はてなキーワード: 価値判断とは
話を追う気がないなら止めろよ。追う気があるのにそれなら傲岸。
こっちでもう一度以下のように確認すらされてる。
「関わってるのは事実」が反駁じゃないことをあれだけ丁寧に説明したのにまだ分からないのだから困る。
俺のレスで君の「事実認定」(日本学術会議が気象衛星に関わっている)を否定した部分はないだろ。
あれば引用して指摘すればいい。
「あなたの強固なんか知らん」なんて因果関係の話を属人的にしている時点で頭が痛い。
「おかげ」の話なんだから因果関係のあるなし強弱以外に考えることはない。
矢印の質を考えるのは価値判断が伴うから量的に考えて前レスで挙げた形式を出した。
挙げたものに不備や不満があるなら指摘するなり自分の判断基準を出すなりすればいい。
スリーS @Super_S_Shoborn
報復や排除による危険性を無制限に正当化するのもまた危険です。極端なことを言ってしまえば『貴方の周りの空気を保護する。吸えば貴方に対して報復する』ということも殺人の正当化に悪用されてしまいますね。従って人間への危険性が最小になるように線引きする必要があります。今の所設定されているベターな線引きはヒト及びヒトに所有される(動物含む)物ですね。
その線引きに動物まで含めてしまうと、動物資源によって生存している人間及び今後そうなるかもしれない人間(つまり万人)は生存手段を奪われた形になります。鯨も飢饉時は立派な食料です。狩猟には継続的な経験が必要ですので、飢饉時だけは鯨を殺していいと言われても狩猟出来ずに餓死です
箱のなかの海 @kawa_machi
さて、また最初の問に戻ってきました。 ”ヒト”とは何でしょう?
遺伝情報? 認知判断能力? 苦痛を感じる能力? YHWHがそう定めた?
報復の危険性を無制限に正当化できないなら、それを制限して正当化する基準が必要になります。
空気はおそらく”人”や”動物”ではないと私も思います。では何を基準に、そう判断するのでしょうか。
少なくとも
でないことは合意できたと考えて良いですか?
スリーS @Super_S_Shoborn
個人的な意見ですが、関係性によってヒトはヒト足りうると思っています。従って遺伝情報認知判断能力苦痛を感じる能力という一個体を観察するだけではヒトをヒトだと理解出来ないのでしょうね
合意してませんね。鯨のために報復する人間がいるから鯨を殺すのは危険だと認めますが、鯨を殺す手段を失うのはそれ以上に餓死のリスクを伴うから、鯨のために報復する人間を排除してまで鯨を殺す手段を維持しなければならないとは言っていますが
箱のなかの海 @kawa_machi
さて、関係性という言葉の定義はまだわかりませんが、例えば犬や馬に対して関係性を感じる人はいるでしょう。一方で、犬や馬は食用に殺されてもいます。関係性を結び得る相手を”ヒト”とするなら、馬や犬は”ヒト”ですか? 殺すべきではありませんか?
単純に考えるなら、危険だと認められる行為はやってはいけないでしょう? 危険でもやるべきとするなら、別の価値判断が必要になります。
スリーS @Super_S_Shoborn
関係性を結び得るからヒトとは言ってません。『親子』も『繁殖可能』も『可食かどうか』も『毒が効く効かない』も『危険かどうか』も関係性ですね。どれか一項目該当するものがあればヒトとも言ってませんし 確かに危険だと認められる行為はやってはいけませんね。動物愛護団体だろうが人間の生存手段となる動物で報復するのは自殺行為だからしてはいけませんよね。
医療食料問わず動物資源は人間の生命線であるので、その使用禁止は生存手段の放棄であり自殺行為です。また、人間から動物資源という生存手段の剥奪はその人間から排除対象となるので、これもまた自殺行為。二重の意味で危険な行為なので動物に権利を与えてはいけません。
そうですよね
箱のなかの海 @kawa_machi
スリーS @Super_S_Shoborn
自分にとって他者や環境はどのような性質を持つか、他者にとって自分はどのような性質を持つか、という意味で言っています。
個々人の存続に対する妨害ですので、全く拡大しておりませんね
箱のなかの海 @kawa_machi
その意味で、馬や犬はヒトと関係性を持ち得ますか?食用の馬や犬は存在しても良いのですか?
