はてなキーワード: カウンセラーとは
書いてくれてありがとう。見ず知らずの人間ですが、応援してます!!!
被虐待児として、精神科医が書いた被虐待児のその後の本など今まで読んだものを思い出して思ったことですが、増田さんが書いた "自己評価が低いのは自分がだめな人間だからだという思い" というのは、虐待を受けたことと関係があって、今後なくなる可能性もあるものなんではと思いました。
ある時、自分の乖離的な(投げやりとも言う)人生が、幼少期の出来事に関係があって、向き合わないと解決しないと思うようになり、カウンセラーさん探しのためにいろんな窓口に問い合わせて沢山人と話すことを短期集中的にやっていたら、ふとなくなっていました。
何が言いたいのか… えっと、「自分がだめな人間だから」なんて、思わなくていいんじゃないかな、増田さんがダメなわけじゃないんじゃないかな(0歳から同じ環境に別の人を突っ込んでも同じ精神状態になる人沢山いそうじゃないですか)、私はそうは思わないかなあ、ということを言いたくて書いてみました。
うちの場合は、礼儀やマナーなど躾があったわけでなく、ただ親の感情の暴発だったので、そもそも増田さんの家と結構違う感じですが。(増田さんほど、家族を好きという気持ちと、暴力が嫌だったという気持ちの、ダブルバインドは強くないかもしれません。)
死にたいんだけど死ぬ前にどうしてもやりたいことがあって、それを心の支えに5年以上続く希死念慮と付き合ってきた自分。が、最近その支えの効果がなくなってきて、突発的に死にそうになることが多くなった。こりゃいかんとカウンセリング予約を予約、早速行ってきた。スクールカウンセリングで無料だったんだ。いえい、感謝。
行った感想としては、やっぱり自分この人間社会で生きるの向いてねーんじゃねぇかな、って感じ。
何を言われたわけでもなく何を勧められたわけでもなく、ただひたすらに話を聞いてもらってきただけ。まぁカウンセリングとはそんなものだと知識を入れてから行ったのでその辺は気にしない。時間ギリギリまで喋って、「お時間ですので」って言われて、時間なんぞ全く気にしてなかった自分大慌て。あーすみませんっつって、よく考えずに勢いで来週にもう一回予約とって帰ってきた。
カウンセラーさんはいい人だったんだ。カウンセラーとしては完璧な人だったと思う。何一つ余計なことを言わず、こちらの言うことを一切否定しない。
ダメだと思うのは自分の方。今日のことを振り返って、聞いてもらえるからと調子に乗って山ほど喋った自分に気がついて嫌気がさす。余計なことを言ったのは自分の方だ。整理出来てない、同じことの繰り返しでただひたすら誰かの愚痴を言うだけの話を聞くのは、いくらカウンセラーさんでも苦痛な時間だったと思う。本当申し訳ない。っていうか何度か向こうの言うことを遮って喋った気がする。ごめんなさい。
んで、終わった後、スッキリするどころかさらに落ち込んだ。死にたい欲の波が来た。カウンセラーさんは紛れもなくいい人でちゃんと仕事をしてくれたから、誰が悪いんだって言ったら自分が悪い。メンタル回復するための行動でここまで死にたくなってどうすんだよと。カウンセリング向いてないのかなーとも思うけど、そもそも前提として人間社会に向いていない気がしてきた。人と話すこと自体に向いてない。
勢いで予約取っちゃったけど、なんかキャンセルしたくなってきた。何一つ解決もしてない、整理もついてない、前向きにすらなってないのにな。でも来週まで確実に生きなきゃいけないの辛い。自分で死ぬ勇気なんぞないんだけど、それでも毎日、死にたいなーこんな方法あんな方法で死なないかなー、死ねたらいいなーって思いながらじゃないと生きられないんだ……まぁ、キャンセルの電話を入れる勇気さえないから、結局突然死でもしない限り行くんだけどな!
AKS側の第三者委員会が発足して、AKSの記者会見が行われたが、結局は不十分な説明と対応が露呈した。
第三者委員会のやり直しの意見が出たが、AKSとしてはそれは無理な話である。
そうすると別な第三者委員会を立ち上げるとするなら、メンバー側での労働組合、任意団体たいな形で出来なかったものかと思う。
無論、年長者で二十歳そこそこである。しかし未成年者が居ることを考えれば保護者達が強く介入できたのではと思う。
メンバーにしても、黒側、白側、そもそも無関係又は、厄介ファンと手を切った等、立場はいろいろであろう。
だからこそ、弁護士だけではなくカウンセラーのような立場の人も入れる事で、犯行Gとの接触があったメンバーに対しても、処分の落とし所が作れたのではないかと思う。
まず、犯行後逃走せずに公園に移動し話し合いに応じたこと。また罪に関しても全面的に認めている
犯行Gマンション内の部屋を借りていたことで、ご近所トラブル程度に収めようとした?AKSの管理が行き届いてないじゃない?的な警察の判断。
示談書は作成されてないが、今村氏が取り調べで犯行Gに「よく言い聞かせる」メンバーにも「注意する、再発防止対策をする」事件のイメージを表に出させないよう、穏便に済ませたい証言をしたのでは?
又、犯人は初犯であり今後も続くようなら、ストーカー規制法を適用するとの警察の判断(今村メール最初は暴行・強盗・傷害 その後のメールでストーカ規制法で対応)
初犯で起訴、結果執行猶予でもストーカー規制法で、逮捕歴有りで実刑?でも大差ないからなのか?
NGTをやめるとの決断は尊重したい。ただ心配なのは、活動について今後AKSの圧力とかがなければ良いなと思う。
秋元氏と話が付き今後の活動が、不利にならないよう約束されていればいいけど。
民事裁判に証人として出ることもできるが、ある程度の円満というかファンが今後を期待しているだけに、これ以上の泥沼化は必要か?とも思ってしまう。
犯行Gからの慰謝料より、ファンからの温かい思いをたくさん受けてほしいと思う。
とりあえず俺のバイク返してくれ。
『かつての僕は「自由」の意味を履き違えて、多くの罪と間違いを犯しました。
自由に生きようと思えば思うほど不自由になり、やがて犯した罪の重さに苦しみました』
ずいぶんと軽い言葉だな。
とりあえず俺のバイク返してくれ。
『モノサシはひとつである必要はないし、いくつあっても構わない』
だからこそまず大多数の人間で形成している「社会」のモノサシを学ばなあかんのんちゃうん?
