はてなキーワード: セーラー服とは
彼女はコートなのかワンピースなのか何なのかよくわからない物を着ていた。
セーラー服のように肩から背中に垂れ下がった布切れには両側の隅に十字架の切り抜きがなされていた。
素材はフェルト。そのモコモコ感を童貞はガーリッシュだと思い込む。
こんな不穏なオーラを発する服を着込んで街を闊歩する輩など童貞殺し以外にはいないだろう。
頭頂部から肩にかけて華厳の滝の如く真っ逆さまに降ろされた童貞殺しの髪は、
僕は漆黒のその髪からちらと見える顔から目が離せなくなっていた。
化粧っ気のない、地味な顔。
いや化粧をしていてもパッと目立つようなタイプではない。あっさりとした顔立ちである。
だがしかし均整の取れた造形ではある。
僕はまじまじと彼女の顔を観察する自分に気がつき驚きおののく。
童貞殺しは童貞に飽き足らず素人童貞である僕まで魔の手にかけようとしているのか?!
駄目だ。このままこの人を見つめていては駄目だ。
そう言い聞かせ僕は目線を逸らして下車する駅まで待った。
視線の先には190cmはあろうという長身に女子中学生のそれ程の大きさしかない頭部がのっかった、
それまで自分が乗っていた車両は童貞殺しを乗せたまま隣町のほうへ発車してしまった。
童貞殺しは多分明日も童貞を殺し、オタクどもが集ったサークルという名のまやかしを崩壊させる。
Aesthetics of Destroy
そんなことを思いはせながら改札を通ろうとすると横から割り込む若い男が。
何だと舌打ちしてその姿を見て僕はこう思った。
大学4年生。春からは院生。専攻は言ったら特定されるくらいニッチな分野。日本語の関連論文探したらうちのゼミの卒業生の名前ばっかり出てくる。バイトは2つしてる。春からは減らしたいけど。正直言えばもう今だって減らしたいけど。
これが現状。
今学会の準備とか論文の執筆とか(まだ慣れなくてひとつの文書くにもすごく時間をかけちゃう。早くたくさん書けるようになりたい)資格試験の準備とか(指定科目の単位を取れば受験資格がもらえるよ系のやつ。かっこいいから取るけど正直将来は履歴書の資格欄を埋める以外の役には立たなさそう)、あと引越しの準備で非常に忙しい。これだけならまだマシなんだけどこれにバイトが2つ捻じ込まれてる。増田眺めてほーんとか言ってる場合じゃない。けど、どうしても論文以外の文章を書きたい気分だし書かなきゃずっと考えっぱなしになっちゃうから書く。
未就学時の幼いわたしへ。
きみはどうしようもないブスだ。親はブスと言いつつも可愛がっていいブランド服とか着せてくれるけど豚に真珠とはまさにこれ。馬子にも衣装とすら言えない。祖母は「整形すれば大丈夫よ」とか言う。大丈夫じゃねえよ。
でも、案ずるな。成長とともに自然にマシになるから。今だって美人とは言えないけど、平均的な女の子って感じの顔立ちにはなれてる。高校に上がる頃から親とかも「あんた可愛くなってきた?」みたいになるから。案ずるな。
それから、2歳の頃にあなたは自主的に公文に行きたいって言い出して親に通わせてもらってたけど、それはめちゃくちゃ英断。2歳でその英断ができるあなたは神童。結局あなたは高校2年くらいまでずっと公文を続けることになるし、そこで培った学力だけでなく、継続したという事実が今のわたしを形作っている。
でもな、将来の夢「りんご」って、お前りんごにはなれねえよ。椎名林檎だってまだデビューしてないだろ
過去の一時期まで、わたしはずっと小学生の頃が人生のピークだと思っていた。そう思っていたくらい、小学生のわたしの生活は充実していた。そのまま元気に生きて。でもね、ピアノはもっと楽しく弾いていいものだし、楽しく弾けるまでは苦しいけど、もうちょっと努力してもよかったんじゃないかな。あと、男の子にもっと優しく接してあげなさい。かわいそうでしょ。噛んだりしちゃだめ。
髪、伸ばした方が可愛い気がするよ。あともうちょい痩せろ。デブまではいかないけど、いや、やっぱデブかも。あと3kg落とすだけで大分よくなるよ。体育が苦手で辛かったね。高校に入ったら周りが似たり寄ったりの運動音痴だらけになって体育が楽しくなるからちょっとだけ我慢しな。
今になって思い返すとあなたは友達がほとんどいなかったし、時々嫌がらせとかされたりしてうわぁって感じだけど、そのことで一切気に病むことなく、ひとりでも明るく生きてたのは本当にすごい。でも、授業中に授業内容を理解してるわけでもないくせに関係ない私語でギャーギャー騒いだり生意気な口を聞く子たちが本当に嫌いで心底死ねと思っていたよね。その嫌いな気持ち、死ねと思う気持ち、口や行動に出すべきではないけど、でも、大切にしてね。そういう尖った感情も、成長につれて抜けてしまうもののひとつだから。今、わたしは偏差値でいうと10〜50くらいのアホな中学生の面倒を見るバイトをしてる。彼らはまさにあなたが嫌いな子たちと同じ雰囲気を纏っている。うるさい。でも、わたしはあの子たちが可愛くて仕方ない。年上の余裕ってやつかもしれないけど。ウザい死ねと本気で思えるのは今のうちだけだから、精一杯憎みなさい。
