はてなキーワード: 価値判断とは
まず、全体的に。
俺はトピックに合わせて価値判断が行われるべきだと話しているのにそれについての反論が何もないからなんとも言えないな
> リベラルフェミ的には男女スポーツの区分けは「男女平等のため」の規制だと理解される
→スポーツについては区分けを認めてるわけなんだろ?それこそトピックにやっての価値判断なのでは?
>男女平等を男女の機会均等だけの問題として理解しているのがすでに間違い
平等のためなら機会に差をつけることを要求するのが社会自由主義
→equalityとepuityの話だよな?
そもそも俺は男女平等反対派なんで、両方とも違うんじゃねーかと思ってる
>偽ショーンKも山口もこの対立についてはちゃんと理解しているよ
相手の価値観を受け入れようなんてぬるいことは言っていないし、言うわけがない
そんなことは無理だからね
→受け入れようとは言ってなくて、違う価値観もそういうもんがあると認めた方が効率的じゃないかと言ってる
まあジェンダー界隈はそういう他人の価値観、意見を徹底的に潰す、というのがお作法なら門外漢の俺は間違ってるし関わらないようにしないとな、と思うわ
『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている
そうだね。
「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文は玉石混交で読む時間がもったいないから社会学系の査読論文は価値判断ができない(ひいては社会学者の主張は玉石混交で結局全てクソ)
と言うべきだったね。
著者を見れば価値がわかる?そんなこと言ってるからクソと言われるんだろ。査読が機能してないって現代の学問として終わってるぞ
学問は事実認識のみを追求し、市民はそれに応じて価値判断を行う。
それだけじゃ足りない、価値判断についても学者は提言すべきという考えもある。
科学的手続きをふんだとしても社会科学は自然科学のようにはなりようがない。
社会は社会科学の成果を取り込んだり、反応したりするものだから。
また、科学的手続きを踏んで分析結果を出したとして、最後の結論への持っていき方は難しいところがある。記述するだけなら科学的手続きを踏めば十分だが、so what?となる。
実験社会科学のアプローチでエビデンスをもって政策提案する考え方が最近は出てきているけれど、その提案する方向が望ましいかどうかは科学的に決められるものではない。
価値判断・思想はやはり人文学によるものになり、科学的にどうこういえる話ではない。社会科学はどうしても人文学と重なるところが出てくるわけで(社会学は特にその部分が大きいように思う)、それも全部科学的手続きでどうにかしろというのはちょっと無理があると思うんだよね。
https://togetter.com/li/1660066#comment
コメント欄があまりにもひどい。「社会学は学問ではない」「イデオロギーだ」という主張を非科学的な手法で、感情論に任せて行う。まさに社会学叩きこそがイデオロギーと化している。自己矛盾としか言いようもない。
社会学の学問としての是非はともかく、叩き方があまりに雑すぎるのではないか。
心理学系の論文の再現性を検証した論文が何年か前に話題になっていたが、学問の科学的手法をとった批判とはあのようにあるべきだろう。
としても、そうした属人的な事情は学問つまり研究結果や論文とは分けて考えるべきだ。仮に社会学者に人格破綻者が多かったとしても、学問自体の問題ではない(雇用主である大学側としては問題かもしれないが)。
これは社会学批判としては真っ当だ(実際にどうなってるかは知らない)。
が、『「査読システムが酷い」から社会学系の査読論文全てに価値がない(ひいては社会学者の主張は全てクソ)』とするのは間違っている。そもそも「査読システムがひどい」自体にエビデンスがなく定性的で主観的な意見であるからだ。この方向性で批判するのならば、社会学の査読システムに関してきちんと研究し、研究内容を論文にまとめて査読に出すべきだろう。そうして初めて主張に価値が出るのが科学の筈だ。
『個々の論文に関しての評価には、査読が必要』という前提条件から「査読システムがひどい社会学」をバッシングしているのにもかかわらず、「社会学は査読システムが酷くてクソだから社会学系の論文は全て価値がない」とするのは論理が破綻している。
自浄作用というのが、いったい何かわからないので何もいえない。ある社会学者の主張を批判するような内容の論文が出せないということだろうか?それならば確かに問題だ。が、「こいつを批判しないならあいつも敵」という風潮を取り入れろという話ならば、そちらの方が問題があると思われる。なんにせよ自浄作用という言葉が抽象的すぎる。
ネット上の社会学批判はあまりにも雑だ。エビデンスに基づいていない、社会学者個人の発言の問題を社会学全体に拡大して批判する、批判する人々のうち誰一人論文を読んでいない……このようなバッシングで、社会学という学問自体が潰れるのはイデオロギーに対する科学の敗北だ。
もし社会学が非科学であったとしても、社会学の構造上の問題点は科学的に検証されてから潰されるべきである。(個人的には、社会を研究することは絶対に必要だと思うので問題点があるのなら解消して欲しいと思う。)
n4b 社会学の一部の人って自らの研究対象に対するイデオロギーが非常に強いと思うんだけど、それって研究者のスタンスとしてどうかな、とは思う。本来はフェアな立場で批判的にデータと向き合うんだけど
