はてなキーワード: 見立てとは
http://soccercopype.ldblog.jp/archives/20028099.html
なんか違和感あり。
巨人を昭和の遺物とか日本企業の人事に見立ててそれに感情移入するとか言うけど
今の巨人なんか完全に非日本企業。結果出さない奴はどんなベテランだろうが2軍だし
東野もトレードされた。とにかく結果出さない奴は普通に短期で消えていく。
そもそも監督が不倫もみ消しに元ヤクザに1億払ってたりしているのに
サラリーマン社会のどこと共通する昭和のお荷物とやらがあるのか。
自分は巨人ファンじゃないが他所から見ていて巨人は普通に強い。
巨人だけが勝つことへの執念をフロントと現場が持ち合わせている。
強奪と言われようが補強は怠らない。澤村も菅野も異様なドラフト指名だったが
確実な戦力を組み入れて現実化させている。そのような競争環境の下、個々の
選手の質も極めて高く維持されている。スコアデータを專門に扱うスタッフを置いて
選手首脳陣が確実に実戦に取り入れている。他球団のスコアラーが置き物化しているの
とは全く違う。
特に酷いのは中日だ。親会社は巨人と同じ斜陽産業だがここの球団は失笑レベルである。
あまりに酷いのでまたあとで。
もう誰か言ってるかもしれないけど
尖閣を台湾に返すって言う、っていう手はないのですか?法的にどう見ても日本の領土だと外務省が考えているなら(そうだと思うけど)、割譲という形でもいい。
もちろん李登輝が日本の領土って言ってくれてるのは知ってるけど。でもそれも含めて、台湾は津波で100億も支援してくれた国でもあるし、いいじゃん。
中国は当然反発するだろうが、すでに充分反発されてるしどっちも一緒でしょ。それに公式の立場として日本は中華人民共和国による一つの中国を支持してるんだから、台湾に渡したって最終的には中国に渡ると考えているって言えばいいじゃん。ただ安全保障上の問題からあまりに台湾に近いのでとりえあず台湾の行政管理下においてもらうとかさ。
というふうな日本国としての方向性を定める。でも実は本気じゃなくて。
多分中国が強く反発し収まらないことになるので、そこで安全保障上の観点からアメリカの意向も踏まえて(他の常任理事国にも種まいといて)、当面は日本が管理する、統一中国の成立後に割譲しましょう、と。朝鮮もそうだけど、中国の分裂もそこに大日本帝国の責任を見出す奴が山ほど出てくる。朝鮮以上に中国の分裂は日本あんま関係ないとは思うんだけどね。でも絶対出てくる。それで統一の際の金銭的負担の一部を日本に負担させろっていうのがきっと出てくる。その際に賠償金だなんだというときに尖閣をボーナスとして与えるというのは気持ちを落ち着けさせる意味でありではないかと。
簡単な問題じゃないだろうけどこの線でなんとかするなら、日本国としての正義を保てると思う。これ大事だと思うんだよな〜。ここで正義を貫く方向を見せれば、さらにチベットとウイグルで中国をつつくことだってできるじゃん。尖閣は日本の戦時侵略の謝罪としての意味を持つ割譲であり、南沙、西沙については中国についての謝罪責任がベトナムとかにあるわけではないんだから、全面的にベトナムのほうを支援するという方向に舵を切って、ついでに新幹線買ってもらうとか。
どうなん?つうか尖閣どうこうより日本の産業なんとかするほうに力を割いたほうがよくない?
今の中国の方向をナチス・ドイツのズデーデン進駐に見立て、弱腰の日本をチェンバレンのイギリスに見立てているコメントを見た。それは優れた洞察だと思う。でも、だからといってそれはズデーデン進駐時にイギリスが宣戦布告していたらその後の歴史上最大規模の戦争が起こっていなかったということを意味するわけじゃない。むしろ今の日本がイギリスに似ているというなら、最終勝利は日本に転がり込むだろうという予想にもつながろう。
今回の暴動が明らかにしたことは、中国は未だに日本より何世代か、文化的に劣った民族だということだ。日本は先進国として、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求しなければならないわけです。そのためになすことは好戦的な愛国的主張ではなかろう。たかだか戦前日本レベルにいたったばかりの中国とまともにやり合おうなんて言うのは情けない。
ついでに竹島も、南北統一後に主権の主張を放棄する方向でまとめてはどうかな〜と言おうとしたけど国際司法裁判所とかに訴え始めちゃうとなかなかそうもいかなくなってきたかな。
かつて劉備の代理として孫呉に訪れた際、共に赤壁を打ち倒しましょうと言ってすり寄った。
実際には漁夫の利を得た形で約束違反である荊州を簒奪した。漢朝廷にすら許可を取らなかったため、後に曹操に利用されて公式に周瑜を南郡太守、荊州総督を任せる等として荊州統治を孫呉に委ねたのだ。そうなると当然荊州の正当支配者は孫呉になり劉備は違法にそこを占拠してるに過ぎなくなる。そこで孔明は一計を案じて周瑜を誅殺し孫権から荊州を借りる形を取って劉備を統治者とした。当然条件付きで蜀を取れば荊州を全て返還するという劉備・孔明両名のお墨付きである。しかし蜀、そして漢中を奪っても返さなかった。孔明は嘘吐きである。これがきっかけで荊州争奪戦および関羽処刑事件に繋がるのである。また、後継者問題では自身の優位を絶対にするため、劉備信者の魏延らをあることないこと誹謗し続けたのである。これは一政治家としてあるまじき愚行であろう。ともすれば、これを手本とする日本の某政党は嘘吐きであることを肯定しているも同じである。
嫁に関して「孔明の嫁選びを真似るなかれ、阿承(黄承彦)の醜い娘をもらう羽目になるぞ」という諺が存在するほどで人を見る目が全くない。
