はてなキーワード: 駐在とは
せめてエルトゥールル号の件と100年後の恩返しの件を日本人ももっと知ろうぜ
俺も知らんかったから偉そうなことは言えん。
http://shuchi.php.co.jp/article/1325
そして両国の友情を考える際、日本人が決して忘れてはならない事件が、昭和60年 (1985)に起きています。イラン・イラク戦争下のテヘランからの日本人救出です。 イラン・イラク戦争は昭和55年(1980)に始まりましたが、昭和60年3月、イラクによる イランの都市空爆を契機に両国の都市攻撃が激化。イランの首都テヘランにもイラク空軍機が 襲来するなど、情勢は一気に緊迫化します。さらにイラクのフセイン大統領は、3月17日に 「48時間以降、イラン上空の航空機を、民間機であろうと無差別攻撃する」と宣言しました。 各国は大慌てで、自国民救出のための救援機を送ります。しかし日本の救援機は来ません。 自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機を送ることができず、日本航空は労組の反対も あって「航行安全の保証がない限り臨時便は出せない」という方針を打ち出したのです。現地 の日本人は八方手を尽くしますが、他国の航空会社はどこも自国民優先で、乗れる飛行機はほ とんどありません。 いよいよ刻限が迫り、現地邦人の誰もが絶望の淵に沈んだ時、手を差し伸べてくれたのがト ルコでした。トルコ航空機が危険をおして215名の日本人を救出してくれたのです。しかも、 当時、テヘランには600名を超えるトルコ人がいたにもかかわらず、日本人を優先して助けて くれました。 「なぜ、トルコが?」。日本人は皆、不思議に思いました。直接のきっかけは、1つは駐イ ラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏が、駐イラン日本大使の野村豊氏の懇願を受け、 本国に救援機派遣を要請してくれたこと。もう1つは当時、イスタンブールに駐在していた伊 藤忠商事の森永堯氏が、知己であったトルコのオザル首相に直接、救援を依頼したことでした。 しかし、それらがあったとはいえ、自国民より日本人を優先して救出するほどの決断を、な ぜトルコは下してくれたのでしょうか。その背景には、この救出劇から95年も前に起きた、あ る事件で結ばれた強い絆がありました。トルコの人々は、それを忘れずに日本人を助けに来て くれたのです。その事件こそ、エルトゥールル号遭難事件です。 明治23年(1890)9月16日夜半、台風の荒れ狂う和歌山県串本沖で、オスマン帝国(オス マン・トルコ)の軍艦エルトゥールル号が遭難。600名余の乗組員のうち、司令官オスマン・ パシャはじめ500名以上が死亡または行方不明という大惨事になります。 彼らは、明治20年(1886)に日本の小松宮彰仁親王がトルコのイスタンブールを訪問した ことへの答礼使節でした。東京で明治天皇に拝謁し、オスマン帝国の最高勲章を奉呈した帰路 に悲劇に見舞われたのです。 これに対し、事故現場の串本・紀伊大島の人々は、遭難者の救助に全力であたり、危険を冒 しながら69名を救出しました。当初トルコ人を収容した樫野地区は60戸はどの小さな集落で、 しかも裕福な暮らしではありませんでしたから、トルコ人の介抱は決して容易なことではあり ませんでした。しかし、なけなしの食料や衣類を惜しげもなく提供し、普段は正月にしか食べ ない白米を炊き出して食べさせ、さらに時を知らせる鶏もつぶして振る舞ったのです。 明治天皇も知らせを受けるや、政府を挙げての救援を命じ、トルコ人の生存者たちは手厚い 看護を受けた後、日本海軍の軍艦で翌年1月2日にイスタンブールに帰還しました。また、こ の事件が報道されると、日本全国でトルコへの義捐金を募る動きが澎湃として沸き起こり、現 在の貨幣価値で1億円ともいわれる金額がトルコへ届けられたのです。 この日本人の真撃な気持ちはトルコに伝わり、トルコで親日感情が大きく高まりました。こ れが後の、イラン・イラク戦争への対応などの一連の動きにつながっていくことになったので す。
まともに英語もできないのに海外駐在になって一年。日本人の労働生産性が悪いということを実感。
・アイディア勝負。実行は他人にやらせる。(実務作業負担を最小限とする)
・上記と絡んで、交渉上手。人を使うのがうまい。意外に人に使われるのもうまく、最小限のリソースで依頼をこなす(不必要なことはやらない)。
・専門知識は浅く広く。難しいことは専門家(他人)にやらせる。実は、意外に文章が書けなかったり、実務が苦手である場合も多い。
・プライベートも充実している。少数のワーカーホリックは休みしらずだが、他人は巻き込まない。
・仕事の回転が速いのは同じ。決断・あきらめは他人に任せる。(責任を逃れるのがうまい)
・段取り勝負。事前調査、他人との事前合意が大事。このような段取りをいかにうまくこなすかが大事。
・基本的に八方美人。人を同調させるのがうまい。他人から同調を求められた場合、簡単には認めず、仕事を増やさない。依頼を受けたらトコトンやる。言われてないことまでやる。
・ケースバイケースだが、専門知識も自らこなせるほうが「できるやつ」と見なされる。実務もそつなくこなせる。
・プライベートも充実しているが、忙しいときは、徹夜だろうが休日返上だろうが、業務が終わるまで止めない。
・仕事の回転は遅いが、往々にして「自分自身が仕事ができない」ということをなんとなく認識している(昇格していかない事実を把握してるから)。判断しない(ボスや他人に言われるまで動かない)。
・仕事ができる人の引き立て役になっている。無理しない。自己主張しない。ジョブディスクリプションの範疇しか仕事しない。
・ボスとのコネクションのみ大事にする(捨てられたくないから)。横のつながりは薄い。
・仕事を守るために、自身にしかできない領域を確保している場合が多い。意外に専門知識を持っているケースも多い。実は大した知識でない場合が多いですが。。これがないと、会社から捨てられちゃう。
