はてなキーワード: 一部の人とは
あんなことできるこんなことできる、確かに事実なのだろうが、そんなことが出来ているのは結局のところエリート採用された上澄か、所謂大都市の拠点支店に初任で配属された一部の人間ばかりだ。自分をはじめとした圧倒的大多数は地方の、さらに片田舎の支店に配属され、一生同じような仕事を繰り返すことになる。まさに歯車と言っていい。尊敬していたかなり年上の先輩は「手をあげ続けてきたけどチャレンジすらさせてもらえなかった。」とかなんとか言って他所に移って行った。研修に行けばいつ辞めようかあいつはもう辞めたと言った話ばかり。
とは言え楽しそうに仕事している人がいるのも事実。10年目ともなると担当先も案件のある先が増え、仕事もある程度自分で回せるようになり、それなりのやりがいを覚えるようだ。若手で楽しそうに仕事している人は稀だろう。大概は支店の、誰も持ちたがらないような先を持たされて疲弊している。若手で楽しそうに仕事している人間は、本当に案件と同僚に恵まれたか、よほどの営業の才能があるか、あるいはただの馬鹿だ。「これまで誰も掘れなかった先を持ってるんだぞ。やりがいしかないだろう。」本気でこう言ってきているのなら余程の呑気であるし、闘魂注入のためであればこれも余程の呑気だろう。
外回りしろ、じゃないんだ。準備してから訪問しろ、じゃないんだ。どこに何が書いてあるのかわからないような手続き書と睨めっこしながら通常の事務をまわしつつ、好き勝手頼まれる雑用をこなしつつ、誰もやりたがらない支店のお荷物先の対応をしてるんだ。いつ潰れるかもわからない会社でご奉公なんて時代じゃ今はもうないんだ。
銀行の採用は実に卑怯である。上の人間が仕事に集中できるように若者を使い捨てている。雑用を、前の世代の尻拭いを、無駄に抱え込んだ不採算先を全て若手に押し付けるために、キラキラした「バンカー」を喧伝し、これまで大量採用を続けてきたに違いない。徐々に減ってきているとはいえ今もそうだ。離職率を見ればわかる。そして生き残った人々が自覚か無自覚か知らないが同じことを続けていくのだ。僕は事務屋さんではない。20代をこんななんのスキルも身につかないような場所で終えたくない。3年で身についたのは「おっしゃる通りです。」「申し訳ございません。」のスピードだけだ。財務もエクセルも英語も、何もわからないまま。仕事は書類を擦り出して一枚一枚丁寧に付箋を貼って、上司の印鑑をもらうだけ。親が泣いているぞ。
給料。世間的に見れば〜という話もあるだろうが、自分の周りを見れば圧倒的に低いと言えるだろう。聞いた話では若手の給料は庶務さんと同じ程度だそうだ。ことによれば事務のお姉さまよりも断然低い。「私たちには責任は取れないので、そちらで判断してから持ってきてください。」だったら判断の分だけでも俺の給料を上げてくれ。もちろん堅確な事務は車の両輪の如く大切であるのは間違いない。ただ、どこまで行っても若手は事務処理要員の一つとしか見做されないのだなあと思うとやりきれない。
銀行は業界も内部の人間ももうめちゃくちゃだ。銀行に限った話じゃないのだろうけれど。
業界はお互いにお互いの首を真綿で締めあっていると言える。採算度外視の金利競争。地方は地方でズブズブの企業・人間関係。じゃあ今度は金利じゃ儲からないから手数料だ。収益を上げろ。そうして投信を売る。かつてはゴルフ会員権を売った銀行もあったそうだ。流動性が桁違いなので全く同じとは言わないが、似たものを感じる。顧客第一主義とは何か。本部から還元される資料には必ず「切り返し話法」が載っている。洗脳と変わらないじゃないか。
内部も内部だ。本部の言うことは一貫していないし、表彰のルールだってややこしい。あれしてこれしてこうして下さい、分厚いルールブックを配られて、それでもよくわからないことだらけ。皆が上席に忖度して媚び諂っている。風通しが良いふうを装っているあるいは本気で信じている上席はいるが、結局のところは自分の意見が正しいのだ。誰も自分の意見は言わず、本人のいないところで愚痴を言うだけ。