後に重用された悲劇の名将魏延も反骨の相(史実では不明)としており、一方で劉備が重用するなと言っていた登山家馬ショクへは自身の片腕以上の待遇だった。また、後蜀将として蜀漢を直接滅ぼす原因を作り滅んだ後も劉禅に迷惑を被って死んだ姜維へも彼は特別待遇にしていた。そう、孔明は老練の将軍よりも口先だけの若造を重用する傾向にあったようだ。だがそんな彼でも老練を重用することがあったのである。名前は李厳。後に李平と改名する政治家である。彼は孔明いわく「陸遜に匹敵する名相」だったが、才覚は確かにあったらしい。しかし性格に難があり、孔明はたびたび彼への諫言を聞くことになるが無視し重用し続けた。その結果231年の北伐の大惨敗を引き起こすことになる。とんだ見立てである。実は李厳だけではない。後に魏に投降したのち蜀に再び寝返り新城の戦いで司馬懿に瞬殺された孟達も孔明は重用した。実は孟達も才能はあったが、李厳同様性格に難があった。日本プロ野球選手に例えると中村紀洋である。孟達の面白い所は劉備に信任された上庸を守らず更に関羽からの援軍要請を無下に断り見殺しにした所であろう。彼は李厳と同じく才覚はあったが考えるところは常に目先の小利だけである。その結果、関羽は死にその責任を負わされることになった孟達は曹丕の元へ逃げそこで厚遇を受けた。しかし曹丕が死ぬと冷遇された孟達は蜀に帰りたいという非常に自分勝手な判断のもと蜀に保護を求めて降伏してきたのである。それを大いに喜んだ孔明は自らドツボにハマる事に気付かず結局孟達の死をきっかけに北伐は失敗に終わる。逆に彼が冷遇し続けた魏延は殿軍を務めるなど蜀を守る役目に徹して彼以上に功績を挙げてしまった。孔明は自分が貶めようとした者が成功するのを見ていられなかったのだろう。死の間際にこれまた後に蜀を滅ぼした姜維に後事を託して五丈原で病没した。その託した後事が問題で当時重用していた文官楊儀と確執のあった名将魏延を排除したのである。これを機に蜀は滅ぶ道を辿ることとなる。オチとしては魏延を廃した楊儀も後に謀反を起こして流刑となったことくらいか。
結局孔明は人を見る目が皆無で、結果として劉備に信頼されておいて蜀を守りきれず滅ぼす遠因を作ったのである。
漢の四相と称される孔明だが、それは内政だけの話でこと軍事においては亡きホウ統や法正に劣る。後の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で有名になる司馬懿は電撃戦を得意とし曹操にも警戒された天才で普通なら孔明では太刀打ち出来ない相手なのだがここでも孔明は嘘吐きの才覚を遺憾なく発揮するのだ。また、火刑オタクの陸遜は孫武に勝るとも劣らないと称された天才で孔明も対呉では慎重論を唱えたほどだ。実際には孫呉は派閥政権なので内側から崩せば安易に滅ぼすことも可能だった。また曹魏にしても司馬懿の専横を煽る批判文を口先だけは超一流の馬ショクがやって見せたように続けていたら内部亀裂は免れておらず面白いことになっていただろう。孔明は情勢音痴だったのだ。また地理にしても荊州や益州では無双だった孔明も長安への道についてはこれまでにない慎重な姿勢を貫いていた。これを地理に詳しい魏延にたびたび批判されていたことは有名で、子午谷を通る国士無双の名将であった韓信の攻略法を提案し続けたものの、却下し続けた。その結果が成果の見えない3度の北伐である。しかも孔明は人を見る目がなかったので要所要所を劉備にすら諫言された将を大将に据えて任せており、その都度名将魏延を殿軍にするなどして引き離すといった愚行を演じている。こと軍事においては後世の学者からしても魏延の方が上回っていたと指摘されることがあるが、実際その通りだったのかもしれない。孔明は何も成果を挙げられていないのだから。しかも北伐にかまけて劉禅の教育を怠り漢王朝滅亡の原因である宦官制を敷いていたことが後に蜀を滅ぼすのだから孔明は実は内政も言われてるほど優秀ではなかったのかもしれない(宦官は劉備提案かもしれないが)。
結論として孔明は、無能だが口先だけは一流の人間を重用し、まともな武将を片っ端から左遷しちゃうクソ政治家である。ま、そんな政治家を神としちゃう某政党も流石だとは思いますけどね。
以上、孔明は歴史捏造が生んだ最大の恩恵者であり、また稀代の嘘吐きである。某政党もこれを真似たのだから面白い。後に筒井康隆がその政党が政権を取ると日本が終了するといった旨の小説を書いているが、これは単なる偶然の一致なのだろうか。
http://hiro.asks.jp/87078.html
休み時間にはその子の周りに集まってノートに描かれた絵をを見せてもらっていた。
どの絵もプロの漫画家のように上手で私もその子をべた褒めしていた。
私の顔で一番コンプレックスがある部分を強調したデフォルメ絵で描かれていた。
私は不愉快だったが、みんな「似てるー!」「そっくりー!」と盛り上がっていたので、愛想笑いで返すしかできなかった。
次の時、今度は絵柄が変わってホラータッチにデフォルメされた私の似顔絵を持ってきていた。
もちろん私のコンプレックス部分は強調されたままで。
その絵では体が妖怪に描かれていたので、友達グループの中ではその妖怪名で呼ばれ始めた。
その絵は他のクラスメイトにも出回り、一部の男子からも妖怪名で呼ばれるようになった。
「私いじられキャラになってるんだ」その時気づいた。
今だったら即「イジメられてるんだ」とまで思い至ったかもしれないが、当時は「いじられてる」としか思わなかった。
そしてそれはとても不快なことだった。
私はその子に思い切って言った。「そんな絵描くのやめて。キモいから」
