はてなキーワード: 親友とは
手も顔もボロボロだったのをよく覚えている。たしか眉毛もほとんどなかった。
ある月、背の順で1番前だった女の子に抜かれてしまって、前から2番目だった私が1番前になった。男子の1番前は山田くん。
背の順で隣り合う男女は、散歩の時手を繋ぐことになっていて、「じゃあ出発しまーす」という先生の合図のあと、困惑しながら山田くんの手を取った。
手、繋ぎたくないなあと思いながら、それでも躊躇わずに繋がなくちゃいけないのだと、園児ながらわかっていた。
昨日は、電車の2人がけに座っていたら、効果音を声に出しながらPSPをする障がい者の人が隣に来てしまって、やっぱり嫌だった。でも、席を立つわけにはいかないしなあと思って座っていた。
中学生時代の席替え、角っこの席で私の隣になった女子が「うわ最悪」と言ってるのを、「遊びに来るからー」とその子の親友が慰めているのを、机に突っ伏しながら聞いてしまったのを思い出した。辛い。
夫と離婚したい。
夫とは10年近くいっしょにいて、とても仲良し。
セックスレスというと「どちらかが拒んだ」という事例ばかり出てくるが、
うちはそういうわけでもない。
お互いなんとなく言い出さなくなって、4年経つ。
このままずっと、セックスできないふたりで暮らしていくのかと思うと、めまいがする。
どうせ刺激がほしいだけじゃんね。
離婚したいと思うたび、自分で用意したありとあらゆる反論が自分を責める。
でも、その反論をひととおり聞いたうえで私は、
子どもをつくろうとしてみたい。
結果できなくてもいい。でも志向したい。
誰がなんと言おうと、もはや親友と化した夫を傷つけようとも、
わたしにとって停滞は、がまんできないほどの恐怖なんだ。
女もだいたいそう思ってるけど、「今いる人(たとえば親)以下の好きさ加減」だと結婚する意味ないしみんな親好き過ぎだから。
だいたいAさん自身>Aさんの親>Aさんの兄弟=Aさんの親友=仕事 くらいの好意度をみんなあらかじめもってるとして
「Bさん>Aさん」 はおとぎ話レベルのAさんのひとめぼれでBさんとしては考えるだろう。これが上の増田のいってる状態だろうけど
いきなりそこまで至るのってアイドルレベルでたぶんBさんは何万人にもひとめぼれサれてるから無理
次、「Aさん>Bさん>Aさんの親」 なら独立して家庭がいとなめるけど。
じゃあBさんがやれっていったから今から親に勘当されてくるわっていうAさんも相当人格おかしい。
物語なら見てて楽しいけど現実はちょっとした地雷。社会生活が一切いとなめていないメンヘラの勘違いかも。引く。
地雷じゃないけど親よりお前がいいっていうちょうどいいヒトメボレってのはBさんが一生まっててもおそらく出現しない。
いいとこ「Bさん=兄弟=親友=仕事」 レベル(それもお付き合いが長いとようやく到れるくらいの)。
そんでAさんは結婚した連れ合いのBさんに「自分(Bさん)と仕事どっちが好きなの」っていわれて離婚になったりする
結論:
たいていは男女とも高望みです
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301
タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメ『さらざんまい』の感想。
"ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しからゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、
「主人公の少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当なものに思える。
本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。
これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情と恋愛の境界は曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。
主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。
だが本論が合っているのはここまでだ。
なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…
『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。
第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。
というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章でしか用いられていない)。
この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。
さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要なものだった。では、仮に現在にブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係を小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。
ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。
女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動の公準は「私的なものは政治的なもの」であり、個人的な敵愾心を敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。
また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品が商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性を対象にしたものだと言う。
現在、世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向は男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的な女性差別と相関している。
仮に「生きづらさ」を描く作品が商業的に成功して、それが女性に限定されたものなら、それは社会的な女性差別と連関したものに他ならない。
これは差別の原因だろうか、結果だろうか。
男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別が特別に女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品が女性を対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題の解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在の女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品が存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品が存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。
そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。
『違国日記』は登場人物が登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的な連帯とは一線を画している。
また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情や資本主義を全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動とSNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSにお気持ちを投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。
一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生。
そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢を反省したという論を展開したいようだが……
幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公のウテナとシスターフッド的な関係をもっているのは親友の若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?
