はてなキーワード: 除染とは
当方、福島で建築で復興関係やってる人間。除染じゃないよ。地元の人とかともよく話すので、3.11前に少し思ったことを書いとく。
原発近くの浪江町の帰還が進まないっていうニュースがちらほらでてるけど、戻らない理由は放射能の他に3つあるかなと思ってる。
実際は戻っていいと思ってる人も結構いる。慣れ親しんだ町なので、戻りたい気持ちはあるんだろうと思う。
浪江町でいえば、現状コンビニが二件あるけれどどちらも夕方には閉まってしまう。スーパーに関しては、車で片道50分ぐらいかかる。一部、復興商店街みたいなのはあるがそれだけじゃ不十分な感じ。
そんな不便さを感じて、帰還がためらってる人が結構いる。薬局や飲食店、ホームセンター等々生活で必要なものが買いにくい。
地震が起きた3.11からもう長い年月がたち、最初は一時的な避難先の予定だった場所も、そこでの生活、仕事、コミュニティが確立されてしまいわざわざ戻る要素がなくなってしまった。
ましてや、1の不便さが強いられるような状況なら戻る必要はないよねーって話。
仮に戻ったとしても、仕事先が皆無。除染、復興関係でもやればいいじゃん?
って話はナンセンスだから置いておく。被曝したくないのは誰もが思ってることだろうからね。
1でも言ったように、まだお店もなく、また会社も戻ってくるか怪しいので働く先がない。生活するお金が生み出せないならそこで住めない。
もし、本格的に帰還を促すなら、せめて国道6号線沿いにスーパーや薬局、ホームセンター、一通りの病院等を誘致するのと税金を安くするなりして会社も戻さなきゃダメなのかなーと思う。
ただ、放射能、それに伴う風評被害というハンデキャップがある状況で果たしてそこまでする必要があるのか、やる意味があるかはわからないが今のままじゃ、何も起こらないのはわかる。
「女性の妊娠可能が確認されました」が聞き間違いというのはわかったけど、
「除染の○○○○が確認されました」の「○○○○」の部分にどんなセリフが入るのか分からないよ。
気になってしかたがない。
誰か教えて。
シン・ゴジラいまいちだった派の全員がこのような意見だと思われるのは心外なので批判しておきたい。
絶賛されている『シンゴジラ』が個人的に58点の映画だったので海に身を投げたい | 二十日・de・おぼーん | note
政治描写に絞り込むために背景はあえてオミットされていると見るべきだ。
かと思えば「大統領になりたい」だの「総理になりたい」「幹事長になりたい」だの政治的野心をのぞかせる台詞はポンポン出てくる
これはナイチンゲールなどが言う「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」と同様のことではないかと思う。
政治家は、名誉欲や出世欲、あるいは「国を守りたい欲」といった個人的欲望によって仕事をしている。
それは「人のために働く」ことと相反しない。
あえて「無私無欲な英雄的人物」を描かないことがリアリティを生んでいるのである。
廃墟となった町を前に、ことさらに嘆いてみせるのはニュースリポーターの仕事であって、政治家のやることではない。
終わったことは終わったこととして、いかに立ち直るかを考える。
という割り切り、切り替えの早さを描いているのではないか。
前段の「感情移入」もそうだが、「主人公には感情移入させねばならない」「物語はカタルシスを描かねばならない」という観念に囚われすぎている。
こういう物語だったらこう描くべきだよね、という気持ちが先行しすぎているタイプの批評家であるように感じる。
シン・ゴジラは「リアルの政治ドラマ」と「フィクションの特撮映画」を描いた物語なのだ。
だからこれだけ綿密に取材して政治家や官僚のキャラ作りをしてきたくせに、
フィクション側の画面へ行った途端に「無人在来線爆弾」なんてものが出てくる。
その構造を批判こそすれ、ヤシオリ作戦そのものの荒唐無稽さに突っ込むのは野暮である。
主人公の作戦チームってあれだけ人数いるのにマキ・ゴロー博士の暗号解読して凝固剤の生産を手配しただけで実は大したことしてないよね
その二つだけでも十分なうえに、ヤシオリ作戦を立案したのはあのチームでしょう。
あれはゴジラの放射性物質の半減期が短かったという話で、ゴジラの遺伝子データから除染できるという話ではなかったと思うが…
全然ハーフに見えない高圧系女子の石原さとみが「40代で大統領になるのがドリーム」とか言ってるけど、アジア丸出しの顔でなれるわけないだろとか
女性でアジア系で若年、というハンディを乗り越えたいからこそのドリームなんじゃないですか。
この人、10年前にも「黒人がなれるわけないだろ」とか言ってそう。
まったくだ。
ゴジラの造形は最高
腕が小さすぎない?