「いや きもtくなんかによ。おもしロィよ。ウケるし」
これ以上いじられて傷つかないための「逃げ」だった。
私は休み時間に特定のグループで集まることはなくなったが特に学校生活に不自由することなく上手くやっていた。
元の友達グループでは似顔絵描きがしばらく続いていたようだが、いつの間にか休み時間にその子の周りに人が集まることがなくなっていた。
私がグループを離れたことで、その子は他の友だちの似顔絵を描くようになり(もちろんデフォルメのキツい気持ち悪い絵)、みんな離れていったとのこと。
これは元の友達グループにいた子が「あの時ゴメン」と私に謝りにきてくれたときに聞いた。
自分たちがされるまでここまで不愉快になると気づかなかったと言っていた。
元凶の子は私に謝りにくることもなく、休み時間は1人で絵を描いてばかりいるようになった。
「キモイと言われていた」
「1人で絵を描いてばかりいた」
とか言っているのをネットで見つけた。
どうして都合の悪いところを無視する。
「私も昔いじめていた」
「クラスメイトの容姿を妖怪に見立ててからかって遊んで友達を傷つけていた」
「後悔してるし謝罪したい」
「いじめはやめよう」
http://anond.hatelabo.jp/20120717012523
この間のクロ現でも首相官邸前の金曜日のデモについてやってた。
大飯原発再稼働の時のデモはUstreamで多少見てたが、ネットではやっぱりいまいちわからない。
何が行われているのか、何が主張されているのか、どのような人が参加しているのか、どのように終わるのか。
この全国で行われている「再稼働反対」デモはいつまで続くのか。
わたし、気になりました。
東京、大飯前でやってるなら、原発動いてる関西でもやってるだろうと思ってTwitter検索。
デモははじめてだ。
ただフジテレビ抗議デモはネットで見た。これはおかしいと感じていた。
それとは違うだろうと思って見に行った。
はじめ持った感想は、怖いだった。
何か、言い表せないが、何かが渦巻いているような感じがした。
参加者はいろんな人がいた。中年のおじさん、おばさん、母親のグループ、若い父親。会社帰りのサラリーマンは少し離れて見ていた。
自分と同じ世代の人もいた。配信しているふうの人が何人かいた。
いろんな人のチラシや新聞を貰った。
オスプレイ配備反対、反核、反原発、We are the 99%。平和活動系、労組系、共産党系、宗教系・・・
「再稼働反対」とは便利な言葉だなと思った。人を集めてまとめる魔法の言葉。
人が集まる場所は、2箇所にわかれていて、片方は「再稼働反対」と叫ぶところ、もう片方はスピーチやアクションをするところだった。
「再稼働反対」というシュプレヒコールは耳につく。「再稼働反対(どんちゃんどんちゃん)」今でも頭に残っている。
ずっと聴き続けていたいとはあまり思わなかったので、できるだけ移動しながら見ていた。
ダイ・インという言葉と行動を初めて知った。
やっている人にとっては意味を持つのかもしれないけど、あの行為が何をもたらすかは自分にはあまり良くわからなかった。
がれき受け入れを行う予定の橋下をデスラー総統に見立てて人類を滅ぼす気かと書かれたポスターがあった。
正直何書いてるのかよくわからなかった。
終了予定時刻の7:30になって終わり。多くの人は帰っていた。
グループで帰った人々のうち、いくつかはこれから飲みにでもいくのでしょう。
ただ、まだ残っている人がいた。
Twitterで行われている話とだいたい同じ。政府は隠しているとか、放射能は危険であるとか。
切羽詰まったその声を聞いて、その不安はあまり体に良くないと思うよ、と心のなかで呟いた。
それが終わったら、あとは反原発ソングのカラオケ大会。スピーカーで大音量。(どんちゃんどんちゃん)
どうやって終わるのかが気になってたんだけど、全く終わりそうもないので帰宅。
行ってみての感想は、やはり自分とは相容れない、ということだ。
あまりうまくまとめられない。デモだけの話ではなくなっているし、散文になってしまうが許してほしい。
・なにか違った立場に立っている。
時々話に出されたストロンチウム。検出されたストロンチウムは健康に影響のないレベル、60年代の何分の一なのに、(参照朝日新聞デジタル:福島原発事故由来のストロンチウム、10都県で初確認 - 東日本大震災、東京新聞:ストロンチウム 本当に影響ない? 監視・実測の継続必要:社会(TOKYO Web))「健康に影響のない」とは決して言わない。
60年代の何分の一とも言わない。
・「再稼働反対」という言葉には、がれき受け入れ反対も結構な割合で含まれているように感じる。
そこには、「放射能は安全です」に対する反感、「放射能は危険である」という不安が大きい。
もう、不安ではなく「すでに私たちは被害を受けている」という感覚を持っているようにも感じた。
がれき来ても0.00000何マイクロシーベルトも浴びないと思うよ。
そもそも原発以前から自然放射線を浴びてたんだよ、と言っても意味は無いのだろう。言えないけど。
放射能の拡散を防ぐって、すでに拡散されちゃってるんだけど・・・
「放射能をなくしたい」とかいう言葉も聞こえた気がする。わりと医療とかで使われてると思うんだけど・・・とも言えない。
・なんかあんまりいい感じではない気がする集会だ。
不安が解消されるものではない。デモに行けばいくほど、恐怖が高まるのではないだろうか。
Twitter見て、放射能への恐怖が高まって、デモに参加して・・・
これが解消される日は、来るのだろうか。
その恐怖、和らげてくれるものは、どこにもない。
