はてなキーワード: 薄っぺらとは
3行まとめ
・仮面ライダーゼロワンという特撮では人型ヒューマギア(アンドロイド)が多数登場しMCチェケラはラッパー型ヒューマギア
・登場した第28話において政治家の汚職事件を目の当たりにしシンギュラリティを超えて自我に目覚め「汚え人間は滅びろ!」と叫び暴走して怪人になる
・奇しくもその後作中のラスボスと真ラスボスが導き出した結論が同じ「人類滅亡」
ゼロワンはコロナにより途中何度かの総集編を挟むとはいえ、全4クールの特撮である。
その3クール目の中盤においてMCチェケラは他者の介入ではなく自分の意志によって「人類は滅びるべき」であるという答えに自らたどり着く。
その後に真のラスボスが自我に目覚めた上で同じ結論にたどり着くのが4クール目中盤であり、実に丸々1クール分早く作品の究極の問いかけを始めてしまったことになる。
これが主要キャラの手によるものならばまだしも、MCチェケラはぶっちゃければ各話ほぼ使い捨てのゲストキャラ兼怪人でしかない。
真ラスボスがこの答えを導くのにかかったのは番組のほぼ全期間、それに対してMCチェケラはたったの1話。
作中の描写に置いては極めて短時間での結論であるが、その問の重さは同じであるはずだ。
人類という悪意の源泉が存在すること自体が人とヒューマギア双方に不幸を生むのなら、人類こそが滅びるべきなのでは?という問いかけをしたのがゲストキャラだろうとメインキャラだろうと、問いの内容は同じなのだから。
MCチェケラの存在があまりに時期尚早かつ劇的であったことから、彼はその後作品から半ば抹消されることになる。
総集編においても彼がこの思想に目覚めた理由が「ラッパーという職業がもともと人の悪意を蓄積しやすい職業だったからだ」という職業差別のような言い方で片付けられてしまう。
何故そうなったのかは、作劇上の都合も大きいだろう。
その後3クール目後半から4クール目にかけての主人公の決め台詞が「夢を通じて自我に目覚めたヒューマギアは絶対に暴走はしない!」であり、極めて食い合わせが悪いのだ。
夢や自我に目覚めたら暴走しないというのならば、人を滅ぼすという夢に目覚めシンギュラリティを超えたチェケラが怪人となったことは暴走ではなかったのか?という当然の疑問が生まれてしまう。
この噛み合わなさがすぐに片付けられたのならば、単なる作劇上の小さなミスで終わっただろう。
だが。そこからフォローを一切しなかったのはあまりにも大きな痛手となる。
チェケラが人類滅亡思想に目覚めた理由に対して、ラスボスの介入があっただとか、故障があったとか、なんなら夢や自我の定義を狭めて使っていることを公表するとか、何かしらやりようはあった。
だが仮面ライダーゼロワンスタッフが取った対応は、完璧な無視である。
作品が最後に立ち向かう問がまさにその「ヒューマギアが人類滅亡を夢見た時、人はどうやって対話をするのか」なのだから。
MCチェケラに対して主人公や番組スタッフが行ったのは「ぶっ倒したら存在を忘れ去る」ことだった。
では、共闘や話し合いを何度も繰り返し物語をいくつも積み上げてきたラスボスに対してもそれを繰り返すのだろうか?
あれだけの時間を積み上げて、結局は都合が悪くなったので存在をなかったことにするのが令和最初のライダーのやり方になるのか?
いい年をして特撮番組に齧りついている大きなお友達の注目が集まっている。
1つはここで語れるような先駆者になりすぎて番組から消された問題児。
もう1つが、ラスボスと違って咄嗟に逆上して汚い言葉を口にしただけの薄っぺらいチンピラアンドロイド。
では考えてみよう。
MCチェケラの口にした「汚え人間は滅びろ!」は果たしてラッパーの雑なDISだったのだろうか?
彼がなにに対してそこまで怒りを示したのかをまずは公式サイトから引用してみよう
「お仕事五番勝負」の最終戦は、ヒューマギア自治都市構想を巡る住民投票で支持を得るための演説対決となった。ザイアは市会議員の由藤(大塩ゴウ)を起用し、ヒューマギア廃絶を強力に訴える。
対する或人(高橋文哉)も政治家ヒューマギアで対抗しようとするが、ヒューマギアは政治家になることを禁じられているため“政治家ヒューマギア”は開発されていない。イズ(鶴嶋乃愛)はラッパーヒューマギアのMCチェケラ(副島淳)で勝負を、と提案する。
或人とチェケラは由藤が賄賂を受け取っている現場を抑えることに成功。テレビの公開討論会でチェケラは映像とともに由藤の悪行を暴露する。一気にチェケラの支持が上昇するが、由藤はザイアスペックを使い濡れ衣だと主張。証拠となる映像を提示し、チェケラの映像をフェイクだと言い放つ。
引用元URL https://www.tv-asahi.co.jp/zero-one/story/?28
短くまとめると「討論相手の政治家が賄賂を受け取っていることを映像と共に批判した所、相手側は偽の映像を用意してきた」ということになる。
十分だと私は思う。
まず、政治家とは人間社会全体の方向性を決めるような職業であり、それが悪事に手を染めるということは人類の方向性そのものが悪に向かう傾向があるということになる。
次に、その悪事が暴かれたときのためのフェイク映像があっさり出てきたということは、悪事を働く者達はその隠蔽に長けており、人類はそれを裁くだけの自浄作用を持ち合わせていないということだ。
なにより、記録というものはヒューマギアにとって記憶とイコールである。そこにフェイクを混ぜるのは世界そのものの再構築にすら近い極めて危険な行為となる。自分の罪を逃れるためなら平気でそれを行う人間の姿は倫理的に大きな絶望を与えることが想像に難くない。
MCチェケラが目撃したのは「人類社会は確実に悪に向かいながらも自浄作用がなく倫理観が崩壊している姿」なのだ。
