はてなキーワード: ズバリとは
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ズバリ言います。「責任はお前が取れ!」——この言葉を聞いたことがありますか? ありますよね? これは地球のすべての地層に埋め込まれた呪詛であり、現代人がランチの前に消化不良を起こす原因です。
例えば、兵庫県で起きた事件に目を向けてみましょう。障害児を抱える母親が、心の中でたぶん何千回も「無理です」と叫びながら、それでもケアを続けた。なのに彼女は逮捕されてしまった。まるで社会がこう言っているようではないですか?
まるで世の中が母親をガチャのハズレ枠に押し込めたようなものです。でも、考えてみてください。そもそもガチャを回したのは誰なんです? なぜ回さざるを得なかったのか? ガチャは回転をやめない。それが社会の設計ミスです。
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ここで提案です:共感はもう疲れたので、代わりにクッションを使いましょう。柔らかいですし、頭も乗せられます。
SNSが24時間「悲しい」と「怒り」と「ネコ」で満たされている現代、私たちの感情の燃料タンクはカラカラです。皆さんはもう気づいているかもしれません——
「共感疲労」という言葉がありますが、もっと正確には「共感の低燃費化」とでも呼ぶべきでしょう。事件に関しても、「まあ他人事だしね」と一言で片付けられるのが今の社会。悲しいですけど、それもまた仕組み。社会的距離は、自分と問題を隔てるエレベーターのドアのようなものです。でもそのドア、時々開きっぱなしになるんですよね。うるさい。閉じてほしい。
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政府はこう考えています。「みんな申請してください!でも、その申請にはパズルと謎解きが必要です!」その結果、支援を求める人々は次のように叫ぶのです。
行政の「冷たい効率性」とはまさに冷凍庫そのもの。支援を必要とする人々を凍らせ、その存在を見えなくさせるのが得意技です。そして、その結果、支援の届かない人々がポップコーンのように弾けてしまうのです。
本当に合理的な社会を目指すなら、むしろ非効率な温もりを取り戻すべきではないでしょうか。効率ばかり追い求めて、支援の網を細かくした結果、網に引っかかるのは空気だけという現実。これが政府の真の「無効率」なのです。
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そこで提案です:責任をみんなで山分けしてピクニックに行こう。
- 誰がどの責任を取るのかをカードで決めましょう。たまには「社会全体がジョーカー」でもいいじゃないですか。
- 例えば、隣のおじいちゃんがネグレクトされている子どもの宿題を代わりにやってあげる——そんな温かい仕組み。
- ボタンを押せば、簡単に「共感メッセージ」が出てきます。「大変だったね」「辛かったね」「それで?」みたいな感じで、心のバッテリーを保てます。
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結論として、現代社会が私たちに求めているのは、「自分で問題を解決する超人になる」か、「問題そのものを見ないふりをする賢者になる」かの二択です。でも、そのどちらも疲れます。だからこう問いかけたいのです:
ネグレクト事件は単なる「個人の失敗」ではなく、社会全体のバグレポートです。そして、私たちはそのバグを放置することで、次のアップデートを待ち続けるしかない。けれど、そのアップデートが来る頃には、私たち全員が“未対応OS”になっている可能性もあるのです。
どちらにせよ、この世界はあなたを置いて進んでいくでしょう。でも、それでいいんじゃないですか?
