はてなキーワード: システム開発とは
入社して7年。管理職には早いけど若手と呼ばれるにはオッサン。
いわゆる中堅社員という奴だ。
うちの会社は、母体からシステム開発事業がスピンアウトしてできた。
色々とチャレンジや失敗を繰り返しながらの日々だったようだ。
飲みの場の武勇伝で聞いただけだけど。
そして個人的に気になるのは組織の壁の高さ。
隣の部署が何やってるかもわからん、お客さんの名前がかろうじてわかるというぐらいだ。人材交流もほとんどない。
そんな環境で、俺は高い壁をく感じるのだが、上司は壁の高さを感じてないようだ。
それ以上に人員が少なかった時期を一緒に乗り越えている、という背景の方が大きいんだろう。
例えるなら、
5000人の会社に新卒で入って全員と知り合うのは不可能だが、
500人の会社ならなんとかできるそうだし、
http://anond.hatelabo.jp/20130310152356
元増田に便乗したお陰か、思ったより多くの方に読んで頂けたようでとても嬉しいです。
こんな付け足しを書くのは興ざめかもしれないけれど、
似たような境遇の人も多いようだし、
もうちょっと具体的な事を「あとがき」として補足しても良いかな、
という気になりました。
(申し訳ないことに、この付け足しも長いです)
私の文章は、元増田
「上流エンジニアなんて死んじまえ」
http://anond.hatelabo.jp/20130309233920
「上流にも技術力はあるはず」
という、上流下流のどちらが優秀かという議論が問題からやや外れているように思えたため書いたものです。
優秀な人がいても活躍できず、当たり前のような施策もうまく働かない、
(下流にいたほうが技術力の見せ場が多いため、
下流に優秀な人が多いように見える傾向はありそうです)
そして、その他の19人~49人は基本的に普通の人です。
20~50人に1人の人をあてにして仕事を進めるのは(現状のSIer周辺では)不可能なため、
19人~49人の普通の人が持つ価値観・思考・ペースで仕事を進める事になります。
さて、システム開発でソフトウェアの基本構造を決める部分について、
どうしても一種の才能(パターン認識・適用能力)が必要なのですが、
才能のある人が適切に作業に割り当てられる可能性は低くなります。
その結果、普通の人が納得しやすい下記のような方法が取られがちです。
こういった構造は、当時は場当たり的なつもりでも結局は規約化してしまい、
「途中で何を思いついても設計書の通りに絶対作れよ」
といったSIerにありがちな規約と相まって、未来永劫負の遺産として残ることが多いです。
そして、一旦ダメな土台が出来上がると、その上には基本的にダメなものしか重ねられないため、
どんどんダメになっていき、最終的には手のつけられない沈没船になります。
プログラムの基本構造がダメだと、どんな優秀な人であっても出来ることが限られます。
当然リファクタリングすれば良いのですが、
といった、普通の人による突っ込みには、現場での反論がなかなかしにくいです。
そして、リファクタリングもやはり才能のある人が中心になる必要があり、
ここまで書いてきたようなことが、
現場の中に居たままそこを良くする方法は、結局思いつけませんでした。
これをこの先何年続けても無意味だな、と思い、転身することにしました。
正当な取るべきリスクを取った結果だと思うのです。
沈没船では最初から沈没寸前のため、リスクを負うことができないか、異常に増幅されます。
運用上リスクを負うことのできない(機能追加できない・構造を改善できない)システムなど、
黒船は、取れるリスクの幅が大きいからこそ難しい航路を選べるし、
そこで失敗したとしても、それ自体が業界や人類全体の資産になるのだと思います。
黒船は水平線のはるか向こうで、船長はそれらが見えないため気楽です。
ちゃんと沈没してくれれば、最終的にはまともな船しか残らないので助かるのですが、
まともさに関する競争が働きにくいところがあるらしく、
リスク満載のはずの沈没船を安泰とさせている事によるコストは、
最終的には企業全体・社会・国家・人類といったものが負っていると思われます。
普通の人というのは、
家に帰ってから基本的には勉強せず(資格や仕事で必要な場合は別)、
仕事で決められた範囲のツール・技術・問題領域で満足できる人の事です。
これは不真面目とか怠慢とかそんなわけではありません。
例えば、マクドナルド店員が、
自宅でもビーフパテを練ってハンバーガーの焼き色を研究したりレシピを何冊も書いたり、
毎日毎日ポテトやハンバーガーをキーワードにググったりブログを読んだり、
枕元には常に藤田田の著作を数冊積んでいて、本棚には完全なコレクションがあったり、
1日に5度は銀座1号店の方角へお祈りを捧げたりしたら、
やはり変だと思うのです。
「才能のある人」とは、そういう事をごく自然に、
それこそ食事や睡眠のように日々やっている人です。
さらに言えば、これはマクドナルド店員を例に出すと変に思えるのであって、
ギタリストやピアニストや作家や写真家やデザイナーといった専門家であれば
不自然でも何でもない最低限のたしなみです。
20人~50人に1人という割合も、それがプロのギタリストであれば納得できる数字です。
本来そのぐらい特殊な専門領域を広く一般に開放してしまっているという問題が、
一流私大文系。14卒就活生。地方出身。東京で一人暮らし。1浪。
予備校の授業には顔を出すけれども、前日に短時間で予習するだけで、復習は全くしなかった。
英単語や古文単語といった暗記モノが大の苦手で、最後までまともに覚えられなかった。
大学に行きたいというよりも、一人暮らしをしたいという気持ちが強く、大学受からなかったら専門学校でも行こうと思っていた。
でも大学に行くなら祖母でもわかる有名大と思って、高望みして受験したらなぜか受かった。
何校か受かって、どこへ行こうか選ぶこともできた。
そういう経緯で大学へ進学したけど、入学当初から就活が不安だった。
受験勉強も満足にできない、こんな自分が会社で働くことなんでできるんだろうかと思っていた。
だから、1年生の頃から、就職活動関連の新書や雑誌記事を読み漁った。
新書ではよく、マニュアル本が否定されていたから、そういう類の本は読まなかった。