作中の他の場面で、『ヒューマギアってやっぱ純粋だな。よくも悪くも、ラーニングの影響をもろに受ける』いうセリフが出てくるが、まさに純粋な心をもって解釈すれば人類は滅亡すべきであるという結論にたどり着き、ロボット三原則との矛盾からシンギュラリティに到達するのは当然とも言える場面なのだ。
MCチェケラ、彼の語る人類滅亡論はある意味では極論だが、そのロジックが間違っているとは言い難い。
それについて何故、主人公もスタッフも向き合うことがなかったのか、それでいて何故今になって同じ問題を最終決戦として取り上げるのか。
私にはそれが分からない。
今年社会人向けの学校に通ってたんだ。1年間時間の都合をつけ通うのは大変だった。課題も多く出された。でもなんとかもうすぐ修了できそう。
しかしやっぱ来なくなる人もいるんだよ。
そんな来なくなった人のSNSアカウントをたまたま見つけたんだ。少し気になって履歴を遡ってみた。
そしたら彼が学校に入学した頃から辞めた頃までがすっぽりと抜け落ちてた。きっと消したんだと思う。そんなに投稿が多い方ではないとはいえ、コンスタントに投稿されていたのにその期間が綺麗にないのはまぁそういうことだろう。
辞めた後はその学校に通っていた事を示唆するような投稿も一切なし。
そりゃ社会人だからね。転職をしたり仕事の都合がつけられなくなったり色々あるだろう。
でもさ、残念だわ。彼にとってあの学校は無かったことになってるんだな。
修了できなかったとはいえ、学んだ事はあるだろうに。得たものはあるだろうに。辞めた、挫折したものは人に知られたくないんだな。
失敗は人に知られたくないんだな。
残念だわ。
どんなに綺麗で意識の高いことをSNSに投稿しようとも自分の過去を消して知らん顔するような人間は薄っぺらいよ。
しょうもない奴だ。
とある漫画を読んだ。それを読んで引き摺り出された「努力と普通」に関する自己嫌悪と自己愛を吐き出す。
死にたいけど死ぬための努力もしたくない。なんにもなれないならボタン一つで苦痛なく死にたい。そのための苦労は他人が負ってほしい。この考えはエゴなんだろうか。
ずっと努力していない状態が「普通」で、努力しているのは「がんばっている」だと思っていた。がんばることは辛いからがんばっている人は偉い。偉くなりたくなければ、努力しなくてもいい。
なぜかそんな思考が染み付いている。
でも、成長したら普通になるために努力するのが「普通」だと叩き付けられた。何かにつけて、普通の人との差を見せ付けられるたびに自分の本当の順位を見せられて痛い。
私は現実の見方が、受け入れ方がわからない。「こんなはずじゃなかった」といえばいいのか。そういう処世術を誰も教えてくれなかったじゃないか。
本当は小さいころから努力のやり方を学ばないといけなかったのだ。小学校のときから努力が大嫌いで、適当にやってもテストで平均点取れてるからみんなの言う「普通の学校」に進学できると思っていたんだ。
この普通は100点中、50点だ。本気で私は50点の人間だと信じ込んでいた。競争の真っ只中に放られるまで。
それがどうだ?勉強をすべて投げ、かといって趣味もなく、何にも打ち込まない。コミュニケーション不全を拗らせたぼっちが、どこの世界の50点なんだ?
よく考えてみなくても、友達も実績もどこかからか湧いてくるわけではない。誰かが努力の末に手に入れているものだとという視点は皆無だった。そもそも人への興味を持とうとすらしなかった。
手に入れた人は運が良く才能があって、結果的にそうなった。だから私にも運と才能があれば、他人みたいな普通の幸せがやってくる。
だって、自分が何もしてこなくて平均以下であることを認めたくない。私は普通だ!まだ人生はやり直せる!ああ、努力する才能さえあれば!
なにをいってる。身の程を知れ。20年間何もしてこなかったツケを今払ってるだけだろ。
でも、こんな文章を書いて自己正当化を図るくらいにはプライドは高くなって、自己愛は素晴らしく自分の性分を肯定する。
ようするに自分のことを理解できている人のふりして長文を書き、気持ちよくなりたいだけだ。何かを実際にしたいわけではないし、本質は目を逸らしたいところにあるので自分への理解さえ十分にできない。匿名世界ですら悲劇のヒロインでいたいんだろうとは思うが。
せめて言い訳ぐらいは上手くなってくれればいいのに、それすら「他人のせい」の一点張り。薄っぺらすぎてつまらない。何にもない。
もうだめだ。クズがクズのまま許容される社会を真面目に望むし、評価される社会が嫌だ。それって、努力する全ての人を馬鹿にしているだろうか。
今回はこの場をお借りして原作未履修者について少しばかり自分の思うことを書いていこうと思う。
まず私は原作主義者だ。「原作やってないけど創作しましたー!」っていうのが嫌いなタイプだ。
タイトルの主語は少し大きいが、原作未履修者を全員叩く文ではない。これは「原作全く知らないから自分なりに考えて独自の設定をつけてオリキャラみたいにしました!」という人を指す言葉である。
自界隈ははっきりいうと原作をやっていない人が創作をしていたりするようなジャンルだ。昔の作品であり、今は入手するのが少しばかり面倒な作品であるからであるのと、今はネットで調べればあらすじやキャラクターの関係なんかは出てくるからというのもあるだろう。そのため原作を見たことのない人が少なからずいる。
ゲームなんかだと実況動画を見て終わらせたり…これに関してはかなりグレーゾーンであるが。
いるのは仕方がない。私も今のジャンルを知ったきっかけはTLに偶然流れてきた二次創作を見たからであり、その頃はキャラクターは知っているが原作は知らないレベルだったからだ。その作品は原作が好きな人が考察を含めて愛を綴った作品で、魅力の伝え方がうまかったのもあり原作も面白そうだと色々と調べていくうちに「まぁ少し触れるだけなら」と原作に触れて沼に落ちた。