それを教えてくれるんが「義務教育」じゃないんかね?
とりあえず俺のバイク返してくれ。
何この人。
更生した俺かっこいいアピールだろうか。
「かつての僕はこのバイクと同じバイクをどこどこで盗みました。すみません!
お心当たりのある方はご連絡ください!心からの謝罪とお望みのバイクを新車でお返しします!」
とかさ。
とりあえず俺のバイク返してくれ。
レンタルおじさんでいいやん。
ガチの人に依存された時どうするんやろ。怖い想像しか出てこない。
マジでやめてほしい。
この人の言葉が全く心に届かん。
ゆえに、
俺はyoutuberになってやりたくないことはやりません!とか言っちゃう子供ちゃん大丈夫?
書かなきゃいけない気がしたので書く。
1年目 入学
2年目 留年確定
3年目
4年目 休学(1年間)
5年目 復学
6年目
7年目 卒業
9年目 就職
今 生きてる
周囲がウェイウェイガヤガヤしている中で自分が孤立しているのは確かに辛い。
だが周囲をもっと注意深く見回してみろ。孤立してる奴はお前だけじゃないはずだ。必ずいる。お前が孤立しているように俺も孤立していた。ぼっちは遍在する。お前はぼっちかもしれないが、一人ではない。
だから何だと思うかもしれないが、「一人ではない」ということは「同じような悩みを抱えた奴も一人どころではない」ということだ。それはつまり「相談窓口がある」ということだ。
構内のビラ、掲示板、大学のウェブサイト…注意深く見てみろ。「相談室」「保健センター」「保健室」そういう類のワードだ。大抵の大学にはこういうサポートが存在する。
この手の窓口はまず間違いなく無料だ。たっぷり時間をかけてカウンセラーと話せ。気後れするかもしれないが、安くない学費を払ってるのだからそれくらいやってもらわないと困る。主に俺のような奴が。
ところで、カウンセリングは全てを解決しない。だがカウンセリングを、他者との会話を通じて見えてくるものはある。例えば「自分が何を辛いと思うのか」だ。漠然と「辛い」と思うより具体的に「◎◎が辛い」と掘り下げた方が対処しやすい。
例えば「ぼっちなのが辛い」にもいろいろあって、「ぼっちであることで不利益を被るのが辛い」と「ぼっちであること自体が辛い」とではそこそこ違いがある。
前者を更に掘り下げると「休んだ回のノートを借りられない」とか「試験の情報共有ができない」とかだ。ここまで具体的な事象に落とし込めばぐっと対策が立てやすくなる。例えば「教員に参考文献を聞いて自学自習する」「オフィスアワーに教員に直接聞きに行く」「ネットの掲示板やTwitterで検索する(大規模な大学・学部であれば有効)」などだ。教員は友人ではないが、基本的に味方だ。
後者の場合は少々厄介だが、手がないわけではない。人間は本質的に孤独だが、他者との交流を持つことで孤独感を和らげる生き物だ。ならば他者との接点を増やして交流への足掛かりを築こう。
大学2年生であれば他者との接点は「講義」「アルバイト」「ゼミ・研究室(3年次からが多い)」「サークル」「SNS」「学外のコミュニティ」が主軸になるだろう。前2つについては申し訳ないがアドバイスできることが殆どない。何故なら奏功しなかったからだ。これは俺の限界でもあるが、自分の限界を認識しその範疇でできることをやることも大切だ(自己弁護)。
ゼミ・研究室についてだが、増田が今2年生ということは学部・専攻によってはゼミや研究室の話が出てくる頃合いだと思う。少人数ゆえに距離は近いが、同期や先輩との相性に加えて指導教員との相性もあるので、合わない人は合わない。中には一生ものの友人と出会う人もいるが、合わなければさっさと割り切っていくしかない。自分は後者だった。あっ、これも奏功してないな?
サークルについてだが、それなりの規模の総合大学であれば「サークルリセマラ」が利く。都市部であればインカレサークルもありだろう。なんとなく興味を持ったサークルにふらっと寄って、なんとなく雰囲気が合うなとか、話しやすい人が多いなとか思ったら残り、そうでなければフェードアウトする。新参が一人来なくなったところで誰も気にかけないので、こちらも気にしないことだ。コミュニケーション能力を高めるより、自分のコミュニケーション能力でも溶け込めるサークルを探した方が話が早い。相性もある。あとは試行回数。
自分語りで恐縮だが、俺が大学生活で最も長く在籍したサークルは2年生になってから入ったところだった。集まることは集まるが、互いにさほど深入りしすぎず、孤独とゆるく付き合っているような人が多かったのが俺には合ってたのかもしれない。休学中もサークルには時折立ち寄るなど、サークルの存在は立ち直る上で非常に大きかった。
何が言いたいかというと、一つで十分なのだ。何か一つ自分の居場所を確保するだけでかなり違うということだ。俺は講義でもゼミでも孤立していて、教室の前まで来たのにどうしても入れずにそのまま帰ったり、アルバイト募集に電話をかけられず断念したり、そういう学生生活を送ってきたわけだが、サークルの片隅に居場所ができたおかげでなんとか致命傷で済んだ。
しかし、例えば増田が地方の単科大学に在学中だとしたらサークルリセマラはちょっと難易度が上がる。学生数が少ないとサークルの数も少ないからだ。そこで「SNS」「学外コミュニティ」も有力な接点となってくる。今はインターネットで同好の士を探しやすい。自分の学生時代はmixi全盛期でクローズドなコミュニティが多く辛かったが、今主流のTwitterはとてもオープンだ。何より大学の外の人たちは自分の視野を大きく広げてくれる。視野とはつまり「なんとかなる」という感覚だ。
大学というある種閉じた場所で孤独と向き合うばかりだと、周囲とのギャップで自分がひたすら惨めに思えてくるものだ。だが世の中には孤独とうまいこと付き合いながらそれなりに楽しくやってる人たちが実は沢山いる。サークルやSNSや学外コミュニティでそういう人たちと出会うことで孤独に耐え得る価値観を知ること、そして「孤独でも案外なんとかなるんだ」という感覚を知ること、それがつまり「視野の広がり」なのだと俺は思っている。価値観は柱だ。柱は多い方が頑丈なのだ。
これは鬱の初期症状の可能性があるので早めにカウンセリングや心療内科の受診が望ましい。上述した通りまずは学内カウンセラーに相談の上で受診を検討した方がよいだろう。