奴隷解放論者に対して、「私の存続には黒人奴隷を搾取することが必要です、妨害しないでください」という白人農場主はいたでしょう。しかし、黒人奴隷は解放されました。
動物解放論者に対して、「私(たち)の存続には動物の搾取が必要です。妨害しないでください」という人はいるでしょう。なぜ、動物は解放されなくても良いのですか?
スリーS @Super_S_Shoborn
関係性を持ち得る。
箱のなかの海 @kawa_machi
聞いた上で、「当時の黒人奴隷は人間(その定義に黒人奴隷は含まれていませんでした)の生存手段であった」 と言っています。
あなたの基準を適用すると、医療・食料用のホモ・サピエンスも存在しても良いとなりませんか?銃火器を苦にしない国は、人体実験をやり放題になるように思いますが。
人体実験が解禁になったら、これまでとは段違いのスピードで医療は進歩するでしょうね。 歓迎する人(その多くは力を有する人でしょう)も多そうです。
スリーS @Super_S_Shoborn
既に実際に『人間を安全に取り扱う範疇』で人間は医療資源として活用されています。同意を元にした骨髄バンク、生体臓器移植、死後・脳死後の臓器移植、献血があるのをご存じないのですか?
箱のなかの海 @kawa_machi
もちろん、限定的にはすでに医療資源として活用されています。 私が想定するのはそれ以上のものです。
スリーS @Super_S_Shoborn
人間に限らず動物だろうが植物だろうが機械だろうが安全な手法で取り扱っているんですけど……危険性が異なるからその取り扱い方が異なるだけで。
国家が人間にとって危険なシステムであるというなら、それは人間が国家を人間にとって危険なシステムのまま対処しなかったツケを支払っているだけです。国家だろうが機械だろうが、安全に取り扱わなかったら痛い目を見るのは当然では?
箱のなかの海 @kawa_machi
ええ、なので国家は危険に感じない範囲で人間を不安全に取り扱って良いということですよね?と聞いています。
ホロコーストで殺されたユダヤ人たちは対処しなかったツケを支払っただけで痛い目を見るのは当然であり、ナチスに倫理的な問題はない(もしあるとすれば戦争に負けたことだけ)と。
”不安全に扱う”というのは誤解を招くかも知れない(不安全に扱った時点で問題が有る)ので、”いわゆる人権を無視して”くらいに置き換えてください。
スリーS @Super_S_Shoborn
ツケを支払う方になってしまった側にとっては問題ですし、国民の国家の扱い方が未熟だった時代でもありますからそのような結果になってしまったのは当たり前です。当時放射線の危険性を知らなかったキュリー夫人が放射線被爆により健康を損なったのと同じように。国家が国民の脅威にならないよう次に活かすしかないです。それと倫理の話はしていません。人間にとって危険だから人間には問題だったとは言っていますが
箱のなかの海 @kawa_machi
ちょっとお返事がよくわからないのでもう一度聞きますが、 国家は危険性を感じない範囲で、人間をいわゆる人権(個人の生死など基礎的な権利も含めて)を無視して取り扱っても良いのですか?
危険性というのも曖昧ですが、あなたの基準からすると、「反政府組織が政府転覆が可能なほどの力を持つようにならない程度で」 とでも言えるでしょうか。
もちろん知ってますよ。だから、 「国家は危険性を感じなければ何をやってもいい」 「中国共産党は人権を守る必要がない」 などという言説を否定しようと努力しています。
否定するというのは言葉が過ぎましたね。 個人がどのような思想を持ってもそれは自由なので。 言説が”広がらないように”に訂正します。
スリーS @Super_S_Shoborn
暴力という手段であっても国民が国家を制御する方法を持たない国家ならしても良い。国民にとってはとても不幸なことですけど。
勿論国民や他の国家には、なされるがまま黙ってろとは言ってません。機会があったらぶっ壊して作り直せと言っておきましょう。天安門事件や香港など負け続きなだけです
箱のなかの海 @kawa_machi
なるほど。
スリーS @Super_S_Shoborn
箱のなかの海 @kawa_machi
ということで、肉食を正当化する論理の一つは、生命などの基礎的な権利をも含めた個人の諸権利を、(条件付きなものの)国家が好きに取り扱うことを良しとするところまで行き着きました。
