はてなキーワード: 珍獣とは
人種差別じゃないんですよ。
そもそもケニア人に限らず、駅伝に限らず、スポーツ推薦の連中はみんな嫌いなんです。
ただケニア人留学生という属性のおかげで、「勉強なんかどうでもいい、運動さえできればいい」
なにしろ彼らには、大会で活躍して大学の名前を売ってもらい、愛校心を盛り上げるという大事な役割があります。
だから優遇されてるわけです。体育学部みたいなとこで、キャンパスも別で、しかもろくに通わなくても、
「運動部でござい」って書いたら、黙っていても空から単位が降ってくることでしょう。
だから普段は寮住まいで、ひたすら練習して、試合がある時だけ人里に下りてきて、喝采を浴びる。
彼らが頑張ってるのはわかります。高いレベルにあるのも確かでしょう。
おまけに理不尽に耐えるということで、就職にも有利なわけです。
しかしフツーの学生とは出自も違えば、普段の接点もほぼないじゃないですか。
なんでこんなん応援する気になるんでしょう。ラグビー日本代表とかそんなレベルじゃありませんぜ。
なんせごくごく稀に一般入試で入ってきた人がいたら、逆に珍獣扱いされるぐらいですから。
いやまあ、そんなこと言ったら私大なんて内部推薦AOなんでもありで、
90年代後半からオタク論が学術的、サブカル論的に語られ始め、2000年過ぎあたりを境に徐々に下火になっていった。ネットの個人サイトにおいてもオタク史やオタク論をまとめたものはいくつも見つかるが、その多くも2005年前後で語ることをやめている(その意味では『オタク論の死について』(エフヤマダ, 2014)はオタク論の現状に対する貴重な指摘である)。
本稿は真のオタクとは何であるかとか、データベース消費や心理学がどうこうといった話には一切言及しない。本稿の目的は誰がオタクと呼ばれ、誰がオタクを自称したのか、その変遷を整理することである。
第一回コミケは1975年12月に開催されたが、この時点で彼らはアニメファンやマニアと自称しており、オタクではなかった。もっとも二人称としての「おたく」はそれ以前のSF大会から広く使われており、そうした状況から一部で彼らを「おたく」と揶揄していたという指摘は存在する(岡田斗司夫, "オタク学入門", 1996)。とはいえ、彼らを「おたく」と明文化したのは1983年、中森明夫によるものという点で見解は一致していると言っていいだろう。
「運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴ら」「栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタ」「女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴ら」(中森明夫, "『おたく』の研究(1)", 漫画ブリッコ(1983))
中森はこのように「おたく」を形容する。この時「おたく」に知識量や購買力などは一切要求されておらず、現代で言えば非モテのコミュ障ブサイクへの侮蔑の言葉であった。この連載は批判意見の殺到により早々に打ち切られるが、一方、オタク達は自虐を込めて「おたく」を自認するようになっていく。
ほぼオタク界隈の内部でのみ使われてきた「おたく」は、1989年、宮崎勤の連続幼女殺人事件で一気に世間に知られることとなる。宮崎は6000本のSF、ホラー、アニメを録画したビデオテープを所有しており、この点からマスコミは「宮崎のような非コミュでインドアなブサイク」の代名詞として「おたく」を用い、バッシングを展開した。
「オタク、かっこ悪い?」
そういう問い自体出なかった
「オタクは格好の悪い生き物だ」
侮蔑され諦観し
故に侮蔑され故に諦観し
数珠つなぎの輪がぐるぐると回っていた気がする
(中略)
おい あれ
プッ
ぎゃはははは
オイロリコン部ーッ
ぎゃははははははは
世間は宮崎のような人物をオタクと呼んだ。宮崎のような気持ちの悪い見た目をしているならそれは宮崎であり、あるいはアニメが好きならロリコンであり性犯罪者である。全て一括りに扱われた。
当時の高校生オタクにこうした罵声に反論する公の場など当然無く、家族からも白い目で見られ、彼らはひたすら耐えるしか無かった。その意味で、当時彼らにとってオタクであるという自称は「同じ迫害に耐える同志」という意味だったと言ってもいいだろう。
岡田は現代でいうところの作画厨と考察厨を兼ね備え、またアニメに留まらない広範な知識、教養と分析力を有する者を「おたく」と呼んだ。世間からの白眼視に耐えてなお「おたく」であった連中であり、加えて当時は今よりはるかに娯楽の少ない時代であり、情報収集と理論武装に傾倒した者が少なくなかったことに不思議はない。
80年代後半からパソコン通信が、そして95年以降でインターネットが徐々に一般家庭へと普及を始める。同人誌即売会と異なり時間的空間的制限無しに、そして同人誌制作に比べてはるかに手軽かつ安価に意見交換できる場は、不特定多数のオタク間の相互交流を可能にし、各自の知識差が広範に意識され始める。