これはもうごく個人的な意見に過ぎないけど、研究者の研究対象に対するイデオロギーの強さはどの分野においても仕方ないものだと思うよ。
研究者も人間だしね。北極グマが大好きだから北極グマを守るために科学者になるし、地球温暖化や環境問題に関する研究をするようになる。気候変動による生態系の崩壊を目の当たりにすれば、当然それを防がなくてはならないと政治的な意見を持つようになる。
社会学者も(会ったことないから知らんが)社会に問題意識を持ったからこそ社会学を専攻したんだろうし、そこでイデオロギーが動機になるのも、結果的に特定のイデオロギーを持つようになるのも当たり前と言えば当たり前じゃないかな。社会という研究対象の特性上、他の学問よりもそうなりやすいだろうし。
それに、研究者自身に思想はなくとも研究者は研究が資金を必要とする以上、どこかからバックアップを受けなきゃならない。企業の研究者は企業の営利のための研究をしなきゃならないし、国の研究機関だって国益のために金を出している。研究者が完全にフェアな立場に立つのは無理だ。
タバコ会社がタバコを無害を示す研究に資金援助したり、石油会社が気候変動とCO2排出量の関係を否定する論文に資金援助したりだとかは、今更無くそうと思ってなくせるものだとは思えないしこれからも増えて行くだろう。
でも、タバコの無害を示す研究も、気候変動はウソだとする研究もあっていい筈だ。むしろ無くちゃ困るものだ。問題は利益のために研究を歪めていないかであって、イデオロギーに基づくかではない※1。
は研究者として本当に重要なことであるし、特定のイデオロギーに肩入れし、恣意的なデータを示す研究者は研究者と言えないと思う。が、やはりそれは研究手法や統計解析方法などから批判されるべきであって、「研究者の立場がフェアでないからこの論文は信用に値しない」とすることは非科学だろう。
研究者がイデオロギーフリーであることもフェアな立場であることも難しいが、データに批判的に向き合うことは出来る。論文の著者は批判的にデータに向き合い、思想によって歪められていない研究結果を示すべきだし、読み手(査読者も含む)もまた思想に囚われずに研究結果に向き合うべきだと思う。
自分も(知ってる範囲の)社会学者のスタンスが好きか嫌いかというと、嫌い※2。だが、著者のスタンスではなく論文を読んで批判するのが、批判者としてのあるべきスタンスだと思う※3。科学を科学たらしめるのは論文ではくて、論文を評価する人間の存在だろう。
※1「利益のために研究を歪めていないか」なんかをチェックするために医学系の論文なんかだと、〇〇製薬に援助を受けました、と書いて利益相反をはっきりさせているが、社会学にそれが必要だとは思わない。
※2 一応論文を書いてる社会学者よりも、雑な理由で社会学全体をバッシングする奴のほうが嫌いである。単なる好き嫌いだがメディア露出の多い研究者は基本的に嫌いだ。社会学含め人文科学には興味がない。
※3 興味がないので論文を読みたくないし研究もしたくないから社会学という学問の在り方について批判も肯定もしたくない。
babelap 追記、イデオロギーについて「ほかでもやってるし」で免責すんなや。学問についての取り組みがイデオロギーで歪められてたら批判されるのはどの分野でも当たり前だ。社会学が影響されやすいならなおさら言われるわ
どの分野においてもイデオロギーと科学は切り離しようがない。社会学のような実社会を対象にした分野(※)では殊更イデオロギーフリーになることは難しいだろう。だからイデオロギーフリーかどうかを研究結果の価値判断の基準にするのは無理がある。「この学者は〇〇思想だから、この論文はゴミ」というスタンスを取るのはそれこそ、イデオロギーであり非科学だ。
研究結果、研究で得たデータがイデオロギーによって歪められ、異なる結論が出されるのは無論問題だ。それはどの分野でも問題になることであるが、「データが歪められていないか」というのは利益相反の有無からではなく研究手法の検証や再現実験などによって判断されるべきだろう。それが科学だ。
※自分の専攻が不幸にも政治的意味を持ってしまうことはままある。環境系などは特に顕著だが、最近では感染症系がいい例だろう。「コロナの危険性」だとか「〇〇な活動がコロナの感染拡大に及ぼす影響」だとかを研究し始めると、右のだ左だのがそれを政治的な意見のエビデンスとして使用し始める。専門家としての見解を少し喋れば、それが政治的な表明として受け取られる。メディアでの身の振り方に不慣れな自然科学者がうっかりテレビに出て無知な大衆にバッシングされるのは見ていて痛ましかった。左/右にとって都合がいい意見だから、こいつが言ってることだからで判断せず、疑念を抱いたのならクリティカルにソースとなる論文から検証すべきだろう。新型コロナは新参が多くて論文が読みやすいそうだから、これを機に物おじせずにGoogle翻訳機片手に読むといいんじゃなかろうか。論文を読む側も検証者として、科学の構成員である。(そういう意味で、「私は感染症素人ですが、皆さんと一緒にコロナについて勉強したいと思います」とサイトを開設した山中教授の行動は素晴らしかったと思う。)
日本の社会学はクローズドだというが、我々一般市民も、(金のために書かれた)出版社の本を盲信するのではなく、思想に基づいて雑に叩くのではなく、社会学を学び論文を読むことで、学問の裾野を広げ、日本の社会学をこじ開けていけるといいかもしれない。
(また余談が長くなったので終わる)
いやこれはダメな応答だと思う。頭の良い増田は分かっててすっとぼけてるでしょ?
