はてなキーワード: 世界史とは
そんなクソ記憶力の俺だが、世間一般で暗記科目と言われているセンター試験の世界史は98点だった。
だけど世間でよく行われているような勉強法、例えば山川の一問一答丸暗記みたいな事は一切していなかった。
もともと高校進学前に全30巻くらいある世界の歴史の漫画を読み込んでいたので、最初から無勉でセンター過去問6割くらい解けた。
世界史の件はたまたまに歴史系漫画が好きで読んでるから自然と覚えられてたというだけのことで
「興味あることは苦も無く覚えられるけど、興味ないことは全然覚えられません」っていう
30代男性。昔からある種の記憶力のアンバランスで苦労してるのだが、あまり理解される事がないのでこの場に書いてみる。
アンバランスっていうのは短期記憶と長期記憶の極端な差とでもいうか。あ、でもちょっと違うか?
例をあげてみる。俺は地方出身で関東に引っ越してきて10年経つのだけど、テレビ局とチャンネルの対応が覚えられていない。NHK=2chというのは辛うじてわかるのだが、TBS, テレ朝, 日テレ, フジ, テレ東のチャンネル対応を未だに覚えていない。うろ覚えだとそれぞれ4, 6, 8, 10, 5なんだけど多分どこか間違っている。
そんなクソ記憶力の俺だが、世間一般で暗記科目と言われているセンター試験の世界史は98点だった。だけど世間でよく行われているような勉強法、例えば山川の一問一答丸暗記みたいな事は一切していなかった。もともと高校進学前に全30巻くらいある世界の歴史の漫画を読み込んでいたので、最初から無勉でセンター過去問6割くらい解けた。で過去問10年分ほどを周回してたら自然に解けるようになった感じで、特に丸暗記はしていないのだ。
他にも学校の勉強で言うと、小テストで課される英単語の丸暗記が全然ダメだった。定期試験の成績は赤点スレスレ。だけど語彙力自体はテキスト読むうちに頻出語句が勝手に身につくので模擬試験では高得点。そんなもんで、学校の先生には俺の授業で手を抜いていると勝手に因縁をつけられ評定平均は5段階で2。だけどセンター試験では180点取れて、高校卒業から10年以上経って受けたTOEICも800越え。知識は長期間にわたって定着してるんだけど、短期的に丸暗記のような事をする適性が壊滅的という感じ。
で、こんな特性抱えたまま社会人になって10年ほど経って困っている事が2つ。1つは資格試験との相性の悪さ。なんていうか理論を問う問題や記述式の部分はスラスラ行ける。だけど会社の同僚が「楽勝」という法規の知識を問うパートが全然できない。法律の文言の言い回しの違いの正誤を問うような問題が全然頭に入らなくて、業務で必要な資格取得の労力が異様にかかってしまうのだ。
もう1つは上司との相性なんだけど、業務指示や進捗確認の細かいマイクロマネジメント型と非常に相性が悪い。多分上は良かれと思っているのだろうけど、仕事のタスクをを1から10まで事細かに指示してくるタイプがいるじゃん。その指示された手順が全く覚えられない。メールベースで指示してくれるタイプならまだマシで、口頭指示を好むタイプとの相性は最悪だった。逆に1週間後までに〇〇をやっといて的な感じで、大まかなゴールまと納期だけ指定してくる放任型の上司とはすごく相性が良いのだ。で、もうじき俺は異動するみたいなんだけど次の上司はおそらく几帳面にマネジメントかましてくるタイプ。今の段階で評価が低くなる事は覚悟している。
そんなこんなで長々と書いてしまったが、俺のような記憶力の特性ってあまりいないようで全然共感されないのだ。一時期はアスペルガーとか近いかなとかも考えたのだけど、よくわからん。似た境遇の人、増田には何人かいらっしゃいますかね?