休学についてだが、積極的にはおすすめしない。休学は基本的に「問題の一時的な凍結」でしかないからだ。それでも心身が休養を要するのであれば一つの選択肢になり得る。ただし、カウンセラーや医師や家族と相談して慎重に決めるべきだと思う。例えぼっちでも学業面に問題がないのであれば休学しないに越したことはない。
俺が休学を決断したのは自宅から出られず引きこもる日が増えた頃だった。学業や生活に支障をきたすようになったら一つの目安かもしれない。だがいずれにせよ、自分一人で決めるべきではないというのは間違いないだろう。
==============
いまいちまとまっておらず乱文乱筆で申し訳ない。一連の話はあくまで自分の生存バイアスを通したものでしかないのも重々承知している。人にはそれぞれの地獄がある。ある人にとっては何てことなくこなせることでもまたある人にとっては地獄の苦しみだったりする。
だからここに書いたことが全てお前のためになるかは分からないし、保証もできない。何故なら俺はお前ではないし、お前も俺ではないからだ。
まだ手続き自体はしていないのだがまずはそこに至るまでの経緯を
学年があがる毎にテストを意識すると机に向かう時間だけが延びて頭には何も入ってこない残らないようになっていった
今までは気合いで乗り越えたり気晴らししたりでなんとかやり過ごしてきたが今回は日頃の生活や趣味に至るまで何にも気力が湧かずいわゆる鬱の状態になってしまった
留年になって休学して実家にいるが戻って同じ内容をまたやろうなんて気持ちにはさらさらなれない
学問だけでもそんな感じなのだが職業としても医者をやっていける気がしない
先輩に将来の話を聞く度に嫌になった
勉強勉強勉強、労働労働労働の毎日とてもじゃないがやっていけそうもない
たいした志もなく、やりたいこともなく、ただ高校までの勉強がそれなりに出来て周りの期待に調子にのった結果がこれだ
なんなんだよあいつら
なんであんな量を覚えられるんだよ
それでいてサークルも趣味も異性との時間もちゃんととっててまじですげぇよ
周りには人間ができすぎてるのが1割、普通なのが3割、どっかしら頭おかしいやつが6割なんだが留年するのは学年の多くて1割2割
なんでこんな人の気持ちを考えられない、寄り添えないやつらが自分よりも優秀な医学生なんだろうって胸くそ悪くなってしまった
でも当たり前だ
患者からすればいくら性格が終わっていようが勤勉で優秀な先生の方がいいだろうし、いくら性格がよかろうとスタートラインに立てないならクソの役にも立たない
ただ問題なのは自分の能力というものに全くの自信がなくなってしまったことだ
それでも卒業して大学に進めたのは好き嫌いとは別に向いていただけだったのではないか
自分が嫌だやりたくない向いていないと思ったことでも必要となればやり遂げる、そういったことへの耐性が他者より著しく低いのではないか
それはつまりこの社会で生きていくことに向いていないということではないだろうか
少し回復してきて元々の趣味であった歌がまた楽しめるようになり、そういった好きなことで生きていく道もあるんじゃないかと考える一方で、どんな道でもやりたくないこと向いていないことはあるだろうしそれらを乗り越えていく自信がない
実家が太ければそのハードルは低くなるんだろうが現実はそう甘くない
こんなつらいことを続けるなら死んだ方がましだ、という逃げが幸いにも親の庇護下では許してもらえる
しかしまた同じような状況になったとしたらまた逃げてしまうのではないか
そのたびに思い悩んで苦しむような自分にとってマイナスの大きい人生に意味はあるのだろうかと
そう思ってしまう
ちょっと話がそれるが恋人のような人がいれば愚痴を聞いてもらおうとかその人のために生きようとか考えられるかもしれない
でもそういった存在を求めること自体に反吐が出る冷めた自分がいる
これまで出来た恋人は始まり方こそ様々だがいつも自分が振られて終わった
デートも何もしていないのに、いや何もしなかったからなのだろう
勉強や部活を言い訳にして、ほとんど恋人らしいことをせずに関係が終わる
自分の中での相手への愛情は本物であるはずだが、だから何かをしたいとはならなかった
たまに会って話してお互いが好きであることが確認できれば良かった
振られて大きく引きずって、でも同じ失敗をして次第に自分は彼女がいるというステータスが欲しかっただけなのではないかと思ってしまった
本当に相手を人として必要とするのではなく、自分を必要としてくれるものが欲しかっただけなのではないかと
他人を慮ろうとする気持ちは人一倍あると自負があるが、一方で他人の気持ちなんて分かりっこないし自分への好意なんて誰にもないのではないかと疑ってしまう
そう考えている自分も嫌いで異性に恋愛感情を持つことがなくなってしまった
今自分が生きているのは一度自殺未遂をして、生きて帰ってしまって家族の悲しむ姿を見て、死を選ぶことは何があってもダメだと諭されたからである
20歳超えてこんなところまで親の意見に縋っている自分が本当に惨めだ
小難しいことばかり考えて、生きることから目をそらしてばかりの毎日で、カウンセラーや医者に診てもらっているがこんな考え方の根本から変わる気がしない
自分語りをしまくったが結局、今この世の中で自分の意志で生きている人々はすべからくすごい人たちであり、その意味で本当は底辺であるのに変なプライドを持ってしまった自分は生きていく意味と手段を見つけられるだろうかという不安に苛まれ続けている
今、残業中なんですけどもうデスクで涙をこらえるのに必死で何もできないので気をそらすためにも自分の話を書きますね それぐらいは許される職場なんです。いいでしょう。私がすべて悪いだけの、きっといい職場なんです。
私は小学校と中学校、合計で五年間ぐらい不登校(保健室登校)でした。原因はなんだろうな。今考えてもわからないんですけど、とにかく行けなかったんですよ。なんでだろうね。
面倒くさかったんです。たぶん。鬱かなってちょっとだけ思ったりもしたけど、でも、私は当時からオタクで、ネットで動画とかを見て笑ってたからただの甘えだったのかもしれない。徹頭徹尾、甘えているだけの人間なのです。小学校の三年か四年から二年ぐらい通えなくて、六年生で復帰したけど、中学校一年でまた行けなくなりました。勉強ができないわけでも無かった。昔から地頭は良い方で、ただ集中力は無かった。何事も長く続けられなかった。極度の面倒くさがりで、家事も何も一切できなかった。