・プライベートは充実している。よく休む。
・仕事の回転は遅いのは認識しているが、「自分自身は頑張ってるんだ」という意識で、周りに迷惑かけているのを棚上げしている。判断せずに、自らの案件がいつまでも決着しない。
・同調主義社会の中で、なんでもかんでも請け負ってしまう。余計な仕事を増やして空回りする。
・上司だけでなく、どんな人のいうことも聞いてしまう。断れない。メールの件数だけはやたらと多い。直接交渉を避けたいから。メールを打つとき、やたらとCcを入れる。自ら判断できないから。
・往々にして「仕事ができる日本人」に専門知識すら負けている。仕方がないから、データ/マニュアル管理など、パートさんでも出来そうなことに活路を見出そうとする。
・遅くまで仕事をする。夜間、土日に緊急性の低いメールを発信する。ただし、仕事が好きというわけではない。
[まとめ]
何が言いたいかというと、欧米は、仕事ができる人・仕事ができない人のどちらが欠けても業務が成り立ちません。仕事ができる人がマネージメントをやって、できない人が実務をこなすという棲み分けがはっきりしているから。要するに、仕事ができない人をうまく使っているのが欧米。
日本の場合は、ワーカーホリックが多いこともあって、仕事ができる人だけでも何とか回していける。雑務をこなす人は必要だろうけど、日本のマネージャーは実務をこなすことも多いし。
ただ、欧米であれ、日本であれ、真に仕事ができる人は、一握りの才能ある人だけであって、99%は凡人。その辺をよくわきまえているのが、欧米社会のような気がします。
一方の日本は、「正社員」=「仕事ができる人」と見なして、仕事をさせなければならないような風潮があるような気がします。基本的には終身雇用だし、正社員は何とか役に立たせたいというのが日本のスタイル。仕事ができない正社員にも、将来的になマネージメント/あるいはクリエイティブな仕事をしてほしい。それが会社の願い。
こうなると、俗にいうブラック企業のように、「できない人」には、とことん残業させるなりして仕事をしてもらうしかないという考え方になる。「何とか、役に立ってくれ!」という会社の切なる思いが詰まってるのでしょうが、どう考えても効率という面では弊害になっている。
派遣やパートの問題についても同じで、派遣・パートという枠を作ることで、システム的に、実務を任せれるようにしているが、どう考えても、こんな不安定な立ち位置で、業務に専念できるわけないよね。効率が悪くなる一方。
このような日本の環境の中で、僕らが気を付けなくてはいけないのは、「日本の仕事ができない人」に陥らないようにすることだと思います。
よく売れているビジネス本なんかを見ると、いかにして、日本の「できる人」になるかということが書いてありますが、そんなことが実現できるのはほんの一握りの人だけ。
自分の身の程をわきまえて、欧米の「できない人」たちのように、必死にならずに生きていくことも大事だと思います。それも幸せの一つの形だと思います。
たぶん母がその変なやつだったのは間違いないと思う。一応母も実家はそれなりだったので、大学も出ているし、日本舞踊だのお琴だのもやらされてきたひと。まあ頭も悪くないし、なんかやらせたら何となくなんでもできる。でも、働きたくない。人生の最終目標「医者と結婚する」だったらしく、その為に頑張ってきたらしい。だから結婚したらどうでもよくなっちゃったのかも。
ちなみにうちにはいつも看護婦さんがいたので「こども産んだら産みっぱなしで、毎日体重体温はかってくれるから楽だったわ」って言っていたので、子育ても丸投げだったらしい。若いお手伝いさんがいつも遊んでくれた。
生活保護云々言った先生は外から来た若い新しい人だったので、うちのことを知らなかったのだろうと思う。実際、うちの名字はうちの家系以外にほとんどいなくて、地元がそこのひとなら名字を聞いたら「何科の?」って聞いてくる。だからわたしは人前で名字を名乗るのが嫌だった。
父の死後もお手伝いさんを使い続けていたことについて私はすごく不安だった。うちお金ないのに、って。ただ、自分たちは貧乏になった! って思い込んでいたけれど、それまで自分たちが『お金持ち」という意識はこれっぽっちもなかった。大人になってようやく、もしかして父が生きていた頃はお金持ちだったのか、と知ったくらい。たぶん親戚はもっとお金持ちっぽく見えていたから(うちは車一台しかないけれど、おじさんちは船もある、みたいな)、お金持ちとは思ってなかったんじゃないかと。こどもの頃周りの大人に「あなたはお金持ち云々」言われた記憶はない。周りの大人って言っても親戚筋とか同じ世界の人ばっかりだったし、こどもと大人はあんまり交わらない雰囲気の家系だった。
ゴミの分別については、燃えるゴミと燃えないゴミをわけるだけ、のも適当だった。分けてたかなぁ? 今となって思うのは、母が自分で地域のゴミ集積所にゴミをだしにいくのが嫌だったんじゃないかと思う。プライドがゆるさない、みたいな。10年くらい前に「ゴミの分別できるようになったのよ!」ってすごく嬉しそうに報告してきたことがあるので、たぶんそのときはじめてゴミ集積所を利用したんだと思う。
商社の駐在員は幼なじみ。幼なじみは海外生まれで、彼女が幼稚園に入る頃にきた。たぶんお母さんの実家にこどもと奥さんを戻して、旦那さんは駐在してたんじゃないかなー、と思う。詳しくは聞いたことがないけど。あと高校時代の友達のお父さんが海外にいるとかで、それがなんでかわかっていなかったけれど、そこも同じパターンみたいだった。奥さんとこどもを奥さんの実家に、みたいな。
ちなみに母の姉はすごくきちんとした人で、頭もいい。母の妹はまたちょっと変わった人。一体祖父と祖母はどんな教育をしたんだろうと、今すごく疑問に思う。あんなにちゃんとした人作れるのに、ひとり目でもういいやって思っちゃったのだろうか。
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