つらいことがあります。どうしようもないことです。でも、少しだけ。もう少しだけ、あなたに行動力があれば、同じ結果でもまだマシな気持ちになれたかもしれない。いずれにせよ、その出来事は避けられません。あなたはしばらくそれを引きずる。でも、あまり悲しみすぎないで。忘れないでいることは大事だけど、ずっと覚えていることはずっと悲しんでいることではない。あまりにも大きすぎて周りが見えなくなっているかもしれないけど、あなたの周りには素敵なものも楽しいことも溢れている。それも、忘れないで。セーラー服で自転車に跨るのが楽しかったこととか。セーラー服で自転車なんて、高校生のときにしかできないサイコーにキラキラしたやつだから、存分に走り抜けてね。坂道キツくてヒーヒー言ってると思うけど、まあそのうち慣れるよ。
あと、海辺は風が強くてすぐスカートがびゃーってなるから、ちゃんと中にスパッツなり短パンなり履きなさい。
あと、勉強、サボらないでよね。あなたのおかげで今のわたしはハチャメチャ苦労しています。そんなんだから第一志望落ちるのよ。でも、あとでいろんな意味で落ちといてよかったって思うようになるから、それはそれでまあいっか。
初めての一人暮らし、慣れないことだらけだろうとは思うけど、ちゃんと部屋の掃除とかしてね。第一志望ダメで後期滑り落ちてきたところに進学したからって、あんまり腐らないように。ここにも面白い学問がたくさん転がっています。やりたかったことへの道が閉ざされたからって盲目にならないように。そもそも道を閉ざしたのは己の勉強不足なんだし。
途中、突然鬱病になります。腕はずたずた、酒に溺れ、暗い部屋に一日中引きこもって動けなくなります。鬱になることは仕方ないとして(?)、現実的なアドバイスをしておくと、剃刀とかカッターでのリスカはやめといたほうがいい。明らかにうわっリスカ痕じゃんみたいなのが残る。まあ時間が経てば綺麗になるけど、それでも近くで見たらまだわかっちゃう。じゃあ何ならいいのかっていうと、百均でノコギリ買ってきなさい。それで、ギコギコしちゃだめ。腕に叩きつけろ。簡単に流血するし、皮膚が切れるだけじゃなくて単純に打撲の衝撃も加わるからダメージは大きいけど、百均クオリティのおかげで傷は深くならないし、一つ一つの傷が小さい点だから治りが圧倒的に早い。治ったあとも綺麗。ノコギリを使いなさい。
そのうち、目が覚めます。
自分が自分の人生の主人公であることを思い出して、主人公らしく生きてください。
いいところとだめなところを挙げていったらだめなところのほうが多い人間ではあるけど、それでも、わたしはあなたを愛しています。これからも愛し続けられることを望んでいます。
あれもポリコレ、これもポリコレ。こんなに沢山のポリコレ棒で殴られてるぅー。
でもそれ、ポリコレじゃなくね?
「ある表現において、ある集団に対して不利益を与えたり攻撃的だったりする言論・態度が含まれないこと」
ほんじゃどんな使われ方してるか見てみよ
まずこれ
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20161109215129
id:kasugano 「発信者の意図がどうであろうと受け手がヘイトと感じたらヘイトだし差別と感じたら差別」がいつものポリコレ理論だった。ならこの人が脅迫と感じたら脅迫でしょう。なのに被害妄想扱いして一蹴するのは最低だよ。
そも、ある言動が差別(ヘイト)か否かってのはポリコレ以前の問題。
ポリコレはヘイトや差別を定義するものじゃなく、むしろ定義された後、それが表現に入っているか否かを示すもんだ。
なお、差別において「被害者が差別と思えば差別」なる定義はない。そんなこと言ってる奴がいたら間違いだと言ってやれ。
お次はこれ
ttp://anond.hatelabo.jp/20161112082205
まあ、要するにキャップがホモだって設定に変更してくれって話だ。もう、本当にうんざりしたんだが、これがトランプのいう「過剰なポリコレ」のひとつだ。
キャップが異性愛者として描写されることはポリティカル・コレクトだもの。
キャップの異性愛描写は、同性愛者なり他の集団なりに何らの不利益を与えず、攻撃的でもない。
何?インコレクトだって言ってる奴がいた?そいつはバカだ。ほっとけ。
今度はこいつ。どちらかと言えば親ポリコレ?でも議論がクッソ雑
ttp://anond.hatelabo.jp/20161111105121
「今までポリコレ棒で叩かれてたオタクがポリコレに守られてるわけねえだろ、反ポリコレになって当然だ」ってのは違うって。
「ポリコレがオタクを殴る」ってのは、ソフ倫の「近親相姦や獣姦禁止」とか、コンビニエロ漫画の「ランドセルやセーラー服は禁止」の方だよ。
駅乃みちか辺りの話は、「オタクが棒を所構わず振り回しだしたので、それで殴られるやつがいるからやめろ、と、棒を取り上げられた」って話なんだよ。
どこにポリティカル・インコレクトな要素あるわけ?しかも業界の自主規制でしょうが。
いったいぜんたい、誰に攻撃的で、誰に不利益与えてるわけ?どこに差別要素が?