難しいんですよ。ほんとに。
スリーS @Super_S_Shoborn
国家も人権も人間の作った道具なので、人間にとって危険ならその都度安全になるようパッチを充てる不断の努力をしなければならないって話でもありますね
なんかネット見てたら、お母さんが子供にデータ消させた、という話があって、この一つのエピソードにいくつかのDVがあると思ったので、こういうことを普通だと思うお母様方は反省したほうが良い。
これは完全に子供の「価値観」をコントロールしていますね。子供にとっては大事なものであっても、「親が価値がないと言ったのであればそれに価値を認めてはいけないのだな」という歪んだ認知になるでしょう。
これによって子供は「自分の意志でものを決めてはいけないのだな」というトラウマを持ちます。写真もデータもとても大事なものです。それのどちらかを選びなさい、どちらも母親には何の価値もないものだから。
必要なものを与えないというのはDVです。相手が子供なので児童虐待です。
別に大したことないでしょう、と思ったかもしれないがそれはあなたがそう思っているだけであって、お子さんは下手すると一生モノの傷を負っている可能性があります。
「子供にとって大切だけど親にとっては無価値などうでも良いもの」を「親の一方的な価値判断」で「今すぐ捨てろ」といい「一切の救済策を与えない」ことで崖っぷちに立たせて今すぐ飛び降りろと言ったわけです。
この子供可愛そうだなあ。
なんかネット見てたら、お母さんが子供にデータ消させた、という話があって、この一つのエピソードにいくつかのDVがあると思ったので、こういうことを普通だと思うお母様方は反省したほうが良い。
これは完全に子供の「価値観」をコントロールしていますね。子供にとっては大事なものであっても、「親が価値がないと言ったのであればそれに価値を認めてはいけないのだな」という歪んだ認知になるでしょう。
これによって子供は「自分の意志でものを決めてはいけないのだな」というトラウマを持ちます。写真もデータもとても大事なものです。それのどちらかを選びなさい、どちらも母親には何の価値もないものだから。
必要なものを与えないというのはDVです。相手が子供なので児童虐待です。
別に大したことないでしょう、と思ったかもしれないがそれはあなたがそう思っているだけであって、お子さんは下手すると一生モノの傷を負っている可能性があります。
「子供にとって大切だけど親にとっては無価値などうでも良いもの」を「親の一方的な価値判断」で「今すぐ捨てろ」といい「一切の救済策を与えない」ことで崖っぷちに立たせて今すぐ飛び降りろと言ったわけです。
この子供可愛そうだなあ。
導入済みの人からしたら、こんな擦り尽くされた話をいまさらという感じだろうけど、自分のような世代にとっては「物心ついた時に既にあったものの高性能版」ではなく、「ある日突然、その価値の概念ごと登場したもの」だったので、価値判断ができなかったし、導入したことない人にとっては「わざわざする意味がわからないから、自分の生活と遠い世界の話だ」となりがちなので、導入の結果の生活変化の記述は触れる機会があった方がいいかと思った。
ただし条件はある。
・2部屋以上ある、もしくは日中は職場などで部屋にいない(つまり1年の1/3以上、一部屋が空く時間がある)
・清掃したい部屋の床に物が溢れていない(大型収納や棚などに収納されている)
・ふさふさのラグなどを敷いていない(ここら辺は掃除機の性能によるかもしれない)
上記条件にない人はそっと閉じて構わない、ここで閉じても別に生活が悪くなるわけではない。
ただ上記の条件を満たしている住環境なら、ロボット掃除機の導入でQOLは多分上がる。
コロナ騒動が始まってから、仕事が在宅になり、家にいる時間が長くなったので床の汚れが気になり導入した。
自分が導入したのはルンバのような高級機(実売65,000以上)ではなく、実売価格20,000以下の低価格機。
別に機種をいってもいいけど、ステマとか言われるのもなー、まあ広義でロボット掃除機という市場自体のステマともいえるが。
中華機ではない。まあそこらへんはあんまり深く拘らなくてもいいかもしれない。
↑訂正)どうやら中華機だった模様。ドローンとか作ってる会社の新子会社らしい。