・デモでは「これから私に起こる怖いこと」についての話をしている。
このデモが今後も続くためには「私」が「私達」にならないといけない。
東京では、福島に近い、飲み水への不安、食べ物への不安などの理由から、これからも再稼働反対デモは当分、同規模かさらに多いくらいで続くんだろうと思う。まあ再稼働は大阪なんだけどな。
大阪では、続かないかもしれない。新たな原発が動くのであれば別だけど。やはりどこか「私達」の問題にはなっていない。がれき受け入れでは弱い。東京ほど多くの人を動かす力にならない。
原発動かず電力不足のほうが心配だし(デモでは「電力足りてる」らしいけど)。
距離が感情の隔たりを生んでいる。
福一の事故では確かに何人かの命は奪われた。
だけど、わからない。
「生活を奪う」というほうがしっくりくるのになぜそうしないんだろう。
かならずいのちがうばわれる。
というわけで感想まとめ。
・「再稼働反対」はみんなをまとめる便利な言葉。
・恐怖、煽られる気がする。
・Smiling Sun - Wikipedia, the free encyclopediaのバッチはなかなかいいね。
http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/17732
http://b.hatena.ne.jp/entry/ulog.cc/a/fromdusktildawn/17732
は「工場従事、製造業は質が低い」なんて一言も書いてないのよ。むしろここで読み取るべきは質の高低ではなく価値観の新旧。ちきりんはどうしようもないけど一貫してるのは大企業や旧い企業への敵視。製造業なんてのはまさにこのおばさんから見てにっくき竜王みたいなもんなんだよ。「お前に日本の工場の半分をやろう」と持ちかけられたってそんじゃーね!の剣で斬りかかるのがこのおばさんなんだよ!
それとこのおばさんは、フロムダさんが示した
これらさえ「おばさんより老けた残念な人」ぐらいにしか思ってないって!そんな国家戦略絵図を持ち出す日本という国も、そんな製造業に憧れを持ってしまう老若男女の労働者も、おばさんから見れば旧いんだって!懐古厨乙!ぐらいに思ってるよ!
だから、「室の良し悪し」で立論してしまうことが誤りなんだ!最初からスルーするのが一番だったんだよ!
これは単純な話で、「知識産業化するから日本に製造業が必要」なんて成り立たないでしょ?よしんば海外の工場が単純労働ばかりで外国人も複雑で精緻で且つ正確な作業ができなかったとしてもだよ?それなら日本人を海外現地採用してしまえばいいじゃないか。あるいは研修終わったら即海外に飛ばすとかしちゃえばいいじゃないか。今の子は将来を人質に取られているような人生だからホイホイついてっちゃうよ?「日本国に必要」ではなく「日本人に必要」なんでしょ?それなら別に外資系に買収された海外メーカーの工場で日本人を大漁に雇ってお得意の国民芸を披露すればいいんだもんね!国民芸を披露するのに国土は選ばない(選べない)よ!
「工場=単純労働=海外に移す」という過程を「ブルーカラー蔑視」に見立てたそこの貴方、いけましぇん!
「知識産業化」した工場に従事する人をメタルカラーなんて言ったりしますが、これは結局「脱ブルーカラー」と同じで、なんだやっぱりお前もブルーカラー嫌なんじゃねえか、言葉は逆らっても心は素直じゃねえか・・・とアヘ顔ダブルピースまっしぐら!
(メタルカラーなんて定着しなかった言葉持ち出しちゃった僕もアヘ顔ダブルピースまっしぐら!)
ちょっとは反対しなさい!ぷんぷん。
どの程度をもって更生を達成したとするかは、社会や文化の発展の度合いによって違うし、ダメな生活保護者が病院で更生できる種類の人間なのかどうかも分からない。一律にどんな人でも更生可能だというテーゼの元に、更生の為に社会のリソースを注ぎ込む考えや対処が正しいのかも定かではない。更生させようとするのは、浪費ではなかろうか。適切な対処だろうか。蜃気楼を掴むためにリソースをいくら注ぎ込んでも足りる道理がない。更生の可能性という夢を捨ててしまえば、もっと良い仕組みを作れるのではないかと思う。
例えば40代半ばの精神薄弱な無職の男を更生するのに、これから20年は必要だと医師の見立てがあったとして(往々にして長期戦なのです)、更生のために、そこに人間や時間や資金を注ぎ込む価値はどれだけあるのだろうか。もっと見込みのある若い人材の教育に注いだ場合とでは、どちらが社会全体の利益を高めて、どちらが社会の中にいる人達への還元分を高めるだろうか。実際、現在の生活保護では「あなたは更生不能なので、これでヒッソリと余生を送って下さい」という、社会からの実質的な手切れ金として与えられている場合もある。
どう見ても更生困難なクズに、いつか必ず更正できると言い続けて更生を求めようとするのは、社会で自立自活している一般人のエゴではなかろうか。末期がん患者に安楽死を与えるが如く、介錯してやるのも社会の温情であり知恵であるはずだ。
例えば、生活保護受給で更生を期待されながら、実際はどうしようもなく無意味な生活をただ続けて、世間から非難を受けている人達。彼らはいっそ強制収容所に送られて社会に役立つよう身を捧げた方が、本人にとっても社会にとっても遥かに意義のある人生になるだろうし、それは更生だとも言えるのではないだろうか。
横だが心底呆れの笑いが漏れた。
父親が五十歩だか百歩だか逃げたおかげで砲弾直撃した「負傷した兵士」なんだけど。
自分について、面前で、失礼なこと言われたって話なのになんで他人面の被害者面なのw
むしろ真っ先に戦わないといけないのは元増田でしょ!
