「アナロジー」を含む日記 RSS

はてなキーワード: アナロジーとは

2018-02-09

anond:20180209111754

横だけど「共同業務パートナー」っていうアナロジーはこの文脈ではまったくおかしくない。というか、増田がそういう方向性記事を書いている。

ピントのずれた変にウエット感情論精神論を持ち込むと議論が混乱するのであんたは口を挟まないほうがいいよ。

2018-02-02

anond:20180202025209

一般アナロジーってのは部分的にでも似ている・通ずるところがあれば成立するもので、増田が言うほど隅々まで一致している必要はない。

というか特徴的なポイント一点に注目させるのがアナロジー目的とも言えるし、それどころか、「なんとなくそんなムードがある」ってだけでもアナロジーにはなる。

アニメ教」ってのが何のことか俺は何も知らないままトラバしてるけど、部分的宗教的な特長を持つだけで「~~教」という言い方をするのは一般的用法じゃないかな。宗教じみている、とか、◯◯信者、なんて言い方も普通だし、ちょっとカリスマ性があるだけで「教祖」なんて言ったりするし。

たとえば「社畜」って言葉があるけど、これは〔会社従業員〕の関係を〔畜産農家家畜〕になぞらえたものだ。共通点がどこかは文脈にもよるが、ともかくアナロジーとして注目している特長はほんの一部分に過ぎないことがわかるだろう?

2017-12-30

「波長が合う」っていう言い方は何かおかしい。「位相が合う」のほうが良い。

速度一定として、波長が合っていても逆位相なら波は打ち消し合う。

波長が合う人のイメージとしては、初対面の印象が良ければずっと良いまま、悪ければずっと悪いままとかそんな感じ。

[追記]

送信と受信のアナロジーだったんですね。

納得しました。ありがとうございますm(_ _)m

2017-12-29

anond:20171229155704

お前、通りすがりの人の小耳に挟んだ会話にいきなり絡んで謝罪求めてる状況なの理解してる?

そこら辺からキモオタニートっていう印象になったんだよ?

神と人間アナロジーとしては、

人間シムシティは適切だろう。

俺はシムシティ住民には感情移入しないから、感情移入する人の話を聞いて驚いた。

これに、何か意見あるならどうぞ。

anond:20171229142459

創作物への感情移入自由だと思うけどね、

君の指摘にはちょっと飛躍があるよ?

俺は神と人間関係アナロジーとして

シムシティの住人の気持ち考えるのか?」

と聞いたわけね

そこで「考える」と返されたわけだ。

君にとっては常識じゃないかもしれないが、

俺は「現実ではないゲーム住民感情移入すんのか?」とそこで驚いたわけ、

(※これはどう思おうが勝手でしょ)

で、そこで横から君に

創作物への感情移入否定すんのか?」

と問われているわけだけど、

それは個人自由と思うよ。

2017-12-11

アナロジー

猿の世界には、ボス猿という概念存在しないらしい。

そのため、野生の猿の群れにはボスはいない。

では、ボス猿はどうやって誕生するのかというと、

人間による餌付けが影響しているとのことである

固定された場所自然界よりも豊富な餌が無条件に与えられる環境

これが猿の個体間に格差を生み出し、

餌を容易に享受できる強い個体と、

餌にありつけない弱い個体の溝を開いていく...

人間狩猟採集から農耕社会への変化にそっくりですね🐒

2017-11-30

https://anond.hatelabo.jp/20171130173758

1つは、完全に止まった時計です。

もう1つは、現在の時刻からしっかり5分遅れている時計です。

どちらがより正確な時計でしょう?

これを仕事とかのアナロジーとして使う人が居るけど

大抵のものは待ってても元の場所に戻ってこないから。

2017-09-22

日本学術会議声明新潟県への宣戦布告である

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1153261

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20170921/ddm/016/070/003000c

あとシノドスフリーライターレポートもあったが、どれも「医術と呪術混同する両論併記をやめよ」という趣旨確認できる。

林智裕についてもそうだが、「これ以上福島県の健康被害について口をはさんではならない。それは差別だ」という論旨であり、

林氏は心無い中傷県民が傷ついているという批判の中で「呪い」という言葉を使っていた。

本来は全文を読むべきだろうがまず書いておく。

壊滅的な被災のなか、復興への向けて頑張っている人が悲観的な話を聴くのがつらく、実際に精神を病むこともあるだろう。

そうした福島県民を始めとする東日本大震災被災者の皆様の気持ち自然であることは認める。

しかし、隣県の新潟県では原発事故についての検証委員会始動しだしたところである

本職が医師である米山隆一牽制する文章と言ってよい。

私自身、なぜ「子供たちの未来」云々が危険視しようが安全視しようが登場してきており、政治的支配欲が出ているようで非常に不快だし、

泥流による放射線健康被害から本来定住すべきではない場所だと言われてむっとしたこともあるが、

新潟県知事選当時、県内在住の反原発から「お前は本当に福島県民か?」というような差別発言は聞かれなかった。

インターネット上で選挙運動訴訟活動を行っていることを明記した人物限定した話ではある)

現在在日コリアン念頭外国ルーツある人物へのヘイトスピーチ違法化された。

この前例に則り、学術会議への異論福島県へのヘイトスピーチとして違法化され、

最終的には検証委員が全員逮捕されることになるだろう。

事実在日朝鮮人沖縄人への民族差別アナロジーとして、福島県民への差別説明するレトリック存在している。

このような議論被差別民族への想像力の欠如と思われるかも知れないが、対策法で最も懸念されていた問題点である

いじめ偏見等の被災者への差別は続くだろう。

しかポストコロニアル当事者性を強調することで国や東電構造責任が看過されてしまうことはないのか。

実際に被災した地域を二度と同じことを繰り返さないよう防災観点から引用検討することすら差別呪術であり、

野蛮な攻撃とすることは学問権威化であり、自由を害することである

こうした声明が突き付けられた以上、このような論理は粗雑過ぎると一県民として明白に考えざるを得ない。

過激発言を繰り返したとされる泉田裕彦知事も、

2007年中越沖地震での放射能漏れ原体験として上げられている。岩手県震災瓦礫の件はここを改めて意識してほしい。

チェルノブイリ福島第一よりも安全という発言海外への県の農産物輸出戦略の一環である

国際的観点から見て廃炉出来ていない原発チェルノブイリに比して安全だと言えるのか。

ショッキング発言だったかとは思うが、公人として県政運営のなかで必要見解だったのであり、

過激さをもって差別発言と断じることは不公平であり、思いとどまってほしかった。

(不幸にも彼は権力基盤上、排外主義扇動している自民党からしか国政候補立候補できなかった。これは彼を被災者レイシストと断ずる根拠になりうる)

