はてなキーワード: 町工場とは
https://www.youtube.com/watch?v=YF1h1CQuhbQ
4年前の2014/2/25放送だそうだ。
正直この動画みただけではそんなに細貝に嫌悪感は抱かなかったが、設計してなんとか作ったものにいきなり五輪で乗ってもらえる的な妄想があったようにみえた。
改善要望のあったリアフレームも、図面どおり作ったら選手のモモに当たってあざになるとか、そりゃお前いきなり採用は無理だろって
町工場のオッサンが「設計の段階でこれがいいものだと思って信じて作っているのにどうなんだ」的なことをいうのに下ボブは精神論しかいわない。このままじゃ終われない、くやしい、大田のものづくりの心を伝えたい
でもまぁそれ含めてもそんなに嫌悪感無いんだよなこの番組自体は。ここから4年たっての一連の騒動はもう擁護できないほど酷いって感想しか抱けないが
元エース選手が怪我で引退を余儀なくされ、失意から酒浸りの日々を送る。
自暴自棄だった選手は一念発起し、昔の情熱を取り戻して第二の人生に打ち込んだ。
下町ボブスレー問題が騒ぎになってるが、昔その界隈で働いてたので実態を話そう。
大手メーカーから指定された機械と、材料と、手順と、部品の許容スペック(幅は何ミリから何ミリまで、バリの許容レベルなど)に従って、日々ものつくりしてるだけなんだ。
作業者にしか過ぎず、IT業界のプログラマーより裁量の範囲がない。エンジニアなんて呼んだら笑われるレベル。
もちろん技術力が皆無ではなく、やろうと思えば一から設計することは出来る。ただ一線からは離れてるので、日本のサッカーで言ったらJ3レベルの技術力だ。
「下町ボブスレー」
https://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=bobsleigh
第1回「ボブスレーってナニ?」
東京・大田区の一角にある小さな町工場・矢島製作所。矢島孝一(蟹江敬三)と息子の健太郎(青柳翔)のもとに、ある日、ボブスレー選手を名乗る柳田美樹(南沢奈央)が現れ、ソチオリンピックのボブスレー競技用のソリを作って欲しいと申し出る。マイナー競技ゆえの苦労にひるむことなく、明るく前向きな美樹。彼女の情熱に動かされた健太郎は、町工場の職人仲間とボブスレー製作に乗り出す。
下町ボブスレーについて思うことがいろいろある。
人にたいして伝えられるかたちになるとは思わんが整理するためにも書いとく。
まず、自分は趣味のレベルであるが機材スポーツを楽しんでいる。
そのスポーツのプロがどのような生活なのかもなんとなく知っている。
ボブスレーについてはまったく知らないが共通する部分はあるんじゃないかな。
あと、この話題なんだかなぁって思いながら見てて深く見る気になれないところがある。それゆえ間違った認識をしている部分もあると思う。
下町ボブスレーの言い分、なぜ訴えるか。
これは理解できるんですよ。
それでタイムが向上しオリンピック予選も負けるわけに行かないのでそのまま使用。
でオリンピック直前になっても肝心のボブスレーが検査に通らず使えない。
なので本番もエストニア製を使うことにした。
やむを得ないですよね。
しかし、しかし、これやっぱ下町ボブスレー側がアレなんだろうなぁ。
まず下町ボブスレーは数年前に立ち上げられてソチで日本代表に使わせようとしたんでしょ?
しかし日本のボブスレー協会とは違うところで勝手にできたプロジェクトで出来上がったものはこの時も検査に通らない。
で、狙ったのがジャマイカ。
若い人はあんまり知らないかもしれんけど南米ジャマイカのボブスレーチームって雪の無い国が冬季オリンピックに出場したと映画化されたりもしたのよ。
なんでジャマイカのボブスレーってすごくネームバリューがある。
みたいなノリだったんじゃないかなと。
もっというと豊かな国でもないし機材スポーツって本当に金がかかるから多少性能が悪かろうが機材提供はありがたいのよ。
なんで断るわけないよなって足元見てオファーしたんじゃないかと。
本だしてドラマ化して、もしかしたら映画化もするつもりだったのかもしれない。
そこで金を回すためにボブスレーを使ったんだろうね。
おそらくジャマイカからも予選でエストニア製を使うことは連絡されててそれを黙認したんじゃないかと思う。
予選で間に合わなくても本戦で使えたらストーリーとしては問題がないからな。
で本戦になっても検査通らない、ジャマイカも使わないで焦って訴えることでなんとか損失を押さえようとしているんじゃないかなって思ってんだよね。
なんかねーボブスレーどうでもいいんだろうね。
なんでボブスレー?
ボブスレーのソリなら作れんじゃねぇの?
みんな知ってる競技だしちょうどいいじゃん。
みたいな。
話題ありきで動いてる感じ。
もうクソですわ。
悪文だなぁ
まぁ便所の落書きっすよ。
東京大田区の町工場が作った、いわゆるボススレーを、ジャマイカチームが遅いから使わないと言って揉めているよね。そもそも、大田区の町工場はどうしてボブスレーを作れると思ったんだろう?
部品は作れるけどシステムは作れないってのはよくある。部品屋はシステムを舐めているところがあって、この部品とあれとこれ組み合わせれば最終製品ができるとか、この部品はすごくいいからこれを使えばいいものが出来上がるって思っているんじゃない?
ボブスレーのソリの勘所ってどこなんだろう?
大田区の町工場の人たちって、ソリがスベスベに磨かれていればいいとか思ったんじゃないかな?ウチの磨きの技術でスパーって滑っていくみたいなイメージで。
システムを知らないと、ボトルネックや勘所、部品への要求スペックって分かんないんだよね。それなのに、部品屋がシステムを作る時、自分の部品が良ければシステムの性能が上がると思いがち。その部品がボトルネックじゃなければ、その性能を上げてもシステムの性能は上がらないのにね。
妹が会社を辞めた。かなり上の人間から理不尽なひどい扱いを受けたとのことだった。
オッサンは自分に適切な報告がなかったとのことで腹を立てたらしいが、妹は1番先に連絡しているという。
そこら辺の誤解はどこにでもあることかもしれないが、そこからのオッサンのパワハラがひどかった。
妹の学歴が比較的高いのをなじり、仕事が出来ないとこき下ろし、旦那(同じ会社に勤めてる)共々辞めてしまえ、とまで言ったのだそうだ。
妹は責任感が強く、仕事もまじめでよく頑張っている。決して辞めさせられるほど能力が低い人間ではない。
オッサンのパワハラに妹がウンザリして退職を申し出たところ、社長とオッサンから引き止めがあったそうだ。
けれど引き止めの場でも、オッサンは謝罪するどころか、オマエのようにダメなやつを引き止めているんだ、ありがたいと思わないか、考えを改めろと…上からの物言いと馬鹿にするような態度を変えなかったという。
妹の受けた扱いに同情し腹が立つと同時に
調べもせずに印象で言うけれど、いわゆる「町工場」の事業を畳みたいと思う人がいる時に、
今、商品を好いている人や起業したいと考えている人、ビジネスを広げたい人たちとを繋げられるサービスがあったらいいなと思った。
無くす可能性を検討している時に不特定多数に向けて、興味があれば誰か買ってみませんかと不特定多数にアピールするオンラインサービスがあってほしいなと思った。
クラウドファンディングをやっている会社なら、そういうことにも手を出さないか、手を出してもらいないかと思う。
そこで後継者が見つからなくても、日本でそういったスキルを持っている会社があるということが知られれば、
打てる手はないのではないかと思える。
もしコンパイラを全世界で同時にうっかり削除してしまったら、元の状態に復旧できるのだろうか?|Rui Ueyama|note
思考実験として、全世界の人が同時に、自分の持っているコンパイラやインタープリタなどの実行ファイルをうっかり全部消してしまったとしよう。そうするとそれ以降、ソースコードが残っていても、コンパイラ自身も含めてどのようなプログラムもコンパイルできなくなってしまう。この状況から人類は元のコンピュータ文明を復旧することができるのだろうか?
