はてなキーワード: 社会貢献とは
人や社会はこうあるべきっていう理想を持っていて、それを押し付けてくるやつ。
そんな大層な理想を押し付けられても息苦しくなるし、押し付けてる方も勝手に裏切られて荒ぶるだけじゃん。
足並みを揃えてればよかった昔の日本ならまだしも、今はもうそういう時代じゃないでしょ。
押し付けてくる奴はだいたいプロジェクトの進行を無駄に遅らせたり場を引っ掻き回したりするんだよ。
大層な理想を持つ人が行う社会貢献が人をDISることから始まるとかすげえよ。
芸能人やどっかのブロガーの発言に対して粘着してウジウジいうのは楽しそうだからいいと思うが
その人は人としてやってはいけないことをしたから悔い改めるべきだし、謝罪もしろみたいな雰囲気でてるやつまじやばいと思うね。
研究に寄りすぎている人
・実際の社会で問題になっていることよりも研究的に面白そうな問題に注力して研究するのでなにも社会貢献していない
・問題の本質を解くことに興味はあるがどうやって社会に導入するかといった問題は解かないのでなにも社会貢献していない
・プロトタイプが大好きで素晴らしい技術デモを作るがその後の行動を起こさないのでなにも社会貢献していない
もちろん20年とか30年先の基礎になるような素晴らしい研究をしている人もいるんだけど,1000人に1人もいないんじゃないかな.
論文はテクニックと英語さえ覚えればいくらでも通るし,プロトタイプは金使って外注すればいくらでも作れる.
凄いことをやっているという意味で企業ブランドを支えてる部分はあるんだけど,かなり効率が悪いことは事実.
ビジネスモデルに寄りすぎている人
・誰でも解ける問題のソリューションを解くために優秀な研究者を割り当てて金にならずに安い金額でいいように使われる
・お客様至上主義で無理難題な課題を聞いてきてとにかくリソースつぎ込んで解決して結果的に安い金額でいいように使われる
・とにかくバリューチェーンばかり気にしてコア技術の本質を理解せず結局コア技術いらないことになって買いたたかれて安い金額でいいように使われる
とにかく1円でも稼げたらビジネスモデルが構築できて社会貢献できていると考えているのか優秀な研究者や研究成果をとにかく安く使いたがる.
そりゃ技術や人材の値段は市場が決めるもんだけど,研究で金を使いすぎた罪悪感があるのか強く出られずに安く請け負いすぎ.
ビジネスモデルが成り立たない技術っていうのは共産主義みたいなもんで無理に実現してもどうせそのうち破綻する.
逆にビジネスモデルの構築が大変なのは分かるけど技術が無いとそもそもどうにもならない.
中間ぐらいの考え方が理想的なんだろうけど,多分無理なんだと思う.どこが中間なのか誰も分からないし.
だから両極端の人達がお互いを補完しながらイノベーションするしかないと思うけどな.
技術がエンジンならビジネスモデルはターボ.両方で馬力を稼いで他の車を追い抜く.
2000ccで500馬力かつ低燃費のエンジンが作れたらそりゃ凄いけどそんなもんはない.
ダウンサイジングして低燃費なターボの方法ばかり考えてそもそも排気が無けりゃブーストしない.