てかそもそもエロ叩くとポリコレ扱いって何?皆さん、「エロは差別的」って受け入れてますのん?
エロが差別ってんなら、そらエロ漫画なり何なりポリティカル・コレクトに反してるけども、そんなコンセンサス、あります?
3例だけでごめんねー。でも他も概ねこんなもんよ。
「今までポリコレ棒で叩かれてたオタクがポリコレに守られてるわけねえだろ、反ポリコレになって当然だ」ってのは違うって。
「ポリコレがオタクを殴る」ってのは、ソフ倫の「近親相姦や獣姦禁止」とか、コンビニエロ漫画の「ランドセルやセーラー服は禁止」の方だよ。
駅乃みちか辺りの話は、「オタクが棒を所構わず振り回しだしたので、それで殴られるやつがいるからやめろ、と、棒を取り上げられた」って話なんだよ。
自分が持ってたはずの棒を他人に取り上げられたから、「あの棒で俺を殴る気だ!」って言ってるだけのことだ。
棒を振るなって言われたら「じゃあ、この棒はどこで振っていいのか。誰に向けてなら振っていいのか」をちゃんと突き詰めて、お互いに気持ちよく傷つけ合わずに好きな棒を振れる距離を見出さなきゃいけないのに、「その棒、こっちに当たりそうなんですけど」「じゃあ、もう棒振らない……」って逃げちゃうやつが悪い。
「そうか、この棒はお前の前髪掠ってるか。じゃあ、これくらい短めに持っておこう。代わりにあっちの空いてるスペースは、お前に当たらないから好きに振る」そういう話をちゃんとしていかなきゃいけない。
でも、「どこででも好きに棒を振り回していい」という状況に慣れきってた奴らは、それが出来ない。話し合うのがめんどくさい。というか、話し合う方法が分からない。
オタクは別に好きなように棒を振り回してない? むしろ、振り回さないように遠慮してた?
それは違うだろ。最近はちょっとマシになったけど、エロゲブーム末期の秋葉原はすごかったぞ。大通り沿いに平気でスジ晒した幼女のポスターが貼ってあった。
でも、それはそれで正しい(大通り沿いはどうかと思うけど)。秋葉原はオタクに特化した街で、そういう表現を好む人間が好んで集まる場所だから、そこではそれがメジャーなのだ。
そう、メジャー。秋葉原のノリはマイノリティのノリじゃなくてメジャーのノリ。
マイノリティがマイノリティとして、メジャーとの距離感を図る表現じゃなくて、メジャーがメジャーとして、それ以外の表現を駆逐する表現。だから、よそに持ち出した時に「お前、それはちょっと待てよ」と制止がかかる。
ゲイタウンでは、ムキムキマッチョが小さいパンツで股間をモッコリさせたセクシーポスターがいくらでも飾ってある。そういうのはゲイタウンの外では滅多に見ない(意味もなくビキニ姿な女性の広告はいっぱいあるけど)。
しかし、年に何回か、ゲイパレードではそういう人たちがみんなの前に出てくる。普段はみんなの目に触れないけれど、こう言うふうに暮らしている人がいます、という『自分の権利』を主張するために出てくる。
おネエタレントがいる。おネエと呼ばれる中には、ただのゲイもいれば口調が女っぽいだけのノンケもいるし、トランスセクシャルもいて、それが一緒くたになってる。
性転換手術済みのMtFでも、いっしょくたに「女みたいな格好したおっさん」として「きもーい」と扱われる。
「そう扱われるのは嫌じゃないですか?」というインタビューに「本当は女性タレントと同じように扱ってほしい。でも、今はまだそういう時期ではない。自分の次の世代からは変わっていくと思う」と答える。
隠れた場所で独自進化したものが外に出ていくときは、「どこまで受け入れてもらえるか」手探りで、全部を最初から受け入れてもらうのではなく、自己主張と融和を繰り返して「どこが中立か」を探っていくものだと思う。
それをせずに、いきなりどこででも秋葉原ノリで棒を振り回しだせば、「きもい!」と同じ棒で叩かれて当然だわ。
今までは意味もなくビキニ姿の女性のポスターが、街中のどこにでも貼ってあった。それは、そういう広告を出展するメジャー勢力であるおっさんが振り回してる棒で、その棒に殴られてた人が「すいません、今まで社会的立場が弱かったので黙ってましたが、もうそういうのやめてください」と言いだす。
そして、「少なくともビキニや下着姿である意味のない広告はやめよう」「そういう広告にするにしても、おっさんだけでなく様々な立ち位置の人に良い印象を与える表現にしよう」と『中立』を探っていく。
ビキニで胸の谷間を強調するポスターがどこにでも貼ってあったおっさんからすりゃ、窮屈で意味不明だろう。「女は露出して胸を寄せて男を楽しませるべきものなのに、なんで遠慮しなきゃならないんだ」って平気で言う。自分が振り回してた棒を取り上げられて、「みんなが俺の価値観を攻撃する!」と泣き喚く。
ビキニ姿の女性を、上司に無理やり酒を飲まされる若い社畜に変えても同じだよな。
ポリコレ棒はターン制ってのは正しい。棒を取り上げられたやつらは、その棒を取り戻してまた相手をボッコボコにしていく。
