はてなキーワード: 天皇とは
一部上場企業の社長や有名芸能人の相談などで、年9ケタ弱ほど稼がせていただいております。
今回、知人から匿名で記事を書くサービスがあるということを聞き、ぜひともこの場を借りて、実名での公表を躊躇っていた重大事実を発表したいと思います。
それは、平成という年号は占いの観点からみると、最悪中の最悪だということです。
皆さん、少し思い返してみてください。
それに続く、阪神淡路大震災。
これらは全て平成になった途端に始まり、今日に至るまで国民は経済的・精神的余裕が全くない状況に追い込まれています。
繰り返しますが、その原因は年号が「平成」であるからにほかなりません。
安倍首相のアベノミクスも失敗に終わりましたが...はっきり言いますね。
経済だけではありません。
原発メルトダウンによる放射能流出により、国民は気付かぬうちに、体を蝕まれています。(放射能の影響は癌による死亡率の増加という形で現れるため、現在はあまり注目されていませんが...)
てきとうと言うまとめブログで吉水神社の宮司が極右レイシストだった件の記事(http://blog.livedoor.jp/googleyoutube/archives/51864154.html)を読んでいたら、嫌儲民が「他の宗教には弱者救済のシステムがあるのに神道にはない」と言う話をしていた。本当だろうか。
本当なら不思議な話だ。弱者のための、民衆のための宗教でないのならば、なぜこんなに長いこと存続したのだろうか。今はそうではなくともかつては、神道もちゃんと民衆のための宗教だったのではないか。もしそうなら原因は想像つくよね。国家神道だ。
もともと神道は原始宗教だった。権力者と民衆という構図が成立する以前の宗教だったわけでしょう。それが人々の生活の変化に適応するために、自らの不足を仏教から補ったのではないか。仏と習合することで原始宗教の域を脱し、民衆のための宗教になったのではないか。そして近代の始め、明治の神仏分離令および廃仏毀釈によって仏教が無理矢理引き剥がされてしまう。神道は切り刻まれ、権力者のための宗教、国家元首を現人神として崇める事実上の一神教として再編成される。神道が民衆のための神々を失ったのはきっとこの時だ。
仏教をはじめとする他宗教が弾圧、破壊され、神道すらも必要なものを根こそぎ削ぎ落とされてしまった。日本人が総カルト化するのも無理ないよね。あれだけ派手に敗戦し、現人神の幻想が消し飛ばされたにもかかわらず、神道は元に戻る気配がない。戻る場所がないんだ。元の姿は明治に破壊されてしまった。明治以前に何を祀っていたか、もはやわからなくなってしまった神社もあると聞く。
もしこれらの推測が正しいのなら、神道には宗教改革が必要だろう。神道を権力者の手から奪還し、民衆の手に返さなくてはならない。できないなら国教カルトに戻るだけ。
僕はネトウヨって言葉ができる前から2ちゃんのニュー速をROMっている不名誉な事実があるんですが、この言葉ができてから韓国や中国への反感を持った書き込みが知識人()に批判されるようになっていきました。たしかブサヨの対義語としてでてきたんだっけな。
ネトウヨ批判もいいけれど、なんで反韓、反中が訴求力を持っていたのかってのはよく検討されるべき問題だったと思うんですけど、ここに在特会が出てきて話が変わってきました。
彼らが極端な言葉を使うことによって、反韓、反中への反感が社会的な悪になってしまって、さらにヘイトスピーチという言葉があてはめられて、国連まで持っていかれました。
在特会はよくないと思いますし、嫌いですが、向こうの勢力のレッテルづくりの能力はすごいなぁといつも感心してしまいます。そんでレッテルがシンボルになってむしろ強硬な人がそこにたくさん集まるようになっているのにはなかなか哀愁を感じさせます。
そんなこんなで、日本人の反韓、反中は弱まるどころか強まっている気さえします。少し前なら見なかった2ちゃんの書き込みですか?っていう駅前演説を聞く機会が増えました。というか、2ちゃんでも使い古されたネタを堂々と「こんなのおかしくないですか?」とやり、それにけっこうな人々が足を止めるんですね。
きっかけはいろいろあると思うんですが、フジテレビと李元韓国大統領の竹島上陸と天皇への批判がターニングポイントだと思うんです(個人的に、テレビ批判はアサヒとT豚Sとかの方がなじみがいいです、はい)。「あの」外務省が強硬な姿勢を取ったのは本当に驚いたし、日本のマスコミがタブーっぽかった韓国批判を大っぴらにし始めたのは素直にびっくり。おまけをつけるなら、尖閣ビデオと石原閣下の対応で中国をブチ切れさせたのは超wktkでした。
あちらの国では日本の経済が下がってきたからとか、サムスンが日本企業を抜いたからってのが主要な理由としてあげられとるんですが、正解、不正解半々で考えてます。まぁ時価総額だけで考えるなら、現時点で、トヨタの方が上ですし、トヨタの上には中国企業やインド企業がいますしおすし。ただ、相対的に貧しくなると、排外思想が増すってのはナチスもたどった道ですし、ヨーロッパ中が絶賛、極右政党議会入りな感じですし、日本も例外ではないのかと。
つまるところ、隣国を見下して自分を有意に見せたいってのは、サルの時代からの本能だと思うので、しょうがないかなと思うんですが、10年も2ちゃんにいて、人生の貴重な10代、20代を削りに削り、ついに韓国ネタ、中国ネタに生あたたかい目線を向けられるようになった僕としては、駅前でメガホン使ってワーワー言っているおっさんおばさんを、熱いなぁ若いなぁ元気だなぁと思ってこちらにも生あたたかい目線を送っているわけです。