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Wikipediaにも何やらそれっぽい語源説が書かれてるけど、1990年の伊丹十三の映画『あげまん』以前に「あげまん」なんて言葉はなかったよな。
なんて、いかにも昔からある言葉のように演出したら、みんながそれを信じちゃったってことだろう。
ただし、同じ意味の言葉として「福マン」というのはあって、これは1970年代ごろから使われていたようだ。
1970年の雑誌『小説宝石』に掲載された伏見丘太郎『男が知りたいズバリ女の感度めぐり 男よ、おかめを探せ』に「福マン」の解説があるのが、調べたかぎりでは最も古いか。
男子の「運」というものは、ほとんどの場合、それを齎らす女性によってつけられるものなのである。斯く申せば、諸君は、ではそうしたツキを齎らす女性とは、いかなる女性であるか、大いに知りたいと思われるであろう。私はこんなところで、決して諸君に気をもたしたりはしない。ズバリ言おう。それは「福門」を有する女性なのである。
「解すべき」というのは、つまり「門というのは女性器のことだと解すべきだ」という意図だろう。
この筆者は、おかめ顔(お多福)で体毛(陰毛)が薄い女性こそが「福マン」である、としており、逆に濃い陰毛を持った女性は「厄マン」だと述べている。
その前年1969年の『週刊サンケイ』では「福マン」ならぬ「運マン・貧マン」が紹介されている。
男どもは世にこの貧マンのあるのを、意外と知らないで、ただひたすらミミズ千匹、タワラ締めなどを求め、めぐりあっては随喜の涙を流し、かくて、ろくでもない運命をつかんでしまう。
当然、この反対に運マンがある。これは、接触すると、とにかくよくなっちゃうのである。ある男がいた。これが、女が見てもうらやむほどの、ものすごい美人と結婚した。しばらくすると仕事が順調に伸びだし、たちまちにして、その世界でひとかどの人物になってしまった。
概念自体は「福マン」あるいは「あげまん」と同じようだし、またミミズ千匹だのタワラ締めだのと明らかに女性器を意識して名付けられてもいる。
また1970年の野坂昭如『好色覚え帳』には「福チン」が登場する。
「そりゃ、きっとその先生が福チンなんだなあ、福チンが勝ったにちがいねえや」という、福チンとはなんぞや、庄助考えこんでいると、「福の神のオチンチンですよ、定奴の貧乏おそそと、勝負して福チンがやっつけちまったんだねえ、だから定奴にも運が向いてきたんですなあ、あれだけの先生なら福チン持ってて不思議はないやね」
「おそそ」は女性器のことなので、「貧乏おそそ」は「厄マン」的なものだろう。
などとして「福・損」「マン・チン」の組み合わせを取り揃えている。
「あげまん」については「女性器のことではなく『間』が転訛したんだ」といった説明もされるが、こうして見るとやはり女性器のことだと考えるべきなのだろう。
そして伊丹十三は、こうした「福マン」「厄マン」的なものから着想を得つつ、元のイメージから切り離すためにちょっと字面を変えて「あげまん」としたんだろうな。
追記。
申し訳ない。
1980年刊の『或る馬賊芸者・伝 : 「小野ツル女」聞き書より』にて「上げマン」「下げマン」を確認した。
特に奴(やっこ)が生きてきた芸妓の世界では、ことが多過ぎた。貧乏性で相手を必ず破滅へと落し入れる女、何人もの男の命を奪い取る女、逆に男を出世させる女など…。上げマンとか下げマンという言葉も残されている。
メチャクチャ好き同士で付き合ってそこそこな年月経ったからそろそろ結婚しようってなったんだよ。
うちは両親共に無くなってるから、存命の兄貴一家(普通に仲良い関係)と飯食って顔合わせ的な感じにしたのね。
そんで今度は彼女の家に挨拶へ行く事になった。こちら親がこの世にいない身だから少しでも安心してほしくてバリッと散髪して、この日の為にオーダースーツで彼女の実家はお伺いした。
彼女とは食の趣味も睡魔時間も好きな動物も全部同じ。顔も好みでオッパイもデカいし性に積極的で色んな事してくれる。
趣味のゲームも一緒でスプラを同チームでやっても喧嘩した事ないし味方のせいにもしない。(これの凄さはやった人しか分からないと思う。)
そんでいざ相手の実家へ行った時も和気藹々と話も弾みいい雰囲気だった。
家が大きいからちょっと間取りの紹介してもらいながら話してたらある本が目についたんだよね。
そう「人間革命」
あれっと思ったがその場はスルーして顔合わせ後二人で帰ってる途中にズバリ聞いたんだよ。
「何か宗教入ってる?」
彼女は悪びれもせず
「私は創価学会に入ってるよ。」
かなりの衝撃だった。なんかもうちょっと遠慮して言うと想定してたから。
家から近くもない慶應義塾大学病院に通ってるの不思議だったんだよね。
聞くと祖父時代からの生粋の創価学会員らしく座談会?的なものにも出る事があるらしくお布施もしてるらしい。
俺は入信を強いられたことは今の所無いんだけどこれってヤバい?
そこ以外は完璧な彼女なんだけど宗教一家と結婚するにあたって注意することある?