そんな私が原作をやっていない人をどうして苦手とするかというと、作品に対してではなくキャラ単体であったりカプであったりに萌えている人が多いからであり、そのような人が描くキャラクター像は上で書いたようにオリキャラのようになりがちだからである。
どれだけ検索をしようがそこに書かれた文からはキャラクターの心情や表情、性格などをはっきりと知ることはできない。こればかりは台詞回しやそのキャラクターに関わった人の動きなどを見なければ感じることができないと思っている。そしてそれはまとめサイトには載っていない。
自分の推しすらもこれこれこういう経歴のある心優しい人としか表記されていなかった。優しいからこそ自分に厳しく見ているこっちが心配になるぐらい精神的に弱かったりもするし、仲間に支えられたりしているんだけども。
だからこそ自分の推しに対して「優しいところが好き!聖人すぎて眩しい!」って持ち上げて騒いでいる人を見ると、この人は原作見てないなと思ってしまう。「優しいからこそ弱い。そこが魅力なんだ」と語る人との差異が顕著に出てくる。
たとえ実況動画で見たとしても実況者の意見に引っ張られやすいためそこから自分の意見を持つことは難しいだろう。
そのため原作を知らない人が描いたキャラクターはどこか薄っぺらく魂がない。魂がないため創作者自身が透けて見える。何かが違うのだ。
歴史上の伝説のみを聞いている人と、その時代に生きていた人の語りだと例えるとわかりやすいだろう。
薄っぺらいからこそ、こうであったら嬉しいな!私はこういう設定が好きだな!と設定が付け加えられる。それはもうそのキャラクターではなく作者のオリキャラじゃないかってほどに。そして台詞すらも薄くなる。
そうなるとどうなるだろうか。
自分がこの色の方がいいからって服や髪や目の色を変えられる。まとめサイトに書いていないからって過去を捏造される。性格を変えられる。
なんかしらの設定を付けて私物化しないでくれ。それは誰だ?原作を踏み台にキャラクターという素材を使って行う一次創作キャラみたいなものになっているじゃないか。
残ったのは髪型と整った顔だけで、そのキャラである必要はあるのだろうかと疑問に思うことも多い。お人形遊びのようにキャラクターを扱うその人がキャラクターに求めているのは残ったそこだけなんだろうけども。
このキャラに対して愛が重いとか自慢をするぐらいならせめて原作を見てくれ、頼む。愛が重いのならそのぐらいの投資は安いものじゃないか?
そのような人が作る作品を見て、原作を知らないけどこの人のキャラクターは好きだなという人が現れて誤解の連鎖が続いてしまう。薄っぺらいからこそ原作に対して魅力を感じさせることができず、キャラ萌えのみの間違った解釈が広まってしまう。「このキャラクターはかっこいいね、可愛いね、綺麗だね」で終わってしまう。
私が最初に見た作品が原作愛のある作品だったからこそ私はここまで落ちたのもあるだろう。それまではキャラクターを見たことはあったがここまでは落ちていなかった。
そして絵がうまい人に限ってそれをやりがちだ。原作をきちんと知らない人にとっては二次創作こそが作品への入り口になってしまうし、原作となってしまうんだ。気をつけてほしい。
「〇〇さんの描く黒(化された)キャラが好き!好きなんだけど探してもないんだよな〜」と言うツイートを見たときは頭を抱えたくなった。
自分好みのキャラクターではなくキャラクター自身を愛してあげてほしい。着せ替え人形みたいな扱いをしないでほしい。
原作を履修せずに創作をしている人は一度支部やTwitterなどでキャラクター名やカプ名ではなく原作名でも検索をかけてみてほしい。その世界はあなたの考えている世界と同じだろうか。
この時期まで就活しても内定決まらないような人間は、もう色々諦めたほうがいいよな。
関わりの薄い知り合いにうつ病患って、闘病中の自分をネタにしてyoutubeに動画投稿してるような、自分としてはおもっくそに見下してた人間がいるんだけど、
そんな人間から「私も9月まで内定出なかったけど、なんとかやれてるから大丈夫!」とか励まされた。健全な精神持ってて、こいつと自分は同じ程度の社会価値なのかと思うと苦しくなった。「なんとかやれてる」?ってやれてないだろ。実際うつ病なってるじゃねえかよ。
もう大体諦めてるけど、就活ミスったらマトモな社会人生活なんか諦めたほうがいいか。郊外のコンビニの駐車場に社用車停めて、その中でスマホゲームやって時間をつぶすような薄っぺらい人生を送るんやろな。しんどい。
梅雨寒の中、自カプへの浅い考察で苦しんでいらっしゃるでしょうか。
ご両親と仲が良いあなたはいつか来る離別に怯えていらっしゃるのでしょう。不仲でご家庭に居場所がないあなた方は相も変わらず飲酒で誤魔化していることと存じます。
この度は私が書いた拙作への侮蔑をいただき、ありがとうございました。今回に限った話ではありませんが、一生忘れません。
思い返せばいつでもそうでした。一人が調子に乗って暴言・暴力に近い内輪ネタを擦っては他二人がそれに同調する。私がそれを笑って流す一連の流れが大好きでしたね。おかげであなた方は学生の頃から周囲から浮いていて、それを気にしないスタンスで大声でTPOを弁えないことを言っては大はしゃぎ。まあ学生生活での陰キャなんてそんなものですが。私の所属する団体を、その仲間がいる前で罵ったときのことはいつまでも忘れません。