何にせよ、そうした感情的な連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。
例えばねとらぼの社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。
「男性が男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケアの役割を女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露=男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しかし男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動部コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年のエンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」
「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異を強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。
仮に感情的な連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間。
一つには「インターネットで感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。
このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的なものだと、フェイクニュースの方が真正なニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計。
前述のセジウィックは有名な『クローゼットの認識論』で作品にセンチメンタリティの属性を付与することの危険を「解釈的暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評の用語だ。
もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックス、セックスレスが標準となった社会では、ゲイネスが記号化して商品として流通しやすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックス、セックスレスが標準となった社会で、ゲイネスを商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動とSNSの利用に人生を費やす人々の姿……
『さらざんまい』は女性を顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。
しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品の解釈が「感情的で気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNSで論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感と幻想のインターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。
俺はシスヘテロの30代男で、彼女なしの独身。過去に数カ月だけ付き合った人が二人いる。男友人はある程度いる。女友だちも数人いる。ただ、ほとんどが大学時代からの友人で、社会人になってから広がった交友関係はほとんどない。会社で友人は作らない。友だちが沢山いるとは言わないけれど、決して少なくはないだろう。
俺の友だちの定義は「サシで会える相手」だ。複数人で会って話せる相手も人によってはサシで全く話せなくなることも多い。そういう人には心の距離を持ってしまっていると感じる。
オタクの繋がりだからかはわからんが、男友だちの多くは独身だ。でも女友だちはこの年になると彼氏がいるか結婚してる。半分は子どもができた。旦那さんとも友だちか先輩かだったりするおかげで子どもがいてもサシで(というか赤ちゃん連れて)お茶するくらいはたまにしてるけど、流石に会う頻度は昔に比べると減ってくる。相手は仕事に育児とてんやわんやで、プライベートも減っていると聞く。あと地方に戻るとかで物理的に会えなくなる相手も増える。旦那さんが全く親しくないひとの場合は流石に気軽には呼び出せない。どうしたって「気軽に会う」回数は減る。
そうなると「会いやすい」友だちは自然と男に偏ることになる。飲みニケーションという言葉があるが、帰りに数時間酒を飲むだけならできなくはない。それにしたって既婚者や同棲相手のいる人は誘うのに少しは躊躇はしてしまう。独身相手なら急に呼び出すことのハードルは低い。交友関係の中で唯一、当日に雑に呼び出せる友人がいる。平日午後にお互いLINEで「酒」「19時以降新宿か中野」「ルミネ7階」の会話だけで飲みの算段がつく。端的に親友だと思っているが、それでもやつと会うのは半年に一度くらいだ。それくらいの距離感がちょうどいい。心理的距離感と「何度でも頻繁に会いたい」という感情は必ずしも一致しない。ただこれも、どちらかが結婚したり彼女ができたりするときっと失われる距離感なのだろうと考えている。
どうしたってライルスタイルの変化は人生に伴うし、それにあわせて友人との実際的なつながりは、消えはしないが薄れていく。なぜなら俺たちは友人だけど家族じゃないからだ。こころがつながってるとかそんな話はしていない。ここにあるのは「家族を持ってる人」と「家族を持ってない人」、「男性」と「女性」の間にある交友関係の勾配だ。人生と同じで人間関係は年を取るとどんどん選択肢が狭まるように感じてしまう。
そのことに俺自身それほどの不満はないし、正直彼女がほしいとか結婚したいとかもあまりない。問題は俺がよくても周りが勝手に変わっていくことで、普通に生きているだけで世界がどんどん閉じていくように感じている。少なくとも「恋愛関係を含まない女友だち」は少しずつ損なわれている。女友だちとの関係は他の交友関係で代替可能ではあるけれど、決して同じものではない。男性同士・女性同士・男女間・友人関係・恋愛関係・家族……すべてが異なる性質のものだと俺は思っている。失われたから別のもので埋め合わせればいいという問題ではない。
「あてがって」もらう必要はない。新しい関係性が本当にほしくなったら新しい場所に飛び込んで交友関係を開拓する。ただ、昔は好き勝手生きてりゃ自然とできた友だちが、今では「開拓する努力」が必要になったのかとため息混じりに思うことがある。それだって東京に住んでる以上はるかにハードルは低い。
ここまで書いてて思うのは、俺は人間関係の面でどう考えたって恵まれているということだ。東京でぼちぼちの生活ができてて、日々はそれなりに充足してて、友人もそれなりにいる。彼女がいたこともあれば女友達もいる。俺は自分が社交的な人間とは思わないのだが、多分社交的に分類されるんだろう。それでもふとした瞬間、それこそこの文章を書いてる深夜なんかに漠然と将来の人間関係に不安を抱く。そして、俺よりもはるかに「恵まれず」、はるかに不安を抱いてる人が世界には山ほどいるだろうことに愕然とする。
「女をあてがえ」という言葉は間違った欲望と感じるものの同時に悲鳴にしか聞こえない。「助けてくれ」という心の叫びだ。それを聞くとひどく悲しい気持ちになる。なぜなら男である俺がどこまで同情していようと、彼らを助けることはできないからだ……そこでなぜ「友だちをあてがえ」でも「家族をあてがえ」でもなく「女をあてがえ」と言われやすいか、という問題は考えてほしいけど。
個人としての人権が尊重されればされるほど、ある種の交友関係を得られない人に「あなたの考え方を変えなさい」か「あなたが自分で見つけなさい」と言わざるを得なくなる、人間関係の自己責任論が強まってしまうという矛盾をどう解決すればいいか、俺は知らない。
世の中のチビデブハゲおっさんは、結婚してたり、彼女居たり、愛人が居たりするんだよ。
お前らの何が悪いのか?