教えて知識人。
これは企業としてやっておかないと、増田になにかあったら会社が止まることも考えられるので非常に危険。
まぁ、こんなことはわかりきった上で、今の状況になってるのはそうなんだろうとは思うんだがな。
さらにもう少し突き詰めるなら、今貴方が作ったシステム、外注化できないか検討してみる。
外注化と言ってもスクラッチで作るのではなくて、世の中にある汎用のSaaSで代用できないか探すの。例えば
今聞いた感じだと間違い無く貴方のお給料含む予算よりも高額な見積もりになると思うので、その場合はそれを上司などに示す事で自分の待遇改善を訴える。
逆に予算より大幅にやすいなら、辛い仕事からは降りるつもりで、そちらに切り替える事も提案する。一瞬社内失業状態にはなるかもしれないけど、小売業でITシステムのSpecialistなんて長期的に全く足りないし、仕事はいくらでもあるから。
あるいは、そうして調べていくうちに、実際世の中はどのようなトレンドになっているかが分かってくるし、転職すると言う選択肢が現実的になるかもしれない。
こんにちはっ!
え?なんで痛い自覚があるのにこんな口調なのかって?
そんなのぼくがこの口調が好きだからに決まってんじゃんっ☆
では、まずは自己紹介を!
頭も悪くて、顔もゴミ、おまけにデブとかいう人間として終わってる感じ~
ほんとになんでぼくみたいなゴミが生きてるんだろうねっ、あははっ☆
え?痛い自覚があっても痛いことしてるのかっこいいと思ってそう?
当たり前じゃん、思ってるよ!
でもねっ、見た人がどれだけ不快になろうがぼくには関係ないんだ!
だってそんなの見たキミが悪いじゃん
…おっと、話が逸れちゃった
じゃあ、今日はぼくの悩みを一つ聞いてほしいなっ
でもね、ぼくず~っと死にたいんだ
虐待されてるわけでも、
いじめられてるわけでもないのに
なのに死にたいんだ!
あはは、なんでかな?
死にたくて死にたくて仕方ないんだ
何回か首も吊ったよ
でも苦しいだけだった
なんでかな
なんで死ねないのかな
あははっ☆
だからかな
りすかもね、いっぱいしたよ
なんでぼくって死ねないのかなっ?
やっぱりみんな、
「本気で死のうとしてない」とか
「どうせファッヘラだろ」とか言うんでしょっ?
知ってるよ、そんなこと
病んでることをかわいいと思い込んでるもん
何が悪いの?
ねぇ
誰かぼくのこと殺してよ
続き
…と書きたいが特に書くことないんだよな。だから読む意義はない。
でもまずは柿渋石けん。
4~700円。
勧めない理由ある?ない。
柿渋石けんあるいは柿渋配合と書いてあるならメーカー不問。
なぜなら四半世紀前に無臭柿渋が発明されて以来、多くの会社が作っているので絞り込めないほどあるから。
選ぶ目安として茶カテキンあるいは緑茶エキスなどがプラスアルファされているものはなお良い。
そして柿渋と茶カテキンの両方が配合されているものは多いのでやっぱり絞るのは無理無理カタツムリ。
これを使ってまだ特有の体臭が気になるなら洗い方や寝具類を見直すほうが先かもしれない。
(耳の後ろから生え際、首の後ろを洗い落としてないかどうか等。)
過炭酸ナトリウム主成分の粉でもいい。百均にも過炭酸ナトリウム売ってる。
石けんだとメンズ用スキンケアにありがち「ミントどれにも入ってる」問題に引っかからない物も多い。
個人的には好きじゃない成分、「殺菌成分(だいたいイソプロピルメチルフェノール)が入っていない製品も選びやすい。
それでも液体ボディソープを使いたいなら、
各社から「中年男性向けボディソープ」が発売されているからそれを選ぶべき。
ズバリ「オトコの加齢臭対策に」「40才からのカラダのニオイをスッキリ」という
ポップを貼りつけているものもある。
デオコを発売しているロート製薬だとデオウ
dotのdot
「柿渋ボディソープ」も良い。
皮脂が多い人には特に渋谷油脂の「SOC薬用柿渋ボディソープ」あたりを勧める。
追記するならボディソープのメリットは石けん以外の洗浄成分が選べる点である。
肌荒れしやすい民は石けん系やラウリル硫酸系より刺激が少ないベタイン系、アミノ酸系を選ぶと良い。
ただし値段は高めになる。
多分このあたりの情報を参考にしたのかな
https://www.ne-ketsu-book.com/knowledge/law.html
厚労省によると
https://jsite.mhlw.go.jp/kagawa-roudoukyoku/riyousha_mokuteki_menu/shurouchu/roudousya/5/5-8.html
労働安全衛生法第71条の2の規定により事業者の努力義務とされており、労働大臣による、「事業者が構ずべき快適な職場環境の形成のための措置に関する指針」(以下、快適職場指針という。)が、公表されています。
この「快適職場づくり」とは、法令等の基準を超えた高い安全衛生水準を自主的な目標として定め、その実現に向かって継続的に努力することです