「やめられない」のは一番悪いところかもしれない。今やどこの支店もセコムやらアルソックやらを導入しているのに、いまだに金庫内のキャビネットの鍵すら丁寧に施錠している。セコムが破られて、分厚い金庫まで破る相手にキャビネットの鍵がなんだと言うのだ。そう言う決まりだから。これで終わりなのだ。鍵の開け閉めに一日30分はかかっているのに。朝礼も無限に長くなっていく。と言うかそもそも毎日朝礼する必要があるのか?あれもこれもとコンテンツを追加していって、結局始業の時間ギリギリになっている。知っていると思うんだけど、時間は有限だぞ。
仕事の仕組みも散々だ。手続き書に全てが書いてあるはずの銀行業務は、確かに全て書いてあるのだが、各所に分散していて、そこを参照すればいいのかは経験に強く依存している。ある業務を行うにはこの手続き書と、別の手続き書と、あの通達と、どこにも書いていないあの様式の書類を添付する必要がある、なんてのはザラだ。掲示板もいくつもいくつもいくつもあってまるでキメラのようだ。
この原因はおそらくデジタル化の勘違いからきていると僕は考えている。要はかつて銀行業務にパソコンを導入した人たちは「紙でやる業務にワープロを導入した」世代で、上にならえの我が業界人たちは長いことこれを踏襲してきているから不便なのだ。
定型的な業務であれば全て一つのシステムで、一気通貫に、指示通りの動作を行っていけば約定・実行まで終わるようにできて然るべきだろう。いくつもいくつもシステムがあって、それに対応するようにいくつもいくつもパスワードがあって、結局皆覚えきれずに手帳なりノートなりに一覧を作って管理している。何もかも無駄である。銀行にはこれを改革することはできない。お客さんには新しいシステム!を案内しておきながら内部でやる事務はなんら変わっていないどころか手間が増えていたりする。これじゃできの悪いハリボテである。採用もそうだが外面だけ立派で中は人を消耗するボロボロのシステムが銀行である。偉い人々はもう使うことがないから忘れているのだろうが、次世代金融どころの話ではない。そういった妄言はまず中身を整えてから、せめてそういった姿勢を見せてからだろう。若手はもう限界だ。文句を言うくらいなら手続きを覚えろと言うのは全くその通りであるが、人材の流動性が高まろうといった現在、手続きと言うある意味本質的でないところで時間を取らせる現在のシステムのままでは人材の受入はできないだろう。
銀行人材を斡旋すると言うニュースがある。世間がどの程度銀行人材を誤解しているのか知らないが、その太宗は大したスキルのないおじさんたちである。排出は考えるが受入は考えない、いつまで殿様のつもりなのだろう。銀行は働き方改革などと言う訳のわからない施策を講じる前に仕事の仕組みを改めて整えるべきだろう。
サービスが大事だと偉い人は言う。寄り添った提案が大事だと。僕はそうは思わない。これは特にリテール分野の話ではあるが、真に投信等に関心があれば手前でやるのだ。それも手数料の安いネット銀行で。ソニー銀行は口座開設から何から便利だし、楽天銀行はUIは流石楽天あまり良くないが結局便利だ。僕自身のメインバンクもネット銀行だ。寄り添った提案なぞ今働く世代にはできっこない。どうせ同じ時間帯で働いているのだ。寄り添った提案、結局のところ金持ちや年寄りに媚びて情に絆すだけのサービスに過ぎない。フローチャートを細かくすればそれこそネットで出来ることだ。
日本は多くの人が銀行口座を持つ珍しい国だと聞く。この傾向は続くだろうがそれはネット銀行に偏るだろう。店舗型の銀行は今のままでは本当にただコストだけ抱える過去の遺物に成り下がるだろう。いっそ法人と個人を全く別の銀行にしてしまえとさえ思う。そっちの方が余程効率がいいだろう。
偉い人曰くサービスが大事なのは銀行が同じような商品を取り扱っているからだと言う。確かにそうだ。特に法人分野はその傾向が強い。担当者の能力に依るものは大きい。一方で個人分野では少し違うんじゃないか、見落としがあるんじゃないかと思う。