そうさ。運の無さと、コミュ力の無さだ。
女とのやり取りを見せてもらった。
「初めまして~」もそこそこにだ。
なにしてんだコイツ……って心底思ったね。
そしてその後には「あなたの写真も送ってください」「こんなボクだけど話してくれませんか?」と。
うーーーーーん。
せっかく中身から知れる機会なのに、いきなり外見ぶつけてどうすんだよ。
その後も、返信がないと5分置きくらいに追撃して「ボクの何が悪いか教えて下さい」とかその他いっぱい言ってた。
もう居ないんだなって思ったら
「お前の名前は分かったからな!警察に行って消費者センターにも駆け込むぞ!」みたいな脅しもかけてた。
何も金を使ってないのに、本当にどうした。
まず、仕事してんだから仕事を同じように接するように伝えたわ。
自分を容姿で批判されるのもいやだろうし、写真は仲良くなってから。
「時間の無駄?」じゃぁ、自分の顔写真を相手に送り続ければ良い。勝手にしろ。
とりあえず「男友達に接するような対応で良い。ただし下ネタは避けろ」とだけ言っておいた。
「増田と言う親友が居て良かったよ」と言われて少しだけうるっと来た。
俺?俺は妻と一緒に結婚式に参列したぞ。
去年の夏ごろに丸々3年付き合った彼女と別れた。
元カノと別れたあと、いろんな人と遊ぼうと思って手を出してきた。割とさっぱりヤるだけの関係になった人もいっぱい居たけど、一人とは一緒に居て居心地も良いし楽しいしで結構頻繁に、週2,3回は会ったりお互いの家を行き来するようになったり外に遊びに行くようになった。でも自分はどうしても、何でだかわかんないけど、その子と付き合う気になれなかった。その子だから、というよりも誰であっても付き合う気になれない様な感じだった。その子、ではわかりにくいからAさんとしよう。
Aさんと遊ぶようになったのは9月か10月だった気がするな。そこから結構長々と一緒にいるようになって、今年に入ってから何で彼女にしてくれないの?と言われるようになった。自分でもほんとに理由がわからない。もっといろんな人としがらみ無く遊びたいからなのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。どうしても付き合う気になれなかった。
Aさんのことが好きか、と言われると、遊ぶ様になってからすぐの間は確かに恋愛感情みたいなのが会った気がする。でも今はあまりに一緒に居すぎて恋愛感情というよりも長く付き合ってたからこその安定感とか、情とかがあるがゆえに一緒にいる気もする。
何でだかわかんないけどこの1年くらいずっとメンタルが不安定で、遊び回っても悪化する一方。むしろ遊び回ってるからこそ悪化している自覚もある。
でもどうしても腰を落ち着けられない。落ち着けようとするとすぐいろんな事が頭の中を回り始めるし、ごちゃごちゃしてくるので飲んで忘れるために友達のことを誘いまくる。いろんな子と飲みに行こうとしてしまう。
そんな中、前々から知り合いだったある子、Bさんとも飲みに行ったりするようになった。Bさんは結構男女関係には真面目な方だった。遊び回ったり、セフレになったりしないことは知っていたし、でも一緒に居て、話してて楽しいからBさんを頻繁に誘っていた。でもやっぱり飲んで、距離が近くなって、そしたらキスくらいしたくなってしまうじゃないですか。そこでキスをしてしまった。Bさんからすると好きでもない人とはキスもするものではないという価値観を持ってるから、その場でどういうつもりか聞かれた。好きか嫌いかって聞かれたらBさんのことは好きだったし、好きだと答えた。Bさんも好きだと言ってくれた。でも、僕は付き合えない。付き合う気になれないって言ったらとっても悲しそうな顔をしていた。その場ではテキトーな感じで無理なもんは無理だもんとかほんとにクズ感あることしか言えなかった。でも本音だもん。無理なもんは無理。誰とも付き合う気になれない。
そんなやり取りをしたあと、Bさんは帰っていった。
この時点で自分は、罪悪感にまみれていた。こうなることはわかってたはず。でも、距離を詰めてしまった。
一週間後、会って話そうって言われて、会ってきた。