両親は、学校に行きたがらない私を叱ることもなく、いろいろ考えてくれました。なんたらスクールみたいな不登校児の集まるところに連れて行ってくれたり、カウンセラーが居る部屋に週数回だけ通うように調整してくれたり。
結果としては、私は自分の中でなんで教室に行けないかわからないまま中学の三年間を過ごして、そのまま都立のチャレンジスクールっていう学校に進学しました。都立高校で、定時制。
そこには私みたいに理由もなく学校に行けなかった人って全然いなくて、病気だとか、働かなくちゃいけないから夜間で通うとか、親が離婚してから生活が変わって学校に行けなくなったとか、たくさん理由があったんです。私はなんで自分がここに居るんだろうってちょっと思ったりもしたけど、未だに仲よく遊ぶ友達ができたのもここでした。
でも高校はやっぱり三年しかなくて、私は大学に行くことにしました。良いなと思った大学を目指して、母がこのころ癌になったのに無理して私に英語の家庭教師までつけてもらったけど、受かりませんでした。その年だけ倍率が平素の三倍ぐらい高かったんです。なんでだろう。
結局私は担任の先生の勧めで、少し遠いけど私なら絶対入れる私立大学の文学部に入ることになりました。試験はびっくりするほど簡単で、これなら中学生時代の私でも入れるな、と思いました。教科は現代文だけでした。
でもこの大学で、私は今でもたくさん遊びに行く友人ができたし、その一人は先日入籍もしました。おめでとう。
大学は面倒くさいこともたくさんあったし、さぼったりもたくさんしたけれど、たぶん楽しかったんだと思います。バイトを始めたのも大学に入ってからです。最初は友人の勧めで飲食で働いていたんですが、給料未払いで数か月で辞めました。
次に私が応募したのは、カードゲームのショップでした。ちょうど流行ってたんです。シャドバなんて出る前で、ハースストーンは一部の人しかやってないし、MTGはオンラインが全然無かったころの話です。私はろくすっぽカードゲームなんて知らないままそこに面接に行って受かりました。
仕事はたぶん楽しかったです。結局二年半ぐらいやったのかな。みんなオタクだったし、嫌な客もいたしわかんないこともいっぱいだったけど、それでもバイトって責任もなくて気楽だったし、本当に楽しかったと思う。
その時直属の上司だった男の人とは今でもなんだかんだ年に数回会って、二人で飲んだり二回ぐらい日帰り旅行したり誕生日ディズニーしたり一緒にコンサートいったりします。私たちの関係は何なのか、こうやって書きだしても未だによくわかりません。良い友人なのかな。友達以上恋人未満の関係、結構好きです。気楽だし。いい関係ですよね。
そして私はバイトと遊びと勉学と文化コンテンツで日々を過ごしました。三人しかいないゼミでひいこら卒論を書き、その間に就活をしました。
私の父は大きな会社でそれなりに能力もあって、管理職ではないけれど責任感のあるポストについています。そんな彼と日々話をしたりしているうちに、私もこの業界にしたいな、と漠然と思っていたので、そこを受けてみることにしました。一応ほかにも数社受けました。
受かったのは二社。もう一つは金融系の会社で、少し怖くて辞退しました。その時私は卒論が楽しくて、就職の方がたぶん大事なのにそんなこと全然考えてなかったんだと思います。
そうして弊社に決めました。もうゼミ以外には大学に来る予定なんてなくて、バイトばっかりしていて、オタク趣味にお金を使いたかった。早く就活を終わらせたかった。
もともと視線恐怖症なのもあって、沢山の人がいる中で自分をアピールしたりすることが怖かったのかもしれない。
私は卒論を頑張って(学部で優秀賞をもらいました)、大学を無事卒業して、弊社へ入りました。
入ってから、ああ、結構体育会系というか、業種のくせに古臭い企業だな、と思った事は事実でした。けど、父が言うにはこの業種の中小はみんなこんなものだという話だったので、特に気にしませんでした。自分にマメさが求められる事務職は向いていないと思っていたからです。
それでも今の部に配属されて、訳の分からない言葉はいっぱいだし、教えてくれる先輩の一人は私に教える片手間ずっとグラブルをやっていた。もしかしたらグラブルをやっている片手間私に色々教えてくれたのかもしれない。
今のオフィスは、弊社の大口顧客(元請け)がほぼほぼ占めているビルです。
私は二年間、同じプロジェクトで、ワーカーホリックの上司の下で仕事をしました。
上司はイエスマンだから無茶な仕事をいっぱいもらってきちゃうし、自分がワーホリだからほかの人も同じぐらい働けるとか思っていたし、謎に有り余る体力で飲み会とかにも大体参加していましたが、怒らないし、わからないというとある程度は聞いてくれたりするし、たぶんとってもいい人でした。私が生意気言っても怒りませんでした。ただ彼自身は毎月残業60時間とかいってるワーホリでした。いまでもそうです。
それでもそのプロジェクトは楽しかったです。つらいこともたくさんあったけど、愛着もありました。
なんだか身体がおかしいな、と思ったのは去年のどこかぐらいからだと思います。去年は忙しい月が数回あって、残業が40時間を超えるぐらいの月が飛び飛びに数回ありました。
昔から起きるのが早くて、朝五時とかに起きちゃっていたんですが、三時ぐらいとかに起きちゃうようになりました。
私はスマホ依存症に近いものがあって、何かあるとすぐスマホを見ちゃうんですが、それのせいもあったのかもしれません。睡眠の質がきっとどんどん悪くなっていきました。
プロジェクトは今年の春が大詰めで、みんなピリピリしてたし、急な雑務も増えました。
視界が一瞬真っ白になって、風呂場の椅子に座りこんだと気が付いたときには、身体のいろんなところが強くしびれていました。特に強かったのは手で、勝手に力強く握りしめられていて動かせませんでした。
母を呼びました。母は全裸で浅い呼吸をしながら手を強く握りしめている私のことをひどく心配してくれました。父も風呂場の外にはいてくれて、状態を調べたり、スポーツドリンクをくれたりしました。
その日は固まった手で何とか飲み物を飲んで、少ししたら回復しました。
でも、結局数日たってからも体調がすぐれず、午前半休を取って病院に行きました。
あのしびれの正体も知りたかったからです。結果は「抑うつ状態から過呼吸を引き起こしたのでは」ということでした。