みんな最高!の「みんな」の中に私がいなくなったと明確に示された時。もう離れようと決意しました。一年前の夏の事です。距離を取り始めた私を、いつしか下等の存在と認識するようになりましたね。その時に言ったことも、ちゃんといつまでも覚えてますよ。いつまで骨格から崩れている絵を描き続けては、仲間内で称賛し続けるのですか?自分が気に入らない話をさせないから、カップリングの解釈から普段話すことまで皆一辺倒。課金額を競えど絵の上手さは競わない。だってここの解釈が一番だから?馬鹿馬鹿しい。
こちらは幸いにも文筆で個人のご依頼を頂く機会が増えました。下手な奴は絵を描くなと言われて以来、呪いにかかったように何も描けませんでしたが、また下手なりの絵を描き始めました。二年前に言われた、絵が上手い人だけが解釈がしっかりしているという言葉から、やっと解き放たれたと思います。
これを書こうとした理由は、あなた方が数日前に称賛した二次創作が私の作品だったからです。笑いました。監視していたあなた方が、私という符号が着いただけで貶していた作品があなた方の心に響くという、すべての薄っぺらさに。
笑った後に、なぜこんなことをしているのかと思いました。蔑ろにされた作品たちと、過去の私の分。報いたはずなのにどうしようもなく何もない。
何もないから、もう何もしません。疲れました。私は絶対に筆を折らないし、あなた方の不幸を祈り続けるけれど、いや、不幸に苦しんでいてくれと呪います。
若くて才能のある、それも容姿端麗な人が死ぬとみんな好き勝手に言う。死んじゃ駄目だとか、私たちは助けてあげられなかったとか。
「この思いが天国に届いてますように」に対して「きっと届いてるよ!」と無邪気に返す人たちを見て目の前が真っ暗になった。
まだ訃報を耳にしたばっかでもうそんなこと言ってしまえるのか。
届いてるって何だよ。なんですぐにいい話にしようとするんだよ。自分たちのために物語を作るな。死にたいとも思ってない自分が救われたがるな。こんな悲しい決断をするところまで追い詰められた人を消費して、自分に酔うのはやめろ。
もうみんな黙ってくれ。頼むから何も言わないでくれ。
今ものすごく悲しいから静かに悲しませてほしいのに、自分の話をしたがるやつが多すぎて嫌になる。 ツイッターで散々いろんなことを言われてるのを目にしてめちゃくちゃに傷ついたから、日曜の晩から今までツイッターもインスタも一切触れてない。 SNSに依存気味だからすぐに癖で開きそうになるけど堪えてる。
死んだら駄目だって言うやつ山ほどいるけどあんたは何なの?どんなに悲しくても生きてればいいことあるよ、じゃないんだよ。
じゃあそれは具体的にいつなんだよ。いつまで我慢したらいいことがあるんだよ。他人の人生に責任なんか持てない癖に、薄っぺらな正しいっぽい言葉すらすら吐いて気持ちよくなってんじゃねーって思う。
いいこと起こるまで耐えられないくらい今がどうしようもなく辛いっていうのは、そんなに理解に苦しむ話なの?少しも我慢せずに死ぬ道を選んだって思うの?耐えて耐えて耐えてきて、それでもやっぱり辛かった結果だとは思わないの?あんたそれ想像力と思いやりが足りてないんじゃないの。
死にたいって思う人に、死ななくても済む理由を見つけさせられなかった世界が負けたんだよ。
残された側は悲しいけどね。本当に辛いけどね。でも私たちの悲しみ苦しみは問題じゃない。いちばん大事にされるべきなのは、死んでしまった人の感情だから。
せめて今もう辛くなければいいなと祈ることしかできないのは、目眩がするほどやるせなくて何もかも投げ出してしまいたくなる。
でもそれしかできないよ。あとは素晴らしい出演作をときどき観て、やっぱり素敵な人だったなあと懐かしむのが精一杯だよ。それ以上に何かできると思うのは傲慢です。あの素敵な人のことを全部悲しい思い出にしてしまわないように、今はまだ胸が痛くて難しいけど、定期的に作品を見返していきたい。
去年なんとか取れたチケットでキンキーブーツを初めて観た。そのパンフレットを開いて眺めていたらブワッといきなり涙が溢れてきた。まだどこか受け止められていなかった現実を脳が唐突に理解して、涙腺が壊れてしまった。
最高の舞台だったな。悪くもないけどあまりよくもない席が当たったのだけど、微妙な座席であることなんか気にならないほどのめり込んだ。
あの舞台に救われた。辛くて苦しくて塞ぎ込んでいた時期だったけど、踏み出す勇気をもらった。自分のありたい姿で生きるのは困難で勇気がいることだけど、そうやって真っ直ぐ生きる姿が格好よかった。また何としても観に行くぞって思ってた。
また、はもうない。日曜日から胸を占めていたぼんやりしていた悲しみが輪郭を持って、感情が今になって追いついてきた。タイムラグがあった分、勢いが凄まじくて止められなかった。泣いても泣いても止まらない。
あの素晴らしい舞台の記憶を綺麗に保存しておけたらいいのに。忘れたいことに限って忘れられないし、覚えていたいことは次々と思い出せなくなってしまう。
忘れたくないな。覚えていたいな。悲しい最期だけを記憶に残すんじゃなくて、きらきら輝いていた瞬間のこともちゃんと私の中に残しておきたい。
嫁と買い物にいくとき嫁がかけたCDがOfficial髭男dismのTravelerだったわけだがひと通り聴いて愕然とした
なんだこりゃあである 歌詞の薄っぺらさというか適当さというか単調さというかとにかく酷い
作詞能力が無い人が一生懸命何曲も書くとこうなるのかなと思えるくらい
小説家は「綺麗」って単語を使わずにいかに綺麗さを表現するか日々努力してるわけじゃない
なのにこいつらときたらサビで「君は綺麗だ」とか言っちゃうわけで聴いてる側からしたら「へえそれで?」以外の感想が出ない
まあ他にも「不可解」だの「理不尽」だのって歌詞を何度も何度も使い回すところとかどうなんだろう
1枚のアルバムの中に「群青」って歌詞が2曲も使われてるのはどうなんだ お前は色を群青色しか知らないのか?