ここまで書いて、自分のお気持ちはなんにもまとまってないし、やっぱり自分はクズだと思うし、どうすれば良いのかわかんないからもう書くの辞めとく。
Bさんとは付き合えない。でもほんとにほんとに誠実に考えてくれてたBさんに対する罪悪感が半端ない。僕が悪い。なんでこんなまともな人に近づいてしまったんだろう。あんなに、自分が引っ掻き回して、泣いてまでくれて。でも何でBさんと付き合えないんだろう。
何でBさんと付き合えないか、ちょっと腰を落ち着けて考えると、Aさんを切れないって思ってしまうってのが理由の大半を占めている気がする。そうするとやっぱり、付き合うことで、縛られて、いろんな人と遊べなくなるのが嫌なんだろうか。
周りの人を大切にしないとみんなどんどん離れていっちゃうよ
って、Bさんに言われたけど、ほんとにそう。今までの人生、親友みたいな人は居なかった気がする。今の自分の周りにいるのも、僕はその人達にとって本当に大切な存在ではないと思う。もう遊ぶのはやめたい。Bさんみたいなまともで、誠実な人と一緒に居たい。でもAさんとの関係をやめる度胸がない。
その上、僕はBさんと話してほんとに自分が悪い、申し訳ないと思った日、そのまま夜は友達と飲んで、Bさんも見てるインスタに飲みの写真をあげる様なやつだ。人の気持ちなんかミリも考えられない。
もう僕は人生どうすればいいのかわかんない。
初めて増田になりました。
学生の頃にCLANNADのアニメを観て、それは大層泣きました。
シナリオの都合のよさとか、主人公にキツい運命を与えすぎでは?とか、そういう理屈を超越したところにこの作品はあって、京アニは見事にこの物語を演出してみせたと思う。
あの頃は家族とか友達とか人のつながりっていいな、と大まかにはそんな感想だったと思う。
しかし今の私は違う。見終わって、人はなぜこんなにも傷つきながら前を向いて生きなくてはならないのだろうと思った。
いやまあそもそも、5年目にして転職を2回しているような人生なので察してほしい。
働き続けることがこんなにもつらいのだと、布団の中で思う日々だ。
多分この日記を開いてくれた人はCLANNADやリトバスをすでに履修済みだろう。よって割愛する。
私の胸を打ったのは、AFTER STORYに入って、朋也が働き始めたところだ。
卒業後にプーだったことを負い目に感じていた主人公は、自分で仕事をみつけ、住む場所をみつけ、愛する人の5年目の高校生活を支える。
その18歳の岡崎朋也がなんともいじらしく、可愛く、行動してみせた自分がどこか誇らしく瞳が輝くも、あっという間に現実を突きつけられてしまうのだ。
新居に渚を迎えて浮ついた気持ち、職場の先輩の芳野と初めて車で現場に向かったときに、すれ違った家族を窓越しに見送った時の未来を期待する表情。
それがもうたった一日の労働で、家に帰ったら愛する渚の話に耳を傾けられないほど疲れ切ってしまうのだ。
学生時代にはその細やかな描写に気が付かなかった、まったく印象に残っていない。
改めて視聴した今回は、汐をめぐる物語以上に、朋也が働き続ける姿が目に焼き付いて離れないのだ。
本人も作中で話してはいるが、学校生活では友人たちの悩みを解決し、手を差し伸べてよい方向へ導いてきた朋也が、
人を導くことができるという自惚れが、働き始めたことで一瞬で瓦解する。
労働とは、そりゃ楽しいこともあるかもしれないけれど、大多数は生きるために嫌々行っているものだ、
学校が楽しくないからと不良のような生活を送っていたあの朋也が、逃げ出さずに仕事と向き合う姿は、まさしく日本という社会で生きるためには組織に所属して労働しなくてはならないという現実を突きつけてくる。
古河家だって、流行っているパン屋ではないことから、渚や朋也の目にみえないところで重いそろばんをはじいているのだろう。
朋也は渚を失ってからも仕事をしつづけた。本人はそれを汐からの逃避だといったが、生きるためにはお金が必要で、庶民は働かないと生きていけない。
どれほど傷ついても生きることから逃れられないのなら、仕事をしたり、人とかかわって生きていかないといけない。
汐の治療のために仕事をやめた朋也は、汐が亡くなってしまったら、もう死のうと心のどこかで覚悟していたのだろう。(原作で描写あったっけ…)