俺に言わせりゃ100歩逃げたのは元増田のほうだよ。
で、50歩逃げた兵隊に「何故敵を倒してくれんかったのだ」とか言ってる。
笑われたら「敵はあいつに近かったと思う」「俺の槍は出しにくい状況であって…」とか馬鹿な言い訳してる。
じゃないとこんな意味不明な恨みは持てない。
どっちにしろ今後の本人の生き方をどうするかの問題であって
一緒に逃げた兵士をなじる必要やなじる資格は無いと思うんだけど。
どうしてそんなに「わずかな誤差で自分より弱い人間」を捜し求めてなじりたがるの?
それって凄いみっともないよ、どう言い訳しても。
つーか、五十歩百歩引いたのがまずかったね。当てはまらなすぎて綻びてる。
アンタの見方だと元増田の場合は父親が元増田より「わずかな誤差で弱い人間」ってことになるわけ?
何を根拠に? ついうっかりと世論的な「女にカネかけても無駄」に同意してしまったことが人間の弱さだってことになるの? それをなじるなと?
俺の見立てじゃ元増田は逃げた兵士じゃなくて、父親が五十歩だか百歩だか逃げたおかげで砲弾直撃した「負傷した兵士」なんだけど。
一緒に回避に尽くしてくれても良かったのに、と思って当然だ。
女医が教えるセックスなんたらという本のレビューに、「セックスの必殺技を知りたくて読んだのに載ってないし、内容が冗長でつまらなかったです」とあった。
あの本は「セックスに必殺技なんてものは無いよ」と読者に伝えたかったんだと思う。しかし読者は必殺技を期待してしまう。
女の身体をゲームに見立てると私も共感できる。一定のペースでボタンを押し続けると敵がじんわり倒れます~なんて製品があったら、それは酷いクソゲーだ。
必殺技やらコンボやらがキマって、ド派手に倒せるからこそゲームは面白い。そういう意味では女の身体ははっきり言って面白くない。
やりこみの努力をすることで強くなるのもゲームの醍醐味だと思うが、女は男の努力に応じて良い反応を返すようにはできていない。
気分にムラがある。何もしていないのになぜか上機嫌でやたらと優しいときもあれば、良いことをしたのになぜか不機嫌なこともある。
努力に対する正当な報酬が得られないようでは、プレイヤーもやる気を失ってしまうだろう。
ゲーム開始時の初期ステータスがプレイヤーによって違いすぎるのも、やる気を削ぐ一因だと思う。
初期ステータスがやたらと高く、初戦からボス戦で、一回で倒してしまって終了…というパターンもあれば、
初期ステータスが低すぎて最弱のザコ敵すら倒せず、時間だけが経過してしまい終了…というパターンもある。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
題から見て分かるとおり、http://anond.hatelabo.jp/20110929232831のパクリです(書き終えてみれば、パクったのは題名だけですが)。
栄養学科版です。それほどメジャーな学科ではないと思う。管理栄養士になりたい人が行くところと捉えて頂ければ十分です。
そもそも、栄養士という職(資格)を知っていても、具体的にどんなことをするのか分からない方も多くいらっしゃると思います。
悲しいけれど、「給食のオバちゃんのボス」という言葉がしっくり来る現状です。
仕事は多岐に渡るのだけど、後にさらりと触れるので、ここでは省きます。
筆者は栄養学科に行きはしたが、結局は別の道を選んだ脱落者です。
これから書く内容は、現状には即していないかもしれませんが、恐らくそう外れたことでもないでしょう。
筆者がなぜ栄養士として働かなかったのか、ということについても後程述べます。
栄養士を夢見る女学生の方や、栄養系の学科ってどんなことやるの?と思う方、その他お暇な方向けです。
長い序文となりました。本文も長くなりますが、お付き合い頂ければ幸いです。
他の学部学科ならば、大学生活は割りと時間に余裕があるのではないでしょうか。人生の夏休みとも言われるほどですし。
空きコマがあるのは当たり前、丸々休みの日もある、というのが私のイメージです(他の学科について正直よく分かりませんが)。
栄養学科の場合、たまに空きコマがあっても、休みの日なんてありません。時間割がみっちり詰まっています。月曜日の朝から金曜日の夕方まで何かしらあります。
取りたい資格が少なければ、少しは余裕が生まれますが、逆にひとつでも多く資格を取りたい!となると遊ぶ時間が消えます。
衛生の資格に加え、栄養教諭の資格も取得した友人は、1年生から4年生の間まで、ずっと忙しそうでした。死にそうな顔していました。
また、実験や実習も多くあるので、それらがある日は時間割通りに行かないことも少なくはなく。
管理栄養士になるために必要な科目が必修科目になり、その量が膨大……とまでは行かなくとも(膨大なんて言ったら医師や看護師に失礼だわな)、
かなり多い部類には入るので、他の学科のように単位選択に困るわー、取得に困るわー、なんてことはありません。ここは利点かな……?