お医者さんには産業医面談を受けるように言われました。私は素直にワーホリ上司へそのことを話して、午後に出社しました。
休憩スペースで面談をしました。診断の詳細、そして産業医面談というものを受けるかどうか。
受けるなら俺から上に言うよ。そういわれて、少し困りました。プロジェクトが本当に大詰めだったからです。私はその時まだ二年目のぺーぺーでしたが、そんな私でももしいなくなってしまったら困るかもしれないと思ったからです。結局上司はそのあと産業医面談の話はせずに、春からの仕事の話をされて終わりました。
その週の金曜日、私はどうしても体調がすぐれず、うまく動けなくて、会社を休みました。
私自身が、どうしてこんなにストレスを感じているかがわからなかったからです。それが仕事のせいなのか、無意識にプライベートでため込んでいたのか(その時ちょうどフォロワーとちょっとトラブルがありました)、単純に満員電車がストレスなのか、わからなかったからです。
翌週、私のところにやってきたのは課長でした。
「別に産業医面談を拒否するわけではないし、受けたいなら調整するんだけど」彼の言葉はこう続きました。「俺たちの権力より上だから、部署移動とかを指示されたら逆らえないしなあ……」
課長は私が部署を移動することになってしまった場合の人間リソースの低下を懸念していたのです。
「とりあえず、今月は今のプロジェクトを頑張って、春以降もう一度相談します」私は言いました。
もしかしたら、本当に私が居なくなったことでこのプロジェクトにクリティカルな何かが発生してしまうかもしれない。それが嫌だったのです。課長が明言してしまうことで、それが私のせいにされてしまうのも嫌だったのです。
薬を飲んでいれば出社はできました。なぜか倒れたときから咳が止まらないけれど、風邪が長引いているのだろうと思いました。
私は抗不安剤と睡眠導入剤を内科でもらっていたので、薬がなくなった時についでに咳止めの薬をもらいました。
咳止めとして飲んだ抗生剤と私の相性が悪かったのかもしれません。私は朝の満員電車の中でお姉さんに助けてもらい、途中の駅で降りて、でも歩けなくて、駅員さんに車いすに乗せられて詰め所みたいなところの長いすに横たえられ、母親が来るのを泣きながら待っていました。
母は病気です。私が高校の時からずっと治療しています。手術もしました。私なんかよりもずっと大変なのに、毎日ご飯を作ってくれて、こうして迎えに来てくれるのです。私は親不孝者でしたが、母が迎えに来てくれたので、駅から外に出ました。その日は散歩をして、会社を休みました。
体調の悪化が治りません。毎日薬を飲まないとうまく動けません。
それでも日は回るので、春から新しいプロジェクトに参画することになりました。すでにある程度進んでいるプロジェクトは初めてでした。
私はわからないなりに、以前の経験と知識を使って頑張ろうと思いました。そのプロジェクトの上長は先日面談をした課長でした。
参画してから一週間ほどした日、私は唐突に課長に仕事の依頼を受けました。
この業種において、一から自分で作ることは大して難しくはありません。今のプロジェクトの様子確認も兼ねて、大丈夫です、やります、と言いました。
どうやら課長のその認識が根本的に間違っていたらしいと知ったのは、その週末のことでした。
どうやらそれは、私が触ったことのないソフトを触って、すでに動いているシステムに「絶対にミスをすることなく」仕様追加をするというものでした。
私は困惑しました。だって自分が触ったことのないものを「ミスなく」と言われても困ります。練習ができません。経験もありません。
しかも、それは私一人でやるという話でした。ベテランの技術者が後ろについてくれると言いましたが、彼は他の仕事で忙しく、週に一回、数時間様子を見てくれるだけでした。
彼がとっても忙しいのは知っていました。だから仕方ないとは思いました。上長に聞いていた話と全然違っても、もう請けちゃったと言われたら若手にはどうすることもできませんでした。
元請けからはことあるごとに「絶対にミスは許されない」と言われました。私は状況の調査から始めました。
手順書や設計書は用意されていました。ただ、前任の会社が中途半端に撤退していたため、それが正しいかどうかの調査から始めなければなりませんでした。
けれど、私が触ったことのないソフトウェアの設計違いを、どうやって見つければいいのだろう。それはとっても疲れることでした。
上長はいつもなぜか忙しそうで、私が疲れたとか、産業医面談の話についてを問いかけることは憚られる雰囲気でした。半分炎上していたのかもしれません。プロジェクト未経験が私含め半分以上を占めていた上に、その中で唯一構築経験があった私が一人での仕事に回されてしまいました。
ポテンシャルって便利な言葉ですよね。とりあえずそう言っておけば良い感をひしひしと感じます。絶対失敗できない仕事を依頼されたなら、失敗しない人を連れてくればよかったのです。
私はそれでも何とか資料を調べて不明点を上げ連ねて、ベテランと上長との進捗報告に参加しました。訳が分からないことだらけでした。たくさんのことを言われましたが、すでに集中力が平時の半分ほどしかなくなっていた私にとって、それは呪文のようでした。半分ぐらいわかりませんでした。わかったふりをしました。
産業医面談に行けなかったので、有名な精神科のある病院の予約を取りました。その時にはもう、睡眠導入剤がないと眠れない生活になっていました。
新しい病院で、紹介状は無いんですとだけ伝えて診察を受けました。睡眠導入剤のほかに睡眠安定剤をもらいました。でも、睡眠安定剤を飲んだら昼間もものすごく眠くなってしまったので、二回しか飲めませんでした。結局抗不安剤と睡眠導入剤だけを今でも飲んでいます。飲まないと眠れないし、仕事に行けないからです。
このころから、ホームで電車に不必要に近づいてしまうようになりました。(私が使っている路線は都内なのにホームドアがないのです)無意識でした。私は死にたいのかな、と思うようになりました。
転職をすればいい、とか、周りの友人は言っていましたが、どう客観的に見たって私のメンタルが弱いだけの甘えなので、私が悪いのです。昔から私が社会や親に甘えているだけなのです。その自覚があったし、転職はとっても怖いもののように思えて仕方がありませんでした。だって自分には実力がないのです。転職活動で落とされることも怖かったです。評価されないことは、訳の分からない仕事を一人でやらされることと同じぐらい怖いことでした。