だから、これからはポリコレ棒を振り回してくるやつも全く容赦しなくなるだろう。お前らの息を完全に止めるまで、自分たちは棒で叩かれるって分かったわけだから。
エロゲー批評空間(https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/)には“なりそこね”というタグがある。名作になりそこねたという意味だが、それに倣うなら神回になりそこねた4話だった、ということになろうか。
映像や演出は本当に素晴らしかった。みぞれの頬に落ちる優子の涙、みぞれを暗がりから光の射す場所へとすくい上げる優子、希美の「きゅーん、としてさあ」に撃ち抜かれるみぞれなど判りやすい箇所は言うに及ばず、心情を映し出す表情や、そんな顔をあえて映さず手元の動きで表現するカットなど、画面からにじみ出る感情の豊穣さに圧倒されっぱなしの30分だった。
が、それでもなお神回には届かなかったという結論は変わらず、そしてそれは原作に横溢していた残酷さが意図的にオミットされていたからに他ならない。
一期からアニメを見てきた視聴者には明白だが『ユーフォ』は残酷さを多分に含んだ物語だ。努力してきたのにパート演奏を外れるよう指示された久美子に、後から入ってきた一年に最後のコンクールのソロパートを奪われる香織。特に香織は、かつての“楽しい思い出づくり”という部の方針によって実力上位にも関わらず上級生へとAメンバーを譲ってきた過去があり、最後のコンクールには期するところがあった。しかし新顧問の滝と決めた“全国大会出場”という目標に従って新入生の高坂麗奈がソロパートを吹くこととなった。
どんなに努力をしても席には限りがある。それに自分が座れるとは限らない。『ユーフォ』はそういう物語だ。
そして原作2巻、アニメ『ユーフォ2』では「コンクールってなんだろう」ということを通してソレを照射する。
2巻のメインキャストのひとりである鎧塚みぞれはコンクールに否定的な考えを持っていた。
「私は嫌い。けっきょく審査員の好みで結果きまるでしょ」
「でも、そういうのなんとなくしかたないかな、って……思っちゃってます」
「しかたない? たくさんのひとが悲しむのに」
「すみません……」
「私は苦しい。コンクールなんてなければいいのに」
はたまた吉川優子は「納得いかないことが多いのは確かなんじゃない。でも、結果がよかったら納得できる。今のあたしたちみたいにね」と前置きして言う。
「みんな夏休みを潰して練習してる。けどコンクールは優劣をつける。(中略)努力が足りなかった、劣ってたってことにされちゃう。超理不尽でしょ。(中略)ただ、去年みたいにみんなでのんびり楽しく演奏しましょう、っていう空気がいいかというとそんなことはなかった」
そして高坂麗奈はこう言う。
「よく音楽は金銀銅とかそんな簡単に評価できないって言うひとがいるけど、あれを言ってもいいのは勝者だけだと思う。下手なひとが言っても負け惜しみでしかないと思うし。だからけっきょく上手くなるしかないと思ってる。それに、たくさんのひとに聴いてもらえる機会ってそんなにないから。……わたしは好き」
三者三様ではあるが、ここで浮き彫りになるのはコンクールは演者の積み上げてきた努力や感情に対し残酷に優劣をつける場ということだ。それに傷つく者もいれば、上手くなるしかないと思う者もいる。どちらが正しいとかではなく向き合い方の違いだが、いずれにせよ久美子たちが立ち向かっているコンクールはそういう残酷さを孕んでいる。
『ユーフォ』における残酷さの表現はそれだけにとどまらない。むしろ#4に関してはこっちが本論にあたる。それが鎧塚みぞれと、過去の部員大量退部事件の際に吹部を辞めた傘木希美の軋轢だ。
軋轢といってもみぞれが一方的に感情をこじらせているだけで、希美はそれに気づいておらず今も仲の良い友人だと疑っていない。しかしここではそれに気づかれてさえいないというところがみぞれの絶望をより深くする。
オーボエ奏者である鎧塚みぞれは内向的な性格で友人がほとんどいない。そんな自分に声をかけ、吹部へ誘ってくれ、日々を楽しいモノに変えてくれたかけがえのない友人が傘木希美だ。だが希美は中学のときに吹部の部長をやるだけあって友人が多く、みぞれはその中のひとりにすぎない。だから上級生と揉めて吹部をやめるとき、みぞれに相談はおろか報告もしなかった。希美が辞めたことを、みぞれは上級生に訊ねて初めて知った。みぞれは希美の中における自分の存在の小ささに酷く傷ついたのだ。しかし、そのことはどこまでも希美に伝わらない。原作から引用する。
「もしかして、それでハブられたとか思わせちゃった? ちゃうねんで、そういうんと全然。みぞれのこと嫌いとか、そんなんじゃまったくないから! ごめんな、勘違いさせちゃって」
(中略)
「勘違いなんて、してない」
この断絶!