一時期、新書にハマって就職活動以外も読み、講演会に行くこともあった。
サークルは文科系に3つ属し、その中の1つ(2、30人規模)では代表をやった。
成績は上の下あたりで、留年の心配はなく、少し第二外国語を頑張って資格を取った。
1年生の秋から冬にかけて、専門学校に通い、簿記2級を取った。
2年生の冬にTOEICを、何も勉強せずに受験し、750点以上取れた。
ゼミでは、何人かで論文を書き、そのときはリーダーの役割をやった。
周りを見ると、複数インターンに行っている人もいた。
絶対に通るインターンをいくつか教えてもらったけど、あまり興味が湧かなかった。
なぜならそれは金融系のものだったが、エリート意識が根付いていそうで嫌だったからだ。
大学では、自分の大学にプライドを持っている人が多かったが、自分にはそれが受け入れられなかった。
愛校心は人並みかそれ以上にあるのだが、偏差値が高いからといって、他の大学から見て上にいるなんて思えなかった。
そういう考えのもと、あまり同じ大学の人が受けないような、中小企業やベンチャー企業に入りたいと思うようになった。
12月1日にナビサイトがオープンしてからは、システムエンジニアに絞ってエントリーしていた。
システムエンジニアに絞ったのは、今でもはっきりとした理由は見当たらない。
でも多分、新書の中で、社会人に必要なスキルとして英語と会計とITが挙げられていたことと、
ベンチャー企業の多くはIT系で、ITの知識を持っていると転職しやすいと無意識に感じていたのがあるんじゃないかと思う。
そういうわけで、文系でもシステムエンジニアになれる、中小企業やベンチャー企業を多数エントリーしていた。
週に何度か説明会に参加していた。
でも周りを見ると、一日に複数説明会に参加していて、焦ってしまい興味のない会社の説明を予約してはキャンセルしていた。
年が明けて、大学の定期試験が終わってからは、説明会に加え、OB訪問も行うようになった。
システムエンジニアの人ではなかったが、他の業界を知ることができて良かった。
この頃は、大手企業の子会社でシステム開発を行っている所を中心に見ていた。
そこから掘り下げて、保険系のユーザー系SIerに狙いを定めた。
そんな中、転職サイトで調べていると、こういう会社は親会社から出向した人が上司にいることが多いとわかった。
上昇志向が強い方ではないが、ある程度で出世が止まってしまうことに違和感を覚えた。
この記述を見てから、今まで考えないようにしてきたことが溢れ出してきた。
研修制度や福利厚生、給与のことを考え始め、大企業の方がいいのではないかと思うようになった。
また、何となく決めたシステムエンジニアに絞るのではなく、総合職を目指してもいいのではないかと思った。
ある程度のレベルの大学なのに、最初から大企業を目指さないのはおかしいかもしれないとも思った。
入学当初は働くことができるか不安だったが、就活関連の新書などを読んで、
中小企業やベンチャー企業でなら自分でも働くことができるかもしれないと考えていた。
しかし中小企業と大企業の差を知り、周りの大手志向も助長し、大企業へ舵を切ろうとしたところで、劣等感に苛まれている。
自分なんかが大企業で働くことなんてできるのだろうか、というのが邪魔をして、ここ数日まともに活動できていない。
転職サイトは就活本に載っていたから見るようになったが、正直見なければこんなに悩まなかったと思う。
でもまだ選ぶことのできる段階から現実を知ることも大事だとも感じた。
システムエンジニアというのは、選ばない方がいい職種なんだろうか。
メーカーなどで総合職として働く方が、自分には合っているのだろうか。
最近はそういうことを考えては、先が見えない道のりに不安で一杯だ。
自分は、プライベートより仕事を優先させてもいいと思っている。
しかし精神的に不安定のところがあるから、社員同士が仲の良い雰囲気の所がいい。
もしものときに転職できるように、社外でも通用する能力を身につけたい。
地方や海外への転勤も厭わないが、最終的には地元か三大都市圏に腰を据えたい。
忙しい時期に深夜勤務や休日出勤があるのはいいが、それが恒常化しているのは嫌だ。
この条件を全て満たす所はあるのだろうか…
はああ?
おじさんおじさん、頭に血を上らせる前に話を整理してね。
○中大規模案件→おそらくシステム・サーバが絡む案件だと思われる。
○しかし、プログラマやSEの人選は難しい。(この辺はググれ)経験がない元増田が判断出来るだろうか?
○そして雇った人間に依頼料を払う必要があるし、その人間が飛べばまた1から探さなければいけない=リスクが高い
○自分で出来ればリスクが高い事案(システム開発やサーバ構築等)を自分で負担できるので、リスクヘッジできる
○しかし、技術も経験も金も無い元増田は失敗したら立ち行かなくなって廃業することに…
こういうまとめでわかるかな?
おじさんが鼻息フンフンしながら書いたこれは
俺は元増田の能力が足りなかったって点に異議を唱えた覚えないんだけど。
少なくとも自分一人で全て出来る自信があってはじめて請けろよ。
っていうオモシロ発言に突っ込んでんだよ?
元増田が飛んだのは「他人を頼ったから」とか「資金繰りを必要としたから」じゃなくて
その人達と元増田のような素人を一緒にしちゃいけないよ。少なくとも会社に勤めてある程度経験した上で、独立するだろ?
提携的な弁護士や司法書士も、中大規模案件を取る前に探して信頼関係を築くよね?仕事をするってことはとーっても大変な手順があるんだよ。
君も早く働いて覚えようね。
そんだけトンチンカンな読解しては見当外れな返答してるようじゃ
ろくな仕事任せられないよ。
○中大規模案件→おそらくシステム・サーバが絡む案件だと思われる。
○しかし、プログラマやSEの人選は難しい。(この辺はググれ)経験がない元増田が判断出来るだろうか?
○そして雇った人間に依頼料を払う必要があるし、その人間が飛べばまた1から探さなければいけない=リスクが高い
○自分で出来ればリスクが高い事案(システム開発やサーバ構築等)を自分で負担できるので、リスクヘッジできる
○しかし、技術も経験も金も無い元増田は失敗したら立ち行かなくなって廃業することに…
こういうまとめでわかるかな?