だから生き続けるための仕事をやめて、それを察した芳野は戻ってくるようにと声をかけた。
5年目に触れたCLANNADは家族っていいなとか楽しい友達が欲しいな、とかCLANNADは人生とかそういうことも感じたけれど。
傷ついた人間もその傷が癒えずとも前を向いて生きろと、そんな空をつかむような悲しいエールを受け取ったのだ。
思いっきり割愛するが、リトバスの主人公は親友たちを一度に失うという大きな傷を負う。
そして彼らが死ぬ運命は避けられぬのだと、その痛みを抱えてまでも生きろと言われる。
物語を通してハートが強くなった理樹は喪失をも受け止めて強く生きようとする。
まあ最終的にはうまいこと物語が展開してハッピーエンドになるのだけれども。
だーまえは何かとプレイヤーたちに強く生きてほしいと願っている気がする。
書を捨て街に出よう、じゃないけれど傷ついても現実逃避せずに真っすぐ生きてね、という応援。
ビジュアルアーツ20周年のイベントで配布された曲なのだが、わざわざイベントに来たような熱心なファンに「僕はもう大丈夫だから 今度はそう、きみが幸せになる番だよ」なんて語りかけてくる。
オタクなんて大小あれども、傷ついて生きてきて、エンタメにそれを救われているような人間ばかりなのだ。
そんなオタクたちに、現実に立ち向かえとスパルタ的に奮い立たせようとする。
あと多くのkey作品は現実から逃げるとBADED行きなのだ、智代ルートなど非常に印象に残っている。
そこまでして、どうして生きていかねばならないのか、、、なんて思う。
俺たちは人生の主人公なのだから、現実から逃げずに、居心地のいい環境を作って、ささやかながら生きがいをみつけて、VAにお布施して生きろと。
才能もない、とりえもない、頭もよくない、覚えも悪い。
ぐずぐずに崩れた自尊心を取り戻す手助けをしてくれる渚や朋也、恭介や理樹、そんな存在は周囲にはいない。
久々にCLANNADを観て、そりゃあもう想像外の感想を抱いたのだ。
現実をまっとうに生きている人々が圧倒的に多い世にこんないじけた文章を残せるのなんてここしかない。
自室に引きこもっていたようにみえた恭介だって、実は虚構世界で四苦八苦していた。己の失敗に落胆してはいても、決して行動をやめていたわけではない。
生きることとは行動なのだと、布団の中でスマホを触るオタクへ作品を通して鼓舞している。
もしもここまで読んでくれた人がいたらありがとう。
サマポケ面白かったから買ってプレイしてね、プレイし終わってたらFD発売か京アニでアニメ化することを一緒に願おうね。
あとVAにできることは、だーまえの後継者を必死に探して育成することか、keyを畳んで新たな才能で作品を作るか、だーまえの治療費を全額出してあげてkeyブランドを守るかだ。
自分をすごく優しいと思ったことはないけどそこそこ普通と思ってた。
忙しいくらい。
まあそこそこだけど。
今までモテたこともないし、彼氏が必要だとも思わなかったから生まれて初めてできた彼氏だった。
頭がいい人だったから興味を持って、一緒に遊ぶようになって、イブの夜にイルミネーションの前で、アクセサリーとかもらって、付き合うことになった。
その瞬間、その人がどうでもよくなった。
その日までは付き合うのもいいかもしれないなって思ってたのに。
いざ告白されて、付き合いますってなった瞬間、心底どうでもいいと思った。
必死で喜んでるふりして帰った。
触られたらどうしよう、このままホテルとか連れてかれたら絶対生理だって言おうと心に決めて、その準備だけを万全にして助手席で座ってた。
付き合った瞬間、どうやって別れようってそればっかり考えてた。
私は友達が多いし友達と遊んでる時に恋人のこととか考えたくないのに、その人はやたらと連絡してきた。
それがうざくてたまらなかった。
避けてるのは多分気づかれてて、その人は何度も会いこようとして、私はそれを何度も拒否した。
嫌だなって思ったところを列挙するのは簡単で今も話せと言われればいくらでも話せるし、どことなく私が悪くない風に色をつけることもできる。
割と迂闊なことをよく言う人だったし、どことなく学歴を鼻にかけた話し方をする人だったから、多分長くいれば、私は馬鹿にされることになったと思う。