曲もいいし
冷静になるとああまで過去作をオマージュする必要もなかったんじゃないかという気が。
放射火炎以外のCGがしょぼかった…
あまり映画は見ないし、映画批評なども出来るような人間ではないのですが、
大学で多少「核のイメージ」の歴史について勉強したことで、「ゴジラ」について関心を持ちました。
そんな折に、ちょうどシン・ゴジラが公開されると聞き、せっかくなので、見てみることにしました。
ゴジラに血液凝固剤を流し込み、ゴジラを凍結させることに成功させました。
また、ゴジラの放出した放射能の半減期は2~3年程度だったため、除染もスムーズにいきそうだと希望が湧いてきたときのことです。
主人公・矢口が語ったセリフは「我々はゴジラと共生するしかないんだ。」だったのです。
これは、ゴジラ第1作目(1954)の古生物学者山根の「水爆実験が今後も行われるなら、またゴジラが現れるかもしれない。」というセリフと比較すべきでしょう。
1954年版のゴジラは、おそらく「反核」のメッセージが強いものだったと言えます。明らかに第五福竜丸事件で被害にあったような、水爆実験などを批判しています。
一方、今回の「シン・ゴジラ」を反核映画と捉えることは難しいでしょう。(少なくとも最後のセリフからは。)
「核と共生せざるを得ない」ということがメッセージなわけですから。
確かに、現実を考えると、核(ゴジラ)と我々の生活は切っても切り離せません。
ほとんど稼働していないとはいえ、原発は残っていますし、放射性廃棄物もたくさん残っている。
冷戦は終わって、おそらく核戦争の危険はないといえども、今もアメリカなどは大量の核兵器を持っている。
「反核」の想いを抱えている方々であっても、核が0になる世界を作り上げることは出来ないということはわかっていると思います。
6月7日に
ふるい分けなどをして放射能濃度が1キロあたり8千ベクレル以下となったものは再利用が可能とする基本方針をまとめた」
などという、とんでもないニュースが入ってきた。
そもそも、なんで除染したのか?
そういう根本的なことを考えたら、ばらまくなんて頭おかしいとしか思えません。
そんなに安全というなら、国会議事堂界隈の修理に是非使って下さい。
東京オリンピックを開催するとか言ってるけど、海外の人はこの事実を知ったらどう思うんだろう?
どの人にも関わる大きなニュースなのにな。
アスベストでもなんでも、環境に対する感覚がこの国は鈍いんじゃないかと思ってしまう
(「国際環境NGO FoE Japan(認定NPO法人)」がやっているもの)
文句言っているだけでは変わらない、まずは行動しなくては。
自分は働くことができない。
就職しなければならないが、誰かに雇ってもらえるような能力もない。
頭も悪く、コミュニケーションも非常に不得手だ。一芸に秀でているわけでもない。性格も怠惰で愚鈍、その上卑劣という有様だ。
実際に福島原発事故直後に除染作業員に志願したが、すぐに「君にできる仕事はない」と一蹴された。当時誰でもなれるといわれていた、除染作業員ですらその有様である。
結局、自分はブラック企業すら門前払いするレベルのブラック人材でしかないということだ。
自分には親しい友人がいない。
吐瀉物のような顔にボンレスハムのような胴体を見るだけで、だれもが不快な思いをする。
その上性格も最悪とくれば、親しい友人がだれもいないのも当然である。
後述する「他人に話せる趣味」があればまだマシかもしれないが、それすらないクソ人間と付きあう理由はない。
体力や運動神経もが皆無に等しいため、アウトドアやスポーツも選択肢から外れる。簡単なキャッチボールすら一切できない。
小説や漫画を読むのも非常に億劫だ。満足に内容を頭に入れることもできない。
集中力が持たないため、映画も満足に見られない。30分、いや3分アニメすら集中することができない。
当然内容理解まで及ばない。
自分は学歴がない。人に学歴を伝えた瞬間に失笑されるレベルである。
増田には東大や京大、早稲田、日大のような名門大学卒業者が掃いて捨てるほどいる。彼らの足元にも及ばない。
英語なんてちんぷんかんぷんだ。四則演算も不得手だ。それどころか語彙も乏しく、日本語運用能力も非常に危うい。
なによりネックなのが、怠惰であるため努力が全くできないことだ。幼稚園児の方がはるかに努力家である。
自分には経験がない。職業経験も、いい学校に行った経験も、学校で勉強や課外活動に打ち込んだ覚えもない。
それどころか「友達と遊ぶ」といった経験すらない。せいぜい、時間だけがいたずらに過ぎていく経験ぐらいしかない。
そして流れ流れて気がついたら「何者にもなれない自分」がそこに存在していたのだ。それを依代に、自分は今日々を無為に過ごしている。
普通の空気が吸えるような場所はあるのかと思えるくらいである。
「香害」や「スメルハラスメント」という言葉も聞かれるようになって久しい。
数年前には国民生活センターから「柔軟剤は控え目に使うように」みたいな
会見も開かれたが、一向に改善される気配はない。
それどころか、国民生活センターに寄せられた健康被害はすでに500件近くに上っている。
と軽視されることも少なくないけど、
と思ったら、すでに原因が判明していた。
香りを続かせるためのマイクロカプセルに「イソシアネート」が使われているのか。
イソシアネート…?