大人になったら、好きなだけゲームしたり・漫画読んだり・TV見たりするのが夢だった。
今は、お金も時間もだいぶ自由に使えるけれど、やりたいゲームとかない。てゆーかやりたいことがない。
趣味を作ろうと思って、キックボクシングやったり・英会話やったりもしたれけれど、初級者レベルになるくらい(3ヶ月~半年?)で
すぐ飽きる。
起業とかアフィリエイトでノマドとか、そんな面倒なこと絶対ムリ。
あと、もし莫大な遺産とかはいってきたら・・・きっと仕事やめて、更に暇つぶしがなくなってしまう。
昨年は少しでも社会貢献しようと思って、ボランティアいったりもしたけれど、
ところで、あと数十年なにして暇つぶせばいいのだろう。
アニオタが犯罪をおかした際に「アニメを規制しろ」と発言すると、必ず「じゃあ空気やパンや米や野球も規制しろ」などと反論を受ける。
確かに空気を吸ってる奴は殺人もするし放火もする。だが空気があるおかけで我々は生きることが出来る。空気の社会貢献、いや生物的貢献は計り知れない。空気を吸った奴に殺される確率より空気が無くなって死ぬ確率のほうがよっぽど高いのだから。
確かに野球も賭博やら覚せい剤やら色々やってる。社会的に悪影響だと思う。だが一方で、ダルビッシュや福留などがとてつもない金額を、震災で苦しむ東北地方や口蹄疫で苦しむ宮崎県などに寄付する、とても大きな社会貢献を行っている。
アニメが、あるいはアニオタが何か社会に貢献した事が今までにあっただろうか。事件を量産し、引きこもりを量産し、それだけである。社会に負担を掛けることはあっても社会の役に立つことは何もしていない。せいぜい節電の呼びかけにタダ乗りしてドヤ顔した程度だ。
別に社会の役に立たないものは全て規制しろというわけではない。しかし、社会の役に立たない上に事件ばかり起こすような人間を量産するようなコンテンツは流石に規制するべきではないのか?
こぐまさんへ
あなた達にアドバイスしても無駄だと何百回と経験してきました。
あなたを本気で説得できるとは思っていません。
詳細は省きます。
経営者。元フリーターの元引きこもりでオタクで学生時代は暗黒期の非リアです。
祖母と叔母達と従姉妹と妹と奥さんと大学の友人があなたと一部~かなり似たような状態でした。多かれ少なかれ現代女性は生き方について悩んでいます。
半分は助けれました。半分は助ける事ができませんでした。
女性の人生については誰よりも深く考え抜いて彼女たちと一緒に生きてきました。
だからもしあなたが幸せになりたいのなら確信を持って断言できる事があります。
【女として生きなさい】
①自立するのをやめなさい
イケダハヤトさんやブログで稼ぐ系の人達は詐欺師(新興宗教の教祖)です。弱者を騙し薄く広く搾取するビジネスモデルです。彼らを目指すのは止めておきなさい。こぐまさんが目指している「ブログで飯を食う」は信者商法です。情報商材やマルチ商法の2016年版です。宗教とは価値観であり、神の存在を信じる事ではありません。1つの価値観「ブログで飯を食う」を信じさせ、そのためにお金を取るのであればそれは新興宗教なのです。宗教と認識しにくいだけです。
アドセンスやアフィだけでは自立して生きていくには稼ぎが少ないです。商品単価の大きい有料商材が必要になります。月数万の収入を目指すなら非効率なのでやめておきなさい。他の方法はいくらでもあります。
イケハヤさんの商売人としての才覚は認めています。しかしあなたは私達商売人のように欲深く狡猾ではないと感じます。だからこぐまさんにはブログで他人を騙して生計を立てていくのは無理です。やめておきなさい。勝負とは負けたら死ぬものなのです。あなたは今死にそうになっているように見えます。もうこれ以上、自尊心を傷つけるのはやめた方がいいです。
②結婚しなさい。
資本主義社会は弱肉強食。生存競争の社会です。あなたは凡庸で戦いには不向きな精神です。さらに女の体は戦いには向いていません。つまり心も体も戦いに向いていません。しかも28歳です。残り少ない女としての時間を女の体で男として男社会で自立するために戦うのはやめなさい。負けるのは目に見えています。女性は自立しなくてもいいのです。自立すると男性と対立して不幸になります。男女平等は幻想です。いいことのように聞こえますが大きな間違いです。男女が憎しみ合うようになります。得をするのはお金持ちだけです。学校教育は奴隷労働者を育てる教育です。女性は奴隷労働には向きません。女性が産まなければ人間は滅んでしまします。