自分はよく「人類が現代の知識と知恵を持ったまま旧石器時代並みの環境に戻ったら、どれくらいの期間で今の技術に達するか」という空想をする。
科学や技術の知識も持っているけど、道具は石器だけ。でも資源はまだたくさんあるっていうルール。
もちろん、持っている道具を使って、新しい道具を作るのはOK。目標は、スマートフォンを作るってところまで。
でもね。石器で穴掘って、鉄鉱石集めて、ネジ作るくらいで、もう途方に暮れちゃうのよ。
頑張って細かい刃物とかヤスリを手作業で作ってきたのにさ、この先 もっと小さい電子回路とか作らないといけないんだよ。
逆に考えてみてもさ、スマートフォン作るためには、半導体を作るための機械がたくさんいるでしょ。
その機械を組み立てるのにも、コンピュータとかロボットとかモーターとか、数え切れないくらいの部品が要るわけだ。
最終的に町工場に行き着くにしたって、旋盤の機械があるんだぜ。
そんなことを考えると、震えるね。
ここだけの話なんだが、
「透けとる」→「透けとるん」のアナグラムが元になっている。
これを考案したのが大阪の「大木製作工業」という町工場で、ポリカーボネート樹脂を世界に先駆けて家電製品に使用した知られざるエポックメーカーだった訳だが、最初のスケルトン(今で言うトランスルーセント)製品がボールペンだったことが、この件を知られざる豆知識にしてしまった。京都の文具メーカーからのOEMだったわけやね。
大阪と京都の民族性というかトライブっちゅうやつや。どちらの府のメディアにも取り上げられることは無く、歴史に残ることも無かったと。流行の考案者と、それを世に出した者が違うと噂は広まりにくい。なんせ名前が2つあるから、記事にしたときの見出しがパッとしない。
そういう訳だが、いい機会だったので「スケルトンの発祥は日本の大阪なんですよ」ということを改めて書いてみた。今度トリビアの泉にでも投稿してみてください。
どれだけ人間が評価をマイナスにし最低で忌み嫌う存在を成り立たせたら「救わなくてもいい」と言い出すかお試しのようだが
想像を絶する考えうる一番最低の生命体でも、人間に危害を加えなければ除外されないし存在しているだけで迎合されるんだよ。
人が町工場でつくった弁当がうれのこって廃棄される1品をそのひとつでも消費するサイクルにはいれればそれだけでも存在価値はあるし
弁当が買えない人に公費で弁当をかって与える消費を増やすことでその一つ上の町工場作業員は救われてるんだよ。
はるか高みの強者に尽くすために高級スポーツカーをつくったり料亭で希少部位を出すよりはるかに社会的に貢献してるんだよ。
金持ちがでかい金つかって税金大量におさめればそれだけで弱者を何人ふみつぶしても許されると思うだろ?
一人のために歩道を整備しないし高速道路を1台のために建造したりしないんだよ。そのための労働を発生させないんだよ。
貧乏人が大量に往来する町のために税金がおろされ大量の人間が雇用され消費し生産するんだよ。
むしろ「消耗先」をなんとかつぶして消費をしない自分の懐にはいらないかと希少性に頼って消費と分配を減らそうと画策してるやつのほうが社会的にいらないんだよ。
安倍さんがようやく東京で演説をしてくれたので、子どもと一緒に聞きにいきました。
池袋の駅前に集まった人の数はものすごくて(アンチも含めて)、枝野さんや小池さんのときとは比べものならないくらいでした。ヘリが飛んでたり交通整理の警官がうるさかったりで大変だったけど、演説の全文を書き起こしました。
https://anond.hatelabo.jp/20171014230038
https://anond.hatelabo.jp/20171015174223
も合わせてご参考まで。
みなさん、この選挙は北朝鮮の脅威からいかにして国民の命と幸せな暮らしを守りぬくのか。それを問う選挙であります。そしてこうした中、いかにして子どもたちの未来を切り開いていくのか。これを問う選挙であります。
先般新潟で街頭演説をしておりましたら、安倍さん、この地域は横田めぐみさんが通っていた学校があるんだよね、めぐみさんを助けてください、そう話しかけられました。お母さんの早紀江さんも、お父さんの滋さんも だいぶお年をめされた。なんとしてもお二人の手でめぐみさんを助けることができる、その日がやってくるまで私たちの使命は終わらない。そういう決意を新たにいたしました。
昨年トランプ大統領と会談を行った際、今年の2月10日の首脳会談においても、私はこのめぐみさんの話、そして拉致事件、核の問題について時間をかけて話をしました。この前の国連演説においては、世界が最も注目するアメリカ大統領の演説においてトランプ大統領は、米国の大統領としてはじめて、めぐみさんについてふれてくれました。私はうれしかった。
首脳会談を行ってお礼を言った。そして11月にトランプ大統領が日本にやってくる際に、どうかめぐみさんのご両親、そして被害者のご家族に会ってください、そして日本からこの問題を変えていかなければいけないというメッセージを発してもらいたい、そうお願いをしました。そうしたらトランプ大統領は、晋三わかった、ひどい話だ、この問題を解決をしていくためにも米国は全面的に協力するよ、そう約束をしてくれました。
この拉致問題についても核問題についても、あるいはミサイル問題についても、アメリカや国際社会に連携をしていかなければなりません。中国の習近平主席ともこの問題について話をしました。ロシアのプーチン大統領やあるいはドイツのメルケル首相とも話をしました。そうした外交努力をもって、先般国連において、北朝鮮へ厳しい制裁を下す決議が、満場一致で採択をされました。北朝鮮へ対して厳しい圧力をかけていかなければならない。それは政策を変えるためであります。
安倍さん、そんなに圧力かけて大丈夫ですか。戦争になりませんかという方がおられます。確かに気持ちは分かります。私は紛争なんてまったく望んでいない。闘争を望んでいる総理なんて世界にはいないんです。
みなさんこの20年間、わたしたちは話し合いのための話し合いは意味がないということを経験してきた。94年の核合意。北朝鮮はもう核開発をやめるという約束をした。そして日本や世界は支援した。でも北朝鮮は私たちの目を欺いて開発を行っていた。そして残念ながら貸した400億円、一円も戻ってきていない。
でも私たちはこれを飲み込んで、そして話し合いを続けてきましたが、そして2005年、北朝鮮はもう一度核放棄をするという公約をしました。でも残念ながらみなさん、次の年には核実験を行なったんです。私たちの誠意を欺き、そして話し合いを時間稼ぎに使って、核やミサイルの開発をしていたんです。もうわたしたちに、騙されてる余裕はないんです。