○高橋紀世子君 これもこの間と重なって大変恐縮なんですけれども、私はこのことは大変大きな問題だと思っておりますし、どうしても共生の社会にとって一つの大きな要素だと思っておりますのでしつこく言わせていただきます。
今までの歴史といっても、歴史をひもとけば女性が天皇になったこともございます。私たちは、やはり精神的に男女平等だと、そういうことが大変大事だし、共生の社会を進めていくにも男女がそれぞれ役割を持って平等に働くということが大事だと思います。そのときに、天皇制がそれとまるきり違うやり方でやっているということは、私は、私たち国民に対して暗い影を落としているというか、不安定要素になっていると思いますので、またぜひお考えおきください。
それからまた、天皇の人権というと大変恐縮ですけれども、天皇は退位できません。どんなに望んでも退位することができません。それは皇室典範に、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、」「皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。」、つまり皇室会議をしなければ天皇は何の理由があってもやめることができないということなんです。
これは天皇も人間ですから、天皇の人権にかかわる大きな問題だと思っておりますし、そのことはやはり天皇自身が望まれたときは退位なされるようにした方がいいと私は思いますけれども、いかがでしょうか。
○政府参考人(羽毛田信吾君) 現行の皇室典範が御指摘のように天皇の意思によります退位の制度を認めていないということはそのとおりでございます。
そういうふうになっておりますところのゆえんのものは、一つには、退位を認めるということが、歴史上いろいろ見られましたようないわゆる上皇でありますとか法皇的な存在というもののある種弊害を生ずるというおそれがありはしないかということ、それから、必ずしも天皇の自由意思に基づかない退位ということの強制があり得るということです。
いろいろ政治的な思惑の中でそういうようなことが起こるというようなことがありはしないかということ、あるいは天皇が恣意的に退位をされるというようなことになりはしないかというようなことを懸念をいたしまして、そういったことを挙げて、天皇の地位を安定させるということが望ましいという観点から退位の制度を認めないということに現行法なっておるわけでございます。
そういった皇室典範制度の制定当時の経緯というものをやはり踏まえていかなければならないと思いますし、さらに今、先生もちょっとお挙げになりましたけれども、天皇に心身の疾患あるいは事故があるというような場合につきましては、現在も国事行為の臨時代行でありますとかあるいは摂政の制度が設けられておりますので、そういった事態の起きました場合にはそういった対応をする制度もあるということを考えますと、現在の段階で退位制度を設けるというようなことについては私ども考えていないところでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/153/0035/15311210035003c.html
市民に暴力を振るう市民の会こと在特会とすると、例え日本人のために活動してるとしても、市民に暴力振るうのはイカンわな。
ついでに言えば、しばき隊も異常だけどね。あいつらも暴力で在日特権を守ろうとしてるわけだしさ。
政府に対して抗議した事、そういえば一度も無かった。
ここが腑に落ちないと思ってたところで東浩紀のツイートが話題になってるのを知った。
東はそこから早稲田大学批判を展開したようだけど、論点としては、在特会の行いが正しいかどうかという事。
反論者も発言者も早稲田大学批判に論点があったから、何となく在特会批判はおまけと取れたけど、それはそこでの話と言う事で割愛。
問題は、在特会が暴力で市民を守ろうとする所にあって、そういう特殊な人達を自民党政権の閣僚はこぞって友誼を保とうとしているこの異常性だと思う。
結局戦争容認派の弁は、在特会の行為を容認する事で、本音が見えた事だろう。
彼ら的には暴力で言論弾圧、徴兵、戦争参加を謳っている、あるいはこれから謳おうというわけだし、
彼らには、戦前の天皇の意向無視して戦争容認し、戦後は全て天皇に責任を押し付けて責任逃れをする、こういう狡猾な本性が透けてきた。
要するに自民党が在特会を認めて支援するのは、暴力で市民を脅し、穢れた手で国民を守るという見せかけの正義で国民を主導する独裁者を思わせる。
ま、ヒトラー崇拝のネオナチとも仲良しみたいだし、今回のツイート見たら、自民は暴力で国民を支配する事が正しいと思ってる証明になるだろうな。
おお、こわいこわい。
★子供の社会科教科書を見ると、堂々と「吉野ヶ里遺跡」と「三内丸山遺跡」が載っていて、
激しく「ジェネレーションギャップ」を感じてしまった。
というのも、われわれ世代(40歳代)にとっては、吉野ヶ里や三内丸山は「ニュースの事象」であり、
吉野ヶ里の「発見」が1989、三内丸山の「発見」が1992。
当時自分は大学生ないし社会人で、これら遺跡は「ニュースで知った」ものであり、「教科書で知った」ものではない。
たぶん、今の40代より上の世代は、教科書でこの2つは習っていないはず。
なので、今の40代とか50代では、吉野ヶ里や三内丸山は「そもそも知らない」という人の方が多数派なんじゃないか?