我々商業銀行は商業銀行であるが故に、もっとブランドを意識するべきだろう。それは金持ちや年寄りに対する温い媚びのサービスであってはならず、どちらかと言うとアップルカードに連想されるような、スマートな商品開発だ。キャッシュカードやらスマホアプリやら、実は銀行には他行差別化の図れる商品がいくつかある。保有して人に自慢したくなるような商品の開発こそ、何も捨てられない銀行がいつまでも大衆の銀行であるために必要なことだろう。
なんだってやるべきだ。いつまでもジャケットを着てるのではなく、ポロシャツを着て街に出るべきだ。銀行がタイアップしたカフェやらコーワーキングスペースやらをもっと作るべきだ。せっかく無駄な資産をたくさん持っているのだから。無形の価値を、ブランドを、高めて向こうからやってきてくれる銀行になるべきだ。〇〇BANKがお洒落でスマートの代名詞になる日がくればいい。BANKの語源の確かなところは知らないが、いずれにせよ皆が腰掛けることのできる公器たるべきだ。因みにポロシャツはエスカレーションラダーを増やすといった意味でも是非とも推進するべきだ。普段がカジュアルであるからこそスーツがより際立つのだ。振り切りが大事だ。年寄りと金持ちには徹底的に媚びよう。大理石造りの基幹店を作ってもいい。マホガニーかなにか高級な素材を使った店内で、徹底的に厚遇すれば良い。そしてブランドで大衆を惹きつけよう。認知なくしては居ないものと同じなのだ。
思うがままに書き連ねて、推敲すらできていないが、日々感じるストレスの中、間も無く来るであろう異動を思い、こんなことを書いてしまった。
普段の業務ではこんなことできない。つまらないオトナ達が上の顔を見ながらクソみたいな施策を出してくるのを見守るだけだ。
仮にこう言う仕事ができるような年次になった時、おそらく僕もそういったクソみたいな大人になっていることだろう。
人事へ。探さないでください。なんだかんだ言って僕はまだクビにはなりたくありませんので。辞めるまで待ってくれよな。
何もできない若手の、根拠もない取り止めのない妄想である。これを根性のない若手と切り捨てるのは容易だ。僕でもそうする。ただ、そうして肥大してきた結果が「必要とされない銀行」であると言うことは偉い人は強く認識するべきだろう。だから、少しでもいいから真の改革の姿勢を、我々が充実して働けるような未来を見せて欲しい。何を言ってるのか自分でもわからなくなってきたな。いつかもっとまとめて書くこととする。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.jiji.com/jc/article?k=2020070600343
中の情報が手に入るので、少し補足しておく。
一部の人間はうまくやって儲けてるかもしれないが、実費精算と変わらん。
月に数百円だが通勤費として取られてる。というのが今まで。
緊急事態宣言が出るちょっと前からテレワーク主体にはなっていた。
でも定期代の支給は変わらず。
速攻で定期を解約したやつは、それなりに居たはずだ(多少だが、儲かる)。
定期代の支給に手を付け始めたのが5月の末だったか、6月の頭だったか。
つまり遠隔地に居住して居てのリモート勤務も対応するつもりらしい。
独り暮らしで家に光回線なんか引いてねーよ、みたいなのもこの騒動前から対応されてる。
あと会社の補助というのとはちょっと違うのだけれど、年に2万までは補填してもらえる制度がある。
今年は範囲が拡大されて、マスクや消毒用のアルコールも対象になってる。
その通り。というか、それがあるからこそ動いたんだろうとは思う。
というか、リモートワーク中心にならざるを得なくなって四半期の間、定期代を支給し続けていたわけだから、やっと動いたかという感じ。
通勤費を事後清算にするか定期代の支給にするかは一応選択できるようになってる。
独り暮らしだと自宅より事務所の方が集中できるという人は一定数いるし、他の意見についてはお察しな感じで、新型コロナに関係なく。
とりあえず、こんな感じ。
同人誌、中でも「評論」と呼ばれるジャンルが好きで(二次創作や肌色系も大好きですが!)、ネットや即売会で目についた本はとりあえず買っている。
その時に買わないと二度と手に入らない(場合が多い)のが同人誌だ。