そして『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明, 1995)が大ヒットを記録する。これにより宮崎勤を知らない世代である中高校生を中心にオタク人口は大きく増加し、終盤の難解な展開の考察や解釈を求めてネットが活用された。ネット黎明期、オタクの集う場所はごく限られたこともあり、高度な知識と分析力を備えたオタクの存在はより多くのオタクの目に触れることとなり、各オタクの「濃さ」が相互に自覚されていった。翻って「自分はあれほどの知識を有しないからオタクではない」といった謙遜も生まれ、こうしてネットとオタク人口の拡大によってオタクと呼ばれる者とオタクを自称する者のズレは拡大していくことになる。
エヴァ以降、『カードキャプターさくら』(浅香守生, 1999)のようなロリコンアニメから『serial experiments lain』(中村隆太郎, 1998)のようなカルトアニメ、あるいは『カウボーイビバップ』(渡辺信一郎, 1998)など幅広いジャンルで今なお名作とされるアニメが相次いでTV放送され、無垢な若者のオタク化を助長し続けた。
他方、オタクをPCに向かわせた要素として95年以降のエロゲにおけるカンブリア爆発的な状況の影響は否定できないだろう。『雫』(Leaf, 1994)に始まるビジュアルノベルの勃興と「泣きゲー」の流行など、現代エロゲのベースはこの時代まででほぼすべて確立したと言っていい。
コミュニケーションツールとして、コンテンツ再生機としてPCはオタクの必需品と化していった。これと同期して、それまで家電製品の街であった秋葉原は90年頃からPCパーツの街へと変化し、来店するオタク率の高さからトレーディングカードやフィギュア専門店が相次いで秋葉原に出店、秋葉原はアキバと化していく(森川嘉一郎, "趣都の誕生 萌える都市アキハバラ", 2008)。
そして2005年、TVドラマ『電車男』が視聴率20%を超えるヒットを記録する。オタクには「アキバ系」という新たな名前が与えられ、アキバは一般観光客がオタクと呼ばれる気持ちの悪い珍獣を生で見ることの出来る動物園として扱われた。
珍獣としての要素については、モーニング娘。に端を発するアイドルオタクによって発展したオタ芸にも言及してしかるべきだろう。視覚的にわかりやすい「気持ち悪さ」を有したそれらの振る舞いは、オタ芸という名前を含め、何をオタクと呼ぶかにおいて一定の影響力を有したと考えられる。
2006年に登場したニコニコ動画は、2007年発売のVOCALOIDの登場などを通じて非アングラユーザ、中高校生といった若年層のユーザを多く取り込み、違法合法問わず大量のアニメやゲームといったオタク系コンテンツを抱え込んでいく。
アニメは放送時間が限られ、視聴時間をあわせて見るか、わざわざ録画予約しなければならない。ゲームも安くない金額を支払ってプレイする必要があり、多くの場合プレイ時間は数十時間以上を必要とする。これに対し、動画サイトに投稿された動画に必要な手間はクリックするのみである。オタク系コンテンツの視聴にかかるコストはかつてと比べ著しく低下した。
またアフィブログの影響も否定できまい。2chのログをまとめて整形し、見やすく要約する形で作られたゲーム系、アニメ系アフィブログは人気を博し、その読者は当のアニメを実際に見たことがなくともその内容を大雑把に把握し、売上情報やスキャンダルを把握する。その情報はあくまでアフィブログに書かれている内容に留まるが、彼らが一定のオタク的知識を有していることはまぎれもない事実である。
こうした層はアニメやマンガを多少知ってはいるが、深く傾倒しているわけではない。オタク系コンテンツの情報収集に必要なコストが高かった時代、身だしなみ等、オタク趣味以外にコストをかける余裕は無くて当然と言えたが、しかしコストが下がるにつれてオタク趣味以外へ投資をすることは普通になり、まともな容姿で一般的話題も把握した「オタク的な知識を有する何か」が徐々に増え始めることになる。
「非モテ」という単語が使われ始めるのは2006年以降であるとのことだが(松谷創一郎, "〈オタク問題〉の四半世紀", どこか〈問題化〉される若者たち(2008))、中森がかつてオタクと呼んだ人々は、こうして「おたく」という乱暴な括りから非モテ、コミュ障等と細分化し始める。
誰をオタクと呼び、あるいは誰がオタクと自称するかは、各々が自分の周囲にいる自分がオタクだと思った人を参考に決定するのだとすれば、ヤバい容姿のいかにも濃いオタクがかつてはどのサークルや同好会にもいた(黎明期は全員そうだったと言ってもいいだろう)時代と比べ、2010年に近づくにつれてそうした人物は減少し、あるいは絶滅していったと言え、こうして当人の周辺環境によって誰をオタクと呼び、誰がオタクと自称するかの個人差が拡大していったと考えられる(SNSの発達により、小さく仲の良いコミュニティが大量に分散して存在するようになった、という点もあるだろう)。