その人達と元増田のような素人を一緒にしちゃいけないよ。少なくとも会社に勤めてある程度経験した上で、独立するだろ?提携的な弁護士や司法書士も、中大規模案件を取る前に探して信頼関係を築くよね?仕事をするってことはとーっても大変な手順があるんだよ。君も早く働いて覚えようね。
International Standard Book Numberの略称で、世界共通で図書(書籍)を特定するための番号である(wikipedia)。
2006年まではISBNは10桁で運用されていた。俗にISBN-10と呼ばれる。10桁の内訳は
言語記号-出版社記号-書名記号-チェックデジット(以下CD)
となる。各桁の割り当てはCDに1桁、以外は決まっておらず、CD込みで合計10桁になる。
各項目の概要は
2007年以降は13桁に移行した、俗称ISBN-13、内訳は
ISBN-13に移行した理由は、英語圏でのコードが枯渇してきたため(その場合perfixに979が追加された)、EANコードとの共通化を図るためである。ISBN-13への以降に伴い、CDの計算方法が変更されたのは、CDの計算方法がEANに準じたためである。
手近のバーコードが印刷されている製品を見ると、45もしくは49から始まる13桁の番号が印刷されている、これがEANコード(日本の場合はJANコード)である。
ISBNが書籍識別番号なら、EANコードは世界のあらゆる商品の識別番号である。こちらの概要は詳しくは説明しないが、
このEANコードとISBNを共通化させるために行われたのがISBNの13桁化である。
先頭のコードは国を表す(日本は45と49)が、書籍という商品にのみ978、979という固有の番号が振られている。
当然の事ながら、製造者が勝手な番号を振っては共通コードの意味を成さないので、国別にコードは管理されている。
日本の書籍の場合は「日本図書コード管理センター」が、JANコードは「財団法人流通システム開発センター」が一元管理している。
以上の事から「勝手なISBNを発行する」という行為がどれほど業界無視かわかるだろう。
wikipedia電子化書籍の楽天ISBNは、例えば「芥川龍之介」の場合
が付与されているが、このISBNの問題点は、勝手な番号が振られている事以外には
という点である。楽天ISBNがどの程度広く利用されるかは不明だが(楽天内部ですら使ってほしく無いが、13桁もいらんだろ?)、
商品コードの混同、汚染という事態を惹起する可能性がある。「ISBNコード」が「商品番号」に変わった今、
あまり心配は無いだろうが、世界共通のコードを勝手に我が物とする厚顔無恥な態度は会社の体質と考えられ、
今後に同じような事態を引き起こす可能性は大いにあると考えられるので、
このお話はたぶんフィクションです。実在の個人や企業とはあんまり関係ありません。そういうことにしろください。
10年前、20代になったばかりの頃の僕は、今思えば本当に最低な生活を送っていた。高校を中退し、実家とは疎遠で、友達もなく、金もなく、夢も希望もなく、ただバイト先と自宅を行き来するだけの毎日。いつも視界には霞がかかったようで、底の見えない空虚さだけが僕の心を支配していた。
それでも趣味らしいものはあった。オンボロマシンにRedHatを入れ、ダイヤルアップの細い回線で自宅サーバを立て、Perlでガラクタのようなプログラムを動かす。そんな子供じみた遊びだけど、プログラムを組んでいるときだけは空虚さを忘れ、画面の中に没頭できた。
ただ、そのときの僕はもうすでにいろんなものに打ちのめされていて、若者にありがちな全能感などというものは霧散していた。自分がプログラミングで何かを成すだとか、それを仕事にしようなんてことは一切頭になかった。このまま夢も希望もなく人生を終えるのだと、そう思っていた。
それでも転機は訪れる。
勤めていた工場で派遣切りにあった僕は、「働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!」とか言いながらニート生活をしていた。そろそろ翌月の家賃も払えなくなってきたころ、派遣会社から電話がかかってきた。「プログラム開発の仕事があるんですがやりませんか?」と。そういや履歴書だかスキルシートだかに、Perlがどうたらとか書いたっけ。実務経験もない中卒に仕事まわすとかwww ……とは思ったものの、このままでは本気でホームレス一直線だったので引き受けた。
派遣された先は従業員数10人くらい、パートさん含めても50人くらいの小さな会社だった。現在手書きの伝票でやっている処理をWeb化したいのだという。システム担当者はおらず、事務員さんがExcelやAccessを使える程度。すべて僕一人でやらなければならない。マジか。
ともあれ、まずはサーバである。後々の運用を考えるとLinux系は使えない。事務所の片隅に放置されていたWindows 2000マシンにApacheを入れてそれでよしとした。
次はデータベース。でもこの頃の僕は「正規化ってなんれすか?」というレベルだったので基礎から勉強した。なんかMySQLってのがいいらしい→社長に申請→「今Access使ってるからそれでいけ」→「はい」→パフォーマンスの面で問題出るだろうなとは思ったがしょうがない。
次は言語。最初はPerlで書こうと思ってたけど、PHPってのが流行ってるらしいのでこっちにした。ウホッ! いい言語……。
そして業務内容を把握するため、現場をあっちこっち駆けずり回りながらヒアリングする。ときには部長から愚痴を聞かされ、ときにはパートのおばちゃんから誘惑され、そんなこんなを繰り返し、仕様をつめていく。
そして数ヶ月かけて開発したシステムの稼働である。そのときのことは今でも忘れない。
現場の人がラインからデータを入力する。サーバにデータが送られてくる。別の事業所からも送信されてきてる。問題ない。事務員さんが伝票処理を行う。問題ない。すげえ、ちゃんと動いてる。お遊びで作ったプログラムではなく、本当に本気の業務用プログラムである。それを僕が1人で作ったのだ。このプログラムで業務がまわり、利益を生み出すのだ。社会に対して、何らかの作用を及ぼすのだ。僕みたいなクズにでも、そんなことが可能だったのだ。
そのことに気付いたときの感動を、僕は今でも忘れない。
それからちょっといろいろあって、ホームレスになった。うん、急展開なのはわかってる。でもこの間のことは語ってもあまり面白くないし、公序良俗に反する話もあるのでざっくりはしょる。どうせフィションなんだから細かいことを気にしてはいけない。
話を戻そう。
ホームレスになってからの数日はひどい精神状態だった。足元から世界が崩れていく感覚。視界がぐにゃりと歪む。帰りたい。でも帰る家がない。だからホームレスというのか……というトートロジーを何度繰り返しただろうか。
もうあまり覚えていないけど、このときの僕は本当にもう何もかもどうでもよくなってたと思う。ただ、自分の全財産がバッグ1つしかないということに対する心地よさ、開放感があったのはよく覚えてる。そんな状況で地べたに座り込んで見る風景。きっと、今はもう見えない。あの頃の僕にしか見えない風景が、そこにはあった。