これら世代で吉野ヶ里等を知っているのは、地元民または観光業界人または歴史マニア。
という訳で、
「遺跡が見つかるキッカケは、公共工事や商工業開発が多い」という「生きた授業」を子供相手に展開してやった。
★我々の世代は、せいぜい「登呂遺跡」を覚えておけば、事足りたと思う。
一方、今の子供の世代は、登呂遺跡以外にも吉野ヶ里とか三内丸山とか、覚えることが増えて大変だなあと同情してしまう。
吉野ヶ里とか、工業団地開発を計画しなかったら、遺跡は見つからなかった=教科書の記載も減ったわけでして。
・・・と書こうと思ったら、「登呂遺跡は、教科書によっては、記載を外しているケースもある」らしい。
子供の記憶容量は有限だから、教科書記載事項を巡る「競争」は激しく、スクラップ&ビルドも激しいらしい
・・・となると、おじいちゃんおばあちゃんが、孫を連れて静岡に行って、「これが有名な登呂遺跡だよ」と案内しても、
孫が「何それ?習ってないよ」という世代間すれ違いの悲劇が発生してしまう危険性がある。
※というか、実際静岡の人のブログを見ると「子供の教科書に載ってなくて会話すれ違い」報告有
★「一番歴史学習が大変だった」世代は、「1999頃に歴史を学習していた世代」じゃないか、という気がする。
あの頃は三内丸山も教科書に掲載されたうえ、旧石器時代の記載も「充実」していた。
→その後、毎日新聞のスクープで、旧石器時代の殆どが教科書から削除された
吉野ヶ里や三内丸山クラスの遺跡発掘のニュースが、この20年間聞こえてこない、
そのこと自体が「失われた20年」を象徴している。(公共工事激減と比例)
・・・或いはアベノミクスで、再び吉野ヶ里クラスのが見つかるか?
★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
義務教育には日本書紀や古事記が掲載され、子供は歴代天皇の暗記を強要された
つまり、「日本書紀・古事記・歴代天皇暗証の「偽歴史」を教育する」、そういうナンセンスな歴史教育は終了した、
そういう「歴史教育民主化・自由化」「もはや戦前ではない」のシンボルとして登呂遺跡が存在した。天皇の人間宣言と同趣旨
となると、直近の「登呂遺跡の教科書引退」の政治的意義は、歴史教育において「もはや戦後ではない」とアピールする効果。
登呂遺跡の「政治的役割」は、歴史的意義を終えた、ということなのかもしれない。
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
★縄文時代、旧石器時代の存在は、日本書紀や古事記と真っ向対立。
多分、戦前の教育では縄文や旧石器時代は存在しないことになってた
だから、最大70万年前の旧石器時代の遺跡を発掘した「ゴッドハンド藤村某」などは、世が世なれば不敬罪になってたんじゃないかと心配する。
そもそも日本書紀や古事記の世界では、神がイザナギ・イザナミを作って、それから世界が出来た。
→多分、戦前は「恐竜の存在」は義務教育では認められなかったのではないか?
そう考えると、恐竜をモチーフとした「映画ゴジラ」は、イザナミ・イザナギの世界観を否定する恐竜をモチーフにした、ということで、極めて戦後的な気がする。
葬場殿の儀というのは、どうも皇室の私的な行事ではなくて、国として見ても公的な行事のようですね。国事行為である大喪の礼、そして皇室の行事である葬場殿の儀、これを一連の行為として時間的にも連続性を持たせて場所も同じところで行うというのは、テレビに映し出されるのを見ている国民からもあるいは諸外国の代表からも当然一つのものとして映るわけです。かつて吉田総理の葬儀が国葬として行われた際に、カトリック教会で個人の宗教によって私的に葬儀を行って、そして一週間後に東京の武道館で宗教色を排除して国葬が行われています。
今度、こういう天皇の葬儀についても、憲法の政教分離を厳密に貫くべきでありますから、そういうような配慮をどうしてなさらなかったんですか。
○国務大臣(小渕恵三君) 吉田元首相の例をお挙げになられましたが、立派な方だと尊敬はいたしておりますが、天皇陛下におかれては憲法第一条に規定をされた我が国の象徴、国民統合の象徴でございますので、同じような考え方に存するものではない、このように考えております。
○吉川春子君 そうしますと、宗教色を排してやるというようなことではなくて全部一つとして、それは天皇の葬儀として連続して行われて、宗教色の盛り込まれているものも交互にあるわけですけれどもそういうものでやっても天皇の場合は差し支えないんだ、これが政府のお考えですか。
○国務大臣(小渕恵三君) 国民の間にいろんな御意見のあることも政府としては承知をしなければならない立場でございますので、種々検討いたしました結果、大喪の礼の御式は国の儀式として行われ、葬場殿の儀は皇室の行事として行われるもので、両儀は法的に明確に区別されるのみならず、実際上も大喪の礼御式においては開式を告げること、祭官は退席すること、鳥居は撤去すること、大真榊は撤去すること等とされており、両儀ははっきり区別をされた形で行われるということで大喪の礼委員会で決定いたした次第でございます。
○吉川春子君 大喪の礼もそれから葬場殿の儀も儀式の内容というのは旧皇室喪儀令で定められているものとほとんど違わないわけですね。こういうものを部分的に取り出してここだけは国事行為だといっても、憲法の政教分離の規定はクリアできないと思うんです。憲法二十条というのはまさにそういう儀式を行うこと自体を禁止しているわけです。
政府は、大喪の礼のみではなくて葬場殿の儀にも出席を要請して、節目節目には一同に起立を求める方針だと、こういうふうに言われています。これは宗教行事への参加ではないですか。
そこには、先ほども話がありましたけれども、神道の象徴である鳥居が建てられている。大真榊が置かれる。