みぞれは自分の中の希美と、希美の中のみぞれの大きさの違いに傷ついている。その差の大きさに泣きそうになっている。しかしそんなみぞれの感情は、これっぽっちも伝わらない。
「うん。大丈夫」
みぞれはそう言って、わずかにその目をすがめた。よかったー、と希美がはにかむような笑みをこぼす。その光景に、久美子は静かに目を伏せた。きっとこれから先、みぞれの抱える想いを希美が知ることはないのだろう。そう考えると、舌の裏側がざらりとした。
そばでそれを見守っている久美子には、ふたりの温度差が見えている。が、この歪みはアニメ版からオミットされてしまっていた。
理由はいくつか考えられるし、興味もあるが、ここでそれは論じない。この残酷なシーンには何の意味があるのかということについて考えたい。
ところで原作を読めばこの場でもっとも残酷なのはみぞれだ、というところにだいたい落ち着くと思う。
アニメでもがっつり描かれたが、暗闇でひとり膝を抱えるみぞれを光の射す場所にすくい上げたのは他でもない優子だ(ちなみにみぞれ、希美、優子、夏紀は同じ南中出身で、前者の3人は吹部だった。最後の府大会でまさかの銀賞を取ってしまい、高校では絶対に金賞を取ろうと約束している(いちおうアニメ版でも僅かに入る回想でそれが判るようにはなっている))。
優子はみぞれに友人として強い好意を持っていた。しかし「だって、私には希美しかいないから」と言われてしまう。「そしたら何! みぞれにとってあたしは何なの!」と優子は怒るわけだが、原作は一歩進んでえげつない。
「きちんと話してみ」
「え、でも、」
優子は力強く断言すると、ずいとみぞれを希美のほうに差し出した。みぞれがうろたえたように視線をあちらこちらに巡らせる。彼女の細い指が、落ち着きなさそうに優子のセーラー服の裾をつかんでいる。希美はそれに視線を落とし、一瞬だけ切なげに目を細めた。
(中略)
みぞれは希美との話し合いの最中、優子にすがっていた。しかし希美との和解が成るや優子から手を離すのだ。アニメ版であすかが穿ったことを言うのはこのことを指している。
さらにみぞれは「もしよかったら、練習付き合ってくれる? 私のソロ、聞いてほしい」と希美に言う。希美から言い出すアニメ版とは逆なのだ。
手を伸ばさない希美に、気を良くしたみぞれは自分から手を伸ばす。
この時、自身をすくい上げてくれた優子の手を、みぞれがもう片方の手で握るなんてことはない。優子はどこまでも置いてけぼりにされる。
「私は嫌い。けっきょく審査員の好みで結果きまるでしょ」
「しかたない? たくさんのひとが悲しむのに」
「私は苦しい。コンクールなんてなければいいのに」
かつてコンクールが持つ残酷性を批判し希美が持つ無邪気な残酷さに涙したみぞれは、希美との形ばかりの和解に舞い上がり、かつて自分が受けた傷を優子につけるのだ。
香織の一番にもなれず、みぞれの一番にもなれない優子。彼女がこんどは残酷さの犠牲となるのか。いや、違う。
夏紀のひとことが優子を救う。
https://i.gyazo.com/7f157970e8ac9305555ba6c672244440.png
希美に向けてみぞれが満面の笑みを見せたとき、その後ろで優子はどんな表情を浮かべていたのだろう。
おそらく。
おそらく夏紀はそれを見ていたはずだ。優子の胸のうちに想いを馳せたはずだ。だから優子の行動をちゃんと報いたのだ。
残酷さの果てには哀しみだけが待っているんじゃない。心でつながっている友人が、あるいは神様がちゃんと見ていてくれて報いてくれることだってあるはずだ。残酷さの先にあるのは希望なのかもしれないのだ。
原作が描ききった残酷さの向こう側。それを零してしまったTVアニメ『響け!ユーフォニアム2』#4。
できれば攻めきってほしかった、そう思った。
水兵さんの恰好させれば、女生徒に欲情する人は居ないだろう…。
そう考えて作られたのがセーラー服と聞いて、男の性欲は業が深いと思った。
今回はとなりのヤングジャンプ
前回は運動神経のすごさも描かれていたし、あんまりそういうすごさを人格から感じさせないが、主人公って実はめちゃくちゃスペック高いんだな。
だが、セーラー服が着れると思っていたら、今はブレザーが制服だったとは。
そういうの調べたりとか、あらかじめパンフとかに書かれていたりするもんじゃないのかなあ。
気恥ずかしさはあったが、母親に仕立ててもらったセーラー服だし、学校側からも許可が出たということで着ていくことを決心したと。