恋愛下手くそすぎるのでアドバイスください。初投稿です。ところどころ偽情報混ぜてます。
結論:
①好きな男のことが「好きだ!」と思って発作的に行動するのを辞められるのか。
②顔面•雰囲気が好きだけど、話はつまらん男に時間をかけるのはどれくらい非合理的なのか客観的な意見がほしい。
【自己分析】
どこに行っても「あなたはどこでも生きていける」と言われるタイプ。
ネットで性格診断すると、魔王とかジャイアンとか知能のある熊とかになってしまう。多分それで就活難航した。
色んな人とおしゃべりして意見を交換したり議論することが大好きなのに、無意識の断定口調や語尾のせいで引かれてしまうことが多々。人の心の機微を読み取るのがとても苦手で、愚痴を聞かされても「そんなことお金で今すぐ解決できる」「そんなに辛いなら今すぐ会社を辞めるか上司に異動の相談をした方がいい」とデリカシーのない言葉を口走ってしまう。
趣味:世界史の解説本を読む、国際政治の解説記事や動画を見る、戦争映画•アニメ鑑賞
【ことの経緯】
高校卒業まで、恋愛は時間•金銭の浪費で馬鹿がやることだと思っていた。高校のうちは勉強したり部活で努力することが、将来の仕事に役立つと思っていた。バイトも恋愛も大学生になってからやることが順当だと思っていた。
大学入学後、ラブライブが好きな男がいたので私もラブライブが好きだと声をかけた。色々ラブライブの何が好きかと話をした。最初はラブライブの買い物についていくだけだったが、花火大会に行こうと言われた。暇だったので行ったら帰り道告白された。正直大して好きではなかったが、これも経験だと思い了承した。だが、男の私への好意と私から男への好意にあまりにもギャップがあった。人間関係を円滑にするために、好きだと言われても嘘でも好きと返した。嫌いではないから好きと言っても間違いではないと思った。しかし、だんだん男と過ごすのが億劫になった。どうして貴重な休日を潰して、恋愛的に好きでもない人間の日常の愚痴だとか高校の辛かったことなどを聞かなければならないのかと憤りさえ感じた。ので、デートの約束を反故し最終的に振った。
大学3年の晩秋、ゼミの仲間の伝手で男を紹介された。「お前の顔がタイプで興味あるんだって」と言われ、自分の顔面に興味を持ってくれる人がいることが嬉しかった。3回デートして付き合った。顔が好きならそうそう嫌われることはないし、前回の恋愛がクソだったので今度こそこのチャンスを生かして彼氏を好きになろうと思った。頑張った。だが、まただんだんと土日を潰してまで男の愚痴や身の上話を聞かされるのが辛くなった。一緒にすごす時間が面白くない。時間と金が浪費されると思ったし、「私は頑張って呼び捨てで名前呼んでるのになんであんたはいつまでも私をさん付けで呼ぶんだよ」と意味不明なキレ方をしていた。またデートを反故し音信不通になってしまった。
これ以降、彼氏は未だ出来ていない。
入社後、新人を集めて研修が3ヶ月続いた。長期の座学の合間に、社会人の精神だとかだるい講義があった。休憩の折、隣の同期にふざけて「友達に軽く言ってしまったことを帰ってから後悔したりする?」と話しかけた。すると同期の男はちょっと笑って「そんなのいっぱいあるよー」と返した。
その瞬間、好きだ!!!!と思った。大抵の人間はそう返答するだろうが、彼が言うとすごくか弱くてかわいいと思ってしまった。講義中はそれ以降動悸がおかしくなっていた。帰宅してからもその男のことを考えていた。今まで感じてこなかった「付き合いたい」という感情を初めて知覚した。
これは早いうちに手を打っておかないと後悔すると思ってその同期と仲良いやつに彼女の有無を確認した。彼女はいないようなので、例の同期にLINEでGW空いてるかどうか尋ねた。とても緊張した。「一緒にピカチュウの映画を観に行こうよ」と尋ねたら、OKしてくれた。すごく嬉しかった。約束してすぐに、名探偵ピカチュウのチケット2枚を買った。
今までの私は、デート場所の移動が面倒なので、家から行きやすい場所を設定していた。が、その日はわざわざ同期の住む最寄駅まで行った。路線の端から端まで乗ったので2時間近くかかったが、全然苦じゃなかった(大学の友人曰く、普段の私からは考えられない行動らしい)。映画は面白かったが、同期と二人で出かけているということが嬉しくてあまり内容を考察などはできなかった。映画が終わったあと、電気量販店を回ったり雑貨店を一緒に巡った。その後、二人でお茶をして談笑した。英字プリントされたシャツダサくてかわいいなーとか考えながら、色々話を聞いた。真面目で、誠実で、若干要領が悪そうな雰囲気だとか、初そうな見た目がとても私のツボだった。しかし、聞いているうちに話の中身があまりないなと思った。休日は金モザなどのアニメを観たりポケモンで遊んだり、平日の暇なときはソシャゲをしているそうだ。「他に興味のあることとか、趣味はないの?」と聞いても、特にないと返された。「俺、普通の人だよ」と言われたのが印象的だった。
