はてなキーワード: 町工場とは
苦しみながらも投げぬいたぞ感動!とテレビは囃し立てる
俺は今なんだよ!とジャンプは語り
コロコロコミックですらボロボロになりながら練習することを尊いと子供を洗脳する
スポーツの持つ最も素晴らしい側面が苦痛に耐えながら勝利を目指す自己犠牲の精神であるかのように喧伝することを許してきた者は誰だろうか?
スポーツ選手の持つ最高の精神性は自分の将来よりも目先の勝利を優先することであるという物語を好んできたのは誰だろうか?
そうだ!これは我々の罪だ!
それを今更になって自分たち以外の誰かが悪いなどと言うのは卑怯者のすることだ
私は逃げない
ハッキリ言ってやろう
脳味噌筋肉のスポーツ中毒者どもよ!貴様らがこの世界に提供できるのは感動ポルノだけだ!
感動ポルノを提供できるのならば死ぬまで球蹴りやカケッコをして生きる道も許してやろう!
貴様らが我々に提供すべきはメダルかポルノかゴシップだ!それを否定するのならバイトでもしろ!
水遊びや障害物競走で金がもらえる生活を続けたければ諦めて感動ポルノの生け贄になる道を選べ!
それが嫌ならスポーツで食っていくなどという与太をほざかずに近所の町工場にでも頭を下げて雇ってもらえ
これは我々普通の国民の総意だ。
肝に銘じよ。
第一報を見た時は、まさかこんな大火災になるだなんて思いもしなかった。
令和のこの時代、しかも京アニなんて新進気鋭の大手が、まさか防火設備が整ってないなんて思うわけない。
まして梅雨時で、朝方には、京都市内とはいえ雨も降ってたし、ちょっとやそっとの火事なら大事にはならないでしょう、ぐらいしか思ってなかったたよ。
でも、紙にしろPCにしろ、作業中のものや価値のある資料には、多かれ少なかれ被害はあるだろうなーぐらいの認識だったよ。
まさかガソリンぶちまかれて火付けられたとか、誰がそんなこと想像できるんだよ。
京アニなんていう有名で、話題のある会社だったから、「火事」っていう報道の段階から盛り上がってだけ
火災と放火の全容が見えたら、たぶん現場がちっちゃい町工場だったとしても、これだけの話題にはなったと思う
緊急事態にかこつけて、「京アニを特別視して騒いでるオタクはどうかと思う」って1歩引いたような態度とってるの、クソ寒いしズレてるからやめた方がいいよ
9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。
おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロックの役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。
統一教会よりマシか?
最近、思った事をつらつら書いていく。
SNSを暇つぶしに見て、タイムラインで話題になってたりするのは暗い内容だったり過激な内容だったりする。
実際、良い話より悪い話の方が目立つし、注目されやすいと思う。
老人が子供や親子を車で轢いて悲しみを生むとか。
でも、それは一部であって広く見渡すと良いこともきっとある。
ゲームの受け売りだけど、「捉え方一つで世の中は天国になったり、地獄になったりする」
なるほど、大事なのは物事の捉え方で、どの様に向き合っていくかが重要だと学んだ。
住んでいる所は自動車関連の企業が多く、テレビで広告を流すほどの上場企業もあった。
それなりの中堅企業に入れば安泰みたいな感じ。
仕事の内容は金型を生産したりプレスしたりする、プレス工だった。
紆余曲折あって辞職して、職探しをしてる。ハローワークの求人の酷さに驚いたり。
求人の見学先の町工場では、従業員の半分が外国人労働者であること。
自分の立ち位置が労働者の中でも下位の方だと思っている。派遣やハローワークの求人では安定した生活が出来なさそうだと感じた。
以外と生きづらいものですね。
私よりも大変な人、頑張っている人はたくさんあるはずだ、と考えると少しは元気が出て前に進めそう。
こんばんは。
身に覚えのありすぎる世界の話だったのでなんか言いたいなと思いました。
私は同じ市内や隣の市の人ぐらいなら皆家族の誰かの知り合いの知り合いで、すぐに情報が得られるくらいの田舎で生まれ育ちました。
母はパートで、父は町工場で働いています。100円の回転寿司チェーン店やファミレスでの食事を特別な日の外食だと思って育ってきました笑
正直、都会から来た投稿者さんが田舎で生活していた当時に身の回りにいたら『うざっ』て思ってしまうと思いました。
親の金で気飾ってることを鼻にかけてる都会から来た何か偉そうな気取った女に見えているからです。
後、お金がないからパス、とか今回は安いとこにしよーというのは、ごくごく普通にありふれた会話だったので、その発想がないこと自体に驚きました。
私たちにとっては、気持ちよく友人関係を続けるための言葉でもありました。気遣いみたいな意味もあったと思います。
あ、そうそう。ブランド品を持っていたとして、田舎でどこに持っていくのでしょうか?