今までの奴隷になるための勉強に費やした時間が無駄で間違っていたことを認め、今から女として母になる道を0からスタートさせなさい。あなたは悪くありません。あなたのとった戦略が間違っていただけです。日本の99%の人達は物事の判断がつかない年齢から半強制的に学校に通います。私もそうでした。まさか今生きている人達のほぼ全員が間違っているなんて思わないでしょう。だからあなたは悪くありません。間違いを認めたうえでどうか自分を大切にしてください。まだ間に合います。女性には一緒に生きて感情を共感してくれる親しい家族が何よりも大事なのです。自己実現も社会貢献もその後にしましょう。そのためには優しく強い男性を見つける事が最優先事項です。そこに全生命力を使う事を強くおすすめします。不利な状況ですがそこにしか活路はありません。
③子供をたくさん産みなさい
少子化の進む日本社会のためではありません。あなた自身と生まれてくる子供達の幸せのために産みなさい。そして強い信頼関係を築きなさい。早期教育はしてはいけません。長時間保育園に預けるのもよくありません。塾に行かせるのも良くありません。ただただ可愛がって保育しなさい。どうしても大学に行かせたいのならアメリカの理系の大学に行かせなさい。教育は父親の役目です。学校や母親の役目ではありません。サラリーマンを目指してはいけません。家族と一緒に過ごす時間を何よりたくさんとりなさい。子供たちが成人した時に本当に信頼し合える家族がいれば、どんな社会になっていても幸せに生きていけます。知性とは学歴の事ではありません。正確性と記憶力で人間はコンピューターに勝てません。柔軟な思考、創造性、自発性、コミュニケーション能力、リーダー性がこれからの未来に求められる知性です。
これも厳しい状況ですが、がんばってください。
痛い腹を探られた残念な杉並区議のニュースを読んで、へえそうか、おもしれえ、と思って出てきました。
ご存じの方も多いでしょうが、2000年代初頭に規制緩和されるまで、民間で保育園を新しく作れるのは社会福祉法人だけでした。
ちなみに特養は今でも国・行政・社会福祉法人しか作れませんね。その代わり別の枠を作って株式会社が大いに参入した結果、絶賛規制緩和&老人虐待問題などが起こっていますね。
社会福祉法人は、社会福祉法という法律によって定義されてるんですが、この法律、WWⅡ直後に出来たものです。法律の成立背景はぐぐるといくらでも出てきますが、
ごく簡単に言えば、本来であれば政府がやらなきゃいけない社会福祉が、WWⅡで国が極端に貧しくなってしまったために手が回らなかったので
民間の相互扶助でなんとか乗り切りましょう、というための法人です。補助金を入れやすくするし税金も減免してあげるよ、その代わり営利目的はダメよ、となっている。
ちょっと前に「昭和の高度成長期は、保育園の役割は子育て支援よりも生活支援だった」というtogetterなども上がっておりましたが、
保育園や特養は、言葉は悪いけど「貧者向けの救済施設」という位置づけだったんでしょう。美しい国日本()は、ずっと昔から、自助が前提の低福祉国家なんですね。
話は戻ります。
それで、誰がその社会福祉法人を作ったかといえば、地元の名士、と言われる人たちです。戦災孤児院、病院、福祉施設などには広い場所と金が要ります。
必然的に代々続く地主や名主の家系の人たちが手を挙げたんですね。江戸時代から続く名主・庄屋制度の名残は明治大正昭和にかけても当然残っていましたから、
彼らからすると「民百姓のための施しをして当然」という感覚もあったんだと思います。
ノブリス・オブリーシュですね、と言えばそれでほっこりした気持ちになれる、というわけではなく、同時進行で日本では農地解放や財閥解体などが行われています。
名主・地主や地域で成功した名士などは、これらの打撃を受けて、没落する者は没落し普通の人になり、「うまいことやった」人たちは、平成の今でも名士として生き残っているわけです。
その「うまいこと」が、ひとつには社会福祉法人を脱税に使うというテクニックです(真っ当に事業をなして生き残った方も当然いらっしゃいます)。
詳しいことは省きます。というか、昔のことなのでよく知らないんですが、社会福祉法人の他に、事業法人や持ち株会社などを設立して
あれやこれやで収益を還流させて一族が飯を食い、保育園や孤児院や病院を運営してきたわけです。
一つ大切なのは、少なくない社会福祉法人が、本当にノブリス・オブリーシュを旨としているということです。福祉施設は、基本的にはろくに儲かりません。