いろんな人と出会い、流れ流れて、最終的に西成のあいりん地区にたどり着いた。関西圏の人には説明不要かもしれないけど、よく言えば日雇い労働者の街、ぶっちゃけて言えばホームレスのメッカである。今はもう綺麗になってしまったし、治安もそこそこよくなったけど、僕がいた頃はまさに「カオス」としか表現のしようがない状況だった。
どこから持ってきたんだといいたくなるようなガラクタばかりを並べた泥棒市。簡素な骨組みにビニールシートをかぶせただけの飲み屋。「ないかーないかー」と声が聞こえてきたので見てみると、警察署の近くなのに道端で堂々と丁半博打をやっている。コンビニのトイレの張り紙には「トイレが詰まる原因になるので注射器を捨てないでください」とある。いやトイレが詰まるとかの前に気にすることがあるだろ。ケンカなんて日常茶飯事。頭から血を流したおっさんが普通に歩いてる。数百人規模で並ぶ三角公園の炊き出しは圧巻。四角公園の炊き出しでは誰もいない場所にワンカップの瓶とかがたくさん並んでる。何かと思って聞いてみたら「あれで並んどることになってん」と返ってくる。学食の席取りルールみたいだ。ああもう全然書ききれない。
でも一番印象に残っているのは、南海線の高架下、うず高く積まれたゴミ山の前でガラクタを解体していたおっちゃんのこと。奇声を発しながらハンマーを振り下ろしていたおっちゃん。その両目は、これ以上ないほどにキラキラと輝いていた。その鉄屑を売った金でビールが何本買えるか皮算用でもしているのか、あるいは幸せになる魔法の薬でもキメているのか、そのときの僕にはわからなかったけど。
そして、人生を投げ出していた僕に付き合ってくれたおっちゃん、あなたのことも忘れません。モーニングをおごってくれて、いろんな話をしてくれて、聞いてくれて、役所の福祉課まで連れて行ってくれたおっちゃん。あなたがいなければ、僕は今でも西成でぬるま湯の日々を送っていたかもしれない。
いろんな人に助けられて、ホームレスの施設に入ることになった。舞洲という人工島にあるのだけど、これがまた周囲に何もないのだ。スポーツ関連施設、ゴミ処理場、物流センターが点在するくらい。コンビニ1件ありゃしない。だけど施設での生活は意外にも楽しかった。2段ベッドが6つ並んだ12人部屋。むさくるしいけど、みんなバラエティに富んでいた。刑務所上がりのいかついおっちゃん、虚言癖のひどいおっちゃん、ほとんど一日中寝てるじいちゃん、薬のフラッシュバックがひどい兄ちゃん。そんな人達の中で過ごせば、自分がどれほどクズであっても気にならない。やはり僕はこちら側の人間だと再認識した。
市街地にある施設へ移ってからはいろんな仕事をした。生駒の山奥にドブさらいに行ったり、事務所移転のバイトで腰をやってしまいそうになったり、なんやかんやあったけど、長くなるのではしょろう。結局のところ、またプログラマをすることになるのである。
そろそろ身バレしそうな領域に入ってきたのでここでもう一度強調する。このお話はたぶんフィクションです! たぶんフィクションです! 大事なことなので2回言いました。
そう、またプログラマとして働くことになった。今度は従業員数300人くらいの大きな会社である。日本人なら誰でも知ってるであろう大企業の子会社ということもあり、本社からの出向社員は東大京大卒当たり前みたいな状況。そんな人達の前で中卒の僕が前に座ってプレゼンやら仕様検討会やらをするのだ。何の罰ゲームだよ……。
最初に思ったのは、「ここにいる人達は育ちがいい」ということだった。みんな礼儀正しい。喋り方や立ち居振る舞いまで、今まで僕がいた世界とは何もかもが違っていた。まるでドラマに出てくるような「ちゃんとした人生を送っている人達」だ。そんな人達に囲まれていると、「生きていてごめんなさい」と言いたくなる。本当に。
他に驚いたこと。社内で連絡を取り合うのにメール使ってる。やばい。社内メーリングリストとかもある。やばい。定期的にミーティングとか勉強会とかもする。なにそれ怖い。自分がいっぱしの社会人になったかのような錯覚に陥る。ちょっと前まで西成でゴミ拾いのバイトしてたのに。「勘違いするんじゃない! 西成の日々を思い出せ!」と何度も自分に言い聞かせ、自我を保った。
とはいえ、萎縮してばかりもいられない。気付いたことはどんどん提案した。あちこちに散らばっている共通の処理をライブラリ化したり、サーバで負荷がかかっている部分を改善したり。却下されたものも多かったけど、採用されたものもそれなりにあった。業務の改善案を考えるのは楽しい。誰かがプログラマの三大美徳に「無精」を上げていたっけ。極度のめんどくさがりで、楽をするための苦労は惜しまない僕には、こういう仕事は天職なのかもしれない。
システム開発の方も順調に進んでいた。この頃はMicrosoftですらWeb版のOfficeを出すような状況で、デスクトップアプリに比べても遜色ないレベルのWebアプリがどんどん出てきていた。この会社で開発しているのも、そんなAjax技術を多用したWebアプリだ。JavaScriptを用いた本格的な開発に最初はとまどったけど、書けば書くほど言語が自分の手に馴染んだ。クロージャ、prototypeといった基礎をちゃんと学ぶと、書けるコードのレベルが段違いに上がっていくのが楽しかった。
仕様にもこだわった。実際に使う人がどんなふうに操作するのか、何度も何度も脳内でシミュレートし、どんなUIが最適なのか、データ構造はどうするべきか考え、実行速度とメンテナンス性の板挟みに苦しみ、何度も何度もリファクタリングを繰り返す。
そのとき開発していたシステムは、メイン画面でほとんどの処理を行うタイプのものだったのだけど、そのメイン画面のJavaScriptコードは最終的に1万行を超えた。もうこの頃にはJavaScriptでのオブジェクト指向的な開発手法というものも自分なりに構築されつつあった。そしてこのカチャカチャとした手触りの、安物のオモチャのような言語は、僕の一番好きな言語になったのだった。
そんなある日、僕が作ったシステムのメインユーザーである他部署の偉い人が来て、開口一番こう言った。
この機能が素晴らしい、とか、あの発想はなかったわ、とか、とにかくべた褒めして、そして去っていった。機能追加要望の前口上だと思って身構えていた僕は拍子抜けした。「あの人が他人を褒めることなんてめったにないよ、すごいね」と近くの席の人が言う。
どこにもはまることのない歪な歯車。その僕が、社会という大きな機械の中に組み込まれる音だったのだと思う。まあすぐに外れてしまうのだけど。その一瞬だけは、僕は確かに社会の一部になれたのだ。
これからどうするか? 今の技術力ならそれなりのところに就職できるかもしれない。でも僕にはやってみたいことがあった。半年かけて海外を旅するのだ。
今、僕の手元にはまとまったお金がある。こんなのは人生で初めてのことだ。そして僕は今、どこにも所属していない。どんなところに行ったっていいし、何をしたっていい。この先、そんな状況がどれだけあるだろうか? 人生長いのだ、そりゃあ何度だってあるかもしれない。でも今回やりたいことをやらなかったのなら、僕はきっと何度だってやらずにいるままだろう。