快適職場づくりとは、職場環境が法令で定められた安全衛生基準を満たすのみではなく、更に良好な職場環境を目指して、自主的に計画を立て、その実現のために努力することをいいます。事業場が快適職場推進計画の認定を受けた場合には、その事業場が良好な職場環境を目指して努力していることを内外に形として示すことができます。
がポイントで
その実現に向かって計画的に努力している企業という認定を国から受けられて、それをアピールできるような仕組みを作りましたよ、という意味で
労働安全衛生法第71条の2の規定についても一応確認しておこう
第七十一条の二 事業者は、事業場における安全衛生の水準の向上を図るため、次の措置を継続的かつ計画的に講ずることにより、快適な職場環境を形成するように努めなければならない。
二 労働者の従事する作業について、その方法を改善するための措置
三 作業に従事することによる労働者の疲労を回復するための施設又は設備の設置又は整備
四 前三号に掲げるもののほか、快適な職場環境を形成するため必要な措置
第七十一条の三 厚生労働大臣は、前条の事業者が講ずべき快適な職場環境の形成のための措置に関して、その適切かつ有効な実施を図るため必要な指針を公表するものとする。
この71条3にある「事業者が講ずべき快適な職場環境の形成のための措置に関して、その適切かつ有効な実施を図るため必要な指針」=「快適職場指針」という建て付けになる
第一条 この省令は、事務所(建築基準法(昭和二十五年法律第二百一号)第二条第一号に掲げる建築物又はその一部で、事務作業(タイプライターその他の事務用機器を使用して行う作業を含む。)に従事する労働者が主として使用するものをいう。)について、適用する。
この条文で事務所「事務作業(タイプライターその他の事務用機器を使用して行う作業を含む。)に従事する労働者が主として使用するものをいう。)」に適用する規則である旨がハッキリと疑い余地なく明記されていて
続く1条2には
事務所(これに附属する食堂及び炊事場を除く。)における衛生基準については、労働安全衛生規則(昭和四十七年労働省令第三十二号)第三編の規定は、適用しない
とあるが、これは何かというと
労働安全衛生規則第三編には衛生基準に関する規則がまとめられていて
事務所衛生基準規則と重複する内容あり、両者で示されている基準が異なるので
「事務所に関しては、より厳しい事務所衛生基準規則が適用されますよ。重複する労働安全衛生規則第三編は適用されませんよ」という意味ですハイ
事業者は、空気調和設備を設けている場合は、室の気温が十八度以上二十八度以下及び相対湿度が四十パーセント以上七十パーセント以下になるように努めなければならない
という文章があって、これが仕事場で守られなければならない温度の基準なんだと勘違いしてるんだろうなと予想
ここ数日、Xのオススメで一生男女の「清潔感」についてのバトルが流れてくる。
大抵、男性側の主張は「清潔感=外見の良し悪しである」というもので、女性側は「外見の良し悪し問わず、日頃のケアなどの問題」みたいな感じ。
オススメに流れてくるたび「ガチで不毛だな〜」と思いつつ、自分の中にある「清潔感の有無」の定義と同じことを言ってる人を見かけないので、ここに書き残したい。
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「パッと見た時に臭そうと感じるか否か」
である。
男性でも見た目で「臭そう」って判断することはあるんじゃないですか?バキ童の動画でぐんぴぃが「(臭そうと思ってたけど)やっぱり臭かった」って言われているのを見たので、少なくとも見た目で匂いを想像して臭い/臭くないを判断する人は0ではない。はず。
・髪
・体型
・服装
が主だと思う。
ワキガなどの潜在的な臭いの原因以外に、臭いを発生させるものといえば「汗」
結局、パッと見て「汗」を感じさせると、清潔感が無いと感じる。
髪に関しては、ぺったりしていたり、張り付いていたりすると「汗」を感じる。
だから、短髪のほうが「爽やか」と言われるし、ある程度セットされた髪の方が良しとされる。
体型は特性として、太っている方が汗をかきやすいため、細身の人間より太っている人間の方が「汗」を感じる。
服装に関しては、ヨレヨレのTシャツからは今までの「汗」を感じる。
体型に関して言及しているので、「結局容姿の良し悪しじゃないか!」と言われそうだが、自分の中では「容姿」は「顔」の話だと思っているため、少しちがうというところはご容赦願いたい。
まあきっと、良い匂いのするデブとワキガのイケメンが電車に座っていて、絶対に座りたいくらい疲れているけど、どちらかの隣に座らないといけないとなったら、きっと私たちはワキガのイケメンの隣に座ってしまう。
でも、同じシチュエーションで座席の両端にデブが座っていて、方や髪が整えられたデブで方や髪がぺったりしているデブであれば、絶対に前者の隣に座る。