本来北朝鮮は、勤勉な国民がいて豊富な資源がある。しっかりと北朝鮮が新しい道を歩んでいけば国民を豊かにできる。北朝鮮に明るい未来がやってくる。でもみなさん、北朝鮮がミサイル問題や核問題をそして拉致問題を解決しないのであれば、北朝鮮には明るい未来はないんです。いま北朝鮮が意図的に緊張を高めている今こそ、私たちがぶれてはならないんです。みなさん、北朝鮮の脅かしに屈してはならないんです、みなさんそうじゃないでしょうか。北朝鮮の側から政策を変えます、話し合いましょうと言ってくるようにもっていきたい。そう考えています
あの当時のことを思い出していただきたいと思います。日本全国を黒い雲が覆っていた。ひどい円高で、工場や会社はどんどん世界へ出ていった。中小企業や下請け会社はついていけないから、お店や工場を閉めるしかなかった。若い方がどんなに頑張ったってなかなか就職できない、そういう時代だった。
みなさん、日本のGDP、経済力は1997年536兆円、過去最高になりました。でもその後はデフレです。成長できなかった。民主党が政権をとってからはとうとう500兆円をきって、493兆円になってしまった。あのとき民主党政権はなんと言っていたか。人口が減少すれば成長なんかできない。こう言っていました。
でも私はそう考えない。正しい政策さえしっかりとすれば日本人はやればできる。成長させられる。その思いで、三本の矢の政策を進めてまいりました。結果どうなったか。民主党時代、493兆円まで落ちたGDPが543兆円、過去最高。みなさん50兆円も増えたんです。やっぱり日本人はやればできるんです。人口が減少していたって、政策が正しければ成長していくことはできる。
みなさん、株価も22年ぶりの高い数字になった。わたしは株持ってないから関係ない、というかたがおられるかもしれませんが、そうではないんです。みなさんにとって大切な年金がこの株式市場で運用をしていますから、この4年半で年金の資産は46超円も増えてもう心配しなくていい、という状況を作り出すことができました。
また海外からの観光客は800万人から2400万人まで増えた。今年はもっともっと増えていくと思う。この海外からの観光客。日本人の観光客はだいたい5万円使う、でも海外からの観光客は15万円使う。ですからいま海外からの観光客が日本で使っているお金は、4兆円になりました。民主党政権時代はたった1兆円だった。4兆円になって、もっともっと増えていくと、こう思います。
そしてみなさん。中小企業、大切です。
わたしは総理になって従業員10人の町工場を視察しました。その町工場の社長さんのお父さんがいった、言いつけ。それは、従業員を大切にしろ。そのお父さんが残した言葉を大切に、中学や高校を中退して入ってくる従業員、彼らを会社が応援をして定時制高校を卒業させました。
そしてこの会社は、リーマンショックで厳しくなってしまった。民主党政権時代とくに厳しくなっていった。でもお父さんのいいつけを守って彼は誰も解雇せず、がんばって雇用を守った。その後政権が変わって、だんだん状況が良くなった。従業員はこの彼の思いにこたえて、一生懸命工程を改良して、生産性を上げた。そして販路を拡大したんです。その結果いま、みなさん自動車のスピーカー端子のメッキは、世界中を走っている車の約3割は、この工場から生まれているんです。
まさにこれが日本の中小企業の力です。日本人の力なんです。わたくしは頑張る中小企業を応援をして行きます。
たとえば新しい機械を買った。お店を新しくした。そうやって売上を伸ばしたり、生産性を上げて、従業員の給料を上げようと思っている。そういう小規模事業者に、私たちは投資をしたい。固定資産税を半分にする、約3年間半分にするという政策をスタートしました。いまもう3万人の方々が使っている。
またみなさん、大企業の社長に求められなくて、中小企業や小規模事業者、小さな会社やお店やさんに求められるものは何か。それはみなさん、個人保証です。設備投資をしようと思って銀行からお金を借りると、個人保証を求められる。家や土地や家財一切を担保にしなければお金を借りられない。一回失敗すれば終わりなんです。
本人はもとより家族も人生を失うかもしれない。これはやっぱりおかしいと私たちは考えました。そこで私たちは新しい仕組みを作りました。一定の条件を整えれば、小さな会社でも個人保証抜きでお金を借りられるようになったんです。こうした努力も実って、あるいは経済がよくなって、みなさん、前の政権よりも中小企業の倒産はなんと3割も減らすことができました。
もっともっと私たちは中小企業を応援してまいります。みなさん、2009年、私たちは政権を失いました。でも政権を失っても私たちは自由民主党という名前を変えようとは思わなかった。悪いのは党の名前ではない。やっぱり私たち自身に責任があった。何回何回も車座集会を、ミニ集会を開いて皆さんの声を聞いて、真剣に反省をしました。そして、ひたすらに政策を磨き、鍛えてきました。
私たちは三本の矢の政策で政権を奪還しました。デフレから脱却をして、経済を成長させ、雇用を作って、国民を豊かにしていく。こうお約束をし、一つ一つ私たちは実行してまいりました。
雇用は185万人分増えました。そして今日も、若い方にこの街頭に足を運んでいただきました。若い方にとってはやっぱり正規雇用がいいでしょう。正社員になりたい。多くの人はそう思っている。とうとう日本は、一人の正規雇用を求む求職者に対して、一人分の正社員の職がある正規雇用、有効求人倍率1倍を、それを私たちは初めて成し遂げることができました。
前の政権ではどうだったか。私たちに対して正規雇用がないと言って批判していた前の政権時代はどうだったかといえば、あの民主党政権時代は、正規の有効求人倍率は0.5倍しかなかったんです。つまり2人の求職者に対して1人分の正規の職しかない。そういう状況だったんです。
批判だけをしていても、やっぱり何にも生まれてこない。大切なことはしっかりと政策を立てて進めていくことであります。そして、うれしかったことは、この4月、高校や大学を卒業して就職した若いみなさん、就職率は過去最高水準になりました。この前会ったお年寄りが、私にこう言っていました。
安倍さん、最初の孫は運が悪いことに民主党政権時代に就職をした。だから、就職がなかなか決まらなくて悩んでいる孫を見るのがつらかった。でもねえ、次の孫はおかげさまで行きたいところに行けたんだよ。こう言ってくれました。
みなさん、若いみなさんが、自らの手で未来をつかみとることができる社会。そして働きたい人が働くことができる社会。この社会こそがみなさん、希望ある社会ではないでしょうか。私たちはこれからも未来ある、意義ある、希望ある社会をつくっていきます。