広辞苑によると、鳥居というのは神域、神の領域を示すものであると言われています。これをくぐることは神社への崇敬の念を示すことになるわけです。榊は神のよりしろとして枝に白幣をつけて神霊の象徴として祭礼が行われるわけですね。
こういうような宗教儀式に総理が出席されるというのは、これはまさに憲法違反じゃないですか。
○政府委員(味村治君) 国事行為として行われます大喪の礼は、ただいま官房長官が申されましたとおり、皇室行事であります葬場殿の儀とははっきり区別をされているわけでございます。
国事行為たる大喪の礼は、祭官は退席し、鳥居を撤去し、大真榊は撤去されておりまして宗教色はないわけでございまして、国事行為たる大喪の礼が宗教儀式に該当ししたがって憲法二十条第三項によって国またはその機関が行うことを禁止されている宗教的活動に該当するという疑いは全くございません。まずそのことを申し上げておきます。
その前に葬場殿の儀が行われるわけでございまして、これは皇室の行事として行われるわけでございます。これにつきましてはいろいろ宗教的な色彩があるということは否定ができないわけでございます。しかしながら、そこに総理が総理たる資格で御出席になりましても、それは先ほど飯田委員との論議の中で申し上げたのと似たようなことになるわけでございますが、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であられます亡き昭和天皇に対する哀悼の意を表し、また、御遺族と申し上げるのは失礼かと思うんですが、御遺族であられます現天皇に対してお悔やみの意をあらわす、こういう意味でそういういろんな儀礼を尽くすというような意味で出席されるわけでございまして、特定の宗教を助長するとか援助するとかそういうようなことで出席されるわけでないということは、これは明らかなわけでございますから、したがって、内閣総理大臣が総理大臣としての資格で皇室行事たる葬場殿の儀に御出席になってもそれは憲法二十条三項の禁止する宗教的活動には該当しない、このように理解をしているわけでございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/114/1020/11402141020003c.html
○山中郁子君 だから、一世一元というのは千三百年の伝統じゃないんですね、これを御確認なさいますかということを伺っているわけです。
○政府委員(清水汪君) 私からただいまの大臣の御答弁をもう少し補足して申し上げたいと思いますが……
○山中郁子君 そうか、そうでないかだけでいいんですよ。エンドレステープはいいです。
○政府委員(清水汪君) 一世一元ということは、つまり天皇の代がかわることを一つの契機として元号が改められるということを意味するわけでございますが、そのような元号の改まり方というものは先ほどもお話にありましたように、すでに千三百年来の伝統の中にいわば含まれていたということが言えるわけでございまして 元号の歴史と申しますのは、一世一元あるいは変わり方としてはそのほかの変わり方、御在位中の変わり方ということも含めまして、元号というもので存続をしてきたと、このように理解をしておるわけでございます。
○山中郁子君 だから、私最初に申し上げましたように、私たちが質問することにちゃんとまともに答えてくださればいいんです。いまお話伺ったのは、私もももうたくさん伺いました。そして衆議院の議事録も読みました。要するに一世一元というのは千三百年の伝統ではなかったんですね。そのことを確認してくださいということを申し上げているんです。
○政府委員(清水汪君) 一言でという御要求でございますが、やはり元号の長い歴史というようなものでございますので、なかなか簡単には言い切れない面があろうと思いますけれども、ただいま申し上げましたように、代がわりによる改元ということも含めて元号は千三百年の伝統を持っているというふうに申し上げることができると思います。
○山中郁子君 委員長から御注意いただきたいんです。私は一世一元が千三百年の伝統ではないんだな、そのことはそうでないならそうでないと言ってくださいと質問しているんです。御注意してください。
○政府委員(真田秀夫君) 御要求がございましたので、一言で申し上げますと、一世一元が制度として確立したのは明治以来でございます。その前には天皇御一代の間に、もう何回も改元が行われ、最も多いんでは元号が八回も九回もあったことはございます。一世一元が制度として確立したのは明治以来でございます。
○山中郁子君 制度として確立したのは明治以降だと、だから少なくとも制度としての一世一元は千三百年の伝統ではないと、こういうことですね。
○政府委員(真田秀夫君) 元号制度が日本でずっと行われておったのは大宝以来なんです。それが千三百年近くなります。
○山中郁子君 そんなこと聞いてない。質問に答えてくださいよ。そんな答弁されたら質問できませんよ。
○政府委員(真田秀夫君) そこで、御質問者に一言でお答えしますと、一世一元が制度として確立したのは明治元年以来でございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/087/1020/08705291020012c.html
○国務大臣(三原朝雄君) いま審議室長が申し上げましたように二十数代の天皇の際にはそういうこと、一世一元の制をおとりになったということは史実の上に明らかになっておるわけでございますが、しかし、いま申されましたように、それが一代の中に数回の改元がなされたりするようなこともありましたので、それを合理的に適正な方法でということで、明治以後におきましては、それを一世一元でいくぞという方針がとられたということは御指摘のとおりだと思うのでございます。
○山中郁子君 行政官布告詔書にそういうふうに書いてあるということの確認をいま求めたわけで、そういうふうに書いてあるということですね。