①なぜ大人の客が子供が組織で戦い時には死ぬ物語を偏愛するの? 子供が軍国主義的全体主義に奉仕したり規制で描けない性交の代償として戦闘したりする疑似ポルノの快感を求めてるんでしょ?(事実認識)
②こんな悪趣味はフィクションでも許されない(価値判断・お気持ち)
という糾弾が元ツイートの趣旨だ。増田が解説しているような物語の構造が理解できないという疑問を問いかけているのではない。
私が応答するなら、
①の事実認識に対しては、全くその通り。鬼殺隊が国家公認の組織(軍隊・警察)で成人男性の隊員しか出てこない鬼滅の何が面白いのか? 女子供が戦って死ぬからおもしろいんだ。事実なのだから、エヴァや鬼滅は悪趣味、オタクは悪趣味を愛好するクソ野郎だらけ、と好きなだけ悪口言えばいいんじゃない?
②の価値判断に対しては、法規制しろとか言い出さないなら、嫌いな作品は好きなだけ許せないと批判すればよろしいのでは。俺はピーマンが嫌いだ、という叫びと同程度に尊重します。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1649741
ここのブコメ
感情を説明できないというTogetterの被まとめ者に対して
「感情を説明できない」という人は「感情がない」というわけじゃないし、思考力がないから説明できないわけじゃないんだ
むしろ被まとめ者は内省して行動を直しているので思考力はかなりある方だ
では何が困難で説明できないのか
ブコメのシチュエーションを例に取らせてもらうと(あくまで例なので他意はないです)
ご飯を作ってあげたときに「美味しいよ」とか「ありがとう」の前に「鶏肉をもも肉からむね肉にしたんだね、さっぱりとした味になっているね」とか言われたらそりゃモヤモヤするよ
ご飯食べてる時は他に色々考えているはず。
こういった様々な脳内の情報処理の中で、(※)で示した部分だけが今、言及すべき感情とされていて
他はそもそも感情ではないか、感情と言っても今言及すべきではないものであり
反応を返しても相手の満足を得れない
俺はこの(※)を満足な速度で抽出するのが苦手だし、被まとめ者もおそらくここが苦手なんだと思う
上の列挙でわかるとおり、感情と呼べそうな情報処理は脳内でちゃんと行なわれているので感情がないわけではない。
論理性が低いのか?と言われるとそこは自信がないだけど
どっちかと言うと話し相手が情報として必要としている感情が即座に判断できないことに困難を感じている
快/不快はとても的確に判断できるんで、癇癪も起こせるんだけど
単に快/不快だけを表現してと言われると上のリストの中の「寒い」とかが出てしまう
ただしこのシチュエーションで求められているのは「おいしい」と「ありがとう」だ
正直自分の感覚で言うと「ありがとう」は快/不快でもないし感情でもない気がする
ただし、十分な時間を与えてくれたら今相手は自分の提供した食事について価値判断してほしいと言っていることがわかる
ただこれがシチュエーションが違うと「美味しいかどうかはいいから昨日の食事との違いを答えてほしい」とかが要求になるんで
ここもまた即座に判断できない
長年人間関係や空気読みというのをやってきて、多くのシチュエーションでは能力が足りなくても十全な努力をしていれば許されることがわかってきた
今回の場合、「自分はこんなに困難を抱えていて最大限努力している」ということが伝われば
受け入れられることも多いことがわかった
ただそれにも多くの時間を必要とするので、普通の人のように人間関係は広くはできないんだけど
どうしたもんだろう、ねえ
色々反応くれてありがとう(一言目にありがとうを言う程度にはコミュニケーションはできる)
thacaChasma 「ご飯を作ってもらったときには、余程マズい時以外、美味しい・ありがとうと最初に言う」というコミュ障ライフハックがある。何も言わない/毎回正確な分析を語るより、100倍良い結果になる。
hakusai_chan 「相手に何かしてもらったらまずは喜びと感謝を表明」この原則はいついかなる時でも通用すると思います
付き合いが浅いうちはこれで対応できるんだよね。ネットのつきあいも同じだ
問題は元まとめにあったようにかなり深い付き合いになった時
ezmi4 女性間は共感が求められ男性間はそうでもなくても、男性が結婚や恋をする場合得てして女性のそういう面の恩恵を受ける(惹かれる)訳で、それを口開けて享受するだけなのは如何なものかと。お互い与え合わないとね ブコメみての感想
増田じゃなくブコメへの反応らしいんで回答ずれてるのかもしれないけど
たぶん俺と同じ困難は男女関係なく持ってる。で、得てして男は男と、女は女との付き合いの時間が長いので
女の方がケアしあう関係が強いなら俺みたいに共感力が低い女は俺以上に日常で困難を抱えているはず。厳しそうだ(共感)
pikopikopan 発達障害あるある。私も感情抽出が苦手だし、文字に書き出してようやく表現出来る感じ。時間かかるんだよね。頭で思っても、感謝や共感を伝えるのを忘れがち。同時進行で別のこと考えてたりするし。