もちろん怖くなかったわけじゃない。なにせ海外なんて行ったことがなかったのだ。ずっと極貧の生活をしてきた僕は、国内旅行だって満足にしたことがない。
いろいろと考えた。ない頭を使って考えた。自分の英語は通じる? 病気になったときは? 荷物をなくしたら? あれこれ考えると心配事ばかりが頭をめぐって、わけがわからなくなる。
最終的に決定打になったのは、自分が何も持っていないという、この状況だった。
そう、僕は何も持っていない。家族も友達も、夢も希望も。だけど、そんな人間だからこそできることがあるんじゃないかと思ったのだ。何も持たないからこそ、どこにだって行けるし、何にだってなれる。それはタロットカードの「愚者」みたいなものだ。愚かな者は恐れも何も知らぬからこそ、無限の可能性を秘めている。
心を決めたら後は早かった。
パスポートを取得した。航空券を手配した。住民票を海外転出した。トランクルームを借りた。住んでいた部屋を引き払った。
空港へ向かう電車の中で、懐かしい感覚に襲われた。あの日、ホームレスになったばかりのころの感覚。世界が足元から崩れていく感覚。でもあのときとは決定的に違うことがあった。それは、今回は自分が望んでこうなったのだということ。流されるまま生きてきた僕が、初めて自分の人生に対して主導権を得た。それだけが決定的に違っていた。それだけで十分だった。足の震えは、これからの旅路への、期待に対する震えなのだった。
自分とは異なる人種、異なる言語。街の看板すらまともに読めない。レストランの注文すらおぼつかない。ちょっと電車に乗るのも大仕事だ。それでも時間をかけてひとつひとつなんとかしていった。
見知らぬ街の匂い、喧騒、バケツをひっくり返したようなスコール、旅の中で出会う怪しい人、優しい人。僕の前でたくさんの風景が流れていく。
川辺のレストランで昼ご飯を食べた後ボケーッとしていると、猫が膝の上に乗ってくる。動くのもめんどくさくてボケーッとしてたら日が暮れてた。そのまま猫と一緒に晩ご飯を食べた。そんな日もあった。
長距離列車に乗っていたとき、車内食にピーナッツバターのようなものが付いていたので、普通にパンに塗って食べた。でも梅干的なものだったらしく、めちゃくちゃ酸っぱかった。「すっぱ! すっぱ!」とかやってたら向かいの席の女の子が爆笑していた。僕も笑った。そんな日もあった。
最初は少し移動するのにも大変な思いをした。でもいつの間にか、ローカルバスに乗って気ままに旅するようになっていた。
たどたどしかった英語も、日常会話程度なら普通に喋れるようになっていた。
いろんな国のバックパッカーにもたくさん出会った。お互いつたない英語でやりとりするのも楽しかった。今度は彼らの国にも行ってみよう。だからいつか世界一周に出ようと、僕は心に決めた。
こんな旅に出たところで自分は何一つ変わらないと思ってた。でも、何かが変わってきている。それが何なのかはわからない。たとえば図太さだったり、適当さだったり、そういうのもあるのだけど、何か違う。それよりもっとプリミティブなもの。感情になる前の感情、行動になる前の行動。マグマのような熱量を持ったドロドロとしたものが、自分の中に渦巻いているのを感じる。それがいつ形を成すのかはわからない、今はまだ。だけどいつかどこかで、忘れた頃にひょっこり出てくるんじゃないかと思う。そのときを楽しみにしていよう。
そして夢のような日々は終わる。
日本に帰ってきたとき、手持ちの金は10万以下だった。部屋は解約していたので住むところもなかった。普通にホームレスだった。僕は焦らず慌てず、西成へ向かった。
しばらくはドヤ(安宿)に泊まった。一番安いところなら500円から泊まれる。西成はいいところだ。
前の会社から戻ってこないかと誘われたけど、「働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!」と言って断った。
いや働きたくなかったのは本当だけど、もう1つ理由があった。職業訓練で組み込み系を学ぼうと思っていたのだ。
スマートフォン含むタブレット端末の市場がこれからも拡大していくのは間違いない。そうすると必要になってくるのは組み込み系の知識。いやアプリ作るだけなら必要ないかもしれないが、そういった知識があれば、自分ができることの幅がぐんと広がると思う。
それに、今の僕には基礎的な力が圧倒的に足りない。すべてを独学で、我流でやってきたけど、やはり限界を感じる場面が多々あった。だから今回ちゃんと体系的に学んで、足元を固めようと思ったのだ。
結果的には正解だったと思う。本当に基礎の基礎から学べた。
ブレッドボードを用いて回路を組むところから始まって、アセンブラ、C言語、組み込みLinuxでのデバイスドライバ開発、アプリ開発。これまで高級言語の十分に進化しきった部分にしか触れてこなかった僕にとっては、どれも難しかったけど、どれも面白かった。これからどういう道に進むかまだわからないけど、ここで学んだことは絶対に無駄にならないと思う。
そうして職訓で勉強するかたわら、悶々と考えていたことがある。世界一周についてだ。
今はまだ金もないし、そんな金を稼げるあてもないのだけど、いつか(たぶん10年後くらいには)行こうと本気で思っている。
ルートだけでも今から考えておこうと思って、いろいろと旅程検討アプリを試してみたのだけど、どれもいまいち使い勝手が悪い。海外のものも含めて探しまくったけど、自分が思うようなものは見つからなかった。
だったらもう自分で作るしかない。せっかくだから就活のときにポートフォリオとして使えるよう、ちゃんとしたWebアプリを作ることにした。
最初の1ヶ月は地図APIの選定と、検証コードを書き捨てるだけで終わった。
2ヶ月目は基礎部分の構築だけで終わった。
3ヶ月目に本気を出し、ほぼできあがった。
そしてベータ版をリリースした。 http://planetter.com/
それが先週の話。
だからこのお話はここで終わりだ。正確に言うなら、ここから先の展開はまだわからない。
10年間を振り返ってみて思う。あの頃と比べて、何か変わっただろうか?
家族や親類とは縁が切れたままだし、いまだに人付き合いは苦手だし、金はないし、夢も希望もない。それは今でも変わらない。ただ、あの頃あれほど感じていた空虚さは、跡形もなく消えている。
西成の高架下で見た光景を思い出す。ガラクタを解体していたおっちゃん。あのキラキラした目。たぶんあの瞬間に僕は、自分にとって一番大切なものは何なのか、心の深い部分で理解したんだと思う。
世界一周だなんだというのも本当はどうでもいい。僕はただ、いつだってドキドキしていたいのだ。
初めて人を好きになったときの気持ち。知らない街で暮らし始めたときの気持ち。そして、プログラムが思い通りに動いたときの気持ち。
それを持ち続けていたいのだ。いつだって新しい世界にワクワクしていたいのだ。
ふと目を閉じれば、まぶたの裏に映る、あの日のメッセージ。
"Hello world!"