今日も偉い人たちを交えての打ち合わせがありました。私はやっぱり、「絶対にミスできない」ということを念押しで言われました。それならなぜ、ソフトウェアに触ったことがないたかが三年目の私がその仕事をしなければならないのかがわかりません。他の人にも仕事内容の相談ができません。調べても全然出てきません。他のメンバーはいろいろみんなで相談しながら前に進んでいるのに、私は自分が一つわからないことがあるだけでそこに立ち止まってしまいます。解決策がわかりません。どうすればいいかわかりません。集中力がなくて、どうすればいいかもよくわからなくなってしまいました。
少し、辛いな、と思いました。
別に残業が数百時間だとか、あまりにも激務だとか、そういうことはありません。家族はとっても優しいです。私はきちんと笑えています。両親はたくさんのことに関して理解もあります。母は自分の身体も悪くて病院に通っているのに、私が精神科に行くとき一緒についてきてくれました。
部長も課長も主任もワーホリですが、きちんとしてはいると思います。中小ですが、それなりに長く続いている、頑張っている会社です。
だから、私があまりにも社会に甘えているだけなのです。私が弱くて、今まで甘やかされてきたから、ちょっと普通なぐらいのところに来ただけで耐えられなくなっているのです。
それは悪いことだと思っています。だって私が弱いのが悪いんです。甘えなのです。でも、強くなる方法がわかりません。
どうしてこうなったんでしょう。生まれたときから弱かったのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。何が悪かったのでしょうか。仕事ができないことが悪いのでしょうか。
薬を飲んでいるとお酒が飲めません。友人との飲み会も、友人が気を遣って飲み放題プランを外してくれます。気を遣って一緒にソフドリを飲んでくれようともします。
優しさが申し訳ないです。私が弱いだけなのに。私が弱くて薬を飲んでいるだけなのに。
仕事が嫌いなわけじゃありません。色々考えて、正解を導き出せたときや、トラブルを解決できた時はとっても楽しいです。
ただ、たぶん、もう一人だけいたら、こんな気分になっていなかったのかな、とは思います。自分にとって、「絶対にミスできない」一人きりの仕事が、案外つらいのでしょう。ゆとりなのです。弱いのです。世間様に甘えているから仕方がないのです。責任を一人で負いたくないのです。「わからない」と隣に相談する環境が欲しいのです。
会社の最寄りの駅にはホームドアがありません。今は想像するだけだと思ってはいますが、段々と黄色い線の向こうを歩いていってしまって、いつか飛び込んでしまったら、と思うととても怖いです。それも、私が弱いからなのでしょう。
生きたいです。オタクは楽しいし、ちゃんと毎日笑っているし、友人もいい人がいっぱいいます。でも、いつまで生きればいいのか、よくわかりません。勝手に涙が出たり、ベッドから動けなくなってしまいます。
私よりもっとつらい人はそれこそ数えきれないほどいるはずなのに、どうして自分はこんなにも弱いのか。どうしたら強くなれるのか。
なんで生きてるのか、わからないのです。
それを吐き出したかっただけなのです。
うーん。まず、休学するのは悪い選択ではないかもしれない。そういう事情があるのなら、1年学年をずらすのも悪くないだろう。ただし、2年も3年もずらすのは良いとは思えないがね。そこから逃げるため、と思わずに、周辺の主に人間の関わる関係を再構築するため、と前向きに考えておくべきだと思う。
あと、自分でも認識していると思うけど、うつ病かどうかは別として、抑うつ状態にあることは間違いないかもしれない。(うつ病を含む)抑うつ状態になった場合、それまで当たり前にできていたことができなくなることが多い。入浴、掃除、ゴミ出しなどは典型的な例だ。ちなみに私の知っている例では、ギターマニアがうつになったらギターの弦を張り替えるのが異常にしんどくなって、ギターを弾かなく(本人の意識としては「弾けなく」)なってしまい……ってのがあったな。電車や風呂の話はまさにそういうサインだと思う。
先日も書いたんだが、精神科もしくは心療内科に受診する気なら、どこに行くかは結構重要。怖いのは、受診して状況聞かれて「はいじゃあこれ」と、複数種の薬をてんこ盛りにされるケースな。うつ病の場合に処方される薬としては「抗不安薬」「抗うつ薬」「睡眠導入剤」の3点セットであることがほとんどなんだが、初診であるにも関わらず、各々のカテゴリーに入るものを複数種、あるいはそれに更に加えて本態性振戦(いわゆる身体の震え)に処方される薬(βブロッカーなどが多いんだが)を一気に処方してくるケースがあったりする。こういうところに通ってしまうと、複数種の薬でメロメロになった状態で、生活改善どころじゃない状況に沈んでいくことになりかねない。5ちゃんとか口コミサイト的なもので情報を拾うのが手っ取り早いと思うかもしれないが、治療を受ける側の主観にかなり寄った情報だったりすることが多い。お薦めは、地元の保健所を探して相談に行くこと。保健所は自立支援医療の窓口になっているので、病院に関する(治療実績を含む)情報が集まるから、怪しい病院は紹介候補から外して教えてくれるはずだ。そしてその上で通院して、コミュニケーションなどでしっくり来ないなら、そこで病院を替えたって構わない。無秩序なドクターショッピングはお薦めしないが、患者は複数の意見を聞く権利があるので。
あと自殺について。まだ本当にうつの底に沈んでいないときが、実は一番危険なんだよな。うつの底に沈んでいたら、厭な言い方だが死ぬ気力も出ない。しかしそこそこ元気なときに精神状況の揺れがあると、そこでふーっと行動してしまうことがあるので。本当にやってしまう人達に共通しているんだが、「死にたい」って言わないんだよな、大概。皆さん「消えたい」「消したい」と仰る。でもな、この21世紀に、ゲイだからって何故自分を消さなきゃならないんだ? 消す必要ないだろ。胸張って生きていいんだぞ。世間のアホな輩の中には「えーゲイだったら俺にも暴走的に来るんちゃうのー」とか言う奴もいるんだろうけど、これは、男性が女性に対してやったとしても許されることではない。単なる性暴力だよね。つまり、ホモかヘテロかなんて、実は何も関係ないんだ。アンタは必死でエロビ買ってるんだろ。なら性暴力にはしっていないんだろ。それでいいじゃん。何を世間に恥ずべきことがある。何故自分を消さなきゃならないんだ。そんな必要はない。胸張って、少し休んで、必要なら医者やカウンセラーの助けを借りて、堂々と生きていっていいんだよ。