話題になっているので読んでみたが、いろいろと衝撃だった。
http://anond.hatelabo.jp/20130813213536
それからこれを読んで、ああ、なんか近いなと思った。
この手の話題は、こどもを持った今、ますます考えさせられる。自分がこどもに与えている環境は、一体どういったものなのか。
家庭で話題になること、親のすること、家にあるもの、すべてがこどもに対する環境である。こどもの世界はとても狭く、そこから受ける影響は計り知れない。それを気にしているかいないか、というのはとても重要なことだと、今本当に思う。
私 自身は、超とは言わないがまぁ高学歴一家に産まれた。いつからか知らないが、医者の家系だ。父の兄弟はみんな医者もしくは医者の妻であり、妻たちはたいて い薬剤師だ。母も大卒の高校教員だった(結婚するまでの数年だけ)。父方のいとこたちは当然、みんな医者で、女であれば医者との見合い話が転がり込んでく る。医者にならず医者の妻にもならなかったのは私と兄だけだ。
母方のいとこたちは医者プレッシャーは特にないが、大学を出て一流企業に勤めたり公務員になったりする人から、引きこもりまで様々だが、親の世代はみんな女でも大卒だ。当時にしたら高学歴ファミリーだと思う。
こんな家系に産まれたので、当然私と兄にも医者になれプレッシャーはあった。プレッシャーというより、医者以外の職業をほとんど知らなかった。だから『なり たい』という気持ち以前に「大きくなったらお医者さんになるんだろう」くらいに思っていた。親戚のおじさんおばさんにも「何科がいいのかな? 皮膚科なん て楽って言うわよ」とか「お医者さんの奥さんになるのね」とか、もうそれ以外の選択肢は全くみんな頭の中になかった。
私の産まれた街は田舎 なので、私がこどもだった30年くらい前には自営業以外はほとんどいなかった。そもそも、いまでいうサラリーマン的な人が働く職場はなかった(と思う。少 なくとも当時の私には見えていなかった)。何屋さんのなんとかちゃん、みたいな感じで、家業とその家の人が結びついていた。街中の友人の実家はみんな何か 家業をしているし、ちょっと離れたところはみんな農家だ。たまにお父さんが外国にいて帰ってこない家があったが、それが「商社の駐在員」である、というと は、これっぽっちも知らなかったし、知っていたとしてもきっと「しょうしゃのちゅうざいいん」のしごとが具体的にはわからなかっただろうと思う。お父さんがテキ屋さんで「こようそくしんじゅうたく」に住んでいる友達もいたが、その子と遊ぶなと言われる意味が分からなかった(のでもうしょっちゅう遊んでいた)。
今 大人といわれる年齢になって、いろんな人と出会い、ようやく世界にはいろんな仕事があり、いろんなルートでそうなれる、ということがわかってきたが、こど もの頃の私には「医学部にいって医者になる」「法学部へいって弁護士になる」「薬学部へいって薬剤師になる」「家を継いで○○屋になる」ほかは、あまりピ ンと来なかった。それ以外の世界との接点があまりにも少なかった。
今話題の「低学歴の世界」と同じく、おそらくは「高学歴の世界」の住人だったが、それ以外の世界について知る機会もなければ教えてくれる人もいなかった。
人 生の転機は小学校のとき。父が死んだ。父は開業医だった。残された母は、親業も家事もとことん 苦手だった。家の掃除も出来ないので、父の死後もずっとお手伝いさんがいた。私の世話もお手伝いさんの仕事だった。ゴミの分別も出来ないので、全部まとめ てゴミ袋にいれ、ずっと自宅に清掃業者がゴミをとりにきていた(有料)。道ばたにあるゴミ収集所が無料で使える市のサービスだと知ったのは高校生くらいの ことじゃないかと思う。
それでも私は自分の家は超貧乏だと思っていた。なぜならお金を稼いでくる人が死んでしまったのに、母が無職のままだ からだ。公立の学校もお金がかかっていると思っていた。保険金とか、遺族年金とか、寡婦年金とか、全然知らなかった。学校ではうちが母子家庭だと知った先生に「生活保護を受けたらどうか」と言われて(そのあと「お父さんはなにしてたの」「医者です」「あ、それは失礼した」というやり取りがあった。)そ れを母に言うと、うちは生活保護は受けられない、と言われた。中学から新聞配達のバイトをしようと、新聞屋を回ったが、何処もやらせてくれなかった。高校 に入ってすぐバイトをはじめた。いつも飲食店で働き、食費を浮かせた。そして、父の残したわずかばかりのお金を食い尽くすだけのニート母にものすごい嫌悪 感を抱いていた。あるいは借金もあるかもしれないと思ってびくびくしていたし。家族旅行は父が生きていた頃もお正月に近場の温泉に一泊するくらいだったし(開業医だったので学会などの出張時に代理の先生が頼めるときしか家から離れられなかったらしい)、父が死んでからはそんなことはしたことがない。仲の良い友人たちから家族旅行の話を聞いたり、留学した友人たちを見て、いいなぁ、お金がある家は、と思っていた。
私自身は、高校は田舎なりの公立の進学校に進学したものの(田舎なので公立のほうがレベルが高く、私立は滑り止めという扱 いだった)、大学には行かなかった。家は超貧乏だと信じ込んでいたので、国公立で年間80万円くらい、4年で300万円以上の学費、それに生活費。そんな お金なんてひねり出せないと思っていた。当時は、今だって毎日バイトしたって月に数万円しか稼げないのに、学費生活費を全部自分で稼ぐのは到底無理だと思ってい た。今となればなんと視野が狭かったんだろう、自分でリミットを決めてもったいない、と思うが、当時はそういう風には考えられなかった。母には「医者か弁 護士になるなら投資するがそうでないなら大学へ行く必要はない」と言われた。投資する気はない、と。「あんたはどうせ医者にはなれない」。母はよくそう いっていた。
投資ととらえるととてももっともなのだが、当事者かつ思春期の娘としては、これはとてもやる気を削がれた。彼女はこどもを投資物件ととらえており、さらに医者か弁護士以外は価値のない人間だと言っている。そして娘は投資対象として適切ではない、つまり価値がない。
こ どもが育つ上で一番大切なのは『無償の愛』を感じられるということらしいが、そういえば私に注がれる愛情はいつも有償だったなと、今になって思う。プロセ スをほめられることはなく、絵画で賞をもらっても、賞をもらった絵ではなく賞状をあがめられた。賞状だけ集めていれるファイルはあったが、その肝腎の絵を とっておく仕組みがなかった。学校の成績で上位何番以内に入るといくら、というのもあった。勉強はお金をもらう為のものだった。
こういうのも、環境の一部だ。
私はこういう環境から、自分は価値がない、というメッセージを受け取り続けてきたのだろうと思う。これは自分のこどもには絶対にしたくない。
と、話はずれてきたけれど。
まぁ、そんなわけで、私は高学歴一家の中の落ちこぼれである。ただ、落ちこぼれたと言っても、やはり「低学歴の世界」の話をブログで読むと衝撃だったけど。落ちこぼれたおかげでかどうか、いろんな人たちに会い、いろんな世界を知り、選択肢は沢山あるのだなぁ、というのを今になって感じで来た。高学歴の世界の住人たちとも付き合いがあるけれど、最初から高学歴の世界の住人だったひともいれば、そうでないひともいる。全くの低学歴ででも、高学歴の世界にすっとなじんでいる人もいる。本当にいろんな世界で育って、いろんなルートで、今そうなっている人がたくさんいる。
あのままあの世界にいたら、親戚友人知人は医者だらけで、自分も医者になっていたか医者と結婚していたのだろうと思う。そちらがよかったかどうかと言うと、どうもそうとは思えない。それは高学歴の世界が嫌だというのではなく、あまりにも選択肢が狭いためだ。
こ どもの頃は世界が本当に狭かった。職業は医者弁護士以外にも選択肢がたくさんあったし、医者弁護士になれないからと言って人生終わったわけで はない。高校は基本学区内で一番偏差値の高いところに行かないと行けないと思っていたし、学校の成績で平均値をとると馬鹿だと思っていた。大学はあんな親にお金を出してもらっていくなんて胸くそ悪すぎ る、そもそもそんなお金ないし、と思っていた。でも、本当は高校なんていくらでもあるし、世界には大学まで無料で行ける国も沢山あるんだ。世界は広く、選 択肢はとても多い。
選択肢が沢山あるのだということを、こどものうちにもっと知っていたかったと思う。本当に。高学歴の世界の住人たちのなかにもほかにもきっと他の選択肢を現実的に受け止められなくて、自分の世界に適応できずに苦しんでいる人もいるに違いない。私みたいに落ちこぼれてしまえばあきらめもつくけれど、そう出来ないと自分で命を落としたりする。
高学歴であれ低学歴であれ、選択肢があることを知っているか否かは大きいと思う。こどもにとっては親とその親の作り出す環境がすべてなんだ。私は高学歴の世界の住人じゃなくなっちゃったけど、いろんな選択肢があることは伝えたい。そういうことも含めて、大人たちはもっとその環境に気を配るべきなんだろうな、自戒を込めて。
深層心理でうっすらと日本人が一番だみたいなこと思ってる感じがする。
自国に誇りを持つのとは違う感じ。なんとなく外国人を見下してるような。
周りで研修とか駐在でそういう国に行った人たちが良く言うのが、
「彼ら定時になったら仕事をほったらかして帰る」
みたいな文句ばっかり。
よその国にビジネスに行ったのなら、その国に住んでる人をリスペクトするべきだし、
日本のやり方に合わせたり比べたりして考えるのはやめたほうがいいと思う。
たぶんこういう人たちは海外で仕事してるときにも「こいつら使えね~」みたいなこと思ってるだろうし、
そういう人が行っても海外でのビジネスがうまくいくわけがない。
島国根性なのかね。
親が海外に駐在してるとかなんだからそれなりの援助があったんでしょ。
そもそも、バイトで月8万て、普通の大学生でも結構一杯いっぱいになると思うけど。
全く大学行ってないなら別として。
最近、子育てに関してのエントリーをよく見かけるので、レアケースだと思われる私の経験もシェアしておきたい。
私には6歳年上の妻がおり、結婚したのは19歳、第一子をもうけたのが20歳の時でした。(一浪)
教育学部に在籍。みんなが盛んに単位を取りまくっている間、私は細々と単位を取りました。
講義を休んだ理由として「子どもが生まれたので休みました」というとウソつけ!と一蹴されましたが、さほど気にしておりません。(ウソつけ。
大学1年から2年にかけては、とにかく子どもがよく熱を出す(6ヶ月から近くの保育園に預けた)し、
突発性発疹などにかかると一週間休むとか当たり前にあったのですが、何せ大学生です。簡単に休めます。
自主休講、同じ学科の友だちにノートを見せてもらう、先輩からの情報を得るといった技術を遺憾なく発揮することで、最低限の単位はそろえました。
2年間でそろえた単位は50単位程。128が卒業要件だったのでバッチリですね。ダメですね。
さすがに子どもが2歳を超えると、熱を出さなくなったり、出す兆候にこちらがすぐに気づいて先回りし予定立案ができたりするので、安定して大学に通えるようになります。
1・2年と出席が足りずに再履修になった講義も多く、勝手知ったる感じもありました。後輩たちとも仲良くなりました。
単位が足りないので、夜間の経済学部の講義を受けることもありましたが、ほとんど休みませんでした。
4年目の後期ですら私の時間割表はきちきちに入っておりましたが、無事に終えました。卒業です。
大学に通いながら子育てすることは不可能では無い。自由が利く分むしろ良いかも。働く頃には子どもは熱を出しづらくなっているので休むことはあまり無い。
見学すら行かず。
片手で足りるほどしか出てません。
当たり前だけど。文化祭に連れてきた時困った。おむつ交換する台とかない。
親は海外に駐在してた。妻の親は片道1時間以上。助けは得られない。
手取り30万超えてくる26歳。夜勤もしてたから。私はおかげで子どものこと一切私がみるスキルが身についた。
イクメンって言葉が流行りだしたとき、「なにこれ。いつものことなんだけど。」って思った位には子育てしてました。
バイトは月8万くらい。3年から授業に出るので奨学金に切り替え。ありがたかった。返済まだ10年続きます。ありがたいことです。
合格しなくても臨時任用として引く手あまたなので職には困らない。
と言うわけで、子育てが大変だと思ったことは無く。
確かに自由な時間はほぼないですが、40過ぎたら子どもも成人なのでそこから自由です。
就職1年目に第2子ができました。なにもかも分かりきってるので、素早い対応がとれます。
私がちゃんと稼ぐようになったので、奥さんもパートになれ、何かあったら奥さんが休めるようになりました。(トータルの収入は減りましたが
と言うわけで、大学在学中に子育てするとこうなるというケースでした。
朝に書いたので淡々とした語り口になっておりますが、もうちょっと山あり谷ありではありました。
はてブのコメントや、トラックバックのいくつかにお答えする形で追記したいと思います。
浮かれておりますので、もしかしたら少し淡々とした語り口から外れているかも知れません。ご容赦ください。
ブログあるのですが、iPhoneネタばっかり書いているか、教育に関して書いているので、書く場所が見当たらず増田に。これだけ注目されると逆に名乗り出づらいものですね。(Twitterではバラしてますが)
小学校1種と中学校2種(英語)です。なので2回の実習は小学校に4週間、中学校に2週間行きました。
家庭教師とマックを掛け持ちしてました。18-20時で家庭教師。小休憩をはさみ、22時から1時までマックといった感じです。(その頃働いていた店は12時まで営業だった。)
夜泣きをほとんどしないか、きっちり2時間おきに起きる、とってもいい子だったので、夜はちゃんと眠れました。
すみません、これは親のすねかじりました。ここまでは親も出してくれると言ってくれたので。ちなみに国立大でした。
6ヶ月から預けたのは無認可の所です。月5万。延長は15分単位でとられるので必死にお迎え行きました。
次年度より認可保育園へ。普通に審査通りましたね。私の収入が安すぎるので保育料もぐぐっと下がって2万8千円だった気がします。
教職についての考え方が多岐にわたるので、一概には言えないのですが、大学の講義で扱う教職科目よりも、就職してから経験したことや学んだことの方が圧倒的に大きいです。
というか、教育実習に行くまでは完全に机上の空論状態で聴講しますので、頭に入ってない。教育実習行ってからの内容はかなり血肉となったと思います。
ちょっと愚痴になりますが、今、子どもとの時間があるため休日に開かれる自主的な研修会に出られないのは非常に残念です。
その分本を読んだり、実践を積み重ねたりと、勉強はしているつもりではいますが…。やっぱり勉強したいっていうのは思います。若いうちしか勉強できない(先輩にストレートに聞けない)ので。
また、大学1年の時に友だちと起業したり(登記されると公務員になれないのでサブ役でしたが)、ゼミでお世話になった准教授が近々立ち上げるNPOの理事に誘われるくらいにはコネクションや経験はあると思ってます。
卒業論文は、FlashMediaServerを用いたオンラインポートフォリオの研究です。実際にLAMP+FMS環境を大学の教室内にセッティングし、小学生の子どもたちがどのようにポートフォリオを構築するのか研究しました。
その通りだと思います。私自身も思います。大学生には大学生にしかできないことがあります。
まずもって、就職一年目から「子を持つ親」として保護者と接することができるのはデカイです。
一生ものの友だちは高校時代にたくさんできました。今でも年1度はみんなで集まる企画が立ちます。
ビンゴです。笑
夜勤をすると、夜勤明けの午後+翌日休みという長い時間がとれるため、その間にバイト入れてました。どっちかが見ているときはどっちかが稼ぐというスタイルです。
さらに、産婦人科は夜勤中に出産があると手当がつきます。一晩で5万以上手当のみで稼いでくることもあり、パートと言えども手取りは20万超えます。何なんですか。
はい。そうでしたね。やっぱり先立つものが保障されているって大きいです。なのでレアケースです。
既定事項です。
禁則事項です。
長い追記まで読んでくださり、ありがとうございました。
20代の頃はいろんな人と知り合いになるべきだろうと思ってパーティーとか懇親会とか顔を出したりした。
旅先で飛行機が飛ばず、知らない人とご飯を食べたりもした。駐在ビジネスマンの話は面白かったな。
自分の知らない人が大半の場にあえて出て行って話をする機会をそれなりに作っていた。
20代の頃にあった未知を求める気持ちも失せてきた。興味がなくなってきた。
東京に出てきた頃は、未知のものを求める気持ちでいっぱいだったはずだけど。
この失せつつある気持ちを肯定していいものかどうか悩んでいる。
自分のまわりのできる人達、尊敬する人達はやはりある程度そういうバイタリティーを失っていない人が多いから。
なんか別に仕事につなげたいとか自分もそうなりたいとまでは思っていないが、失いつつある”未知なるものへの興味”をこのままなくしていいものか…
話がズレズレだけど一応付き合おう。
>普通は適切に対処という言葉は 泣き止ませる。という事を意味すると思うが?
適切に対処しようとしていると書いてあって、普通は「~しようとする」という言葉は試みを意味すると思うが?
成功するかどうかは別問題。そして気圧以外にも泣く要因なんていくらでもあるし特定は不可能。
>その場合社会的な合理性に見た話をしているのであって、根性論の話をしているのは増田。
>合理性というのは大多数が我慢したほうが合理的な場合は、少数を優遇して多数が我慢するのも合理性。
いや根性論持ちだしたのはお前だってw 俺はお前の文章を引用してそりゃ根性論だと指摘してるだけだよ。
ところで「少数」って母親たちのことかな?
少数全然優遇されてないじゃん。小さくなって必死で子どもあやさないと子連れで飛行機って肩身狭いじゃん。
「我慢するのはお前だ」っていうゲームにすると誰も得しないから、元増田みたいな案があってもいいのにっていうのが元々の話だったんだけど、お前はあくまで誰かが我慢すべきでそれは多数派が良いって感じなのね。
>子連れ専用とか隔離とか、わかるが、その程度の音を我慢出来ないなら、ビジネスクラスに乗れ。
>エコノミーとはそういうもんだ。
お前パーだな。
…なんてタイトルを付けておけば、嫌韓・嫌中の人も、関心はあるけどそこまで嫌いじゃないよみたいな人も食いつくだろうと思って。
で、表題の件ですが。
端的に言って、中国人・韓国人という人種が生まれついての悪人であるわけはない。
彼らの民度が低いのも、彼らが日本を憎むのも、彼らが幸福を妬むのも、全ては政府とその教育政策に起因しています。
なので、戦時の社会は非常に結束力が固くなり、一見安定した社会が形成されます。
もちろん、みなさん知ってのとおり、これは見せかけの安定です。ひとたび戦争に疑問を抱くようなことがあれば、あっという間に社会からハミ出して、下手をすれば私刑に問われるでしょう。一度タガが外れると、あとは崖を真っ逆さま。安定は失われ、内部崩壊しかねません。
一方平時はというと、どうしても敵が必要なあまり、無理やり作り出してしまいます。
それは同胞の犯罪者であったり、諸外国であったり、はてはエコだの原発だの、答えの無い問題に対する意見の食い違う人だったり。無理やり作り出した敵ですから、不毛なことこの上ありません。
彼らは自身が生きていくために、私たちを敵に仕立て上げています。
流れから行けば、彼らの敵は日本ではなくアメリカであって然るべきです。
が、アメリカは強大になりすぎた。とても楯突くことができません。
そこで、時代をちょっと遡ってW2Wをネタとして仕込んできました。
これらの事実があった、なかったという話は、ここでは問題ではありません。
実害を被っている方もいらっしゃいます。
これは、(少なくともその方面に関してだけで言えば)日本の教育が悪くなかったということでしょう。教育問題に関しては他にも問題が山積みですので、一概に全て良しとは言えないのが残念ですが。
つまり、今私たちが目標とすべきは、中国人・韓国人を根絶やしにすることではありません。
それではチベットやウィグルに対して中国人が行った蛮行と同じです。
そうではなく、彼らを良い中国人、善良な韓国人として育てあげることだと思います。
そのためにどうするか。
まーこれは正直言ってわかりません。
もしかしたら本当に、まず一度大人世代を根絶やしにしてからやり直すしかないのかもしれませんが。実際問題として、教育が悪いのであれば、すでにその教育を受けて育ってしまった世代はどうしようもありません。日本でも、団塊世代のマナーの悪さは筆舌に尽くしがたいほどです。あれも教育のタマモノですよね。
まず出来る事として、朝鮮学校みたいな施設でしっかりした日本教育を受けさせてあげるというのはどうでしょう。挑戦学校の設立目的は、いずれ本国に帰化する際に困らないようなハングル教育を受けさせることだそうです。これでは意味が無い。
中国・韓国に日本文科省管轄の学舎を作り、より事実に近い歴史を教え、世界に通用する人材を育てるのです。
どうせODAで学校施設に対しても多額の援助をしているのなら、初めから日本が管轄した方が有益です。
中国に駐在している友人によると、徹底した反日教育がありながら尚、日本への憧れというものは根強いそうです。であるならば、日本教育が受け入れられる余地も充分にあるのではないでしょうか。
こんな時期にこんな事を書いてもなかなか実現はしないでしょうが…ちょっとした思いつきですので、さらりと読んでいただければ。
※敢えて上から目線の発言になっているのは、右寄りな方たちの耳に入りやすくするためです。彼らの耳の穴は処女のようにとても頑なで、とても小さいのです。ご了承ください。
村役場のホームページをアメーバピグに全面移行してからもう2年になる。
日本初のアメーバピグ自治体利用で、なおかつ従来のホームページを廃止しての全面移行ということで、大きな話題になったのは記憶に新しい。
地元のテレビや新聞、ネットメディアでも大きく取り上げられて、村長は全国からの視察対応や講演に引っ張りだこ。
それまでは村の名物といえば、すっかりさびれた温泉と、もぐらレースしかなかったんだが、今では「アメーバピグ村」として有名になった。
批判的な意見が多かったが、議論の大部分は村の外で行われていて、多くの村民にとっては、いい悪いの前に「関係ない話」だった。
周りに聞いても、アメーバピグはもちろん、村のホームページも見る必要がない生活をなのだから当然だろう。
村長は、アメーバピグの共有性と双方向性が、村民との政策議論を行う上では必要不可欠だと言ってたけど、村の中では、駐在さんのバイクがヤマハからホンダに代わった事の方が大ニュースだったかな。
東京の回転寿司チェーンを指定管理者にして、水族館は年中無休に。
毎日たくさんの鮮魚を扱っているノウハウを生かし、館内には世界最長の寿司レーンを作り、魚を見ながら飲み食いできる水族館にする計画だ。
水族館の件も、村の外では問題点が指摘されていたが、村民で自分の問題として考えているのは寿司屋の源さんぐらいだった。
村役場の「おさかな大好き課」に泣きついたそうだが、「既得権益には屈しない。企業努力で頑張ってくれ。」と門前払いされたと元気がなかったな。
指摘された問題点として、「回転寿司屋を指定管理者に指定した経緯が不透明」「ポイントカードに蓄積される注文履歴の取り扱いは問題ないのか」などが指摘されたが、村長は「魚業界の既得権益に切り込む」「荒唐無稽」と繰り返すばかり。
「大体、深海魚なんて面白く無いんですよ。人気のある魚を揃えないと」と鼻息荒かった。
村民の多くは計画そのものを知らないし、計画を知っていても回転寿司を見たことがない人ばかりで良し悪しも判断できない。結局議会はすんなり通過して、今年の春には巨大な回転寿司屋がオープンした。
最初は物珍しさから客も多かったが、今では源さんの店のほうが賑わっているかな。
アメーバピグ村役場も、回転寿司水族館も、村民にはほとんどメリットがない話だった。
村長はいろいろ派手なことをやってきたが、それで村民が得することはほとんどなかったが、逆になにかデメリットがあったかといえばそうでもなかったので、村民の生活とはかけ離れたことをやっているイメージだった。
その仕組みはこうだ。
(1)村役場で奇抜な施策を実施する。(ただし、アメーバピグ化など奇抜だが村民に大きな不利益がないもの)
(2)賛否両論の議論が盛り上がり、全国的に村が話題になる。(村長自ら議論に参加して燃料を投下しさらに炎上させる)
つまり、「村役場で奇抜な事をやって、それを視察にきた自治体職員や議員が村にお金を落としていく」という、「地方自治体版炎上マーケティング」を確立したわけだ。
アメーバピグ村役場も回転寿司水族館も、炎上マーケティングの燃料にすぎないというわけだ。
もともと村の経済は温泉旅館に依存していたから、温泉旅館に客が入れば村が活性化する仕組みになっている。
しかし、さびれた温泉旅館に人を呼ぼうとすると、宣伝費用や設備投資が必要になるし、ライバルとなる温泉地も多い上に季節変動もある。
「地方自治体版炎上マーケティング」であれば、設備投資なし、季節変動関係無しで安定的に人を集めることができる。
仮に失敗したところで、ホームページや水族館なら村民が大きな不利益を被ることもないから、支持基盤から突き上げられるリスクも少ない。
巧みな「地方自治体版炎上マーケティング」のおかげで、村役場には視察の名のもとに全国から自治体職員や議員が押し寄せ、温泉旅館は毎日満室。
村の温泉に客が戻って、経済が活性化されたとなれば、今回の選挙で村長が再選されたのは当然の話ということになる。
いいことばかりのようだが、大きな問題点がある。
それは、「他の自治体住民に迷惑をかけることで成り立っている」ということだ。
自治体職員は業務として、議員は政務調査として、村にやって来て、温泉に泊まって帰っていくわけで、その金は税金だ。
つまり、全国の市や町の税金を「地方自治体版炎上マーケティング」によって自分の村に集めているのだ。
また、視察に来ても、ほとんどは自分の市や町では到底実現不可能だということを確認し、温泉につかって帰っていくんだが、たまに「地方自治体版炎上マーケティング」を真に受けてしまい、市のホームページをアメーバピグに全面移行してしまう所が出てきてしまう。
この村では誰も村役場のホームページを見てなかったから誰も困らなかったが、人口数万人の市になるとそうはいかない。そこの市民には随分苦労をかけていることだろう。
さて、無事再選を果たした村長はこれからも「地方自治体版炎上マーケティング」を加速して、全国からさらに金を集めていく。
全国の皆さんは、自分の自治体が巧妙な「地方自治体版炎上マーケティング」に引っかかって、大事な税金を吸い取られていないか、十分にチェックする必要がある。
だれも「自分は炎上マーケティングに引っかかっている」とは思っていないのが「炎上マーケティング」である。
アメーバピグ村役場や回転寿司水族館は、あなたにとって「遠くの知らない村の出来事」ではないのだ。
さまざまな中国の日系企業を訪問したが、内情はボロボロだと感じる。
もちろん全部ではない。
ユニクロや日本ではボロクソ言われているPanasonicなどはとても健闘している。
でも、雰囲気がどんよりした日系の方が多い。
なぜだろう?
このなぜ?に一部答えているのが下記の記事。
なぜ中国人は日系企業に就職したがらないのか 日本人が知らなかった「不人気の理由」
http://diamond.jp/articles/-/16098
上記は的を得ているものの、広告主との兼ね合いからダイレクトには書いてないが、
いろいろな業種の多くの中国人と話をしてみると、総じて言えば「駐在員」がすべての原因じゃないかと思う。
駐在員としてやってきた日本人は社内・社外でとても恵まれている。
社内においては、権力者としてやって来て絶対権を握り、お伺いを立てる日本との唯一のパイプになることが多い。
彼らが日本にいたころは絶対にやってなかっただろう分野にも口出しができるようになるので、ある種天皇みたいなもんだ。
社外では、現地の人からはちょっと想像つかないような豪華なマンションに住んで、外国人専用のVIP医療サービスを受けて、
外国人がたくさんいる国際学校や身内だらけの日本人学校に通い、日本との移動なども含めて全部会社が負担してくれる。
おまけに、彼ら自身に決裁権があったりするので、日式KTV(日本で言うところのキャバクラ)なども経費と称してバッサリ。
中国人は意外に思われるかもしれませんが、思ったことでも腹の中に留めることが多い。
上司ましてや外国人である彼らに面と向かって言うのは、その会社に見切りをつけた人かアウトローくらいだ。
だから、彼らは言わないが、上の記事を引用しながら言うならば以下のような感じじゃないだろうか。
ローカル企業に比べれば高いけれど、ほとんどの人材は大卒だったりする。
良くも悪くも過激な競争を勝ち抜いてきたのに、欧米系と比べてさほど高いわけじゃない。
おまけに、日本採用という超えられない壁があるから、努力してもどうしようもない。
何をどうすれば昇級するのかが不透明。
そもそもこういう制度を考えるトップや上層部が、コテコテのサラリーマンなので、
職種や業種を超えてステップアップするやり方なんて概念がないので存在しない。
加えて言えば…
中国人(台湾人や香港人も同じ)はキャリアを自分で作っていく。だから、会社に依存しない。
逆に言えばヨソで経験積んでるからみんなのバックグラウンドは異なる。
また、自分自身のキャリアのためにみんな仕事をするのである種わがままだ。
そういう人たちをまとめるには、トップが優秀であること、そして、ある種強権的にものごとを決める勇気があることが大切。
少なくとも私が前職(台湾系)ではそうだったし、それがうまく動いていた(まるで暴力団のようだったが)。
しかし、日本から来る駐在員は優秀だけれど、ただのサラリーマンで、キャリアの一環で中国に来ているだけに過ぎない。
だから、いつまで経ってもサラリーマン的にものごとをのんべんだらりと決めてしまう。
日本語はマイナー言語の最たるもんなので、こういうのを選択する人は言語が似ている朝鮮族か、
英語専攻から漏れた二級人材が多いので、上層部と相まって会社運営をグダグダにしてしまう。
駐在員が英語か現地語しゃべれて日本語を排除するだけでも相当人材の質は上がる。
数回会ったことがあるのですが、死んだ魚の目をしたような日本人社員とも会う。
日本人として期待されるものは、礼儀正しさや、まじめさ、仕事の正確さなどだと思う。
でも、これらの人にはそういうのがなかった。というか、廃人みたいで怖かったです。
こういう人が日本人だからという理由で(駐在員の日本採用だから…と同じ)、中国人スタッフより高かったら、
そんな彼らも結局駐在員から言わせると日本人ということで頼ってしまうのだろう。
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ここで仕事をしても何も得られない、給与も高くないと来れば優秀な人はさっさと見切りをつけるし、
かくして、日系に残っている人材はいまいちな人や残り物だらけになって、雰囲気がどんよりしている。
おまけに、トップ層は総じて日本語に囲まれ、外人な生活しているので中国のことなんてさっぱりわからない。
今は好景気な上に、ローカルの品質が悪すぎて、こんな状態でも売れ行きは伸びていくだろう。
寿司なら認定出来るんじゃね。
そういや、こんな記事があったな。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20091127/210774/
アメリカに住む友人で「SUSHIが好き」というひとに、なにがいちばん好きか? と聞いたときに「マグロ」「トロ」「イクラ」のような答えが返ってくることはまずありえません(ニューヨークやサンフランシスコ、ロサンゼルスなどの一部ではそうした「知日派」寿司ラバーが存在しますが、それは非常にわずかです)
はたまた筆者がシアトル、テキサス、シカゴ、デトロイト、ヒューストンの街角のSUSHIレストランにふらっと入り、筆者のようなアジアの顔の客がウェイターに「この店のSUSHIは何がお勧め?」と聞いても、答えは同じです。
1位は、圧倒的に「Spicy Tuna」です。さきほどのサイトのSUSHIメニューの下部Hand Rollsのリストを見てください。Spicy Tuna, Spicy Shrimp, Spicy Scallop, Spicy Yellowtailと「スパイシー」モノが最初に4つズラッと並びます。友人に尋ねても、ウェイターに尋ねても、「スパイシーツナ」を最初に言わないヤツはむしろSUSHIのモグリと断言しても良い(笑)。
実はこのスパイシー&クランチーな「他者」、アメリカに住む日本企業の駐在員(こうした方々は、こちらのSUSHIレストランに入っても敢えて日本流の握りや新鮮なネタを選び出して食します)も見向きもしないうちに、さらに妙な「進化」の現象を見せているのです。
それは、メニューが「世界共通」に出来上がりつつあるという事実です。
(中略)
アメリカの大都市やロンドン、パリ、シンガポール、香港、上海などのSUSHIレストランにおいて共通で見かけるメジャーのロール、トップ5は下記です。
(中略)
このようなメニュー名がどこから発信され、いかにして七つの海を渡って人口に膾炙し、多少のアレンジはあるにしても各メニュー共通の具材が使われるようになったか、興味をもつ考古学者の方の登場を待ちたいと思いますが、ビジネスマンにとって大切なのは、少なくとも日本人抜きでこの「デファクト」スタンダードのフォーマットは成立し、市場を流通しているということです。
http://anond.hatelabo.jp/20111001100318
これにインスパイアされた。
ソーラーパネル取り付けからプラント設計、工場設備保守まで幅広く仕事をした。出向も経験。
もちろん海外にも駐在。その間にエネルギー管理士の資格を取得。
海外生活に飽きたというか、老親の面倒をみないといけなくなったので、親の近くで仕事ができる企業を中心に転職活動。
あれよあれよと運良く○年前に電力会社に中途採用枠で転職した。
給料はもちろんアップ。むしろ、親の介護の関係で休みがとりやすくなったのがよかった。
仕事は面白い。資格をいかした省エネ診断から提案まで、大きな仕事をさせてもらった。
業務が一変。電力逼迫でオール電化どころじゃない。
もちろん省エネ対策は必要だけれども、社内の体制は戦時体制へ。
息子は父が電力会社の社員というだけでいじめにあっているようで、登校拒否になってしまった。
幸せとは何なのか 自問している。
エネコンの仕事は開店休業。お先真っ暗な会社なので転職活動中。
ただ、この年になると求人はグっと減る。厳しい。
電力会社なんて入らなければ良かった。
"反抗期"っていうと悪く聞こえるけど、本来は”自立期”というべき期間なんだよ。
その自己表現の仕方が妹さんはある意味分かりやすい「荒れ方・暴れ方」で、
あなたの場合はどう表現していいのか悶々としてしまうって形で分かりづらい形なんじゃないかな?
>たったそれだけなのですが母が「ママのこと好かんとか言うなら●●(妹)と同じ扱いになるよ」
>「『お弁当?知らん』ってことになるよ」「まぁ、そんなことぐらいしかできないけどね」
あなた自身が怒っていいべき事項だよ。
5年間の海外駐在を経て帰国子女になってしまったものの、セルフイメージと周囲からのイメージが
異なり過ぎて辛そうだね。
現実的に勉強についていくのが辛かったら、中高一貫の私立ぽいからサポートを受けるべきだと思う。
もしなかったら、大手予備校や塾にそういうサポートコースあるからHPだけでも調べて
ちなみに帰国子女だから英語ペラペラというけど現地の日本人学校いっていたり、
英語圏でも英米ではない英語圏で肩身が狭かったり、非英語圏の子もいるからそれ程気にしなくていいんじゃない?
ドイツ系ハーフのウェンツ英二も見た目から英語ペラペラで英語のテストでできそうに見えるからと
カンニングにあい結果点数が悪かったので文句を言われたそうだけど「外見で判断するやつが悪い。(テストを)見るやつが悪い。」と
言い切った。
嫌味を言われたら(特に女子の場合は)「話せても子ども言葉だし、文法も分からないよ」と自分をちょっと下げて相手に優越感を持たせるのも手ではないかな。
風俗嬢をやってる。
この商売は一言で言って「男と一緒にいることに対してお金をもらう」仕事だ。
セックスを売っているというわけでは必ずしもない。
プレイ時間中何をしていようが客が満足すれば勝手であり、結局時間で切り売りしているのだから。
このペースで時間を増やしていくと、1日で1か月分の給料を使い果たす。
今まで常連になってくれたお客様には大金を使わせて、こちらが逆に辛くなった。
3時間コース4万円のオーダーをしてくれた人。
3ヶ月間ずっと週2―3のペースで来てくれて一回当たり3万~4万使ってくれた人。
北関東から都心まで来てくれて2時間3万円のオーダーを5,6回してくれた人。
やがて中国に駐在するために赴任したがその時も中国からわざわざ私のために来てくれた。
90分コース2万5千円のオーダーを10回ぐらいしてくれた人。
東北から月に1,2のペースで都心まで来てくれて100分3万円のコースをオーダーしてくれる人。
これらは派遣型ヘルスなのでさらに1万円ほどホテル代がかかる。
15分1万円。1時間4万円。
それを何度か繰り返してくれた。
それでも「一緒にいる」だけでお金をもらえるのだ。
そしてそれらのお客様もやがて私とは縁を切って行った。
私と「ずっと死ぬまで一緒にいたいと思わなくなった」ためである。
新しい伴侶を見つけていった人も数多い。
風俗の世界に限ったことではない。一般の男女の関係にも適用される。
結局、普段一般人が目を覆っている生々しい原理原則を露骨に抽出した世界にすぎないのだ。
女の価値、わかりやすく言うと稼げる金額は、
「男に一緒にいたいと思われる程度」によって決まる。
つまりは、幸せを金や愛や家庭どれに求めようとも、