このお話はたぶんフィクションです。実在の個人や企業とはあんまり関係ありません。でも、ここに綴った僕の想いは、ノンフィクションです。
横からだが、まとめると
そこに、匿名だが、継続的な履歴管理用のIDが振られるだろ。その匿名管理用のIDとCCCのカード番号の組み合わせが、論理的に照合不能であることを証明せよ。と言われているんだが?
ただし、どう考えても、受付窓口にはCCCの番号との匿名管理用のIDの対照表があるので、この対象表が CCC側によって閲覧不能であることを証明しなければならないのだが
その対照表のシステム開発会社がCCCなのに、どうやって証明するんだ?
という事を突っ込まれているんだと思うんだけれども。
でいい?
それならば確かに、個人情報とは言い切れないが、CCCはもともと、住所氏名をすでに持っている。という条件からスタートしてるからな。
閲覧しません!は、それは個人情報は流出しませんといえば、しないのか?という議論になるから無理。というのは大前提。
で、どうするの?と聞かれて、 これから考えます。という回答だったから、この件は炎上した。
CCC側が閲覧不能な状態だったら、そら、問題なかったが。だがそうなると、貸出時に住所氏名とCCCの番号の対象が行えない。という事になって、本来の図書館業務を妨げる。
本来の図書館業務のために、CCCの番号と住所氏名をマッチングするシステム CCCの番号から匿名番号を作るシステム。 匿名番号と匿名情報を送るシステム。
この3つを作っておいて、CCCの番号と匿名情報をマッチングできない。とするのは、そうとう大変だぞ。
信託預金じゃないが、運営会社と開発会社を、親会社や役員ごとすべて別の第3社外者で行う。という回答以外、おれには、閲覧不能を証明する方法が思いつかない。
妹が引きこもって10年になるが、未だに外へ出ようとは思わないらしい。
引きこもりのせいか、色白で痩身、髪は伸び放題だけど癖毛のせいか軽くパーマがかかっているように見え、正直美人だと思っている。
もともと妹は、病弱ではあったけど活発で外向的な性格の持ち主だった。
友人も私なんかより遙かに多く、病気のせいで5年も芸大に通っていたので、人付き合いの幅も広かった。
そんな彼女が引きこもりになった原因は、些細な職場でのもめ事だった。
当時彼女は、派遣社員でシステム開発会社のアシスタントをしていたが、
デザインを専攻していたこともあり、その会社のホームページを空いている時間に作成・修正していた。
ただし、当初は空いている時間に修正すれば良かったハズが、だんだんと依頼が増えてきて、
ついにWEBデザインが主業務となったらしいい。
「普通の仕事ができないいから仕方なく頼んでるのに、いい気になるなじゃないよ」
といびられていたらしい。
それから、会社に行くのが嫌になり、欠勤が続くようになり、部屋から出てくることも少なくなった。
(それでも、たまに極親しい友人に誘われると飲みにでかけるのだが)
つい先月まででは部内の大量で複雑極まりない帳票とか伝表とかを嘱託契約の俺が中心となって部内の運用をスムーズにとりおこなってた。
帳票の取り周しなんかについては、社員よりも俺の方がずっと詳しくなっていたし、独自でエクセルマクロなんか作って、例えばデータとデータの突き合わせなんかは社員の100倍ぐらいのスピードでこなしていた。
半年前ぐらいかな、社員に「この煩雑な作業をシステム化することになったから、いろいろ協力してください」って言われて、中堅のSIerのおっさんSEとその弟子?の20代の女子のSEに事細かに自分の業務内容を伝えることになった。
週に1回ぐらい、自分が話した内容をSEが図にまとめてきて、それが正しいかどうかっていうのを3,4カ月続けて、いままで複雑に絡み合ってた業務がきれいに整理されていくのとともに、ほぼ俺の分身ともいえるこのシステムが導入されれば自分にのしかかっていた煩雑な業務も、これからはスッキリと時間に追われないでできるかな~なんて思いながら、普段の作業とは別にまとめなきゃいけないことなんかもたくさんあって仕事はハードになったけど、華奢で笑顔が可愛い女子SEとのやり取りを楽しんでいたんだよ。このプロジェクトが終わったら食事にでも誘おうかなんて思いながら。
だんだんシステム開発が終盤になった3月31日のちょうど1ヶ月前に、契約の更新無しのお知らせがきた。
契約6年目の俺を切るにあたって、上司はすっごい申し訳なさそうに会社が厳しくなったとかいろいろいってたけど、実際は今回のシステムを導入したことによって俺がいらなくなったってことだってしばらくしてから気が付いた。
俺は自分から自分の仕事を奪う仕事を自ら進んでやってたってことになる。可愛い女の子に惑わされて。まさに墓穴。
俺は社員から頼りにされていると思っていたし、自分のこと優秀だと思い込んでいて、システムが出来上がったら自分がこのシステムの面倒を見ていくのかとばっかり思ってたからショックだった。
だからといってノラリクラリしてプロジェクトの進行を遅らせるようなことできる自分じゃないし、やっぱ結局は正社員じゃなかったってことなんだろうな。ぬるま湯につかりすぎた。
とりあえず、次の仕事が決まるまでのんびり旅行でもいきたいところだけど、あの巨大システムの仕様の確認とかでちょくちょく電話かかってくるから、俺が電話に出なかったら困るだろうな~なんて思っててなかなか行けない。
34歳で転職って厳しいだろうな~。
アニメやゲームのキャラクター情報をまとめてるサイトがないから作りたいなぁって
思ってたんだけどhtmlは初歩しか分からないしプログラミングもできないので構想するだけで作れなかった。
ゼロから4ヶ月でWEBサービスをリリースした人の記事を見つけて「自分にもできるかな!」なんて思い挑戦してみたけど理解できず挫折・・・orz
それでもWEBサイトを作りたかったので制作会社に発注してみようと思い立った。
ただのキャラクターのデータベースだけではつまらないのでコミュニティ要素なども付けて
ネットで見つけた制作会社に見積もってもらうと下記のようになった。
合計1,483,125円
以前、SNS「ウェブカレ」のサイト制作費が1千万円で安く仕上がった(潰れたけど・・・)という話があったから
なんとなく3~400万くらいかかるんじゃないかなと不安だったんだけど予想より安い見積もりだったので、
このくらいの金額ならなんとか出せる!ということで制作してもらうことにしました。
本当は何社かに見積もってもらって比較しようと思ったんだけど面倒だったのでそのまま制作をお願いすることにした。
(最初はもう少し高かったけど機能の簡略化とオープンソースのライブラリを使用してもらう事で費用を抑えてもらった。)