一方で2007年以降、AKB48が握手券商法を本格化させたことにも言及しておきたい。ファンにとって投資金額は熱意と情熱を表すバロメータとして機能した。彼らは自分がどれだけ投資したのかを示し、それによって同じファンから一目置かれるようになる。かつてネットによってオタクの濃度差が知識差として可視化されたと述べたが、投資金額の多寡としてもそれは可視化されるようになっていった、と言ってもいいだろう。
細田守監督の映画作品は『時をかける少女』(2006)を筆頭に非ジブリアニメながら広く世間に受け入れられ、『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之, 2011)、あるいは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(長井龍雪, 2011)のヒットはアニメを見るというオタク的行為に手を出す敷居を下げ、アニメを見ることは異常ではないという空気を作っていく。
2011年、アエルラ、アイムシングルの2つのオタク向け婚活サービスが開始される。このオタクの定義を見てみると、アエルラは「一つの趣味を愛し、共有したいという気持ちがあれば、それはオタクである」と定義し、アイムシングルでは明確な定義こそないが、「マンガ・アニメ・ゲーム好き」をパーティ参加の必須条件としている。
筆者が数回体験した範囲に限られるが、実際にこうしたパーティに行ってみるとかつて中森が嘲笑したような「おたく」を見ることはない。いささか一方的な会話を展開する男性は多少いるが、慣れない場に緊張したことの影響も少なからずあるだろう。一方、岡田がオタクと呼んだような広範な知識教養を有するオタクを見ることもまたほとんど無かった。面白いことに30代の参加者でも90年代後半のアニメの話題に反応する例は少なく、良好な反応の得られるアニメは概ね2010年以降であった。こうした点から彼らのオタク的趣味の範囲はここ数年に限定されており、もともとオタク的であったのかもしれないが、オタク的趣味を実際に楽しむようになったのは最近であると考えられ、10代の若者に限らず、幅広い年代でオタクと自称、あるいはそうと意識する人口が増えているという認識を抱いた次第である。
他方、携帯ゲームの課金要素の充実や2010年以降のアイドルアニメの興隆などから、グッズその他のオタク的趣味への投資金額の多寡がオタクとしての熱意の度合いを示すバロメータとして意識されるようになっていく。2015年、TVニュースにて「リア充オタク」が特集され、その「リア充オタク」のオタク趣味への投資は年間2万5千円であると報じられた際、その金額の少なさへの揶揄が主にTwitterで取り沙汰された点は、その意味で興味深いものがある。
アイドルオタクとアニメオタクを絡めるなら声優のアイドル化への言及は本来必要不可欠だし、女性オタクへの言及が明らかに足りていない、ゲームオタクについてなど全体的に漏れが多い点は自覚している。申し訳ない。
また整理の都合上、いささか恣意的に流れを作った部分があることも否定できない。例えばネットの普及+エヴァによるオタク人口の増加→知識格差の可視化、という流れは自分でも「本当にそんな単純な話か?」という疑問を抱いているが、ざっくりした傾向というレベルではまぁ嘘ではないだろうと考え記載した次第である。
ただ、ある人が誰かをオタクと呼ぶ時、あるいはある人が自らをオタクと称する時、その内容から当人がどういう時代背景を前提としてきたのか、あるいはどういうコミュニティに所属してきたかを推測できることは、会話の食い違いやすれ違いを修正する手助けになると筆者は考えている。
「お前がモテないのは顔が不細工だからでも、オタク趣味だからでもない。性格が悪いからだ」
よく言われるがこれはたぶん事実だ。
先輩に一人、イケメンでもないし、趣味もマニアックだが、中身の素晴らしい人がいる。
余裕があって誰にでも優しい。10人いたら9人から嫌われないレベルの聖人だ。
俺が女なら周りのイケメンもどきなんか無視してアタックしてるかもしれない。
でもさ。俺が見る限り、そこまでやってようやく普通の扱いなんだよ。珍獣ポジションから抜け出せただけ。
あんなの目指せと言われても無理だ。絶対に真似できないし、しようとも思わない。
「中身がよければ」とか言う奴は目を覚ませ。
まだ整形でもした方が楽だぞ。
ぼくの考えは1ミリも変わらない、どころか、この確信は強固になっているので、あらためて書いておきましょう。
わかりますか。専業ブロガーのブログはダメなんです。もう、読んでて全然面白くない。
異論がある?異論は認めません。じゃあ面白いブログを教えてくださいよ。ぼくは本当に、ブロガー専門で生活している人のブログで「面白い!」と思った試しがありません。
なぜか。教えて差し上げましょう!