(話は変わりますが、福祉分野で規制緩和に乗って大きくなった株式会社が不祥事を起こしているのは、「本来、儲からないもの」だからです)
ただまぁ、残念ですが、社会貢献よりもお金が大事な人もいて、そういう人が、やってはいけない・決してバレてはならねえ資金還流をやっている場合があるようです。
私が上司から聞いた話では、昔はよくやってたことで、実はそれほど珍しいスキームでもなかったんだそうで。
名士の家に生まれても、ごく真っ当な思考回路のお子さんだってたくさんいます。
潤沢に教育を受けさせてもらい親のコネで良い会社に入ったりして、金周りの良い一般人と化している人も多い。
地元の区議会議員になるとか、自分の親がやってる保育園の理事になる、なんて手合いは、残りカスか、山っ気と名声欲にまみれた輩かのどちらかでしょう。
言い切っていいのかという感じもしますね。素晴らしい方もいらっしゃるとは思いますが、私が出会った「そういう方」は全員、名誉欲にまみれた残りカスでした。
田中杉並区議のことは存じ上げませんが、まぁ、ご自身が既得権者側であり、権利を付与する側(社会福祉法人の設立認可は市区町村です)でもあるという
グレーゾーンにいることをすっかり忘れて「民百姓の便所の落書きなんて下らないことを、生意気な」と平気で言ってしまう程度の、
残念な能力とメンタリティであったとしても、まぁ、想定の範囲というか「あるある」だなぁという感想になりそうです。
彼らがこういうこすっからいことをする大義名分というか常套句が「GHQの農地解放で身ぐるみはがされて」というやつだったりします。祖父母世代から刷りこまれてきた呪詛でしょうね。
実際にはそれでも元手は残ったはずなので、何を甘えたことを言ってんだコノ、としか思えませんが。
元が地主だったりすれば、思考が保守的になるのも当然でしょうし、その天与を当然と思って差別的な言動をしてはばからないするのは、残りカスだからだったりもします。
一つ弁護してあげられることがあるとすれば、やはり福祉施設って苦労が多いわりに儲からないから、何をこのナマイキな!と思っちゃったのかもしれない。
だとしたら馬鹿ではあるけど、倫理の罪は少しは軽いかねぇ…程度の弁護ではあるけれども。
このような、社会福祉法人運営=地元議員=地主って、本当に日本中にあります。そして、同じようなことやってる人たくさん居るんですよね。
田中杉並区議がどういう素姓の方はは、当人のサイトを見ただけでは分かりませんが、杉並区には「田中家」という名家があるんですよ。
http://www.city.suginami.tokyo.jp/kyouiku/bunkazai/hyouji/1007945.html
なにか繋がりがあるのかなーと、真っ先に思い出したので。
だからええと、みんな、地方選挙なんてわからん面倒くさいって思っても、投票しに行った方がいいと思いますよ。
投票率が低いのと立候補者が少ないから、バカでも選挙に通っちゃうんですよ。
一度目に当選するのが結構大変だという人もいるんですが、地元の名士だと地元組織票が入るから。
社会福祉法人は、会計基準や運営基準に違反があると免許の取り消しや停止処分があります。
でも、いったん関係者が議員になっちゃうとさ、「悪い社会福祉法人」だったとしても、何だかんだで許可取り消しとかに持っていくのは大変難しくなりますよ。
女は子供を2人以上産むのが立派な勤めとどこかの校長が言っているらしいが、もし私と同じ状況で「よーし2人以上産んで社会貢献するぞー」と思える人が言えるかどうか疑問だ。
私から見ていとこにあたる人だが、両家ともにダウン症の人がいる。
いずれも小学生くらいのときまで一緒に遊べと強制されてきたが、突然「アッツアーーーー!!!」と叫び声をあげて暴力的な行動をしてくるので私は大嫌いだった。
それがダウン症という症状からくるものであることを理解できたのはずっと遅く高校生になってからだ。
先に言った親類のおばさんも相当に悩んでいたが、高校時代の友人が10代のうちに結婚し出産したが、それが障害児だったときの周囲の反応がひどすぎた。
ただでさえ10代の出産に否定的なクソ田舎ではあるが生まれた子に障害がわかったときの「やっぱりね」的な因果応報理論は本当にクソ。
幸いにして障害児ではなかったが特定の関節が曲がりにくいという特徴があった。
私の姉は私と違って有名高校→有名大学へと進んだ才女だったが子供にわずかながら障害があったことでそれが台なしになった。
私はまだ一応婚活サイトに登録してそこそこ需要がある年齢ではある。