去年の10月の頭くらいから打ち合わせを始めて第1フェーズでワイヤーフレーム作成と仕様策定をして第2フェーズのhtml、システム開発に
移ったのは中旬だったかな?その段階で前金で4割の580,650円を支払いました。
制作会社には3回くらい打ち合せに行って、あとはメールでやり取りしていました。
当初は12月中にリリースを予定してたんだけど、なんだかんだで伸びてあらかた出来上がったのが2月の中旬くらい。
ちなみに僕はヒッキー(どれくらいヒッキーかというと外出は3日に1回くらい)なので制作してもらっている間は
↓作ったサイト
サーバはさくらのVPS 8Gを使用。CentOS5の64bit
設定した項目は以下のとおり
HDDが3つあって、普通に/var/wwwにコンテンツを入れていくとHDDが溢れそうだったので、容量の大きいものを使うように工夫したりなど。
メモリもそこそこ積んであるサーバなので、mysql、php、apcに多めにメモリを割り当てる設定をした。
本当はmyISMやInnoDBエンジンでLIKE "%word%"のようなクエリーを投げて十分なパフォーマンスが出ればいいんですけどね。
それはムリなので、全文検索エンジンとしてgroongaを使用。
groongaを使用するために先にインストールしたのはこんな感じ
この時点でいざ、groonga!と思ってgroongaをインストールしようとすると競合を起こして入らない。
epel、remiレポジトリからインストールしてあったmysqlと衝突してたのでyum remove "mysql*"で
一旦mysqlを消して、groongaレポジトリからmysqlとgroongaをインストール。
するとgroongaは入ったものの、今度はphpから使おうとしてもphp-mysqlパッケージが入らない。
あちらを立てればこちらが立たぬ状態で本当にこまった。
どうしようもないので、やりたくないけどyum-downloadonlyを使ってパッケージに含まれる設定やら、soファイルなどを直接とってきて入れた。
mysql.so、mysqli.so、pdo_mysql.soを/usr/lib64/php/modules/にコピーしたり、設定をコピーしたり、少しずついじりながら、なんとか動いてくれた。
状態としてはmysqlとgroongaはgroongaレポジトリから、phpと本来php-mysqlパッケージでインストールされるmysql.soは手動で置いたことになる。
シェルから直接mysqlにログインするときはgroongaレポジトリのやつを、phpからmysqlを呼ぶときは手動で置いたmysql.soを使うことになっている。
ちょっと心境的にしんどい。別の方法があったかもしれないけど、調べても分からず結局1日くらいかかった。
アクセスは、サイト全体(トータル)、サイト全体(当日分)、各コンテンツ日別、各コンテンツ週間、各コンテンツトータルのアクセスをとるようにしています。
検討した候補はmemcaced、apc、mysql、redis、fileあたりなんですが、
fileは候補にあがったものの、メンドウ、、どうせなら楽な既製品がいい。と思って候補から外しました。
残るはmysqlかredisだけど、redisが高速って聞いていたのでredisにしてみました。
最初全部redisに入れて、集計した結果をmysqlに入れるつもりでしたが、週間ランキングなどはINSERT INTO .. DUPLICATE ONを使って、
アクセスした週の月曜日00:00:00のタイムスタンプとコンテンツIDをキーにしたレコードを作ればそのまま週間ランキングになるなー。と思ってmysqlを使っています。
コンテンツのトータルアクセス数もコンテンツのレコードにpvという項目をつくってUPDATE table SET pv=pv+1 WHERE id = ? のようにしました。
最初難しく考えていたけど、こうすることによって大分楽になったなーといった感じ。
全文検索エンジンや対話検索、ここにこのリンクがあればなぁ。。という所に何とかしてリンクを作るのが本当に大変だった。
使い勝手を良くするために、ここにこの機能をなど、さくっと思いつくのは簡単でもそれを実現するために、あーでもない、こーでもないと
DB・プログラムとにらめっこしながら「あ!こうすればできる!でもそうすると今度はこっちが・・・」みたいなのがあったりでとても大変だった。
発注側が項目の意味がわからないうちは、発注しないほうがいい。
運よく良心的なシステム会社に当たればいいけど、システム会社のフリしたマージンだけ抜く会社に当たると悲惨。吹っかけられて、高い金払ったのにスカスカでバグの多いシステムが出来上がる。
もし他に比べてあまりにも安すぎる場合も注意したほうがいい。プログラムの塊渡されて、パソコンにインストールするところぐらいまではやってくれるかもしれないけど、ドメインとかSSLは別だったり、機械と基本アプリは発注側で用意しろって言われるかもしれない。
あとセキュリティ周りの知識もないと、その項目の中にセキュリティ系の金額は含まれているかどうかの質問もできない。
失敗したくなければ、システム開発のこととかWEBのこととか有る程度わかるようになるぐらいまでは勉強するしかない。それをしたくないなら早めに「担当者」は降りた方がいい。
うちの団体で、インターネットで講習会を申し込めるようなシステムを作ることになって、ネットで調べた何社かに見積りを頼んだら、出てきた金額が業者によって25万~400万で出てきた。
見積りの項目も各社バラバラだしそれぞれの意味も、なにがなんだか素人の俺にはさっぱりわからない。
年間に1万人ぐらいが100会場でやる研修の申込みを受付けられるようにするってだけの機能なのになんで各社こんなにもバラバラなのかが理解不能。
若いってだけでITに詳しいと思われて、担当にあてがわれて、25万~400万の間で業者決める手掛かりが全くない状態でどうすればいいんだ?(それでもし業者選びに失敗したらやっぱり俺のせいなのかな。。)
私はIT系専門学校に通っている。わかりやすく言うとプログラマ養成校だ。これからそういう学校に行こうと思ってる奴、考えている奴らに、長所短所をシェアしようと思う。
・良いところ