つまり清潔感って、容姿の良し悪しというよりも、同じ容姿のレベル同士で並んだ時に少しでもよく見えるかって話なのだ。
増田がめいろまの優生思想を肯定しているわけではないのはわかるが、
日本の選手が強くなったり、最近の子達が美形でダンスや勉強もうまいというの、あれ日本で80年代以後は見合いが激減したのが原因かもな。能力がない、金がない、不細工は結婚できなくなって、優秀な人間だけが自然選別で結婚して子供を産むようになった。多分これ結構あたってると思うんだよ
ある快挙を無理やり優生学的な原因で説明しようとするのはモロに優生思想でしょ。例えば日本のスポーツ選手が強くなり、オリンピックで優れた成績を残せるようになったのにお見合いの激減など効いているはずもない。はてな民からしたらめいろまなんか真に受けるなよといいそうだが、最近こういうなんでもお手軽に優生学的な理由を求めようとする人間が増えている気がするので真面目に反論しておく。
これはズバリ森喜朗のおかげ…もといtotoのおかげである。森喜朗もJリーグも好きではないが、今日の国際大会での日本勢の活躍の一因は間違いなくこのスポーツ予算にある。
https://www.asahi.com/articles/DA3S14462004.html
totoの売上からは"毎年"200億くらいの予算がスポーツ振興に安定的に投下されるようになっている。メジャースポーツからしたら大した額に見えないかもしれないが、これにより従来個人の趣味の域を出ずスポンサーもつかなかったマイナースポーツへも強化予算が割り振られるようになった。パリオリンピックでの躍進目覚ましいフェンシングの分析をしたものが以下のツイートである。
Sato Josuke (Jose Sato)
@soccer_kozou013
いつの頃からかは不明なのですが、味の素トレーニングセンターに作られた広い練習場で定期的に候補選手の強化合宿が開かれていたり、学生の選手で将来有望だとみなされた選手のトレセンが頻繁に行われています。太田雄貴さんの活躍によりそれにさらに拍車がかかった印象です。
一昔前なら、フェンシングのようなマイナースポーツ(失敬)の国立トレーニングセンターなど想像もできなかっただろう。ちなみにスケボーも2017年からJOCに加盟しているのでそれなりの予算が出されていると思う(たぶん)。
https://honkawa2.sakura.ne.jp/images/3980a.gif
こんな感じになっており、言うまでもなく90年代からの増加は女性選手のおかげであることは明らか。日本の男女平等は完全には程遠いが、宗教や経済的理由により女性がまともにスポーツをできない国はまだまだ多く、それらの国々に比べればまだマシであるおかげと言える。
80年代からお見合いが減ったといえ、今のスポーツ選手はその世代の子供にあたり、たかだか1世代しか経過していない。そのような少ない世代での効果などたかがしれている。さらにお見合いがなくなった80年代の価値観で言えば、男性の魅力は経済力という時代なのでスポーツ能力とは全く関係がない。スポーツができてモテるのはせいぜい中学生までくらいのものだろう。
品種改良をしようとするのなら優れた形質を持つもの同士を交配し、さらにその子孫もその形質で選抜しつつ交配を繰り返さなければならない。たかだか1世代経済力で選抜したところでスポーツ能力など上がりようもないのだ。(「最近の東大生は選抜されているから美男美女が増えた」というのも同レベルの寝言だろう)
人の意見に毀誉褒貶があるのは当然なので、反論したいわけではないですが、誤解は解いておきたいので追記します。
これはその通りで私の言葉足らずでした。ああいうのは優生思想そのものではなく、優生信仰とか優生信者とか優生陰謀論とかそういうのが正しいですね。
これもそのとおりです。増田は別に遺伝要素や環境が引き継がれる要素まで否定するつもりはないです。優生学にも科学的な要素はあると思っています。ただそんなにね、1,2世代ゆるふわな身体能力と関連性の薄いセレクションしたくらいで身体能力上がるわけ無いだろ!安直に優生思想で説明するな!遺伝学なめるな!と言いたかっただけです。
理論的には、特定集団を隔離して交配と選択を繰り返せば一定の形質をもった新たな品種を生み出せる、というのは育種学的に見れば当然の話だし、あるいは大集団でゆるい選択を長いあいだ続けることによって平均値を緩やかに変えていく、みたいな可能性はあり得ます。例えば木村資生博士はこの後者の可能性を提案しています。
という問題があって、具体的には2番めの点については木村先生はほぼ自明に賢いものを優遇しようと提案されていますが、目下の少子化で消滅がほぼ確定しつつある日本を見ると賢い人間よりマイルドヤンキーみたいな方が優れた形質なのでは無いかという気もします。家畜の場合「肉が多い方が良い」「産卵個数が多い」など具体的に目標を決めることができますが、人間の場合望ましい形質というのはそんなに簡単には決められないでしょう。(ただ木村先生の活躍された時代は少子化ではなく人口爆発が懸念されていた時代である、ということは背景にあります)