でも多分私が悪いんだとはわかってる。
私には親友がいる。
性格が似てて感性も似てて何より彼女と話してるのは他の誰と話してるよりも楽しかったし、彼女は私の話を一番真面目に聞いてくれた。
心から信頼してるし とても大好きだ。
私はそれが心配で何度も何度も聞いたけれど体調が悪いんだと言った。
そうなんだと信じてた。
五月は彼女と遊ぶ予定がいっぱいあって楽しみにしてたけれど彼女はそのどれもに常に浮かない表情でやってきた。
そんな風に感じるのはとても嫌だったけれど楽しみにしていた分、想定していた楽しさより半分以下の楽しさしか感じられなかったらそう感じてしまう。
そう思ってた。
五月末くらいにまた遊んだ。
その子は相変わらずだった。
どうしたんだと聞いたら最初は答えてくれなくて、けど粘ったら、体調不良じゃなくて、実は悩んでたんだと答えた。私からするとそれは割と漠然とした悩みに聞こえた。同時にとても繊細な悩みで、彼女が本当に苦しいんだということは理解できた。彼女話しながら怒っていた。ずっと怒ってた。
私は聞いて申し訳なかったと謝った。
謝って力になれることはないかと聞いた。
彼女はないと言った。
家に帰って思った。
私が彼女に無理やり聞いたのは悪かった。
でもなら、私はどうすればよかったのか。
悩んでるなら言ってくれないとわからない。
わからないまま私は彼女のその暗い雰囲気とずっと一緒にいなきゃいけないんだろうか。
私が楽しみにしていた気持ちは?
話したいことを話した結果、いつもの彼女ならもっと笑ってくれたと思うのに、素っ気ない反応をされた時の私の寂しさは、彼女の漠然とした不安の前ではどうでもいい贅沢な悩みなんだろうか。
なんだか最近人間関係がうまくいかなくて私はとても冷たい人間なのではないかと思う時がある。
恋人なら連絡を煩わしいと思うべきではないし、親友から漠然とした不安にもちゃんと寄り添ってあげなきゃいけないってわかっている。
それでも優しくできない自分が嫌だ。
爺のSNSアカウントを特定して見ていると、彼女一筋みたいなことを書いていて、いかにもラブラブだった。
育てていた偽裏垢で爺に軽くDM送ったら「どこ住み?会わない?」のお返事。またかよ。マジでクソ。
不倫するのは勝手だけど、結婚適齢期ギリギリのメンヘラを引っ掛けるのはマジでやめろ。孤独につけこむな。結婚する気がないくせに空手形出すな。
どっちもどっちみたいな考えなんだろう。ほんと死んで欲しい。本気なら、奥さん子供捨ててから来い。
別れた後のケアに、どれだけ苦労してると思ってるんだ。クソが。
2人の関係に水を差す気もないし、どうせ別れるまで話聞いてくれないので、ここで毒を吐かせてもらいました。すみません。
あーあ。幸せになってくれりゃいいんだけどなー。
設定やプロットなんてどうでもいい。
基本的には明るめな雰囲気のラブコメで、6,7年前なら結構人気でたけど今の時代だとちょっと使い古されすぎてて良作止まりかなって感じのベタなハーレムラブコメ展開で話は進んでいって、
ただなんか謎の描写が多くて、親友キャラの性格が徐々に嫌な奴に変わっていったり、サブヒロインが何人も途中退場したりとか、とにかくいろいろと意味深な台詞や描写がちょこちょこある。
仕事がらいろんな業種の人と話す機会があるんだけど、どうも盛り上がりに欠ける人がいる。
沈黙が続くわけでなくどうも「盛り上がらない」。
ずっと自分の会話力がないせいだと思ってあの手この手で広げようとしてみたけど
会話力がないのは相手の方と気づいた。
このタイプの場合、話は面白い。話は面白いけど全てが「自分のエピソードトーク」でしかない。
昨日あった話、昔あった話。
エピソードとしては面白いけれども、話がすべて完結しすぎている。
特に質問したくなるようなスキもないぐらいに完成されすぎている。
最近の話でいうと
「先週、友達の結婚式が大阪であって当日始発の新幹線で行こうと思ったが、目が冷めたら新幹線がでる10分前だった。
急いで飛び起きて地下鉄で東京駅に行き次の新幹線には乗れた。無事に結婚式も間に合った。
中学時代の大事な親友なので本当によかった。式もすごく雰囲気がよく終始感動的だった。特に最後の両親への挨拶が感動的だった。」