だが正直言って出産をして「まともな」子供を産めるかどうかはかなりリスクが高いと思う。
皮肉交じりに言えば、今国を動かしている官僚のみなさんは今私が出産に際して「優秀な健常児を産む」ことができる可能性があるかというリスク管理をしたら間違いなく「No」という結論を出すと思う。
官僚の例えが分かりにくければ、銀行員が私のような人間に対し「出産融資をします」という判断をゆだねたら絶対に「No]というだろう。
産んだ子供にわざわざ不幸になってほしくない。
別に、ある分野を変革するほどの社会貢献なんて求めてはいない。
全ての人に求められるものではない。
そうではなく、小さいながらも人のためにする小さな助力が社会貢献な訳で、利益にならないから社会貢献しないでは、
スタートにも立てていない。
利益は後からついてくる。利益を先に求めるものには利益果てに入らない。
人の役に立ちなさい。お母さんがよく言っていた言葉だ。
自分の部屋から、今はお店で手に入らないような「お宝の本」が出てきた。
パソコンで調べてみたら、そこそこ値段がついている本だった。数万とかの本ではないけれど・・・。
私は、どう売ろうかと考えていた。図書館に寄付するのはどうか、ということを思いついたのは、数時間たってから。
でも、この本は、売るしかない。
人の役に立つってなんだろう?図書館に寄付したら、みんなが喜ぶかもしれない。
でも、この本は売るしかない!だって・・・この本を売れば・・・
私と、私のお母さんが助かる。数日間の家計が助かる。
今日の夕食がいつもより豪華になるってとっても素敵だよね?
でも、葛藤してしまうんだよ、貴重な本を図書館に寄付したら、社会に貢献できたってことじゃない。永遠に本が残るんだ。
人の役に立てる。
外で食べることになったら、フライドチキンも頼みたいなぁ。
「福島のかわいそうなわんちゃん猫ちゃんのためにご寄付をおねがいします」という訴えを、東京近辺に住んでいる人なら駅前等で聞いたことがあるだろう。あれは、青年協議会という熊本のNPOが行っている事業だ。すこし調べてみたが、巧妙に仕組みを作っているNPOだったので共有したい。情報は彼らのホームページおよび内閣府で開示されている彼らの公式情報による。
NPO法人の目的を定める、定款という書類がある。彼らの定款にも、9項目にわたり幅広い項目が目的として入っているが、動物や犬猫に関するものはない。そもそも、なぜ「青年協議会」が犬猫の保護に対する寄付を求めているのか?事業報告書に答えがある
ニートや引きこもり、法務省からの紹介者などを積極的に雇用し、地域の清掃活動や街頭募金活動を通じて感謝の心を学ぶことにより豊かな人格形成を図る
そもそも募金を行うことそのものが目的で、募金で犬猫を救うことが目的ではないのだ。募金を訴えている人たちはニートや引きこもりで、給与をもらいながら働いているのだ。NPOの目的を達成するためのなんと上手な戦略か。私みたいなニートを雇用するために寄付をください、と言っても誰も寄付してくれないから、戦略的に寄付の対象を選んだ結果が福島の犬猫なのだろう。
公式サイトにスタッフの誓いというものがある。さすがニート再教育のための誓いだけあってよくできている。
http://seinen-kyougikai.jp/wp/wp-content/uploads/2015/03/stuff_tikai.pdf
このあたりをきちんと理解すれば、社会でブラック企業に当たったとしても耐えられるだけの心の強さが身につくだろう。
㉒ 今日も一日、名前も知らない誰かのために、名前も知らない誰かに頭を下げ、東北復興の窓口に自分がなるために、街頭募金活動を頑張ります。
上記の組み合わせは実に味わい深い。街頭募金活動は企業家として意識を持って行わなければならないのだ。
その企業家精神を実践しているのが青年協議会だ。少し詳しく見てみよう。
企業家たるもの、資本の有効活用は必ず意識しなければならない。寄付されたお金をそのまま使うなんてもってのほかだ。寄付されたお金は、さらに増やしてから使わなければならない。彼らは、NPOにしかできないやり方で、企業家精神を実践している。それを図解したのが以下のURLにある。
http://seinen-kyougikai.jp/wp/wp-content/uploads/2015/03/tikai.pdf
彼らは、いったん受け取ったお金でアルバイトを雇い、そのアルバイトがさらに寄付を求めることで、寄付されたお金を3倍に増やしている。その結果多くのお金を使う効果的な社会貢献ができているのだ。なんと巧妙な仕組みなのか。