イソシアネート
揮発性有機化学物質の中でも毒性が高く、ごく低濃度でも肺機能低下や呼吸困難、
目や喉の粘膜刺激などを引き起こす
これは、怖い。
もっと調べてみたので、ざっくりまとめてみた。
皮膚への影響
直接触れると痛み、腫れ、発赤、水泡ができる。アレルギーの感作が起き、気道に過敏性が起きることもある
目への影響
刺激と流涙があり、ときにははっきり見えなくなる。目に入ると痛くて角膜を痛める
神経系への影響
酔ったような感じ、感覚が鈍り、平衡が取れない
その他
柔軟剤好きな人は規定量の4倍入れたり、複数の柔軟剤をミックスしているらしいけど、
それって危険なんじゃないの?
毒をまとっているようなもんじゃないですか。
この記事によれば、すでに消費生活センターには情報は行っているのに
子供の勉強机のデスクマットはたしか30件ほどの被害で厚労省が発表して
製品回収になったのに、これは500件近くだよ?
とにかく、国に任せていたらいつになるかわからないので、
「アメリカで大人気」と言えば、日本では飛びつく人が多いけど、
「アメリカではすでに規制対象」ということにも敏感になった方がいいと思うな。
人の命を脅かすような生活用品は作らないで欲しい。
ほんと、お願いします。
いつかは分解されて無害になるの?
一体街中に散らばったこの毒の責任って、
誰が取ってくれるんだろう?
<4/28 0:09 追記>
海外製の柔軟剤については、海外では「シートタイプ」を使っているので
輸出している「液体」についてはノーマークの可能性が…。
作っている工場の場所も…いやいや、これ以上は怖くて書けません。
何より、まだアメリカでもこの物質に関しては測定してないみたいです。
SMAPの歩んできた過去も、俺たちが知っているのとは違ったはずだ。
そして、過去を変えることでSMAP解散を阻止できる可能性を告げられるんだよ。
福島県へと移動する車の中で、この5年、政府とTOKIOが極秘裏にタイムリープマシンを開発していたことが告げられる。
大規模な立ち入り禁止区域を用意されているおかげで、DASH村の地下にはLHCが作られたんだよな。
もちろん原発はひそかに稼動していて、そこからエネルギー供給がなされている。
除染作業の名目を使えば、身元不明になっても差し支えないような作業員をいくらでも用意できる。
だから、誰もタイムリープマシンの存在に気づかなかったんだよな。
しかし木村がSMAP解散を阻止するためにはいくつかの事件を発生させなければいけない。
具体的には、
香取慎吾に女装をさせ、ミリオンヒットシングルを歌わせる。おはスタだけのネタであった「オッハー」を、流行語大賞に入れる。
草なぎ剛を泥酔させ、全裸で暴れさせる。公然猥褻で逮捕させる。
SMAPが解散を免れるには最低限これだけ実現させなければならない。
国民的アイドルとしてSMAPが成立するには、これだけの紆余曲折と社会の目に晒されなければならないのだ。
そして木村はタイムリープし、実際に事件を誘発することで過去を換えることに成功する。
木村が安堵しているところに、マネージャーと中居による独立騒動が発生する。
これでは何も変わらないではないか。俺が何度も何度も失敗してきた、あの過去は、そしてメンバーの騒動はなんだったのか。
過去を繰り返してきた木村にははっきりとわかる。この世界線での解散騒動に自分は初めて挑むのだ。
意を決して木村は社長に直談判する。しかしそこで屈辱的な条件を突き出される。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
ノビーも相変わらず強引な理屈だけど、そこんとこはあってると思うよ。
「問題なく暮らせるレベルかどうか」という問いにしたら結論は永遠に出ない。確率的にしかわからない、それも他のノイズと区別できるかどうか、って領域の話だから。
自分はそのくらいのリスク気にしないから住みつづけるでも、いややっぱり怖いから避難するでも、そこは個人個人が自分の価値観に照らして判断すべきこと。その判断の自由は最大限尊重すべき。で、その自由を尊重することを保証すること(情報提供、避難を望む人への補償、残ることを選んだ人のための優先度を考慮した除染等)に対して、政府や東電が責任を持つべき。