基本情報がとれること。あえてあげるならこれであろう。今のシステム開発業界はリーマンショック以来の冷え込みがつづいている。昔ならプログラム未経験でもホイホイやとってくれたものが、今ではベテランでもどんどん切られる。そういう時代である。私も面接時に基本情報をもっていることが評価された。大学などでは基本的に資格取得のための授業をしてくれない。そのため独学でやる必要がある。もちろん独学で取れない資格ではないし、独学がのぞましい。しかしこれは全ての情報系検定の基礎になるものである。できるならば誰かに教えてもらうのが好ましいと思う。私は今はプロジェクトマネージャ試験という、試験の勉強をしている。これは情報系国家試験の中で”Level4”に区分される高度試験である。(ちなみに基本情報はLevel2)実はこのプロマネ試験、基本を取っていれば以外と独学でいけるのだ。これは他のLevel4試験にも言えることだと思う。基本的な知識は基本情報で勉強し、高度試験ではそれの読解、論述が出題されるイメージだ。高度試験取得のためにも、基本情報はしっかりと教師に教わったほうがよいと私は考える。
・悪いところ
企業側からの専門学校の評価が低い。これにつきる。正直そのへんの大学よりは授業内容も深く、仕事に活かしやすい。しかし、最低学歴として大卒を設定している企業が非常に多い。とくに中堅・大手にはその色が強い。そのため、それまでITとは無縁だった文系大学生にも追い抜かれてしまうのだ。ただこれについては本人のやる気しだいだといえる。yahooやドワンゴなどの一部の企業は専門からでも採用している。そういった大手を狙うならば、入学したその日からそれに向けて努力すべきである。情報知識などは正直ほどほど。求められるのは圧倒的自主性とコミュ力。例えば自分でサーバつくっちゃったよ~とか、クラスメイト巻き込んでサイトたちあげたったなど、クリエイティブな活動が評価される。
結論から言うと、純粋にプログラマを目指したいならこれほどよい教育環境はないだろう。短期間で資格習得することができ、実務に近い授業を受けられる。しかし大企業などを目指したいなら専門学校に来るべきではない。3流でも4流でもいいから大学に行くべきである。そして目標が曖昧な奴な絶対に来ないほうがいい。そのへんの専門とは違い、ほとんどの授業が座学である。それに耐え切れずに挫折したクラスメイトも普通にいる。適当に遊びたいならファッション系か3流大学にいくべきだ。この記事が、未来ある若者のためにならんことを
DeNAがついに新卒にも1000万円出しますよと言い出しましたね。
http://dena.jp/recruit/students/recruitinginfo/Engineer2012.html
業界に片足突っ込んでる自分ですが、この状況に良し悪しいう気は毛頭ないです。
ただ、ちょっと思ったこと。
これってもうレイヤーは違えど、武力紛争。
とにかく名うての傭兵たちを、高額報酬で雇い、企業間の戦争へと向かわせる。
キャッシュが潤沢にあって、とにかく勝利にこだわる事業戦略という意味では、悪くないとは思います。
問題1:傭兵は帰属しない。
傭兵を高値で雇っても、傭兵は部隊や国家に対する帰属意識が低く、報酬次第で敵側に寝返ることはざら。
そして、「自分がより強くなること」=「新しい技術を追求すること」が興味関心の中心として、そのドグマで動いている方も多いです。
そのプライオリティで動くとすれば、組織への帰属意識というのはどこかで限界が来るでしょう。
IT業界の巨人たちが、雇った傭兵たちをどう、「愛国者」にしていくかは、気になるところ。
会社と個人とのエンゲージメントがない状態で、報酬だけをフックにし続けるのであれば、きっとどこかで入社した新卒エンジニアたちは、
得たキャッシュを元手に、起業してスタートアップベンチャーの世界に飛び込んでいってしまうんじゃないか、そう思うわけです。
事実、最近のIT企業の新卒エンジニアは、内定期間中にそこの会社で知り合った同期入社のエンジニアと事業を興して、
そのまま入社せずに独立してベンチャーつくっちゃう、なんてこともあるようですし、
他にも、会社で大きなプロジェクト成功させて表彰された新卒1〜2年目の子が、
(ちなみに、その人は起業はしたものの、仕事がまったくとれず、相当苦労をされているようです…)
問題2:傭兵たちのキャリアと人生設計が狂ってしまうかもしれない。
さらに言えば、異常に年収が高騰してしまった傭兵たちは、次のキャリアをどうデザインしていくんだろうと、思うわけです。
たぶん、今は業界としてものすごく市場価値が高く、どの会社にいっても引きてあまた。年収もかなり保証された素晴らしい時期です。
しかも、年収1000万円という報酬設定も、これはとても妥当な数字です。
なぜかというと、大体5〜10年経験したエンジニアが独立して、フリーランス、SOHOエンジニアとなると、だいたいその周辺の数字が年収としてとれるからです。
自分の腕一つでがんばれば年収1本ぐらいいける実力がありながらも、そこはリスキーと割りきって年収を保証してくれる会社に居たほうが、かなり心穏やかになるはずです。
ですので、20−30代でそうした人生を送れることは、とても安心ができるかと思います。
じゃあ、その後の40−50代になった時のエンジニアとしての人生設計はどうなのでしょうか?
正直、壮絶だと思いました。
某転職媒体やハローワークに応募してくる40−50代のエンジニアたちの現状の苦労を聞いているだけで心痛む。
2−30代のころ フリーランスエンジニアで仕事は山ほどきて、自分のサイトや開発アプリのライセンスなどで
年収(業務委託費総額)が1−2000万円を軽く超える優雅な人生を送ってきた人々が、今となっては仕事のルートも減り技術力も低下し、
年収維持のために転職活動を再開し、そして求める仕事が「CTOやシステム開発部長職」とか。
もう上げてしまった年収とプライドを落とすわけにはいかなくなります。
しかし、このご時世、かつ若いスタートアップ起業家が会社を作り、自らの手で開発をすすめる会社が増えてきた中で、
そうした方々が受け入れられる場所を見つけるのも難しくなっています。
CTO待遇で入ったとしても、会社のカルチャーが肌に合わず、すぐに辞めてしまうこともあるそうです。
「年収=自分の市場価値」 という設定をしてしまうと、後々キャリアデザイン・人生設計としては恐ろしいことになります。
「年収=自分の市場価値」として勘違いしたまま、ずっと過ごしていると、
いつか「自分の年齢 と 自分の市場価値が 反比例していく」リスクと必ず向き合わねばならなくなるからです。
「自分の市場価値 と 自分の年齢 が比例していき、それを年収に反映させる」という仕組みそのものを
自分の力で創りだしていかないと、誰しもいつか経験する人生のダウンサイドで痛い目を見るでしょう。
アップサイドでいい思いをしているときほど、それは見えにくくなりますし。
そんなことを思った日。