まあ、本人の意思を尊重すべきなんだろうけれども、周りと目に見えて違うってのはイコール「目立つ」ってことになりがちで。
そして世間一般の社会において「目立つ」ってのは基本的にいい意味では扱われないんだよねえ。
いや客観的に見た場合、是非もなにもあったものじゃない理屈なんだが、やっぱり今後の主人公がどうなるか不安になるなあ。
それにしても、キャラクター(特に主人公)の表情や動きの描写を、すごい丁寧にやるなあ(丁寧すぎる気もするが)。
セーラー服に着替えるシーンにおよそ5ページだぜ。
いや、ある意味でテーマ(というかタイトル)に沿った構成なんだけれども、あんまり「そういう部分」を過剰にやられると個人的にヒいちゃう性質なんだよね。
うーん、イマイチ。
特に主人公が終始なし崩し的なまま行動させられたのが失望感が拭えない。
ここは2020年夏の東京、新国立競技場では観客たちがこれから始まるスポーツの祭典に期待に胸を膨らませていた…
「変態、凡人、年を取れ…シニタイヤツハシネ…シニタイヤツハシネ……」
最初に登場したのはグラミー賞など名だたる賞を総舐めにした国民的バンド、Theピーズだ。この突然のサプライズには会場も大歓声を上げた。スクリーンには様々な言語で映し出された「増え続ける若年層の自殺率」「止まらない少子高齢化」凶悪犯罪…ブラック企業…テロの脅威…国の借金などの文字が映し出されては消えてゆき、最後に「この国はもうお終いだ!!!!」と赤文字で大きく映し出され、会場は拍手喝采だ。それに合わせステージを取り囲むように垂らされたロープで大槻ケンヂ、五十嵐隆、鬼束ちひろ、木下理樹等、錚々たる鬱ミュージシャン達が首を吊って次々と自殺してゆく。やがて彼らは動かなくなり、日本の情念を映し出すエキゾチックな演出に誰もが息を飲んだ。
演奏が終わり大木温之が遺書を書きはじめると「Neko Mimi Mode」が爆音で流れ出す。七色の光線やLEDライトが目まぐるしく点滅し、新国立競技場はダンスホールと化した。なんとなく呼ばれたDJのTeddyroidは投石で死亡、会場のボルテージはマックスに達した。全方位に設置されたハイビジョン4Kスクリーンには日本が誇るサブカルチャーであるアニメが映し出される。作品は勿論『鬼父~小生意気なホットパンツ』だ。
煙幕が白い光とに照らされ、入場門からは会田誠に四肢を切断された千体を超える幼女たちがワラワラと這って登場、その中から遂に選手団が入場する。セーラー服の少女達が会場を囲い、日本刀で自ら腹を掻っ捌き鮮血が噴き出す。内臓もボロボロ飛び出している。(この際会田は町田ひらくとキングオブコメディ高橋をエグゼクティブマネージャーとして招集、全国から人材を手配した)
「HARAKIRI女子校生だああああああああああ!!!!!!」
日本のカルチャーを愛する台湾の文系大学生とロンドンのゴス少女が抱き合って喜びを爆発させた。台湾の大学生は初めての女子との接触に勃起が止まらない!まさにCOOLJAPAN。
しばらくして対向から巨大なローラー車で騒音をまき散らしながら登場したのは山塚アイだ。国旗を笑顔で振っている選手団を「ブチブチブチブチブチ!!!」と踏みつぶしていく。会場は血の海と化し、観客席は闘牛のように湧きたち、山塚は爆死した。続いて、桜井誠率いるネトウヨ、ほなみん率いるSEALs、薄ら笑いを浮かべるアルファツイッタラー、打倒シンゴジラを掲げる増田、中田考率いるアル・カイーダ、又吉直樹を十字架で磔にし燃やす文学賞ワナビ、Hikikomori、ゆ虐絵師、モバゲーの掲示板に入り浸る派遣社員などがそれぞれプラカードを持って入場し、また我々を感動させた。最後には酒鬼薔薇聖斗氏、ネオ麦茶氏、加藤智弘氏、片山ゆうすけ氏が登場、奇跡の世代が共演を果たした。彼らが手を繋ぎ国際社会に世界平和の実現をアピールしたことは歴史に残る名場面となるだろう。
選手入場(九割が死亡)が終わると暗転し、スポットライトに照らされて松任谷由実が「ひこうき雲」を歌い、上空から二機の飛行機が登場。そこには手を広げた庵野秀明と宮崎駿が吊るされていた。思わぬ大物ゲストに会場は大盛り上がり。しかし「空をおおお、かっけぇえええっ↑てぇっ↑↑」に合わせ二人は落下するもパラシュートが開かず地面に激突、冷笑的な雰囲気が会場を覆い駿と庵野は無駄死にとなった。