普通だ、と言われたときに恐怖を感じた。いくら見た目や雰囲気が好きでもし付き合ったとしても、結局また「つまんない」と思ってフッてしまうかもしれないと思った。こんなに衝撃的に好きだ!!!と感じても、自分からフったり「お前とは話が合わない」と言われてフラれるのはきっと凄く辛い。
それからスケジュールの都合もつかずやりとりも減り、彼と会うことはなかった。
※その後他の男とデートしたりなどはしたが、好みではなかったので付き合ってない
例の同期とやりとりすることもなく、他の男との不発のデートにも飽きた翌3月。たまたまその同期と会社の発表会で同じ回に参加していた。自分はそいつへの「好きだ」という気持ちはもう覚めて、これからはただの同僚への感情しかないと思った。実際、座って出番を待っている彼の姿を見ても、動悸がおかしくなったりはしなかった。
だが、同期が壇上で喋っている姿を見て、私の目論見は完全に誤算だったと強く自覚した。
やっぱり好きだ!!!!と思った。喋ってるアホな例えとか姿がいちいち全部ツボだし、「マジ付き合いてぇ!!!」と思った。非常にかわいい。守りたいのにちょっと追い詰めたいという気持ちも出てしまうという、少々アレな心情だった。
どうしてももう一回会いたいと思ってまたLINEをしてしまった。しかし、彼からはやたら「忙しい」やら「休日出勤がやばい」だとか断られ続けた。会えないなら電話しようと声をかけても断られ続けた。いちいち返信する律儀なところはとても良いが、流石に断られすぎてイライラしてきた(自業自得である)。そんなに私に会いたくないのかよ畜生!と憤り、もう彼のことは考えないようにした。
例の同期の存在すら忘れていたこの頃、友人からそろそろ喪女を脱却しようとマッチングアプリを勧められた。ちゃんと恋愛したいし知らない人と会っておしゃべりしたいと思ったので、登録した。たくさん来る通知を捌きながら、ある男が目に止まった。写真を見た瞬間、「好きかも」と思った。早速LINEで会う約束をしてデートした。
Aと会った瞬間、ちょっとがっかりした。マッチングアプリではバストアップの写真しかないのが盲点だった。この男は背が小さく、声が小さく高かった。好みじゃないのだ。
しかし喋ってみるとなかなか趣味が合って楽しかった。第一、私のディープなアニメの話にもついてきてくれるのが凄い。Twitterのオタ垢でもそうそうない。芸術への造詣も深く、彼の話は非常に興味深かった。筋肉質なのも好印象だし、国家公務員キャリア組のエリートなのに全然驕ってない。出会いのない職場だそうで、女慣れしてなさそうな雰囲気だとか、ジョークのセンスはいまいちだったりはあったがそんなの大したことはない。もう少し背が高ければ、もう少し声が低かったら私にとって満点だったけど、でも超いいなと思った。
〈今〉
Aと付き合うのはアリかもな〜とふわふわしながら仕事をしていた最中、あるメールが目に止まった。なんでもないメールだったが、そこには社員の名前がズラッと並んでいた。
例の同期の名前が書いてあった。名前を見た瞬間、「好き!!!!会いたい!!!!」と思ってしまった。今マジでLINEしようか頭抱えてる。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力を行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。
我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。
何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである。
暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力を行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物の基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分は暴力の主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力の主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力を普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。
「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的な文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的な違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍の認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?
ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物を最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科や世界史の授業で、「人間は万民が万民に対する闘争の状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。
でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである。
誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明のことなのだ。
勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。
でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである。
俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである。
自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。
まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである。
まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。
そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――
そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ。
ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。
中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身が無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。
とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。
我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子のボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。
当然ながらその歴史は暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力の連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。
我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かから盗まれ続けてきたと思う。
俺の周りでは「世界史/日本史を勉強し直したい」という人が定期的に現れる。
山川出版に「もう一度学ぶ〜」シリーズがあるように、意外とそういう学習の需要があるのかもしれない。
ということで書籍ではないが歴史系の学習に有用なサイトを挙げていく。
何から見るか迷ったら、とりあえず上から順番に覗いてみるといい。
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世界史 https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/
日本史 https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/
毎年一年間かけて通史を一周する。受験よりは日常学習向け。とっつきやすさは一番。
暗記のために丸ごと覚えるのではなく、ゆっくりペースで各回の注目すべき点を見ていくスタンス。
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②トライイット
世界史 https://www.try-it.jp/k/social_world_history_b/
日本史 https://www.try-it.jp/k/social_japanese_history_b/
とりあえず動画を一つ二つ見てから継続するなり他を当たるなり判断すると良い。
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③ムンディ先生
YouTubeのチャンネルで整理されている→ https://www.youtube.com/c/HistoriaMundi
網羅性はピカイチ。ただし量が膨大なので丸ごと一気に見るのはキツい。
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④Web玉塾
世界史 https://www.webtamajuku.com/sekaishi
日本史 https://www.webtamajuku.com/history
素早く学習するならここ。スピード感があり、ひとまずの理解はできる。
逆に、深くじっくり学ぶには不向き。
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⑤世界史の窓
世界史学習の補助的なサイト。日本史はこういうのが無い気がする。
用語集のように使う。「あれ、この用語なんだっけ?」となった時にまず見る。
出典の書籍なども随時挙げられているのでマニアックな知識までつけることができる。