私の知る限り、泉田知事被爆が疑われる人物意識的差別的な県政を行ったという情報はない。

四期目を断念した後自ら原発屋根を作った云々という恩着せがましい発言をしているが、

撤退理由であるフェリー問題は船を売りつけた韓国企業東京電力からの度重なる広告出稿を受けた新潟日報と結託しており、

県は二度と船が取引できないと脅迫していた点もある。

そのような形で追い込まれ撤退した人物が、悪いことばかりしたわけではないという弁明はある程度必要なはずだ。

このような極めて強引なかたちで引きずり降ろされた人物に、撤退後まで完全に無難言動を求めるのは酷すぎる。

県民代表が、極めて不自然に引きずり降ろされたなか、このような声明を出すこと意味想像していただきたい。

民主政治自由言論に対する脅迫であり、圧力のものである

学会権威を持って検証委は怖気づいてはならない。

6年間の学術会議議論を覆すなら、検証委員会も相応の規模の時間人員を掛けて検証を延長すれば良い。

2017-04-25

そろそろMastodon

Web2.0は――もはや完全に死語となってしまったが、

個々人のネットワークからまれ価値称揚することで、リアル権力者が持つ唯一絶対性を崩そうとする運動だった。

その目論見どおりに、と言っていいものか、

結果としてオールド・マスメディア価値は薄れ、ボトムアップムーブメントによって国家崩壊するまでに至った。

が、その一方で。

メトカーフの法則によりネットワークはひたすらに強化され続け、インターネットメガコミュニティけが生き残る世界と成り果てた。

メガコミュニティ巨大企業を生み、人々はその庇護下に取り込まれ、かつての自由インターネットは消え去った。

賛否両論はあるだろうが、

自由からこそハンドアックス携帯して自身を守れ」といった殺伐としたインターネッツよりも、

なんだかんだで上手くやってくれる「大きな政府」のほうが(たとえ息苦しくとも)生きやすいことは確かだ。

ホームページからブログへ。ブログからSNSへ。

しかし、Mastodonはその流れに逆行する。

企業の傘下から脱し、再びユーザーに「持ち家」を与えようとしているのがMastodonである

早々に企業に取り込まれたのは笑い話だが、これからどのように発展していくかはまだ分からない。

Gumroadは死して(まだ生きてるよ)マイクロペイメントの皮を残した。

Mastodonもふもふの毛皮以外の何かを残す可能性も十分にある。

さて、Twitterの最大の発明は、グローバルタイムラインを隠してフォロー/フォロワー関係を中心に据えたことだった。

これにより「相手の家を訪問する」というアナロジーはようやくにして消え、ウェブサービスは初めて「インフラ」となったのだ。

RSSリーダーは惜しかったね。

個人領域の確保を目指すMastodonが、個人領域破壊したTwitterを模しているのは面白い

どうもこのMastodonというのは古代生物がそのまま現代に姿を現したもののように思えるのだが――

Mastodonグローバルタイムラインははたして一時的存在なのだろうか。

2017-04-19

じゃあ何なんだよ。

Id:tztコメント / はてなブックマーク

http://b.hatena.ne.jp/entry/332585651/comment/tzt

国を会社アナロジー理解してるのね。国民=株主、国=会社首相=社長議員=社員認識していれば、なるほど野党給料泥棒に見えるわけだ。道理で噛み合わないはずだよ。でも、国は会社じゃないんだなこれがw



組織として会社のたとえが不適切なら適切な例を示せよ。

w付けてマウンティングしてんじゃねーよ無能

2016-10-01

たとえ話で議論をしないことが常識になってほしい

たとえ話は、一見すると分かりやすい。

しかし、多くの場合議論におけるたとえ話は、欺瞞はらんでいたり、議論拡散・混乱させる効果しかない。

例えば、「AはBであるか否か」の議論をしていたとしよう。

ここで、「AはBである」という論者が、Cのたとえ話をするとき、そこには、

①AはCにたとえられる(A≒C)

②CはBである

③①及び②ゆえにAはBである

という論理が背後にあるはずである

大抵の場合、たとえ話においては、②については異論がでにくいようなCが設定されるので、問題は①である

ときどき、②すらあやしいたとえ話もあるが、それは措く。)

多くの場合において、①A≒Cと言えるかどうかは議論余地があり、たとえ話によって結局、議論拡散してしまうのである

そもそも、①及び②が当然に認められるなら、「AはBである」ということにほとんど疑いはなく、「AはBであるか否か」ということが議論になっているということは、①か②を当然視しない人がいるというこのなのである

最近の例では、元アナウンサーブログ記事炎上に対する芸人コメントがある。

このコメントでは、「壁ド突いたら手の骨折ます、でもド突いちゃった」患者がたとえ話として出されている。

Twitterでのコメントであり、言葉不足となっているが、ここでいいたいのは、

自己責任人工透析を受けることになった患者と、壁を殴ったら骨が折れることが分かってるのに殴って骨を折った患者は同様である

②壁を殴ったら…の患者医療費は全額自己負担にすべきである

自己責任人工透析を受けることになった患者医療費自己負担にすべきである

ということだろう。

このケースでは、そもそも②が当然に同意できるものではない上、①についても、それらが同様といえるかについて議論余地がある。

結局、元々の議論に①、②という論点を新たに付け加えているだけであり、議論の促進に資するところがないばかりか、議論を混乱させるものだと言える。

そもそも記事炎上の原因は③の命題の当否ではないという点でも的外れ気味な擁護ではある。)

このようにたとえ話というのは、多くの場合百害あって一利なしである

議論においてたとえ話をしない、ということが常識として広まるようになってほしい。

※なお、本来A≒Cとして扱うべきところ、差別意識からA≠Cとして扱れている、ということを炙り出すためには、たとえ話が有用場合がある。男女を入れ替えるたとえ話がこの役割を果たすことは多い。もっとも、この場合でも、男女をいれかえることによって変化する要素がないか注意が必要である