まあね。もう少し時間をかけても反応していいって言う人が増えたら楽になるんだけど
nmcli 列挙されてる脳内感情が自分のことばっかりなのでモヤモヤした。「便利だ」「ありがたい」の解像度を高めて「自分のために時間を費やして作ってくれたんだな」とかがあれば、心無く感じることはないのだけ
kwsktr すげえ違和感なんだよな。「寒い」と「美味しい」が同列で並べられていたり「自分で準備しなくても食事が食べれる」の下に「ありがとう」があることとか。足りないのは思考だけじゃなくて、共感と視野じゃないかな。
kotetsu306 自分の快/不快は考慮してるのに、相手の快/不快については全く判断材料にしてない(登場すらしない)のリアル。列挙した選択肢のうち、もし自分が言われたら快なのはどれ?って思考はできるだろうか
そう、共感力の高い「普通」ができる人間は、「自分の思いを伝えろ」と言われたとき反射的に「相手への共感を踏まえろ」って発想に至るんだよ
ここに至るまで人生だいぶ時間を使ったんだけど、普通の人間はモヤモヤとか違和感とかそういう直感でショートカットして判断できるらしいんだよな
ちなみに自分が言われた時快に思うのは「ありがとう」だけど、共感が得られることを快と判断するなら「おいしい」「寒い」でも共感はできる
さっきの引用に被せて言うと、
「ありがとう」「おいしい」「寒い」以外の選択肢を選んで喋ると不快に思う人が一定数いて、
これが自分の中で不快でも何でもない、あえて言うと中立なので判断に時間がかかる
cleome088 これの問題は、できないからこれやらなくていいという能力ではないことなんだよね。情操の言語化は出力が遅いなりにやれないとまずい。ウンコしないのと一緒で自分も病むよ?やたら軽く見てる人が多くて怖いけど。
まずいのはわかる
ただどちらかというとできないこと自体より「普通簡単にできること」と世間に思われていることのが脅威を感じる
haluhiko うれしい、おいしい、たのしい、すごい、素晴らしい、すてき…など耳ざわりよい言葉は挨拶の2軍。要求される前に自発的に出さないと効力が薄い。少しでも感じたら声に出すトレーニングしたら良さそう。独り言でも。
今回はその先の話だな
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他ブコメ反応見て。
俺が共感力低いのはわかっていて、擬態できるようトレーニングは一通り積んできたつもりだ。
ただ、ここで伝えたかったのは
「あなたの考えを教えてほしい」と言われた時
その背後に「相手への共感や関係性に関わる考えのみを抽出して伝えてほしい」という要望があることを想像できなかった
そこから実際会話のスピードでそれができるトレーニングを積む時間がまだ足りていない
ということ
自分と同じ悩みを持つ人間は、早めにここに気づいてトレーニングすることを薦めるし
自分のような人間と付き合っている立場の人間でそこに悩みをもっているなら
「他人に怒られるから不倫しない」っていう価値観を自分は持ってないので、それはそう思ってる人に聞いてみたらいいと思う。
ひとつ付け加えるなら「パートナーを傷つけたくないから不倫しない(or けど不倫してしまう)」って人はいても、
「他人に怒られるから不倫しない」って人はあまりいないような気がするな。
あ、でも他人ってのがパートナー以外の周囲の人たちのことで、レピュテーションリスク考慮してしないっていう考えの人はいるかもしれないな。
その場合、それは自分の人生を生きてないという意見には与できないけど。
大きなマイナスはそれ以上大きなプラスで補えばいいって考えは面白いな。
人の感情がそううまいことオフセットしてくれるのか、自分にはちょっとわからないけど。
お母さん食堂、というネーミングがまあ荒れに荒れている。
「お母さんという言葉に、無意識のうちに料理を作らなければならない人としてのジェンダロールを強制する働きがある。表現を改めるべきだ。」というのが要旨である。
私は正直なところ、この指摘は充分受け止めるべき意見ではあると思う。人のあり方の多様性が叫ばれて久しい昨今、たしかにそういう側面がこのネーミングには感じ取れないことも、ない。
けど、なんか、違うのだ。その議論はもっと高尚なところですべきで、言葉狩りのようになってはならないと思うのだ。
本質は役割の押しつけの解消で、気に食わないものの排除では無いはずだ。
ただ、否定しようとしても、先方の論理はかなりしっかりとしていて、こちらの反論は感情的なものであるから、かえって相手の意見の補強になる。
(実際に「いやカントリーマアムとかあるやん、別にいいやん」みたいな反論に「それらも変えるべき、問題提起のきっかけであるだけ。黙殺する風潮を作るな」というような反駁があり、なるほど確かになぁとなったりした。)
一応私なりにも反論を試みたりはした。
そもそもこの「お母さん」のニュアンスは母性とかその辺に由来するものだと思う。授乳に始まる母親からの食事の供与は人間のみならず広く動物に見られるし、その過程で獲得した母に対する安心感を無意識のうちに想起させるものなのでは?