適当に「マルクス 世界史」とかでググるとこのサイトが検索トップに出てくる。
−
だいたいこんな感じ。
今は動画コンテンツがかなり充実しているので、それを利用すれば高校レベルの内容なら十分に学習できる。参考書に手が伸びない人はぜひ見てみてはいかがだろうか。
マジレスするけど、自分の好きなイベントであるからこそ中止を希望するという側面もある。
たとえば、1936ベルリンオリンピックは、様々な問題を抱えていたナチスドイツが、それを懸命に糊塗して開いた大会であるが、結局のところ、世界史的には、独裁政権がオリンピックまでプロパガンダの場にした大会、「ヒトラーのオリンピック」として記憶されている。また、1976モントリオール、日本的には1980モスクワ、東側諸国には1984ロサンゼルスのオリンピックは、いずれも諸々の事情により、ボイコット国が続出した大会として、不参加の国の代表にとっては苦い記憶の大会名となっている。
今回の東京大会は、「独裁政権によるプロパガンダ優先」のほか、「全然アンダーコントロールではない原発事情」「世界的なコロナの流行」のため大量ボイコットの危険もある、更に、大会後参加国関係者(中でもその国を代表するアスリート等)が帰国後コロナを発病したりしたとき、「なぜ大会を実行したのか」との批判を受けるリスクも大きい。そして、国内的には、酷暑に対する見込みの甘い対策、過小に見積もられ過ぎたせいでどんどん膨らんでいく予算、延期のせいで更に必要になった予算や他への影響……など、未解決の問題、リスクなどが山積みである。
このような状況にTOPが真摯に向き合い、きちんと方向性を示した上で大会運営を進めた結果、「2020トウキョウ」が素晴らしい記憶とともに刻まれる大会となるなら、応援することもやぶさかではない。だが、現状そういう姿勢は見えず、ただただ「やりたい。コロナリスクなんて反対派の宣伝だ」「ワシの花道を飾りたい(あとのことは知らない)」「選手の気持ちも考えろ(関係者の商売もな)」という、たいそう不誠実な姿勢しか見えないので、残念ながら素直に支援はできない、というのが正直なところだ。現状でやるのは、リスクが高すぎる。「2020トウキョウ」を悪夢の代名詞にしてはならない。現在の自民党政権は、国内でどんな問題が起こってもプロパガンダで握りつぶすことができる、と学習してきたため、失敗を認めて改善するということが大変下手だ。だが、その同じやり方で、世界を巻き込んだ失敗を起こしたら、電通にいくら金を積んでも何の意味もない。日本という国自体が世界から攻撃され、安くみられることになり、今後の経済、外交的に大きなダメージとなる。
むしろ、「開催したい派」の根拠は何なのだろうか? 商売の都合?(経済的にというが、それは極めて短期的な話ではないだろうか?) コロナリスクを低く見積もっているから?(疫病に関する問題は、政治ではなく科学の言葉で語るべきだ) やりかけたことを無駄にしたくないから?(そういう人には「コンコルドの誤り」という逸話を贈ろう) ……いずれも、私には説得力が感じられない。過ちて改むるに憚ることなかれ、という。中止の判断は、一刻でも早ければ早いほどよい、と思う。
安倍首相の評価は後世の歴史家に任せるとして、今確実に言えるのは意図してないだろうけど日本史上最も多くの人を狂わせてしまったことだよね。世界史上だとトランプに負けるけど日本だけなら今後500年彼より多くの人を狂わせて壊す人は現れないと思う。
本当に虚しい。この7年半はいったい何だったのか。
安倍首相が公約を実現したなら、俺みたいに総裁選のときから一貫して安倍に反対していた者には残念なことだが、安倍支持者にとっては喜ぶべき結果であろう。
あるいは政治の舵取りに失敗しとにもかくにも何も影響力を発揮できずに辞めたというなら、支持者には残念かもしれないが俺のような反安倍派には喜ばしいことのはずだった。
実際には、何も公約を成し遂げず、それどころか状況を悪化させ、そして日本の、わが国の統治機構を壊すだけ壊して終わった。
憲法は改正されなかった。日本の官僚機構は、民主党政権のとき以上にズタズタに破壊された。日本の経済は上向かなかった。むしろ失速した。スタグフレーションが加速している。拉致被害者も戻ってこなかった。憎むべき独裁国家に拉致された同胞を奪還できなかった。北方領土交渉にも失敗した。現状維持すらままならず、ロシア世論を硬化させ、ロシア政府をより頑なな側に押しやるだけの日露交渉だった。トランプとは上手くやっていた? どこが? 大統領に就任する前から会いに行き、何度も歓待しゴルフにも付き合っておきながら、結局トランプはわが国の国防の根幹たる日米同盟への懐疑的な姿勢を捨てなかった!
いや、まあ、トランプはアメリカ基準でも常軌を逸した大統領だし、上手く付き合えないこと自体は安倍の責任ではないにせよ、途中で軌道修正しようとは思わなかったのだろうか? なぜ、トランプがいくら歓待し阿っても決して日本に融和的な姿勢なんて採るはずがないことすら理解できなかったのだろうか?
彼は影響力を、日本を良くすることに使おうとしなかった。これは、俺の思うような日本にならなかったという意味ではない。もし俺の持つ理念と異なっていたとしても、彼が己の理念に従って日本を導き、それなりの結果を残したのであれば――そう、日本を「美しい国」にしたのであれば、気に食わないけど信念はあるやつだ、という評価をしていただろう。ひょっとしたら、俺はあいつには投票してないがあいつは俺のプライムミニスターだよ、と言っていたかもしれない。