国産機は高い。同じ価格帯だと充電が手動でアダプタにぶっ刺す仕様だったりする。
導入は特に面倒臭さはなく、梱包を解いたら本体にブラシをはめ、壁の一角に充電ドックを設置し、入ってきて欲しくない部屋の境界に防止用の装置を設置。
掃除開始前に床に置いてある移動可能物のいくつかを防止エリアの外に持っていき、あとはリモコンをポチるだけ。
スマホアプリで操作もできるようだが、まだインストールしてない。
90分ほど動き回って、床のチリや屑を吸い込んでくれる。
部屋の角もまあまあ綺麗になる。
これで良かったのは、
・結果健康にいい
まず一人暮らしだと掃除なんて毎日しない。週2回もすれば勤勉な方ではないか。
毎日したとしてもクイックルワイパーでちょっと拭くくらいになりがち。
ロボット掃除機の掃除は粗いのではないかと心配になるし、高級機じゃなければ尚更だけど、たとえ粗い掃除でも、モノを移動させてボタン押すだけなら毎日でもできる。
掃除はやっぱ頻度だ。2回もやれば粗い掃除でも自分で1回やるよりきれいになるものだ。
また、背が低いので手動掃除機では届かないベッドの下もスルスル入っていってくれる。
キッチンのゴミ箱の影は屑が落ちやすいが、手掃除だとゴミ箱どかし→掃除→ゴミ箱戻し→掃除再開の4手間かかるところ、ゴミ箱どかし→戻しの2手間ですむ。
これだけ毎日掃除やっててくれると、仕事が終わって部屋のソファに座る時はいつもきれい。
ここ2週間ほど、残業続きで12時間勤務を連打してたけど、そんな時こそ部屋がきれいなのはすごく助かる。
また自分はアトピー持ちであり、普段外出不能になる程の重症ではないものの、夏場はダニがどうしても増えるので患部が悪化しがちだ。
残業続きの身体ストレスで外と内からダブルパンチ状態だったが、ダニの繁殖の寝床になる物陰の埃や餌になる髪の毛、落ちた皮膚の屑などを毎日清掃してくれることにより、外の要因が減って明らかに快方に向かい始めた。
(いちおうノイズになると話がへんな方向に向かうので説明しとくと、勤務先は年中こんな勤務状況になるようなクソブラックではない。でも時々は誰かの尻を拭かざるを得ない時もある)
普及機、というか低価格機の部類なので、耐用などがどうなるかという話があるけど、たとえ2ヶ月で不具合が出たとしても、1日に割ると300円ほどでこの快適さという計算になるのでまた買うと思う。
まあ条件は初めに言った通りなので、すべての一人暮らしに適応できる話でもないが、「一人暮らしでロボット掃除機なんてオーバースペック家電では」という心配だけが障壁になっているなら、「いやいいよ、お勧め」ということで。
ニュースを見ていると、そんな疑問が浮かぶのだけれど、いくら空気を読まない私だって、それを口に出す勇気はなかった。これは、そんな私が一冊の新書によって、正義のために物を破壊するのにも、道徳的・理論的根拠があるのかもしれない、と知った経緯だ。
増田に入りびたっていると、世の中にはいろいろな立場があって、さまざまな正義があることがわかる。残念ながら、複数の正義の間でぶつかり合いがあることもまれではない。表現の自由と見たくないものを見ない権利で、レスバトルが毎日のように起きている。あるいは、外国人・移民の権利を尊重したら、女性の安全をないがしろにしてしまったケースもある。2015年のケルン大晦日集団性暴行事件なんかがその例だ。弱者をいたわろう、財産はみんなで公平に分けよう。そうした基本的な原理では同意できるのに、個別のケースでは意見の一致が見られることはめったにない。工学部出身の私としては、実験すればすぐに答えの出る理系の学問と勝手が違い、社会の複雑さに戸惑うばかりであった。
そうするうちに、結局のところ正義の根拠ってかなり曖昧でいい加減なんじゃないか、みたいなことを思うようになった。正義の論理的な根拠がわからなくなったのである。もともと正義についてはサンデル教授の本くらいしか読んだことがなく、哲学は専門外だ。
たとえば、大日本帝国が中国北東部に傀儡政権を作るのが悪だとすれば、アメリカがイラクやアフガニスタンを空爆したり、親米政権を樹立したりするのとどう違うのか。アメリカが中東に派兵するのならあまり気にならないが、ロシアがクリミアを占領・併合したときに動揺してしまったのはなぜなのか。本質的な違いはほとんどないのに。