ADHD の疑いがあり、通院して2ヶ月が経った。ストラテラはあんまり効果が感じられなかったため、コンサータ18mmを試している。
思えば授業中はよく居眠りをしていたし、ケアレスミスをやらかすことが多かった。部屋も片付けられた試しがない。でもそれって普通の人も同じじゃない? と問われると自信がない。
その人が発達障害か否かというのは判断がしにくい。レントゲンとかCT撮って分かるものでもないから、具体的なバリアーがあって生活する上で困難と認められたときにお墨付きが貰える。グラデーションは広い。自分の場合、院退学とか会社での低評価とかが当てはまるかもだが、それだってよくある話ではある。
コンサータを飲んで居眠りはしなくなったが、不注意とか過集中は改善されていない。忙しそうにしているPGMにコンタクトをとりたくなくて先延ばしにするのは、障害というより院進で食らったトラウマな気がする。
仕事が見当違いのところにいきがちなのは脳の特性のせいです。だから考慮してくださいというのは、頭脳労働者としては致命的な気がするし、重いタスクが割り振られなくなった(体感)のでTwitterやってる言い訳にもならない。ちなみに居眠りは指摘されたがTwitterは指摘されなかったので別にいいのかもしれない。そのうちはてブもやるか。
カウンセラーの薦めで、会社には「最近気分が落ち込むため、脳の神経に効く薬を処方してもらっています。まだ傾向ありの状況なので鬱とか具体的な病名は出ていません」と説明している。嘘ではない。嘘ではないが、障害と怠惰の違いが自分でも分からないため、はっきり言うのは抵抗がある。
きついことを書くが、アンタのために書いているつもりなので、どうかこらえて読んでもらいたい。
まず、アンタは治りたい(本当は治癒というよりは寛解、もしくは自分のありようにおりあいをつけるということなんだが)のか。今だけ楽になりたいのか。どっちなんだろう。いずれにしても、アンタのやり方はよくないと思う。まずアンタが書いている時刻が問題だよな。俺は今日早く家を出る用事があって早起きして、アンタを見かけてこれを書いているわけだけど、アンタ、未だに夜寝られていないんじゃないのか。それは状況が改善していない証拠だと思う。
自分で病名を探して納得しようとする、っていうのは、メンタルの悩みを抱える人が陥りがちな穴なんだけど、こう考えてみてくれないか。直線が曲がって見え、色が違った色に見える、そういう状態の視覚で懸命に絵を描こうとして、絵が描けるのか? 少なくとも一人では描けないよな。もし無理矢理描くならば、定規なり補助者なり、といった「外部(自分以外)の基準」なしには絵は描けないわけだ。これと同じで、メンタルに問題を抱えた人間が、その精神的状況を自分で精査することは不可能だ。だから、医師なりカウンセラーなりの助けが必要だし、最終的な判断は彼らに委ねなければならない。
患者側が、たとえば amazon で大枚はたいて DSM-5 やそのマニュアルを購入し、自分にあてはまる箇所を探す……なんてことがありそうなわけだが、あれは臨床経験をちゃんと持った精神科医が診断の基準にするためのものなので、素人が自分の主観的に感じる状況をその中に探しても、あーここも、ここも、ここにもあてはまりそう……で終わってしまう。だから、自分で自分を「診断」するのはやめた方がよろしい。意味がないんだ。そういう例を山程扱っている専門家に委ねる必要がある。
ただし、患者側にもある程度選択する自由はあるし、選択することは考えないといけない。ニュースとかで見たことあるかもしれないが、安易な多剤併用の処方を漫然と行う精神科医は確実に存在するし、まともな指導を受けず、怪しい資格を取得してカウンセラーを自称するような輩も結構あちこちに転がっている。
だから、これから書くことをやってみてもらいたいんだ。うまくいけば、もっと自分の状況をよくすることができると思う。
まず病院を探すこと。近所にあるところにポンと入るのは駄目。さっき書いたような多剤併用を行うような医師に当たってしまう可能性もある。俺がこの手の話を相談されたときに提案するのは、その地域の保健所に相談することだ。保健所は、精神医療における自立支援医療の窓口になっているので、精神科・心療内科に関する評判が集まる。多少敷居の高さを感じるかもしれないが、邪険にされることはまずないから、一度行って話を聞いてもらいたい。
あと、ちゃんとした精神科医は、いきなり病名を決めたりはしない。何度かの通院の中で、状況を観察し、処方に対する反応をチェックし、最終的な病名を決定する。なので、先の多剤併用みたいなことがない限りは、多少辛抱強く通院する必要がある。おそらく最初は、抗不安薬と眠剤位しか処方されないかもしれない。それは、いきなり複数種の薬を処方しても、効果があるのかないのか分からないから。向精神薬ってのは微妙な薬で、同じように見える二人の人に投与しても、片方に劇的に効くがもう片方は副作用で苦しむだけ……みたいなことが結構普通に起きる。抗うつ薬等の場合は血中濃度が安定するのに長くて二週間位かかるものもあるので、飲み始めてそれ位経ってから効き目を判断しなければならない。最初は、まずひとつ処方して、二週間様子をみて、量を調節して、駄目そうなら他に変える、しかしいきなりやめると揺り戻しがくるから何週間かかけて減らし、他に変えて……ということを続けることになる。まあ、ちゃんとした医師は俺の書いていること位は説明してくれるけどな。いずれにしても、バファリン飲んで頭痛が治まる、みたいに安易にはいかない。そこは辛抱しなければならないところだ。むしろ安易にいくと軽々に言う医師はあまり信用できないということだな。