昨年の夏コミで手にした数冊の中に、ちょっと変わった本があった。
いや評論系の同人誌は基本的に全部変わっている本なんだけど、その中でも特殊な輝きを放っていたのだ。
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い か
生 活
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と、書かれているのみ。
そして売り子は若い女性の二人組だ。
ちょっとキョドりつつ見本誌を手に取ってペラペラをめくってみると、とにかく「いかの同人誌」らしいことがわかった。
イルカなら、あるいはタコならまだわかるけれど、なぜイカにした。
久しぶりに私にとってのヒット作かもとニヤニヤしながら購入。
リュック一杯の戦利品を背負って聖地から家の近くにあるサイゼリアへと移動し、この場で読んでも通報されないであろう本を数冊出す。
即売会から直行したファミレスでの読書は、私にとっての憩いの時間である。
最初に読んだのは、「いか生活」だった。なのでイカ料理を注文。
発行は日本いか連合、編集長は佐野まいけるさんという方で、どうやらイカの専門家ではなく、アマチュアのイカマニアらしい。あの売り子さんのどちらかなのだろうか。
同人誌の内容は、10人くらいのイカ好きが、それぞれの立場からイカの魅力だったり、イカとの思い出だったり、イカへの想いだったりを綴った合同誌だった。
イカの本というよりは、イカ好きの本という感じだろうか。イカと共に生きる人の紹介だから「いか生活」なのかな。
この本のおかしいところは、同人誌をこれまでに何冊か作った上でイカの本も作ったのではなく、イカが好きすぎて初めて同人誌を作ったっぽいところだ。別にそうだとは書かれていないけど、これまでたくさん同人誌を読んでいるので、肌感覚としてなんとなくわかるのだ。それにしては完成度がやたらと高いけど。
「頭足類」という言葉を覚え、世の中にはこんなに多種多様なイカ好きがいるんだねと満足して本を閉じた。
そしてつい先日、「いか生活」の続編であるvol.2が発売されることを知った。
え、vol.2って。そういえば前回の本にvol.1って小さく書いてあってけど!
おもしろいテーマであれば、多少内容が雑でも売れることがある。だが逆にどんなに内容が充実していても、人を引き付けるテーマでなければ売れない世界。
イカがマイナーかどうかは微妙なところだが、同人誌のテーマとしてはマニアックだろう。
これが「ねこ生活」とか「ことり生活」といったキャッチーな別テーマの横展開だったら、たぶん10倍売れるはず。ファン数の分母が違うのだ。
そして一番売れないのが、マイナーなテーマの続編である。絶対やっちゃダメ。そもそも続編を買うのは、ただでさえ少ない一号を買った人の中の、その一部の人だけなのだ。
おそらくそんなことは分かった上で(そしてたくさんの人から同じことを言われた上で)、あえてイカで続編を出したのだろうという心意気に胸を打たれ、発売日に購入させていただいた。
もしかしたら前号で全力を出し切ってパワーダウンしているかもと思ったが、これが明らかにvol.1よりも面白くて驚いた。
前回のテーマが「イカを愛する人」だったのに対して、今回は「解剖」である。イカそのものに対して、マニアックに鋭く切り込んでいる。
そしてその執筆は半分以上、いや8割くらいが編集長の佐野まいけるさんによるもの。おそらく前回たくさん参加者がいるために押さえていた部分を余すことなく吐き出したのだろう。
最初の記事はスルメイカの解剖マニュアルなのだが、なんと6ページにわたってみっちりだ。
そんなにイカが好きなのかと驚くと同時に、こちらがイカを知ることでさらなる疑問が湧き、なんならもっと詳しく!ここどうなっているの!もっと教えて!って問い詰めたくなる自分に驚いた。たぶん近日中に新鮮なイカを買ってきて、この記事を読みながら解剖する気がする。
まさかイカを「料理しよう」ではなくて、「解剖しよう」と思う日がくるなんて。
そして解剖をたっぷり堪能した後に来るのがイカ料理のおいしそうなレシピ集。そうきたか!