日韓関係だってそうだ。たとえば、国家の間で解決済みであるはずの補償問題を、個人が請求することは可能なのだろうか。それとも、個人の権利が拡大する世界的な流れのなかでは、必ずしも不合理な話ではないのか。大統領が変われば民意が変わったことを意味するので、前政権の約束を反故にすることは許されるのか。
他にも、裁判員制度で、発達障害のある犯人に厳しい判決が下されたことがあるけれど、市民感覚は医学の最先端の知識と乖離していることも多い。専門家ではなく、偏見もある市民を本当に裁判に参加させていいのか、心配だ。
で、直近の例で特に印象的だったのが、冒頭に述べたように、BLMで無残に引き倒される銅像だった。革命直後に独裁者の像が倒されるのには全く違和感がなく、それどころかほとんど何も感じない。しかし、歴史上の偉人がこうして再評価されるのを見ると、これは正しいのかどうか、よくわからなくなった。現代の価値観からすれば、彼らの過ちは確かに明白だが、こうして公衆の面前で侮辱に近い目に合わせていいのか。法の不遡及の原則、という聞きかじった知識を思い出してしまう。
道徳的には、人種差別は絶対的な悪である。しかし、それに抗議する過程で必ずしも公共のものを壊す必要はないのではないか。撤去を求める署名運動を起こせば十分なのではないだろうか。銅像を破壊する意図は正しいが、間違いなく違法な行動だ。違法であるならば、BLM運動の正当性に傷がつくのではないか。結局、正しさには根拠などやはり存在せず、その場の大衆の熱狂しかないのではないか。そんな次々と浮かぶ懐疑に苦しめられた、反差別運動に対しての恐怖まで感じるようになってしまった。
そんな自分に困惑しつつ、久々にリアル書店に足を運ぶと、「あぶない法哲学」という新書を見つけた。法哲学の本らしい。つまり、どうして法律や道徳が正しいのかを理論的に分析する学問だ。
これだ! と私は膝を打った。私のもやもやはこれで解決するかもしれない。早速購入し、一気に読了した。著者はオタクらしく、ところどころ漫画やアニメのたとえが出てくるのでわかりやすい。しかし、レベルを下げたり読者に媚びたりするようなことはしていない。そして、実在の事例や過激な思考実験を見せることで、常識を疑ってかかることを、私に教えてくれた。
この本で学んだ重要な概念として、法実証主義と自然法論がある。
法実証主義というのは、ざっくりまとめると、法律が正当性を持つのは、定められた手続きに従っているからという理由しかなくて、そこに道徳的な価値判断は介在しない、というものだ。そして、どれほど内容がおかしな法律であっても、正当な手続きで撤廃されない限りは、それは守られるべきものだ、とする。
もう一つの自然法論は、大まかにいえば議会で定めた法律よりも優先すべきルールがある、というものだ。さっきと違って道徳がかかわってくる。もちろん、人間の良心や常識は、時代や地域で一貫したものではありえない。しかし、法律が追い付かないほど変化の激しい現代にあっては、法が整備されていない状態での一つの指針・根拠とすべきではないか、と著者は述べていた。
ここで大事なのは、法律を正当化するのは手続きのみであり、それが人道に則っているかどうかは、実は関係がない、という考え方が存在することだ。
ソクラテスの最期はよく知られている。アテナイの若者を堕落させたという不当な罪を着せられ、死刑となった。弟子たちはソクラテスに逃亡をすすめた。というか、当時は死刑判決を受けたらその都市国家から逃亡するのが当然だった。しかし、ソクラテスはあえてその判決に従った。悪法であろうともそれを守る義務がある。私はここで死ぬ。悪法を制定した市民はその結果を引き受けよ。ソクラテスは命を賭して法を制定した市民たちに、自分たちがどれほど愚かな法律を無自覚に作ってしまったか、を訴えたのである。
一方で、市民的不服従という考えもある。キング牧師はアラバマでの激しい抗議活動のゆえに逮捕された。彼の方法は、多くの人々の抗議の模範となった。つまり、自分が良心ゆえに受け入れることのできない法律は自覚的に破るが、国家を尊重しているという姿勢を示すために、甘んじて法の罰も受ける。これを繰り返すことで、逮捕している国のほうがおかしいのでは? と多くの人が考え、行動するようになる。確かに法律を破ってはいるが、法律に従って罰を受けることで、遵法とは別の手段で正義への敬意を示しているわけである。