お母さん、としてでは無く「その人」としてらしくあろう、そのためには役割を課してはダメだよね、ならば、「お母さんとしての私」を拠り所とする人は否定していいの?
たしかに前時代的な考えかもしれないけれど、前時代的な考えにすがることは間違っているの?
少し話が逸れるけど、こういうポリコレ的な話ってかなり気をつけて発信しなければならないはずなんだけど、否定派肯定派ともにそれが欠けている気がする。
社会的に認められていたかつての「正しさ」がどんどん力を失って「正しさ」が曖昧になってきた時代。
多分今の時代のお題目としては「多様性を認め合い、個々人の中にある正しさを尊び、大切にしましょう」ってところだと思う。これには私も賛成だ。
けれど、最近話題になるものはどれも「これが今の正しさ!そぐわない考えは悪!その考えを捨てきれない民衆と社会も悪!」みたいなのが、多くない?と思う。
差別や偏見によって不当な扱いを減らすべきなのは当然なんだけど、個々人の価値判断とかその辺まで「正しさ」を強要できるほどのものではなくない?
というか、それをしてしまうと出発点である「多様性」とか「価値観の押しつけからの解放」とかに矛盾しちゃわない?
っていうのがずっとある。これじゃあポリコレ的に悪とされる前時代的な価値観、社会体系そのものじゃん。
具体的に言えば、ジェンダーとしての女性、ジェンダーとしての男性は、尊重しなくていいの?みたいな表現とか、よく見られる気がする。他にもある気がするけど、ここではあげないことにしておく。
ともかく、「お母さん食堂」というネーミングに対するアクション、私は反対である。「お母さん」という言葉の中にある温かみは「お母さん」にしかない。
https://anond.hatelabo.jp/20201211083327
なんというか、この増田に対しても「差別する自分を自覚しろ」というブコメが星を集めるあたり、まるで連合赤軍の「総括」のようだなと思ってしまった。
差別に関する話は、突き詰めれば確かに諸個人の不断の内省によって超克されるものなのかも知れないが、実際嘆かわしいほどの差別が存在しているのに、むしろそう認識している筈の者ほど、それが現実問題として解決に貢献しそうにない方法を他人に強要しているように見える。
要は、差別を十把一絡げに話してしまえば、それがかえって差別を温存することに貢献する、ということにならないかと思うのである。
反差別批判なるものをする人は、おそらく差別についてひとしきり考えて一つの考察を得たのだろう。しかしその人が語るのは、解決すべき社会問題としての差別ではなく、決してなくならない差別が存在するこの浮世において清く生きるための方法であるように思える。
ちなみに、出羽守と言われるかも知れないが、英語では差別をもっとわかりやすく捉えようとしている。
差別を表すdiscriminationは、行動を伴うもの。prejudice(偏見)は考えや感情、価値判断を伴うもの。stereotypeは単純化された認識である。
例えば「黒人は腕力が強い」というのはstereotype。「黒人は腕力が強いから怖い・嫌い」というのはprejudice。「黒人の隣には座らない」というのはdiscriminationだ。
もちろん人間の認識に基づく話だからどれも混ざり合っているし、理想を言えばstereotypeをなくせたら最高かも知れないが、まあそれは無理な話だ。でも、その理想が追求できないからといって「しょうがないよね」ってのも違くね?という認識がここにはある。つまり、最低限discriminationをなくしましょうねというコンセンサスを得るために言葉を使い分ける。
最近の増田の例で言うと、「公立中学は荒れている」というのはstereotype。「公立中学は荒れているから動物園みたいなひどい場所だ」と思うのはprejudice。「公立中学校は動物園」とブコメするのはヘイトスピーチに当たると考えればdiscriminationになるだろうか。しかしこの差別の具体的な被害者は誰なのか。
どちらかというと、これを批判する者は、他人のprejudiceに足を突っ込んで叩こうとしているように見える。
今回のように見える形でprejudiceを表明するのはよくないが、表明しなければprejudiceもまた思想信条の自由に守られていたりもする。もちろんprejudiceなんて無い方がいい。しかし、クソ味噌一緒に全部差別で全部悪いとすることも、却ってよくないと思う。
まあ別に英語が優れているという話ではないんですが、いずれにせよ、自分が差別について理解を深め太郎になったところで世の中の差別はなくならないわけで、そういうことについてはどう思うんだろうなとか思っちゃうよね。
出身地による差別は問題だが、地方自治体の体質に対する批判は差別とは言えない
学歴による選別は資格の有無の問題に過ぎず全く差別ではない、運転免許がないものが公道での運転を認められないのが差別ではないように
追記(意図しない読み取られ方があるので前に移動しました、誤解を招く表現だったことおわびします)
私は、書き忘れていたが、日本国憲法第14条に規定される属性による区別は当然のことながら差別だと考えている。私があげた絶対不可能な属性による区別の話は憲法上規定されていない属性に関してそれが差別かどうかを判断するガイドラインとして扱ってほしい。