1. 守りに入っている
まさにイケダハヤトさんが書いてる「まだ東京で消耗してるの?」のブログは象徴的で、あれつまらないと思うんですよ。イケハヤさん見てますか〜?つまらないですよ、最近。
いや、イケハヤブログは良くできてますよ。セルフメディアとしては日本一だと思います。煽り見出しの選択もうまいし、それとは分からないようにこっそりとチマチマ稼ぐマネタイズもうまいです。
でも、決定的に「面白くない」んですって。
何かと言うと、ブロガーは「攻められない」んです。自分の居場所であるブログを、自分を、守らないといけません。彼は自分のブランディングを傷つけることができません。
サラリーマンはブログで生きているわけではないし、匿名でも書けるので、ブログには何でも書くことができるんですよ。他人に読まれなくても、自分にとって面白いことは何かと考えるエントリーを自由に書くことだってできる。一方でイケハヤの記事は炎上に溢れていますが、それは模倣可能で、もはやコモディティなんですよ。
最近流行ってるじゃないですか、毒のある炎上って。「ブログ芸人」はアートではなく、ビジネスの領域の「テクニック」に堕しました。イケハヤは一つの時代を築き、今終わりかけているのです。勝手ながら、次の変化に期待しています。
…と、イケハヤに対して愛の刃を振るってしまいましたが、要するに「もうつまらない」んです。専業ブロガーの最高峰の集大成ともいえるイケハヤですら、もう面白くない。小銭ねらいの炎上より本当に言いたいことを優先する覚悟が、これからのメディアには求められるのです。
イケハヤには言わずもがな、守るものがあります。ブロガーであるイケハヤが文章を書くとき、イケハヤは「こんなこと書いたら炎上しないかも」という恐れが頭をよぎります。そしてイケハヤは、結論を変え、文末のエッジをねじり、「笑い」と「愛」を手放してしまうのです。ああ!
自分を燃料として炎上するセルフブランディングのブログからは、もう「面白いもの」は生まれてこないんです。炎上のテクニックを極める方向にしかいかない。あとは意識高い系とか社畜批判コンテンツ。ツイッターの大学生のアカウントでいいじゃん、それ。あとは「◯◯が超つまらない理由」とかね。NAVERまとめでいいじゃん、nanapiでいいじゃん、それ。あなたの貴重な人生を割いてまで書く意味はない!
2. 変化が遅すぎる
まぁそりゃそうで、「毎日10時間ネットばっかり見ているイケハヤ」と、「毎日3時間しかネットを見ずにあとはハードな仕事をしたり美味いモノを食ったりしている田端信太郎」がいたら、後者の方が経験値もあがるし女にもモテるんですよね。専業ブロガーは経験値が少なすぎるんで、変化が見えないんです。
イケハヤのようなブロガーは、一日中ブログのことを考えています。データを見て、PDCAを回しています。毎日のように書いているので、ブログを書くスピードも上がります。
イケハヤは今や、1日15本の記事を生産できます。毎日10本更新を365日続けて、3,650本。兼業ブロガーはせいぜい1日に1本でしょうから、365本。そりゃ、記事の濃さは違いますよね。はい論破。…小銭稼ぐなら、薄い炎上記事を量産するより要領のいい方法がいくらでもあるのに。
読者は、イケハヤの変化を望んでいるんです。みんなドラゴンボールが好きですよね。孫悟空がいつまでたっても成長しなかったら、飽きるじゃないですか。
変化しなければ、成長しなければ、面白くないのです。ブログのPVと、チャリンチャリンと落ちてくる小銭ばかりが気になって、狭量な考えのブロガーに終わるんではなくて、多様な考えの人と沸騰的なコミュニケーションを取るような情報量の多い経験に徹底的に時間とエネルギーを注いで、人生の幅を拡げるべきなのです。そうしなければ、イケハヤは主人公にはなれません。イケハヤはいつまでたってもイロモノか、懐かしのブログ芸人の域にとどまります。
3. みんなと同じようなことしか書けない
ブロガーとして成功するために知っておくべき、真理を伝授しましょう。目ん玉洗ってよく読んでください。
この2つの真理から導き出されるのは「専業ブロガーは他者との交流が決定的に欠如しているがゆえに、どれだけ頑張っても同じようなことしか書けない」という帰結です。
面白い文章が書きたければ、自分が面白くならないといけません。面白い生き方をすれば、あなたの文章能力が低かろうが、あなたのブログは読まれます。
あなたの生き方が薄っぺらで独善的でつまらなければ、どれだけ技巧を凝らしても、ブログは面白くなりません。面白がられたとしても、一発ネタで終わりですね、せいぜい。テクニックレベルの話は、すぐに飽きられます。
イケハヤは社会的には珍しい立場でもなんでもなく「新卒で入った大企業を1年で辞めて」「次に入ったベンチャーも1年で辞めて」「社会人3年目に独立して」「ブロガーとして生計を立てており」「東京を捨てて高知の山奥に家族で住んでいる」という、割とオリジナリティの高いバックグラウンドを有しているつもりのようですが、この程度のドロップアウトした人間などいくらでもいますし、書く文章など大して面白くないですよ。
イケハヤ程度の人間なんて無数にいるんです、この日本において。その立場を選ぶかぎり、イケハヤは「その程度のこと」しか書けません。ニートのブロガーの方がよっぽど面白いですよ。ニートの方が珍しい存在ですから。
クリエイターになりたければ、まずは環境を選べ、ということです。あなたが他者の相反する利害に揉まれるような混沌とした環境にいればいるほど、生み出すものは面白くなります。専業ブロガーに甘んじているかぎり、差別化ができないのです。
4. 応援したくならない
イケハヤのブログって、あんまり応援する気にならないんですよねぇ。だって、別に誰が応援しなくてもイケハヤは生きていけるわけですから。
一方で、たとえば宮森さん。いろいろ捨てて実家に戻り、ブログを書きまくっているようです。これはもう、応援したくなりますよね。たまにブログを見て、面白い記事を見つけては拡散しています。でもいつか家を出るような気がしますし、ぼくはそれを勧めますね。ブログで食うのはいいけど、イケハヤのマネはして欲しくないものです。
イケハヤも現在、ブログで活動していますが飯は3食食ってます。食欲の問題は別ですから。月収もやっと3万円超えた程度なのにね。しかし、イケハヤはあのブログで生きていこうと決めたようです。それは自分が生きるために、他人の生き方をけなしながら炎上しつづけるということです。そんな生き方の価値が、他の人よりそんなに高いものなのでしょうか?