3点目もこれに関連していて、例えば「外見が優れている」価値観の中身などはすぐに変わり得るということです。平安美人は今の美人とかけ離れている…などと持ち出さなくても、イケメンの定義でも昭和と令和では全然違うという現実があります。石原裕次郎や高倉健は今の時代では顔の濃いおっさんフェイスだし、今風の顎が細く中性的なK-POPアイドル的容貌は昭和の時代では気持ち悪いカマホモ野郎扱いでしょう。高々30年(=1.5世代)程度あれば人の価値観はあっさり変わってしまうものなのです。
結局の所「優生学」にも科学的な部分はあるがその部分は「育種学」と呼ばれるものであり、このあたりの関係は「脳科学」と「脳神経学」みたいなものではないかと思っています。
朝食: コーヒー
昼食: スパイシーモス, ポテト, はちみつレモン入りジンジャエール
文庫サイズの聖書がほしいと思ったが、文語訳しかなかったのでしかたなくそれを購入
私の設定したなんちゃって安息日の日には、デジタルは使いたくはなかったが、今まで読んでいたKindle版の無料聖書を土曜日に読んだほうがよさそうだ
なぜ聖書に惹かれるのか、それは私が「相対主義」というものに対する疑念を持っていることにも関係する
善悪の問題が「どの倫理観が好きであるか」という好みの問題だけに帰着されることに対する懸念である
多神教は「それにまつわるものとしてあの神がおり、あれにまつわるものとしてその神がおる」といった都合のいい価値観を代弁しているように見える
「何を信じるかは人それぞれ」といっていろいろなものを偶像崇拝するのが本当に人間社会にとって有益なのかと疑問なのだ
聖書ではノアの法という絶対的倫理基準を採用しているが、これ自体は狂信的なものではない
世界で最も読まれている本が聖書だというのだから、単に教養としても良いだろう
読んで何かしら行動として実践することが重要だと思っているので、「信じる者は救われる」といった態度は取りたくはない
ビックバンセオリーのシェルドンが言うには、有名な学者の数々がユダヤ教徒であるために、キリスト教よりも魅力がある、という側面もあるが、非ユダヤ人であるシェルドンや私はノアの法さえ守っていればよいはずだ
というのも、箴言にはSNS時代に通ずる考えがズバリ書かれており、その道徳性に驚愕したからだ
その感覚でトーラーを見るとちょっとズレているかもしれないが、ラジエルの本にも「真の知恵はトーラーにしか存在しない」と書かれていた気がするので、より興味を持ったのである
知識が生み出したのは残念ながらICBMである、それに対し、知恵が生み出したものはタルムードとトーラーであると言えるのではないだろうか
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるかに攻撃的な印象を受けるし不快だ。
元増田は夫との暮らしに基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキはちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち、不安を綴ってみたに過ぎない。
あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分の気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。
確かに世の中には、言及対象を一義的に明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療や軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネスや科学の領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任の所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。
しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーションは井戸端会議とか時候の挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さないものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学・軍事・医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。