あと、いわゆるパーソナリティ障害に関しては、薬剤治療よりも精神治療(カウンセリングなど)が有効とされるわけだが、カウンセラーに関しては臨床心理士であるかどうかを確認した方が良い。他にもちょっと前に公認心理士という資格ができているわけだが、あの業界でオーソライズされている資格って結局は臨床心理士なんだな。専門の大学院で教育を受けないと取得できないし、資格が5年で更新され、更新にあたっては臨床実績がなければ無理、という制度なので、判断基準としては有効だと思う。カウンセリングに関しても、一度や二度受けてどうこう、というものではないので、継続的に受ける必要がある。
いずれにしても、医者は厭だ、自分で自分はこうだと思う、納得した!……では、状況はあまり変わらないよ。変わってりゃあ、もう少し朝寝坊もできると思うんだけど。医者は厭、を越えて、少しはマシな医者を探す、に行ってもらいたいと思うのだが。
6年前くらいに一度壊れてから、それから生きていたいと思えなくなって、時々家から出れなくなる程病んでの繰り返しで、3年くらい前に親に泣きながらお願いされたから病院に行ったら躁鬱だと言われた。
だから、なんだと思った。
病院に行って、病名がわかって、薬を飲んでも、辛い気持ちはなくならなくて、ただただ死にたかった。
死ぬのは怖くて死ぬ勇気なんてなくて、いつかそんな恐怖さえも消えるくらい死にたいと思う時が来る事待ちながら生きていた。
カウンセリングを受けても、ひねくれてたから人の不幸を聞いて金貰えるんだ、なんの解決もしてくれないくせにって思ってすぐにやめた。
日々生きていたくないと思っていて、時々無性に死にたくなるくらいで、人よりメンタルが弱いけど日常生活は割とできていた。
楽しい時は笑ってたし、嫌なことがあると引きこもった。
だから余計に理解されなかった。甘えだと言われ続けた。自分でも甘えだと思い始めて、でも、甘えだと自覚した所でどうしたらいいのかわからなくて、苦しかった。
躁鬱の症状を調べても、躁の症状はあまり当てはまらず、鬱の症状ばかり当てはまるから、ただ単に鬱なのか?と思うけど、元気な時は元気だし、病気なんかじゃなくて性格なのかなやっぱり甘えなのか。
そんな事をずっと考えていた。この性格のせいで、ほとんどうまくいかない。治したくても感情をコントロールするのが難しかった。
もういい、疲れた。治すより死んだ方が早い。そう思って自殺をしようとした。何度も衝動的に自殺をしようとしては、未遂で終わってしまっていたから、計画的にいこうと思い実行までに1ヶ月の猶予を設けた。
その1ヶ月の間に丁度、冬休みがあって暇だった私は、友達に勧められた17歳のカルテを観た。
主人公の病気の症状が私と一緒で、私はすぐに境界性パーソナリティ障害の事を調べた。
調べれば調べるほど、症状があてはまった。そっか、私は躁鬱じゃなくて、境界性パーソナリティ障害だったんだ。そう気づいてなんだか心が楽になった。
正直、自分の性格に病気を当てはめて、それに甘えてしまっていた部分もある。なんでも、鬱だから仕方ないと諦めていたし、薬がいつか治してくれんのかと思ってた。
でも、薬は私を治すんじゃなくて症状を抑えててくれるだけで、病気を治せるのは自分自信しかいなかった。そりゃ、周りや先生、カウンセラー、薬のサポートも必要だけど、治すというより付き合うって感じだから結局最後は自分が重要なんだと思う。
正しい病名がわかると、正しい対処ができる。治すより死ぬ方が楽だと思ってたけど、ずっと引っかかってたモヤモヤが取れて、もう少し頑張ってみようと思えた。
私の死にたさなんてそんなもんだった。小さい事で死にたくなって、小さい事で死ぬのをやめて、いつも感情は忙しい。
違法薬物で逮捕されたやつの刑期=薬物依存からの完全更生、にすればいい
心療内科の前で泣いたことがある。主治医もカウンセラーも信頼していたし、診察は必要なことだとわかっていたけれど、自分の苦しみを表現して不安と向き合う時間は精神的な負荷が大きかった。いつもは帰宅してから泣いていたけれどその日は我慢ができなかった。
すると、ひとりの女の人が近づいてきた。母親と同じくらいの年齢だろうか。私を見て、驚くことなく、ただひたすらに優しく「泣くとストレス発散になるんだって、でも、泣いているときはつらくてそんなことは考えられないよね」と言って頭をなでてくれた。さらに泣けた。それからクリニックの人に保護され(なんでもその人が泣いている子がいると伝えてくれたらしい)空いているカウンセリング室で落ち着くまで過ごさせてもらった。みんな、優しかった。
今みんながジェンダーとかの話してるじゃん?そうやって話題になってくれるのが嬉しくて
私、小学校の時から女は恋愛して結婚して専業主婦になって家事するっていうのが大嫌いで、小学校の頃の夢が、自分が稼いで旦那さんに家事してもらうだったんだよね。料理や洗濯、掃除が苦手だったのもあるけど、周りと違うことがしたかったっていうのもあるのかも。好きな人も家事ができそうな子ばっかりで、調理実習とかで見定めたりしてたな笑日記にもそう書いてる
中学入ってもそれは変わらなくて、部活入ってたのもあって漢気のあるJCだった。自分で言うのもあれだけど女に好かれる女だった。なおさら旦那さんには専業主夫になってほしいって思うようになったし、あのときはカウンセラーになりたくて給料調べて、これじゃやっていけないってちょっと落ち込んだりした。だったら旦那さんにパートで働いてもらおうとか考えてた。あのときは非正規とか時短勤務の存在しらないからね。
高校に入って、はじめて男女差を感じさせられた。所謂進学校だったから、クラスの男の子は自分が稼いで女の子は家にいてほしいって考えの人多くて、レディファーストとかされたりして、私って女なんだって思わされた。でも周りの女の子は、バリバリ働いてやる!やりたいことやってやる!って人もいたから、そのおかげで自分も正社員でバリバリ働いてやろうと思ってた。
大学入って、まだ男女格差がある事に驚いた。賃金格差ってそれ、非正規入れるからでしょ?ってずっと思ってたから。それと同時期に、恋愛をしに大学来たんか?みたいな奴の出現により私は完全に恋愛に関して興味がなくなった。側から見て気持ち悪さが勝ってしまったから。だからそのときくらいから自分1人で働いていく、もしくは仲のいい友達とルームシェアして暮らすのもアリかな、家事分担とかしてね、とか考えるようになった。
それで今就活中なわけだが、どこの会社も狂ったように女性活躍〜育休、産休、等々言ってるのを見て、私の考え方は合ってたんだなと確信した。