ここまででもうこの本を買った代金分を楽しんだ気もするが、次もすごかった。なんと島根県の水族館?でおこなわれた、ダイオウイカの解剖というイベントレポートだ。
専門家による公開解剖を、イカマニアがレポートすることで、イカの知識が人並み程度の私でも、その希少性と臨場感が伝わってくる。
いや、一番伝わってくるのは佐野まいけるさんの興奮か。その道のプロ(憧れの存在らしい)から学ぶ喜び、楽しさが詰まった解説は、イカヲタらしく専門用語(読み方すらわからない漢字多数)をバンバンと早口の文字で詰め込んでくるハイテンションモード。そうだ、私が同人誌という媒体で読みたかったのは、この圧倒的な熱量なのだ。
そして次のページは、まさかのダイオウイカの試食である。どうやらこのイカ好きにとって、解剖と試食はセットらしい。
食べた部位は漏斗牽引筋(どこだよ)で、その味は「不味さの永久機関」だとか。
とにかくまずいらしく、でも貴重な体験だから記録として残したいし、どうにかして肯定的な評価をしたいという願望から、すごい情報量でまずさを嬉しそうに熱く伝えてくる謎の食レポとなっている。
ようやく食べられるように加工した結果に対する「ぼったくり居酒屋の生ハム」というコメントが最高だ。
「或る解剖者の手記」という作品では、官能小説(それもかなりの上級者向け)ではと勘違いするような赤裸々な感情を綴った解剖の日記を書き、次のページではサンシャイン水族館の方への真面目かつ楽しげなインタビューで、ここでしか読めない話を一般人でも「へー!」と楽しめるレベルでうまく引き出している。一冊の同人誌の中で、文章の種類をテーマごとに書き分けているのが何気にすごい。
そんなこってりとしたイカ情報の合間には緩急をつけるかのように挿入されているのが、vol.1から続く、イカ好きの多様性の紹介である。
カミナリイカをテーマにしたカクテル、イカのオリジナルソングの解説、イカ好きあるある、イカの墨や甲を使ってイカを描く作家さんの取り組み、イカのアート作品など、濃厚な文章で酸欠になりそうになったところで、ようやくこれらが息継ぎをさせてくれる。
久しぶりにすごい同人誌を読んだ。
まー、イカの本なので、こういうのは、好みは分かれると思います、きっと。
第一にオタクコンテンツはもともと大量消費を狙って作られていたわけではないということ。
マニアックで一部の人間の欲求で先鋭化してゆくメディアだった。
つまりオタク産業とは一種のインディーズムービー的な消費傾向を持っていたと言える。
これは泣きゲーのエロゲなんかもそうで、オタクコンテンツ全体は分断されているからこそ特異性を発揮していった。
そして元増田の言うように『攻殻機動隊』『AKIRA』『エヴァンゲリオン』『カウボーイビバップ(も有名だがそこまでエポックメイキングではなかったような)』などの登場によってスターダムな地位を獲得したかのように見えた。
ところがこれは業界を萎縮させるものだったと思う(登場したことが悪いとはいってない)。
業界はオタク受けよりも世界や一般層を意識するようになってしまったし、現場がどう思おうが出資側は視聴者層の拡充を求める。ずいぶん世代が飛ぶけどそこからネトフリやらAmazonやらがアニメに乗り気になって今の現状がある。
今となれば北米市場とアジア圏のオタク需要を狙う産業になってしまい、皮肉にもライトオタク化した「一般的オタク層」という微妙なライン層がTwitterで消費して流すだけのものになってしまった。
つまり尖った作品が出しづらくなった割に、土壌としては邦ドラを見るような層を取り込めなかった。
このどっちつかずの状態でご新規を獲得しようとしても伸びるはずもない。むしろすり減ってゆく。
すり減りの原因はパチ屋の高齢化や他の経済的な要因も大きいが、コンテンツ自体の目線からするとこういう流れがあるんじゃないかと。
もちろん最初から一般受けなんて狙わない監督もいるけど、こういう人たちは同じようにハリウッドにもいるので。
『死刑は「死刑に値する犯罪を犯したと裁判で確定した」人に対して執行されるもので、戦争は武器をとって向かってくる相手を殺すもの。』
だから許されるんだよね。
「死刑囚や兵士は人間じゃないから許される」ではなくて、「死刑囚や兵士も人間だけど根拠があれば許される」ということでしょ。
それならば、「胎児も人間だけど根拠があれば許される」という主張も成立しうるじゃん。
なんで 『中絶が許されるって思ってるなら「胎児は人間じゃない」って思ってるってことだよね?』 ってなるの。
あと、『胎児は犯罪者でもなければ武器を持っているわけでもないんだから、死刑や戦争と同列に正当化できるとは思えない。』 とかも恣意的すぎるよね。
国や地域によっては積極的安楽死が合法なところもあるんだけど、積極的安楽死で"殺される"人は犯罪者か武器を持っている人なの?それとも人間じゃないの?