開会式もとうとうクライマックス。緊張感に包まれる中、遂に最後の聖火ランナー折部やすなさんが到着した。バラード『キルミーのベイベー!』がしっとりと流れる中、あぎりさんがガソリンを頭からかぶせ、燃え盛る炎の中「助けてソーニャちゃあぁあぁぁぁ!!!いやだあああぁぁあぁ!!!」と絶叫しのた打ち回るやすなをソーニャが斬り、生首は聖火台まで飛び見事点火、会場は感動の涙に包まれた。
小澤征爾指揮するNHK交響楽団に合わせ背後の床が開き、原寸大の福島第二原発オブジェが登場する。サビを迎え登場した、世界的映画監督である北野武扮する火薬田ドンはこの日最大の割れんばかりの拍手と歓声に迎えられた。フガフガと手を振って応え、不敵な笑みを漏らしレバーを押す。原発は核爆発を起こし競技場の7割が焼け野原となり、火薬田は突如クレーン車で吊るされ触手プールに落下し一人よがり狂った。少しブラックなジョークに生き残った数少ない観客は最後の盛り上がりを見せた。嬌声が響きわたる中中継は終わり、フジテレビのスタジオでは肉塊となった岡村隆史が弾け飛び、大盛況のうちに開会式は終了した……
――――ちょうどその頃、精神病棟のテレビでこれを見ていたtehuくん。
車椅子から立ち上がり、「これ僕が作ったんだ!ほんとだよ!全部僕が作ったんだ!」と叫び、裸になって踊りだした。彼が言葉を発したのは3年ぶりの事だった。彼を心配し、これまで暖かく見守っていた看護師さんたちは歓声を上げながら抱き合い、喜び合った。涙を流している者もいる。他の患者もみんなニコニコと楽しそうだ。男性器がペチペチする音が病院中に響き渡った。
「今日はケーキを買ってお祝いしなきゃね。だって、tehuくんの演出した開会式が大成功した日なのですから」
僕たち、よかったね、うれしいねって、言われたかっただけなんだ。ただそれだけなのに、何故こうも人の運命は分かれていくのだろう。何故闇に飲まれるかもしれないと分かっていながら何かを求め、苦しみ、そして死んでいくのだろう…
だけど今は、ただtehuくんの回復を喜ぼう。だってそれは、僕らが生まれてきた意味を知る数少ないチャンスなのかもしれないのだから。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
私は同性愛者である。身体は女、性自認も女、好きになる対象も女性。いわゆるLGBTのL…レズビアンに属する。
思えば、私は中学生の頃から自分が同性愛者であるということに悩んできた。
周りの女の子たちが、恋バナに興じている中で、表面上は合わせてきたつもりだ。
誰だって爪弾き者にはなりたくない。学校という狭い社会の中で、私はセクシュアリティに蓋をし続けてきた。
するとどうだろう。私はいつも表面上だけで笑っている、仮面を被ったような存在になってしまった。
その原因は分かっている。多分、私自身がホモフォビアなのだ。同性愛者だと言ったら笑われる、貶される、という価値観を持っているからこそ、自分の存在に自信がないのだ。こんな自分を変えたくて、葛藤していた。
思い悩んでいた中高生の頃、私は書店のジェンダー関連の書籍が置いてあるところに足を運ぶようになった。
その中から選んで購入した2冊の本がある。
「カミングアウト・レターズ」と「ボクの彼氏はどこにいる?」という本だ。
同性愛者であることに悩んでいる方がいたら、是非この本に目を通して欲しい。
少なくとも、私はこの本を読んで気持ちが楽になった。
自分らしく生きるということはとても難しい。大学生活も残り少なくなった今、改めてそう思う。
でも一度自分を肯定してしまえば、新たな視点から物事を見ることだって可能になるはずだ。
ボク彼の著者である石川さんの「同性愛者は自己肯定のシャワーを浴びる機会が少ない※要約」という文章にはうんうん、そうだよねと何度見ても頷きたくなる。私はずっと自分の恋心が同性に向くということを否定してきた。受け入れられるようになり、ゲイコミュニティに足を踏み入れ始めたのはハタチを超えてからだ。馬の合う友人と好みの女の子の話をすることがこんなに楽しくて充足感に溢れるものだということを私は初めて知った。だが楽しい今だって、将来訪れるであろう孤独死の恐怖に怯えている。
同性愛者である、ということは私を構成する一要素にしか過ぎない。
でも私は自分がマイノリティーであると自覚してから、色々思い悩むことができた。
そのことが幸福であったとは断言できないが、あながち悪くはなかったなと思う。
あーー彼女欲しい!