※追記

ここでいうたとえ話というのは、比喩アナロジーであって、例示ではない。誤解している人もいるみたいなので念の為

※追記2

故事成語寓話の(世間話レベルにおける)説得力とそれが議論で使えるかどうかは別問題だと思うんですが。

2016-07-07

冷笑系はなぜそう呼ばれるか

冷笑系という言葉最近微妙流行っている。

もちろん人の数だけ定義があると思うが、

僕は「それを言うことによって気持ちよくなっているかどうか」というのをその本質として挙げたいと思う。

例「○○は××っていうリベラルは△△はどうのこうの〜(意味不明アナロジーだが、本人の中では成立していて、それを言うことで何らかの快楽を得ているらしい)」

「『日本死ね』は「反日国賊売国奴」と同じく、「「異質」な他者を排撃する言葉」ではないかと思えたので〜〜」(本気でそんなことを思っていないがあえて言うこと、そしてこれを言うことで「右」のレッテルを貼られ、大げさに狼狽してみせることがなぜか気持ちいいらしい)」

(念のため付け加えておくと、僕は「日本死ね」に対する肯定的リアクションには否定的立場だ)

ここで「でも左派リベラルこそ真に気持ちよくなっているのではないか?」と思ったアナタ、その疑問は正しい。

ただ「アベ政治を許さない」みたいな、具体的に何を言っているのか分からないけど気持ち良くなっている、そんな言葉たちは「デモから許される」という弁解が一応ある。祭りの場には祭り言葉を、ということだ。

ちろん、それがデモから溢れて日常に浸透し、そしてそれに対する反発が起きているのが現状であるが。

まり、「気持ちよくなっているかどうか」は根源的には右か左か、リベラル保守かは関係がない。

よって、この観点からステレオタイプイデオロギーをこえて「来るべき人民」を構想することもできるだろう。

ジョセフヒースが「今の政治は右か左かで分かれているのではない、正気狂気かで分かれているのだ」とかなんとか言ったのはこの観点から理解すべきだと僕は思える。

もっとも、ヒース自体国内では冷笑系=狂気の側に消費されているようだけれども。

2016-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20160103095009

そりゃ国跨げば振る舞いに違いは出るだろうよ。東京の人と大阪の人は違うし。中国人とか韓国人差別する人は、共感できないにしても、気持ち想像はできなくはない。

ただ、部落差別の主張は、同じ小学校に通っていても、道一本またいだだけで、子供結婚等に大反対するほど性格が変わる、という話だからちょっと中国アナロジーは無理があると思う。純粋理解ができない。直接会って話して人格確認しても、部落から、的な理由結婚反対される(らしい)んだよ?わからん

2015-11-18

単行本文庫本関係特急普通電車関係」というアナロジー

某所で

小説には、単行本文庫本という形態があります。この2種類について、読者さんから多いご質問は、「どうして最初から文庫で出してくれないんですか?」

というお題に

例えば電車。鈍行は安い。しかし、時間がかかる。移動に時間をかけたくない人は、特急を使う。つまり時間お金で買っている。「早さ」というサービスを受けようとすると、その分お金がかかるのである。本も同じだ。単行本は高いが、発売と同時にすぐ手に入る。文庫は廉価だが、手に入れるのは数年先になる。

と答えている作家文章を目にしたのですが。

この読者から質問の主旨は「本の値段って高くないですかもっと安くなりませんか」ですよね。

作家は、安くならないよ、だって特急から。って言うんですけど、かつて「本を読む行為」って、たしかに読者を新宿から小田原まで連れて行ってくれるようなものだった。と思うんです。だから特急で行くなら普通で行くより高い料金払ってもいい」と思えた。

それが、最近では-作品の内容云々ではなく、「本を読むという行為」そのもの地位が、相対的に下がって-新宿から、せいぜい下北沢しか行けない。ような体験になってしまっている。

だとしたらなるほど特急に乗る必要なんかないんで、普通料金でいいんで。って利用者が言いたくなるのも、わかる。

鉄道会社もとい出版社大事に抱いている自分たちビジネスイメージと、いまの利用者が持つイメージが、オダワラシモキタぐらいに乖離していて、それに気付かないまま、昔の論理特急料金払ってね、って言う姿勢出版不況を生んでるんじゃないのか。

2015-06-16

文科省プログラミング教育に関する報告書は何が間違っているのか

概念

二種類のレイヤが混ざってる。あと、スクリプト言語レイヤは要らない。例は突っ込みどころが多すぎるので触れない。

アプリケーション

コンピュータ上で動作するもの全て、システム周りの低レベルプログラムを含めてアプリケーションとして括るのはちょっと乱暴。

何をアプリケーションと呼ぶかはコンテキストによる。

OSを書いてる人間から見ればユーザープロセスは全部アプリケーションだし、twitterから見たらAPIを叩くものは全てアプリケーションだろう。

基本的には外から持ってきたソフトウェア基盤の上に作るもの総称してアプリケーションと呼ぶのがより実態に近いと思う。

スクリプト言語

だいたい合ってる。ただ、高級言語より上にあるのは変。スクリプト言語高級言語に含まれる。

高級言語

だいたい合ってるが、自然言語云々は余計。例えばS式自然言語アナロジーではない。単に比較問題抽象度が高いかどうかだけの区別しかない。

ミドルウェアライブラリー

OS云々は関係ない。OSミドルウェアライブラリーは使う。一般には自分が書いてないソフトウェアコードライブラリと呼び、何かと比較してより低いレイヤにあるライブラリミドルウェアと呼ぶ。

機械語

問題ない

コンパイラインタプリタ

ここが一番まずい。まず、中間コードコンパイラが内部的に処理の段階を分ける仕組みであって、出力ではない。

また、インタプリタソース言語逐次実行するのではなく、正確には中間コード抽象構文木そのもを含む)を逐次実行するものだ。

他のプログラムで実行するコードを生成するものコンパイラ自分自身コードを実行するのがインタプリタ、という区分けがわかりやすいと思う。

ただ、現実的にはインタプリタは内部的にコンパイラを持つし、コンパイラ最適化過程では内部的にインタプリタを使う。

昨今はLLVMみたいに、コンパイラなのかインタプリタなのかコンテキストによって変わるものもあるので、正直区別しても意味がないと思うけど。

結論

この文書には問題がある。そうだな、直るのを待とうか。そんなことより自分コード心配をするんだ!