そのかわり、彼は自分の影響力を、徹頭徹尾自分とその身内のために使った。森友、加計、桜を見る会。ひとつひとつは小さな問題だ。けれどその小さな事件を隠蔽するために――つまり「ごめんなさい」と言いたくないがために、国家の統治機構をメチャメチャにした。公文書を改竄し、破棄し、隠蔽した。検察官の定年を違法に延長した。憲法に背いて国会を開こうとしなかった。そして党の規定を変更してまで、自民党総裁の任期を延ばした。
異なる思想信条の持ち主が寄り集まって、議会で討論したり、選挙で舌鋒鋭く相手を批判したり、ときには汚い言葉で罵り合ったりするのが民主国家の政治の姿だ。どんな政策を推進するのかは思想信条によって異なり、それを選挙や議会で争っているのだから、政権が変われば政策が変わるのは当然だろう。問題は、そもそもの民主政治の基盤となる制度を掘り崩していることだ。それは超党派で擁護されあるいは改革されるべきものなのに、彼は自分の利益のために――自分の虚栄心のためにそれをぶち壊したのだ。
そしてコロナ禍。毎日のように防災服を着た官房長官が記者会見し、市民から「寝ろ」と言われていた9年前を、総理大臣が避難所を訪れ、被災者から呼び止められて立ち止まっていたころを、あの日本史に残る災害の日々を思い出す。今、この世界史に残る災害の日々において、総理大臣が記者会見にも国会にも姿を見せず、官邸で働き詰めになっているわけでも国内各地を視察してまわっているわけでもなく、ただ私邸に引っ込んで表に出てこないだけなんていう状況が、こんなにも長続きするなんて思ってもみなかった。まさか未曾有のコロナ禍のなかで、気にしていたのが感染状況でも経済の復活でもなく自分の連続在任記録だったなんて。
民主党政権のただなかにいるときは、これは悪夢だと思っていた。今でもそれは変わらない。彼らはあまりにも下手くそで、内輪もめばかりしていて、行政の混乱を招いた。あの時代は悪夢の民主党政権と呼ぶにふさわしい。
フィクションの世界で、ゴキブリが人間を駆除しようとしたり、猿が人間を支配する惑星が出てきたりしたけれど
他を圧倒する種が存在すれば、その種族にとってどんな有効価値があるかによって、他の生き物の存在価値は決定される
豚や牛は美味しく頂きましょう
減らし過ぎた種は護り、増えすぎた種は間引きましょう
何千年もの間、隣接する地域では縄張りを主張し合い、殺し合い、
殺し合う必要性がなくなった近代の文明国でも、富や美貌や知能など
その社会の構成員を傅かせるに値する、何らかの有用性を持った人間は、そうでない人間に較べ、貴い存在なのです
仕事に貴賎はありません、もちろん人間にも、その他の動物にも貴賎なんて存在しない
ただヒトの意識の中に貴賤があるだけです
有用な存在か、そうでない存在かによって、いや意識的ですらなく、それは無意識のうちに既に峻別されています
大局的に見れば、人間もその他の動物も、この絶えず変化する森羅万象の一構成物に過ぎません
人間のカラダに多数の菌が常在し、血が巡り、細胞が分裂を繰り返し、やがては死に朽ちて、土の中に還っていくのと同様に、
莫大な宇宙から見れば、個の人間も菌や細胞と同じようなものです
物差しで自他を推し量りながら、最期はみな、有とも無ともいえない、かつて在りこれからも在り続ける所に還っていく
それは虚しさでもあり、優しい救いでもあるのです
タイトルで調子に乗りすぎたことを最初に謝る。ちょっと盛ったタイトルにしてでも親世代に読んでほしい話なんだ。
私は6年前に浪人をした。幸運にも大学にはきちんと受かり、いまは大学院にも進学して研究生活を謳歌している。いや、コロナのせいで大学に入構できず満足に研究できているかは別だが、とにかく院生としてそれなりにやっている。
「高校生のときにやっておくと将来役立つこと」として数学だとか世界史だとか、色々なものが挙げられていると思う。私はここに「モノクロレーザー複合機を買う」を挙げておきたい。受験勉強をしていると大量のコピーを取る羽目になる。デジタル教科書やスマホ教材が注目されるが、なんだかんだ学校ではアナログ教材頼りだ。自分も高校生のときは自宅のインクジェット複合機でよくコピーを取っていたのだが、非常に時間がかかるしインクも大量に消費する。しかも汗や糊でインクがにじむ。環境に言い訳をするのは良くないが、勉強のモチベーションが下がる要因ではあった。
そこで、浪人したときに「勉強でコピーするのって9割以上はモノクロなんだし、モノクロレーザー買ったがよくないか?」と親に相談し、キヤノンのSateraシリーズの複合機を買ってもらった。メーカーはどこでもよいが、単に価格コムで安かったからキヤノンにしたと記憶してる。
これが学習の効率向上にかなり寄与した。なんと言っても印刷速度が早い。インクジェットでの待ち時間はストレスだったが、それがマシになった。また、印刷物も汗でにじみにくい。手汗が多い体質の人間ならわかると思うが、あのストレスからも解放される。さらに、インク(トナー)交換頻度が圧倒的に下がる。大量に印刷していても、受験勉強程度の使い方であれば1年は余裕で持つだろう。1年程度の受験勉強期間であれば交換せずに済むと思う。
加えて、今頃になってこの日記を書いていることからも分かるかもしれないが、モノクロレーザー複合機は大学入学後も大いに役立つ。高校や予備校に比べるとデジタル化されているとはいえ、印刷やコピーは何かと必要になる。また、大学でも大半のコピーはモノクロで事足りる。(カラーコピーが必要なときだけコンビニに行けば良い。)
日々の課題、課外活動、院試の出願。自宅で気軽に使える高速な印刷環境何度助けられたことか。
ちゃんとしたメーカーのモノを買えば5年以上は使える。スマホやPCなどと異なり、技術的に陳腐化することもあまりない。2~3万円で済むのだから、子供のためにぜひ買い与えてほしい。