日本国憲法14条
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
社会的身分には職業が含まれると考えるのが相当であるので、私も職業差別には反対の立場であることは変わりない。
そもそも先述のガイドラインにたどり着いた理由を説明すると、すべての人には自由があり、差別として行為の禁止を行う余地はできるだけ小さくしておくべきという私の価値観がある。ただし、生来変更不可能な属性に基づく差別は第三者による救済が難しいものが多いため、差別禁止によってもたらされるデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいのはほぼ間違いないであろう。一方で生まれてから少しでも選択の余地のある問題に関しては差別を禁止するよりも、その人が選択できる余地を増やすことを通した救済が比較的行いやすい。そのためそのような問題に関しては差別の撲滅に注力するよりもより救済を行う方へ注力するほうが望ましいと考えている。
加えて合理性を求めるひとがいるが、およそ全て人間はバイアスを経て観測した世界に対して最も合理的な行動を常にとっている(たとえそれが周囲に人間にとって不合理に見えたとしても)。合理性は客観的なようでその人の価値判断や目的などに左右されるきわめて主観的なものである。この文章は私にとっては合理的に思えるが、読む人にとってはそうは思えないかもしれない。合理性とはきわめて主観的かつ相対的なものなのである。ただ、社会的な意味での合理性は人々の議論を通じたコンセンサスの形成によるものであるので、成熟した議論を経た後での差別の描像がはっきりとより多くの人に共有されることを望んでいる。
追記ここまで
中学受験に関しての増田を端に発した議論がはてな界隈で盛んになっている。
大方ブクマカのダブルスタンダードを批判したものであるが、そもそも差別がはてなーすべて同じ意味で使っているとは思えない。例えば公立中学に通っていたことを黒人になぞらえて批判しているエントリがあったが、肌が黒いことと公立中学に通っていたことが全く同列に扱われるべきものとは現在の社会通念に照らしてもあまり一般的な考えではないと私は考えるが、その増田にとっては同じようなものとして考えていることは明らかである。その是非はともかくとして、現状においては差別は各人それぞれによって定義されるものといって差し支えないため、さまざまな形態の区別を明示し、その日本の社会およびはてなでの受容のされ方について考えるとともに同時に私見を述べてみたい。なお、どこから差別と考えるかは各人に委ねたいと思うのでここから先ではあえて「区別」という言葉を使う事にする。加えて強調しておくが、これはあらゆる社会通念に照らして問題とされている差別を肯定するものではない。差別とは何かを考える指標としていただきたい。
これははてなーはもちろん、現在の社会通念上認められていないといって差し支えない。特に性別についてはこれを支持する判例も存在し(e.g. 最判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁 いわゆる日産自動車事件) 、これはおそらく論ずるまでもなく明らかである。ただし憲法の私人間効力については間接適用説が主流となっているため、例えば三菱樹脂事件のような判例も存在する。ここでは憲法の議論を意図したものではないのでこれ以上は触れない。
これは最近聞かれる医療従事者への偏見にも関連している。社会的な建前としてはおそらく差別だと認定されているが、実際としては差別だとする意識が1.ほど完全に浸透しているとは言い難いところがあるだろう。おそらくはてなーに聞いてもこれは差別だと(それが建前であっても)答えると思う。なお、実際にHIVについては陽性者に対し無断で検査を行い陽性だったことを理由に解雇した事件についてはその解雇が無効であるとした判例も存在する(千葉地判平成12年6月12日労働判例785号10頁)。
このあたりから判断が難しい。現在、社会的に定年制は受け入れられている(是正しようとの動きもあるが)ため、年齢”差別”という言葉が社会的にまだ受け入れられていない可能性は高く、受け入れられるにしても近い未来ではないだろう。おそらくはてなーでもこのあたりから認識が分かれ始めると思う。以前あった私立医科大学が女子生徒と多浪生を意図的に排除していた問題にあってはこれを問題視する風潮がはてなにはあったのは覚えている方は多いと思うが、定年制への問題視はあまりなかったように思える(これは自分の印象)。なお、判例においては定年制は公序良俗には反するとは言えないとの判例が出ている(東京地判平成6年9月29日判時1509号3頁)。
これは今渦中にある問題である。実際として就活においてはいわゆる学歴フィルターは存在しないと断定することはできず、存在するものと考えるべきだろう。しかも厚生労働省のガイドライン(https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm)にも採用の可否を決める要素となってはならない項目の中に大学名・学校名に該当する項目は存在しない。少なくとも採用の場においては大学名のみによる扱いの差を設けることは認められているといって差し支えないだろう。私の周りを見渡しても実際学校の評判とそこへ通っている生徒への評価が関連づけて語られることも多く、私的な場においてもこれがタブーとされているとは到底言えないであろう。実際はてなーでも公立中学を「動物園」とまで評する向きもあることからそこまでのタブー視もはてなーの中にはないと言える。