2015-02-14

( ・3・) クラシック好きの上司ジャズを聴きたいと言いだして

はじめに

わたしの職場に、自他ともに認めるクラシックマニアがいる。近・現代の作曲家は一通り聴いているというが、中でもお気に入りスクリャービンで、携帯の着信音とアラームには「神秘和音」が設定してあるくらいだ。

その彼が、最近、急にジャズに興味を持つようになった。なんでも娘さんが部活でサックスを始めたのがきっかけらしい。彼の机には娘さんの小さいころの写真が立てかけてあるが、父親と血がつながっているとは思えないかわいらしさだ。パパだってジャズくらい分かるんだぞ、ということにしたいのかもしれない。

彼はわたしジャズ・ギターを弾くことを知っている。音楽に関して(だけ)は寛容なので、各種イヴェントの際には有給を消化しても嫌な顔ひとつしない。

ある昼休みの会話

ちょっと私用なんだが」と彼は言った。「こんどの休みは空いてるか? お前の好きなジャズのCDを10枚くらい持ってきてくれ。うちのオーディオで聴こう」

「CDならお貸ししますよ」とわたしは答えた。特に予定はないが、できれば休日はゆっくり寝ていたい。

「まあそう言うなよ」と彼はつづけた。「プレゼンの訓練だと思えばいい。ジャズの聴きどころを存分に語ってくれ。昼はうなぎを食わせてやるぞ。それとも――」

「それとも?」

「もう有給は当分いらないということか?」

事の次第

こうして、わたしは休日をつぶして彼の家を訪ねることになった。どのCDを持っていくかはなかなか決められなかったが、一日でジャズの百年の歴史を追いかけるのは無理だと割り切って、わたし自身がジャズを聴き始めた高校生のころ――もう15年も前の話だ――に感銘を受けたものを選ぶことにした。マイルス・デイヴィスカインド・オブ・ブルー』、ビル・エヴァンスワルツフォー・デビー』、ジョン・コルトレーンジャイアントステップス』はもうコレクション済みだということだったので、それら以外で。

駅に到着

手土産の菓子と20枚ほどのCDを抱えて最寄駅に着くと――結局10枚には絞り込めなかった――彼の車が目に留まった。

「きょうは夕方まで家に誰もいないからな。気兼ねしなくていい」

「そうでしたか」

「いるのは猫だけだ」

「猫? 以前お邪魔したときには見かけませんでしたが」

「公園で拾ってきたんだ」

「娘さんが?」

「いや俺が。子供のころに飼っていた猫とよく似ていたものだから」

ノラ猫を拾う人間と、ショスタコーヴィチ交響曲全集を部下に聴かせて感想を求める人間が、ひとりの男の中に同居している。この世界は分からないことだらけだ。

家に到着

ちーちゃんお客様にご挨拶だ」と彼は居間の扉を開けながら言った。ちーちゃんと呼ばれた白い猫は、こちらを一瞬だけ見るとソファのかげに隠れてしまった。そそくさと。

「ご機嫌ななめだな。まあいい。そっちに掛けてくれ。座ったままでディスクを交換できるから。いまコーヒーを淹れてくる」

ようやく本題へ

――これ以降は対話形式で進めていきます。

( ・3・) さっそく始めよう。

1. マイルス・デイヴィストランペットバンドリーダー

Miles Davis (1926-91)

――マイルスについてはご存じだと思いますが、次々に作風を変化させながらジャズを牽引していった、アメリカ文化的ヒーローです。デューク・エリントンマイルスについて「ジャズピカソだ」と述べました。

( ・3・) 『カインド・オブ・ブルー』の人だな。

――はい。その作品の後に注目したいんですが、60年代の半ばに、ウェイン・ショーターというサックス奏者がマイルスバンドに加わります。この時期の録音はひときわ優れた内容で、ジャズリスナープレイヤーからはヒマラヤ山脈のように見なされています。

Prince of Darkness (1967) http://youtu.be/-wckZlb-KYY

( ・3・) ヒマラヤ山脈か。空気が薄いというか、調性の感覚が希薄だな。テーマの部分だけでも不思議なところに臨時記号フラットがついている。

――主音を軸にして、ひとつフレーズごとに旋法を変えています。コードが「進行」するというよりは、コードが「変化」するといったほうが近いかもしれません。

( ・3・) ピアノコードを弾かないから、なおさら調性が見えにくいのかもしれないな。

――はい。余計な音をそぎ落とした、ストイックな演奏です。

( ・3・) 体脂肪率ゼロ。

――マイルスバンドには一流のプレイヤーでなければ居られませんから、各々が緊張の張りつめた演奏をしています。

Nefertiti (1967) http://youtu.be/JtQLolwNByw

――これはとても有名な曲。ウェイン・ショーターの作曲です。

( ・3・) テーマで12音をぜんぶ使ってるな。

――覚めそうで覚めない夢のような旋律です。このテーマがずっと反復される。

( ・3・) それってラヴェルボレロじゃないのか?

――ボレロではスネアドラムが単一のリズムを繰り返しますが、こちらはもっと自由奔放ですよ。ドラムが主役に躍り出ます。

( ・3・) おお、加速していく。

――テンポ自体は速くなるわけではありません。ドラムは元のテンポを体で保ったまま、「そこだけ時間の流れ方がちがう」ような叩き方をしています。

( ・3・) ドラムが暴れている間も管楽器は淡々としたものだな。

――はい。超然とした態度で、高度なことを難なくやってみせるのが、このクインテットの魅力ではないかと思います。

2. ジミー・ジューフリークラリネット

Jimmy Giuffre (1921-2008)

Emphasis (1961) http://youtu.be/QRyNUxMJ18s

( ・3・) また調性があるような無いような曲を持って来よって。

――はい。この曲は基本的にはブルースだと思うのですが、テーマでは12音が使われています。ジミー・ジューフリーというクラリネット奏者のバンドです。アメリカルーツ音楽と、クラシックとの両方が背景にあって、実際に演奏するのはジャズという一風変わった人です。

( ・3・) ドラムがいないと室内楽みたいだな。

――ドラム抜きの三人のアンサンブルというアイディアは、ドビュッシーの「フルートヴィオラとハープのためのソナタ」に由来するそうです。

( ・3・) いいのかそれで。ジャズといえば「スウィングしなけりゃ意味がない」んじゃなかったのか?