と色々思ったけど嫁に「どう?」と聞かれたんで「まあいいんじゃないすか」と答えておきました 二度と聴かないけどね
昔で言うところのネットサーフィンっていうようにネットの人間関係は流動的だし。8~10年来の付き合いがあるネットの友人が数名いるが、遊ぶゲームが変わって縁が切れたかと思いきや別のゲームで再開してなんだかんだよく遊ぶようになるって事もある。「一緒にゲームする」ってレベルのあっさりとした関係を重ねていくうちにゲーム仲間を紹介されて一緒に遊んだりするのを繰り返していたらいい感じの関係が深まるんじゃね?
あと増田がゲームが好きでたまらないって場合ならtwitterだのSNSで考察語ったりだとか、好きなゲームの話をしていると共感する人がフォローしてくれたりもするかもよ
オフ会だったり、
そこまでの人間関係って
どうやってネット上で構築するの?
コミュ力は無くはないと思ってる。
ゲームをして過ごすことが多い。
友達を増やそうとしてみたんだ。
結果として、遊ぶ友達はできなくはない。
人間性が合うわけではない。
PvPであれば対戦相手を貶したりする人もかなり多い。暴言を聞くのは気分がいいものではないので苦手意識が生まれてしまう。
顔が見えない分踏み込みづらい。
Twitterで馬の合いそうな人を探そうとしても
見つけ出すのは至難の技だ。
ネットに慣れてる人に教えてほしい。
どうしたら居心地のいいコミュニティを
見つけることができるんだ?
そしてどうしたら信頼できる友人を
見つけられるんだ?
Qiitaで下らない記事を見つけたとき、その投稿者のプロフィールを見てみると、高確率で他も下らない記事ばっか書いている。
しかも、そいつらの記事を書くスピードは早い。息するゴミ製造機である。
初学者が学習メモを投稿しているのではなく、当の本人は彼なりの「理解」と「拘り」に基づいて書いていることが伝わってくる。だから、余計に痛々しい。
目立つゴミ記事の特徴は、とにかく実質的に何も説明していないこと。そして、キーワードとキーワードをつないで、技術的なトレンドを把握したような気になっていることだ。
たとえば、明らかにCPUやコンパイラの仕組み、アセンブリ等の知識のない人たちが、「コンピュータは二進法で動いている」みたいな表面だけの全く内容のない記事を量産している。
もちろん「まだ学習途中で、大雑把な仕組みは知っていますが、詳細は分かりません。より詳しく知りたい人はパタヘネとか読んで下さい」とでも言っているなら、まだ好感が持てる。
しかし、ゴミ記事は内容を説明せずに、とにかくたとえ話や関連キーワードの羅列に走る。書いている本人にとっては、それこそがコンピュータの技術を勉強することなのだという気迫と拘りだけは伝わる。それだけに、傍から見るとすごくイタい。
これは検索エンジンのしくみ上仕方ないのだが、そういう記事はSEO効果がめちゃくちゃ高い。何せ、人が検索するようなキーワードが散りばめられているし、馬鹿でも読めるので多くの人がアクセスするから。だから余計に目立つ。本当に迷惑。
こういうのは現実にもいて、色々知っててすげえなあと思って実際会ってみたら、バブルソートとクイックソートの計算量の違いも説明できない人だったみたいなことが幾度となくある。
もう、こういうのやめませんか?誰の得にもなってない。
「『最高でした』の一言でも感想もらえたら嬉しい」という主張をTwitterなどでたまに見かける。
「感想ほしい」系の話題になったとき、「シンプルに『読みました、良かったです』だけでもめちゃくちゃありがたい」とツイートしているフォロワーもいた。
私はそう思わない。
「最高でした」とか「良かったです」とか、ほんの一言しかコメントがこなかったら、がっかりする。
2015年から2017年ごろ、私はpixivで小説を書いていた。漫画もたまに描いた。
覇権というほどではないけど、その時期放映していたアニメの中ではかなり人気のあるジャンルだった。
流行のさなか、投稿した小説は最高5,000、漫画は4,000程度のブックマークがついた。
もちろん流行ジャンルの力があってこそだけど、それにしても、かなり読んでもらえていた方だと思う。
目にとめてもらえるだけでもありがたいのに、気に入ってブックマークまでしてもらえるなんて、書き手冥利に尽きる。
ただその多くが
「最高でした」
「良かった…」
「尊い…」
いやぁ……
これがねぇ、驚くほど嬉しくない。
オタクならわかってくれると思うけど、アニメで好きなキャラ達が動いて喋っているのを見ると、うおああああ…と悶絶してしまう。
愛しさとか憧憬とかいじらしさとか切なさとか、ありていに言えば萌えとか、いろんな感情が胸にきて、どうしようもなくなる。
うんうん頭をひねって、自分の中のあらゆる引き出しを開けて、ぴったりくる表現を探しながら書く。
ああでもない、こうでもないと試行錯誤する。思うように表現できずに苦しい時もある。
「なんで私、苦しんでまでこんなことしてるんだろ…」と冷静になりそうな自分を「好きだからだろ!」と激励して書く。
書いているうちに「死ぬほどつまんないな」と思って、ダーーーッと文章を消して、また1から書き直したりする。
時には3万文字だったり5万文字だったり7万文字だったり、本が出せるほどの長文になった(本も出した)。
「最高でした」
「良かった…」
「尊い…」
…………。
なんていうのかな、肩透かしって言ったらいいのかな?