この選挙は、どの党に日本を託すか、これを決める選挙です。同時に、誰にこの地域を託すことができるのか、それを決める選挙です。そして、誰を信用することができるか、誰が信頼できるか、それを決める選挙でもあります。当選するために、ころころころころ政党を変える人を信用できるでしょうかみなさん。当選したいがために看板を替える人を信用できるでしょうかみなさん。
どんなに厳しくても歯を食いしばって、自分の信念、政策を遂行するには、がんばるしかない。北朝鮮の脅威から、国民の命と幸せな暮らしを守り抜くことができるのは、子供たちの未来のために、日本の未来のために、その未来を切り開いていくことができるのは私たち自由民主党そして公明党であります。
この選挙はもっと厳しい選挙になる。みなさんの一票を必要としております。どうぞ皆さん、よろしくお願いを申し上げます。ありがとうございます。
これは28にもなってまだ童貞やってる高卒ブルーカラーの婚活顛末記です。
平均以下の人間が婚活はこんな感じなのだと、ちょっと伝えてみたくなったので書きました。
高校を卒業して少しフリーターとして過ごした後、僻地ではない程度の地方に就職して移り住むことになった。
仕事は典型的なブルーカラー。鉄をくっつけたり曲げたり削ったりする町工場のようなトコ。年収は300万にも満たない額。
公共交通が発達していない田舎町で遊ぶ場所もないものだから、近所にある飲み屋のカウンターで常連になっていた。
地元出身ではないにもかかわらず、自分は他の常連のおじさんたちに歓迎されたと思う。ちょっと酒の趣味が渋いのもあるかもしれない。
人口の流出が止まらない土地で、ヨソからわざわざ来た珍しい若者といった感じだったのだろう。
意外なほどにヨソモノは出て行けという空気は全く感じられなかった。もしかしたら自分が鈍感だったのか。
そんなおじさんたちの中に市役所の部長さんがいて、自作PCという共通の趣味があったので最も話した人だったのではないかと思う。
他にも娘さんがポムポムプリンが好きだったらしく、自分はシナモンが大好きだから、サンリオつながりなのかプレゼントの相談に乗ることもあった。
失敗の始まりは「増田くん彼女いないんだっけ?」ってな会話だったと思う。
「今度さー行政で街コンっていうやつの支援するんだけど、行ってみない?」
たぶんおじさんも言ってみただけ。これに乗ってしまったのが大失敗だった。
「失敗しても笑い話にすればいい」なんて考えてはいけなかった。
イベントに行くと保険証を見せなきゃいけないってのは結構な発見だった。
運転免許証では職場が特定できないからダメなんだなってことに気付いたのはちょっとしてから。
何か変なカードも書かされたっけ。このときまで何も考えていなかったんだろうな。
あとはもう悲惨な記憶でいっぱいだ。周りは公務員だらけだった。県庁とか、お隣の市役所から来ました、みたいな。
よく考えればこの街に残っている若い人なんて公務員か土方くらいだけど、土方はこんなイベント来ないから公務員しかいないのも当然だった。
自分も土方側の人間だってことを忘れていた。本当に無残でどうしようもない状況が周囲に広がっているように感じていた。
何が起きていたのかは言うまでもないよね。思い出したりするのもちょっと辛い。
1vs1で話したりするのだが自分のテーブルに来た女性は最悪の空気を味わったろうと思う。
「小役人が市民の税金でコンパに女集めるとこうなるんだね」ってのは自分でも結構なパンチラインだったと思う。
「俺と話しても時間のムダと思ってるんだろうし何も話さなくていいよ」とも言ったっけ。
その後のフリータイム?は隅っこでオレンジジュースをちゅーちゅーしながら天井を眺めていた。
別に上手くいくと思ったわけじゃない。というか上手くいかないだろうとは思っていた。
そりゃ顔も良いわけじゃない、身長も普通だし、収入も学歴も低くて、趣味はちょっと気持ち悪い。話だって上手くない。
避けられるだろうとは想像していたけど、避けられ方が想像とはちょっと違ったのが良くなかったのだと思う。
この空間にもいたくなかったし、こんな人たちばかりの街にもいたくなかった。
市民はますます貧しくなってるのに、よくこんなイベントやってるよな。なんて考えると居た堪れなくなった。
そして、それ以上にもう傷付きたくなかったのだと思う。
次の日には職場に辞めますということを伝えて、引っ越して新しい仕事を探すことに決めた。
「税金でコンパ開くための数合わせに集めるなんてヒドいんじゃない?騙された感じしかしないよ」
おじさんはずっとうつ向きながら繰り返す。
わかってるんだ。そんなつもりじゃなかったことも何もかも。
純粋な思いつきの善意というか、そういうもので構成された何かだったってこととか。
それでも何か言葉を吐き出すたびに攻撃しながら後悔していて、口と頭が全く一致していなくて。
結局のところ友人と仕事を失っただけだった。
自分から手放しただけだという人もいるだろうけど、別に望んでそうしたわけじゃない。
彼女とか結婚とかだってそう。そんなできもしないことは少しばかりだって望んではいけなかったのだろう。
望んでも傷付くだけなんだから。
俺の母方の祖父は昭和の初めに、群馬のド田舎から出てきて、まったくの素人なのに工場を立ち上げ100人規模の、町工場としては大規模な会社に育てた立志伝中の人だった
そのことは小さいころ一緒に住んでいたこともあり聞いていて尊敬していたのだが
祖父は観光地の氷屋を営んでいて紫綬褒章をもらったということしか知らず、なぜ氷屋が紫綬褒章をもらえるのかわからなかったのだが
実はもともと江戸時代に庄屋をやっていた家で曽祖父は村の助役まで務めた人だった、当時は世襲にちかい役職だったので地方役人の道を歩む予定だったが、曽祖父の弟が急に亡くなってその人がやっていた氷屋を継がなければならなくなったのだ
この辺が現代の感覚だと全く分かりにくいが昭和初期はそういうものだったらしい
全くやる気がない祖父はそれを人任せにして庭いじりと消防団に熱中した、つまりニートだ
戦後、その任せていた人が転職してしまったのでいやいや自分が氷屋をやることになった
家の隣にあった(他の人がやっている)氷製造所から氷を買って冷蔵庫に入れておく、注文があったらその氷を切り出して配達する
基本これだけなのだ
そしてこの仕事は夏しかないため冬は庭いじりと消防団に熱中できるわけだ
恐ろしいことにこの仕事だけで家族7人を養いそのうち子供三人を大学までいれたのだ
そして消防団に熱中したためその功績で紫綬褒章を受けたというわけだ
今でいえば半ニートが受勲したということだ
この話を父から聞いて、当時は何と楽な社会だったのだろうと思った。祖父は現在生きていれば110歳くらいなので今の老人の世代とも違うが、こういう社会は二度と来ないのだろうな
戦後は飢餓状態になり、区を通じて米軍支給品のコンビーフなどを配給した。“犬と同じ餌付けだ”と感じたが、食べなければ死んでしまうからみんな列をつくって並んだ。アメリカは日本人など虫けらぐらいにしか思っていないのに、日本の偉い連中はアメリカのために死ねという法案を通す。私たちには今も怨念がある。どんどん暴いてくれ。銀座のど真ん中でやってほしい」と訴えていた。