――スウィングしたくない人だっているんですよ。といっても、ベースフォービートで弾いていますが。

( ・3・) これが録音されたのは……ええと、1961年か。ジャズもずいぶん進んでいたんだな。

――いえ、この人たちが異常なだけで、当時の主流というわけではありません。さっぱり売れませんでした。表現自体は抑制・洗練されていて、いかにも前衛というわけではないのに。同じ年のライヴ録音も聴いてみましょうか。

Stretching Out (1961) http://youtu.be/2bZy3amAZkE

( ・3・) おい、ピアノの中に手を突っ込んでるぞ。(3分16秒にて)

――まあ、それくらいはするでしょう。

( ・3・) おい、トーン・クラスターが出てきたぞ。(4分16秒にて)

――それでも全体としては熱くならない、ひんやりした演奏です。

3. エリック・ドルフィーアルトサックスフルート、バス・クラリネット

Eric Dolphy (1928-64)

――さて、次はエリック・ドルフィー。作曲の才能だったり、バンドを統率する才能だったり、音楽の才能にもいろいろありますが、この人はひとりの即興プレイヤーとして群を抜いていました。同じコード進行を与えられても、ほかのプレイヤーとは出てくる音の幅がちがう。さらに楽器の持ち替えもできるという万能ぶり。順番に聴いていきましょう。まずアルトサックスから。

( ・3・) おお、うちの子もアルトサックスだ。

Miss Ann (1960) http://youtu.be/7adgnSKgZ7Q

( ・3・) なんだか迷子になりそうな曲だな。

――14小節で1コーラスだと思います。きちんとしたフォームはあるのですが、ドルフィーフォームに収まらないようなフレーズの区切り方でソロをとっています。1小節ずつ意識して数えながらソロを追ってみてください。ああ、いま一巡してコーラスの最初に戻ったな、とついていけたら、耳の良さを誇ってもいいと思いますよ。

Left Alone (1960) http://youtu.be/S1JIcn5W_9o

――次はフルート

( ・3・) ソロに入ると、コード進行に対して付かず離れず、絶妙なラインを狙っていくな。鳥の鳴き声というか、メシアンの「クロウタドリ」に似ている。

――鳥の歌に合わせて練習していたといいますから、まさにメシアンです。あるいはアッシジのフランチェスコか。ほかにもヴァレーズの「密度21.5」を演奏したり、イタリアフルートの名手であるガッゼローニの名前を自作曲のタイトルにしたり、意外なところで現代音楽とのつながりがあります。

参考 Le Merle Noir (Messiaen, 1952) https://youtu.be/IhEHsGrRfyY



It’s Magic (1960) http://youtu.be/QxKVa8kTYPI

――最後にバスクラ吹奏楽バスクラ担当だったけど、主旋律で活躍する場面がなくて泣いてばかりいた方々に朗報です。

( ・3・) バスクラってジャズではよく使われるのか?

――いえ、当時、長いソロを吹いた人はあまりいませんでした。

( ・3・) バスクラ自体がめずらしいという点を措いても、独特な音色だな。

――村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にこんなくだりがあります。「死の床にあるダライ・ラマに向かって、エリック・ドルフィーがバス・クラリネットの音色の変化によって、自動車エンジン・オイルの選択の重要性を説いている……」

( ・3・) どういう意味?

――楽器の音が肉声のようにきこえる。でも何をしゃべっているのかはよく分からないという意味だと思います。あと、ミニマリズム作曲家スティーヴ・ライヒバスクラを効果的に使いますが……

( ・3・) 「18人の音楽家のための音楽」とか、「ニューヨークカウンターポイント」とか。

――はい。彼はドルフィーの演奏を聴いてバスクラに開眼したと語っています。 [1]

( ・3・) ジャズ現代音楽との相互作用だな。

4. オーネット・コールマンアルトサックス

Ornette Coleman (1930-)

――真打登場です。サックス奏者のオーネット・コールマン50年代の末に現れて、前衛ジャズの象徴的な存在になった人です。といっても、難しい音楽ではありません。子供が笑いだすような音楽です。ちょっと変化球で、70年代の録音から聴いてみましょう。

Theme from Captain Black (1978) http://youtu.be/0P39dklV76o

――ギターのリフで始まります。

( ・3・) あれ、ベースおかしなことやってるな。キーがずれていくぞ。

――はい、各パートが同時に異なるキーで演奏してもいいというアイディアです。イントロのギターが床に立っている状態だとすると、ベースは重力を無視して、ふらふらと壁や天井を歩きだす。

( ・3・) 複調を即興でやるのか?

――どのていど即興なのかはわかりません。コンサートに行ったことがあるのですが、譜面を立てて演奏していましたよ。でも、別にダリウス・ミヨーに作曲を教わったというわけではなくて、アイディアを得たきっかけは些細なことだったんじゃないでしょうか。たとえばサックスが移調楽器であることを知らなかったとか。「なんかずれてるな、でもまあいいか」みたいな。

( ・3・) それはいくらなんでも。もし本当だったら天才だな。

Peace (1959) http://youtu.be/bJULMOw69EI

――これは初期の歴史的名盤から。当時、レナード・バーンスタインオーネットを絶賛して、自分がいちばんでなければ気のすまないマイルス・デイヴィスがたいそう機嫌を損ねました。

( ・3・) さっきのに比べると普通にきこえるが……

――1分40秒あたりからサックスのソロが始まります。集中してください。

( ・3・) (4分12秒にて)ん? いま、俺の辞書には載っていないことが起きた気がするな。

――ここはいつ聴いても笑ってしまいます。そのタイミングで転調するのか、脈絡なさすぎだろうって。ソロをとりながら、いつでも自分の好きな調に転調していいというアイディアです。

( ・3・) 言うは易しだが、真似できそうにはないな。

――どの調に跳んだら気持ちよく響くか、という個人的な経験則はあるはずです。突飛な転調でも、「これでいいのだ」といわれれば、たしかにその通り、すばらしい歌ですと認めざるを得ません。

昼食のため小休止

――お昼はうなぎだと聞いておりましたが。

( ・3・) そのつもりだったんだが、いつの間にか値段が高騰していてな。「梅」のうなぎよりも、うまい天ぷら蕎麦のほうがいいじゃないか。

5. セシル・テイラーピアノ

Cecil Taylor (1929-)

――この人も、オーネット・コールマンと同じくらい重要なミュージシャンです。テキサス出身のオーネットに対して、セシル・テイラーニューヨーク出身。都市と芸術の世界の住人です。ピアノを弾くだけではなくて、舞踊や詩の朗読もします。これは1973年に来日したときの録音。

Cecil Taylor Solo (1973) http://youtu.be/X7evuMwqjQQ

( ・3・) バルトークシュトックハウゼンの楽譜を細かく切って、よくかき混ぜて、コンタスキーが弾きましたという感じだな。70年代にはずいぶん手ごわいジャズも出てきたんだ。

――いえ、テイラー50年代から活動しています。チャック・ベリーやリトル・リチャードと同じ世代。この人が異常なだけで、当時の主流ではありませんが。さっきも似たようなことを言いましたね。

( ・3・) このスタイルでよく続けてこられたな。

――継続は力なり。2013年には京都賞を受賞して、東京でもコンサートがありました。

( ・3・) どうだった?