こんな感じ。
まず話が長いし結婚式がどうだったかまで感想を盛り込まれてしまうと「間に合ってよかったね」ぐらいしか言葉がみつからない。
ただこのタイプは当然相手の話もそういうものだと思っているから相手の話を掘り下げようとしない。
いや、本人は掘り下げているつもりだけど、相手の話のキーワードだけ拾って別の話をする。
ただの会話泥棒でしかないけど、本人は相手の話を受けて話していると思っているので
感覚としてはサイコロをふって出たテーマに合わせて話しているのと同じ。
会話でなくただの報告会。
そして、パスワードを軽々教えてきた。
私は情報系の授業を受けていたし、
パスワードはきちんと設定してる。
親友は何をいっても駄目のようだ。
「成りすましされるかも」と言えば
「クレカ払いのサイトとかログインされて、勝手に色々購入されたらどうする?」と言えば
「家の鍵が壊れぎみで簡単に開き、
修理もしないままに泥棒に入られたら?」
「そりゃ、泥棒に入るやつが悪い」
「確かにそうだけど、危険と分かってて何も対策しないのはダメだよ」
「意味わかんね」
と言われて終わった。
とかく悪いことしたヤツが全て悪いと言いたいみたいだ。
でも、「分かってて予防しない」ってのがダメだと思うんだが、どうやって伝えたら分かってくれるんだ?
親友だと思っていた人物から絶縁宣言を突き付けられたのが19歳。
私の何処が悪かったのかコメントを取ろうとしたが、あり過ぎて指摘出来ないし幾つか変わった所で気持ちは変わらないと言われ困惑した。
そんなにも広範囲にダメな人間なのかと落ち込んだ。自分的には平和主義で人の悪口を言わず誠意を持って人に接していたつもりだったので。離婚を突然言い渡された中年男性の気分ってこんな感じだろう。
その後も
人との間に壁を作ってると言われたりとか、ランチ仲間から除名されたりとか、
色々やらかしながら何とか生きてきた。
人を不快にさせる事が人生の主目的でもないので、都度ふりかえり改善などしてきたつもりだったが、どうやらハッキリとした出来事ではなく、自分が普通にしている細々した些細と言えるかもしれない事で、徐々にマイナス点を積み上げていき、最終的に分水嶺を越えて、物理的にも精神的にも排除されていたということが理解出来るようにはなった。
なるほど、改善したつもりだったがそんな容易に認識できる事象だけの問題ではなかったのだ。
私は最新の情報が最重要のタグをつけて上がってきてしまう脳の構造をしており、人と会話していると脳裏に浮かんだ話題を衝動的にアウトプットせずにいられなくなる。これがまた最悪らしい。
人の話、特に愚痴などを傾聴することは自己開示できる友人という名のポイントコインがザクザクたまるビッグチャンスだ。
なのに私のポンコツ脳はキーワードを拾って他の話題を始める事に囚われてしまう。結果、相手は自分の愚痴に興味が無い=価値がない、と私が認識していると受け取り、侮られたと憤る。(愚痴に改善を提示するのは最悪手だ。余程慎重にしないと愚痴を言って下がった相手ポジションに向かって、更に上からウンコを投げつける事になる。よくやらかした。)
持ち前の衝動性から一つ所に居られず環境が変わる度、PDCAを廻し慎重に言葉を選び会話スキルを上げてきたつもりだったが、50目前になった今、疲労を感じている。
ふと、油断した隙に、相手は私に見切りをつけてしまうという恐怖と一緒に生きるのは、つらい。
自分から与えココロをオープンにし求めよ、さすれば与えられん式の自己啓発書と会話術の本をブックオフに売り払い、最近はおひとりさま行軍をするようになった。
楽。すっごく楽。ADHDの特性のひとつでリラックスしていても言葉が頭の中に渦巻いているので特に寂しくもない。何か喋りたくなったら、文章にするとまた楽しい。たまに壁打ちがわりにインターネットに向かってこうして吐き出したりしてみるのも気分転換になる。
ひとりはいい。自由だ。過去の私は孤独になる事を恐れていたんじゃなかった。人に拒絶される事を恐れていたんだ。
ひとりなら、受け入れられるでもなく拒絶されるでもない、ニュートラルな立場に居られる。