C 原爆投下後の広島、長崎に匹敵するような悲惨さだった。米軍は春風の強く吹く3月という時期、民家を効率よく焼き払うための油脂焼夷弾の開発、空襲の手順も含めて用意周到に準備し、一般市民の民家が密集する下町地域をとり囲むように爆弾を投下している。火の壁で逃げ場をふさいで集中砲火を浴びせ、火の海を逃げ惑う人人に機銃掃射までやっている。
「機銃掃射で狙い撃ちしてくるパイロットが笑っていた顔が忘れられない」と何人もの人が語っていた。黒焦げの死体だけでなく、窒息死してピンク色をした遺体が蝋人形のように散乱し、それらが公園や学校などで山積みにされて焼かれたという。墨田区錦糸町では、錦糸公園で約1万4000体が焼かれて仮埋葬されたというが、それを伝える看板一つない。あまりの多さで処理できない遺体は何日もかけて川や海に捨てられていたという。
隅田川にかかる橋の欄干や、総武線のガード下などには今でも積み重なって焼き殺された人間の油がそのままの形で染みついて、何度ペンキを塗っても浮き出てくるのだと語られていた。5月の品川での空襲でも「真夜中にガソリンを撒いて焼夷弾をばらまいた」といわれていたが、「あれが戦争犯罪でなくてなんなのか!」と、7、80代の年配者が語っていた。とても昔話という雰囲気ではない。本当に語る場所がなかったからこその鬱積した思いがある。公園などに仮埋葬された11万体といわれる遺骨は、関東大震災の慰霊堂(墨田区横網)に一緒に入れられている。
東京空襲を弔う単独の慰霊施設はいまだにない。なぜそんなことになっているのかだ。
D 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目町会では今年3月、町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。町会役員によれば、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに『戦災死没者過去帳』という約10㍍にもなる巻物をつくって保管していたから建立できたという。遺族の「この地域に住んでいた人人の証となる供養の場所がほしい」という願いが70年をへてやっと実現した。
E 墓誌をつくるための調査で、1家12人が全滅した家もあったことなど、地元の人も初めて知る事実が明らかになっているが、都にも当時の犠牲者名簿などの資料があるにも関わらず遺族が申請しても公開されないのだといわれていた。
地蔵や碑の建立についても「宗教的なものは受け付けない」とかの理由で許可は下りず、「黙認する」程度だという。行政から助成も受けられないため、発起人を中心に町内外に呼びかけたら、続続と寄付が寄せられてつくることができたといっていた。
終戦直後にも数千人が空襲で亡くなった墨田区の菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所から拒否されている。河畔を改装するたびに白骨がたくさん出てきたので「これ以上放っておくわけにはいかない」と住民が独自に地蔵を建立して毎年法要している。
D ある遺族から、1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを見せてもらった。当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対して、官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てた通達だ。
「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針が明記され、これに協力するため「この方針を徹底的に守るようにしなさい」と記されている。
70年たっていながらこの占領下のプレスコードがいまだに続いていることに驚いた。
A 25万人もの都民を殺戮しながら意図的に攻撃対象から外したものもある。ここからアメリカの東京空襲の狙いが見てとれる。
C 代表格は皇居だ。東京のど真ん中に広大な面積を持つ皇居について、米軍ははじめから「攻撃対象にしない」という指令を徹底していたし、天皇側もそれを知っていた。皇居北側の近衛師団司令部、東部軍司令部などの軍中枢部や、市ヶ谷の陸軍省・参謀本部(現・防衛省)など、本来狙われるべき軍中枢が無傷だった。赤坂離宮(現・迎賓館)、青山御所、新宿御苑、浜離宮、上野公園などの皇室所有地や、官僚機構の一端を担っていた皇族住居はことごとく攻撃の対象外だ。
東京駅は焼失したが、皇居に挟まれた丸の内の金融ビル街も残った。三菱本社、三菱銀行、三菱商事、日本興業銀行、横浜正金銀行、東京銀行、第一銀行、勧業銀行、関東配電(東京電力)などの財閥のビルが林立している。朝日、毎日などの新聞各社、放送会館(NHK)も残った。八重洲では日銀、三井本館。永田町や霞ヶ関でも、内閣府、国会議事堂、警視庁、内務省、大蔵省などが残された。ちなみに上野公園に隣接する三菱財閥統帥の岩崎久弥邸も攻撃を受けていない。広島、長崎、下関空襲でも三菱の主要工場は無傷であり、政財界とアメリカの盟友関係を裏付けている。
軍施設がほとんど残されているのが特徴で、陸軍の心臓部といえる赤羽の陸軍造兵廠、陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一、第二兵器補給廠も周囲が焦土になるなかでわざわざ残されている。代々木の近衛輜重大隊、陸軍輜重連隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群もみな無傷だ。
E 工業施設でも、東芝本社のある芝浦工業団地から品川駅付近の港湾施設も攻撃されなかった。全滅した深川区に隣接する石川島造船所、佃島、月島など東京湾に面した工業施設、南部工業地帯の蒲田でも中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、羽田飛行場などの軍需施設はほとんど攻撃されていない。「米軍作戦任務報告書」に記された工業的目標はわずか22カ所に過ぎないが、そのうち破壊したのは18%だと記されている。実は無差別爆撃ではない。絨毯爆撃ではあるが、アメリカの対日支配に役立つものは残し、その邪魔になる庶民は殺すと極めて明確に選別している。
B 「暗闇のなかであれほど緻密な爆撃がどうしてできたのか?」という疑問も多く語られていた。「目標から外す目印のために誰かが下から光を当てていた」と証言する人もいた。原爆投下と同じく「戦争を終わらせるためにやむをえぬ」というものではなく、日本を単独占領するために国民の抵抗力を摘むための大量殺戮だった。