2015年度事業報告書によると、彼らの収入の6567万円のなかで、NPO事業支出に使っているのは3440万円で最大だ。ただ、詳細は明らかにしないことにしたらしく、監督省庁から「内訳(支払機付近であれば支払先も)を提出するように依頼するも、提出なし」との注記を受けている。企業家たるもの自らの企業秘密を明かすわけにはいかないので、お上の圧力に負けず秘密保持を徹底するその態度は素晴らしい。
ただ、2014年度の事業報告では、圧力をかわしきれなかったのか、寄付金の内訳が事業報告書に添付してある。そのなかで最も多い441万円の寄付が「助成金コンサル事業」に使われている。他の寄付金の宛先が「相馬会(福島)」「猫のマリア」等であるのと対照的だ。助成金コンサル事業が何を示しているのかは秘密保護を徹底している以上当然明らかではないが、企業家精神を実践する青年協議会がただ単純にコンサルのために貴重な寄付金を払うこともあるまい。
ここは筆者の完全な憶測になるが、寄付金を払っているNPOに対して、助成金のコンサルを抱き合わせで紹介しているのではないか。そのコンサルにかかる費用についても寄付で賄えば、NPOにとっては無料でコンサルを受けることができてハッピーで、青年協議会は、関係するコンサルへの支払いが寄付金と会計上計上できてハッピーという、みんなが喜ぶ仕組みを構築していると考えるとしっくりくる。NPO法人は、2/3以上の役員が役員報酬を受け取ってはならない、という制約があり、せっかく稼いだ寄付金をそのまま役員報酬として支払うことができないのだ。もちろん、役員かつ常勤の職員として雇用することはできるが、その場合はタイムシートだとか兼業禁止だとかうるさいことを言われる。その点、コンサルタントであれば柔軟な支払が可能だ。頭の固い役人や理解のない第三者にいちゃもんをつけられないよう、念のため2015年では寄付金の内訳を公開しないことにしたのではないか。もちろん、まったく違うより巧妙な仕組みを考えている可能性もある。増田諸賢のトラックバックを待ちたい。
素直に寄付金を事業に使うごく普通のNPOが圧倒的多数の中、青年協議会のクリエイティブでイノベーティブな社会貢献は、「福島のかわいそうなわんちゃん猫ちゃんのためにご寄付をおねがいします」という言葉で想像されるものよりずっと幅広く豊かなものであった。彼らの革新性が、それにふさわしい社会の認知を得ることを望みたい。
https://www.npo-homepage.go.jp/Portal/corpDetail!show.action?no=043000212
アホみたいに無駄な会議を大人数でアホみたいに繰り返して設計書をいーっぱい作って
仕様変更できないところは無理矢理クソみたいな実装してアホみたいなコメント書いて
納品のためにどーでもいいメソッドにどーでもいいクソみたいなテストを繰り返して
そこで出てきたどーでもいいバグのために他のメソッドまで同じようなテスト繰り返して
クソみたいなエクセルシートにバージョン番号と編集者の名前を追記したクソみたいなファイル名付けて
そのエクセルにクソみたいに小さい字でしょーもない但し書きをいっぱい書き上げて
そんなクソみたいなソフトウェアを納品したと思ったら結局ユーザのニーズからズレてるとかでアップデート必要とか言い出して
また会議でクソみたいな設計書を拡張するクソみたいな設計書をいーっぱい作ってを繰り返してる
発注元のクソみたいにデカイ会社様の超高学歴情報系卒のエリート様がソフトウェア作れないのはよく分かったからさ
うちらがお前のとこに出向いて作ってやるってば
テストなんて最低限でやってベータ版でとりあえずニーズ掴むとこからさっさと始めて
使われそうもないAPIはガンガン減らして使われそうな機能をガンガン付け足して
こっちは物作りして社会貢献したいんだよ
ましてや、いい大人が時間を割いて学んだり、勝負するのは社会の害。
金を回すわけでもない、将棋の発展に寄与するわけでもない、生産性のかけらもない。
一日20分やると、年間5日分ゴミに捨ててる計算になる。そんな将棋を、まともな人間はやり続けたりしない。
追記3
素人将棋はゴミのような文化だと思うんだけどさ、持ち上げられすぎでしょ。
将棋のための戦法や定石を学んで強くなることは知的でもなんでもない。
数手先を読む、大局観、忍耐、それはスポーツや音楽など身体の鍛錬や交流、社会貢献につながるものでも身につくよね?