メディアづくりにおいて「応援される」という要素は超重要です。面白い存在であれば応援されるし、応援されればさらに面白いものを作れるようになります。しかしイケハヤのような拙い炎上芸も、かなり飽きられています。だからこそ彼にも焦りがあるのでしょう。
住宅ローンの記事なんて、自分さえ儲かれば他人をだましてもいいという領域まで行っちゃってます。あれには呆れました。これまで珍獣を見るようにして面白がっていたまともな大人たちも、あの記事で読むに値しないブログだと決めたことでしょう。個人的には謝罪エントリーがあってもいいと思うレベルです。
もちろんイケハヤは「安全な立場にいる以上、あなたは応援も、期待もされません」というはずです。そりゃそうでしょう。彼はそれでしか生きていけないんですから。しかし、あんな記事を書くような危険を冒すことに何の合理性もありません。
普通の人は「これから起業して社会を変えてやろうと思っているんです!」なんて浮ついたことは口にしませんよね。言ったとしたらアホ扱いされます。そもそも社会とは、他者との齟齬が渦巻く空間なのですから。だれか一人がコントロールできる社会の、どこが豊かなのでしょうか。そんな貧しい社会を願っているなんて、よほどのコンプレックスがあるか、あるいは何も考えていないかどちらかでしょう。
まあ「でも、リスクヘッジのために会社は辞めませんけどね(てへぺろ)」とか言ってたら、それなりに考えている利口な人なのかもしれないなと思いますが。これと一緒です。
武雄市の公務員を辞めて高知に来たイケハヤのアシスタント・里本さんは、「公務員辛すぎて辞めました。ブロガーになりたいです」と、なんか死にそうなメールをイケハヤに送ってきたそうです。イケハヤは手を差し伸べて、応援してあげないといけないと思い、彼が公務員を続けていたら、イケハヤは応援していませんからね、と言ってるそうですが、ぼくにはどうでもいいです。ただ里本さんには、しばらく世話になったら丁寧にお礼を言ってイケハヤの元を去った方がいいと思います。マジで。
「アルケミスト」でそんな表現があったと思いますが、後ろのドアを閉じるから、前のドアが開くんです。…なんて言いますが、そんなの詭弁ですよ。後ろのドアを閉めたら、前も閉まって閉じ込められる可能性の方が高い。前のドアが開く保証なんかないですって。
そんな詭弁を弄しているうちは、誰もイケハヤに注目しないし、応援もしてくれません。誰でも自力だけじゃ面白いものは作れませんよ。
…なんて、自分の利益のために他人を煽ってアフィリエイトを踏ませようとするなんて、しょぼい商売じゃないですか?
イケハヤはそれをわかっちゃいない。
イケハヤやはあちゅうはサギを突き詰めるために、引っ込みがつかなくなって、全裸になっているわけですが、そろそろ目を背けられるときが来るでしょう。今はもう、そういうサギが求められている時代じゃないんですよ。ぬくぬくコタツに入って読むに値する本物の作家の本でも読んで、ネットの作家気取りをバカにして過ごしましょう。以上、サラリーマンのみなさまにはどうでもいい話でした。騙されるなよ。
初めて誰かのことを好きになったから、何かあっても何もなくても混乱する
ずっといじめられっこで馬鹿にされてパワハラにもセクハラにもあって、男の人どころか人間が怖かった
仕事以外の人間関係が希薄な会社に転職できて、ようやく心穏やかに毎日淡々と生活できるようになってほっとしてたのに
お酒飲んだりでかけたりしてそれはたのしいんだけど、嫌われてるんじゃないか影で笑われているんじゃないかっていつも考えてる
そんなことないよ、って思えば思うほど、じゃあもし嫌われてしまったらいったいどうしたらいいんだろうって思う
なんとも思っていなかったときは気にならなかったのに、好きかもしれないって思ってから、いろんなことが気になる
年相応に振舞えているか、人並みのメイクができているか、変な服装になってないか
どれもこれも今まで気にしたことがなくて、人に笑われても仕方がないってくらいに自信がない
私と一緒にいるせいで嫌な気持ちになったりするんじゃないかって思うと誘ってくれてるのに会うのが申し訳なくなる
だからさっさと嫌われて楽になりたくて、好きです本気です、って伝えたのに、まだ答えが出せないけど気持ちは嬉しいなんていわれて。
またご飯食べにいったりしようって言われて、けっきょく何も解決しないままずるずると会い続けてる
私のことなんて早く嫌いになればいいのに、って思って、どうでもいいようなメールしてみたり、休みの日に呼び出してみたりして。
そういいながら、態度がそっけなかったら多分落ち込むし、メールの返事も顔文字も、いちいちどういう意味なんだろうって考えてしまう。
実際はくだらないメールしても、どこに誘っても、迷惑じゃないよ楽しかったよまた出かけようねって言われて、この人botなのかもしれないとか思う。
人の視線が怖くて、目を合わせて話すのが苦手で、だからいつも目があってもどうしていいかわからないから、いつも顔が見れない
男の人は顔を見ながら話すのが普通なのかもしれないけど、なんかいつも見られてるから、あら捜しされてるんじゃないかって思って怖い
探すまでもなくあらだらけだしあっちは私より八年分長く生きてるだけ女性経験だってあるんだろうし珍獣かなにかだと思われてるのかもしれない
なんかもうはっきりと友達としては好きだけど付き合ったりする好きじゃないって言ってくれたらいいのに
ただ、それを聞く勇気もないし、勇気が出てもなんて聞けばいいのかわかんないし、ただこのままはっきりしないのはなんかつらいしどうにかしたい
とある地方のTCGショップに一人の男が現れた。妬みと嫉みを精液で煮込んでケツの中でじっくり熟成したような芳醇な薫りを湛える店内にそぐわぬイケメンである。
この魔窟にパンピーが紛れ込む事はまれにある。昔遊戯王やってたよ懐かしいな、なんて入店してきてその思い出に暗い影を差しておずおずと去っていくのだ。
しかし彼は違った、シングルカードを眺めるフリをしながら、チラチラとプレイスペースの方をうかがって来ている。
店舗奥で万が一にも健常者の目に触れないようにとパーテーションで区切られたその闘技場には、私を含め3人の隔離患者が収容されていた。まさか彼もひとかどの決闘者なのだろうか、それとも歳を重ねても紙切れ遊びから離れる事もできない珍獣共を見物にでも来たのだろうか。
そうこうしていたら彼から話かけてきた。ヴァイスシュヴァルツの対戦を出来る方は居ますか?チンコからお父さんと声をかけられた位異常な事だった。
ID:gudachanが頓珍漢な駄文を書き散らしている上に、それを使って文化人ごっこしている姿を楽しんでいるんだろう。
結局、檻の中にいる珍獣を眺めるのと同じかと。
しかしこやつは「(ネット右翼や行動する保守による)ヘイトスピーチは許さない」とほざく一方、別のところでは「地方や北関東の連中は低能なクズ。だから排除せよ」という旨のことを主張している。
彼は「これは差別ではなく区別だ」って思っていそうだけど、それって彼がことあるごとに糾弾するネット右翼や行動する保守と何ら変わらない。
やっぱり「俺たちは地方の連中により生活を脅かされているんだ!」というある種の被害者意識があるのだろうか。
もしそうだとしたら、彼自身が蛇蝎の如く嫌うネット右翼や行動する保守と同じ穴の狢ではないのか。
それにも拘らずネット右翼や行動する保守を糾弾しつつ、地方出身者などに対するヘイトスピーチを繰り返す彼の姿勢に違和感を禁じえない。
どっちも車で移動するロードムービーだけど、そういうんじゃないんだ。
1)シェフ 三ツ星フードトラック始めました(以下C) と ドライブ・ハード(以下D)を一言で言うと両方とも
満たされない人生を送っている主人公がハッピーになる物語である。
2)もうちょっと詳しく言うと、
満たされない人生を送っている主人公が、ひょんなことからさらに酷い目にあって、よい人生を取り戻す物語である。
「あたりまえすぎる」よな。もうちょっと詳しく書こう。
3)#1煮詰まってて平凡な毎日を送る主人公。意に染まない退屈な仕事を繰り返していた。
#3試練をくぐりぬけ、
#4自分の本当にしたい仕事に気付き、それをはじめる。圧倒的成長!
#5ついでに愛も取り戻す。
じゃあ行くよ。
#1
C:主人公はカリフォルニア州在住のデブアメリカ人の中年コック。若いころから名声を得て将来を嘱望されていた。高級レストランでシェフの座についている。(世間体はいいのでこれを失いたくない)
だが所詮は雇われの身。オーナー(ダスティンホフマン)には逆らえない。
オーナーはダサい定番メニューでやっていくことを押し付けてくる。オレの横溢するクリエイティビティはどうなる!