そういえば私はセーラー服が好きなのだが、セーラームーンを見たことがなかった。
しかし、リメイク版の放送をたまたま見てエンディングに度肝を抜かれた。
気になって仕方ないので調べてみたら、エンディング映像の2人は「百合界のカリスマ」と呼ばれていることが分かった。
海王みちるさんの色気にやられた…好き!
とりあえず、同性愛者であるということに思い悩むのは当事者であれば多かれ少なかれ誰もが経験することだと思う。
しかし、案外味方はいるものだ。私も1人だけ信頼の置ける人にカミングアウトをしたが、友人関係は壊れることはなかった。
もしもカミングアウトする、と決意したら2冊の本にまた勇気をもらうのだろう。
初恋を隠し通したあの頃と、サークルの女の子に片思いしている今と。
そんなに状況は変わらないのだけど、心の持ちようで目に見える世界は幾らでも変わると思う。
少なくとも今の私は、人に恋をするって楽しいことだなと思える心の余裕がある。
コスプレした成人女性かもしれませんが、性風俗産業に毒されていない人にはJKと映ったはずで、観測的にはJKと呼んで間違いないです。不安な方は五反田で量子力学の講義を受けてください。
おそらく学校ないし(ある?)、カバン持ってなかったので、""あえて""制服を着ていたのだと思います。
黒髪ナチュラルメイクのリア充クラスタといった感じの子で、制服姿の自分をウリにしているというか、自分がかわいいことを自覚していて、それを嫌味なくプレゼンテーションできる、コミュ障ノックアウトなオーラをまとっておられました。
いやぁ、まぶしかった。
ロシュフーコーも「太陽とJKは直視できない」と言ってますが、キモヲタなのでキラキラした学生を見ると気後れしてしまいます。
インターネットの暗くジメジメしたテキスト文化に肩まで浸かっているので、あやうくJKに巻き込まれて死ぬところでした。
JKをjk(常考(常識的に考えて))に痴漢もとい置換する心の防衛本能が働いていなかったら、確実に落命していたことでしょう。
昨今のJK事情には疎いのですが、JKのブランド価値って高い……の?
大塚明夫が「アイドル声優の旬は16,7歳」と著作(声優魂)に書いてて、おいそれ若すぎるだろと思ったのですが、マジでガチでそれくらいの来いよアグネスな年頃がビンゴなのでしょうか。
私は心が汚れているので、JKと聞くと「未成年だから危ない、食えない」と思ってしまいます。
往時(90年代前半)、青森ではJKより人妻の方が援交相場価格が高かったらしいです。私も年増の方が好きです。
キモヲタ界隈では『コミュ障なヲタクに合わせてお喋りしてくれる菩薩のような女性』がマドンナとして虚数空間でシェアされているように見受けられます。
う〜む。性的弱者にはイマイチよく分からないお話ですね。パナマ文書について何か発言したいけれど、当事者意識が持てない貧困層の姿を彷彿とさせます。
童貞をこじらせた皆々様におかれましては、JKというよりも三次元の女性が縁遠い存在ではないでしょうか。ニュータイプだから仕方ないね。
子供の頃、田舎の親戚の家にいくときにいつも車の中でかかってたカセットは、基本的にポンキッキの歌だったけど、その中で1曲だけくらーいけどなんか耳にこびりつく曲あって、嫌いでいつも飛ばしてもらってたけど、今回の橋本環奈のセーラー服の映画で、ようやくそれがセーラー服と期間中って歌だってわかった
おっさんになったせいか、いい歌に感じる
そんでもって何気なくオリジナルの薬師丸ひろ子バージョンを探して生歌聞いてみたらうますぎてびっくらこいた
マジうますぎ
なんだこれ
それでもやめられないから恥じらいだけは捨てないように気をつけてる。
セーラー服に似合うよう男らしくない細くて高い声で喘ぐ自分に気がついた時
人の信念とは乙女のような純朴さとひたむきさ。
だからそれを掘り起こして愛でていたい、ただそれだけなんだよ。
それでも涙が頬を伝う日もある。何が何かわからないけど泣けてきて余計に淋しくなる。
出すものすべて出し切っても淋しい。
でも一通りのことやり遂げた達成感から気も大きくなってだんだん心は回復していく気もする。
肝が座っていて男らしいとさえ思うときすらある。
要は乙女の可憐さと野郎の屈強さを一瞬でも兼ね揃えることができるよう精進せえ
ということなのだ。
人は皆心に美少女を宿す。
さあブルマよ。我を包みたまえ!