――会場で野菜を売っていたので、買って切って食った。

( ・3・) ちょっと意味が分からんな。

――文字通りの意味なのですが、それについては別の機会にしましょう。演奏の話に戻ると、混沌と一定の秩序とがせめぎあって、台風のさなかに家を建てている大工のような趣があります。「壊す人」というよりは「組み立てる人」です。また、あるフレーズを弾いて、復唱するようにもういちど同じフレーズを弾く箇所が多いのも特徴です。

( ・3・) いちどしか起こらないことは偶然に過ぎないが、もういちど起こるなら、そこには何らかの構造が見えてくるということか。

参考 Klavierstücke (Stockhausen, rec. 1965) http://youtu.be/mmimSOOry7s



6. デレク・ベイリー(ギター)

Derek Bailey (1930-2005)

――きょう紹介するのは北米の人ばかりなのですが、デレク・ベイリーは唯一の例外で、イギリス人です。さっそく聴いてみましょう。これも日本に来たときの録音。

New Sights, Old Sounds (1978) http://youtu.be/nQEGQT5VPFE

( ・3・) とりつくしまがない……。

――そうですか? クラシック好きな方には思い当たる文脈があるはずですが。

( ・3・) 無調で点描的なところはヴェーベルン。でも対位法的に作曲されたものではないみたいだ。あと、初期の電子音楽ミルトン・バビットとか……。

――模範解答です。

( ・3・) でも即興でヴェーベルンをやるというのは正気の沙汰とは思えんな

――即興の12音技法ではありません。それは千年後の人類に任せましょう。ベイリーがやっているのは、調性的な旋律や和音を避けながら演奏することです。最初に聴いたマイルス・デイヴィスも緊張の張りつめた音楽でしたが、こちらも負けず劣らずです。文法に則った言葉を発してはいけないわけですから。

( ・3・) 「どてどてとてたてててたてた/たてとて/てれてれたとことこと/ららんぴぴぴぴ ぴ/とつてんととのぷ/ん/んんんん ん」

――ちょっと意味が分かりませんが。

( ・3・) 尾形亀之助の詩だ。お前も少しは本を読んだらどうだ。それはともかく、こういう人が観念的な作曲に向かわずに、即興の道に進んだのは不思議な気がするな。

――いちプレイヤーとして生涯を全うしたというのは重要で、ベイリーの音楽はベイリーの体から切り離せないと思います。彼の遺作は、病気で手が動かなくなってからのリハビリを記録したものでした。

( ・3・) プレイヤーとしての凄みが音楽の凄みに直結しているということか?

――はい。技術的にも高い水準のギタリストでした。無駄な動きのない、きれいなフォームで弾いています。気が向いたら動画を探してみてください。

( ・3・) まあ、ギター弾きのお前がそう言うなら上手いんだろうな。

――楽器の経験の有無で受け止め方は変わってくるかもしれません。ジャズ一般について言えることですが、鑑賞者としてではなく、その演奏に参加するような気持ちで聴くと楽しみも増すと思いますよ。

ベイリー即興演奏(動画) http://youtu.be/H5EMuO5P174

参考 Ensembles for Synthesizer (Babbitt, 1964) http://youtu.be/W5n1pZn4izI



7. セロニアス・モンクピアノ

Thelonious Monk (1917-82)

――セロニアス・モンクは、存在自体が貴重なピアニストです。生まれてきてくれてありがとう、とお母さんみたいなことを言いたくなる。

( ・3・) 初めて聴く者にとっては何のこっちゃの説明だな。

――とてもユニークスタイルで、代わりになる人が思いつかない、くらいの意味です。まあ聴いてみましょう。

Everything Happens to Me (Monk, 1959) http://youtu.be/YW4gTg3MrrQ

( ・3・) これは彼の代表曲

――いえ、そういうわけではありません。モンクの場合、どの演奏にも見逃しようのない「モンクの署名」が刻まれているようなものなので、わたしの好きな曲を選びました。有名なスタンダードです。最初に歌ったのは若いころのフランク・シナトラ

Everything Happens to Me (Sinatra, 1941) http://youtu.be/ZWw-b6peFAU

――1941年の録音ですが、信じがたい音質の良さ。さすがスター。さすが大資本。これがヒットして、多くのジャズミュージシャンレパートリーになりました。ちなみに曲名は「僕には悪いことばかり降りかかる」というニュアンスです。恋人に手紙を送ったらさよならの返事が返ってきた。しかも郵便料金はこちらもちで、みたいな。もうひとつだけ聴いてみましょう。

Everything Happens to Me (Baker, 1955) http://youtu.be/UI61fb4C9Sw

( ・3・) このいけすかないイケメンは?

――チェット・ベイカー50年代西海岸を代表するジャンキーです。シナトラに比べると、ショウビズっぽさがなくなって、一気に退廃の世界に引きずりこまれる。で、モンクの話に戻りますが――

( ・3・) ショウビズではないし、退廃でもない。

――もっと抽象的な次元で音楽を考えている人だと思います。

( ・3・) 素材はポピュラー・チューンなのに、ずいぶん鋭い和音が出てくるな。

――調性の枠内で本来なら聴こえないはずの音が聴こえてくると、デレク・ベイリーのような無重力の音楽とはまた別種の怖さがあります。幻聴の怖さとでもいうべきか。さいごにぽつんと置かれる減5度の音には、「聴いてはいけないものを聴いてしまった」という感じがよく出ています。

( ・3・) 減5度はジャズでは珍しくないんじゃないのか?