そして稼ぎのよい金髪の嫁とは離婚。息子を送り迎えすることでかろうじてつながっているが、それも身が入っていない。
D:主人公はゴールドコースト近辺在住のロン毛オーストラリア人の中年ドライバー。若いころは優勝経験もあるレーサーだった。今は自動車教習所で働いている。(レースより生命の危険がないので嫁の受けはいい)
そして稼ぎのよい金髪の嫁とはうまくいっていない。娘の送り迎えする、それも身が入っていない。
自動車教習所の色っぽい女性事務員からはなんか好かれてるっぽい。
#2
C:自分を殺してダサいメニューを出したら超有名ツイッタラーに食べログでバカにされた!俺の真のすごさを見せてやる!だがオーナーに定番メニューを出さないとクビだと言われる。ついに堪忍袋の緒が切れた! ひどい情弱だったのでツイッターのDMとRTがわかっておらずヤッチマッタて注目を集めた状態で店でやらかした様子を撮られ、YOUTUBEで炎上。
珍獣としてネットでは人気者になるが超恥かいた!クビになる。息子や同僚の一部には、よくやった!と思われたり言われたりする。
D:変な客に教習を指名されたぞ・・・あからさまに怪しい・・・なんだこいつ銀行強盗かよ!
全豪放送テレビニュースで強盗の共犯として顔と実名が報道される。
娘(多分Cの息子より幼い)には大うけ。嫁は苦い顔。
#3
C:元嫁と元嫁の元旦那(言動が多動症っぽい。アイアンマン)の助けで屋台トラックを始める。
色々あって元同僚+息子(夏休み)と長距離移動。
元嫁に、あんたがヨハンソンといい感じなの知ってるのよ、とチクリとやられる。
D:銀行強盗は凄腕の泥棒だった。銀行には元泥棒を酷い目に遭わせた奴がおり、強盗はその借りを返してもらうためだったのだ
(900万USA$)
あの手この手で泥棒の運転手であるという状態から逃げ出そうとするが、ままならない。
しなを作って主人公氏は只者じゃなかった。すごい奴だと思ってた。と喋る様子が放映され、それを見て嫁はやきもき。
#4
C:息子と心を通わせる。オレは間違っていた。意に染まない料理なんか作らなくていい。
息子が望んでいたのは遊園地に連れて行ってもらうことじゃなくて、情弱な父親にネットのすばらしさを教えたり、料理やオトコの生き様(未成年飲酒とかはちょっと・・・)を教えられたりすることだったんだ!
食べログツイッタラーには「あんたには憧れていたんだよ・・・それをあんなダサダサメニューで失望させやがって・・・だが今のこの屋台料理は最高だぜ」と言われる。
D:泥棒に、もういいよ。ドライバーの役割は終わってもいいと言われる。だが、男の誇りに火が着いた!
相手の悪者を出し抜いて、お前を送り届けてやろうじゃないか!
バトル!勝利だ!
#5
C:超お金持ちから、新たな店を出す金を出してやるといわれる。息子は腕のいいシェフになるだろう。将来楽しみだ。元妻と再婚してエンド。
D:泥棒から報酬で300万USA$をやると言われていた。妻の愛を取り戻して、レーサーに復帰を決意。娘はトレーラーで運ばれてきたレーシングカーにのってウキウキでハンドル握ってレーサーごっこ。父親の威厳と生きる意味を取り戻したぜ!エンド。
共通点(と違い)
・真の愛情の対象 金髪の嫁(高給取り) 離婚済みまたは離婚寸前。
・色っぽい偽の愛人(Cでは寝てる※直接描写はない;が Dではセックスレス。嫁一筋)
・一種のバディムービー
(最初は反発しあい、最後にお互いを認め合うやつ。「リーサルウェポン」など)
Cにおいては、相棒の機能は 息子 と 裏方の元職場のセカンドシェフ に分解されている。
・世界の半分をお前にやろう
Cでは金持ちの共同出資者からの提案を受け入れ、フードトラック業者から、店舗型レストランシェフにクラスチェンジしている。
とりあえずいったん閉じる。
どっかで小学生の親達が集まるにはサイゼリアが一番とかいう記事を読んで、どっかでそれは富裕層の思いやりだとぬかしておられて、今年最大級に嫌な気持ちになった。
サイゼリアは味とサービスが最低で、値段と冷暖房と長時間いられることだけが取り柄だ。道端で缶ビール飲んでるのとあんまし変わらない。
まあちょっと立ち話の延長だし屋根ついてるだけ大人ではないか。当の小学生の親達はそれで平和なのに傍から余計な分析して、
「サイゼリアみたいな最低な店に一銭も払うのは惜しい、それは富裕層共通の認識で、富裕層は真に価値のあるものにしか金を払わない、だからこそ富裕層になれたのだ。富裕層がサイゼリアにいるというのは金のない貧困層への配慮」
という趣旨の、ものすごい世間知らずの、選民思想に基づいた発言をしておられた。
サイゼリアにいる「貧困層」は飲食に金を払っているわけではない。小学生の親の集まりなど断然参加したくない集まりなわけで、
ドブに捨てても許せる金額に見合うのがサイゼリアしかないからサイゼリアなんじゃないか。