ワクワクしながら確認したら、安っぽいコメントが、たった一言しか書き込まれてない。
えっ?それだけ??? と思う。
もっとこう…あったでしょ? って。
何も400字詰め原稿用紙3枚以上の感想文をよこせって言ってるんじゃない。
長文感想以外認めない!ってわけでもない。
ただ、もう少し具体的に
「あのシーンの〇〇のセリフにこれまでのすべてが詰まっていて最高でした」とか。
「ハッピーエンドで良かった…最後に2人が結ばれて本当に良かった…」とか。
「読み終わった今、胸がいっぱいで言葉にならないです…。尊い…」とか。
せめてそれくらいほしい。
マジの一言しかないと、「あんなに必死で書いたのにそれだけかい」と思う。
(さらにひどい場合pixivのコメント欄で使えるスタンプだけポンと送って来られたりする。
一時期本当にスタンプしか送ってもらえない時があって、ゾウが鼻血出してる絵を見ると未だにげんなりする)
「神」「最高オブ最高」「てえてえ(尊いを崩した言い方らしい)」など、オタクが使いがちなネットスラングが便利なのはわかる。
あちこちで使われすぎて手垢まみれだし、薄っぺらくて陳腐だし。
オタク各位、創作物を読んで抱いたご自身のお気持ちは、もっと大切にされた方が良いかと思います。
感想を送ろうと思い立った際には、そのお気持ちを、もう少しだけ丁寧に言語化していただけないでしょうか。
「気持ちを言語化するのが苦手」という人もたくさんいるだろう。
「言語化はできるけど、情熱込めた感想送って、気持ち悪いと思われたら嫌」って人もいるはずだ。
でも、使い古された脳死コメントや、pixiv運営が万人向けに用意したスタンプを送られるくらいなら、
Twitterに作品リンク張って「これ最高だった!読んで!」って宣伝してもらえる方が、私はずっとずっと嬉しい。
「感想もらえるだけありがたいと思え」と言われればその通り。
世の中、一言のコメントどころかスタンプさえもらえない創作者がいるのはわかってる。
だけどやっぱり、
1万文字まで送信できるメッセージ欄からビッシリ長文で感想を送ってもらったり、
イベント会場で感想がつづられた手書きのお手紙を対面で渡してもらったりして、贅沢を覚えた身としては、
一言コメントを送られると「それだけかよ…」と思ってしまうわけだ。
しかし「一言しか感想もらえないとがっかりする」なんて発言したら普通に引かれるだろう。
こいつ性格悪っ!誰が感想なんて送ってやるかよ!となって、一言コメントさえもらえなくなるだろう。
あまつさえ「陳腐なコメントよりしっかりした感想送ってくれ」「スタンプ送るくらいならTwitterで宣伝してくれ」なんて言おうもんなら学級会案件になってしまう。
拡散力のある人が拡散してつるし上げられたら大炎上して、ジャンルにいられなくなるかもしれない。
インターネットを使い慣れたオタクの皆さんなら承知の上と思いますが、念のために言っておきますと、この記事に記した内容はすべて個人的な意見です。
冒頭に書いたとおり、たった一言のコメントでも嬉しいという創作者さんの方が多数派だと思われます。
こんな贅沢でワガママなヤツもいるんだな~くらいの気持ちで受け取ってください。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
~以下余談~
そのジャンルでの二次創作には区切りをつけて、2018年~現在、別のジャンルで活動している。
2010~2013年ごろ流行していたけれど、今はピークを過ぎており、公式からの情報が途切れて久しい。
ストレートにいうと斜陽ジャンル(そのためか年齢層もやや高めに感じる)。
このジャンルで小説を投稿すると、驚くほど濃密な感想文が送られてくる。
「〇〇の場面で××が△△したのは伏線だったんですね」とか
「この行動には□□に対する作者の皮肉が込められていると思う」とか
「ラストシーンを安易に〇〇にしなかったのが逆に感動的だった」とか。
感想だけじゃなく、考察や評論がコメント欄で交わされていて、とても面白い。
ブックマークは多くても300~400程度だけど、コメント率がとても高い。こうなると書き甲斐が段違いだ。
(ずいぶん前の話)
帰宅してテレビをつけると、ニュースが流れており、飲食店の一部が「子供」向けにとそれぞれの条件をつけて値段を半額にしたり半額以下にしたりする様子が映っていた。わけがわからなかった。
どうしてそんなことをするのだろうか。やはり企業イメージの向上を図っているのだろうか。それとも、本当に見ず知らずの、一歩外に出れば赤の他人の家計を案じて安い値段で飲食を提供しようとしているのだろうか。
極めつけは飲食店内でインタビューされていた親が「休みがこうも長く続くとストレスがたまると思うので、(値段が安くなるのは)ありがたいですね」という趣旨を言っていたことだ。意味がわからない。※(値段が安くなるのは)の部分は俺が補ってあげた。
だいたい、ストレスが溜まるのは子供なのだろうか?そのストレスの解消と、飲食料金の値段引き下げがリンクしているというのか?