1,2年生まではみっちり勉強そして実習、3年生になると時間割の上では余裕が出来ますが、臨地実習に行かなくてはなりません。
給食施設実習(ここでの給食施設とは、保育所、学校、及び老人福祉施設などを指す)、臨床栄養実習(病院)、公衆栄養実習(保健所)の3箇所全て。
準備、臨地実習本番、報告書作成、報告会準備などに追われ、ひとつ終わったと思ったら次の実習が始まるので、3年生は結構忙しい。夏休みは半分くらい潰れました。
4年生になれば、授業ほっとんどねーや解放されたぜイヤッホゥゥ!!だが世の中そんなに甘くない。就職活動と卒業論文(実験)が待っている。
授業もそこそこそれなりにあって、臨地実習もある3年生が恐らく一番忙しい学年です。そんなだからまともな就職活動が出来るのは2月くらいからかな。
ちなみに栄養教諭を目指す人は、そのための実習があるので、さらに遅れます。
(管理)栄養士になりたくない、って人は実習等も適当に乗り切って、時間が出来る12月くらいから始めます。それでも遅いんだろうけどさ。
さて、栄養学科は文系に属するのでしょうか、理系なのでしょうか。
理系の知識がなければまずやっていけませんが(化学と生物、特に化学については高校でしっかり学んでおく必要がある)、
まるっきり理系というわけでもなく、文系のような?こともやります。
管理栄養士は、食事を作ることだけが仕事ではなく、人の相談に乗ったり(カウンセリング)、教育したりなどもします。そのための技術も必要です。
保育所や学校の栄養士の場合、最近は児童生徒等に対し、食の知識について教えることが多くなりました(いわゆる食育、何度か出てきている栄養教諭は食育専門の教諭)。
自治体の栄養士になれば、管轄地域の住民全体の健康について考えなければなりません。収集したデータをどのように統計し、解釈し、どんな計画を立てるか。
また、給食を作ると言ったって、タダで出来るわけじゃないから、経営についての知識も必要となる。あとは福祉についても少しだけやったかなあ。
前述のとおり、実験や実習も多くあります。実験は理系の学科であれば大抵やっていると思うので省きます。
食品や栄養について学ぶ学科なので、調理実習はたくさんあります。1年次はただ指定されたものを作るだけ(それはそれで楽しいしラク)ですが、
2年次から自分で献立を考えて作らなくてはならなかったり(たとえば、腎臓病の方向けの食事の場合、低蛋白高カロリーの献立を実際に考えて作らなくてはならない)、
実際の給食施設のように大量調理し、客(に見立てた学生)に配膳、アンケートを取る実習があったり、一筋縄では行かないものばかりです。
調理ではない実習もあります。たとえば低学年の児童を対象にした栄養教育を計画書から作って(児童に見立てた学生に)実演してみたりとか、カウンセリングの実習であるとか。
リーフレット作ったり、商品開発の実習をしたり、パソコンの実習もありました。
前の項と合わせて、必修の課目が多いし、分野も広い。期末はレポートの山に囲まれ、レポート作成と並行してテスト対策もしなければならないので、大混乱です。
レポートの期日が重なるなんて当たり前。テストは持ち込み不可のことが多い。劣等生は追試の山……。
ちなみに、実習の際はグループ行動が多く、グループ分けも大概教授が指示するので、ひとりぼっちになることはありません。
そういう機会に知り合いや友人が出来るので、他県から一人だけで入学したという場合も、孤立することはまずないかと。
栄養士になった人がキツくなるのか、それともキツい人が栄養士になるのかは分かりませんが、授業中にキツいことを言われることもしばしば。厳しい方が多い。
「あなたたちは即戦力となるために~」なんてのは耳にタコが出来るほど言われます。
実際、管理栄養士として就職したならば、初めての社会人経験であっても管理職として扱われます。
その時にまったく戦力にならないのでは困る、ということ。
調理員のオバちゃんをこらしめる方法を教わったときはどうしようかと思いました。
献立でダメ出しくらうの当たり前、授業中の雑談が思いの外キツいことだったりすることも当たり前(患者さんが亡くなってしまった話とか、派閥の話とか)。
むしろ、こういうことを耳にして、覚悟完了できるかできないかが、栄養士として働くか働かないかの分かれ目である。
筆者は覚悟完了出来ませんでした。これから下記に書く実情もあり。
ここまで栄養学科の話を書いてきましたが、どのように感じたでしょうか。
大学生にしてはずいぶん忙しそうだな、とか、こんなヌルい内容でキツいだなんて笑わせてくれるなど、様々な意見があるかと思います。
私も当時の思い出を振り返りながら書いているので、昔の自分であればキツいと感じたことも、今であれば当たり前と感じるのかもしれません。
それはそれで置いておいて、管理栄養士が実際に管理栄養士として働くと、