――はい。でも、その音をどう響かせるか、その音にどういう意味を持たせるかというのは全く別の問題です。そういう音の配置に関してモンクは天才的でした。

( ・3・) カキーン、コキーンと石に楔を打ちこむようなタッチで、ピアノの先生が卒倒しそうだが。

――意図的に選択されたスタイルだと思います。プライヴェートではショパンを弾いたりもしていたそうですよ。 [2]

( ・3・) 見かけによらないものだな。

――小さいころから必死に練習すれば、いつかはマウリツィオ・ポリーニの水準に達するかもしれません。しかし、ピアニストとしてモンクを超えるというのは、端的に不可能です。それがどういう事態を意味するのか想像できませんから。

( ・3・) 四角い三角形を想像できないように、か。

ちーちゃんトイレ掃除のため小休止


8. アンドリュー・ヒル(ピアノ

Andrew Hill (1931-2007)

――アンドリュー・ヒルは作曲・編曲に秀でたピアニストです。『ポイント・オブ・ディパーチャー』というアルバムが有名ですが、録音から半世紀を経たいまでも新鮮にきこえます。ペンギンブックスのジャズガイド(なぜか翻訳されない)では、初版からずっと王冠の印が与えられていました。

( ・3・) 英語圏では別格扱いということか。

――ヒルは若いころ、ヒンデミットの下で学んだという話もあるのですが……

( ・3・) ヒンデミットアメリカに亡命していたからな。

――誇張も混ざっているかもしれません。ヒルの経歴は、生年や出身地も事実とは異なる情報が流れていたので。

Refuge (1964) http://youtu.be/zquk2Tb-D6I

( ・3・) 何かひっかかるような弾き方のピアノだな。

――ヒルには吃音がありました。 [3] 言いたいことの手前でつっかえて、解決を先延ばしにするような演奏は、しばしばそのことに結びつけられます。

( ・3・) 否定神学ジャズだな。

――ヒテーシンガク?

( ・3・) ほら、メルヴィルの『モービー・ディック』で、神秘的な白鯨の本質については語れないから、迂回してクジラにまつわる雑学的な記述が延々とつづくだろ?

――どうでしょうアナロジーとしては分からなくもないですが。

( ・3・) 形而下の世界に戻るか。あれ、このサックス奏者、さっきも出てきたんじゃないか? (2分58秒にて)

――エリック・ドルフィー共演者共演者を辿っていくと、きょう紹介する人たちはみんなつながっています。

( ・3・) デレク・ベイリーも?

――はい。セシル・テイラーと共演していますし、この次に紹介する人ともアルバムを出しています。

( ・3・) なんだかドルフィーに耳を持っていかれてしまうな。

――圧倒的です。ねずみ花火のような軌道と瞬発力。数か月後に死ぬ人間の演奏とは思えません。

( ・3・) すぐ死んでしまうん?

――はい。ドラッグでもアルコールでもなく、ハチミツオーバードーズで。正式な診断ではありませんが、糖尿病だったといいます。 [4][5]

( ・3・) ハチミツって、くまのプーさんみたいなやつだな。――ん? いまミスしなかったか? (6分36秒にて)

――ドルフィーアンサンブルの入るところを間違えています。

( ・3・) やり直しになるんじゃないの?

――ジャズは減点方式ではなく加点方式ですから。ミスがあっても、総合的にはこのテイクが最良という判断だと思います。

続く

http://anond.hatelabo.jp/20150214224440

2014-07-29

http://anond.hatelabo.jp/20140728221918

労働者がすべて有能になれば生産性が向上するのは自明なのでこれは略。

能力が異なる労働者が混在している状態で、低能力労働者から抹殺して生産性が上がるかを考える。

 

集計的生産関数の通常の仮定においてそうであるように、労働に関して収穫逓減であれば、生産性は上がる。

でもまあ、これもつまらないので、そうじゃないかもしれない場合を考えてみる。

 

1.労働者抹殺する→労働人口減→分業・特化が難しくなる→生産性が下がる

2.労働人口減→(分業以外の)集積の利益が減少→生産性が下がる

これら二つは、過疎地域生産性低下問題みたいなものだな。

 

3.人口減→総需要減少→生産規模の経済が困難に→生産性が下がる

 

4.「能力」の多次元性と曖昧さ、また必要な「能力」の予測不可能性、最適配分の困難さに由来する非効率

生産フロンティア上での生産が実現できない場合一見余剰人員に見える労働力を抱えておく方が、予測困難な長期においては破綻確率が下がって、経済の持続可能性が高まるかもしれない。鶏鳴狗盗的な論理

 

5.上記4に似ているが、魯鈍な者がいなくなる→勤勉な者の働きが限界に→社会維持の破綻

魯鈍な者が実は勤勉な者の休息を助けたり機能を補完したりしているかもしれない。アリのコロニーアナロジー

 

表面的に識別しやすい「優秀さ」にこだわっていてはなかなか見えてこない、思いがけない役割機能が実はあるんです、というミクロ的なストーリーが出てくると面白いのだが。

人間多義的存在で、どんな個人でも24時間活動を完全にモニターされている人はいない。クラークケントみたいな、ダメサラリーマンが実は別の場面ではスーパーマンだということが、結構頻繁にあるかもしれない。例えば、会社では全く役立たずなOLなのだが、家庭に帰ると、有能なビジネスマンである夫の活動基盤を支える不可欠の存在だとか、30年後の天才起業家なる子どもを育てる素晴らしい育児センスの持ち主だったりとか。

そういう社会の複雑さを個別のエピソード還元してしまうと単なる偶然のケースみたいになるが、こうした思いがけなさが、実は社会維持において極めて重要だったのだ、というような話ができると面白いのだがなあ。

 

おまけの追記

6.遺伝的に「優秀」な人は「優秀」な人のペアからは生まれず、「優秀」と「非優秀」との適当な交雑が必要なのだ、というのはどうだろうか。

2014-02-24

「ボディーブローのように、後から効いてくる」

って比喩を得意げに言う人をけっこう見てきたけど、ボディーブローなんて受けたことないんで、いまいち納得できたことが一度もない。

このアナロジーってかなりメジャーに使われてる気がするけど、なんとなくの勢いはあっても、表現としてのうまさみたいなものは一切ない気がする。

2014-01-11

迷子交番に届けられない現象はライト非モテマインドの延長線でしかない

警察と関わると時間を取られて面倒だから、くらいの理由で、子供保護するのは嫌だ、と考えている人には関係ありません。

以下の理由を本気で考えている人たちが対象です。

これって「キモい俺がモテようと努力しても無駄」って考え方とまるっきり一緒です。

嘘とも本当とも判断できない、どこかの誰かの極端な体験談から、不利な現象だけを取り出して、勝手にいじけて世の中を嘆く。そういう遊びが好きな人です。

http://news.livedoor.com/article/detail/3899325/

これを何か決定的な証拠のように例として挙げる人がまさにそうですね。先の例では単純に

大澤弁護士は、「幼児をそのまま警察に連れて行くならいいと思います。直接行くなら、車に乗せてもいいでしょう。親切心は大事ですが、親のところに帰すのが本来するべきことです」と話す