積極的安楽死が殺人の例外として許される根拠が死刑や戦争のそれとは別にあるように、中絶も殺人だけど特有の根拠によって許されると一部の人間が主張しても(その内容の是非は別にして)おかしくないじゃん。
医療デバイス向けとか医療デバイスのプログラム需要ってのは ある程度は増えるだろうな
いままで、一部の人間がやっていましたが
まぁ ドリンク剤がコンビニで買える程度のものは 一般開放したほうが 結果論としていいから
いちぶ医療用デバイスが 民間に降りてきたときに 薬剤師のようなプログラマーが民間に必要というのは
そのとおりだろう
医療デバイスのプログラムがバグばっかとか、一般レベルにたまにおちるとかはないだろうからな。
あってちょっとしたカスタマイズを薬剤師といっしょに調剤薬局でぐらいだろう。
逆にパソコンを体に合わせる作業を 調剤薬局にお願いする必要性というのは なくはない。
そのあとはまぁ パソコン屋とはなるが 調剤薬局が対応してくれるなら そっちのほうがいい。
キーボードが病気の原因で 1日8時間 ほぼ毎日 1年タイプしているは そりゃ医者の調整したキーボード 普段は 薬局 というのは そりゃそうだろう
だが、その程度 ちょっとしたお小遣いにはなっても 新型のIntelが売れるほどではない。従来の技術のほうがノウハウも蓄積されているし 安定している
巷では人格否定にあたり、建設的ではない等の理由で批判の対象になっているが、個人的な感覚ではギリギリセーフに感じる。
というのも、
表現として100点ではないが -100点というわけでもなく、アウトギリギリの 30 点のような感じ。
もちろんこの基準は人それぞれなので、アウトに思う人がいるのは理解できるが。
古には、荒らしに反応する人も荒らしという半ば暗黙的なルールがあったように思うが、
見え透いた炎上芸に過度に反応してしまう側、加えて現状の SNS の構造にも大分問題があるような気がしてならない。
基本的にやめるべき、というのは同意するものだが、今回のプロジェクトに関して言えばそこは議論にあげるべきではない気がする。
SNS 等全体の仕組みとしての改善が必要であって、思想の啓蒙などしても、攻撃する人は攻撃するものなので。
(それこそ前頭葉に障害を負った人が他人の人格を否定するような発言をしていた場合はどうするのか?
自分が発端のツイートを受け取ったとして、バグが有るのは事実であるし、その人の視点でド素人な質の実装であったと単に受け止めるのだが、
そうではなく受け取ってしまう人は、何かを作って公開することへの適性は低いのではないかと思う。
HRT のような思想はどんな状況でも適用すべき普遍的なものではないと思っていて、
ある一般企業のプロジェクトに集まったいわゆる普通の人同士での生産性を高くする効果がある、
というようなことは確かに同意できるが、一国、一億人の生死が左右されるようなプロジェクトではそんなことよりも優先すべき事項が多々あるはずだと思う。
このプロジェクトに関しても、仮に、批判への耐性が高いような一部の人が実行していく、でよいはず。
それだと誰もやらなくなる、という論に対しては、相応に報酬等があがる (はず) のでトレードオフは満たされる気がしている。
開発者をリスペクト/擁護するような意見が多いが、ここにはとても違和感があった。
日本国民数千万人に利用してもらう / 普及させることが目的となる中で、極めて稚拙なプロジェクト進行だと大いに批判されて然るべきだと思う。
ソフトウェア開発者としての正直な感想としては Xamarin を選ぶことは大いに疑問で、
Apple / Google のフレームワークは仕方ないとしても、それ以上に Microsoft に不必要にロックインされることはするべきではないと感じる。
また、 OSS として公開するのであればなおさら、普及率の高い技術や開発方法を選択するべき。
(現に、貢献への障壁になっているという意見が様々あるように見える
今回の場合は素の iOS / Android フレームワークのみを利用するのが、客観的に最適だと多くの開発者は思うはず。
国からの依頼以前から作られていたとはいえ、依頼があった時点での変更や辞退をするべきで、開発者ツイートではボランティアであることを強調されていたが、
実際には、プロジェクトの目的を度外視した、個人的な社内外の立場向上、または Microsoft 社の便益を目的とした技術選定と言わざるを得ない。
開発者ツイートでは、個人かつ厳しいスケジュールを言い訳にしていたが、リリースの質を落とす言い訳にはならないように思う。