○山中郁子君 確認なさったわけですね。ちゃんとそういうふうにわかるように言ってくださいね。
そうしますと、いままでの、皆さんが千三百年の伝統とおっしゃる元号はだれが決めてきたのか。
○国務大臣(三原朝雄君) 当時は側近の輔弼の任に当たる者が原案を策定をして、天皇にこれを申し上げてまいったのでございまするけれども、最終的には天皇がお決めになると、そういうことでまいったと受けとめておるわけでございます。
○山中郁子君 天皇が決めたということについての例外はないわけですね。その決め方の中身に多少の違いはあるということは何回もおっしゃっていましたけれども、例外はないわけですか。
○政府委員(清水汪君) 私どもが理解をしております範囲では格別の例外はなかったように思います。もちろんいまお言葉のように実質的には、たとえば将軍家による影響というようなことはもちろん間々見られたところだというふうに学者などの解説があるところでございます。
○山中郁子君 そうしますと、一世一元は伝統ではなかった。天皇が決める、つまり勅定ということは千三百年の伝統であると、こういうことになるわけですけれども、伝統を重んじてということから言うと、どうして天皇が決める、そうすると当然天皇が決めると、こういうことになるのが伝統を重んじることになるんじゃないですか。どうして天皇が決めるということにならないんですか。今回の元号法案、伝統を重んじて出したという元号法案。
○政府委員(真田秀夫君) どうも山中先生、一世一元が伝統だというふうに私たちは言っているわけじゃないんでございまして、元号という制度、これはもう千三百年に近い伝統があるということを言っているわけでございまして、天皇が決めるとかだれが決めるというんじゃなくて、元号制度を存続させるというのが実は今度の法案のねらいでございまして、だれが決めるということにそうわれわれはこだわっているわけじゃなくて、いまの憲法のもとにおいて、これは民主的な制度のもとでございますから、国会で法案をおつくり願って、その御委任を受けてそして政令で決めるということでありまして、元号だから天皇が決める、それが伝統であって、そうでなければ元号という制度になじまないとか、そういう気持ちは毛頭ありません。そういう気持ちで法案をつくったんじゃございませんので、もう国民の大多数の人が元号制度を残したいと、将来にわたって。そういう国民の御希望にこたえて元号制度を残すと。で、だれが決めるかどうかというのは、それは日本の歴史を見ますと、先ほど審議室一長が申しましたように、最終的には天皇がお決めになったという歴史はあります。ありますが、しかし、それはいまの憲法の制度のもとでは天皇がお決めになるというわけにはまいりませんので、それで法案をお出しして国会でお決め願うと、最終的な決定権を国会にゆだねて、そしてその御委任を受けてその都度政令で決めるという手続をこの際はっきり認めておらうというのが現在の国民の要望にも合い、かつ現在の憲法の精神にも適合するという気持ちで法案を起案したわけでございまして、決して天皇が決めなければ元号とは言わないなんというような気持ちは毛頭ございません。
○山中郁子君 だれも天皇が決めなきゃ元号と言えないじゃないかなんて言ってないんだから、よけいなことは答えていただかなくていいんだけれども、要するに、そうすると天皇が決めると憲法上問題があると、憲法違反だと、こういうことですね。
○政府委員(真田秀夫君) いまの憲法のもとにおける天皇の国家機関としての天皇の御行為につきましては、これはもう御承知のとおり憲法に列挙してある、天皇は憲法に定める国事に関する行為のみを行うと、そういうふうに書いてございますから、元号を決める権能を天皇に与えるというような法律をつくることは、これはいまの憲法のもとではもうとても考えられない事項でございます。
○山中郁子君 だから、天皇が決めるということは憲法違反なんですね。
○政府委員(真田秀夫君) 天皇に元号の決定権を与えるような法律をつくることは憲法違反でございます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/087/1020/08705291020012c.html
○参考人(鷹司信輔君) 私は神社本庁の鷹司として参りましたので、神社、神道のものの考えといたしましてこの点を申上げたいと思います。
この問題につきましては、是非日本の伝統を保有して行きたいと考えております。併し私共は決してキリスト紀元を排斥するものではございません。キリスト紀元の便利なところもございますので、現在のように元号式の年代表示法と、キリスト紀元法とを適宜に併用して行くのがよいと考えております。日本の元号は千三百何年の長い伝伝統を持つておりますのでありまして、それは国民の象徴と仰ぐ陛下の御名によりまして常に公布せられました。これは決して天皇主権などというような権力関係のものとは思われません。朝廷から兵馬の権も政治の権力も全く消え失せた時代にありましても、日本人は元号だけは朝廷の公布せられましたところに従つております。官公文書はもとより私人の往復文書、日記等何にでも元号を用いておりました。神社人も仏教徒も又キリスト教徒もこれを用いて怪しまなかつたのでございます。国民のあらゆる党派、教派の人々が如何なる対立関係に立つた場合でも、多くは元号だけは同一のものを用いておりました。このあたりに国民統合の象徴というような意義も感ぜられるのでございます。英国におきましては、公文書にエドワード七世第何年とかジヨージ六世三年とかいうように、君主の在位年限を以て年代を表示する方法が用いられておるようでございます。法学書や歴史文献におきましても、そのような年代表示法がキリスト紀元と併用されて用いられておる例が決して少くありません。その一般的な普及程度においては、大小の差こそあれ、これは日本の現行の一世一元の制と本質的には同様のものであろうと思われるのであります。英国では外交的文書や條約文書等は勿論キリスト紀元一本で君主の年号を用いないのでありますが、日本におきましても同様でよいと思います。外交文書には現在でも公式にキリスト紀元が用いられております。キリスト紀元を採用せねばならんからといつて必ずしも日本式の元号を廃止せねばならんとは考えられないのでございます。