いわゆる「オタク差別」などを念頭にしたものである。これを例にとると過去には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などに端を発したいわゆるオタクへの偏見があった(が、現在の社会では薄いものとなってきていると私は感じており、マクロな視点に立つならそもそも区別が存在しなくなってきているのではないかと考えている)。これの社会的な受容を考えてみる。個人のミクロな視点にたつならそういった嗜好を理由にハラスメントを受けた例はあるだろう。ただ、それは嗜好を理由にしたハラスメントが問題とされるのではなく、そのハラスメント自体が問題とされる(ことが多い)ため、おそらく社会的な問題視はあまりないであろう。ただ、そもそも属性による区別はその属性をもつ者がある一定程度存在しないと成立しないものである(その嗜好を持つ人が単独ないし少人数でしか観測されなければ単なる変人として扱われるだけで、それは区別とはよべない)ため、嗜好による区別に接する機会がすくなく、議論の俎上に上がるレベルにすら到達していないかもしれない。これはぜひ読んだ方に該当する例とその社会への受容のされ方を考えていただきたい。
と思いつくものを上げてみた。どれが差別に当たるかは皆さんに考えて、議論していただきたい。正解は存在しない。なお、私の中での差別の定義は「絶対に選択不可能な属性・事実に基づいて行われる区別」と考えている。これに立脚するなら1-3までが差別に該当し、私は公立中学に関して「動物園」と評するなど、悪い評価を与えるものについては差別的表現ではないと考えている。なぜなら公立中学に進むかの選択は自由意志に基づくものである(経済的な事情などにより私立への進学は到底不可能な方がいるのは重々承知している。その実態はともかく)からだ。ただ、その表現は褒められたものではないのは確かで、やはりひどい公立中学の現状があるのだとしてもそれへの是正措置に関する言及があるべきだっただろう。つまりこれは差別の問題として扱うのではなく、公的な機関からの財政的支援などによる学習の機会均等や学習環境の改善の問題に還元されるべきである。これを差別であるからと現状への批判を封じるのは実態への改善の議論を封じることになり、好ましくないと考えている。ただ、度を過ぎた中傷は理由の如何を問わず控えられるべきであることは注記しておく。
また、学歴の問題は、生来変更不可能なものではないのでこれもまた差別ではないと考えている。ただ、大学の再入学を経た後の不利な扱いは年齢差別として問題視されるべきだとも考えている。年齢への差別に関してはこれを問題視し、排除へと議論がより進むことを期待したい。
ここまで様々な属性への区別について述べてきたが、おそらくそれぞれの考える差別があったことだろう。ただ、差別の問題を考える際に忘れてはならないのはそこへの是正措置である。公立中学の問題に関してもそれを差別であるからと議論の提示を封じるのではなく、ではそこにどのような是正措置が行えるだろうかと考えてもらいたいのである。なぜなら本来の理想の状態であれば誰でも自由にその中学に行くか選択できるから、そのような偏見など生じないからである。偏見や差別は現在の不完全から生まれる。差別の問題はセンセーショナルになりがちで議論している双方が異なる差別の概念を持っており、話がかみ合わないという事はありふれたことである。そうなりそうなときには一度立ち止まって双方が差別の概念を共有するよう歩み寄ってもらいたい。以前として世界にはびこる差別への問題提起および是正のきっかけとなればうれしく思う。
現時点で、国際語となっている英語には、すでに多数のバリエーション(つまり方言)が存在しているのだ。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語が違うことはよくネタにもされるので普通に知っているだろうが、英語を母語とする話者が一定いる地域が誕生すればそこには必ず方言が誕生するのだ。仮に日本が公用語を英語と定め、数世代あとに日本人が英語を母語とするようになっても、気候、歴史、文化等々が他とことなるこの地で話される英語は必ず「日本的英語」、ジャパニーズイングリッシュ、英語の日本弁になってしまうのだ。つまり「統一」など最初からできないのだ。(そして、極めてリアルに想像すれば、方言である「日本的英語」は、英語話者の中では、おそらく社会的に差別される方言になるのだ。日本でも、方言話者がどのように扱われるかを見れば、それは簡単に理解できるのだ。)