米軍の皆殺し作戦 殺すに任せた支配機構
A 東京空襲にも不可解な点がいくつもある。例えば、空襲直前に警戒警報を解除している。広島、長崎での原爆投下も直前になって警戒警報を解除し、みんなが安心して表に出てきたときに投下されている。あれは軍中枢が協力しなければできないことだ。300機をこえるB29の接近に気づかないわけがないが、物量で太刀打ちできないとはいえ、まともな反撃すらせずに米軍のやりたい放題を開けて通している。
F 広島、長崎への原爆投下でも、軍はB29に対してレーダー照射をして来襲を事前につかんでいた。大本営は原爆投下機の接近を信号を受信して知っていた。長崎では、B29を迎撃する部隊が大村航空隊で待機して出撃命令を待っていたが、結局、命令は下りなかった。NHKも当時のパイロットが怒って証言する場面を放映していた。
A 終戦末期になると特高警察がマークしたのは青年将校だった。敗戦が濃厚になるなかでこれらが反乱を起こすことを恐れた。左翼は早くに壊滅しているが、青年将校らは戦斗経験もあり、速やかにアメリカの占領下に誘導しようとしていた軍上層部にとっては脅威だった。敗戦が決定的になっても国民には「一億総玉砕」を叫んで、若者には特攻作戦をやらせ、本土を死守させる体制をとりながら、上層部が終戦工作にいそしむことに彼らの反発はすごかった。
天皇の「終戦の詔勅」の放送を前に、陸軍の青年将校が近衛師団長を殺害し、録音盤を奪おうとした事件もそうだが、マッカーサーが厚木に降り立つときにも迎え撃つという騒動があり、青年将校に影響力をもつ高松宮が必死になって抑えて回ったというのは有名な話だ。
B 敗戦直後、内地では軍を通じて直ちに武装解除させた。あれは天皇の命令だけでは動かない。軍司令部の指揮系統が動かなければできない。それを米軍上陸前にやらせるためには軍中枢を残しておかなければいけない。もともと海軍をはじめ軍中枢部分には親米派が多かった。陸軍も中国大陸で行き詰まって南進作戦に切り替え、南方の島島に兵隊を放り込んで食料も弾薬も送らない。ニューギニア戦線の体験者も「毎日イモばっかりつくっていた」という。南方はほとんどが餓死と病死だ。
D 敗戦を迎えるにあたって、あのドサクサのなかで米軍上陸、単独占領に誰が荷担したのか。東京大空襲で無傷だった施設を見ただけでも歴然としている。戦後は「財閥解体」といったが、財閥はしっかりと温存された。戦争に国民を投げ込んだ天皇はじめ、官僚機構も丸ごと温存された。開戦時の商工大臣をしていた岸信介が、その後CIAのエージェントとして力を与えられたのが象徴的だが、政界、官僚世界などが叩きつぶされることもなく、対日占領の協力者としてせっせとアメリカに媚びて戦後も機能していった。メディアでも大本営の中枢にいた読売新聞の正力松太郎や朝日新聞の緒方竹虎などがCIAのエージェントとして活躍する始末だ。
イラクでもアフガンでも、他国を占領しようと思えば必ず抵抗があるし、何年かかってでも肉弾戦で侵略者を叩き出そうとするものだ。日本の場合、なぜ無抵抗に近い形で単独占領することができたのか。それは支配機構が丸ごと占領の協力者になり、国を売り飛ばしたからだ。支配機構が軍事支配を受けながらアメリカの道具になって戦後は機能していった。それが今日まで続いている。
E 空襲で生き残った下町の人たちは、戦後は食べ物がなくて生活できないのでみんな市外に出て行ったという。国民を抵抗できないようにバラバラにさせている。抵抗力を削ぐために徹底的に空襲を加えたし、首都圏の人人はとにかくその日を生きるのが精一杯の状況になった。首都圏制圧のためにあれほどの空襲をやって、まさにショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)で占領していった。
C 食料を意図的に統制したので、戦後の方が食料難がひどかった。当時の調達係の人が証言していたが、米軍が国内の食料倉庫を統制して食料危機に追い込んだ。米軍は関門海峡などの機雷封鎖も「スターべーション(飢餓作戦)」と名付けていた。国内から戦地へ食料を送らせない、大陸から送られてくる食料を遮断するための飢餓作戦だった。
都市部はとにかく食べるものがない。配給でもらった大豆をポケットに入れて、それを食べて水を飲んで膨らませて空腹をしのいでいたという。飢え死にが出るような飢餓状態に追い込んでおいて、ララ物資などのアメリカからの、それこそ家畜の餌になる食料が入れられた。そんな屈辱に国会で感謝決議したこともあった。
E 戦後の上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちは生きるために窃盗や売春をせざるを得なかった。GHQは「治安対策」を名目にして浮浪児を見つけ次第捕らえる「狩り込み」をやり、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致し、檻(おり)に入れて監視・収容することまでやった。
B すでに武装解除しているのに進駐軍は必ず銃を携行して、電車も絶対に米兵専用車両に乗るし、接収した建物も日本人は立ち入り禁止にした。「彼らは日本人の反撃を恐れていた」と語られていた。
A 例えば、日本軍が満州を占領統治するのに100万人の軍隊がいったといわれる。日本を占領するには本来100万では足りない。それを日本の支配階級が従って代理政治をすることで米軍の負担を軽くできた。イラクやシリアを見ても、むき出しの占領支配になれば人民の抵抗を抑えることは難しい。それを天皇以下支配階級が全面的に協力し、それによって地位を守るという関係があったから占領できたということだ。
F 同じ敗戦国でも、ドイツではナチス関係者は戦後はみんな追放された。新聞社などもみな解散させられた。連合国による全面講和を結び一国に縛られなかったから、独立の自由性がある。アメリカが単独占領した日本との違いだ。
90年代の米ソ二極構造が終わったときもドイツは独立の方に行き、日本は対米隷属の方に行くので、ドイツ首相から「慌てるな」となだめられたほどだ。その従属路線が現在までエスカレートして、安保法制まできている。
A 現在でも官僚機構も含めて各省庁ごとにアメリカ直結だ。財務省も経産省も防衛省もだ。政策についてもアメリカ大使館の指示の方が強い。
米財務長官サマーズが何度も日本の財務省に直接怒鳴り込んできたし、原発事故のときもアメリカ政府関係者が首相官邸に乗り込んでいって菅直人を怒鳴りつけて指示を出す。アメリカの圧力なしに、民主党の鳩山、菅から野田までの変遷ぶりというのは理解ができない。現在の安倍の突っ走りにいたるまで対米従属の系譜だ。
財閥やメディアも米軍占領下で地位守る