じゃあそっちやりゃいいじゃん。
素人で将棋をやってる連中って、コミュニケーションもろくに取れない、人生の時間をムダにしても気にならない、他の選択肢と比較せずただなんとなく惰性でダラダラとやってしまう、そのくせ知的だと勘違いしてるバカが多いよね。
以下ブコメへの反応
追記1
相手の嫌がることが分かるとわざわざ嫌がることをやるの区別がついてないバカがたくさんいてウケる
ゲーム脳とか言ってるバカがいるけどゲーム脳の本来の意味調べてこいマヌケ
瞑想を連呼して個人の環境や事情を切り捨て、メンヘラというスティグマ貼りして他人を貶めることを楽しむクズが言えるセリフじゃないなw
少なくとも議論する気もないレッテル貼りのクズに生産性云々指摘する資格はないだろw
追記2
他のスポーツや娯楽は身体や知性、教養としての交流にプラスになるけど、将棋の大局観だの転じようがないからなw
ましてや基本的な攻め方を記憶すればある程度無双できる知識自慢の要素も強いし
それと将棋のせいでクズになっただの将棋に負けただのレッテル貼りしかできないバカって自分のコメント見て恥ずかしくなったりしないのかな
バカの集まりにいると自分がバカだと気付かなくて済むから安心してコメントしちゃうんだろうなw
「相手が嫌がるから、弱点や隙を突くのは禁止」なんて誰も言ってないのに勝手に理屈組み立てるバカは頭悪すぎでしょw
嫌がらせを志向するクズが増えるという話をしているのに、その事実で傷ついたからってオマエの発言も嫌がらせだ!!って典型的な繊細チンピラw
そういう優しさって女には無いんだろうか。
『ザワールドイズマイン』って漫画でそういう感じの憐憫で自殺しかけた男にセックスさせてやる女子高生みたいなのが出てきたんだけどさ。
マザーテレサとは言わないけどさ。
でさ。美少女に生まれたら、キモオタにやらせてやるのって相当社会貢献だと思うんだけど。ってか美少女じゃなくても、普通くらいでもさ。
そういう女が出てもおかしくないと思うんだよねー、社会貢献がどうこう言うやつらがこうも多いとさ。
でも無いじゃん。
それとも、案外そういう女も居るけど、ひっそり黙ってるわけ?
な~んか。自分の利益になる男にだけ股を開いてる女が多くって、いやになるね。
やっぱ嘘なんだよなー女の優しさとかって。
そういうのは優しさじゃない!って言うかもしれないが。そういうタイプのやさしさってのはこの世に存在しないんだなーって虚無感あるな。
それとも。そういう思想を持ってる女って結構やらせるんだけど、すぐ死んじゃったりするタイプで世にアンマリ知られてないのかね。
まず、生計を維持するために、仕事をすることが考えられる。仕事を通して、生活の糧を得るのである。
次に、自分の能力を発揮して自己実現を図るということが考えられる。仕事を通して、自分の能力を高めるのである。
さらに、広い意味での分業、すなわち、仕事を通して、社会的な役割を分担することとなる。例えば、公務員のように直接的に公共の福祉のために貢献する仕事もあれば、税金を納めるという形で間接的に社会貢献を果たすことなどが挙げられる。
ホーソンの実験((Wikipedia https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%AE%9F%E9%A8%93&oq=%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%AE%9F%E9%A8%93&aqs=chrome..69i57.5361j0j7&sourceid=chrome&es_sm=93&ie=UTF-8))の結果にもあるように、
他の人よりも一生懸命働く人や努力する人もいれば、努力しない人もいる。その結果、能力の劣る人でも、才能に恵まれた人よりよい成績を上げる場合もある。仕事の業績は、環境や能力だけでなく、「動機づけ」にも左右されるのである。