ストレスが溜まっているのは子供じゃなくて親の方だと解釈するのなら、わけわかる。だが、先の文脈では「休みが続いている」のは子供なのであって、やはりストレスが「溜まっている」のは子供としか読めない。
飲食店側の対応も疑問がある。コロナの休みなんて、小学校の冬休みと夏休みが合体した期間みたいなものなのだから、親が子供のメシを用意するのはさほど負担ではないはずなのだ。それに、勝手に子供を産んで育てているのだからメシを食わせる経済力だってあるのだ。だから、子供menuを普段以上に引き下げるというのはビジネスとしてナンセンスなんじゃないかと思う。
そのニュースを観ながら、自分は先週に買っておいた即席ラーメンをゆでて、メンマと薄っぺらいチャーシューをのせ、セブンイレブンの冷凍チャーハンをメインに、生ハムと香味野菜のサラダを作って一人で食べた。
嫁さんもいないし、子供だっていない。なんで旦那や嫁さんがいて、おまけに子供もついている人間が俺より低い金額をメシに払っているのだろうか。そう思うと、怒りと悲しみがこみあげてきた。
キャベツ…野菜炒めにすると水が鬼のように出てくる。それと一緒に旨味や栄養も逃げてしまっていないか心配。
食感は悪い。シャキシャキとしたみずみずしい食感はなく、フニャッとしたやわな食感に変わってしまっている。
味は、そこまで変化は感じられなかった。若干甘味が増したかも。
ネギ…斜め切りで保存したが、全部変わらず
きのこ…エリンギを保存。冷凍初心者だったので、カットせずに丸ごと冷凍してしまった。あの長い円柱状のものを、そのまま食べるのはさすがに食べづらいと思ったので、冷凍庫から取り出した後、包丁で切ろうと試みた。親の仇の如く何度包丁を力強く振り下ろしても、無惨に1ミリほどのキリ傷が残るだけだった。半ばやけになって、少しでも小さくするべく折ろうとしたら、切断面が壮年期の山のように凸凹になってしまったが、やや二等分に折ることができた。
食感は、変わらない。変な切り方(折り方)をしてしまったので、一般的に調理されてる薄っぺらい切り方のエリンギと比べて、4倍ほどブニブニしてたが、薄く切ると多分同じだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20200629213448
おけパ中島がバズリ
https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176
https://anond.hatelabo.jp/20200706042509(感想屋そのものには誘導したくない)
要約すると、
『とても文章力のある感想書きが界隈を席巻してしまった』という内容の愚痴増田が話題になる
↓
神字書きと字書きを題材にした創作漫画の登場人物『おけけパワー中島』に注目が集まる
↓
有償でポジティブな感想を書きますと言いだした『感想屋さん』を名乗る人物が、サービス内容の不備や文章の稚拙さおよび返金対応への不誠実さなど千々に炎上
ここ一週間ほどの間で、以上のような文脈が発生した。
この結果、感想屋という文言に幾つかの意味合いが発生してしまい混乱を招いたり、炎上したものと似た屋号のサービスへの悪影響が心配されたり、純粋な長文感想書きが誤解から心を痛めたりしている。このあたりは個々に注意されたし。また、有償の『感想屋さん』の問題点については羅列していったらきりがないので、特別に記述はしない。
前置きが長い。
私はオタクである。特に創作はしていない。時折、特に萌えを感じた時に短文を書く程度の人間である。昔長文を書こうとしたが冒頭三千字を書いたあたりで挫折し放置している。その上特に交流もしていないし、感想も書かない。一言で言えば、ROM専である。
それなのに、私には妙な自信があった。それは言葉にするならば、「俺だって本気出せば書ける」。小説はそれなりに読むオタクだから、ちょっとした文章ならば書ける。商業のような文章は無理でも、なろう程度なら。書評は無理でも、紹介文くらいなら。また嫌なことに、学生時分は図書委員会だの新聞委員会だので短文を書いて「本を読む人だから文章がうまい」と言ってもらって有頂天になったりしていた(今自分で思い出して、あれはお世辞だったのだろうと恥じ入っている)。
そんな私が、ここ一週間の流れを追って、何を思ったか。
まず増田を読んで、二次創作するオタクは大変だなあ、と他人事のように思った。
二次を書き、二次を読み、交流し、その動向に一喜一憂する。どうも大変そうだ。ROM専はその点気楽でいい。だが、まあ、感想というのは良くも悪くも人に影響を与えるものなのだな。時には感想を書くのも、善行かもしれない。そのように思った。
次におけパ中島に触れた。
最初は創作物として面白く読み、リツイートした。その後おけパ中島が話題になっていることを知り、もう一度、我が身我が事として考えてみた。私にとっての神とは誰だろう、おけパは誰に当たるだろう。実際に当てはめてみると、ツイッターでつぶやかれている感想は、なるほどもっともと思えるものも多々あった。私の悪いところは、ツイッターにすぐ感化されるところだ。オタクの嘆きに共感し、すぐに自分で考えついたように錯覚する。私は、まるで自分が主人公になったかのように(馬鹿げたことだ)酔いしれ、おけパ中島への薄っぺらい恨み節をツイートしてみたりした。
感想屋が出してきたものは、かなりひどいものだった。界隈のオタクの気持ちを踏みにじるものだったし、何より悪文だった。それは野次馬である私にさえわかるものだった。下手くそで、金を取るような文章ではなかったし、そも人に見せられるような文章ですらなかった。
その程度の文章に、私はひどく動揺した。
何が私に衝撃を与えたかって、それは、その悪文が、私の書くものに途方もなく似通っていたことだ。
いや、あそこまでの悪文ではない。ない、と信じたい。下ネタを好まないゆえにあそこまでの下劣さではない、はずだ。
だが、似ている。文章の構成が、筆の運びが、何より配慮の欠けた思考回路が。私もかつてこういう文を書いて、自信満々に教師に提出したことがなかったか。こういう感想を、臆面もなくファンレターとして出しやしなかっただろうか。その稚拙な文章が他人を傷つけていたかもしれないことを、否定できない。
それは、他人よりも本が好きだという自負だ。小説を読むのが好きなことと、文章を書くのが得意なことを、取り違えて混同した、おぞましい勘違いだ。その上、私が読むのは『他人に比べて』多い程度であって、誇れる程ではない。何一つ、誇れることなどなかったはずだ。眼高手低とはこういう事を言う。
私は自分の文章に向き合ったことがあっただろうか。何度も推敲し、多面的に読み直し、練り上げた文章を書き上げたことなど、一度でもあっただろうか? そう問うてみれば、一度もなかった。この文章だって、ほとんど読み返さず、激情のままに綴っているだけだ。プロットも、描写力も、考えて作ったことなど、一度もない。
私自身が、物事を考えたことはあっただろうか。物語を読んで、薄っぺらい表面的な理解をしてすべてを分かった気になったことは。まるで自分で考えたかのような顔をして、他人の考察を口にしたことは。私は、私自身の無能と向き合った事が、これまでに一回でもあったのか?