C 原爆展キャラバンのなかで、戦時中に赤坂見附に住んでいて親族がアメリカ大使館に出入りしていたという婦人が、「アメリカ大使館の外側は私服警察の警備で物物しかったが、中にいる在日米国人は戦時中にもかかわらず中庭でゴルフをしていたり、まるで勝ち戦の後のような余裕ある生活をしていた」と疑問を語っていた。
F 当時の駐日大使ジョセフ・グルーがアメリカ本国に帰国するのは真珠湾攻撃の半年後だった。グルーは日本では天皇を中心とする「宮廷外交」を基本にし、軍部の反米派と対立傾向にあった天皇側近の木戸幸一、重光葵、吉田茂、近衛文麿などを「自由主義者・穏健派」と見なして親交を深めていた。開戦後の半年間で終戦までのプログラムをつくる工作をやっていた。
グルーは秩父宮に「安心しろ」といって帰国したが、アメリカ本国では「皇居は攻撃してはならない」、天皇は「軍国主義崇拝に役立ったと同様に象徴として役立つ」と説いて回り、吉田茂とも直接手紙をやりとりしていた。
のちの駐日大使ライシャワーは当時諜報部員だったが、この方向で「天皇を傀儡にして間接統治する」という占領プログラムをつくった。そこでは、戦争中も「短波放送の聴取が許される500人ぐらいの日本のエリートに常に知的な情報を粘り強く伝達せよ」と米陸軍に提案している。実際、1945年5月から「ザカリアス放送」という日本の上層のごく限られた者しか聞くことができない短波の日本向け放送をやり、いつどこを空襲するとか、広島、長崎への原爆投下をいつやるかも全て伝達していた。
これら米軍からの情報を集中しながら六月段階で、米軍の攻撃を全部開けて通して、「アメリカに敗北することで自分たちの地位は保証されることが約束されている」と側近の木戸幸一が天皇に提言している。
A 2月には、アメリカから情報を得ていた吉田茂が近衛文麿に天皇上奏文を書かせた。「米英は国体(天皇制)の変更までは要求していない。最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴っておこる共産革命だ」というものだ。彼らの関心は戦争の勝敗などではなく、いかに国民を押さえつけてアメリカの占領下で地位を守ってもらうかだった。そのためなら原爆を落とされることも甘受するし、東京を焼き払って人民大衆をへとへとに疲れさせることはむしろ好都合という関係だった。
F 財界も最初から通じていた。三菱財閥統帥の岩崎小弥太は、開戦にあたっては「アメリカとは友人だから心配するな」と訓示し、敗戦時は「これから愉快に仕事ができる」と発言している。また、戦争末期には、日本商工会議所会頭の藤山愛一郎、日産コンツェルンの鮎川義介、浅野財閥の浅野良三などの財界代表が内閣の顧問会議を形成していた。藤山によれば、終戦6日前の閣議でアメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表し、「自分たちの時代がやってきた」と喜び、軽井沢の別荘でシャンパンのコルクを抜き、新時代到来を祝して乾杯したという。はじめからアメリカは自分たちを大事に扱うことを確信していた。グルー自身が三菱とつながりの深いモルガン財閥の代理人で、戦前から投資していた権益、金融資産を含めてどう守るかというのが主任務だった。日本の財界人との関係ではアメリカ留学組が多く、鮎川とフォード、浅野とルーズベルトなど、人脈もできあがっていた。
A 天皇をはじめとする支配中枢も財界も、中国への侵略戦争で行き詰まり、負けることはわかりきっているが、中国に負けることになれば日本における支配的地位が失われる。だから日米開戦に突っ込んでいき、アメリカに降伏することで地位を守ってもらう。そのためには国民を犠牲にしなければいけないという意図が貫かれている。
C 東京はすべての政治勢力の本部があるところだが、東京空襲の慰霊碑問題をみても、都民の切実な要求をすくい上げるところがなかった。そこには、第一に米軍による抑圧、宣伝がある。いかにもアメリカが平和と民主主義の味方であり、日本を解放するための戦争をやり、原爆も空襲も戦争を終結させるためにはやむをえなかったかのように徹底的に宣伝したし、戦前以上の言論統制と弾圧をやり、反米につながる原爆や東京空襲についての言論を封殺した。
もう一つは、人民の側に立つべき共産党の指導部が「アメリカは解放軍」と規定して、旧軍部を批判するが、原爆にしても東京空襲にしてもアメリカの犯罪を問わずに来たことが大きい。都民はアメリカと共産党指導部の両方から抑圧され、ものがいえなくなる関係だ。
B 大衆のなかでは東京空襲への鬱積した怒りがあるが、東京で生まれた戦後世代でもほとんどその全貌を知らずにきた。そこでは革新勢力が進歩的な装いで「日本軍が重慶を先に空襲したから、それを反省すべきだ」「日本がひき起こした戦争だから仕方がない」という論調をふりまいてきたことが大きい。原爆投下を「日本の軍部から解放するために必要だった」というのと共通している。
F 共産党は戦前、天皇制の弾圧もあるが、大衆と結びつけず自然消滅をたどった。そのことの反省もなく「獄中18年」を威張り、アメリカを解放してくれた友と見なす一方で、庶民を戦争に協力したと蔑視してきた。特攻隊経験者や戦地に駆り出された者も、「予科練崩れ」「戦争加害者」などといって攻撃し、敵と友を転倒させてしまった。
徳田球一ら指導部中枢は、米軍に釈放されてすぐの人民大会でGHQまでデモ行進し、「解放軍万歳」を3唱した。「民主主義革命の端緒を開いた」といってマッカーサーに感謝し、GHQに入り浸り反米の情報を提供していた。東京空襲も原爆についてもそのような感謝が根底にあるから、正面から批判させない。知識人のなかでも対米従属問題についてなかなか触れることができないということも独特の抑圧構図を象徴している。
A アメリカがプレスコードをかけて行政機構が協力したし、東京空襲についても語らせなかった。そして共産党はあれほどひどい目にあった都民のことを無視して、アメリカを平和と民主主義の友と見なした。敵と友を転倒させて、むしろ大衆を敵扱いしていった。だからいまもって東京空襲について無関心できている。都民の苦労というものにまったく思いがなかったということだ。
C アメリカ民主主義がよかったというが、70年たってみてどうか。日本の富はみな吸い上げられて散散な状況になっている。遠慮知らずのアメリカが、終いには米軍の身代わりで自衛隊を戦地に引っ張り出すところまできた。それで安倍晋三がせっせと協力している。売国政治の根っこは何もかわっていない。左翼の戦後出発について先ほども触れていたが、都民の苦難に足場を置かずに抽象的な全国政治か何かを主張しても話にならない。大衆的というのは地方的で具体的だ。そこに足場を置かなければ全国の普遍性は見えない。東京にはあれだけ政党の本部があって、学者も日本一いながら東京大空襲の惨劇について怒りをもってアメリカを糾弾する勢力がいない。