他の医療系資格よろしく(管理栄養士をコメディカルと見ない人もいるが)、常に求人はあり、その意味では困らず、食っていくに困りません。
だけど、食っていくことしか出来ません。自分の時間が取れない。食べて寝て仕事して寝て食べての繰り返し、というのが管理栄養士として就職した友人の生活。
ただ、管理栄養士はやりがいがあります。そして責任があります。誰かがやらなければならない、いのちの基本、食事に関わる職業です。
そのことにやりがいを感じ、そのために生きていける人ならば、きっとやっていけるでしょう。
それか、何でも要領よくこなせる人とか、切り替えが早い人とか。
私はそのいずれにも該当しなかったし、あとは早い段階で(ただ入学した後の話でしたが)2ch等を見て、栄養士は基本的にブラックな職業だと判断し、事務職に就きました。
何が言いたかったかというと、栄養士を夢見るお嬢さん(高校生以下)、理想と現実はかなり違うから、考え直すならば今のうちだぜ、ということです。
それから、栄養士の労働環境を知ってほしかった。他の方も様々な場所で腐るほど語っています。
テレビに出る栄養士なんて雲上の人、1000人に1人いるかいないかの超好待遇の人なので、管理栄養士が全員そうだとは間違っても思わないでくださいませ。
それではここまで読んでくださってありがとうございました。
ニコニコ神社っていうユーザが画面の向こう側から参拝者にコメントをするという形式の神社
発想それ自体はどうという程でもないのだけれど
もしかして有史以来初めて人間が本当の神社を作った瞬間なのかもとふと思った
そういうチラ裏
異議は認める
2011823追記
もし仮にそうやって集合的無意識を神様として見立てるならばの話。
祀られる側に集まってる人間が“異常に優しい”
それほど可愛くもない女の子でもブスなんて文字は滅多に踊らない
不細工な男で多少うざくてもわりと大らかに受け入れている
本来ならばネットに顔を晒すような人間を馬鹿にするメンタリティーの人々とは思えないくらいにだ
荒霊や和魂的な神道信仰において祀られると魔王が強力な神になる理屈に
そのまま今回のネットの中の集合的無意識が当てはまるかもと思った
言わば、気に触ることをしただけ、もしくは触れただけで祟り殺される荒御霊は
無秩序な状態では鬼女やらなんやらになり、
一度ああやって祀られると来たものを祝福する和魂状態へなったりして
わりと興味深いかもしれない。
神様ってそう考えるとそんな感じなのかもね
『七月七日展 ― 衣服造形/コンセプチュアル・クローズ』を見た。
眞田岳彦氏の弟子(?)の作品が中心らしい。
それほど期待しないで行ったのだけど、なかなか良かった。
宮園夕加さんの、ボタンとボタンホールの距離を天の川に見立てて、
伝説では、天の川の橋渡しをするのはカササギの役目なんだそうだ。
テーマの「針仕事」と「七夕」が無理なく融合されてて、それを一番うまく表現してる作品だったと思う。
単純に、見た目がかわいいのも良い。
今回のベスト!
奥村絵美さんの作品も良かった。これも一見してとてもかわいい。
人間を一本の「まち針」として捉えるというコンセプト。
粘土と針でつくられたたくさんの小さな人間が、それぞれに環境を仮止めしている。
「針を自分自身の比喩とする、っていうアイディアはありだな」って私自身展示を見る前に
考えていたのだけど、縫い物をやらない私にはそこで「まち針」という発想は出なかった。
でも言われてみれば納得、でした。
仮止めされる「環境」の部分を何かもっと表現できそうかも、とも思ったけど。
良かったとストレートに言えるタイプの作品ではないけど、好きだ。「コンセプチュアル」。
糸が縫い付けられている。タイトルは『誰でもない肖像』。
写真の上から縫う技法は、有名な清川あさみさんを思い出させる。
けど、写真の女性が制作者の針仕事によって「誰でもなく」されてしまうことには一体
どういう意味があるのか。あるいは針仕事で加工される前から、彼女は誰でもないのか。
…写真に写る私は、そこに縫い付けられている限りでの人間であって、無限のあり方を
可能的にもつ自由な実存としての私ではない、だから「誰でもない」…?
制作者はこの展示のチラシで、針仕事について、「私たちの存在を露にし、生き生きとさせる」と書いてる。
こんなことを言われると、私としては、ハイデガーの技術論を持ち出して、その中に「針仕事」の
ポジティブな位置づけを探して色々言いたくなってしまうけど、結局のところ、その言葉と、
制作者自身の作品との関連はよく見えない。
う~ん。
…写真に写っているのは過去の私である。それは過去のその時点に縫い付けられている限りでの
私であって、現在の私とは異なっているし、通時的な無限定の私とも異なっている。だから、
過去において確かにそれは私だったが、いまや「誰でもない」…?