とあるように、そのまま交番に連れて行かなかったことがマズかっただけです。その部分だけを意図的に読み飛ばして「幼児保護したら逮捕される可能性がある」と主張してるだけです。

(ただ、その事件全容を承知しながら、実名報道を行ったTBSについては大いに非難されるべきです)

痴漢冤罪とのアナロジーで語る人も居ますが、痴漢冤罪の発生するシチュエーション(混雑する電車内や、相手に悪意のある場合)と、迷子保護するシチュエーションを同列に語るのは無理があります

被害者ぶる未来想像することで世を嘆くのはとても簡単で楽しいと思いますが、本件について本来問題視されるべき点は「警察の取り調べの不透明性」(と「子供から目を離してしまった親の不注意」)です。

この国の刑事司法が早く近代化されると良いですね。

2013-10-12

http://anond.hatelabo.jp/20131011235846

物質とは場そのものなので、「場の中にものがある」という話のアナロジー物理を持ち出すのは間違い

2013-08-29

http://anond.hatelabo.jp/20130829165231

あの記事のアナロジーでいくなら、出てくるのはイケメンじゃなくてすげえ微妙なオタっぽい男だと思うよ

2013-07-22

http://ameblo.jp/bird-view/entry-11575085969.html

この記事に違和感を感じて、それがうまくまとまらないんだけど、よく有りそうな言説ではあるので、メモがてら批評してみる。

アスリートアナロジーについて

マネージャーコーチスタッフエンジニアだったりデザイナーだったりすると思うが)をアスリートとしているが、違和感がある。

まず、アスリート場合は、アスリート成功は、アスリート個人の栄誉に属す。チームスポーツ場合監督フューチャーされることもあるかもしれないが、エース選手場合報酬はどう考えてもコーチより上である


これを会社組織に当てはめると、成功した時の報酬はどう考えてもスタッフコーチになるので、このアナロジーおかしい。


アスリートが厳しいコーチ指導に耐えるのは、本人が成功したいからであって、コーチ給料を増やしたいからではない。


この会社スタッフマネージャ以上のインセンティブを支払っているなら別だけどね。

ワンダと巨像」における握力と集中力アナロジー

ワンダと巨像」における「握力」というシステムが、そのまま「集中力」に置き換えることができるんじゃないかという仮説。

巨像を斃す方法は、剣で弱点部位を数回ぶっ刺せばいいだけという至極単純なものだが、そこに至るまでのプロセスに「握力」が必要になってくる。

弱点部位までたどり着くまで、握力を使って根気よく登ったりしがみついたりしなければいけないのがこのゲームの肝である

握力を切らしてしまったり、不意を衝かれて肝心なときにしがみつけないと、巨像から振り落とされることになり、最初から登り直さなくてはならなくなる。

このゲームおいて、うまく巨像を斃せるかは握力の使い方によってくる。

どうやって巨像の弱点にたどり着くかがわからなくても、とりあえずしがみついていればそのうち弱点が見つかったりする。

巨像が理不尽なくらいに身体を振り回そうが、根気よくしがみつくことが攻略の糸口なのだ。さもなくば振り落とされ、余計な労力を払って最初から挑まなければならなくなる。

はじめは握力の総量が少ないことを恨めしく思うのだが、扱い方に慣れてくるとうまく運用できるようになる。

「握力」は巨像から手を放すことで時間と共に回復するのだが、それにも上限があり、一定以上には回復しない。慣れてくると一度登るのをやめて、適切なタイミングで巨像の上で握力を回復し、再び登り始めることができるようになる。地上でうろついていることと巨像の上で握力の回復を待つことは全く違うことに気づくだろう。

ある手段によって握力の上限を増やすことができるのだが、実のところ、一切増やさなくてもすべての巨像を斃すことができる。使い方さえ上手ければ最低レベルの握力でも攻略できるように設計されている。

ここまで思いつくままに「ワンダと巨像」における「握力」というシステムについて書き連ねたが、そのまま「集中力」に置き換えられるのではないかとは考えられないだろうか。巨像を斃すことは「問題を解く」ということと置き換えることができる。勉強に限らず広い意味での「問題解決」と考えてもいいかもしれない。

実際に集中力が高いと思う人はいるのだが、総量はそこまで問題じゃない気もする。適度に手をゆるめて、肝心なときにしがみつくというやり方が、「人より集中力が高い」ように見せかけているだけなのかもしれない。私は塾でアルバイト講師をしていた頃があるのだが、勉強ができないと嘆く生徒は、とにかく投げ出すのが早い。「投げ出す」と書くと能動的に聞こえるが、実際のところ「振り落とされている」だけだ。しがみつき続けるということができないのである

池上彰も、東工大で授業をしていると、学力の高さというのは集中力の高さに依存するのではないかと思ったというようなことを書いている。

「もともと頭のいい人だから勉強ができるのだ」というのは、どうも上っ面だけを見て言い訳をしているだけのように思えてならない。「頭がいい」とされている人も、実際は集中力の使い方が人よりうまいだけであって、その総量も大して人と変わらなかったりするんじゃないかと思うのだ。これは私の持論で、特にこれと言った根拠はないけれど。

このゲームプレーヤーにかなりのストレスを与えてくるのだが、弱点部位までたどり着いて剣で刺すときカタルシスがすさまじい。いままで全くダメージが通らなかったのに、一撃ごとに一気に体力メーターを奪っていけるあの快感が、それまでの苦労を忘れさせてくれる。勉強に限らず、問題解決が上手な人はこのカタルシスをうまくモチベーションに繋げられている人のような気がする。

ちょっとした思いつきで長文を書いてしまいました。まとまりがなくてすみません。うまくまとめてくれる方がいたら誰かまとめてください。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん