たぶん母がその変なやつだったのは間違いないと思う。一応母も実家はそれなりだったので、大学も出ているし、日本舞踊だのお琴だのもやらされてきたひと。まあ頭も悪くないし、なんかやらせたら何となくなんでもできる。でも、働きたくない。人生の最終目標「医者と結婚する」だったらしく、その為に頑張ってきたらしい。だから結婚したらどうでもよくなっちゃったのかも。
ちなみにうちにはいつも看護婦さんがいたので「こども産んだら産みっぱなしで、毎日体重体温はかってくれるから楽だったわ」って言っていたので、子育ても丸投げだったらしい。若いお手伝いさんがいつも遊んでくれた。
生活保護云々言った先生は外から来た若い新しい人だったので、うちのことを知らなかったのだろうと思う。実際、うちの名字はうちの家系以外にほとんどいなくて、地元がそこのひとなら名字を聞いたら「何科の?」って聞いてくる。だからわたしは人前で名字を名乗るのが嫌だった。
父の死後もお手伝いさんを使い続けていたことについて私はすごく不安だった。うちお金ないのに、って。ただ、自分たちは貧乏になった! って思い込んでいたけれど、それまで自分たちが『お金持ち」という意識はこれっぽっちもなかった。大人になってようやく、もしかして父が生きていた頃はお金持ちだったのか、と知ったくらい。たぶん親戚はもっとお金持ちっぽく見えていたから(うちは車一台しかないけれど、おじさんちは船もある、みたいな)、お金持ちとは思ってなかったんじゃないかと。こどもの頃周りの大人に「あなたはお金持ち云々」言われた記憶はない。周りの大人って言っても親戚筋とか同じ世界の人ばっかりだったし、こどもと大人はあんまり交わらない雰囲気の家系だった。
ゴミの分別については、燃えるゴミと燃えないゴミをわけるだけ、のも適当だった。分けてたかなぁ? 今となって思うのは、母が自分で地域のゴミ集積所にゴミをだしにいくのが嫌だったんじゃないかと思う。プライドがゆるさない、みたいな。10年くらい前に「ゴミの分別できるようになったのよ!」ってすごく嬉しそうに報告してきたことがあるので、たぶんそのときはじめてゴミ集積所を利用したんだと思う。
商社の駐在員は幼なじみ。幼なじみは海外生まれで、彼女が幼稚園に入る頃にきた。たぶんお母さんの実家にこどもと奥さんを戻して、旦那さんは駐在してたんじゃないかなー、と思う。詳しくは聞いたことがないけど。あと高校時代の友達のお父さんが海外にいるとかで、それがなんでかわかっていなかったけれど、そこも同じパターンみたいだった。奥さんとこどもを奥さんの実家に、みたいな。
ちなみに母の姉はすごくきちんとした人で、頭もいい。母の妹はまたちょっと変わった人。一体祖父と祖母はどんな教育をしたんだろうと、今すごく疑問に思う。あんなにちゃんとした人作れるのに、ひとり目でもういいやって思っちゃったのだろうか。