我々神道人といたしましては、キリスト紀元による年代表示の方法が外交文書で用いられようと、学校の教科書や年表で用いられようと決してこれに反対するものではありません。我々の間におきましても年表的な場所では大いに利用しておるのでございますが、あらゆる場合にキリスト紀元一本に統一されて強制されるということは到底承服しがたいのでございます。キリスト紀元一本になるという法案は、必ずしも政教分離の憲法に反するものではないという理論は、理論としては成立ち得ると思います。政教分離の米国におきましてもキリスト紀元を用いております。又キリスト教に対してはむしろ反抗的でさえあつたナチス、ドイツでもキリスト紀元を用いておりましたし、又反宗教無神論者の指導下にあるソ連邦においてさえもキリスト紀元を用いられておるのであります。元号とか紀元というものは、少くとも近代国家においては政治的主権というような問題には直接的な関係を持つものではないと申せます。併しながら我が日本の国民感情を考えますと、決してドイツやソ連と同様には行かないと思うのであります。ドイツやソ連では、過去におきまして長いキリスト教文化の伝統がありましたので、国民はキリスト紀元を用いても、それがキリスト教という一宗教に特殊な関係を持つておるということを全く感じない程までになつておるのでございます。非キリスト教的な宗教教派が別段に存在しないからでありましよう。ところが我が日本におきましては、国民の圧倒的多数が神道と仏教に属しております。キリスト教徒は全日本人口のうちの僅々百分の一に過ぎんのでございます。ここで今後は一切キリスト紀元を用いる。少くとも公式文書ではキリスト紀元以外のものを用いてはならんということになると、神道人や仏教徒は何んだか、国家が特にキリスト教を支持しておるように感ずるでありましよう。これは法理論的に申すのではございません。感情の問題と申すべきでございましようが、政教分離の憲法の円滑なる連用という点から考えますと、このような感情問題も極めて愼重を要することと存じます。
今日では国家の公式文書に用いられるのと同様の元号が、神道人、仏教徒、キリスト教徒のいずれによりましても用いられておりますが、国家がキリスト紀元一本で行くことになりますと、神道や仏教では自然国家と別の年代表示法を持つことになりましよう。神社の祝祠などにキリスト紀元を用いたり、仏教寺院の墓碑銘にキリスト紀元を用いることは、我々宗教人として想像し得ないことでございます。現にこの問題が新聞紙上に報道せられますと、全国の神社人や氏子、崇敬者から随分と熱心な反対意見を申し送つて参つております。過去の東京新聞社の世論調査でも、現在のままの元号を存置するがいいという意見が、キリスト紀元一本の意見よりも二倍以上も多いということを報道しております。これはキリスト教文化の伝統が浅く、神道や仏教徒の多い日本の世論としては当然のことであろうと存じます。元号とキリスト紀元の便利、不便利の問題や法理上の問題や議論は多いここと存じますが、私は全国の神社、神道人を代表する宗教人の立場といたしまして、神道人も仏教徒もキリスト教徒も、如何なる敵宗派に属する人も極めて自然に受入れることのできる元号を存続させて頂きたいと切に希望するものでございます。日本人のあらゆる政派、教宗派の人々がひとしく国民統合の象徴として仰いで来た皇室と縁りの深い元号が将来も尚用いられて行くことを我々は希望するものであります。右のような考えを持つております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/0804/00703020804008c.html
よく分かってない事にも何でも反対する姿勢、
傍から見たら何で愛国者なのか理解出来ないその世界でのみ通用する愛国観。
しかも発言者に対しては強硬姿勢に出る、その代り自分に矛先が向くとシドロモドロになる。
右系の政治家がこうだと主張すると調べもせず心酔してその信者として他を敵視する。
少数意見であったり、論破されるとその発言者を全部在日認定したり国賊とか売国奴、非国民という言葉を乱用する。
名誉棄損で訴える準備が始まったりその発言者の本気が伺えると途端弱腰になる。
都合の悪い事を言われると在日認定。
掲示板なら荒らし、SNSなら発言者の実名と住所、写真などを無断で転載して犯罪者だと吹聴する。
肖像権の侵害などを平気で行うクズのくせに「知る権利」をやたら行使しようとする。
沖縄が日本国の犠牲になっているという事実を直視せず、サンゴや海洋の生態系(マナフィ等絶滅危惧種)を滅ぼしかねない米軍基地の移転計画を止めようともしない。
天皇が迷惑してるのにやたら天皇万歳を言っては他国に毒をまき散らす。
円安批判する奴は全部敵だと思ってる。
円安は輸出産業の好調あってこそという簡単な事も理解出来ない。
靖国参拝するのが日本人として当然と本気で思ってる(稲荷大社や春日大社の参拝は駄目なんですか?)。
朝日毎日は誤報捏造だらけで信用出来るのは正確な情報を伝えられる読売()や産経()だと言う。
無職は甘えだ。
語彙力が極端に少ない。
30代~40代。
他人の振りを見ず我が振りも当然直す気がない。
イルミナテイにやたら敏感だ。
TorrentやShareで音楽アニメ映画ゲーム漫画を落とす事を正当化し、それが業界全体の活気に繋がってると本気で思い込む。
同族嫌悪。
アフィリエイトを極端に嫌う。
逆にアフィリエイトが好きで金儲けのためなら国を売り渡せる(クチでは愛国煽動)。
懐古主義。