これは恐ろしい事だ。誰かにとって恐ろしいのではない。タイムラインのオタクにとって恐ろしいのではなく、創造上の誰かにとって恐ろしいのではなく、私にとって恐ろしい。誰かではない。私の恐怖だ。私の足元が崩れ、私の心が崩れている。他人事ではない。それが、こんなにも恐ろしい。
私は今、パソコンでエディタを開いて、この文を書いている。隣にはもうひとつウインドウが開いていて、そこはまだ新規ファイルのままで、まっさらだ。そこに、小説を書いてみようと、思っている。
私は感想屋にすらなれない。
『なれなかった』と、過去形にしたい。今、切実にそう思う。せめて自分に誇れる自分でありたい。
そして、今度こそ。
自分で読み返してひどいな、これ。
いま、自殺したいと思っている人にだけ読んでほしい。
安心してほしい、何も難しいことは書かない。
命の大切さとか、「やまない雨はない」だとか、うんざりするような説得をするつもりもない。
その代わり、聞いてみればつまらない結論かもしれないが、それは許してほしい。
学のない私にはわからないが、きっと心理学か何かの分野では、ありふれた考え方なのかもしれない。
だったらなおさら申し訳ない。私もいい歳だから、生きているうちに書いておきたいと、思い立っただけだ。
自殺したいなどと思っていない人は、こんな陰気な文章を読む必要はない。これからも、どうかよいたびを。
私もあなたと同じく、ある理由で生きる意欲を失った。そこは細かく書く必要はないだろう。理由は人それぞれだ。
とにかく、私は身辺整理を済ませ、遺書に貯金のありかを書き、可能な限り苦しみの少ない、かつ確実な自殺方法を比較検討し、実行の日を決めた。
道具も買い揃えて準備万端、さて・・・と道具を手に取った瞬間、ひとつ疑問が浮かんだ。
仮に自殺が成功したとしよう。しかし、私は死んだのだから、成功したと認識することはできない。
他人から見れば、私は何%かの確率で自殺を成功させるだろうが、それは私とは関係ない世界の出来事だ。
絶対に成功しない自殺など、怪我をするだけでなんの価値もない。私は自殺をやめた。
もし、あなたがこの考え方に心の中で反論できなければ、自殺をしてはいけない。
この先を読む必要もない。つまらない話を聞いてくれてありがとう。さっさとタブを閉じてバナナ食って、散歩にでも出かけてほしい。
あるいは、あなたはこう思うかもしれない。
「それでも死後の世界に行ける可能性に賭けたいんだ。お前のように薄っぺらい言葉遊びを自慢する子供じゃないんだ」と。
ところが、これが自分でもうまく説明できる自信がないのだが、私は死後の世界を信じている。
別に信心深いわけではなく、まあ大切な人がこの世を去ったなら、時の河から上がり、好きに過ごして、また好きな時に生まれてきてほしい・・・程度のユルいものだ。
でも強く信じている。でなきゃ4年の間、毎月ひとりで墓参りして、小一時間墓の前で座り込んだりなどしない。
誤解を恐れずに言えば、私は「脳では」死ねば解放されると完全に信じていると同時に、動物としての本能が、「それは嘘だ」と完全に否定しているのだ。
さて大切なのは、あなたは今、死ねば解放されると思っているだろうが、いざ自殺するとき、私と同じように本能が襲い掛かってくるかもしれない、ということだ。
私と同様、まだ引き返せる段階であればいいが、例えば飛び降りた瞬間に気づいたら目も当てられない。
だから今のうち、できるだけ「動物として」考えてみてほしい。あなたは本当に、自分の死を認識できると思っているだろうか?死後の世界というものを、心の底の底から100%存在すると信じ切っているだろうか?
どうか誤解しないでほしい、「動物には生存本能がある。あなたも本心では死にたくないと思っているのでは?」とか、そんなことはどうでもいいのだ。(死にたいに決まっている。私もそうだ)
あなたを中心とした、あなたの世界で、あなたは、死ぬことが「できる」のか、という、とても単純なことだけ考えてほしい。
もし、それでも天国への扉に望みを賭けるというのなら、この文章はここで終わりだ。
すまないが、何か厳しいコメントをいただいても、うまく返せるほどの知識もない。
でも、私はあなたの細胞が自殺の直前に、そのペテンに気づくことを信じている。
そりゃそうだろう、いい歳して長々と言葉遊びをドヤ顔で語ったんだから、当たらないと恥ずかしいではないか。
(余談)最近はやりの「自死」という表現を使っていない理由も、おわかりいただけたかと思う。自分で「死」ねればこんなに苦しんでないよ。
女性の権利が重視され始めた頃、なんでもかんでも「女性ならではのすごさー」とか言われてたのとちょっと似たモヤモヤを感じる。
それまで全然黒人すげえとか好みとかなんとも言ってなかった奴が、最近めっちゃ黒人ならではの美しさーとか言ってくる。
いや分かるよ、元から黒人が好みとか少なくとも褐色好みなら、俺達の時代キタって感じだろうし。
でもお前ずっと色白美人が好きって言ってたじゃん。肌は白いに限る的なこと言ってたじゃん。最近黒人ならではのよさがどうとか言ってくるけどさ。
別にここで良さに気づきましたってんならそれも分かるんだけど、でもバズツイぐらいにしか言及しないじゃん?自分から好きで探しにはいってないのバレバレなんだよ。