「貧困層」は、大事にしたいつきあい(ママ同士気が合うとか、幼稚園から子供が仲良しとか、要するに価値観が一緒)ならばサイゼリアではなく家に呼んだり呼ばれたりしている。
公立小学校には、公立小学校のくせに変なエリート意識の親が紛れ込んでくるから困る。珍獣DQNの生態見物にきたような気分で公立に子供入れられると迷惑だ。エリートさんの子供はお受験して私立に入れて世の中に金回してくれよー。
日本の「富裕層」は賢く税金を取り戻すことばかりに熱心で、実は大して税金負担してないように思う。サイゼリアが安いと思えるくらい金持ってるならもうちょっと社会に貢献したほうがいいですよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140914210710
狭すぎるんだよな。
人と人の距離感近すぎるんだよな。
見たくない者が見えすぎるんだよな。
GTのテレビみたいに薄いかわりに自分がみたくない不快なものがほとんど排除された世界になじんでる人にはつらいわな。
とにかく公式ははやくはてな村の話題がホッテントリのトップページと違う場所に表示されるように工夫してほしいんだよね。。。
なんでやらないんだろ。
青×才のアンチやコンビ×店長への粘着増田や犬猫ワンニャン逐一消していってという対処になってるのを見ると
やっぱり動物園というか珍獣見世物小屋がやりたいのかな、などと
はてな運営に対して、ただ無能と言うよりなんらかの悪意を見いだしたくなる欲望がむくむくと。
汚いものやどろどろした人間感情や毒吐きを放置しておくことで、カオスを維持することを目的としているとかんがえようか。
でも今のはてな村のもんだいは、その汚いものや毒吐きが、完全に組織化して安定して固形化してこびりついたウンコみたいになってるところじゃないかしらね
英国などの犯罪者の流刑先がオーストラリアやニュージーランドで、それなのに彼らはかの国で白人主義を謳ったものの、
今、ワールドカップなんかで位置づけられてるこの二か国はアジア勢という事になってる。
それは白人主義が欧州からすれば、自称でとっても恥ずかしい事という事になる。
その上クジラを獲ってはいけないと暴力で以って説得するけど、そもそもクジラを乱獲してその油だけを取っては廃棄してきた国は
アメリカとお宅の国だよね。
時代が変わったら原住民追い出して国立公園化させてる欧州の身勝手さと、そこら辺だけは同じだね、多分愛着持ってるのか先祖帰りしてるのかもね。
クジラは調査捕鯨と商業捕鯨の二種の捕獲方法で以って日本はこれまで伝統的に数を減らさないように努めてきたのに
横から入ってきたグリーンピースとかいう反捕鯨団体は人間より賢いとかの理由で乱獲するなと人間を殺そうとしてまで保護しにくる。
すごい矛盾だよね。
あと、人間より頭が悪ければ絶滅危惧種かつオーストラリアの珍獣コアラやカンガルーを殺しまくっても良いわけ?
アボリジニーというお宅らのご先祖様も同じ理由で殺してきたでしょ。
グリーンピースって何が可笑しいって自分で肯定してるものまでお金とかの都合で簡単に否定してる事に尽きる。
あえて言えば、お金のため以外に人に感謝されようと努力して来なかった結果が、あのクジラを保護するビジネスになったわけだね。
この環境テロ団体に寄付金を出してる政治家や芸能人がいたら、僕は軽蔑するね。
本当にお宅らは人間なのかってね。
本当は悪魔じゃないのかなって。
人間ほど怖いモノはないよ。
ああいうテロリズムも目的が環境のため、自然のためだったら如何なる殺戮も正当だと認められるんだからね。
9.11も場所によっては聖戦だの神の恩恵だのと祀られるのも今となっては分かる気がする。
あの殺戮にしたって目的は無に帰すためとか報復とかそういう理由なんだから、正当だよ。
認めないなら殺せば良い。
つまりそう言う事なんでしょ?
そりゃあ、戦う場所を間違えてるからだろ。東大卒だろうがハーバード卒だろうが、どんなゲームでも勝てる万能属性なんてないんだから、その属性を使いたけりゃ、そういうゲームを自力で選ばないと。そういうゲームを選べなかったなら、潔く使えない属性は無いものとして諦めろ。
同窓のよしみで先輩面させてもらうと、「東大行った」属性で有利に戦える場所ってかなり限られてるぞ。専門能力系の業界はそういうのゴロゴロしてて実力勝負だし、一般系だと逆に珍獣扱いだ。早いうちに出身大学属性を使わなくてもいいような、自分ならではの属性を身につけろ。俺は東大行って良かったと思ってるが、それは大学の名前じゃなく、そこでやった中身が確かに役に立ってるからだ。(うわ、なんか意識高い系のアドバイスみたいになっちゃった。でも東大生ならその看板を厄介と思ったことはあるだろう。早いとこそれを脱却した方が楽になるぞ。)