あと2つくらい気になる作品はあったけど、作者名も作品名も覚えてないので割愛。
帰りにブリジストン美術館に寄ろうと思ったら展示替え中で休館だった。
(エス)
===================
7月7日展 -針仕事に願いをこめた37名のデザイン&アート小作品展-
会期 7月4日(月)~7月9日(土) 10.:30~18:30(最終日のみ17:00まで)
入場無料
TEL 03-3281-0320 FAX 03-3281-0366
出展作家:
大江よう 今村滋男 藤谷さやか 末延晋太郎 久保田玲奈 関美来 飯田亜希子 土井直也
永井俊平 山口真代 宮田明日鹿 山中周子 宮園夕加 佐藤綾 松田かや 三上司 加藤ゆき子
桑田麻弓 後藤有紀 奥村絵美 平尾菜美 アーヴィン=ヒバ=アリ 小平由実 西村洵子 平井幸恵
盧暎雅 島田彩子 池田のぞみ 山本佳那 長鶴司 林凡乃 大八木富士奈
===================
Sanada Studio Inc. (サナダスタジオ)-眞田岳彦のデザイン事務所
京橋「千疋屋ギャラリー」で「七月七日展」を観る。 - マスヒロ食時記
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/ever_neet/20110113/1294916683
「これは差別だ!」っていう奴には「お前が嫌いなんだよ^^」で済む話。
常に勝ち上がらねばならないのだ。高きに媚び、並びを蹴散らし、低きに与えよ。
kaguran999 付き合いづらい人と付き合わないのはどこの国だって常識だろうが。人付き合いはボランディアじゃねーんだよ。 2011/01/14
正論。みんななかよくとか言ってる奴は率先してキチガイを引きとってもらいたいね。
yuuru 相手の出自や能力、経歴、過去の行動等を総合的に勘案し、それに合わせた対応を行う事は、見方を変えればこれも平等主義だと思うがなぁ。この人の論調を延ばした先には共産的なる物しか見えてこない 2011/01/14
そのとおり!各人各人に差別をするのはマクロな平等なのですよ。
隣の人と待遇が違うのを本能が気にくわない故、同じだけの処遇にしろというのが、差別をなくそうと声高に挙げる人の思想信条。近視的でバカ。差別こそが善。
gremor 文化, 社会 別に差別=悪と言うわけではないし、不当だと感じるならそれをきちんと表明してくれなきゃ普通は分からない。そもそも、状況や相手に応じた対応を差別と言い出したら社会がおかしくなる (既にその気はあるけど 2011/01/14
teramako 中高生の頃、友人が「差別と区別は別物だ」と言っていたが全然理解できなかったのを思い出した。未だに理解できていない。
その友人は差別を悪と見立てた上で主張しているから、そのような意味不明な主張をするのです。理解できないのも無理はありません。なぜなら区別と差別は同じであり、差別は善なのだからわざわざ区別を持ち出す必要すらないのです。
sisya それ、日本人同士でも日常的に行っている距離の取り方の一つってだけじゃないの?外国人からみるとカルチャーショックだったというだけで 2011/01/14
そのとおり。個々人に適切な処遇をする、きわめて健全な行動ですね。これを是正するのは単なる悪平等です。
mats3003 僕は自分自身が根源的には差別主義者だと思ってるから、できるだけ差別はしないようにしないとならんと思ってます。 2011/01/14
それはいけません。差別をしないようにする必要なんてないのです。もっと積極的かつ能動的な差別を!
napsucks やだねぇ、こういった原罪植え付け型の主張は。実に汚い。そうだ、僕たちは生まれながらに差別的だったのだw 2011/01/14
前段はともかく、後段はそのとおりですな。差別をしてはならないという理性的(翻ってバカw)な思慮が、本能的な差別という精神を抑圧しているのですからね。ほら、理性的な人って本能的な振る舞いを悪と決めつけがちでしょ?セックスとかw
多分リアル上野千鶴子を見てきたからというのと、はてなではFの人とFの人とKの人を見てきたからだけど。
フェミニズム論壇の人って「論敵とみなした相手にレッテルを貼る」とか、「進んだ学者として自らを見立てて、他人を馬鹿な学生であると見立てて馬鹿にして笑う」とか、
「全て男が悪い、という戦術と、「全て男が悪い」というメッセージを受けた奴は悪い、というダブルバインド戦術を取る」とか、
「自分が気に入らないことには、どんなに相手が説明を尽くしても、固定観念に基づいて悪として決め付ける」とか、そういうところがあって好きじゃない。
自分でフェミニズムとか言ってる人は「ああ、レッテルで人を小馬鹿にして喜びたい、正義の持つ罰の快楽に忠実な性格なんだろうか、やだなあ」という強力な疑いを持っている。
真摯に性について掘り下げている人と、権力闘争のためにやってる人の違いはかなり目立ってあるように思う。俺のブログの掲示板でも見てきた。うんざり。
なんすか、レポートでも書くんすか。
動画見てないけど、理性ある核保有国間なら戦争は抑止されるというのは考えにくい。
国を一個人に見立てると分かりやすい。人間はちょっとした凶器を持てば他の人間を殺すことができるけど、その事実があっても相手を殺すに至らない喧嘩は様々な手段をもって様々な程度で行うよね。
国家間でもそれは同じで、理性があるとすれば、例えば戦争の規模がちょっとした領地のぶんどり合戦程度なら核は使わずにやり合うはず。
個人的には、日本が核兵器を持つべきかについて長期的にはイエスだと思う。2つ理由があって、1つは原子力潜水艦とセットで核ミサイルを持てば、相手国(ま、中国だよね。)が「従わないなら核撃つぞ」と言ってきた時の抑止力にはなるから。(ただ、核兵器以外の通常の戦力で攻めてきた時の抑止力としてはあまり期待できないけど。)もう1つは、50年以上のスパンで見た場合、アメリカと中国のパワーバランスが完全に中国側に傾いて、アメリカが太平洋の最前線に浮かんでる財布兼不沈空母である日本を手放さざるを得なくなる状況はあり得るから。今のところ日本はアメリカの核の傘に守られていると言われているけど、それはそうしておいたほうが今のアメリカにとって得だからであって、将来もそうであるとは限らないと思ってる。