稀に群れの外にいるというだけの理由で攻撃してくる個体がいて困るというか、困惑するけど。精神的ひきこもりが誰にも迷惑かけずに平和に暮らしているのだから、ほっといて欲しいと切に願っている。あとの人生の課題はどうやって綺麗に孤独死するかだな。
一言で片付けるならケチなんだろうけど、極力金を出さない同性友達がいる。
女同士でそれは致命的で、愛想がつきて関係を断っても忘れた頃に連絡が来てまんまと誘い出されてる。
お互い未婚のまま中年なりこちらは貯めてプチリタイア状態だが向こうはその日暮らしの借金生活。
だからこちらが多目に出してもいいやを繰り返していたらそれが当たり前の空気になり、あなたが使った分はあなたが出してと言ったらえらい剣幕でシャットアウトされた。
利用されてない?って周りに心配されてる時にたまたまケンカっぽくなったからそれを利用して今は避けてる。
ケチは金だけじゃない。
今回も価値観の違いにくわえ何かと負担をさせられることに疲れてしまった。
縁を切っても切ってもうまいこと誘き出されての繰り返し。
頭がよい人だから、私は敵わない。
嫌なことされても忘れちゃうから絶妙なタイミングでこられると連絡の取り合いが復活する。
はっきりと縁を切る、親友ではない、そう言えば引き下がってくれるだろう。
世の中には距離を置く、という遠回しな言葉があるのにそれが相手には通じない。
そこを突かれているのも分かってるから今は完全拒否ではなく無視に切り替えている。
全てを嫌いになれたら簡単だけど、そうじゃないから続いちゃってる。
私が悪者にならず、心が痛まず縁を切ることができたら楽なのに。
もしくは向こうが愛想つかしてくれたらいいのに。
私が破産すれば近寄ってこなくなるのかな?
しかし、人間関係のトラブルで退職し、当然金がなくなったのですが、25歳とはいえFラン私大理系卒のコミュ症ではマトモな再就職先もありませんでした。
困り果てて知り合いに相談したところ、親身になって話を聞いてくれ、生活保護の申請を手伝ってもらうことになりました。
その代わり、知り合いはボロアパート経営をしているのですが、そこに入居し、生活保護の住居費の上限(東京都なので53000円です。他室家賃の3万ぐらいからすれば、割高ですね)で契約することで話がつきました。
役所には渋られたりもしましたが、知り合いが手配してくれた弁護士さんや市の議員さんが色々と動いてくれ、スピーディーに受給が決まりました。
しんぶん赤旗の月3000円は痛いですが、背に腹は代えられません。
親は裕福だったのですが、絶縁されているため扶養してもらえませんでした。
現在、週一でアルバイトをしています。多少のストレスがあったほうが長生きできるって言いますもんね
・趣味に時間を費やし、遊んで暮らせる!自堕落な生活ができる!
週一で働いているのですが(ケースワーカの説得で仕方なく)その日以外は朝11時ぐらいまで寝ています。
パソコンでネット、アニメ、スマブラSP、スプラ、動画であっという間に一日が過ぎますね
一日中趣味に費やせるだけあって、中々上手くなってきてますし、pixivやtwitterで反応があると嬉しいです。
ゲーム機押し入れに片付けておけばケースワーカー何も言いませんしね。
医療費のことを全く考えなくていいので、どこか調子が悪くなったら直ぐ医者に見てもらえます。
保険内であれば全て無料なので、正社員時代なんかよりずっと健康です。
まぁ歯の自費診療が出来ないというデメリットはありますが、そんなことブラック企業勤めでも無理でしたね。
・特に無し!!強いて言うなら、あんまり社会に貢献している気がしないところですかねw
まぁ税金をしっかり使い、社会にカネを回すのも十分な社会への貢献だと考えてますw
まとめ
ぶっちゃけ、年金も医療費も健康保険税もかかんないんで、サラリーマン時代よりよっぽど裕福で、素晴らしく人間らしい生活です。
高校時代の親友に、親が土地持ちでニートしてるやつがいるんですが、最近真っ昼間からそいつとビール飲みながらゲームすんのがとても楽しい
サラリーマン時代、働かずにニートで遊び呆けるなんてうらやまし〜なんて思ってましたが、まさか自分もそんな暮らしができるとは思ってもなかったよ。