道徳とは関係なく、法律を制定することは可能である。そして、不正な法律や、放置された不正義に抗議する手段として、法律を破るという方法が理論化されている。よって、違法な手段で正義を追求することは可能である。この結論は、良くも悪くも定められた手続きを重んじるタイプの私としては、非常に大きな驚きであった。
人種差別に抗議する方法として、銅像を引き倒すのは、確かに器物損壊罪だ。しかし、それが正しいと考える人々は、単純な感情で動いている暴徒とは限らない。正しいかどうかはともかく、彼らの立場をサポートする理論化された法哲学が、実際にあるのだ。
自分は、法学部の一年生が学ぶことを、この年齢になってやっと知ったのだろう。だが、こうして知識が増えたことで、自分の感じていた違和感を少しだけ言語化できた。今後は、何らかの形で国際法とその背景の思想について学び、先ほどの例に挙げた、大国の軍事行動の背後にある理論を理解したい。
本論では法律の有効性に対して一定の疑問を投げかけているが、積極的に法律を破ることを推奨する文章ではまったくない。また、法に関しては無知も同然なため、誤解があるかもしれない。ご指導ご鞭撻のほどを乞う。
「治らない」という病気の語彙を用いることが適当かをさておき、自分の中で「女嫌い」がもはや一つのテーゼとしてあらゆる判断の場面で幅をきかせてくる。どのような言動を取るか、といった直接の状況から、なんらかの創作物に対する評価まで、全てを男性的・女性的に分類し、女性的なものへの称揚があればそれだけで正直ウッとくる。(まあこれ自体は別に珍しい話ではないはずだ。元々性二元論から出てきた価値判断だろう。全てに男性的・女性的という分類がなされるのであれば、男性の中のある性質が女性的であることもあり、逆もまた然りということになるので結構事態は複雑になる)
とりあえず上野千鶴子なんか読んで素直に啓蒙される女が理解できない。「女嫌い」の仕組みを解明されたくらいで、その論理を自分を肯定するために援用できるようなその女性らしい逞しさ。自分の中で女嫌いはもっとパブロフの犬のごとく根底に根ざす反射といって差し支えないもので、例えば最も凡庸な例を挙げれば「あっ感情的になっているぞ、女性的だ、きついきつい」というように。それが馬鹿げていますよと言われたところで矯正不可能な域にある。
そしてこの反射にある一定の信頼を自分でも置いている。結局市民未満のところから出発した性にとって最も困難となるのは、利他を身に付けることなのではないか。「泣いてはいけない」「女の子を泣かせてはいけない」「自立しろ」というように叩き込まれる機会なく甘やかされて幼少期を過ごす女。共同体が温存する性差の特権だけはシレッと享受しながら平等の為に連帯したりする近代の女。
匿名ダイアリーだからこそ自分語り(なる女性的行為)を多少せねばズルいだろう。自分の女嫌いの始まりは、ピンクのもの持ちたくない、男子とサッカーしてたい、女同士のおしゃべりができないだとかしょうもない些末な好みの問題もあったが、決定的だったのは男教師から軽めの体罰をくらった時だった。顔を引っ張られてたまたま元々皮膚が弱かった部分から出血して、女クラスメイト複数人がメチャクチャ自分を庇ってくれた。ありがたくはあったが、その無邪気な連帯に引いた。男子への体罰は問題化されないにも拘らず、私の為だけに教師がタジタジになっているのだ。なんだこの二重三重な屈辱は。勘弁してほしかった(体罰は今程でないにせよそこそこ問題化されていた時代だったが、そこに今回触れるつもりはない。私が男子から嫌がらせを受けたという発端が女子達の擁護点だったが、結局双方ふざけて追いかけっこ状態となり、配膳中だったこともあり両成敗された流れなので、当時の校風と状況から鑑みてある程度公正な処罰だったと思える)。男子とつるんでも平等に扱われることは絶対にない。仮にどんなに「リベラル」な箱庭を作って篭ろうと、文脈は平等を許さない。
アンチフェミ男性とつるんで、いかに女が劣った存在であるか聞かされ続けることにーーそして劣っていることを知っている、マシな劣った存在であるという自意識を育てることにーー抑鬱的な安寧を見出していた時期もあったが、そうやって自虐までも他者に委ねることこそ「メンヘラ」なる女性的性質だと気付きやめた。そもそも女嫌いの男や、男嫌いの女というものは、自分の身体を憎悪から遠い安全圏に置ける時点で信用ならないところがある。やるんなら己に対する加害者としての憎悪から始めるくらいの気概が要るだろう。