「動機づけ」とは、何かをしようとする意志であり、その行動ができることが条件付けとなって、何らかの欲求を満たそうとすることである((Stephen P. Robbins, Organizational Behavior, http://www.amazon.com/Organizational-Behavior-Edition-Stephen-Robbins/dp/0133507645))。1950年代から動機づけ理論の研究が進み、エイブラハム・マズローの欲求階層説((Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96))、フレデリック・ハーツバーグの2要因説((コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%81%AE%E4%BA%8C%E8%A6%81%E5%9B%A0%E8%AA%AC-1125718))、あるいはダグラス・マクレガーのX理論Y理論((Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/XY%E7%90%86%E8%AB%96))などが唱えられた。
数年前、留学から帰ってきた自分の専門がたまたま珍しかったからか、遊びで作った同人誌が全国紙記者の目にとまり、そこから出版社へと連絡が回り、高そうな店と老舗バーに呼び出された末に執筆依頼を受けた。基本的に自己評価の低い人間なので嬉しかったけれど、実際、何を書いたものかと思いながら、その編集者や記者とは仲良く友人のようになり、数年が過ぎた。
2016年、年が明けてから色々と思うところがあり、やっと書き始めた。昨日、東京駅で会った作家と一時帰国中の某国在住の博士に近況報告がてら書きかけの原稿を見せたら、今すぐ編集に連絡したほうが良いと言われたので、アニメと映画を観たあと、久しぶりに編集に連絡をした。2万字程度書いているが、本にするには最低でもこの5倍か6倍は書かなくてはならない。でも、今までブログやら論文まがいのもので書き散らしたものがあるので、それを整形すれば、おそらく、読める本にはなると思う。
作家になろうと思ったことはない。憧れはするが、自分にそんな才能があると感じたことがない。
だから、たぶん一度きりのチャンスだろうから夏前までには書きあげて何とか上梓したい。
もし、この企てが成功すれば、最近の日本では途切れていた分野の復活に一役買えると自負している。
もちろん、きちんと書きあげ完成し、それが流通に乗った場合に限るわけだけど。
ただ、個人的には、いま書いているものが、僕にとっての社会貢献だという意識はある。というか、人類への貢献とか歴史形成とか言っても過言でない。数百年後、千年後に現われるであろう天才や偉大な誰かへとバトンをつなぐために、小さな砂粒を海に投げる試み。
出版社がダメという場合もあるので、その場合は、冬のコミケに出してみようかと思っている。最低限の目標は、今まで世話になった家族や知人が笑って読んでくれるようなものにすることだ。もちろん高望みかもしれないが、できれば、見知らぬ多くの人が楽しめるものになるといい。友人経由で、某省官僚が僕の本を待っているという話もある。その官僚が笑って読んでくれるようなものにしたい。少しは人文学の減衰に対しても益することができるかもしれないし。
僕の周囲には、十万部単位の専業作家や著書が数冊ある友人たちがいる。いざ書き始めてみると、彼らの苦労が見えてくる。本を書くのは大変だ。でも、きっと、こうやって言葉を紡ぐことが、どこかの誰か何かになるんだろう。その意味で、初めにことばあり、ことばは神であり、ことばは神とともにあったという有名な一句は、象徴的だ。文字通り、ことばが人の世界を造っている。
なんとか書き上げて、本屋に並べばいいなぁと思っている。
やりたくないことを、やらされ続けている。
システムの中で、効果が確立されていることを、やり続け。それで世の中は良くなっている。
個人の努力を効率的に社会貢献に結び付けられているので、努力することの『意義』は十分担保している。
でも、俺のやりたいことってのは、別のこと。金にはならないし、カナリの時間がかかる。
しかし、努力の『意義』も分からない。10年やっても無意味な確率のほうが高い。
メンタルケアのためにも、スポーツなどの趣味を持つのはいいだろう。
でも俺の趣味はエネルギーだけかかる。たとえばパチンコに近い。
あと、やりたくても無理なこともたくさんある。
ソレに対する諦めに対する無気力感もある。
決して、贅沢は言ってない。
機械がやってくれよ。