特に目的が目的なので、正気の開発者であれば、そのように見通しもなくすすめるようなことはしないように思う。
(もちろんそれでも火中の栗を拾っていく行動/勇気は評価されるべきではあるが
等に関して開発者も積極的に意見/調整をすべきで、これを国や事業会社の責任と単にしてしまうと、
結局現場猫たちによるザルチェックを通した質の低いアプリケーションが生まれることになり、事実そうなっているのが現状だと思う。
個人的な業務経験からは、関係者は等しく責任を負うモデルのほうがしっくりきている。
その点で、個人での開発は最も悪手で、先に責任分散や ( SPOF の解消にもつながる ) ダブルチェックの仕組みを作るべき。
以上の意味で開発者側の対応に関しても足りない部分が多々あり、その点はきちんと改善がなされるべきなのだと思う。
正直に低いと感じる。
Xamarin によりクロスプラットフォームでの実装を原因とする、プラットフォーム依存の問題に対処できていないそもそもの問題がありつつ、
自分の感覚的には、普通のモバイルアプリケーション開発のレベルには達していないように見える。
また、 UI / UX 周りのデザインに関しても単に稚拙と言える部分が多く、その道の人々からの批判/改善案がもっとあって良いと思う。
トランス女性に対する理解がまずありません。トランス男性やその他のLGTBQ+などについてもそうですがそれらはあまり語りません。
古くは単に「オカマ」だったのだと思います。女になりたい男だとか、そんな風に思われていたのでしょう。
だから、言葉がオネェ言葉だったり、女装している人だったり、あるいはニューハーフだったりするような人達と一括で「オカマ」にカテゴライズされていたのだと思います。
が、実はそうではなかったわけです。それらは全部種類が違う。種類というか全く別な存在だったわけです。
このことは、既に二十世紀中盤あたりで既に分かりつつありました。
ガチで、生物学的には男性だけど、その本人自身はどーーーーーーーーーしても自分自身を自分自身で「私は女性である」としか思えない人がいるとわかってきたのです。
最初は精神的病気だと言われていましたが、治せないことは分かっていました。
ですから治療は主に、ホルモン療法であるとか、性転換手術であるとか、その心・思いの方へ一致させる方向で行われました。
原因もさっぱりわかりません。それで病気なのではなく心と体の性別が一致しない障害なんだと、次に言われるようになりました。
それが性同一性障害です。
病気であると言われていた時代との違いは、「女になりたがるという病気」なのではなくて「自身を女だと誤解する障害」だと認識が変わったということ意味します。
この時点ではまだ、この人は「ほんとは男の人」だという認識は変わっていません。
性同一性障害|病名から知る|こころの病気を知る|メンタルヘルス|厚生労働省
ところが、1990年代くらいから、海外では自発的に、治らないんだったら治らないそのままでいいじゃないか、という動きが出てきます。
新しい性別という意味ではなく、性別を越境する人間なんだと認識しよう、というちょっと意味のつかみにくい用語です。
要は、もうありのままの自分として、マジョリティな性別・性志向な人達と同じように、自由に自分が思う通りに生きようじゃないか、という考え方です。
何故そんな事を言い始めたかと言うと、マイノリティとして苦しんできたからです。
保毛尾田保毛男事件を記憶している人は多いと思いますが、あれがなんであんなに批判されたのか、きちんと理解している人は意外に少ない印象です。
私自身は状況を知っていたので、正直絶句しました。もうそんな時代ではないのに・・・と。
「オカマ」と呼ばれていた時代、その存在自体が奇異に見られていたのです。
その時代、その「オカマ」の周りの人は、本人自身が苦しんでるだなんて全く知らなかったのです。
本人自身だって、世間がそう見るのだから、本人も自信をそんな存在なんだ、私は奇異に見られる存在なのだと、思い込まされていたのです。
ならばと、その特徴を生かしてテレビに出たり、オカマバーで働いたりしていたわけです。
自身の特徴を活かせば生きていける、と。
これってね、「差別」なんですよ。
だって、多くのマイノリティな人達はマジョリティと同じようには働けないんです。特徴を活かせた人なんて一部の人だけです。
普通の会社で普通に働くなんて、とてもじゃないけど、奇異に見られてばっかりで出来るわけありません。
出来たとしても、トランス女性ならば自分をとにかく女性に見られないよう男として無理やり振る舞って気づかれないよう苦しんで仕事していかなきゃ出来ないわけです。
そこまで考えた人は果たしてどれくらいいるでしょうか?
だからね、差別するななんて言っても、差別してることに自覚的な人なんて実はあんまりいないんですよ。
たかだか、差別的なことを言わない、しない、くらいにしか分かってないんですよ。
要は、ずっと性的マイノリティな人は「差別」されてきたんです。
今でも例えば、カミングアウトなんて言ったりして、マイノリティな人が自分の性指向や自認を明かすのは勇気がいる時代が続いているのです。
しかもカミングアウトに失敗して自殺までする人だっているんです。
何故はまちゃんが黒人のように肌を黒く塗ったら批判されたのか。
それはそうやって「笑い」にするからです。黒人にしてみれば自分たちは笑われる存在なのかと、そりゃ怒るに決まってます。
話を戻します。
トランスの人達は今では「自認」とか言ったりしますけど、自認こそが性別であると認識が変わっています。
ところが、時代についていけない人達がまだまだたくさんいます。
「お前らほんとは男だろ? 何故こっちに入ってくるんだ? あっちへ行け」と。
これを支持する人達の中心はいわゆるフェミニストの一部なんですけど、トランスを差別するフェミニストという意味で「ターフ」と言います。
このターフがあまりに酷い。
加害など加えるつもりもない人が、怖がられるんです。ウィルス持ってるのと同じに見られるんですよ? ペニスが付いているというたったそれだけの理由で。
酷い場合には、性別適合手術を受けた男性ですらも忌避されるのです。
こうした状況ですから、当然トランス女性側も黙ってはいません。というより多くのトランス女性はターフに怒っているわけです。
怖がってるのは知ってるから、別に、日本ならば銭湯には入らないし、他の場所でも着替えだって時間を変えたり、こっそりやりますから、つってんのに、恐いと言って聞く耳持たないもんだから、とうとう怒って「だったら、ペニスを堂々と見せびらかして銭湯入ったろか! 何なら勃起までさせてやんぞ!」と反撃に転ずるわけです。
「何度言えば分かるんだ! トランス女性は女性だっつってんだろ!」と。
「あなた達とは違う。私達は子供を埋めるんだから。せめて性転換手術をしてよ」と。
「だったらお前らが私達と同じになれ! いくら掛かると思ってんだ! リスクを知らないのか! お前らの子宮を引きずり出して子供を産めない体になれ!」と。
こうした対立の原因を作っている一つの大きな理由は時代の流れなんですけど、ターフとトランス女性どちらが悪いと思いますか?
トランス女性はもうそのままで女性だとみんなが認識しなきゃならない時代です。
でも現実にはまだ追いついていません。
ターフだけではなく、まだまだ他の心ない男性などからも嘲笑蔑視の対象になっていますし、社会的理解がまだまだ未成熟なままです。
制度的にも戸籍変更要件が厳しすぎるとか、男性と見られるためのパス度という尺度を測られてしまうとか、性別「違和」なんて言われてしまうとか、日本社会全体の意識が低く、杉田水脈のような馬鹿なことを言う人までまだまだいっぱいいる世の中であり、進んでる海外だってまだ差別やってる人もいます。
でもほんとによく考えて欲しい。
マジョリティの人と同様に、トランスの人達も性別を自ら選んだわけではないのです。
おんなじ人間なんですよ。
なのに、特にトランス女性は同じ女性であるはずのフェミニストの一部から蔑視されるのです。
それらの一部のフェミニストが常に言ってる、トランス女性だって全く同じ性的被害暴行の被害対象者なのに。
もう一度言いますけど、
明らかすぎると思うんですけど。