 というジョークとなり、「あれこれ取り替えて元が残ってない様子」を示す慣用句として使われてしまっている。 また、「正直に物事を話した方が良い」という事を説明するための寓話は他にも多くあり、「ワシントンの斧」は内容の短さ、状況の簡潔さから反論性が高いため、他の寓話を選択した方が効果はあるように思える。
と、相手に状況を確認してもらって進めれば、一方的な擦れ違いは起きないだろう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/ikedanob/status/60707908484214785
お前らブチキレしてるが、実際先進国はこれまでもそういうことをしてきたし、これからもそういう事し続けるよ?
君らの怒りはエクスキューズにはならないんだけど、わかってるのかなあ?
「今まで知りませんでした」も免罪符にはならないし、君らは途上国の森林を焼き払って作ったプランテーションで栽培された食べ物を口にするだろ?
ホント笑っちゃうよ君たちの偽善は。池田信夫は今回に限ってはデマでも何でもなく真実を口にしたんだけど、鹿目まどかなみなさんには厳しい現実だったかな?ww
しかしだなぁ、いわゆる「先進国」に生きている以上、
何を買っても、何をしても、どうやったって同じことだよ。
私たちはそういう犠牲の上に豊かな生活をしているという感謝を忘れてはいけないけれど、
しかしそれを避ける生活は、もはやできない。
いま、あなたが飲んでいるコーヒーには、プランテーションで働く子供たちの汗と涙が、
いま、あなたが飲んでいる紅茶には、プランテーションで働く子供たちの汗と涙が、
いま、あなたが食べているカップヌードルのエビには、養殖場&皮むき場で働く子供たちの血と涙が、
いま、あなたが使っているマウスには、東南アジアの向上で働く娘さんたちの涙と汗が、
・・・
この辺でやめておこう。
http://www.youtube.com/watch?v=BfB3ZTL3RTw
http://acejapan.org/modules/tinyd8/
「殴られるのは生活の一部。ココアの袋を担がされて、落としてしまっても、
誰も助けてくれない。もう一度担ぎ直すまで殴られ続ける。」
以前、カカオのプランテーションで、奴隷として働かされていた少年の言葉です。
あなたの愛はチョコレートを渡さなければ伝えられないものなのですか?
そもそも甘いものが好きではない人も多い男性に増してバレンタインにチョコレート
あなたは企業戦略に乗せられて子供達の犠牲のもとに愛を甘受するのですか?
それは子供達を殴ってる農場主と同じことをしています。
バナナ!
食べる前から好きだったんだ!
好きなんてもんじゃない!
バナナの事はもっと知りたいんだ!
バナナの事はみんな、ぜーんぶ知っておきたい!
バナナを抱き締めたいんだァ!
潰しちゃうくらい抱き締めたーい!
心の声は心の叫びでかき消してやる! バナナッ! 好きだ!
バナナーッ! 愛しているんだよ!
ぼくのこの心のうちの叫びを聞いてくれー! バナナさーん!
八百屋で見かけてから、バナナを知ってから、僕は君の虜になってしまったんだ!
愛してるってこと! 好きだってこと! ぼくに振り向いて!
バナナが僕に振り向いてくれれば、ぼくはこんなに苦しまなくってすむんです。
優しい君なら、ぼくの心のうちを知ってくれて、ぼくに応えてくれるでしょう
ぼくは君をぼくのものにしたいんだ! その美しい皮と美しい中身を!
誰が邪魔をしようとも奪ってみせる!
害虫がいるなら、今すぐ出てこい! 相手になってやる!
でもバナナさんがぼくの愛に応えてくれれば戦いません
ぼくはバナナを抱きしめるだけです! 君の果肉の奥底にまでキスをします!
力一杯のキスをどこにもここにもしてみせます!
キスだけじゃない! 心から君に尽くします! それが僕の喜びなんだから
喜びを分かち合えるのなら、もっとふかいキスを、どこまでも、どこまでも、させてもらいます!
便乗するよ。
1999年に、コーヒーの価格が大暴落して、現地の生産者は今かなり生活が苦しいらしい。
『バール、コーヒー、イタリア人』(isbn:9784334033965)第8章「コーヒーの経済学」より引用すると、
これは過去30年で最低の相場価格で、生産者たちにとっては、これでは、とてもではないが食べていけないというぎりぎりの価格だった。
世界中に警告が発せられ、フェアトレードなど草の根運動も活発になったが、現在まで、この状態はほとんど回復していないという。(上掲 p176より)
コーヒー豆の生産量の約7割は、巨大なプランテーションではなく、10ヘクタール以下の小さな農家の手になるもので、ほとんどが1-5ヘクタールの家族経営だという。
世界中に2500万人ともいわれる、そのような小さなコーヒー生産者たちの悪夢は、1999年の相場価格の大暴落によって、いっそう深刻なものとなった。
ニカラグアでは、農夫たちがプランテーションを追われ、グアテマラでは、男たちがメキシコなどに出稼ぎに出たため、家庭崩壊を招き、子どもたちが学校に通えなくなった。
また、コロンビア、ペルーなどアンデス山脈の地域では、コーヒー栽培からまったく収益が見込めないことから、密かにコカ(南米原産のコカの木。高山病に効用があり、地元では茶として親しまれているが、葉からコカインがとれるため輸出は合法化されていない)の栽培に切り替える農家が増えているという。
さらにコーヒー原産国といわれるエチオピアでは、コーヒー危機によって、世界最貧国としての地位が確固たるものになり、医療費不足から、エイズやマラリアが蔓延した。(上掲 p177より)
なぜコーヒー豆の大暴落が起きたかについては、説明が難しいの引用元の本を読んで欲しい。問題は、この状況が今もって回復しきっていないということ。
こういう問題をコーヒー愛好家は見過ごしてはならないと思う。俺は経済学に詳しくないからどうすれば生産者たちの生活を助けられるか分からない(教えて、増田民!)けれど、自分が今飲んでいるコーヒーは彼らの苦しい生活に支えられているんだということはいつも忘れないようにしている。そして、いつか彼らの生活を助けるような活動に参加したいと考えている。
それが本当にコーヒーを愛するということだと思う。