A 東京大空襲の経験は語れないできた。意図的に抹殺されて、慰霊碑も何もない。これは原爆を投下された広島と比べたら明確な違いがある。広島には平和公園も資料館も供養塔もある。八月六日になるとみなが早朝からお参りに足を運んでいる。十数万人の命日だからだ。そして町のいたるところに町内会、学校、職場などいろんな単位の慰霊碑がある。何が違うのかだ。広島はたたかってきたからだ。戦後は広島でもプレスコードがかかっていて原爆のことを語らせない力が働いていた。「終戦のためにやむを得ぬ手段だった」というので原爆投下への怒りをかき消し、徹底的にとり締まっていた。
しかし当時、風呂屋に行くとみながケロイドを見せながら延延と語っていたという。それを当時の広島では「アメリカの人類に対する犯罪だ!」と真っ向から暴露して斗争がはじまった。占領下の50年8月6日の斗争が端緒を切り開いた。そして5年後には世界大会まで発展した。
この運動を指導したのが福田正義主幹(本紙)をはじめとした共産党中国地方委員会だったが、当時も東京の共産党中枢が「アメリカ解放軍」規定で中国地方におけるたたかいを弾圧していた。これと同じ構造が東京では現在でも生きている。日本人民の苦難の側から敵を暴露するのでなく、友と見なす。戦後出発に大きな違いがあった。
分かれ道は敵は誰か、友は誰かが鮮明でないといけない。あれほど殺されているのにアメリカ民主主義のインチキに幻想をもったら大変なことだ。アメリカが日本を侵略した敵だ。日本人民は戦中も戦後も大変な目にあってきた。人民の敵に対する憎しみと人民への愛情が統一されていないといけない。その人民を代表して敵を暴露する立場でないといけない。東京でもそれが問われている。
A 東京をはじめ首都圏は、沖縄に次いで米軍基地が多い。東京都だけでも総面積は約1603㌶(東京ドーム約340個分の広さ)に及ぶ。空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地や自衛隊施設へ変わった。横田基地は在日米軍司令部であり、すべての在日米軍と自衛隊を統括する指揮所だ。神奈川県には、原子力空母を擁する米海軍第七艦隊の拠点である横須賀基地が盤踞し、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部など米陸軍司令塔であるキャンプ座間をはじめ、爆発事故をおこした相模総合補給廠、通信施設、燃料貯蔵施設、住宅地、演習場などがひしめいている。
とくに横田基地は3350㍍の巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人もおり、米軍のアジア戦略における最重要拠点だ。その影響力から「横田幕府」とさえいわれる。米本土やハワイ、グアムなどから運んできた兵器や軍事物資を相模総合補給廠に備蓄し、戦時になると横浜ノースドックから搬出し、横田基地から空輸する体制で、西太平洋・東アジアを管轄する兵站補給基地だ。
東京都港区の六本木ヒルズがある都心にも赤坂プレスセンターといわれる米軍基地がある。その中身は、陸軍研究事務所、海軍アジア室、米軍の機関紙「星条旗新聞社」、保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地だ。横田基地を経由して日本に侵入する基点として提供され、入国審査や税関などの規制は一切なく、ここから入国する人物については情報公開義務がない。地図上でも「白地」にするほどの機密扱いだ。
そのほかにも府中、由木、大和田、硫黄島の通信施設、日米合同委員会をおこなうニューサンノー米軍センター(港区)、米軍家族専用の娯楽施設である多摩サービス補助施設がある。敗戦直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強なたたかいで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川斗争で頓挫し「返還」されたが航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。
地元でも「道路はいつでも滑走路に転用できるように周辺には高い建物や民家の建築規制がある。ひとたび戦争になれば街全体が一気に軍事基地に様変わりする」といわれていた。
B さらに首都圏の上空には、「横田ラプコン」と呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)にまたがる、広大な米軍専用空域がある。この空域の高度約7000㍍以下には米軍の許可なしには日本の民間機はいっさい進入できない。
羽田空港や成田空港を離着陸する航空機は、通常の離陸はできないため急激に高く上昇してラプコンを飛び越えるか、大回りしなければならない。それが離着陸時の事故、ニアミス事故の頻発につながっている。首都上空を飛行するのに米軍の許可が必要な国など他にはない。
A 沖縄が前線基地なのに対して、司令部が集中しているのが首都圏だ。日本の支配中枢を軍事で抑えつけることで日本全国を占領下に置く。その目的のために、大空襲であれほど殺し、戦後も軍事力を配置しているのだ。沖縄の問題はよそ事ではない。真珠湾でもフィリピンでも、ベトナム戦争でも、いったん攻撃をさせて「報復」を掲げて参戦するのがアメリカのやり方であり、司令部が集中する東京こそミサイルの標的にされる可能性は高い。
B 本所の東京空襲体験者の男性が、「アメリカが問題なのははっきりしているが、どの政治家や政党がこれとたたかえるのか! 結局、自分の地位を守るために裏切る政治屋ばっかりだ」と吐き捨てるようにいっていた。空襲後に軍隊に志願入隊して整備士として厚木飛行場に配置されたが、地下壕を掘らされるばかりでその地下施設を今は米軍が使っている。「戦後は焼け跡から町工場を営んできたが、TPPに参入すればこの仕事が奪われていく。全部アメリカのためだ。そういうことをもっと暴いてくれ」と切実に語っていた。昔から自民党の支持基盤であってもみんな上を信じていないし、内に秘めた思いは少少ではない。
F 東京大空襲は広島、長崎、沖縄に匹敵する大量殺戮だった。その真実をおおいに語り継がなければいけないし、それは日本を再びアメリカの戦争に引きずり込むことを許さない全国的な世論を発展させていく大きな力になる。そのためには、私心なく大衆のなかから意見を集中し、それを代表して導いていく政治勢力が必要だ。そこでは、自己主張ではなく、大衆的であると同時に敵を鮮明にして人民に奉仕する思想でやり抜くかどうかが問われる。
司会 今回の安保法制まできて、対米従属構造こそ日本の平和を脅かす根幹であり、これとの対決なしには再び日本は戦場にされる