マジで、勘弁してくれ。本当はジェンダーの話なんかしたくない(その為に増田に来たのだが)。にも拘らず社会生活を送る上で、例えば酒席で脱げと冗談を言われたり、「女の子には難しかったかな?」と話を振られたりする度に、「女だから不当に損をした!」というなんのひねりもない想念が立ち上がって来てしまうことがある。たまたま「脱げ」という語彙が用いられただけで、下品な冗談は女以外でも全ての固有の身体を持ちうる人間が晒されるものであるし、たまたま「女の子には難しかったかな?」という語彙が用いられただけで、他者から舐められうることは女に限らない。それよりも「女だからフェミニストで当然ですよね?」とすり寄ってくるフェミニスト(男女問わない)をかわすことの方が、いまや困難にして価値があるはずなのだ。少なくとも自分にとっては。
しかしフェミニズムに逆張りした時に、そこに立ち現れてくるイメージは吐き気を催す前近代的女である。なんてことだ。「女」という要素さえあれば私は近代も前近代も全て憎むことができる。では私にとって「女」とは何なのか。おい、お前フェミニストみたいなこと言っとるぞ。やめろやめろ、やめだ。
大した話ではないけれども。
アメリカの現ホワイトハウス報道官のマケナニーって容姿を見るといかにもトランプ好みの若いブロンドなので、「さすがに国民とのコミュニケーション担当する重要な高官に、容姿が自分好みなだけのネーチャン配置すんなよ」と思ってしまうが、経歴見るとまあ優秀には違いないので容姿でイメージ損してるなぁと思う反面、さすがにこの容姿じゃなかったらこの立場に抜擢されてないよなぁととも思い、人はどんな立場に立っていても本当に容姿に価値判断引っ張られるなぁと思った。
あれでわかったことは、個人の選択は何ものよりも尊いということ。
優生学と同様の価値判断だとしても、個人の選択である限りそれを否定できないというのが真理。
散々ここで話題になっているあてがえ論者の自称弱者男性や、男性による女性への加害についても、産み分けがそれを解決する。
各個人がそれぞれの判断で産まれてくる子の性別を選べるようになれば、結果的に男児が減り、上記のような問題行動を犯す人が社会から減る。
昔と違って、男性の有害性をきちんと主張できる世の中になったのだから、世論によって、一人ひとりの力によって、ジェンダー問題を解決に向かわせることができる。
「差別的」だとその人の価値判断が入るので一概には言えないものの(たとえば昔は「禁断の愛」として同性愛を扱う人はたくさんいた。当時の風潮として珍しくはなかったが、差別的だったと言われればそうだろう)、
悪意を持った「ゲイ叩き」ならばほぼないと言っていいと思う。
というか、そもそも801板は専門板なので雑談スレ(◯◯どう思う?みたいなトピックごとのスレ)は基本立てられず、
特定の作品ごとや商業BL作家ごと、またはジャンルごと(例:映画全般、スポーツ全般、など)のスレで同好の士どうしが語る運用になるので、差別を目的にしたスレというのは立ちようがない。
代わりにたまにあったのは、同性愛板からの「腐女子はゲイのふりをして同性愛板に乗り込んでくるな!」というお叱りの乗り込みだった。
そういわれても私個人はほとんど覗いたこともないし、801板で語らっているほとんどの住人もそうだったと思う。
同性愛板でゲイごっこをする腐女子が実在するかどうかは私にはわからないが、実在したとして、その人は801板ではなく同性愛板にいるわけで我々にはなにもできなかった。
それだけではなく、時々「同性愛板はゥチらの植民地☆☆」的なスレがたつことがあった。
覗くと、明らかに801板住民ではない、顔文字や小文字をふんだんに織り混ぜた口調で「ゥチら最強~ホモどもとか引っ込んでろヮラ」みたいな書き込みが乱舞しているのが常だった。
住人としてはまた荒らしだね、で放置するだけだ(801板はそれだけではなく非常に頻繁に他板からのスレたて荒らしがやって来るので、いちいち相手にはしないのが普通だった)
そのスレはときどき前述の「乗り込んでくるな!」というお叱りの根拠になることもあるが、他のスレを見てくれ、この板にそんな口調の住人は誰もいない、というしかなかった。