田舎ではブランド品を持っていくのにふさわしい場所も使うタイミングもないです。
だから、田舎でブランド品を身に付けている人や高級車に乗っている人は『意味の無いこと・無駄なこと』をしている人に見えるのです。だから目につきます。
水泳大会でスーツの人で泳ごうとしている人が居たら笑うでしょう?
それと一緒です。
何故かは分かりませんが。
田舎らしくない、TPOを弁えない服装、言動は正当な理由がない限り、受け入れられません。
そして残念ながら、そんな田舎では、人の噂話が最高の娯楽です。
都会の人には信じられないかもしれませんが『村八分』という文化(と言っていいのか?)も未だに普通に存在しています。
不平等ですね。世の中は。
しかし、スローライフだ自給自足だなんだと田舎に憧れをもって引っ越して来るような人たちがあとをたちません。馬鹿だなぁと思ってみています。助け合いでの生活なんて幻想です。待っているのは相互監視と足の引っ張り合いです。おすそ分けにくる優しそうなおばあちゃんはスピーカー搭載のスパイだと思ってください。
どうか騙される人がこれ以上でませんように。
https://anond.hatelabo.jp/20190220123505 の続報。
昨日彼と飯を食ったんだが、何か困った顔をして現れた。聞くと、やはりいい求人がないらしいんだが、その中でひとつ迷っている案件があると。聞いてみると、いわゆる町工場で、そこでしかできないような技術を持ったところがあるらしい。金銭的待遇はそう悪くないし、そこの業績はかなり良いらしいんだが、彼はもう完全にオーバースペックなんだな。人材紹介サイトにその案件があったんでポチったら、向こうさんは速攻でメール送ってきて、もうすぐに採用するから!面接いつにしようか?みたいな勢いらしい。
食う為だけならそこに行くのが一番安直だろう。俺も色々調べたんだが、よくしてもらえそうではある。でもアイツが作業服で工場で力仕事込みの日々……というのは、俺にすら想像がつかない。いや、それ位オーバースペックなんだよな。俺も一晩考えてしまった。
私の記憶に色濃く残っているのは、富山のレース生地製造の工場長。どんなものづくりもそうだと思うけど、レース生地の「良さ」って、その生地の注文主のニーズによって定義が変わる。繊細な柄行みたいな品質のみが価値なわけではなくて、少量生産に対応できたり、強度が保てる強い糸が使えたり、製造速度が早かったり、織り傷の発生頻度が少なかったり、何を大事に作るのかが毎回違う。
例えばその工場長は、サンプル反を安価に気軽に作りやすくするために、30メートルくらいある織機を半分に分断して(!)、試し織りをに出来るようにリビルドしていた。初めて聞いたときは繊維メーカーの仕事の範疇とは思えなくて、何度も聞き返したよ。お金のないデザイナーの要望するような生地もこれなら挑戦しやすいし、そういうニーズに応えることで自分たちの技術の幅も広がるからやったんだと言ってた。可憐なレース生地の仕上がりと、つなぎを着て織機の歯車に油をかけるおじちゃんのギャップに尊敬の念を抱いたよ。
ちなみに、高価で高性能なレース織機はフランスで製造されてて、今はもう中国あたりの大資本がそれを買ってヨーロッパ顔負けの高品質な生地を作れるんだって。糸と機械がよければ、人が工夫しなくても一定基準以上のプロダクトは場所を選ばず製造できる。それなら間接費が安い場所に拠点を持ったほうが理に叶うよね。でも、小さな会社はそう簡単に場所を移すことはできないし、今いる場所で収入を得ていかないといけない。だから古びたシンプルな機械に手を入れ続けて製造の可能性を広げることに余念がない。そうしないと質✕コストの評価軸だけではすでに中国に負けてるからって言う。若く野心的なデザイナーの難題に応えたり、飛び込んできた短納期の生産を叶えたり、それ以外の多様な「良さ」を備えるためは機械を加工することは必然なんだって。溶接跡が残り、アルミテープで巻かれ、絶妙なサイズの木っ端が噛まされた機械なんかを見るたびに、職人さんにとっての「手」とは機械や道具までのことだなって思う。このレース工場が特殊なわけではなくて、全国の町工場でも類する工夫を見かけたよ。併せて、多様であることは資本ない人々がそれぞれの実りを目指せる方法なんだとも思った。働いている現場の人にとっては当たり前すぎてピンとこない発見かもしれないけど、出来上がったものを買ってただ使うことしか知らない私には衝撃だった。
おっちゃんたちは勉強熱心で、必要とあらば60を過ぎてもプログラミングを勉強してマシンに応用してたりするけれど、やはり使われている情報が高度になりすぎると力及ばなくなるのは想像できる。(そんな高度なマシンを中小企業が装備できるかっていう別の問題もあるけど)だから、人にアレンジされ易い余白を残す製造機器や道具が残る方法はないかなって個人的には願っている。発明は大企業のラボだけで独占されるべきではなくて、市井の製造現場で努力を重ねる人々の手にも生まれるほうが面白いと思う。創造はいつだって喜びに溢れてるし働きがいになる。安価・高性能・高効率な完成された機械だけじゃなくて、人と一緒になって発明を生みだすような余白のある機械やガジェットがこの後も人類と共にあるといいよねって。
いやだから、農村から都会に集団就職したその時(1960年代中期)はいいけど、その後(1970年代中期以降)に産業構造の変化で重厚長大な第二次産業は衰えて、炭鉱や大規模製鉄所が倒産したり、町工場が閉鎖された事例がすごく多いんだよ
完全失業率が3%超えるような非完全雇用の状態になったのはバブル崩壊以降であって、1970年代なんかはまだ完全雇用状態だったようだ。([完全失業率 時系列]とかでググれば分かる)。勤め先が潰れても、働く意思がある人間はおそらくなんらか仕事にはありつけていたということ。
>この世代の高卒中卒は、今の世代の高卒中卒と比べたら悲壮感まったく薄いでしょ。金の卵なんて言われて農村から都会に集団就職して重宝がられた時代だもの。
いやだから、農村から都会に集団就職したその時(1960年代中期)はいいけど、その後(1970年代中期以降)に産業構造の変化で重厚長大な第二次産業は衰えて、炭鉱や大規模製鉄所が倒産したり、町工場が閉鎖された事例がすごく多いんだよ
最初からホワイトカラーなら何とかなったろうけど、30歳前後でブルーカラーが失業とか当時は大変やぞ
しかも1970年代の高卒中卒貧乏人だ、住まいは風呂なしが当然、クーラーもない、カラーテレビもない、たぶん固定電話すら個人じゃ所有してないぞ、今の高卒中卒より幸福だったと断言できるかは難しい
それでも、現代と比較すれば社会全体は上向きでみんな成長の継続を信じられたって言うだろうけど、それ全部後づけの話で、オイルショックの起きた1970年代中期からしばらく「日本はどうなるんだ?」て深刻ぶってた奴はすごく多い
そして、その後バブル期が来ても株や不動産や土建と全然関係ない仕事だから特段良い思いもしなかった団塊中年は大勢いる、うちの親とかw
変更前
9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、県内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロック (都道府県レベルの組織) の役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。
変更後
Facebookメッセンジャーで脅されたので、全文晒して真っ向勝負しようかと思いましたが、戦っても1円にもならないので削除します。コメくれた人、読んでくれた人、すいません。
偉大なる元増田様
https://anond.hatelabo.jp/20180306002045(削除済)
https://megalodon.jp/2018-0306-0620-50/https://anond.hatelabo.jp:443/20180306002045
archive.is
9年ほど前、地方都市の小さな町工場を経営していた父が亡くなり、家族と古株社員に説得され、地元に戻って27歳で後を継いだ。元々継ぐ気はなく、大学以降ずっと都内で過ごしていたので、地元に馴染めず苦労した。仲が良かった友達もほとんど地元を離れていたし、社員や親戚とは話が合わず、友達を作ろうとスポーツサークルに入ってみたら元ヤン達が幅を利かせていてすぐ辞めた。おれは孤独だった。
そこに青年会議所の誘いが来た。何をやっている団体なのか全く知らなかったが、地元の祭りや花火大会を盛り上げたり、まちづくりのボランティア活動やビジネスセミナーなどを通じて経営者として勉強して、地元の中小企業の経営者同士のネットワークを構築するのだという。活動内容にはピンと来なかったが「経営者には経営者同士しか分からない悩みと孤独がある。それを共有できる仲間ができる」という言葉が突き刺さった。入会金1万円と、1年分12万円の年会費を振り込み入会した。
1年目。子供達のサッカー大会の運営に携わった。市民と一緒にゴミ拾いをした。花火大会のポスターやチラシを検討する部会に入り、自分の意見が採用されると誇らしい気分になった。居酒屋やバーに行く仲間ができ、バーベキューをしたり、地元でようやくリア充的な日々が送れて嬉しかった。
2年目。市長や国会議員や100人以上のOBが集まる新春懇談会を運営するスタッフになった。はじめての出向も経験した。それまでは市単位の活動だったが、県内各地の青年会議所と一緒に委員会を作って活動するのだ。遠方まで出かけ、はじめて行く町で真面目に会議をし、そのあと楽しく飲んで仲良くなった。自分自身が拡張されるようで、嬉しくなった。
3年目。4年目。だんだん色んな役職を任された。後輩ができ、教える立場になった。隣県で開催されるフォーラム、京都での会議、横浜でのカンファレンスなどに参加した。たまに動員に協力させられる憲法や領土問題などのセミナーや、いろんな署名活動のお願いなども、積極的とは言えなかったが協力した。
5年目。国内で国際会議が開催されることとなり、その運営に携わる委員になった。全国あちこちで開催される会議に毎回参加した。横断幕バナーを持つためだけにヨーロッパにも行った。会社は何とか軌道に乗っていたし、自分の勉強にもなると説得されて役目を承諾した。大変だったが、充実の日々だと自分に言い聞かせた。
6年目。ブロック (都道府県レベルの組織) の役員をやった。ブロック内の新入会員に、青年会議所のビジョン・ミッション・バリューを叩き込む役割だった。トップであるブロック会長の教えは厳しく、ブロック内の理事長達が集まる会議に提出した議案は「背景・目的と手法が乖離している」と叩かれてボロクソに言われたが、意地を張って徹夜で修正し、通した。理事長達に「成長したな」と言われて涙を流した。
7年目。地方の青年会議所を束ねる上位組織、日本青年会議所のスタッフになった。トップに立つ会頭の言葉は絶対で、役員と一緒のエレベーターに乗ることは許されず、奴隷のような扱いをされながらホテルに缶詰になって上からの指示を徹夜でこなした。なにしろ、国民的な憲法議論を喚起するという大切な事業を遂行するのだ。何度も壁にぶつかったが、委員長や常任理事のアドバイスもあって乗り越えた。素晴らしい先輩達に恵まれたと感じ、あの人達のようになりたいと思った。
8年目を迎える直前の年末、母が倒れた。会社はいつのまにか赤字に転落していた。売り上げが落ち、接待交際費と交通宿泊費が激増していた。来年の理事長に相談した。その人を支える女房役となる専務理事を引き受けていたからだ。役目を引き受けるのは無理だ、JCは休んで仕事に専念しないと会社が危ないと話した。次年度理事長は言った。逆境が人を強くする、それはその人に与えられた試練だ、人は乗り越えられない試練を与えられることはない、だから仕事もJCも死に物狂いで頑張れ。そう言われた。
こいつは何を言ってるんだ。
バカなのか?
おれが今までどれほどJCのために頑張ってきたと思っている。
少しくらい休むことも許されないのか? こんな状況なのに?
そしてすうっと冷静になり目が覚めた。
おれは友達が欲しかった。それと、しぶしぶ継いだ会社だったが、なんとか頑張ろうと思って、その役に立つと思って勉強しようと思った。そんな中、せっかく誘われたことだし、青年会議所がどんなものか分からないけどやれるだけやってみようと思って、やってくる機会にチャレンジしていた。そしたらいつの間にか、おれは青年会議所が命じたままに憲法改正や領土領海問題を他人に説き、偉い偉い役員様が海外でスピーチする時のガラガラの席を埋めるためだけに自腹でニューヨークやオランダに行く人間になっていた。そして家族と会社が不幸になっていた。
それでおれは、退会届けを出した。引き止めは強烈だった。携帯が鳴り続け、会社に何度も色んな人が来た。時に優しく諭され、時に怒鳴られ、時に泣かれた。父の友達だったというOBまでやってきた。地元の集まりに顔を出しにくくなるぞと脅されもした。どんどん青年会議所が怖くなり、嫌いになり、おれは意思を貫き退会した。
青年会議所には、入会前のおれのような人間が陥りやすい罠が待っている。孤独を埋めてくれる仲間と、彼らと一緒にわざわざ作られた苦労を乗り越える経験から得られる高揚感だ。ほどほどで満足できるうちはまだ良いが、のめり込むとだんだん、周りが見えなくなる。入会前に母が「JCはやめておきなさい」と言ったのを聞いておけば良かった。ごめん。病院のベッドに横たわる母に謝ると、彼女はテレビから目を離さずにこう言った。