この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要な位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。
そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年と人類はやってきたのだから、一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。
人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。
元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか、表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。
ズバリ一言で言えてしまうような簡単なことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。
しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。
そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。
不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田は元増田を個人的に攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険な人物だということになりはしないか。
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俺は今年29歳になるニートだ。いやぁ信じられないよ、もう29だぜ? この間までハタチそこいらだと思ってたら、もう30目前。オッサンじゃん。
ここにきて俺はようやく焦りを感じ始めている。30という大台がいよいよ迫っていることに対して、今までになかった本格的な焦燥感に駆られている。
30歳という年齢はこの日本ではまだ「若者」の部類に入るとは思う。平均寿命80年の超少子化社会で30歳と言ったらぶっちゃけまだ全然若い。国の定義でも34歳までは若者だったはず。だが、社会的には30歳と言ったら立派に勤め上げている年齢だ。結婚や育児をしている人間も多い。早けりゃ子供がもう小学校という奴もいる。
いくら人生80年であろうと超少子化であろうと公的には34歳まで若者扱いであろうと、世間的には立派な社会人であり、親だ。それに、身体的にもそろそろ陰りが見えてくる年齢だ。今のところ「老い」は感じていないが、そろそろ20歳の頃と比べて変わってくるものが出てくると思う。社会的な視線に加えて、身体的な老いも焦燥感に拍車をかけている。自意識の上では自分はまだまだ社会的にも身体的にも若いと思っているのに、実際はもう若くはない。精神年齢と現実との乖離が受け入れられないのだ。
ぶっちゃけ俺は就職や結婚を焦っているのではない。就職はまぁ感じるところもあるが、結婚はまだまだ何も感じていない。そもそも彼女すらいないのだから。それよりも俺が今最も焦っているのは、「孤独であること」だ。
正直言って、俺は友達が少ない。今でも高校時代の友達とはたまに会うが、そんなに頻繁に会えるわけじゃない。ニートで毎日暇していて余計なことを考えてしまうからだろうが、もう何年も心にぽっかりと穴が開いている。
「そんなに孤独なら働け」というツッコミが入るだろう。だが、ことはそう簡単なものじゃない。確かに働くのが一番だと思うが、俺はこのまま就職はしたくない。就職したら今のように余計なことを考える暇はなくなるとは思うが、それで「孤独」の本質的な問題が解決するわけじゃない。俺は学生時代のような友達が欲しい。正社員として働き出したらそんな仲間ができるとは思えないのだ。
だったらバイトでもすればいいということになるが、これには大きな問題がある。ズバリ、年齢だ。バイトなら学生も多いしフラフラしているフリーターも多いと思う。だから正社員とは違って友達ができそうな環境ではある。だが、おれはもう29だ。30目前だ。おっさんにほぼ両足突っ込んでるような奴がバイトの学生と同じ感覚でいられるだろうか。俺はいいんだが、周りが許してくれないはずだ。「いい年したオッサンがなにしてんだよ」と絶対に思われる。
だけど、俺は毎日顔を合わせる友達が欲しいんだよ! 年下でもいいからそういう仲間が今からでも欲しいんだよ! なんで学生時代が終わったら「友達」が作れなくなるんだろうか。「大人」の人生は、学生時代までの交友関係を消費しながら、働いて嫁と子供の面倒を見ることしか許されないのだろうか。「大人」になったらもう、人生は消化試合でしかないのだろうか。モラトリアム人間とかピーターパン症候群とか言われるだろうが、どうしても俺は納得できないのだ。