なぜなら、言うまでも無く、日本という地や文化、歴史等々についてこれまで書かれた文献はそのほとんどが「日本語」で記されているのだ。日本に住む者にとって極めて重要な情報源のほとんどが「日本語」なのだ。にも関わらず、それらの文化的リソースを、数世代後の我々の子孫はそれを母語レベルで理解することができなくなってしまうのだ。これはものすごいロスなのだ。もちろん、「その代わりに膨大な英語圏に関する文化的リソースを手に入れられる」じゃない?と反論したいのだろうが、それは怪しいのだ。なぜならば、言葉と文化はセットだからなのだ。文化的な背景、自然、文物に対する理解がない中で言葉だけを習得しても、それは月面で育つ地球人のようなもので、言語的文化的資産の十全な継承などおぼつかない、それは単に「全く新しい文化を一から作る」のとほとんど同じことなのだ。それは「古文・漢文」がかなりの割合で読めなくなってきている現代の日本が抱える問題でもあるのだ。
移行期間といっても、切り替えるだけなら実はそれほど時間はかからず、おそらく数世代で完了するのだ。上で触れた「文語→口語」の切り替えなど、一世代もかからなかったのだ。つまりそういうことは大した問題ではないのだ。ただ、その先に誕生するのは、上で述べたように「日本語的英語を使い、英語文化のバックボーンはなく、かつ過去の自分たち自身のリソースへのアクセス力までも失った、新しい文化を一から創出しなくてはならない1億人」なのだ。人口1,000人の小さな島で起きたことなら、その悲劇を理解する人すらやがていなくなるだけで終わるだろうが、世界に大きな影響を与えるそれなりの規模の国家で行ったらどうなるか、想像するだに悲惨なのだ。まあ、日本が没落することで喜ぶ国があるとすれば、その国にとっては喜ばしいことなのだ。
英語が公用化された第一世代は、日本語が入り交じった、たどたどしい英語を使うのだ(これを「ピジン」という。)一部の人は、留学などを通して「正しい英語」を身に付け特権階級化するが、だいたいの人はピジンの方を使うのだ。そうして次の世代になると、最初からピジンを母語として使いこなし始めるのだ(これを「クレオール」という。)上の方で、日本の公用語を英語にしても、使用されるのは「日本語的英語」になる、というのは、つまりこの「クレオール」のことを指しているのだ。
たとえば「洋食」。カツ。カレーライス。いずれも食のクレオールなのだ。仮に「正しいカツレツとは○○である」とか「カリアー&ライスは一バリエーションであってそもそも英国式はカリアースパイスドシチューだ」みたいな蘊蓄を並べて啓蒙しようとする人がいても、残念ながら世間では「かつ丼」やら「カレー」が登場し、オリジナルの「カツレツ」や「カリアー&ライス」とは全く別の料理が定着し文化になってしまうのだ。かつ丼もカレーもうまいから仕方ないのだ。言語でも、それと全く同じ事が起こるのだ。仮に最初に一所懸命カツレツを作るフランス料理人を招いて教えてもらったところで、最終的に定着するのは「かつ丼」なのだ。従って、「日本語を廃して英語を公用語化しよう」なんて主張しても、「日本の食を全て『フランス料理』にするために和食を廃止する」ことにはならなくて、単に「日本の食を全て『かつ丼』にするために、和食を廃止する」みたいな訳分からないことにしかならないのだ。そもそもかつ丼がうまいのは、和食がうまいからなのだ。つまり本末が七転八倒なのだ。
ここまで書いて何だが、元ネタの話に戻るなら、結局「言語は滅ぶもの」なのだ。これは避けられないことなのだ。日本語だって、10年前と現在ではかなり違うのだ。むしろ、言語は日々滅びており、そして日々滅びることをやめたとき、言語は「死ぬ」のだ。方言が生まれるのも、見方を変えれば「標準語の滅び」だし、方言が消えるのも、見方を変えれば「標準語(という新たな方言)の誕生」なのだ。そこに貴賤はないのだ。だから、言語学者は「言語が滅びてはいけない」というような価値判断をもって言語に向き合うべきではないのだ。もちろん、自分が研究対象としていた言語の話者が絶滅したら途方にくれるのは理解するが、それは文化史論的な見地から言うと、一つの現象に過ぎないのだ。たとえば、関西では最近TV等の影響もあり、日常的にかなり関東風のイントネーションで話す姿を多く見かけるようになってきているのだ。これは、一種の「滅び」でもあるし「誕生」でもあるのだ。なのに、「滅び行く関西弁を守れ」とか言い出したら、それは愚かなのだ。そういうのは、たとえば生物多様性が失われる……といった話とは全く違ってただの懐古厨なのだ。そのあたりを勘違いすると、元ネタの言語学者のように妙なエッセイを書き散らすことになるのだ。
日本語廃止論への反論は、上に書いたように政策的にマイナスであり、そして現実的にも不可能だという話に尽きるのであって、「滅び行く言語を守れ」みたいな感情論に落とし込んではいけないのだ。感情論は現実の利の前には極めて無力なのだ。
話を追う気がないなら止めろよ。追う気があるのにそれなら傲岸。
こっちでもう一度以下のように確認すらされてる。
「関わってるのは事実」が反駁じゃないことをあれだけ丁寧に説明したのにまだ分からないのだから困る。
俺のレスで君の「事実認定」(日本学術会議が気象衛星に関わっている)を否定した部分はないだろ。
あれば引用して指摘すればいい。
「あなたの強固なんか知らん」なんて因果関係の話を属人的にしている時点で頭が痛い。
「おかげ」の話なんだから因果関係のあるなし強弱以外に考えることはない。
矢印の質を考えるのは価値判断が伴うから量的に考えて前レスで挙げた形式を出した。
挙げたものに不備や不満があるなら指摘するなり自分の判断基準を出すなりすればいい。