ちょっとでも隣国を思いやる気持ちを持った芸能人のプロフィールを漁って整形疑惑や背乗り疑惑をでっち上げて貶める。
基本的に匿名性の高い所でしか活動できず、個人ブログの批判の際もコメント欄を荒らす事しか出来ない。
でっち上げを嫌がる性質の割に自分が誰かをでっち上げてバカにする事については問題ないと思ってる。
ネトウヨと呼ばれるのが嫌いだ。
とりあえずコピペを疑う。
とりあえず記念カキコ。
「長い」「読みづらい」「短くまとめろ」とやたら上から目線で注文を付けるか難癖を付ける。
とりあえずネカマを疑う。
○齋武雄君 「皇室ニ對スル罪」を廃するということは、これは止むを得ないことでありまして、憲法上当然であると考えるのでありますが、只今七十三條に、「危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ處ス」と、非常に重い刑罰に現行法はなつておるのであります。これは無論殺人も入るのでありましようが、傷害罪もこれに入ると私は考えておるのであります。その場合において、傷害罪は十年以下の懲役となつている。これは非常に軽過ぎやしないか。人命の保護ということを、人体の保護ということから考えて、これは重くしてもよいのじやないか。特に天皇に対しては、國民の感情からいつて……平等でなければならんけれども、併しそういう場合においては、法定刑を重くしてもよいじやないか。一般の法律によるのでありますから、刑法によるのでありますから、そういうことを考慮いたしまして、傷害についてもつと重い刑罰に処するような、そういうことをお考えになつたらどうどしようか。
○政府委員(國宗榮君) 傷害の罪に関しまして、憲法の趣旨から申しまして暴力否定の観点から、暴行罪、脅迫罪等の刑を加重いたしましたが、この「皇室ニ對スル罪」の七十三條の危害を加える中には、御説の通りやはり傷害も含んでおるのでありまして、從いまして、天皇に対しまする傷害の罪が発生いたしました場合は、二百四條によつて処断をすることに相成ります。この七十三條の規定は、死刑一本を以て処断しておりますが、二百四條になりますると、十年以下という刑で、その間に非常に違いを生ずるのであります。御説の通り、十年では、かような場合に賄い切れないではないかという感じがいたすのでありますが、この「國交ニ關スル罪」の九十條によりますと、「帝國ニ滯在スル外國ノ君主又ハ大統領ニ對シ暴行又ハ脅迫ヲ加ヘタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ處ス」ということがございまして、この暴行というのは傷害を含むというふうに学説上解釈されておりまして、これが先ず一應十年の刑になつておりますから、この際は改めて二百四條の刑を重くするまでもないと考えまして、そのままの刑にいたしておる次第であります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1340/00108071340010c.html
http://www.asahi.com/articles/ASG8G3PM1G8GUTIL00X.html
「本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に69年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130815/plc13081513490029-n1.htm
「本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に68年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。
ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。 」
もちろん、こんなタブーについて報じるマスコミも、ツイッターで指摘する奴らもいないけどね
集団的自衛権や秘密保護法、原発再稼働とか、安部首相の個々の政策には日本人の過半が反対し、普通なら野党に票が流れても仕方ない状況であるにも関わらず、安倍や自民党の支持率が数%ほど落ちただけで、共産党や社民党が日本人から完全に無視されるのが、今の状況。
それはなぜか? その原因を、福島民報は端的に語ってくれている。
http://www.minpo.jp/news/detail/2014081017384
中国の領海侵犯や、韓国の竹島上陸や天皇謝罪要求、北朝鮮の拉致問題は完全スルーで、日本に全責任があると言わんばかり。頭が正常とはとても思えない(日本が完全に責任なしとは言わんけど)。
こんなだから、多くの日本人は「日本の左翼は、日本人の代弁者足り得ない」と思ってる。
そんな現状を直視せず、ただ今日も「日本は右傾化してる」とかしか言えないんじゃ、日本の左翼が「日本人の代弁者」として認められることは、未来永劫、あり得ないだろうね。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。
戦争は終った。
特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。
だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。
最近よく聞くのが、
というもの。
前の天皇誕生日に、天皇陛下自身が「憲法を遵守する立場」を明確にしたことで、左派は右派(というか改憲ノリノリの安倍政権)を批判するための格好の材料を得た。
天皇を奉ずる右派が、天皇自身に諌められたわけで、左派がこの機に乗じないはずがない。
ところが、これを見て左翼でも右翼でもない(と自らを規定する)ひとは、違和感を抱かないではない。
左翼は……天皇とか嫌いでしょう? その天皇の言葉に拠って右派を批判するなんて。批判できるなら何でも利用するのか?