1mSじゃなきゃ危ない帰るな、政府は金に糸目をつけず除染しろ、と言うのはその自由の尊重とは逆行することになるんだよな。それは20mSで問題ないから帰れ、というのと同じくらい悪い。
そもそも原発作らなけりゃそんなジレンマは無かった、とか、今後またそういうジレンマを作り出し得ることについてどうするか、っていうのはまた別の議論。
池田信夫 blog : 被災者の地獄への道は村上春樹の善意で舗装されている
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51935083.html
政府は年間20mSv以下の地域は帰宅するよう勧告しているが、帰るに帰れないのだ。
なぜだろうか。それは村上のような人々が「被災地を除染して放射能を1mSvにしないと帰宅させてはいけない」と言い張っているからだ。そんなことを実現するには10兆円以上の予算が必要であり、それを条件にする限り、彼らは永遠に帰宅できない。
ここで判断基準になるのは「年間20mSv以下」が本当に問題なく暮らせるかレベルかどうかだろ
何で予算の話になってんだよ
私は福一原子力災害の賠償業務に携わっている。本エントリーでは賠償業務の概要と実態について書きたい。
被災した個人・法人へ『請求書冊子』が東電から送付される。被災者はその請求書冊子に必要事項を記入し、領収書や決算書を添付して東電に送り返す。
請求書冊子の返送先は大手町の東電オフィスになっているが、実際に書類が届くのは東京ビッグサイト近くに建つ『有明セントラルタワー』だ。
請求書冊子は有明セントラルタワーに届くと、開封・書類の仕分け・裁断・スキャニングされる。電子データ化するのだ。書籍の自炊を想像してもらえれば当たらずといえども遠からずといったところか。
審査業務は有明と門前仲町のヤマタネビルで行われている。専用ネットワークを通じてサーバーにアクセスし、電子化された書類をパソコンの画面で見ながら審査を行う。
審査が終わり、東電の責任者が判をつけば被災者にカネが振り込まれる。
以上が賠償の大まかな流れだ。
表向きは東電が賠償処理をやっていることになっているが、実態は異なる。
まず賠償業務は『トッパン・フォームズ(以下、TF)』という凸版印刷の関連会社に丸投げされる。ちなみに東電は『随意契約』でTFに仕事を任せている。どれだけのカネ(出どころは税金と電気料金だ)がTFに流れているかは分からない。
さらにTFはJ-SCubeとアデコとヒューマントラストとヒューマンリソシアに業務を投げている。除染作業が二次、三次に投げられるのとそっくりだ。
電子データ化済みの書類は寺田倉庫が管理する保管場所へ日通が運んでいる。システムの構築・管理はテプコシステムズと日立システムズだ。
賠償業務に関わるこれらもろもろの会社を東電では『協力会社』と呼んでいる。
賠償業務の末端で働く私でさえ、これだけの会社が関わっていることを知っているのだ。きっと、震災特需でうまい汁を吸っている企業はもっとあるだろう。
もうあまり仕事はない。震災から3年以上経っているのだから当然だ。むしろ今も賠償業務が続いていることに驚くべきだ。
実際に請求冊子に手を触れる・目を通す人間だけでも数千人規模(間接業務を含めるともっといる) しかし、大半はすることがなく遊んでいる。
工程ごとによって忙しい『曜日』は異なるのだが、最も忙しい日でも1日3~4時間程度しか働いていない。1~2時間しか手を動かさない日も多い。
どの工程も拘束時間は1日9時間で、その分の給与は支払われているのだが、暇でぼぉっとしている時間の方がずっと多い。
時給1000~1500円で働くバイトも、東電・協力会社の正社員も暇を持て余して雑談、私語で時間を潰している。
ちなみに有明セントラルタワーでは24時間体制で賠償業務をやっている。仕事がないのに『夜勤』で深夜に働いている者が多数いるのだ。
仕事を『増やす』ため、TFは意味不明な組織改変、請求書処理手順の変更を繰り返している。東電も請求書のフォーマットをころころ変え、そのたびに人・組織・システムが変わる。煩雑な作業が増えることはあっても、減ることはない。
賠償業務が長引けば長引くほどTFを始めとする企業は儲かるし、東電は賠償責任を果たしている『ポーズ』ができる。国民のカネでWin-Winの共生関係を築いているのだ。