こういう次第である。
しかしそうなんだろうか? これが長らく疑問だったので、頭が悪いなりに考えたこと(独自研究です)を書き記す。
a)ここでは左翼と右翼を、彼らが拠って立つ「価値」に基づいて区別する。
まず、そもそも左だの右だのというのはフランス革命と産業革命にともなう近代化から生じたものだと理解している。
そこから、早計に、左翼は近代個人主義者で、右翼はそうではない、という理解が生じうるが、これはよくない。
(こういう理解から出発するかぎり、「左翼個人主義」は社会や国家の危機に対抗する言説を持ちえないから)
個人主義というのは近代の必然的な産物なのであって、左や右によって決まる「態度」ではない。
高度に産業が発達して、旧来の共同体が失われた世の中で、誰が個人主義者以外でありえるのか!
なので、左翼と右翼を分けるのは、この個人主義に対して、何を対抗「価値」として奉ずるか、という点である。
右であれば、これは過去と伝統を志向する。国家、天皇、王様、なんでもよく、ましてその伝統が捏造されたものであっても、構わない。
とにかく、個を超えた強い価値が置かれる。
左は、では何か。フランス革命は憲法を作った。人間と市民の権利についての法。
つまりこれだろう。人権であり、憲法である。これは別に伝統に由来しない。これを守ろう守ろうと連呼するから保守的な態度に見えかねないが。
人権というのは、頑張って獲得されるべきもので、つねに守りつづけないといけないものである。
したがって規範であるから、超越的だと言えなくもないが、これは個を超える価値ではない。
じゃあ個人主義じゃないか? いやいや、人権を守るためには、社会的なケアが必要ですからね。
むしろ、個人主義が人間を孤立化させていくからこそ、憲法にもとづく保障が必要になる。
もちろん以上の区別は、前提的なもので、これを逸脱するものはたくさんある。
特に共産主義は左翼の代表格みたいになっているが、あれは特殊な理念を抱えているから、しばしば歴史の邪魔者である。
基本的にはこの、超越的な価値/内在的な価値という区別にたよる。
b)人権・憲法という理念に即して考えるとき、天皇制は批判されるべきか?(歴史篇)
最大の要因は、戦時中に軍部と天皇が結びついたという戦争犯罪の問題であって、
この記憶は多くの左翼にとって、天皇制を軍国主義の象徴に変えてしまったきらいがある。
また、第二次世界大戦以前には、天皇主権の国家だった、ということも忘れてはいけない。
憲法は欽定のものと考えられていて、人権は天皇大権のもとで制限されていた。
人権に依拠する左翼にとって、これらの時代の天皇制は、批判されなければいけなかった。
とはいえ、戦前であっても、美濃部達吉の天皇機関説のように、天皇を国家機関と見做して、国民主権を保障するような理念が通用していたかぎりでは、それほど批判すべきでもなかった。
しかし大日本帝国憲法は基本的に天皇主権なので、天皇機関説は法学の世界における「通説」の域を出ず、軍部の台頭ですぐ覆されてしまった。
c)人権・憲法という理念に即して考えるとき、天皇制は批判されるべきか?(現状篇)
とはいえ、いまは日本国憲法、国民主権は通説ではなく確定的事実である(改憲するひとは時々ひどいことを言うが)。
そして天皇は、憲法において「国民の象徴」という正当な地位を保障されている。
だとしたら、なぜ天皇を批判しなければいけないのか? 憲法を愛するかぎり、天皇を愛することは可能である。
逆に、右翼からすれば、現行憲法下での天皇は疎ましい存在でありうる。
右翼は水平的な民主主義を嫌悪するから、それに反する超越的な価値として天皇を求めるのに、
さいわい、右翼からすれば愛着の対象は皇族の個々人というよりその容れ物だから、非国民な天皇(別に天皇は国民じゃないけど)という非難だって胸を苦しませずにできる。
不幸なのは天皇一家であって、左翼も右翼も自分たちのことを条件付きでしか愛してくれない。
左は、現行憲法の枠内にいるかぎりで、右は、現行憲法の枠から抜け出るかぎりで。
c)結論。
こういう次第だから、日本国憲法の枠内にある天皇陛下を左翼が愛し、支援するということには、何の問題もない、と考える次第です。